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はじめに
日本人は今、どこに向かおうとしているのだろうか。 日本的なもの、日本的な文化を、金繰り投げ捨て、西欧の、日本人とは場違いなものに向けて、その中に無惨に、のめり込もうとしている。 西欧的なものを、総べて、無条件に“恰好(かっこう)いい”と決めつけ、日本的なものを放棄している。 文化も芸術も思想なども、太古から連綿と続いた、日本のよき伝統を放棄して、横文字文化にのめり込む、明治維新以来の白人コンプレックスをいまだに抱き続けている。 そして、多くの日本人は、日本人としての精神文化を捨て、西欧を模倣することが「科学的」であると信じて疑わない。
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日本人の心のふるさとは、実は日本的な文化の裡側(うちがわ)にある。 |
これからの日本人の歩く道先は、決して安楽なものでない。むしろ、表面には顕われない、近隣諸国からの「日本叩き」の軋轢(あつれき)に苦慮する茨薔薇(いばら)の道が待ち構えていることであろう。 その兆候を示すものが、昨今の世情不安である。 種々の事件が毎日のように繰り替えされ、多くは殺人事件である。通り魔殺人。上階からの幼児投げ捨て。理由なき小学児童に対しての無差別殺人。異常性欲者の横行。精神異常者の凶悪犯罪。犯罪の低年齢化と犯罪手口の凶悪性。どれをとってみても、安穏としておれない状態である。
では、この元凶は何処に発するのか。 それは日本人の意識が変わったことが、欧米一辺倒の中に窺(うかが)われる。 日本は明治維新を経験した後、国家の方針と、ビジョンの向う指針が、農業儒教社会から工業デモクラシーへと大きく転換してしまった。そして、日本人の難解な課題は、欧米から持ち込まれたデモクラシーであった。国民の誰もが民主主義を口にし、政治家の誰もが民主主義を標榜(ひょうぼう)する。民主主義と云う念仏を唱えていれば、それで安泰だと考えている。まさにこれは、念仏宗の心理である。ある意味で、この念仏が、国家の方向を誤らせる元凶となっている。
資本主義デモクラシーでは、選挙の多数決によって選ばれた政治家は、庶民の使い走りでならなくてはならない。これこそが、デモクラシーの原則である。だが、この原則は全く守られていない。 その証拠に、政治家は自分が「エライ人」と思い込んでいる。大衆の最大の幸福を実現する為に、粉骨砕身して政策を実行する代理人であるべきはずの彼等が、一旦権力の座につくと、その地位を悪用して、人民の膏血(こうけつ)を搾(しぼ)り取り、賄賂(わいろ)を要求して巨万の富を築き、国家人民の為に何の関心を示さないことは、一体どうしたことか。 また、一身の利害のみを図る醜態は、一体どうしたことか。
清々しい「清流知識人」になり得ない政治家の傲慢は、一体どうしたことか。 今日の日本の政治家に、農業儒教社会の根本であった、「身を殺して仁をなす」理念で職務を全うする政治家が、果たして何人いるだろうか。
政治に道義がなければならないが、政治家を道徳や倫理で縛(しば)れば、また、訝しなものが登場し、かえって危険な人物を登場させることになるであろう。かつてのヒトラーのような人物が……。 だからこそ、政治家は庶民の御用聞きであって、彼等に何を注文するかは、国民側にあるべきであろう。これこそが民主主義・デモクラシーの基本的な原則である。しかし、この原則は殆ど守られていない。
世の中は、ますます混沌(こんとん)とし始め、先行きの見えない不安が横たわっている。前途は決して楽観を許さない。 近年の書物一つ取り上げても、先行きの明るい話題を高らかに掲げたものは皆無である。危機や警鐘を鳴らすものは多く、しかしこうした類は、では、どうすれば良いのかという具体的な部分が欠落している為に、世情不安を煽(あお)るものばかりである。いたずらに、人々に恐怖心を植え付けるだけで終っているものが少なくない。脱出路が分からないのだ。これが、世の中が混沌(こんとん)とする理由の一つだ。
私たち日本人は、明治維新後、西欧の科学力に魅せられて、本来、日本人が持っていた「心」「言」「行」の一致を忘れてしまった。 心に思うこと、そして、そこから発する言葉、更には言葉と一致する行いと言う面を、長い間忘れてしまっている。この三つは、どれ一つ欠けてもならないのだ。 今日の日本人こそ、欧米の呪縛から解放されて、以上の「三つの一致」を実践するべき時機(とき)ではないのか。
各セクションのご案内
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運 気 |
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人間の「命」を形造るものは「天」であるが、その造られた命を立てて、現世に実現していく実践者は人間である。 「命」は自然の摂理、その生命的原則、あるいは宇宙の玄理(げんり)から出来ている。これを人間は、どうする事も出来ないと言う。一般にはそう信じられ、定まった運命は変えられないと、運命学もそう定義している。しかし果たして、そうだろうか。運命は変えられないものだろうか。
運命転換術を述べた『陰隲録(いんしつろく)』なるものがある。この『陰隲録』が貫いているものは、「人間の運命」であり、また「人間の宿命」である。 また、その思想体系は、「自らの努力によって、立命に転換していける」という直観内容に、論理的反省を加えて出来上がった思惟(しい)である。そしてこれは、体系的に純然(じゅんぜん)たる、運命論を貫く、深い内容を包含している。また、運命の陰陽の支配から脱する実践法を説く。 そして、人間には人生のうちで、何回か訪れる「好機の到来」があることを説いている。 |
●あなたの人生の『貸借対照表』の帳尻はあっているだろうか もともと金銭にあくせくして、経済的に困窮する人は、最大の欠点が金銭感覚に疎(うと)いばかりでなく、「損益計算書」と「貸借対照表」の関係が全く解っていない事である。 また、「資産」と「負債」の違いについても、殆ど解っていない。そしてこの混乱は、「資産」が収入に書き込まれ、「負債」は支出に書き込まれる『貸借対照表』を全く理解していないことだ。
したがって金持ちになりたいのなら、「資産」を買えばいい事である。ところが多くの72%に当たる中流階級以下の階層は、「資産」を買わずに、「負債」ばかりを買い続ける。 つまり、クレジットやローンで買物をすることに、何の自覚症状もない。借金を積み重ねて、自分で自分の首を絞めていることに気付かない。 また、クレジットやローンで購入したものを、自分の資産と思い込んでいる。だから28%の金持ち層に入れないのである。「金持ち」対「貧乏人」の分離比は、ユダヤ黄金率によれば28:72の関係なのだ。
これからも分かるように、資産と負債の根本的な考えの違いから、「金持ち」と「貧乏人」を二分している事が分かるであろう。 貧乏人は、いつまでも貧乏に甘んじて、貧乏から抜け出せないのは、72%の多くの中流階級以下の階層が、資産ではなく、負債ばかりを買い続ける為である。多くは、借金漬けになり、負債を買う為の生涯に、自分の全エネルギーを費やしているのである。
こうした無駄遣いの現象は、金銭的な流れを見ると、一目瞭然になる。 中流階級以下の72%の人達は、仕事をし、給料を貰えば、一端は損益計算書の中では、収入の方にその金額が書き込まれる。しかし、此処には税金、マイホームのローンの返済、マイカーのローン返済、その他クレジットの返済がある。こうした固定支出がある上に、家族サービスの為に、週一回はどこかのファミリーレストランで外食し、行楽施設に出かけたり、国内外での家族旅行し、必要以上の食費を浪費させ、流行を追い掛ける衣料費を突出させ、必要以上に冷暖房の水道光熱費を遣い、その他の娯楽費などの無駄な支出があり、それらは住宅ローンの無理な借入金であったり、月々の支払をするクレジットカードや、それ等の未払分の金銭感覚を知覚せず、こうしたものが「負債の部」に入ることを全く理解していない。
つまり、夫婦名義の登記済権利証書のマイホーム(半分以上の頭金を払ったマイホームでも、根抵当が設定されている。根抵当権設定は不特定の債権を、極度額の限度で担保する抵当権のことだ)でも、マイカーでも、一円でも未払分があれば、これは「負債の部」に入る性質のものである。
一方、28%の金持ちに属する人の金銭の流れは、資産を買う事に当てられ、不動産、手形・小切手・貨物引換証・船荷証券・倉庫証券・株券・債券・商品券・抵当証券などの有価証券、印税、著作権、特許権、その他の知的財産を持っていて、これはら資産から収入へと記されるものである。ここに「金持ち」と「貧乏人」を二分しているのである。
人の運命の流れもこれと同じで、72%の中流階級以下の多くの人は、運命の陰陽に支配されて、予(あらかじ)め予定された通りの人生を、忠実に履行(りこう)していく事になる。つまり、運命の陰陽支配の法則から抜け出せないのだ。
運命と金銭の流れは、ある意味で共通点を持つ。経済的に困窮(こんきゅう)し、借金を抱えている人は、とにかく、いま金が必要である。ところが、単に金が入れば解決する問題ではない。金は時として、人間の弱さを暴露(ばくろ)するのである。
例えば宝くじが当たる、死んだ親の遺産が入る、あるいは昇給するなどの、思わぬ金に巡り合う事態が発生した場合、その金の流れは、更に加速を増すだけなのである。 結局、一時的に、裕福に見えた現象は、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻るのである。それは、「貸借対照表」の読み方を知らず、「損益計算書」の財務処理能力に欠けているからだ。 これと同じ事が、人間の人生における運命の中にも起っている。(本文より)
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会報バックナンバー |
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近年までの“志友会報”と“大東新報”のバックナンバーを紹介している。以後随時、発刊当時からの会報バックナンバーに遡(さかのぼ)り、随時掲載し紹介する予定。 現在、バックナンバーを掲載しているのは“志友会報”が、平成15年10月号から平成18年3月号まで。 “大東新報”が平成16年4月号から平成18年3月号まで。
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▲ 志友会報(Acrobat形式で提供) |
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▲大東新報(Acrobat形式で提供) |
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癒しの杜の会 |
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▲バラ科の落葉高木である「梨」は酒乱を鎮める霊果である。
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| “癒しの杜の会”会員の為のページ。「血液浄化」や「開運法」を紹介する。 食を改め、慎(つつし)み、乱れをなくせば、人間は不幸現象から脱けだすことができる。 日本人の食思想を紹介し、食→血→体の「食」が躰(からだ)を造るメカニズムを明確にし、『腸造血説』で食の思想に迫る。
また、病気に罹(かか)らない躰(からだ)を造るのではなく、病気に罹っても直ぐに治る体質を持つ人を「健康人」と定義する。つまり、病気に罹(かか)らない体力造りをするのではなく、病気に罹っても、直ぐに治る「体質造り」を指導しているのである。 我々現代人は、食の中から学ぶ事柄は決して少なくないであろう。総(すべ)ての食べ物には「陰陽」がある。食の陰陽を学び、それを知る事こそ、長寿への秘訣となるのである。
また、長寿の秘訣に「血液サラサラ」という状態を長く保つ健康法が長寿への道を開く。血液サラサラ状態こそ、スタミナが付く条件のなる。水分補給便秘予防や、血液サラサラ状態をつくる食物に漢方では古くから梨(なし)が用いられて来た。 この食べ物は水分90%の果物であるが、非常に繊維質が多く、便秘の予防として、あるいは熱を下げ、痰(たん)や咳(せき)を鎮(しず)め、利尿効果が大きい食品である。咽喉(のど)の渇きを押さえ、浮腫をとり、一種の霊食の観がある。
また「酒毒」を消す食品であり、悪酔いや二日酔いにも効果が大きく、更には霊的に、「酒乱」や「アルコール依存症」などの霊的精神異常にも効果を上げている。 つまり、霊体質の人が、憑衣・憑霊から抜け出す食品でもあるのだ。この意味で、霊果といえる。
但し、食し方を間違えると、躰を冷やすばかりでなく、外傷のある人や妊産婦はマイナスの逆効果に悩まされる事になる。また、梨は陰の食べ物であり、胃腸に障害を持つ人は消化が悪い為に、食し方には注意が必要である。それゆえ、その制御が難しく、これが霊果といわれる所以(ゆえん)である。 “癒しの杜の会”では、こうした霊食・霊果に関する食指導も行っている。
また、精神障害や憑衣現象からの改善法を独特の見地から解明する。明治維新、文明開花と言う西欧から押し寄せた外圧の「右回り旋風」は拡散・膨張に向かう科学万能主義の道であった。しかし、科学万能主義も翳りを見せ始めた。
西洋科学を盲信すれば、総てが解決すると思い込んだ現代人は、今さまざまな憑衣現象に冒されている。 国家も、企業も、その他の組織も、個人に至るまで、憑衣現象は猛威を振るっている。そして、これから抜け出す術(すべ)を知らない。 しかし、憑衣から抜け出す改善法は、確かにあるのだ。 |
●憑衣について 体質は、丈夫でなければならない。感染症にも免疫力を持っていなければならない。病気に罹(かか)らないと言うことよりも、病気に罹っても、「直ぐに治る」と言う事が問題なのだ。 また、邪気や邪霊の憑衣を受けても、これ等から直ぐに解放されると言う事が大事なのである。憑衣されても、直ぐに憑衣から解放されると言う事が肝心なのだ。
健康になりたい、幸せになりたい、金持ちになりたい、有名人になりたい、憑衣から解放されたいなどの「何々になりたい」は、こうした固執への塊(かたまり)を堅固にするばかりで、絶対にこれ等から解放されることはあり得ない。 また、人間の不幸現象の殆どは、こうした「何々になりたい」という願望から起るものであり、ここに大きな間違いが横たわっている。
そもそも願望と云うのは、棒ほど願って針くらいにしか叶わないものであり、これは駱駝(らくだ)が針の穴を通るよりも難しいのである。現代人はこうした願望に振り廻され、願望のみに執念を燃やし、毎日奔走している。しかし、こうした執念の多くは、殆ど成就されることはない。運命の法則に支配されて空しく潰(つい)えるからである。
では、なぜ成就されないのか。 それは釈迦が云ったように「心が静寂に入り」、「刺戟(しげき)を鎮(しず)める準備」が出来ていないからである。 既に「眠り」を上げて説明を繰り返したが、「眠り」というものは、人間側が求めるものではなく、向こう側からやって来るものなのである。「向こう側からやって来る」ということを無視して、人間側が一方的に眠りに就(つ)こうとしても、無理であり、こういう願望が激しくなればなるほど、健康が阻害され、ストレスが溜まっていくのである。更に、この状態で、睡眠薬やその他のドラックを用いれば、結果は最悪であることが誰にも判断が付こう。
憑衣から脱出できる条件は、「拝み屋」の持つ霊能力的な威力ではない。 自称霊能者や職業祈祷師と言われる彼等が持つ威力は、自慢するほど悪霊に対して強力なものではなく、ただの「自称」であることを知らねばならない。 要するに彼等も、商売上の憑衣体質であり、些(いささ)かの霊体質を自慢し、これを職業として「拝み屋」をしているに過ぎない。清流や正気との交流は、言葉による通信は行われない。(本文より)
●優れた躰とは、体力を指すのではなく、体質を言うのである
健康で、しかも優れた躰とは、体力があり、バイタリティーがある肉体を言うのではない。内外に備わった「体質」を言うのである。この場合、外的には肉体であり、内的には「心的なエネルギー」の働きを指すのである。
人間が生きていくと言うことは、「抵抗を感じる」ということである。この抵抗こそが、「自分が生きている」という証(あかし)なのだ。 したがって、これに対し、生きる事で様々な抵抗や圧力が掛かるのである。その内外からは、まず心的ストレスが掛かり、このストレスは血液を汚染する習性をもっている。血液の汚染は、各部位の細胞を変質させて、免疫力を失わせるのである。
例えば、「ガン免疫力」が失われれば、まず「ガン・ストレス」なるものが発生する。これは心的面からのストレスとなり、やがて「ガン・ノイローゼ」に変質していく。 一方、同じガンになっても、「自然退縮(しぜんたいしゅく)」が働き、治ってしまう人が居る。こうした人は、心配や不安、緊張や疲労に対して、ある種の「ガン免疫力」なるものを持っていて、いつも明るく、朗らかな人で、自然に免疫力が働く人である。この「自然退縮」の働きによって、ガンが徐々に治っていくと言う事実がある。
内外から襲うストレスは、それを跳ね返すのが、実は体力ではなく、「体質」である事が分かる。体質の良し悪しで、ストレスを消去出来るか、否かが決まるのである。体質に備わった免疫力は、一度(ひとたび)病魔に襲われたとしても、「自然退縮」が働いて、これを跳ね返してしまうのである。つまり、病気に罹っても治るのである。
真の健康とは、免疫力の強いことを言い、病気に罹(かか)らないと言うことよりも、病気に罹っても、直ぐに治る力を持っている人を言うのである。こうした人を「真の健康人」というのである。
では、こうした「優れた体質」を得る為には、どうしたらよいか。 それは「食」の原理を知る事である。人間の人体は「食の化身」である。食によって体躯が作られているのである。その人が何を食べているかという事で、その人を構成する人格や霊格が決定されるのである。 しかし、残念な事に、巷(ちまた)に溢れる食材の多くは、食品産業のご都合主義によって画策されている場合が少なくない。(本文より)
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