太平洋戦争下、日本軍は至る所で負け戦を展開していた。しかしこうした最中、連合軍を驚嘆させたのは、中国とビルマ・ルートが交叉(こうさ)する地点で敢闘した、拉孟(らもう)・騰越(とうえつ)の日本軍守備隊の活躍がある。 蒋介石(しょうかいせき)麾下(きか)の最精鋭機甲師団がビルマに向かって南下した時、その途中には、日本軍守備隊が守る拉孟と騰越と言う陣地があった。 当時、ここを守備していた拉孟守備隊長・金光直次郎(かねみつなおじろう)少佐の許(もと)にあった兵力は、歩兵・砲兵・工兵を併せて僅か約1400名足らずで、これに対して中国軍の兵力は、一個師団(組織編成は15000名からなる)ないし二個師団であり、2〜3週間ごとに兵を交代させて、一時(ひととき)も兵力を弛(ゆる)めないと言うものであった。 更に、二百門以上の重砲をもって砲撃し、数十機の戦闘機や爆撃機で空撃を繰り返した。 守備隊長の金光少佐は、陸軍士官学校や予備士官学校出身の将校ではなく、二等兵からの叩き上げの軍人であった。それだけに、下級の兵隊に対しての理解と愛情があり、また現場で実戦経験を積んでいる為に、その戦闘技術も軍上層部高く評価されていた。その温厚、かつ篤実な人柄は、部下達だけではなく、従軍看護婦や朝鮮人従軍慰安婦からも愛され、信頼されていた。 金光守備隊の火力と言えば、10センチ榴弾砲十門、山砲四門に過ぎず、金光少佐はこれを効果的に遣って、中国軍包囲網に大きな打撃を与えた。夜になると少数の野戦斬り込み隊を組織し、敵陣に斬り込んで敵の武器弾薬を奪い、昼間はこれによって、敵の攻撃を撃退し続けた。しかし、敵の攻撃は激しく、ここで死闘三ヵ月を繰り返した。