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菜根譚・前集 3

ある秋の寂寥。


●粗衣粗食

 藜口ケン腸者、多氷清玉潔。袞衣玉食者、甘婢膝奴顔。蓋志以澹泊明、而節従肥甘喪也。(前集十一)

【書下し文】
 藜口
(れいこう)ケン(ヒユという草の名前であり若い葉を食用にする)腸は、氷清玉潔(ひょうせい‐ぎょくけつ)多し。袞衣玉食(こんい‐ぎょくしょく)は、婢膝奴顔(ひしつ‐どがん)を甘んず。けだし志(こころざし)は澹泊(たんぱく)を以って明らかにし、而(しか)して節は肥甘(ひかん)より喪(うしな)う。

【大意】
 穀物菜食の粗衣粗食の人は、心が玉のような汚れの無いに清らかな心を持っている。
 逆に、美食に溺れ、美衣を身に纏
(まと)っている輩(やから)は奴婢(鈍婢)で心が浅ましく、卑賎(ひせん)な態度の者が多い。思うに、人間の操守そうしゅ/心にかたく守って変らないことは、淡泊な生活を実践することで次第に磨かれていくものなのである。しかし奢(おご)り高ぶる者は、その生活の中から、志は次第に消え失せていくものなのである。

【教訓】
 美衣美食に驕
(おご)る者は、志(こころざし)というものを自らの浅ましい我欲の為に、既に物事の本質や大本を見失っているものである。この事から分かるように、人の宿業(しゅくごう)である「我欲」というものは、志や理想を崩壊させるものである。物欲はまさに理想の敵なのだ。

 物質至上主義や唯物主観に振り回され、金や物を主体に考えていると盲
(めくら)になるのである。やがては隷属的な生き方しかできなくなってしまうのだ。
 人間の転落と言うものは、こうした所に墓穴を掘る「落とし穴」が待ち構えているのである。何事も出しゃばらず、控え目にして、慎
(つつ)ましくする事である。

 衣・食・住を慎ましくし、粗衣粗食に耐えることは、人生が単に、科学万能と物質主義優先に立って動いていない、この事実を知る事が出来る。また、科学や技術ばかりの力に凭
(もた)れ掛かるものでもない事が分かる。

 いま現代人は、地球環境の汚染と、資源の枯渇との憂慮
(ゆうりょ)の中に身を委(ゆだ)ね、本来、人間の道具であった科学や技術の為に、自らの生活を更に不安にして、それに身を曝(さらす)す現実を迎えた。
 そして、本来道具は、私たちの生活を「便利」にはするが、生命を「幸福」にするものではない。道具はあくまで道具に過ぎなかった。 

一日2食の「粗食・少食」で長寿への挑戦。昼食と夕食を合わせて、わずか一日1400Kcalの「仙人食」でありながら、充分に働けるのである。また「粗食・少食」であるから、多喰いと違って、内臓を疲弊(ひへい)させることもない。
 現代人は、一日3食以上の4食・5食主義を行っている為、内臓が疲れ、食傷に冒されているのである。ガン疾患をはじめとする現代病は、食べ過ぎの食傷によるところが多い。

 人は「便利」と「幸福」を混同してはならないのだが、今日の物質至上主義や科学万能主義は、人間の生命の期待を裏切り、本当の幸せとは別の方向に進んでいるのである。
 「便利」と「幸福」の混同の誤謬
(ごびゅ)は、現代人を確実に歪(いびつ)な畸形(きけい)に作り替え、その生活を確実に歪(いびつ)なものにしている。
 「便利さ」や「豊かさ」や「快適さ」を求める余り、この跳
(は)ね返りとして、いかほど多くの人間に不幸と貧弱を齎(もたら)しているか、これについて考える人は、残念なことだが非常に少ない。



●尊敬に至る広い心

 面前的田地、要放得寛、使人無不平之歎。身後的恵沢、要流得久、使人有不匱之思。
(前集十二)

【書下し文】
 面前の田地は、放ち得て寛
(ひろ)く、人をして不平の歎(なげ)なかしむるを要す。身後の恵沢は、流し得て久しく、人をして不匱(ふき)の思いあらしむるを要す。

【大意】
 現世に生きている間は、出来るだけ広く大きな心をもって生きるが宜しかろう。そうすれば、どんな人にも不平不満の気持ちは抱かせないものである。
 また、死んでから後には、いつまでも尽きない恩沢
(おんたく)を残さなければならない。そうすれば、どんなひとにも満ち足りた気持ちを与えることが出来よう。

【教訓】
 物質文明の真っ只中で生きる現代人は、案外と浅知恵のところがある。それは世の中で、たった一つしかない一番大切な宝を粗末にしているからである。
 誰かが言った笑い話に、「ある人が未開の国の原住民に雨合羽を寄贈したところ、その未開の原住民は雨が降り出した時、それを丁寧
(ていねい)に畳んで、脇の下に抱えて、雨の中を走って行った」と云うのがあった。これは笑い話として披露されたものであろうが、果たしてこの話を、今の現代人が本当に笑うことが出来ようか。

 この話をそっくりそのまま現代人に当て嵌
(は)めれば、果たして何人の人が、これを笑えようか。
 現代は、心の時代とか、精神の時代とか云われているが、それは真っ赤なウソで、依然とした物質万能主義、科学一辺倒主義、金銭至上主義が罷
(まか)り通っている世の中ではないか。

 金・物・色には執着し、こだわり、それらをこよなく愛し、自分以上に大事にしている人が少なくない。金品には目がなく、色に狂い、世の中は性情報を垂れ流し続けて、漁色家を煽
(あお)り続けている。
 また、他人の中傷誹謗
(ちゅうしょう‐ひぼう)には腹を立てるが、その実、自分自身は一向に大切にしてない実情がある。不摂生の限りを尽くし、正しくなければならないはずの生活習慣を大きく歪(ゆが)め、健康には注意せず、わが命を縮めている事については、無頓着でいる。

 本来、人間は働けば健康になるように出来ている。しかし、出来るだけ楽をして働くまいとする。少しでもハードな仕事に携わると、直ぐに死んでしまって、過労死だ、突然死だと喚
(わめ)き捲(まく)り、自分に甘く、人に厳しい態度を示す。
 一方で美食に耽
(ふけ)り、うまいものを食べたいと思う。楽をしたいと思う。こうした欲望が、実は命を縮める元凶となっているのである。

 ストレスが万病の元と叫ばれている現在、その元凶は取り分けて、恐れ、怒り、悲しみ、妬み、恨み、不平不満などの心の裡側
(うちがわ)が齎(もたら)すものが一切の成人病の病因と考えられれている。自他の外的評価で、自分と他人を比較し、持ち物が少なければ不幸とし、多ければ優越感を感じ、こうした思考や生活習慣が、実は自分の生活を不幸にし、事業を不振にしているのである。つまり、「今の自分の不幸」は、自分自身の裡側にあるのである。

 こうした不幸から抜け出す為には、まず、自分自身を大事にすることから懸
(か)からなければならない。「自分を大事にする」とは、自分を甘えさせることでない。他人に厳しく、自分に甘いのであれば、益々自分を粗末にしていることになる。
 自分を大事にするには、「今の再点検」をすることである。今の自分が、果たしてこれでよいのかどうか、再点検することなのだ。

 己を大事にし、更に大きく向上させる為には、己を空
(むな)しくすることである。目先の欲を捨てることである。無欲に至ることである。無欲は大欲に繋(つな)がる。したがって、大欲を抱くことである。
 己を空しくすれば、今より躍進でき、より完成に近付くのである。大欲を抱き、成功を勝ち取り、完成に至らしめるには、身を捧げて、己を尊び、その心を人に及ぼすことである。己を尊ぶ同じ心を、人に捧げてこそ、人間社会は尊敬の光で包まれるのである。



●なすが儘の精神

 径路窄処、留一歩与人行、滋味濃的、減三分譲人嗜。此是渉世一極安楽法。(前集十三)

【書下し文】
 径路
(けいろ)(せま)き処は、一歩を留めて人の行くに与え、滋味じみ/うまくて滋養のある食物)(こまや)かなるものは、三分(さんぶ)を減じて人の嗜(たしな)むに譲(ゆず)る。これはこれ、世を渉一の極(きわめて)安楽の法なり。

【大意】
 狭い道では、一歩立ち止まって、後から来た者に道を譲
(ゆず)り、美食や珍味を前にしたら、三分(さんぶ)は手を付けずに、他人に充分に食べさせてやる。一歩を譲り、三分を減らして与えるということが真の心がけであり、これが世の中を円満に渡っていく極意なのである。

【教訓】
 即ち、「なすが儘
(まま)の精神」である。
 清王朝末期の偉人・僧国藩
そう‐こくはん/清の政治家・思想家。太平天国の乱平定に湘軍を率いて活躍。1811〜1872)は「四不」を取り上げて、こう云っている。
 「不激
ふげき/些細なことで、みだりに興奮しない)、不躁ふそう/事に当たって慌てたり、ばたつかない)、不競ふけい/人と無駄な争わない)、不髄ふずい/のろまでうかつなことや、軽薄なことをしない)」と云い、一喜一憂に振り回される有害性を説いているのである。

 また、宋代の哲学者・邵康節
しょう‐こうせつ/北宋の学者。易を基礎として宇宙論を究め、周敦頤しゆうとんいの理気学に対して象数論を開いた。1011〜1077)は、『伊川撃壌集(いせんげきじょうしゅう)』の中に、こう記している。
 「男子と作
(な)らんと欲すれば、すべからく四般の事を了(りょう)すべし。財、よく人をして貪(むさぼ)らしむ。色、よく人をして嗜(この)ましむ。名、よく人をして矜(ほこ)らしむ。勢、よく人をして倚(よ)らしむ。四患(よんかん)既に都(すべ)て去る。豈(あ)に塵埃(じんあい)の裡(うち)に存(あ)らんや」とある。

仏法無辺の図

 つまり、これを要約すると「一人の男らしい人間になろうとすれば、この四つの事柄を実行しなければならない。
 まず第一に、金や財利は人に欲しいだけ儲
(もう)けさせ、第二に女色は人に好きな様にさせておき、決して奪い合いあったりをしない。第三に名誉は人が自慢するに任せ、第四に勢力や派閥抗争などは人の勝手にさせておく。欲しければ全て与えてやればいいではないか。虐待されても忘れればすむことだ。何ごとにも煩(わずら)わされること無く、気楽にいきて行こうじゃないか。人間世俗を悩ます、この四つの病気を取り去れば、別に人生を落伍する人間ではない」と、他人に「讓(ゆず)る」という事を述べている。

 まさに天命を知る者が云える言葉である。
 学問と分析力の浅い人間ほど、「感情」に流され易い。感情的に物事を考える。それ故に、他人の財産、地位、名誉、愛欲、色欲、権力や派閥などが許せないのである。

 また、そうした考え方が、親分子分の関係や、派閥による力の抗争関係に発展していくのである。そうした関係は、真理を見失い、自己宣伝と派閥に偏
(かたよ)り、道理よりも利で動くようになる。損得計算で、黒を白とも云いかねない状態に陥ってしまうものだ。

 もし、真理を曲げ、利害や打算で、世の中の構造が組み替えられて行ったら、これは最早
(もはや)亡国である。時として、人間の浅はかな作為や繕(つくろ)いは、命取りになりかねないのである。

 また、「落ちた犬は打たれる」という諺
(ことわざ)がある。
 弱い者は、一度何かにしくじれば、益々酷
(ひど)い目に合うという喩(たと)えであるが、逆に強い者や羽振りのいい者には、尻尾を振って付き従うという、臆病者や卑怯者の愚行をよく現わしている諌言(かくげん)でもある。「勝てば官軍」なのだ。人が道理よりも利に集まる所以(ゆえん)であろう。

 世の中の概
(おおむ)ねは、この考え方で動かされている。まず何といっても、わが身一人の保身が大切なのである。わが身の安全を第一にする。ここに利害と打算が存在するのだ。
 憂身
(ゆうしん)に身をやつし、正不正の区別が付かなくなるのである。盲目に陥るからだ。そしてこのような浮利に聡(さと)くなると、体質は一変して脆弱(ぜいじゃく)になり不意打ちを恐れるような不安や悩みが付きまとう。

 凡夫
(ぼんぷ)は「不意打ち」をどう解釈するか……?
 可もなく不可もない人間は、恐らく突然の不意打ちを、単に異常な暴力と解釈し、その力が一体自分に何を企んでいるのか理解することは出来ないであろう。ただ突発的な固い拳が、訳もなく自分を襲ってきたと解するだけで、攻められた事だけに不快な爪の跡
(あと)を感じるに過ぎないだろう。そのくせ、何一つ、手出しの出来ない状態に陥るのは、実にだらしのない限りだ。

 格闘の中に「打たれ強い」という受動的な行動がある。
 打たれ強くなる為には、日頃の心の練磨が必要である。叩かれても動じない、肚
(はら)の坐(すわ)った不動心が必要である。これを失うと、口先三寸で悟りを開いたなどと称する自称論が飛び出してくる。こうした豪語に振り回されると、単に凡夫の動揺と何等変わらなくなるのだ。
 「なすが儘
(まま)」とは、不動心を得た人間だけがいえる言葉なのである。



●捨て去る真理

 作人無甚高遠事業。擺脱得俗情、便入名流。為学無甚増益功夫。減除得物累、便超聖境。(前集十四)

【書下し文】
 人となるには甚
(はなは)だ高遠の事業はなし。俗情ぞくじょう/世俗のありさま。名利を念とする情)を擺脱(はいだつ)し得れば、名流に入る。学をなすには甚だ増益の功夫(くふう)はなし。物累(ぶつるい)を減除し得れば、聖境を超えん。

【大意】
 ひとかどの人物で、真理を追求する者にとって、我欲
(高遠な事業や野望)は必要無いことである。我欲がよく/他人にかまわず、自己の利のみを欲する欲望)を捨て去ることが出来れば、喩(たと)え世間を驚かす功績がなくても、そのこと事態で一流の立派な人物に入ったといえるであろう。学問を志すには、世俗の雑音を遮断(しゃだん)するべきである。風潮や流行に振り回されず自己を確立するべきである。外物に囚(とら)われることなく、控えめを旨とし、減らすことが出来れば、喩(たと)え知識や才能に劣る点があっても、これだけで、既に聖域に達しているといえる。

【教訓】
 これは方に、禅で言う放下著
(ほうげじゃく)なのである。
 「捨て切れれば失う物がなくなり、心が楽になる」
 一方、「我
(が)に執着するから、柵(しがらみ)が多くなる」と。
 禅はこう教えている。

 何ものにも囚
(とら)われなければ、心はいつまでたっても自由である。整理するべき物は整理し、不要なものは排除して、過去からの引き摺(ず)ったものは捨て切っていかなければならない。

 「しがらみ」は人間にとって新陳代謝を促
(うなが)さない。これらは精神的動脈硬化の何ものでもないのだ。やがてこれが正常な柔軟性と自由を失ってガチガチな固執へと移行する。
 古い物も、過ぎ去りし日の思い出、過去の栄光などは、捨て去る中に、この世の現実がある。それを怠れば、生きながら屍
(しかばね)とならなければならない。一人の人間の人生を考えた場合、所詮(しょせん)、北風に舞う一片(いっぺん)の枯れ葉でしかない。しからば依怙地(いこじ)にならず、束縛(そくばく)されているものから全て解放されなければならないのである。

 ここに『葉隠
(はがくれ)(山本常朝の口述書)でいう「現世は幻(まぼろし)なり」という言葉が、鮮やかに浮かび上がってくる。瓢逸(ひょういつ)な「からくり人形」である現世の人間は、現世自体を夢の世と透徹しない限り、やりきれない仏教の輪廻転生(りんねてんせい)のような呵責(かしゃく)に悩まされ続けなければならない。

 それは丁度、天界の火を盗んだプロメトイスのように、神の罰としてコーカサスの山に縛
(しば)られ、五臓六腑をハゲタカに食い破られる、あの悶絶(もんぜつ)に似た苦痛を再び体験しなければならなくなる。そしてまた次の朝も翌々朝も、自己との熾烈(しれつ)な葛藤(かっとう)と、苦痛が続くのである。だから放下著(ほうげじゃく)は人間にとっては、必要不可欠なものになる。

 私たちの人生においても、捨てれば楽になるものは随分とある。しかし、肩書きや地位、名誉や財産、家族など、いろいろな重荷を担ぎまわって、悩み、苦しみ、迷っているというのが凡夫
(ぼんぷ)の悲しいところである。



●六分の侠気、四分の熱

 交友須帯三分侠気。作人要存一点素心。
(前集十五)

【書下し文】
 友と交わるには、すべからく三分の侠気を帯ぶべし。人と作
(な)りは、一点の素心を存するを要す。

【大意】
 友人とは三分の侠気をもって交わり、人間としては、純粋な心を失わずに生きるべきである。

【教訓】
 歌人であり、詩人である与謝野鉄幹
よさの‐てっかん/「明星」の刊行に尽力したことで知られる。1873〜1935)は、「六分の侠気、四分の熱」と、仁侠道の原点を、これに求めている。つまり、男気は弱きを助け強きを挫く気性に富むことでなければならないとしているのである。
 一方、洪自誠は「三分の侠気」として、低く押さえているが、やはり「おとこだて」を考えた場合、日本人としては「六分の侠気」があったとしても、それはそれでいいのではないかと思う。

 さて、昨今は「男気」を持つ清々しい、涼やかな人が随分の少なくなった。また、潔い人が非常に少なくなった。大半は決断力に駆ける腐れ人間である。また、クズが大きな貌
(かお)をして闊歩(かっぽ)しているのも、現代社会の特長だろう。

 仁侠が廃れ、男気が廃れれいる元凶は、現代人の個々人が、人は人、自分は自分と、自他離別の思考や想念が、人間を一周りも二周りも小さくしているところに、問題があり、これが不幸を齎
(もたら)しているように思える。

 自分以外の人間は、実は、わが鏡であると云うことを忘れているのである。他人とは、自分の心を映す鏡なのである。自分の眼に映る他人の映像は、木霊
(こだま)が答える山彦(やまびこ)に過ぎないのである。自他離別の心をなくし、相手に微笑みを懸けて話し掛ければ、相手もそれに応じて微笑み返す。
 友に接する場合も、こうした心の微笑みが必要だろう。そして、友が困っていれば、その全体の六分程度は物質面も精神面も肩代わりするような、男だてがなければなるまい。

 この男だてなしに、良好な友人関係は保てないのである。常に親しく交わることが許される「朋の関係」は侠気によって結ばれていると云っても過言ではない。



●戒慎への心の旅の始まり

 寵利毋居人前、徳業毋落人後。受享毋踰分外、修為毋減分中。(前集十六)

【書下し文】
 寵利
(ちょうり)は人前(じんぜん)に居ることなかれ、徳業は人後に落つることなかれ。受享(じゅきょう)は分外に踰(こ)ゆることなかれ、修為(しゅうい)は分中に減ずることなかれ。

【大意】
 人から受ける恩恵は控えめにして、他人より先に取ろうとしてはいけない。しかし他人のためになる徳業は率先して先に行い、他人に遅れを取ってはならない。また他人から受け取るものは、貰
(もら)うべきであっても分相応を越えてはならない。しかし自分の為(な)すべきことは、分相応減らすことなく、今までより一層に励まなければならない。

【教訓】
 民主主義の「自由」と「平等」の吐き違いと誤認識で、昨今は個人の自己主張のみが強力になってきている。基本的人権を取り違えた、個人主義が猛威を振るっている。我田引水的なことが目に余り、欲望むき出しの世の中である。
 未
(いま)だに肉体優先の時代であり、科学万能主義や物質文明の唯物的恩恵に預かることが当然のように主張されている。
 もしこの儘
(まま)、日本及び日本人が、世界の反感をかいながら、自国だけの繁栄と幸せを追い求め、邁進を続けるならば、反日感情は一層高まり、危険度は益々高まっていくであろう。

 自らを戒め、慎
(つつし)むことを忘れた国家と民族は、悲惨極まる地獄絵を見らなければならなくなる。それは歴史の証明するところである。
 分相応を忘れ、戒め、慎
(つつし)むことを忘れて、自分だけの幸福を享受(きょうじゅ)していると、大きな落し穴に落とされるということである。
 そして心すべき事は、自分は他人の世話を出来るだけ多くしてやり、他人から世話になる事は出来るだけ小さくしなければならないという事である。

 今日、私たち日本人の眼から観て、民主主義は正しく機能しているだろうか。
 ある人は正しく機能しているといい、ある人は特権階級の利益集団の思いの儘
(まま)に事が運ばれ、庶民にはその恩恵が回って来ないと言う。

現代人は下界の縮図の中で競争原理を露骨にしているが、その上には、清々しく、爽やかで「清らかな世界」があるこを忘れている。

 果たして民主主義は、庶民の願いに応えて、議会制の中で、正しく有能な政治家を持つ事が可能になっていると言えるだろうか。
 日本人庶民は、純粋さ故に、勤勉さ故に、知らぬところで、個人の願いは無視され、抹殺される運命が待ち構えているのではあるまいか。

 戦後の民主教育は自由と平等の名に於いて、エゴイズム
(悪しき個人主義)ばかりを強調し過ぎて来た。民主主義は欧米が日本に持ち込んで来た政治的社会的システムであるが、国民が愚民であれば、このシステムは「悪魔の道具」となる。
 現代人はこうした「悪魔の道具」の中で暮らしているのである。民主主義が、老いて、多くの腐朽を顕わしていることも知らないで……。

 現代人こそ、転換と模索の中で彷徨
(さまよ)っている生き物と言えよう。
 こういう時代には、人々は「人生とは何か」と問い、周期的に自分を見詰め直そうと、元の古巣に還
(かえ)って来るのである。つまり、自分の心の裡側(うちがわ)の探索である。

 そして、よりよき叡智
(えいち)を掴む為に『菜根譚』には、人生を生きる「生」そのものの智慧(ちえ)が集積されているのである。

 人は、自分の事業の業績や成功への努力をする前に、それとともに、「自分とは何か」と云うことを見詰め直し、それに向かって「努力する自分」の力の根元に立ち返る必要があろう。これが何よりも必要ではないのか。失敗にも抂
(め)げず、勇気を持って人生を歩いていく為に。
 そして、現代人は二十世紀において、眼に見える物だけを自然科学の対象にし、眼に見えない領域の物を、未科学と決め付け、オカルトとして捨て置いて来た。しかし、眼に見えない物を真摯
(しんし)に解明する姿こそ、本来の科学者の姿ではなかったか。

 不可視世界や、眼に見えない、手に触れられない世界は、今日でも波動の研究と倶
(とも)に、決して非科学の領域にあるものではない。未だに解明されないジャンルに入るものだ。
 二十世紀の科学や、社会科学と云う唯物史観に振り廻され、眼に見えないものを切り捨てて来た事を考え合わせれば、未科学の分野は、まだ相当に残されていると言える。

 実は、「命」というものも、眼に見えない存在だった。
 現代人は永らく、「命の根元」という物を見失っていた。現に、現代医学においても、医学者達は「命」そのものを研究する、研究媒体にはなっていない。また現代医学で、「人間と言うもの」を学んだり、「生きると言うこと」について、この学問から、医学者達は一度も教わる事はなかった。教育で、「見えない心」を扱うのはタブーであったからだ。

 しかし、二十一世紀に入って、その時代の目標として、「見えないもの」から価値観を学ぶことは大事であろう。
 心の眼で見詰め、心の耳で聴くことは大事であろう。そうした「眼に見えないもの」が、やがて形を変えて、「眼に見えるもの」になるのは必然的な流れのように思う。
 人生を形成する、そのこと事態も、実は「眼に見えないもの」である。

 仏道では、この「眼に見えないもの」を「色即是空
(しきそくぜくう)」の言葉で顕わしている。人間の眼は、外に向けられている為、「見えているもの」と「見えてないもの」を区別している。
 ところが、このように区別されながらも、実はこれ等は同根であり、僅かでも切り離せないものであると言う事が分かる。
 現世とは、唯物史観で追い掛けて、「眼に見える物に価値観を抱く自然科学」だけではなく、自らの裡側
(うちがわ)に眼を向けなければならない時期に来ているのである。

 つまり、「眼に見えない心」を探究する時代に入って来たのである。
 二十世紀は唯物史観で思考する考え方が横行した。しかし、これも虚構の一つである事は、今、明らかになっている。それにも関わらず、多くの現代人は、この虚構理論を信じ、自らの裡側
(うちがわ)の世界には目もくれず、その外側に多くの価値を求め、権威に縋(すが)り、そのことをまるで勲章(くんしょう)を頂くように誇らしく思って来た。

 では、その起源はと遡
(さかのぼ)れば、人間と言う水冷式哺乳動物が、二本の脚で歩き、重力に逆らって、動く事のできる物質文明に至る姿の延長線上に、その価値観を見い出した時だったかも知れない。
 しかし、二十世紀に求められた、外側の価値観は、所詮、可視世界の三次元空間から出る事が出来ず、可視世界の中で崩壊寸前になっている。価値観が変わり、時代遅れとなって、老朽化したのである。
 だからこそ、戒慎の心が必要不可欠であり、自分自身の裡側を探索する「気付きの旅」を始める時代が来たと言えよう。



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