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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 2
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旅の衣・前編 56

物事の多様性は一見いいことのようで、実は中心から急速に分離している実情を顕している。
 拡散と膨張を急速に深めているのである。そして、外側には目を向けるが、裡側に向かう自己探求の目は退化させている。


●松子のフランス革命史

 この日、松子と門司港に来ていた。午前八時頃である。朝の夏の陽射しを浴びて爽やかな時刻だった。それに頬(ほほ)を撫(な)でる海風が何とも心地よい。
 この日、松子を此処に伴ったのは家庭教師の呼び水として、彼女に一役買ってもらうためであった。
 一時間ほど前に到着したので、門司港から関門海峡を臨んで雑談を交わしていた。
 彼女と話すと、なかなかおもしろい。四方山話
(よもやま‐ばなし)でも、異次元の高等生物を接している観すらある。
 私の胸算用には、母の入院ならびに治療に関する医療費を弾き出す必要に迫られていたからである。
 松子はそのための呼び水工作を担当する。私の企む山師的な、家庭教師指導戦略の「策」として、その工作員を遣ってもらうためである。
 二人は夏の直射日光を避けて、公園内の後嗣のサンルーフのついたテラスの椅子に腰掛け、海峡の急流を視ながら雑談を展開していた。だが松子は、小倉で大道芸の味をしめていらい、このメトロな街でも一発大道芸を遣ると言うのである。彼女は能管を確
(しっか)り携えていた。
 母は恢復
(かいふく)の兆しが見え、もう少しすれば自宅に戻れる状態にあった。その母を、松子はよく世話してくれた。約束は確実に履行されていた。大道芸は、入院費の金策工作のための掩護射撃か。それにしても有り難し。

 「健太郎兄さんの先祖。平家一門ですってね、わたし関門海峡を観てみたい。その景観を臨んでみたい」
 松子のいい出すような言葉であった。それが奇しくも家庭教師に出掛ける日曜日と重なった。家庭教師は日曜日の午前九時から正午までの二時間である。
 そもそも松子を伴ったのは、かつて彼女が、東大理三の受験を仄めかし、以下のことを言ったからだ。
 「東大理三に合格した暁
(あかつき)には、健太郎に齎される莫大な利益の相乗効果。
 まず難関校突破の合格者を出すことで、健太郎の株が上がる。株価は高騰する。田舎の医者の子弟は、われもわれもとなる。笑いが止まらぬ構図だ」と。
 とんでもない唆
(そそのか)しであった。しかし、その可能性も無きにしも非(あら)ずだった。そう思って個別指導大学受験の『うちの看板娘』を伴って、門司港の高台にある国鉄幹部職員官舎の、さるお屋敷へと松子を連れて来たのである。勉学する者同士が互いに磨き合う「砥石効果」を狙ったまでである。
 これは昭和40年代から平成初頭当時の大学予備校を想像してもらえば、その効果が大であることが想像に難くない。

 この時代の予備校の特長は、講師が落語家か漫談師宜しく、教室というステージで受講生を散々笑わせ、授業に惹き付け、集中させるという目的をもって、予備校講師はまた落語家然しているか漫談師然としていなければならなかった。授業で笑わせることが講師に課せられた任務であった。笑わせる毎に針が振幅して、監視側の記録装置に記録され、それが講師の人気度に反映され、講師料の人事考課の能力基準とされた。
 おおよそ名物講師と言うのは、その種の話術をもった術者であった。こうなると当然、朝っぱらから酒やビールを喰らい、一杯気分で素面
(しらふ)では喋れない珍授業をする。不届き千万である。だが受けた。
 現に、この不肖私も数学や物理の授業で、生徒が面白半分に教卓に十本ぐらいの缶ビールを置くので、つい手が滑って、朝からアルコールをかっ喰らって授業をしたことがある。そして正午頃になると、すっかり出来上がっている。
 職員室に戻っても酔いは醒めず、他の講師からは顰蹙を買い白眼視された事があったが、何しろ私が、わが予備校の理事長であり、ゼミナール塾長であったから面と向かって苦情を言う職員は居なかった。
 白眼の視線が気になったときには理事長室に籠って、もうそこから一歩も出て来ない。酔いを醒ます時間が必要だからだ。そういうクレージーな、お山の大将の予備校を遣っていた。倒産するが当り前だったかも知れない。あるいは銀行にも顔向けできない、会社経営を甘く見ていたのかも知れない。
 生徒を笑わせ、惹き付ける授業。だが、これだけでは成就しない。漫談を聴きにくる生徒の成績はぱっとしない。向上の兆し皆無。
 そこで、静粛・静寂の中で自己の自立学習を企てる策が必要となる。その苦肉の策が「図書館」という大部屋教室であった。だが図書館と名が付いていても、別に沢山の書籍を閲覧できる場所ではない。机と椅子だけの徒広
(だだっ‐ぴろ)い空間があるだけだ。図書館とは生徒が入って、黙々と自習を始める装置である。その装置と個別指導の学習法は類似点があった。つまり暗黙の中で、生徒間通しの勉強に対する意地に張り合いが起こる。人間は心理分析すれば、嫉妬、羨望、裏切り、陰謀、脅し、揚げ足取り、あるいは足の引っ張り合い、出し抜きなどの低次元の想いの塊の生き物である。
 「あいつがあれだけ頑張るのなら、早々と退出してたまるか」というような、意地の張り合いが生徒間同士の勉学に対する姿勢を刺戟するのである。その「砥石効果」は大きかった。利用しない手はない。

 このとき授業開始の時間には、まだ早い時刻で、関門海峡の見える高台の公園に来ていた。そこから関門海峡は一望できる。園内には戦艦大和の47cm主砲の弾丸が立てて飾ってあった。この朝の時間、公園には散歩客がちらほらいた。

 「松子」
 「なあに?」
 「おまえ、旅鴉
(たび‐がらす)だったよな?」
 「旅鴉って?」
 「縞
(しま)の合羽に三度笠というやつだよ」
 「ひとをヤクザか、渡世人のようにいわないでよ」
 「しかし渡り鳥だよな?」
 「渡り鳥って、なによ!」尖
(とが)ったように訊き返した。
 「今、おれのうちに草鞋
(わらじ)を脱いでいるが、そのうち何処かに旅立つのだろ?」
 「それ、仮初
(かりそめ)の雨宿りか?と訊いているの」
 「違うか?」
 「そうかも知れない。今は蜜月のようなもの。何もかも愉しい。知らないことが一杯ある。
 でも、やがて色褪せる。朽ち果てて行く。人は同じ処に長居できない生き物。この世という娑婆も同じ。
 此処は仮の住い。安住の地ではない。雨の日の軒先を借りた一時凌
(しの)ぎの雨宿り。雨が上がれば、軒から去って行く。人は人生の旅人。わたしも同じ。そして現世と言う娑婆も、人が旅する仮初の場所。そう考えると、わたしも旅鴉かなァ……」
 「おまえに去られると寂しいな」
 「でもね、人生に四苦八苦ありというでしょ。特に八苦には生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせたものがあって、その中に愛別離苦の惜別がある。それは則ち訣別。いずれきっぱりと別れなければならない時が来る。健太郎兄さんだって、そういう中で生きて来たでしょ」
 「別れの苦しみというやつか?……」
 「これを寂しいと思うのでなく、次の幸福への第一歩と捕らえればどうかしら」
 「おまえには、いつも諭されるよ」
 「じゃあ、今度は由紀子さんから、諭されてもらいなさいよ」
 「しかし、そうはおっしゃいますがね」
 「どういう意味?」
 「いろいろと事情があって、難しいんだよ。世の中はそれほど単純で、ハッピーエンドで終わらないんだ」
 「どうして?」
 「さあ、どうしてかな……。なぜか迷いが出て、おまえもなかなか捨て難いしな」
 「二股、かけているの?」
 「違う。軽率な愛だの恋だのでは無い。心から慕う気持ち。つまり忍ぶ恋。簡単には明かせないもの」
 この説明は一口では言えないだろう。頭脳明晰の松子にも、二口や三口で語っても分かってもらえまい。
 人生は旅往
(い)く人で溢れている。それは、あたかも若山牧水の『幾山川越えさり行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく』を髣髴とさせる。牧水のこの歌は、また種田山頭火の愛唱歌でもあった。
 牧水のこの歌を復唱する度に、脳裡には山頭火が網代笠を深く被り、雄大な南アルプスを背景に、頭陀袋を首に掛け、旅の法衣
(ころも)に身を包み、錫杖を突いて甲州路を急ぐ、一人の禅僧を想い描くのである。私の一番好きな想像風景であった。
 そして、また一人の奇人的な武芸者・真田拳雲斎が、「天下無敵」の看板を背中に掲げ、貧弱な桃の木の杖に信玄袋を担い、諸国行脚
(あんぎゃ)の武者修行の武士を髣髴とさせるのである。この二人の共通点は乞食(こつじき)であった。
 私の場合は乞食ランクを一段落して、「ホイトウ」として、自分自身の旅する求道者を模索して旅をする幻想まで取り憑かれてしまうのである。私も、松子と同じような渡り鳥かも知れない。

 「それ、わたしを女として見ているから?」
 「そうかも知れない。おまえは、何しろ器量好しだからな。好みは面じゃない。違うかも知れない。この説明、一口では難しい。また、二口でも三口でも難しい。牧水の“幾山川越えさり行かば”のあれだよ」
 そして一言付け加えれば、《おまえは確かに、おれの慈母なんだよ》と言ってやりたかった。
 「寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく……か。ああ、いいなァ、旅って」彼女は旅への憧れのような気持ちを吐露した。
 松子の記憶するレパートリーは、理数系のみならず、文系なども包含して広大な領域を占めていた。
 「おれは無性に乞食に憧れるんだ。だから、おまえが渡り鳥であることも理解している。しかし……」
 「なあに、しかしって?」
 「いや、よそう」
 「じゃあ、行くぞ、健太郎。感傷はそこまででいい。さて、今日も旅ゆく……だぞ」松子が叱咤するように言った。その意味では、確かに慈母であるかも知れない。
 「おい、変わり身が早いぞ。蹤
(つ)いていけんではないか」急転直下にあんぐりとせざるを得なかった。
 「甘えは、そこまで!」まさに慈母であり、彼女に母性を感じずにはいられなかった。だが、図に乗って甘えが過ぎたりすれば、置き去りにされないという何の保証もなかった。気になる点である。気付いたら、知らぬ間に飛び去っているかも知れない。

 「わたしは子供の頃から、子平に連れられて旅をしていたの。その宿先の多くは街道筋にある中條流の道場であったり、また筋者・親分衆の邸宅であったりした。旅から旅で、その街のことをよく知らない間に、また余所
(よそ)の街に行く。わたしには、その街を知り尽くしてない悲しみがあった。いつも思うことは、知るとは何だろうと思ったこと。
 一つのところに長く棲
(す)んで、そこに棲む人を丹念に知ることによって、街を知ると言うのが、わたしは生きることと思っていた。でも、旅の渡り鳥はそれが赦(ゆる)されなかった。そしてわたし以外にも、そういう人達がたくさん居た」
 「世間師のことか」私は年から年中旅をしている露天商、旅芸人、大道芸人、香具師、薬売り、包丁研、鍋釜の修繕屋、襤褸
(ぼろ)買、托鉢僧などのことを訊いた。
 「その人達は棲んだと言いながら、実は何も知らないままで一生を終える人が多かった。何も実体を見抜かぬまま多くの人は時間を無駄に浪費し、老いて死んで逝った。その死の中に、子平の死もあったの。そのときわたしは天涯孤独となった。子平のあとを受けて、安田組の食客となり鉄砲玉を引き受けた……」と松子が、これまで訊かないことまで告白したのである。
 これは、私に下駄を預けたと言う意味だろうか。

 「何処に棲み付いて食客となっていたのだ?……。それに奴らは、おまえが女だと知っていたのか?」
 「そういう隙は見せなかった。男として振る舞い、ヤッパの妙を面前で披露し、人斬りとして息巻いた。それだけで恐れられた。誰にも気付かれていない。毎晩、組事務所の片隅の一劃
(いっかく)で、転(うた)た寝をするような毎日。そして少しばかりの残飯のような餌が投げられる。それで飢えを凌(しの)いだ。
 でも、それは子平の教えたサバイバル術の一つで、生きるためには、食べ物は盗んでも食べて生き抜けと教えてくれた。言ってみれば過酷な日々だった。そのとき子平が、抗争事件の出入りで斬られて死んだ。
 そのあと、健太郎兄さんを付け狙う仕事が舞い込んで来た。依頼料は五万円」
 「なに!たったの五万円でか?」この低料金に驚いた。なんと安値。
 「まず斬り殺して、ドラム缶詰め、洞海湾に沈める依頼」
 「これは驚いた。おれの命は、たったの五万円か。で、おれの命を幾らと思っているんだ?!」
 私は余りにも、わが命の価格が安価であることに腹が立って来た。もう少し、色の付け方はあるだろう。せめて百万円とか、二百万円とかの値段はつかないものかと呆れ果てたのである。頭のある賞金稼ぎなら、こんな廉価な仕事は絶対に受けないだろう。なぜ松子は引き受けたのか?……。
 「やつらの鈍眼で、そのように値踏みされたのだから仕方ないわ。文句はやつらにいって」
 「その金、受け取ったのか?」
 「着手料の前金として一万円だけ」
 「なんだと?!すると残りは?」
 「ドラム缶詰めして洞海湾に沈めることが完了して、残りを貰うことになっていた」
 「なんと、ふざけた話ではないか。これは悪徳資本家の労働者搾取よりも酷い話だ。もう、小林多喜二の『蟹工船』の世界ではないぞ。超搾取だ」なんとも呆れるて、実にバカバカしかった。
 同時に、私の命がたったの五万円というケチな値段を付けた安田組のバカどもに頭に来た。これだけで怒り心頭に来て、義によって助太刀するだけの充分な犯行動機となる。もし、官憲に逮捕されたら、この事情をぜひ拝聴させてやろう。「あんただったら、どう思う?」と。おそらく官憲も同情するだろう。
 僅かばかりの一万円では、松子は直ぐに遣い果たしてしまった筈だ。私を尾行したときには、一文無しになっていたのだろう。駄菓子屋で、アイスクリームを私が買ってやったとき、飛びつくように貪ったのは、そのためである。腹を空かせたのであろう。そして穢
(きたな)い身形をして、ルンペン化していたのである。
 あのとき浮浪者のような匂いを嗅いだのは、飢餓寸前だったからだ。何日も喰ってなかったのだろう。

 「でも、わたしには勿体無いような転機が訪れた。それが、健太郎兄さんとの邂逅
(かいこう)だった。それにお母さんとも。生まれてはじめて、安らぎを得るような幸せを味わった。はじめて水を得た魚の感触を味わったわ。一瞬、安住の地に辿り着いたような錯覚を覚えた」
 「だったら、錯覚したまま、母と一緒に居ろ」
 「でも渡り鳥は、何れ飛び立たなければならない」
 「なぜ急ぐ?」
 「あまり娑婆に長居すると、飛び発つ羽が退化して、もう飛べなくなるわ」
 それは鳩に譬
(たと)えると、伝書鳩やレース鳩と、寺の屋根に居る鳩では同じ鳩でも羽の強さが違うからである。この種の鳩は、何千キロを飛ぶ伝書鳩や、何万キロも飛ぶレース鳩とは羽の強さが違うからである。
 また伝書鳩でもレース鳩でも訓練を止めてしまえば、瞬く間に長距離を飛ぶ羽を弱め、ついには退化して寺の屋根などに居る鳩に成り下がってしまうからである。

 「飛べなくなっても、いいではないか」
 「でも、まだ発たないわ。一つの街を知り、一人の人間を知る。この小さな、わたしの事業が、まだ完成してない。だから未
(ま)だ。もう少し時間が掛かる」
 「そういうものなど、完成させなくていい。おれも、母も、謎だらけの、分からず仕舞いの人間として、いつまでも探求してろ。そうすれば、やがて羽も退化して、足に根が生え、根無し草の生活から足が洗える。もうヤクザな生活から足を洗え」
 「それも、いいけど、そう言うわけにはいかない。でも、参考意見として保留はしておくわ」
 「一生保留して、足に根を生やせ。そして、これから大学へ行け。もっと学べ。おれが確り、志望校へと送り届けてやる。おまえ自身の人生だ。胸臆
(きょうおく)を行うがいい」
 「それも参考意見として、有難く聞いておくわ」
 松子は、なぜ飛び急ごうとしているのだろうか。そのうえ分からないことが多い。
 本籍地が何処にあるのか、住民票の住所が何処なのか、それを訊いたが、明かしてくれなかった。
 だが、娘々
(ろうろう)とした乙女の気性を取り戻したことは疑いようもなく、それだけは嬉しかった。

 松子は、海峡を視ながら『平家物語』一幕を能管で吹いてみたいと言う。木戸銭集めは、ともかくとして、これこそ松子に相応しい場所はないだろう。彼女の能管が最も相応しい風景である。
 わが先祖は平家一門。この壇ノ浦で敗れた。そして一武者となり、玄界灘を南に下り、長崎県平戸に流れ着いた。私の苗字の「岩崎」は、わが一族の言い伝えによると、「岩の先から上陸した」ので岩崎という。そのように父母から教えられていた。遠い先祖は平清次白旗越前守敦貞
(たいら‐の‐きよつぐ‐しろはた‐えちぜんのかみ‐あつさだ)にはじまるとある。その血の何十代か後に、私もこの血の中から生まれて来たのである。思えば不思議なことであった。
 私まで、血をリレーするそれぞれに時代の先祖は、一人も欠けることなく、私へ血を伝える能力を持っていたことになる。このうちの何百人か何千人かは知らないが、一人の男女も欠けることなく、現在に私を出現させる因子を持っていたことになる。途切れなかったことは、優秀と驚嘆する他ない。
 壇ノ浦……。
 思えば胸を熱くする。遠い先祖の落ち延びて行く敗路を思えば、無念の涙に誘われる。
 文治元年
(1185)三月二十四日、長門壇ノ浦で行なわれた合戦に平家は敗れたのだ。そして平清盛の妻・二位尼(にい‐の‐あま)は安徳天皇を抱いて海水の中に身を躍らせた。平家は全滅したのである。
 しかし、今は昔の壇ノ浦。遥か遠くの、夏海や兵どもが夢の跡だった。

 彼女は相変わらず、県立T高校の夏用のセーラー服を着ていた。化けると言うより、完全に初々しい女子高生そのものだった。何処から見てもである。見事に一体化していた。
 一見すると、化粧をしていないためか、十五、六の可憐な小娘に見紛
(み‐まが)う。
 一発大道芸を遣る直前のことである。
 「こういう月並のことを訊くのは、些か憚
(はばか)れるが、質問は、可か不可か」
 「質問によるわ」
 「在り来たりなことで、尊敬する人物は誰かなどではない。すばり信奉者が誰かと訊きたい。可か不可か」
 「どっちだと思う?」
 「そういう謎掛けは、趣味が悪いぞ」
 「では、いうわ。急進的緞帳
(どんちょう)役者以外だったら誰でも。つまり気障で、エエカッコシーだったら誰でも信奉の対象。でも急進派は頂けない」
 「ほーッ、おもしろいことをいう」
 「では、それを何処で学んだ?」
 「フランス革命史で。だからロベスピエールは大嫌いだけれど、シャルロッド・コルデーは大好き」
 ロベスピエールはルソーの影響を受けた革命当時、ジャコバン・クラブで活躍し、のち山岳派指導者になった理想主義者だったが、一方シャルロッド・コルデー
(ジロンド派の女性で当時25歳)は匕首(あいくち)一つもって憂国の情に燃え、ジャン・ポール・マラー(革命家でもと医者。ジャコバン派指導者で国民公会議員。当時50歳)を刺しに行く。
 「あの有名な、見目麗しき若き貴婦人のことか」
 「そういう外側でなく、彼女の中身。そして、のちの法廷での毅然とした態度」
 「それを訊こう」
 「シャルロッドはフルネームをマリー・アンヌ・シャルロッド・コルデーといい、貴族の生まれでありながら家は貧しかったと。そしてカーン市に、伯母と一緒に棲んでいて、十七世紀の悲劇作家コルネーユの曾孫に当ったんだって。それから時代を経て、シメーヌやポーリーヌのような英雄悲劇の女性は、今度は実在のシャルロッドという女性に蘇
(よびがえ)るの。一人の人間の死は万人の生。その一点のみで、清くはあるが、狭い志操と一徹な女性によって、不幸を招く革命悲劇。悲しくで、何とも言葉を失ってしまう……」
 「おまえ、シャルロッドを自分に重ねていないか」
 「そうかも知れない」
 「だが、鉄砲玉は卒業しろよ。それが分からぬ、おまえではあるまい。もし、おれを刺したいのなら刺されてやってもいい」
 「なにをバカなことを。疾
(と)っくに目が醒めたわよ。それに、約束したでしょ。約束は義理堅く履行する主義なの。お母さんも、この頃、やっと歩けるようになったわ」
 「おまえのお陰だ。感謝している」
 「わたしの変化の中には、健太郎兄さんのお母さんが大きな存在なの。それに周囲の人達。これまで、わたしが見てきた人達とは違っていた。だれもが事実を直視する能力があるみたい。ならぬ事はならぬとして、諦めがいいと言うか、じたばたしないというか、妙に落ち着いていて冷静というか。特に由紀子さんは、そういう人。彼女ね、覚悟するときは覚悟する。怒るべき時の怒らない無機質な人間ではない」
 「いい観察眼しているよ」
 「そして、ちゃんと有機的生命体として機能する心を持っている。もし将来、そういう道が、わたしにも開けているのなら、彼女を真似たい。同じ路を進んでみたい。私の目指すのは、シャルロッド・コルデーのような生き方ではないわ。由紀子さんのような生き方」
 「じゃあ、真似ろ。おなえの頭なら、それが充分に可能なはずだ。おまえは血筋も頭脳も抜群だ。奢らなければ、由紀子など問題ではあるまい。直ぐに追いつき、追い越してしまう。そういう異能を秘めている」
 「お褒め頂いて光栄だわ。でも、他にある。健太郎兄さんのような、痩せ我慢、わたし、嫌いでない。
 心の中では、欲しいのは山々なれど、しかし見栄を張って、心の何処かで、『バカにするな』と怒鳴っている気構え、好きだわ。一見欲望に走るように見せ掛けて、実はそうじゃない。何か別の目的があるみたい。
 山師も、おそらく目的のための手段に思えてくる。そうじゃないかしら?だから貧乏なのね。つまり貧乏という冒険がしたいんでしょ、奇を衒
(てら)うような」

 「そう。おれは貧乏。超貧乏人。それも清貧などとは程遠く、また赤貧でもない。むしろ濁貧だな。濁りに濁りまくっている。だが濁貧にも意地がある。貧乏だって、一種類だけでなく、それぞれ三種類を、いろいろ味わってみて、それではじめて貧乏の本当の醍醐味がわかるんだ」
 「それが痩せ我慢。一旦怒ると損得なし、勝ち負けも問題ではない。痩せても枯れても岩崎健太郎と言うところがある。武士は食わねど高楊枝かしら。それを自覚しているだけ、まだ救われる……。わたしは、それが人間としての基本姿勢というか、大切な感性と思うの。どうかしら?」
 「ああそうだ、おれは根っからの貧乏症。先祖は壇ノ浦で敗れ、落ち武者として平戸に流れ着き、代々松浦
(まつら)公に仕えた平戸藩士。軽輩なれど武士の端(はし)くれ」
 「それ。もしかすると、壇ノ浦以来の負け癖からきているんじゃないの?」
 「ああ、そうだよ。先祖の負け癖の血は、おれの中にも、確りと遺伝子として伝わっているよ」
 「でも、ねえ。負け戦を平気で遣るの、よくない。もっと頭、遣って、奇手を出さなきゃ」
 「おまえからは、いろいろ教えられるよ」
 「今度は、わたしの方が訊いてもらいたい事がある」
 「なんだ?」
 「わたしがフランス革命史に興味をもったのはね、処刑されていく人の態度なの。フランス革命はソクラテス版の血祭りのオンパレードだった。そのなかに、多くのパリの婦人たちも処刑されていったわ。その処刑された婦人の中にニコルという十二、三歳の少女が居たの。彼女はね、全く処刑されるような罪がないのよ。
 ただ以前、処刑されるある婦人に、お弁当を届けただけなのよ。それだけの理由で殺されてしまった。全く酷い話。
 処刑される当日、いよいよニコルが処刑される番になった。断頭台の上に俯せになり、でも極めて冷静で落ち着いていたの。そして自分の俯せ具合が、それでいいか、刑吏に「おじさん、これでいい?」と訊
(たず)ねたんですって。
 この光景を見た人達が、ギロリン死刑なんて毎日見ているくせに、このときばかりはまともに視れなくて、この光景の異常に、ショックを受けて気絶してしまう人が続出したといわれている。わたし、思うの。
 死を見ること、帰するが如しの覚悟。それも、ニコルと言う少女は、それを覚悟とさえも知らぬ、破天荒な態度に、周囲の人たちは度肝を抜かれたと思うのよね。この松子説、どう?」
 「いいね。悲愴感が胸中にあって」
 「よく、現代の人は長生きしたがるでしょ、人生の目的は長生きに意義があるように。人生イコール健康寿命に結びつけてしまっている。わたしから言わせれば、『命長くして恥多し』としか思えてならないの。
 それは死に臨んで、じたばたする態度でないかしら。
 現行法の成人定理は、身体年齢が、成人と言う年齢に達した人を大人というけれど、却
(か)って十二、三歳の少女の方が大人以上に、また老人以上に、死生観を超越しているのではないかしら。
 きっとね、ニコルは、革命がハッキリと血祭りの祭典と映ったとき、彼女はその現実を直視し、肯定して、多くの万人が難しいとされる生と死の境目を無心のまま、易々と超えてしまったのじゃないかしら。
 これこそ、わたしに言わせれば、まぎれもなく大往生と思うの。どう思う?」

 「おまえ、それをフランス革命史から学び取ったのか?まったく恐れ入るよ。おまえの話を聴いていると、そのニコルと言う少女は、大人が既に失ってしまった能力を持っていたのだろう。おれも、これまで多くの葬式に参加したことがある。この種の儀式は涙を誘うものだ、形式だがな。
 葬式と言うものは、中国の葬式史からも分かるように“泣き婆”という職業老女がいるんだ。泣く専門に担当する葬式屋のスタッフだ。
 だが、ニコルの死は、泣き婆の溢れ出る涙すら、忽
(たちま)ち乾かしてしまう清々しさがある。おそらくその少女の廻りには、祝福された清風が吹いていたに違いない」
 私は松子に《おまえも同じような風が吹いている》と付け加えてやりたかった。
 もしかしたら、私自身、卑しい下心で松子を観察しながら、その震いつきたくなるような助平根性の衝動に駆られながら、何故か、いざとなると慈母のような母性を感じるのは、そのためかも知れない。

 「ねえ、健太郎兄さん」
 「うん」
 「わたしね、子供の頃、人間は一生の間に受ける幸せと不幸が、それぞれ相反し、拮抗していると感じて事があったの。それは、健太郎兄さんがいつも言う、人生は『プラス・マイナス・イコール・ゼロ』という人生の『貸借対照表』の辻褄合わせが働いていると思うから。
 これまで、わたしの子供の頃に感じていたわたしの仮説は、いま聴かされて、得心するに至ったの」
 「人生の帳尻合わせは、プラス・マイナスでほぼ釣り合っている。したがって、一方的に得をすることもないし、一方的に損をすることもない。人生の総決算、つまり死ぬ刹那
(せつな)だが、必ず最後には、帳尻合わせが起こって、それが何ぴとにも働いているんだ」
 「だからね、わたし。何かいいことが続くと、異常な状態が起こり始めていて、そのあと、とんでもないことが起こるぞと思う癖がついてしまったの。いいことが続いても、手放しで喜んだりしない。それを、魔の前触れと考えるようになったの。俚諺
(りげん)に、好事魔が多いというでしょ」
 「その通りだ。だからこそ、好事が起これば有頂天に舞い上がらず、自らを戒め、慎み深くしなければならない」

 「同じこと、子平が言ってた」
 「訊くが、子平とは如何なる人物か」
 「子平は、姓名を子平直政というの。わたしの後見役。お城で言えば、城代家老と言うところかな」
 「やはりおまえは、やはり姫君だったか。世が世ならば、おれなど近寄れんところだ」
 「今は没落した旧華族の家。俊宮家は応仁の乱で手柄を立て、時の朝廷から正位
(しょうい)を賜(たまわ)った武将あがりの貴族と聴いているわ。わたしが知っているのはそこまで。
 大東亜戦争の敗北で、俊宮家はGHQの農地改革と、昭和22年の今の現憲法により廃止され、父は公職追放され挙げ句、軍国主義者の槍玉に挙げられ、捕虜虐待の罪でB級戦犯で絞首刑になった。土地も財産も総て没収。母も父のあと追った。その後、一家は離散。公職追放は、政界、財界、言論界の指導的地位から軍国主義者や国家主義者などは悉
(ことごと)く、追放され、俊宮家の土地家屋や財産はみな奪われた。
 わたしが物心ついた頃、世界の革命史の中で、フランス革命に興味を抱いたのは、その頃からかな。十歳前後の、それくらいの年齢だった」
 「GHQの覚書に基づき、日本の平和と民主化にとって、不適格と看做
(みな)された軍国主義的や国家主義的な弾圧か。併せて、アカ狩り(red purge)だな。戦争の負けた日本の、戦後の一つの大きな悲劇だな」

 「だからね、わたし、不幸だと実感した時、苦しみながら、心の中で不幸を歓待しているの、次からは反作用で、きっとよくなるぞって」
 「いい心掛けだ。そういうのを、運命に『貸し』を作るというんだ。この世は、『プラス・マイナス・イコール・ゼロ』と加減法が成り立つん世界だ。そもそもだな、公平かつ客観的で合理的な評価など、この世にはあり得ない。公正であろうと、真面目で正しかろうと、嘘をつかないと自負しようがしまいが、そなんことは考えなくていい。人生の評価は行いではない。評価は、運命に『貸し』が有るか無いかに懸かる」
 不幸を経験した分だけ、運命に『貸し』があると言う事である。
 運が悪かったり、ついてないときには、じたばたしたり、泣き叫んだり、嘆いたりせず、それを正面から受け止め、運命に「貸しを作った」と思えばいい。否、思うのではない。事実として確信するのだ。
 運命は自分に貸しを作ったのであるから、やがて返さねばならぬときが来る。不運を背負った分だけ、運命はその『貸し』を返さねばならぬ義務が生まれる。これは決して荒唐無稽
(こうとう)なことではない。この世には確りと、作用と反作用の法則が働いているからだ。

 「よくわかるわ。だからね、最初に出来るだけ不幸の絶対量の割当て分を早くを終えて、あとは幸福を楽しむぞと、その他の不幸と相殺させて辻褄合わせすることにしているの。諺
(ことわあざ)でも言うでしょ『苦あれば楽あり』と。だからね、忍び難きを忍んで、耐え難きを耐えて。そしてね、某かの羞恥心を自覚し、感傷も損なわないように、清濁も、善悪も、総て綯(な)い交ぜにして、まあ、今のところは悲しい輝きしか発することが出来ないけど、でも本当に幸せの到来ってあるのよね。現代人のように、楽しみだけを前倒しにしたり、先取りしておいて、楽あれば苦ありというこの地獄、本当に恐ろしいと思うの。これこそ無間地獄。
 例えばね、ローンで海外旅行したり、宝石を買ったり、大ローンで家を建てたリ高級車を買ったり、それを散々使用しあとの使用後には、いったい何が残るのかしら。多額の借金の二重三重の多重債務でないかしら。
 わたしは、今を忍んで、我慢して、辛抱して、そのあとに幸せが遣って来ると思ってるの」
 「その兆し、お前には到来している。今が一番美しく。そのまま輝き通して、終盤まで持ち込め」
 「わたし、嬉しい。そう、言ってもらうと、本当に嬉しい」
 「嬉しいときには喜ぶものだ。お前のような、いい女。助平根性で眺めても、やはりいい。人間で生まれて来た以上、喜怒哀楽を経験せずして、何を経験する。それとも、家畜か、あるいは社畜か。そういう経験は重荷と柵
(しがらみ)を抱え込むだけだ」
 「うん、分かるわかる」
 「人間が、家畜化されて飼われるために生きている人間牧場の豚
(ゴイム)ではないのだぞ」

 「だから、近世のゴイム
(豚で啖われる者の意)の始まりが、フランス革命には書かれているわ。
 フランス革命史を研究すると、断頭台の露と消えた人達は、王侯貴族から一般庶民まで無数の人が処刑されたわ。その中の多くの人は、最後の態度が立派だったとある。ルイ十六世も立派だった。その妃マリー・アントワネットもよ。彼女はさすがマリア・テレジアの姫君だけあって、羞
(は)じぬ最期を迎えている。みんな大往生だと思うの。
 その中でも際立っていたのが、マリー・アンヌ・シャルロッド・コルデーだった。だからシャルロッド・コルデーは、わたしにとって、格別な尊敬する女性なの。彼女は貴族として凛
(りん)としたところがあった。
 わたし、その禀としたところが大好き。
 死ぬ潔さは、何も日本のサムライの腹切りばかりが専売でないように思うの。そういう人は、洋の東西を問わず、時代を超えているみたい。でもね、果たして現代日本人は、どうだろうと疑わしくなって来る……」
 これは松子の生き方のようなものだった。廉恥である。恥を知る生き方である。これまで彼女は何を考え、どう生きて来たが、その凄まじい一面が吐露された。

 「それは、もともと日本と言う国が『尚武の国』ということではなかったからだ。これまで尚武の国、武士道の国と思われていたのは、浅はかな日本人の思い込みであり、そういうものは明治維新とともに、疾
(と)っくに崩壊してしまっている。今日のように科学万能主義、物質至上主義が、何よりもそれを雄弁に物語っているではないか。神は死んだというが、日本では神など、もう疾っくに日本列島から逃げ出しているんだ。
 この国は、神無月
(かみな‐づき)ならぬ、年から年中、神が存在しない国に成り下がってしまった。八百万の神は出雲大社にも集まらないし、日本列島の何処にも存在しないんだ。日本列島に入り込んで来たのが、邪神界の邪神ども。欧米の正体は邪神界。それが西洋科学。それを日本人は、有難いと拝んでいる」
 「そうかもね」

 「神とか仏とか言うは、日本に汚染している神は仏は、既に日本のものでない。中途半端な宗教観しか持たない日本人は、また中途半端な無神論者でもある。先祖の墓参りはする。盆や彼岸、命日には坊主を呼んで経を上げ、結婚式には神前に額
(ぬか)ずくか、教会でバージンロードを非処女が父親に連れられて歩く。
 12月24日はクリスマスイブで俄
(にわか)クリスチャン、そして31日は除夜の鐘で仏教徒、更に明けて元旦には初詣で俄神道の氏子の早変わり。高校や大学受験には合格祈願、合格すれば合格したでお礼参り。
 これが中途半端な無神論者であって、何であろう。今や畏
(おそ)れを知らぬ日本人は、思い上がった科学万能主義と物質至上主義に入れ揚げて、何が現世ご利益か!と言いたい。語るに落ちたとはことことだ」と興奮気味に喋っていた。半ば怒り心頭に来ていた。

 「まあまあ、お怒りはご尤もなれど、憤怒だけでは何一つ解決しないわよ。批判しても、指弾しても、反省する者、ひとりも無し。暖簾に腕押し。個人的感情だけでは、屈辱
(くつじょく)は深まるばかり。いま言ったでしょ、もっと頭を遣ってて。策を用いるのよ。感情を荒立てても、冷徹な洞察力が遠退くばかりだわ。
 宜しゅう御座いますか、健太郎お兄さま。
 では、さっさと空き缶を拾ってくる!今晩のおかず代が必要でしょ。じゃあ、戦闘開始!
 ぐずぐずしない。さあ、走って。走れないものは、一番最初に弾に当って死ぬだけの運命しか残っていないのよ。その態
(ざま)では此処、壇ノ浦で戦った、ご先祖さまに申し訳なかろう。恥を知れ、健太郎!」
 「ははあッ……。松子姫さま、ではさっそく、それがしが」
 気付いたら乗せられていた。朝っぱらから松子に跪
(ひざまず)いて、下僕を遣らされ、阿呆な中距離走者の全力走を遣らされていた。
 彼女は今晩のおかず代などと言っているが、そういう小銭はどうでもいいのである。
 メインテーマは関門海峡を前にして、能管の笛の音を奏でることであった。
 松子の能管演奏の気勢として、これに原理原則があるとするならば、「機を知れば心自
(おの)ずから閑」であろう。彼女はどんな複雑なことに遭遇しても、それに惑わされて振り回されることなく、能管を吹く場合は心が常に、のどかである心情を心得ているようだった。平常心である。その心をもって、中條流小刀を子平直政から伝授されているのなら、私を葬るのはわけはなかったであろう。易々と斬られていただろう。
 侮れぬ、恐るべき相手と対峙していたことになる。だがその松子が、私の「松子サヤン」になった。
 またそれは、仕えるべき相手であった。そして、これまでの彼女の経緯を知ると、戦後生まれの並みの人間では、想像も付かない過酷な境遇の中を生きていたことになる。
 彼女の観相の眉間に悽愴
(せいそう)な縦皺は疾るあの阿修羅道さながらの忿怒は、その過酷な境遇を物語っていた。だが今は消えている。
 二面性があるとはいえ、出来ればそのまま元に還らず、女を遣らせておきたかった。

 これから松子の演奏が始まろうとしていた。
 松子は関門海峡をバックに、歌口
(うたぐち)に唇を充(あ)てた。
 その背景は、一つの絵を髣髴とさせた。緩やかな風は右から左に流れていた。朝の涼風である。歌口に唇を充てた構図と、彼女のセーラー服の胸のリボンとスカートの裾が風の流れて対
(つい)を為(な)していた。
 左足を前に、左半身に構え、その構図はまさに『藤原保昌月下弄笛図』に出て来る保昌を髣髴とさせた。
 藤原保昌は平安中期の公家で、また武勇に秀で、更に源頼信・平維衡・平致頼らとともに「道長四天王」と称された。摂津守となり、同国平井に住したことから平井保昌とも呼ばれた。
 その、藤原保昌月下の弄笛
(ろうてき)の構図が、いま松子に宿っていた。

 公園を散歩していた人は、今から何が始まるのかと、五、六人が近付いて来た。犬を連れた人、子供の手を引いた婦人、これまで公園の周囲を走っていたジョギングの老夫婦、散歩の男女数人などであった。
 誰も彼も、何が始まるのか?なというふうに、松子の正体が分からないふうで、事の序
(つい)てと言う感じだった。誰もが行掛けの駄賃のような好奇心である。
 しかし、手にしている能管の珍しさと、松子の器量好しの少女の風体に興味を抱いたのか、珍しいもの見たさで集まって来たようだ。疎
(まば)らな観客は、その瞬間、恐ろしいほどの静寂に誘われていた。辺りが静まり返ると、突如、静から動への急激な変化が起こった。悲鳴のような一喝である。
 公園中にいきなり、能管の迫力のある音が響いた。まず、出
(で)出して聴衆を惹(ひ)き付ける。松子流の演奏法であるらしい。
 辺りは水を打ったように静かだった。
 烈しい音から、なだらかに変化し、穏やかなさざ波のように波打ち、突如悲鳴のような高音域に変わり、それは合戦の騒乱をイメージさせ、そこで狂ったようになり、そして静かに沈み、亡者がしくしくと哭
(な)くような音が流れていた。その笛の音に誘われたのか、一人殖え、二人殖え、三人殖え、やがて十数人に膨れ上がっていた。
 再び最初の迫力のある音を出し、やがて流れるような音色になって徐々に静まっていった。戦いすんで、兵
(つわ‐もの)どもが夢の跡を思わせた。笛の音は余韻を残して、静かに消えた。

 その観客の一人に中年の紳士が居た。この紳士が惜しみない拍手を送っていた。そして伴った女性二人も。
 私はこの紳士を見て、あッ!と思った。これから家庭教師に向かう家の父親であった。
 「おや!先生。どうして此処に?」
 「少しばかり早いと思いまして、此処で時間潰しを」
 「そうでしたか、実は先生を駅までお迎えに上がったところです。実は、今日は娘たちも一緒に此処に連れて来ております」
 「そうでしたか」
 「今日は、ご気分を一新させてというか、直ぐそこに山荘があります。その山荘の見晴らしのいい部屋を予約しておきましたので、こちらで教授でもと思っておりました。先生のご希望を聴かずに、些か不躾とは思いましたが、如何でしょう?」
 「いいですな、山荘とは……」
 「いま、此処で笛を吹かれたお嬢さん、先生のお知り合いでしょうか」
 「はあ、親戚の娘でして」
 「そうでしたが、しかし見事なものですな。まさに感動と云う言葉に値します。凄い演奏を聴かせて頂きました。娘たちも、慄
(ふる)えるくらいの感動をもって聴いておりました」
 私の貌を見て二人の娘が軽く会釈した。
 「おい、松子。来なさい」手招きして呼び寄せた。
 「ほーッ、県立T高校に通われているのですか」
 「はァ、現在三年です。こいつが、どうしても蹤
(つ)いて来ると言って聞かないものですから、仕方なく連れてきました。邪魔なら、即座に追い返しますから、お気兼ねなく。本当に仕様(しょう)がないやつです」
 「いえいえ、追い返すなんて。うちの娘たちにも、いい刺戟になります。ぜひ同行して下さい。で、こちらのお嬢さんは、どちらの大学を?」
 「はァ。それが、夢は大きく、可能性は限りなく極小値でして一縷
(いちる)の希(のぞ)み託す大学です」
 「どちらを?」
 「おい、松子」お前が説明しろと促した。
 「一縷の希み託して、限りなく極小値に近い東大理科三類です」
 「おや!」
 「不遜でしょうか」私は心配になって訊き返した。
 「いえいえ、こうしたお嬢さんでしたら、大いに歓迎です。娘たちにも大いに刺戟になります。しかし、今の龍笛の演奏といい、東大受験といい、素晴らしいお嬢さんですね」
 「あのッ、これ、龍笛ではなく、能管と言います。この笛、よく龍笛の間違われます。龍笛は喉
(のど)がありませんが、能管には喉があって、龍笛と能管の違いは、喉の有る無しです。能管は喉がありますが、龍笛はこれがありません。いわば喉は、能管の心臓部です。生命(いのち)です」
 「これは素晴らしいものを」
 「でも、知名度は低くて、演奏する度に困惑しています」
 「では、お嬢さんの、まあ、なんといいますか、それは趣味のようなものですな?」
 「いいえ、趣味は他にあります」
 「趣味は何ですか?」
 「人前で、恥じも外聞もなく遣る、大道での一発芸です。好むと好まざるとに関わらず、動機は生活のためです。今朝も早くから、この健太郎兄さんに、家畜のように使役されて、とうとう此処で小銭集めの徴収役をさせられています。でも、徴収役は趣味ではありません。どうかこの心中、お察し下さい」
 これを聴いた、連れの娘二人も、おかしくて口を押さえていた。松子の巧みな話術がおかしいのである。
 「おやおや、なかなかユーモアがありますなァ。ずいぶんと物をハッキリいうお嬢さんですね」
 「こいつ、これだけが取り柄でして。減らず口の大家と言うか……」
 「先生も、なかなかユーモアがあられる。血筋ですかな」
 「お恥ずかしながら……」
 「ところで、お嬢さん。今日のお賽銭は如何ほどでしょう?」
 「まァ、今日のおかずを買うくらいはなんとか」
 「なかなか、おもしろい事をいいますなァ。実に愉快なお嬢さんだ」
 傍に居た娘たちも、口を押さえて笑っていた。
 「このお嬢さんと居ると、本当に愉しくなります。ユーモアで、幸福を蒔いているように感じて。こういうのをいい運気と言うのでしょうか。それも、流れに逆らわずに、自然のままに流れているように感じます。
 さて、参りましょう。そこに車を待たしておりますので。では、こちらへどうぞ」
 こうして私たち一行は、黒塗の高級車に積み込まれて山荘へと運ばれていった。門司港にはその後も、松子を連れて足を運ぶが、それは後述する。斯くして松子は、ご学友になったのである。



●韓国からの密航者

 俄(にわか)に胸が空闊
(くうかつ)と開けた。躰一杯に爽(さわ)やかな風が吹き抜けるのを感じた。それを齎したのは、私が乞食と言って憚(はばか)らなかった真田拳雲斎だった。
 彼には失礼なことをしたと言う自責の念が残っていた。真田を見下げてしまったのは、私の恥であった。
 かつてある本を読んだとき、こういう事が書かれていた。
 それは巡礼者の話であった。
 巡礼者は運不運によって、どんな食べ物にありつくか定まると言う。
 運が良ければ大層な鶏肉の塊や上等な鱒
(ます)などを貰えると言うが、運が悪ければ、パンの欠片も貰えるかどうか分らないと言う。昔からよく言われたことだが、巡礼者に物を恵むのは、神に対しての義務であったと言う。神が、そうした人の哀れな姿に身を変え、時には恵む者への人間審査などをするという。
 こういう話には、必ず裕福な暮らしをする手合いの業
(ごう)突く張りが惹(ひ)き合いに出される。
 その話の中で、巡礼者はある家の前に立った。巡礼者は、施しが受けられないかその家の者に問う。
 するとその家では、今まさに竃
(かまど)の中からパンが焼き上がっているのだが、「うちにはパンがありません」と巡礼者を追い返した。
 巡礼者が去ったあと、竃の中を見てみると、いま焼き上がったと思ったパンは、忽
(たちま)ち石になったと言う。この話は戒めであろうが、また一方で人間に対しての脅しもあり、更には道徳心も絡んでいようが、私はこの話が、非科学的な内容でも嫌いでない。
 科学教信者ならば、竃の中のパンが、石になるのを試して検
(み)るだろうけれども、私はそうした、パンを恵むことを断わって、本当にパンが石になるか、験したりはしない。
 むしろ、恵まなかったことを恥じたり悔い方が先だろう。

 真田拳雲斎に出遭うまでは、一点に追い詰められた、息詰まるような気持ちが充満していた。しかし彼に会って以来、寛闊無碍
(かんかつ‐むげ)な態度に出会って、一気に解放されたのだった。肩の凝りがとれた。目から鱗(うろこ)が落ちた。爽やかを取り戻したのである。
 今まで何を悩んでいたのだろうか。何に引っ掛かっていたのだろうか。そう思う。
 だが真田拳雲斎が去った跡、そこには清々しい風が吹き抜けていた。みな彼のお陰だった。だからこそ、自責の念が残った。わが心の醜さを思い知らされた思いである。
 これまで針の尖
(さき)ばかりを見てきた。その一点に心を奪われていた。
 そのために、それ以外の広い世界を見渡すことが出来なかった。物事をミクロ的に見ていた。マクロ的に見れなかった。これまで大局観を見逃していた。しかし今、一点を見つめる呪縛
(じゅばく)から解放された。そのときに広い天地を観たのである。
 あの“天下無敵”の真田拳雲斎のお陰だった。その意味で、彼は天下無敵だった。
 そして反芻
(はんすう)するのだった。(今まで俺は自分で自分を埋める穴を掘っていたのだ)と。
 しかし、もうこれからはその穴も掘ることはない。破綻の懸念は免れていた。先ずは、この穴から出ることにした。いま私に課せられた仕事だった。

 安田組の情報収集に苦慮していた、そんな時である。後ろから、誰かに肩をポンと叩かれた。
 振り向くと、「あッ!」という感想とともに「もしかしたら……」という言葉で始まり、何処かで見覚えのある顔だった。再び「あッ」という驚きを発し、誰かと思ったら、梅原五郎だった。懐かしい顔であった。この男はかつて韓国からの密航者で、私が匿
(かくま)ったことがあった。その面影が、今の彼に微(かす)かに残っていた。あれは確か、私が中学二年生の頃であったろうか。
 この男が、日本に居る叔父さんを頼って、韓国から単独で漁船と貨物船を乗り継いで、日本へ密航してきたことがあった。私は、その彼を二週間ほど匿
(かくま)ったことがあった。
 日本語の喋れない彼に、簡単な日常会話程度の日本語を教え、読み書きを教えて、食事の差し入れをした思い出がある。その時の彼は眼光が鋭く、その鋭さは今でも変わっていなかった。
 性格は負けん気の強い、半島人の独特の我慢強さと、したたかさがあり、それにプライドも高かった。子供心に、その毅然
(きぜん)とした態度に、感銘を受けた。腐っても鯛という気構えがあった。
 このとき急に懐かしさが甦
(よみがえ)って来た。たった今、挫折した気持ちに襲われていた私は、再び黄金の輝きを取り戻して、彼を眩(まぶ)しい眼差(まなざ)しで眺めたのである。彼は人情家で男気もあり、頼りになる男だったのだ。


 ─────中学一年が終えて、二年の進級をまっ春休み、黒崎町
(北九州市八幡西区)に韓国から不思議な少年がやって来た。この少年は密航者であった。日本へ密入国したのである。
 黒崎に住む、私の中学時代の子分核の秦野
(はたの)という同級生が、彼を見つけたのである。家に、食べ物を盗みに入ったところを捕まえたのだという。
 当時、日本語が喋れず、年は私と同じか、一、二歳上のようにも見えた。背は低く、痩せていて、異常に目だけがぎょろぎょろとして鋭かった。言葉は何を言っているのか分からないが、どうも、韓国から来たらしいと判明した。この少年を、どうするかを集まった仲間で話し合った。結局、この少年を見つけた、私の子分核の家の納屋
(なや)に隠すことにした。日に二度、この納屋に食事の差し入れをして、学校帰り此処に寄って、日本語を教えた。この少年は「雀(ジャク)」という名前であることが分かった。後に彼は「梅原」という日本苗字を名乗るのである。
 二週間程で彼は、ついに近所の者に見つかって警察に通報され、一時税関に保護されてた。その後どうなったか分からないが、各機関の手を経て、最後は在日韓国人の団体が彼の身柄を引き受けたようだ。
 そしてその後、彼は叔父さんのいる大阪に向かったという。昼間は町工場で働き、夜はある空手道場に通ったと言う。そこで沖縄剛柔流鉄信館に入門して、本格的な空手を修行したという。
 彼と再会したのは、それから約十年後で、黒崎でばったりと会った。鋭い目付きは、以前と変わらないが、日本語は日本人と同じように流暢
(りゅうちょう)で、三国人(中国人、朝鮮人、韓国人らを指す)には多い、特有の韓国訛(タ・チ・ツ・テ・トの「タ行」に変な癖が出る)がなかった。自信に満ちていて、弁説爽やかで能(よ)く通る声をしていた。そして敬虔(けいけん)なクリスチャンでもあった。信仰心は人一倍強かった。
 そのとき一枚の名刺を差し出した。名刺には「梅豊流
(ばいほう‐りゅう)空手道七段最高師範・梅原五郎」となっていた。話を聞くと、広島の栗田豊(くりた‐ゆたか)と言う同門と、一緒に空手をやって自分の「梅原」の「梅」と「栗田豊」の「豊」をとって、梅豊流という空手を創始したと言う。

 昔話も程々に近くの喫茶店に入り、再会を喜び、再び昔話を始めたら、矢鱈
(やたら)に刑務所の話が出て来て、そのうち仲間を紹介すると言い出した。
 彼が今までの十年間、何をして来たか知る由
(よし)もない。しかし、何らかの情報が掴めないものかと、彼の言う儘(まま)に、彼の信頼のおける一人を、その翌日紹介された。紹介された男の肩書き上は広告代理店の掲示板を仕切る代行業の社長であったが、どうやら任侠(にんきょう)の世界にも通じているらしかった。
 そのとき安田組の話を持ち出し、その実情を聞いてみた。彼は躊躇
(ちゅうちょ)することもなく、全てを教えてくれた。これらを私に教えたことは、かつての梅原が、私に匿(かくま)われて、世話になったことへの借りの返しであったのかも知れない。彼は儒教の国で育っただけあって、義理堅かった。聴かされた内容で、安田組のほぼ一切が分かった。奴らの組構成は、総構成員27名で、兄弟分の杯を交わした上下層二組があり、これらの勢力を入れると約60名に達するという。
 凶器は、中心が短刀等の小型の刃物が多いが、拳銃やライフル銃やスコープのついたカービン銃も数丁所持しているという噂だった。これで奴らの全貌が、凡
(おおよ)そ分かり始めてきたのである。
 梅原は武器について、「しかし」という言葉で、もう一言付け加えた。
 訊き返すと、未確認情報だと前置きした上で、奴らには沖縄の米軍から手に入れたバズーカ砲があると言う噂だった。これを聞いて、私は絶句した。
 それにもう一つ、奴らは例の居合道場の息子を用心棒に雇うているということであった。あの『三宝堂』で見た登録証のない、あの拵
(こしらえ)の付いた刀は、前田道場の息子が遣(つか)うものらしいと判明した。
 多勢に無勢である。負け戦は必定だった。

 梅原は以後、覚醒剤の運び屋として奔走するが、日本と韓国を結ぶ関釜フェリーの下関税関で逮捕されて、韓国に強制送還されている。彼が逮捕された時は、私も、その仲間ではないかと疑われ、数日間にわたってY警察署から任意出頭を命ぜられたことがあった。私の家も家宅捜査された。とばっちりを受けて、いい迷惑であった。翌日、ラジオで彼の覚醒剤不法所持のニュースが流れた。
 覚醒剤の密輸犯罪史上初めてという大量持ち込みで、末端価格は当時の金で、二十億円であったという。これを偶然にも、弟子の車の中で聞いた。
 彼の裁判の判決では、懲役十三年が言い渡され、服役後は国外退去処分になった。彼はその間、F刑務所に服役した。服役中、面会したことがある。元気で、私との面会の時にも、腕立て伏せや、兎跳
(うさぎと)びなどをして動き回り、覚醒剤を持ち込んだ反省の色など皆無で、単純過ぎる行動に恐れ入った。その数ヵ月後、恩赦(おんしゃ)で刑期が短くなり、数年後、韓国に強制送還された。風の噂によると、今は韓国で果物屋の社長をやっているという。したたかであった。だが今は懐かしい思い出である。



●夜戦のシミュレーション

 梅林五郎の喋った情報は貴重なものだった。私はそんな彼の仲間から貴重な情報を仕入れ、この対決に臨むことになった。だが、果たして武運はあるだろうか。この後、安田組と兄弟分の杯を交わした上位に属する事務所も徹底的に調べ上げ、総戦力の分析に入った。近代戦では情報が物を言う。分析能力能力が物を言う。
 その分析結果は、有事の際に動員できる機動力は、約40から50。かなりの数である。
 武装は小型の刃物を中心とした素人を脅
(おど)すための恐喝的な生活経済の威圧力が中心である。行動右翼のように戦闘訓練は殆ど受けておらず、況(ま)して、夜戦に関しての訓練は皆無であった。
 私はこれを知った時、勝てると思った。勝てないにしても、対決に持ち込むことによって一泡吹かせ、奴等はおいそれと、今後、わが方に手は下すことはないであろうと踏んだのである。これこそ「負けない境地」の定理である。しかし、引っ掛かるものもあった。奴らのバズーカ砲と、居合の手練
(てだれ)である。だが果たして、これ等は登場するのだろうかと言う疑いもあり、半信半疑だった。そういう事態が起こるのだろうか。
 考えても却
(かえ)って疑心暗鬼に陥るが、根拠のない楽観に基づく希望的観測は無用だろう。
 本来、幸運と言うのは持続しないものである。幸運が続いた場合、もうそろそろ途切れることを考えておいた方がいい。

 夜戦……。
 それは闇
(やみ)の中の戦いである。夜軍(よ‐いくさ)ともいう。
 しかし、一言で夜戦と言っても、これは経験した者でなければ分からない戦いである。
 私はこの夜戦という一種独特の戦い方に、その威力の大きさを十二分
(じゅうにぶん)に承知していた。暗やみでの戦いは、方角が定め難い。そして不注意からミスが生じ易い。故に、小を以て大を制するには、最も効果が大きい戦い方なのである。
 かつて高校時代、夜戦でのシュミレーションを実験したことがあった。気の合った仲間内を集めて、会津示現流の同好会を作ったことがあった。そこには50名ほどの武術愛好者が集まり、私を中心として武術の結社『D修気会』を作り、その年の夏休みを利用して、山口県吉見町のY海上自衛隊で三泊四日の合宿訓練をしたことがあった。午前中は自衛官の指示に従って、手旗信号や手旗モールスなどの訓練をやらされ、あるいは小型掃海艇に乗せられて、疑似機雷
(ぎじ‐きらい)撤収(てっしゅう)などの海洋訓練の見学をするが、午後は自由で、自分達同士の練習が許された。その訓練のメインイベントは最終日の夜襲訓練で、紅白の組に分けて、頭に絞めた鉢巻きを争奪するという訓練であった。

 予
(あらかじ)め班編成をして、奇数の班を白組、偶数の班を赤組として、その班編成の内訳は、2人1組のバディ・システムを作らせ、更に、その1組を2編成して1チームを作らせ、その1チームを1班としたのである。則ち、1チームには、四人がいてその四人の頭が班長であった。1班に合計五人がいて、五人の長を伍長(ごちょう)としたという、孫子(そんし)の兵法に出てくる《伍長》の組織編成を取ったのである。
 この伍長の組織編成は、紀元前五世紀の墨子
(ぼくし)集団(儒教の儒家に対して墨家という。墨攻とも)が用いた戦術の一種を取り上げたもので、組織的に戦うための最小単位が《班》なのである。
 かつて軍隊を機能的に動かすためのシュミレーションを、夜戦の実験で試してみたことがあった。同じ実力同士の者で編成すれば、なかなか決着が付かないので、優劣がはっきりするように、一方は体力と技量がある有段者同士を、他のもう一方は体格体力ともに劣り、武術については経験不足の者たち同士を組織化して、この双方が夜戦で戦ったら結果がどうなるか、それを試してみたことがあった。素人目から見ると、戦う前から結果が出ているようなものであったが、予期した通りに結果が出ないのが、夜戦での戦い方である。

その第一 闇夜の中では方角が定めにくいので、昼間、実地見聞して攻撃目標を正確に把握しておくこと。
その第二 実行するに当たり、白昼、地形を充分に熟知しておき、その距離感を掴んでおくこと。
その第三 闇夜の行動は、仲間と逸(はぐ)れ易くなるので二人一組になって、互いを充分に注意し合うこと。
その第四 昼間充分に睡眠をとって、暗闇凝視のため、夜目(よめ)に慣れておくこと。
その第五 敵味方の識別を明確にし、混乱を来さないように撤退の際の退路を考えておくこと。

 また敵に回った集団から発見されない工夫等を、促し厳重注意したのである。
 この劣勢集団は、私の言うことを厳守し、相手方の混乱と隙
(すき)を突いて鉢巻きを悉々(ことごと)く奪い取り、夜戦での奇襲に大きな成果を収めたのである。そして忘れてはならない事が、もう一つある。
 それは「2乗均等
(じじょう‐きんとう)の法則」である。喩(たと)えば、実力相当の能力が均等で、10対6で、正攻法(奇計や謀略を用いず、正面から正々堂々と戦いを挑むやり方)で正面から対戦した場合、10の兵力が6の兵力を上回っている事は、誰にでも分かるが、では6の兵力は全滅したとして、一体10の兵力はどれだけ生き残るか、意外に余り知られていない。単純に10マイナス6イコール4という数字にはならないのである。
 これは10という数字を2乗し、更に6という数字を2乗して、そこから計算するのであるから、100マイナス36イコール64になるから、つまり64は8の2乗であるから、生き残り数は8ということになる。これを結論からいうと、10の兵力は、僅か2の兵力だけを失えば、相手の6の兵力を全滅できる。

 逆から見て兵力が六割だと云う事は、6対10ではなく36対100であり、兵力は六割ではなく36%に過ぎないのであり、相手方の総兵力の三割強が、6の方の実力と云う事になるのである。劣勢側は、正攻法では絶対に勝てないのである。残る手は奇襲戦以外ない。これを奇手と言う。
 よく時代劇のチャンバラ・シーンで、一人のヒーローが、敵を斬り捲
(かく)り、全滅させると言う芝居があるが、あれはあくまで芝居であって、現実のものではない。どんなに腕が立つても、最高で精々三人までであろう。これは高性能銃が発達した現代でも変わりがない。高性能銃を手に入れているのは吾(わ)が方だけではなく、敵も同じ性能の小銃を手に入れているからだ。戦い方は、敵も味方とも同じように進化する。時代的に同時進行しているのである。したがって、一人にバッタバッタと斬り倒すなど、絶対にあり得ない。
 更には、ほぼ互角の相手に対し、斬り合いをする中で、刺し違えて死ぬというのであれば、まだ勝つ可能性があるが、こちらが無傷で、相手側だけを全滅させると言うことは、大きな矛盾である。
 世に言う「斬るに斬ったり三十六人」などという殺し合いは得ないのである。それはアクション映画の作り物の世界であり、また一対一の試合の中の世界である。試合上手が実戦でも、必ず強いとは限らない。その意味からすれば、私は「普遍の法則」の前に立たされていた。この法則こそ、冷徹に見詰めるものである。


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