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いかに死ぬべきか 2


●心の安住

 誰もが、「人生、如何に生きるべきか」と思い、これに心を砕く者は少なくないであろう。
 それは「現代」と言う社会が、目紛
(めまぐる)しく変化するからだ。
 そして、「如何に生きるべきか」と反芻
(はんすう)すれば、そこに「よりよい生き方はなかい」と模索する者は少なくないであろう。

心の安住を得る。

 日本人は戦後、経済発展の繁栄にその恩恵を享受し、物質文明から授かる様々な利点を手にした。それは便利さ、豊かさ、快適さという名目で、誰もが少なからず預かっている。
 しかし一方で、精神文化と言う、個人の身の律し方には除外し、無頓着でいる者が多い。また、自分を粗末にしている者も以外と多い。

 それでいて、多くの日本人は、何かに止まり、狼狽
(うろた)えている。科学万能主義に入れ揚げ、物質至上主義の恩恵を享受しながらも、自分達の未来が確かでない事に、何かしらの不安を抱いている。その不安の出処を探すが、確たる証拠は掴むことができない。また、不安解消を、政治が片付けてくれるとも思っていない。勿論、経済がそれを救ってくれるとも思っていない。不安の出処の原因は何も掴んでいないのだ。

 しかし、不安の出処が突き止められないまま、やはり何かに不安を感じ、そして迷いを抱いている。こうした問題点を、自分の小さな力で解決出来るとも思っている筈はなかろうが、では、それを科学が解決するとも思っていないようだ。
 何故ならば、科学は人間の為の、本来は道具であったからだ。
道具は、私たちの生活を便利に,豊かに,快適にするが、人間の命を幸福にするものではない。道具は、あくまで道具であった筈だ。
 その事だけは、かつては多くの人が心得ていたようだ。

 人間は便利さや、豊かさや、快適さを、至福
(しふく)と混同してはならない。こう肝に命じ、納得していた。

 しかし、文明に加速度がつき、時代の流れが速くなると、幸福と道具がイコールのように錯覚し始めた。多くに人間が、これを何と混同している事であろうか。
 この混同の誤謬
(ごびゅう)が、人間の本当の生活を歪(ゆが)め、精神的貧弱と、満ち足りない心の不幸に陥れているか、これを考える人は、余り居ないようだ。

 かつての共産主義の出現は、人間の幸福の為の「模索の一つ」であった。誰もがこれに飛びついた。太古の原始共産主義に平等の制度を見たからだ。
 ところがカール・マルクスによって確立された近代での「科学的社会主義」の理論は、虚構の一種でしかなかった。それは人類の実験的な試案に過ぎなかった。

 この理論によれば、人間を客観的合理性によって行動する「経済人
homo oeconomicus/経済的かつ合理的な考慮から行動する人間)」だと定義し、この論理に従い、そうであるならば、「善良にして有能な人民官僚」が出現すると考え、万人に対し、共通の最適規格を発見出来る筈だと考えた。

 この最適規格だけを大量生産すれば、最も効率の良い、生産システムが出来上がり、万人に等しく、豊かさの恩恵を享受出来る筈だと考えたのである。しかしこうした社会は、最後まで実現しなかった。

 それは何故か。
 科学的社会主義とは、唯物論的人間観と、科学的客観性と、大量生産効果とを全域に波及させ、それに全信頼を委ねる事であった。また、極度に近代工業社会的な理想を追求した事にあり、この理論を信じて作られた社会主義国では、競争原理が生まれなかったので、規格化され、大量化される一方で、官僚管理が起り、やがてこれが行き詰まる元凶となって行った。官僚が人民を監視し、管理し、酷使したからだ。
 かくして社会主義は、一等上に控える共産主義まで辿り着く事が出来ず、また共産主義も虚構理論であると言う事が暴露された。

 では、競争原理の働く資本主義ならば問題解決はなるのか。
 否、資本主義自体も、老いていて、多くの腐朽
(ふきゅう)を露(あらわ)にしている。歴史的に見れば、社会的な歴史の方向転換は、ルネサンス以来の近代史の方向性は、資本主義(capitalism)社会の出現によって、近代史に止めを刺したかに思えた。
 ところが、産業革命によって確立した生産様式は、剰余価値を利潤として、手に入れる経済体制はマルクスによって、労働階級を搾取
(さくしゅ)する手段と定義付けられたのである。

 一方、社会主義はどうだったか。
 一切の私有地や私物を認めず、人間が客観的合理性によってではなく、各個人の主観的な満足感で動こうとする人心の感性までは、ついに最後まで縛
(しば)る事が出来なかった。社会主義下の人民は、万人共通の規格化されたものを欲するのではなく、感性によって、多様化する知力の世界を追い求め、社会主義が行き詰まる現実を招いて行った。

 そして1980年代に入ると、電子技術などの発達により、多品種少量生産の原価が低下し、大量生産効率が乏しくなる結果を招いた。それに加えて、社会主義の不備と、それに対する人民の不満が吹き上げた。社会主義の官僚制度は完全に機能しなくなっていたのである。

 東側社会主義陣営の崩壊は、軍事的はミスでも、外交的な政策の失敗でもなかった。
 科学的社会主義の理論に基づく、一党独裁の官僚統制が、文化的な破壊を齎
(もたら)したからである。その結果、社会主義体制が崩壊しただけでなく、ソビエトやユーゴスラビアなどの国家までもが崩壊し、消滅してしまったのである。その後、これ等の地域では内紛が起り、移民流出が激化し、流血の内紛状態が今でも続いている。
 そして社会主義体制は、これ等を食い止める抑制の機能までもを失っていたのである。

 こうした社会主義諸国での惨事を余所目に見ながら、日本国内では、これと並行して、資本主義市場経済の盲点とも言うべき、バブル崩壊が、急激かつ徹底的に襲っていた。
 所謂
(いわゆる)これも、近代工業社会が終焉(しゅうえん)する過程に顕われた徒花(あだばな)であり、規格大量生産を発展させ、必然的に生じる供給過剰を輸出と投資の拡大で、均衡させようとした時代錯誤の結果からであった。

 以降、競争市場において、需要と供給との関係によって成立する価格である競争価格は、早過ぎる現実について行けず、混乱と戸惑いを煽
(あお)るばかりだった。
 膨らみ過ぎたバブルの消滅は、現下の需要縮小や資産価格の値下がりを招き、深刻な不況を誘発し、景気波動を低迷させ、社会気質が急速に変化する環境を作り上げた。

 もはやこうなれば、人々は立身出世や、成功致富の夢に、「人生とは何か」という疑問を、そこに見い出す事は出来なくなる。奮闘だ、努力だ、ファイトだと言う激励は、単に負け犬の遠吠
(とおぼ)えのように響いて来る。在(あ)り来たりの人生論にも、倦(あ)きが来て、これらはすっかり信用されなくなった。

 しかし人々は、「力」を失っているのではない。力と言う、力そのものを見失っているだけである。力の究極を見出せないだけである。
 では、見出せない原因は何処にあるのか。

 それは目的論の誤りである。何によって生きて行こうかと言うのではなく、「何によって死のうか」という事を知ることである。
 人は、生まれた以上一度は、死ななければならない。富豪貧富の差なく、老若男女の別なく、誰にでも同等に与えられているのである。したがって、一度は死ぬのであって、死ぬべきものを捕まえる必要がある。そしてこれを捕まえた時、イデオロギーとは関係なく、本当の「心の安住」を得るのである。



●この旗の許(もと)で死のうではないか

 長い動揺や、不安や、迷いから抜け出す為には、「生きて行くには、どういうふうにしたらよいか」というタテマエ論的な考え方から抜け出す必要がある。生きる事を考えるのではなく、間違いだらけの自分の過失を、一旦放棄しなければならない。それには先入観を捨て去り、固定観念を消去する事である。

 あるいは損得勘定で物事を考えたり、利害や打算に振り回される考え方に凝り固まっていては、一寸の休息もなく、心に安住は訪れない。こうした考え方に左右されているうちは、まだ、来ても居ない明日の事が心配になり、将来の事が心配になる。そこで、こうした物に囚
(とら)われている間中、安定がないから、力も湧いて来ないのである。

 生きていると言う事は、他の生き物を犧牲にして、自分が生き延びるという事である。生きる為には、「喰
(く)わなければならない」からである。それは他の生命を喰い、あるいは他人を蹴落とす事である。

 生存競争に勝ち残り、生きて行こうとすれば焦心
(しょうしん)する為に、人間はかえって「本当に生きる道」を殺して、打算と利害と利潤追求の道を選択しなければならなくなる。
 この道を選択した場合、行き詰まる事は目に見えているのである。しかし、こうした愚に気付くのは、とことん追い込まれ、その極処に来て初めて気付くものである。

 人より、一歩先んじて生きる事が、実は生きる事ではなく、自分が本当に生きると言う事を殺していたのだと……。
 そして行き詰まりを防止する為には、「依
(よ)って以て死ぬべきもの」を捕まえねばならぬ事を……。
 そこで、此処に来て目から鱗
(うろこ)が墜(お)ち、「何と一緒に死ぬべきであろうか」という、これまでとは異なった課題に挑戦する事になる。

 人の生き方を示唆
(しさ)するものに「戒律」なるものがある。
 戒律は本来、自分の生活をより善
(よ)く生かし、日常生活を整頓し、効率をあげる事を目的にして作られたものである。しかしこうした一面ばかりを強調して、それに随(したが)うのであれば、その戒律は本当にそ、の人を生かしていない事になる。また、戒律の存在する意味も生きて来ない。

 本来、戒律と言うものは、戒律によって生を共にするものではなく、戒律とともに死すべきものであった。ところが、戒律とともに生きようとしたところに、戒律は、かえって生身の人間を縛
(しば)り付け、もっと豊かに、もっと便利に、もっと快適にと言う物資面を追い掛ける生き方に繋(つな)がり、手枷足枷(てかせあしかせ)の状態となった。これにより、本当の戒律は崩れ、人の生き方も生存競争に疲れ果てて、生そのものにも、張りや艶(つや)が無くなり、ついには萎(な)えてしまうのである。

 「金や物に頼って生きて行こう」あるいは「これを基盤に栄えて行こう」と言うのでは、本当の人生の道が不明確になり、己自身を生かして行く味が分からなくなる。「人の道」に行
(ぎょう)じて行く味が素気ないものになる。道と一緒に、自分も死ぬのだと言う次元に至った時、初めて道が見えて来る。道とともに滅びようとした時、初めて道は、人を真当(ほんとう)に生き返らせる事が出来るのである。そこには奪われるものがないからだ。

 「もうこれ以上、何も奪われるものがない」という次元に至った時、人間は、初めて強く慣れる。怖れるものが無くなり、動揺するものが無くなるからだ。これこそが、「捨身
(すてみ)」である。
 力ある生き方とは、実は「依って以て死ぬべきもの」を見つけた時、そこに命の源
(みなもと)を見るのである。

 「この旗の許
(もと)に死のうではないか」
 こういったものを見つけた時、懦夫
(だふ)も勇者になるのである。
 これまで女々しいと映っていた者も、「慎重である」と映るのである。
 多くに人間は、死ぬべき目標を見出せない時、ひ弱な者は女々しく映る。何もかもが逆方向に見え、そのように判断する。

 私たちは、これまでの人生の中で、朴訥
(ぼくとつ)な人を「田舎っぺ」とバカにして来た。決して、「素直だ」「実直だ」「勤勉だ」「律儀だ」とは評価しなかった。自然の様を、素朴な様を「ださい」としたのである。

 これと同じように、勇敢な人を、都会では「乱暴者」と呼び、熟慮する人のことを「決断力がない」と決めつけ、仕事に丁寧
(ていねい)な人を「のろま」と罵倒(ばとう)して来た。悉(ことごと)く色眼鏡で見て、評価を誤り、その深層を全く見抜けなかったのである。
 また、こうした評価の誤りから、人間の生死すらも誤って来たのである。死を極力恐れ、これから逃げ惑ったのである。
 いったい逃げるだけ逃げて、本当に逃げ切ったのであろうか。

 例えば、ガン病棟に入院している末期ガンのガン患者は、死を悉く恐れ、こうした状態にあっても、生き延びたいと懇願
(こんがん)する。抗ガン剤を打たれ、副作用に苦しみ、それでも生き延びる事に異常な執念を燃やす。枕許に死に神が佇(たたず)み、いま死の決断を下す刹那(せつな)になっても、まだ生への未練が断ち切れないと言う。
 なぜ、生に固執するのだろうか。

 生き延びたい事は、何人にとっても最後の執念であり、生きる事への人情であろうが、何故、固執するのだろうか。
 本来、死は恐れるべき対象でなかった筈だ。生と同根であった筈だ。死ぬ事は、実は、よく生きる事であった筈だ。

 死のうと決心した以上、戦って戦って、生き盡
(つ)くす覚悟が生まれる。
 愚かな事で、ヘタに死ねないと思う。自分を大事にしなければならないと言う心が生まれる。何が何でも命だけは、という気持ちが生まれる。今までの不摂生
(ふせっせい)に気付く。夜の喧騒(けんそう)に誘惑され、浮かれていた愚かな自分に気付く。
 そして、一旦死のうと覚悟したのであるから、死んだとて何の後悔もない筈だ。

 しかし、不思議な事に、死のうと覚悟した事が、実は死ぬどころか、とことん自分を最大限に生かしてくれるのである。これこそが真当
(ほんとう)に楽な生き方であり、人を生かしむる偉大な行動も、こうした決意と覚悟から生まれて来るのである。

 「何によって生きようか」と言う事を求めていたのでは、死ぬべきものが探せなくなる。したがって、損得勘定や利害ばかりが先行する。こうなると焦心からは、逃れられないものになり、じたばたしなくてはならなくなる。これこそが、真当
(ほんとう)に自分を生かす生き方ではなく、実は自分を殺す生き方だったのである。こうした事を念頭に置いている間中、真当(ほんとう)に生きた日は、一日もなかった筈である。



●何の為に働くかを知っているだろうか

 人は働かねばならない。しかし、何の為に働くかを真当(ほんとう)に知っているか、それを知る人は少ない。齷齪(あくせく)と働く。しかし、何の為に齷齪と働くのか。なぜ齷齪しなければならないのか。

 多くの人は、こう答えるであろう。
 「若いうちに、一生懸命に働けば、齢
(よわい)をとってから、働かずに幸せになれる」と。
 したがって「若い今のうちに、精一杯働きましょう」というスローガンに、つい惹
(ひ)かれて、これが本当かなと思う。しかし、真当(ほんとう)でも、ウソでも齷齪(あくせく)しなければならない。働き続けなければならない。
 何故ならば、周囲の誰もがこうしているからだ。

 しかし齢を重ね、歳をとってから幸せになれると言うのは、真当か。
 人が幸せになると言う現象は、その人個人の徳分から生まれるものである。その人に蹤
(つ)いて廻る因縁(いんねん)に他ならない。齷齪(あくせく)と働く事とは何の関係もない。

 金銭だって、そうだ。
 その人に金が蹤
(つ)いて廻る因縁がなければ、幾ら一生懸命に働いても、金は身に付くものではない。逆に若い時、そんなに齷齪(あくせく)と働いたわけではないが、金が身に付く徳分を持っていれば、やはり歳をとってからも金の方が蹤(つ)いて廻って、金には困らない人が居る。
 これは我が身の因縁であり、また徳分である。

 ところが、こうした因縁がなく、徳分がなければ、貧乏をしながら、肉体を酷使し、歳をとっても働き続けねばならぬ人が居る。
 こうした現実を見ると、「人は何の為に働くのか」という事が分からなくなって来る。

 多くの人は、金を得る為に働いている。これは金を多く得る事によって、幸福になれると信じているからだ。
 しかし金が身に付く因縁、つまり徳分がなければ、幾ら働いても、これは身に付くものではない。これは単なる理屈ではなく、平常の現実として、周囲には、実際にこう言う人が何人か居て、それを見ると、実に羨
(うらや)ましい限りである。

 因縁や徳分は、欠落していれば、金がついたと思っても、こうした金は一時的なもので、直ぐに抜け出て行く。こうした場合、ただ抜け出て行くだけではない。今以上に兇
(わる)い結果を伴って抜け出ていくのである。

 例えば、歯を喰い縛
(しば)り、鼻水垂らし、懸命に働き、生存競争の中でも、臂(ひじ)で他人を押し退け、せっせと金を溜め込んだとしよう。
 ある程度まで溜まり、どうやら一安心と胸を撫
(な)で下ろしていると、もし、この時に金が身に付く因縁と徳分がなければ、家族が生死を伴う重病に罹(かか)ったり、自分が交通事故に巻き込まれたり、その後遺症で廃人同様になったり、その他の事件や、火事などの災害に巻き込まれたりして、金は直ぐに出て行って了(しま)う。

 これを考えると、幾ら齷齪
(あくせく)と働き、身を粉(こな)にしたところで、金が身に付く因縁と徳分がなければ、やはり出て行くようになっている。
 以上は現象人間界における事実として、率直に認めなければならない。

 人は念ずるに似合った生き方で、自分の人生を送りたいと思っている人が少なくない。
 ところが世の中は思い通りにならない。同時に、念ずるばかりで、欲の方が先走りする人も少なくない。

 これだけ一生懸命に働いているのに「給料が少ない」「夏冬のボーナスが少ない」「夏や冬の有給休暇が少ない」「今の仕事が自分の合わない」などの、要求事項ばかりが「欲する人」の姿であり、こんな人に限って、自分を顧みて、自己向上に努力しない人である。念ずる事と、欲ばかりが強くて、金が身に付く因縁も徳分も持っていないということが、こうした言葉から証明される。

 そこで東洋の哲学者達は、金や幸せを直接的に掴もうとせず、金や幸せが舞い込んで来る「徳分」を最優先に考え、徳を養う事に努力したのである。つまり、金や幸せの方が、身に付くような因縁を探したのである。自分が追い求めるのではなく、金の方から自分に向かうように仕向けたのである。

 金や幸せを直接に求めれば、それは単に、我欲
(がよく)の炎上に過ぎない。貪欲(どんよく)さや我執(がしゅう)の強さばかりが表面化するだけである。いわばこれは、人間の煩悩(ぼんのう)をたぎらせているに過ぎないのである。

 ところが、東洋に哲学者は、それを自分の方から直接に追い求める事をせずに、金や幸せの方が、自分の方へ向かってやって来るように仕向けたのである。
 天理教などは、「求めて得たものは埃
(ほこり)」と云っているが、これはまさに真理を適中させた言葉である。

 幸福と言うものは、総
(すべ)て自分から求めるものではなく、先方の方が、こちらへやって来るものでなければならない。この真理を見抜いた東洋の哲学者達は、「幸福が身に付く徳分」を養うように努めたのである。幸福とは、自分が求めて追い掛けるものではなく、先方の方から来るものなのである。それこそが、本当の幸福なのである。

 自分から追いかけ、それを掴むと言う行為は、強奪であり、必ず後に禍根
(かこん)の結果を招くものである。自分で求めるものは、我利我欲(がりがよく)の何者でもない。仮に、自分が追い求めて、何かの幸運を掴んだとしても、これは何かの凶事を残して、やがて逃げ出して行くものである。実は、金と言うのも、こうした特性を持っている。

 幸福と言うものは、求めたからと言って、与えられるものではない。求めて与えられるものであるならば、世の多くの人は皆幸福になり、齷齪
(あくせく)と働く必要はないのである。しかし現実とは、これとは大きく異なる。
 幸福を願って、金を得る為に一生懸命働き、歯を食い縛
(しば)ってそれを求め、願っているにも関わらず、実際には百人に一人、否、千人に一人も幸福になれた人はいないであろう。

 金を沢山
(たくさん)所有出来れば、幸福になれると誰もが信じている。幸福になる為に、金を得ようと働き、その究極の目的は、幸せな老後である。
 老後に楽する為に、若いうちから一生懸命働く。つまり、老後、働かなくて済むように、若い今のうちに働くと言う考え方である。働く目的は、働かなくていいように、働くと言う矛盾を抱えているのである。こうした矛盾の中に、果たして本当に幸せがあるだろうか。
 そして、こう考えている人は、その先に「自分の死」が待ち構えている事を気付いているのであろうか。

 若い時に、一生懸命働く。老後に備えて働く。歳をとってからは働かなくてもいいように、いま働く。このようにして、我武者羅
(がむしゃら)に働き詰めで、無事に老後を迎えたとしよう。しかし、働き詰めで働いた、この老後は果たして幸せであろうか。

 人間の「生」のサイクルは、生・老・病・死である。老いただけでは、人生の終着点に到達しない。老の後には病気が待ち構え、病んで死ぬと言う、人間の一生の中で、最も辛い局面を迎えなければならない。それは「病」と「死」である。

 「病」と「死」に差し掛かった晩年は、年齢的あるいは肉体的に云うと、末期患者と同じ立場に立たされる。
 末期患者は、最早
(もはや)自分が死と関係である事が否定できなくなる。しかし、それでも数パーセントの助かる延命の見込みがあれば、主治医の口車に乗って、二度三度と手術を受け、あるいはその他の治療を施してもらい、入院加療を受けなければならなくなる。

 自分の抱えた病気を、笑顔で片付けられなくなる。末期患者に於ては、感情喪失、泰然自若、もしくは憤怒
(ふんぬ)などは、殆ど見られなくなり、大きなものを失ったという、一種の諦めに似た、喪失感に取って替わられるのである。
 歳をとって末期患者となり、自分がこれから先、どう足掻
(あが)いても無駄だと諦めの気持ちに至った場合、何もかもが、喪失感に取って替わる。

 例えば、乳ガンの女性は、自分の容姿への喪失を「諦め」に替えるかも知れない。また、子宮ガンの女性は、最早
(もはや)自分が「女でない」と感じるかも知れない。あるいは、かつての歌手や映画俳優が、顔面の再手術や全歯抜歯をしなければならないとなると、その精神的ショックと狼狽(ろうばい)により、深刻な「抑鬱(よくうつ)反応」を示すかも知れない。

 更には、集中治療と長期に亘
(わた)る入院によって、経済的負担は重圧となって、わが身にのしかかって来る。老後、働かなくて済むように、若いとき一生懸命に働いて蓄えた老後の蓄財など、自分が末期患者となった今、「老後、働かなくても済むように蓄えた蓄え」など何の役にも立たなかったと思い知らされるのである。最後の、老後の楽しみも、こうした事で吐き出さねばならなくなることに、何とも割り切れない「絶望」を感じるのである。

 更に、こうした事に追い打ちをかけ、集中治療と入院費用は莫大
(ばくだい)な数字に上り、末期治療の多くの患者は、唯一の持ち物すら、手放さねばならなくなるのである。老後の為に蓄えた預金も総(すべ)て吐き出し、また老後の為に建てた家屋も、ついには維持できなくなってしまうのである。

 「生」への執着は、ついに実らず、最後は諦めと共に、総てを失って死んで行く現実がある。そして、何よりも辛い事は、今まで自分が慣れ親しんだ、この世界と訣別し、肉体も、物財も、金銭も、一切無縁となって死んでいかなければならない事である。ここに、死に行く者の、悲痛な叫びがある。
 では、こうした現世からの一切の訣別に対し、私たちの残された、死生観を超越する
「荘厳な死」は、どうしたら迎える事が出来るのだろうか。



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