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旅の衣を読むにあたって
旅の衣・前編 1
旅の衣・前編 2
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旅の衣・前編 4
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旅の衣・前編 44


─────その次の日も、例の『三宝堂』に出向いた。
 既に、予期したことが起こっていた。店のシャッターが降ろしてあって、「本日臨時休業」という貼り紙がしてあった。私の来店に恐れをなして居留守を使うらしい。愈々
(いよいよ)動き出したかと思った。

 私は暫
(しばら)く、店の裏手にある正門に張り付いて様子を窺(うかが)うことにした。間違いなく、中には人の気配が感じられるのである。必ず、主人もこの中に居る筈だと言うことが分かっていた。この狙いは的中していた。

 やがて正門先の飛石伝いの玄関が開かれ、中から主人が大きな風呂敷包みを手にして出てきたのである。縦長
(たてなが)の、その風呂敷包みの中には、間違いなく日本刀が包まれている形跡があった。
 主人は辺りを憚
(はばか)るように、そっと忍び足で何処かに出かける様子であった。昨日、研(と)ぎの話をしていたので、もしや、あの刀を研ぎにでも出すのかと言う予感がした。ひとまず、後を蹤(つ)けることにした。

 主人の態度は妙にオドオドして、挙動が落ち着かないでいた。自らの意志も失っているのではないかという風に窺
(うかが)われ、最後に切羽(せっぱ)詰まって、何かの行動に出た、という感じだった。着流しに茶羽織と言う出(い)で立ちで、貫禄があるような体躯をしていても、所詮(しょせん)は欲に転んだ臆病者なのか。
 その意味で、私とも共通点があり、小心者の私としては、この主人の気持ちが手に取るように分かるような気がした。

 小心者の人間が追い詰められた挙句にやらかすことは、一致して空恐
(そらおそ)ろしい事をやってのける大胆さであった。まさか、あの主人もその類(たぐい)では……、という気持ちを抱いた。「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」という俚諺(りげん)にもある通りだ。それは、もうこれ以上、逃げられないと悟るからだ。したがって、「逃げられない」という悟りに似た諦めは、まるで居直り強盗のように、恐ろしい牙(きば)を剥(む)くのである。

 空き巣狙いや、コソ泥らが忍び込んだ先で、突然帰宅した家人に発見され、居直って、凶悪犯罪者へと変貌するのは、小心者が窮鼠になるからだ。したがって小心者が窮鼠になった場合、その豹変後、恐ろしい予測不可能な事態が待っているのである。

 人間は欲に転んだ因縁を発端
(ほったん)として、次々に欲が空回りする。欲に雁字搦(がんじがら)めにされ、遂には墓穴を掘っていく。このジレンマから逃れる者は、殆(ほとん)ど居ないのだ。損得勘定の激しい、往生際の兇(わる)い、欲惚け人間ほど、このジレンマに嵌(は)り易い。

 主人は途中でタクシーを拾い、それに乗った。私も気付かれないように沿線のタクシーを拾い、その後を追った。
 タクシーは意外なところで止まった。しかし直にそこでは降りず、100mくらい通過した先の曲り角で降りた。主人の降りた場所を通過して、様子を見る為であった。尾行を悟られてはならないからである。

 一般に人を尾行する場合、尾行の素人は、例えばタクシーに乗った人間の後をつける時には、相手が降りた手前の場所で降りて、追跡する者の様子を窺
(うかが)おうとする。これはまさに素人の尾行である。
 尾行に慣れた者は、絶対に相手が降りた前の場所などに降りることはない。一気にその場を通過し、その様子を車越しに見ながら、遥
(はる)か先の場所で降りて引き返すのである。一旦手前で降りてしまえば、追跡対象者の最も新鮮な最新情報は得られない。先の不確かな、憶測だけで様子を予測しなければならなくなる。特に、追跡する人間の顔色は窺うことができない。

 しかし、尾行に手慣れた者は、こうした憶測で物事を考えることはない。確かな最新情報を得るのである。それは徒歩での追跡ではなく、車ごと接近し、車窓越しに相手の克明な、接近状態からの最新情報を得るのである。こうすれば、追跡される者は、安易に、車が通り過ぎたことで、今の車は自分を尾行したのではなかったと安堵
(あんど)するのである。

 ところが自分の降りた車の数百メートル後に、何らかの車が止まれば、「自分は尾行されているのでは?」と警戒するのである。同じ身を隠して追跡するにも、二通りの方法があり、尾行のプロは、追跡する者を前にして、その前方で降りて、そこから徒歩で接近すると言う方法を採
(と)らないのである。

 この主人は、実に用心深い男であった。その証拠に、角を曲がるにしても、やたらに頭が左右に動く。これは尾行を警戒している為であった。それ故に身なりも、万一の尾行を警戒して、他の用件を装った偽装工作
(ぎそう‐こうさく)した観があった。それだけに海千山千の、人生の手練(てだれ)であることは容易に窺われた。

 私はタクシーを遥か先に止めて降り、急いで引き返し、『三宝堂』の主人の後を蹤
(つ)けた。小さな路地に入り、そこは袋小路(ふくろこうじ)になっていて、その奥には『今田柔道場・柔道接骨院』の看板が掛かっており、その横に一等小さく『円心古流居合術今田道場』という看板が掛けられていた。
 どうやら主人は、この道場の中に入って行ったらしい。

 私は一旦袋小路の外に出て、大通りの路上の隅から袋小路の様子を窺
(うかが)った。待つこと約一時間。ようやく主人が出て来た。
 出て来た時は入る時に、手に持っていた風呂敷の包みはなくなっていて、どうやらそれは道場の誰かに預けたのか、何らかの理由で、委託したのかは分からないが、手ぶらで出て来たことは確かだった。小走りで、人目を憚
(はばか)るように急いで立ち去ったので、何事かが、起こったことは容易に察しがついた。そして通り掛かりのタクシーを止め、それに乗って姿を消した。

 私は入門者を装って『今田柔道場』の門と叩いた。
 入ると直に道場の受付があり、接骨の治療を受ける入口と、道場の入口が二つに分かれ、私は受付の中年の婦人に道場の案内書を貰いたい旨を伝えた。
 婦人は快く案内書を差し出してくれ、私がそれに目を通していると、二人の男性が二階から下りて来た。一人は年配の初老の人で、もう一人はほぼ私と年格好が同じ青年であった。

 最初に年配者が私の顔を見て、
 「あんた、会津自現流の岩崎さんじゃろうが?」
 私がその返事をしようと思っていた時に、もう一人の青年が、
 「なに!会津自現流の岩崎だと?」と、一見訝
(いぶが)しげに、懐疑(かいぎ)に満ちた顔で訊(き)き返し、私に不審な表情を向けた。

 何か良からぬことが、バレてしまったような気になり、「はあ、会津示現流の岩崎です」と自らの素性を明かしてしまった。
 「会津自現流が、うちの道場に何の用じゃ?うちの案内書を貰ったようだが……」
 年配者は、皮肉めいた口調で私に言った。
 そう詰め寄られたからには、私も逃げ隠れすること出来なくなり、その理由を述べなければならなくなった。

 「実は、私と同業者と思える骨董屋が、この道場に一時間前ほど入って行ったのですが、その人と、此処の道場とは、どういう関係なのか、是非お訊
(き)きしたいと思いましてね。それで入門者を装って、入らせて貰ったわけですが、どうやら私の面(つら)は、バレていたようです。バレては仕方ないので、骨董屋との関係を、お聞かせ頂ければ有り難いのですが……」私は居直りを通り越して、毅然(きぜん)として云った。私は「刀剣店」と言わず、骨董屋と言って、刀に気が行き、反応するのを削(そ)いだ。

 私は答えてくれる筈がないと思っていた。しかし年配者が青年に向かって、こう言った。この二人は親子であるらしい。
 「儂
(わし)は知らんが、清春(きよはる)!骨董屋はお前の知り合いか?」
 「はあ……」
 「骨董屋とは、一体何者じゃ?」
 「私の門弟の、出入りの刀屋ですが……」
 青年は、しぶった声で訊
(き)かれたことを吐いた。

 「事情は、こんなところだ。まだ何か用があるのか?」
 年配者は、これを私に訊き質
(ただ)した。
 私はこれ以上穿鑿
(せんさく)することは無用と思われたので、丁重に頭を下げて、この場を退散した。

 この道場と刀剣店の主人、それに安田組とは、何らかの関係があるのだろうか。今一つ、その結びつきがはっきりしなかった。しかし、何か、絡んでいることは確からしい。
 こんな思案をしながら、この場を後にする時、何処かで見たことのあるような男が、この道場の中に入っていった。
 その男は安田組の事務所で見た男だった。これでどうやら、この三者の結びつきがはっきりしたのである。安田組に関係のある『三宝堂』の主人と、今田道場と安田組。この三者は、何らかの腐れ縁を持っているに違いないと睨
(にら)んだ。

 それにしても、まだ分からないことが二つあった。
 一つは『三宝堂』の主人が持ち込んだ風呂敷包みの中は、恐らく刀と思われたが、その刀はどのような代物か。あるいは人斬り用に、拵
(こしらえ)を付けた、あの“直胤”か。
 二つ目は安田組の組員と今田道場との関係であり、何故、今田道場が暴力団と関係を持っているのか。その二つの具体的な謎が解けなかった。


 ─────私は思案に暮れていた。
 もう一度、『三宝堂』の主人をつついてみるか、そんなことが脳裡
(のうり)に過(よぎ)った。しかしこれ以上、主人をつつけば、藪蛇(やぶへび)だろう。
 私が安田組のことを嗅
(か)ぎ回っているということを、主人が組事務所に通報するかも知れない。そうなれば私の諜報活動は御破算(ごはさん)になる。そうかと言って、毒をもって毒を制するわけには行かない。
 つまり以前、不正選挙の時、知り合った江川組の若頭の石田に、この依頼を頼むわけには行かなかった。何としてでも、私一人で片付けなければならない問題であった。

 やはり、別の骨董屋か、刀屋に当りをつけて、側面からこの情報を探ることしかなかった。しかしそれは、遅々
(ちち)として進まなかった。それにしても『三宝堂』の主人を刺激して、今田道場との関係を炙(あぶ)り出し、安田組の情報を得るという作戦は、どうやら結実しなかったようである。

 私が何故、これ程までに諜報収集に拘
(こだわ)るか、これは単に卑怯(ひきょう)極まる手段に出て、相手を打ち負かしたいためではない。
 小が大を制するためには、必要不可欠な条件であり、ただ華々
(はなばな)しく合戦をして、死に狂いすれば、事は済むものではなかった。
 敵の誘いに乗り、敵の待ち受ける戦場に、堂々と乗り込んで、暴れ回ったところで、5分と持たず、最後は集団から袋叩きにされて嬲
(なぶ)り殺しの目に合い、殺されてしまうのが落ちである。そして嘲笑(ちょうしょう)されて、惨めな屍(しかばね)を曝(さらす)すことになる。
 どうせ殺されても、手際よく処理され、私の死体はセメント詰めにされて、海か、湖か、何処かに捨てられるだろう。

 こうなっては、奴等に一矢
(いっし)報いることはできない。奴等を心の底から震(ふる)え上がらせ、恐怖に陥れなければ、この作戦は失敗になる。何かにつけ、いちゃもんがつけられて、後に第二、第三の被害者が出るに違いない。

 晩年のナポレオンのやった、《ワーテルローの戦い》のような、ミスった戦闘はできないのである。ワーテルローの戦いは、歴史的に名高いが、元々フランス軍有利の中で、戦闘の火蓋
(ひぶた)が切って落とされ、最初フランス軍は優勢を誇ったが、プロイセン軍が到着した後、これまで苦戦を強いられていたイギリス、ドイツ、オランダの連合軍は、忽(たちま)ち息を吹き返し、形勢が逆転した。このため、フランス軍は大打撃を受けるのである。

 赤と白の派手な軍装を身に纏
(まと)い、軍楽隊のドリル行進で突撃し、敵陣に突き進むと言う、正攻法を模(も)した、正面きっての愚かな作戦を実行したのである。歩兵も、騎兵も散乱する銃砲の弾に伏(ふ)せることもなく、悠々(ゆうゆう)と進む態(さま)は、勇敢を通り越して、滑稽であり、狂気に満ちていた。
 その結果、三人に一人が死傷すると言う惨劇
(さんげき)を招いたのである。
 英雄ナポレオンも、この頃には優柔不断
(ゆうじゅうふだん)に陥り、迷いが生じ、緻密(ちみつ)な作戦計画と、十分な情報収集と、決断の意志が欠如していたと思われる。

 それに反して、三国志に登場した英雄たちは、最後の最後まで頭脳の冴
(さ)え渡った戦略を試(こころ)みて、その冴(さ)えの衰(おとろ)えることがなかった。
 取り分け、諸葛亮孔明の戦術展開は、一際
(ひときわ)我々の目を惹(ひ)き、今でもその驚異に驚かされる。
 小兵力で戦うとしたら、恐らく謀略戦以外ないであろう。

 しかし往々にして、謀略戦
(ぼうりゃくせん)は苦しい選択を余儀なくされることが多い。私はこの時、孤立無援(こりつ‐むえん)の、「個人」対「集団」の泥沼のような戦いに発展するかも知れないことを予期していた。その時は、道場を捨てなければならないと考えていた。
 そして愛するものは、悉
(ことごと)く捨て去る決心を余儀なくされるであろう。

 そう決心を、心の何処かで決めざるを得なかった。
 もう既に、夢と現実の区別がつかなくなるような状態に追い込まれていた。脳裡
(のうり)に暗中模索(あんちゅう‐もさく)が交差する。世の中のことは、そう易々と自分の思い通りに、事は運ぶ筈がないのだ。
 ふて腐れたような気分になり、何ともいえない挫折感
(ざせつかん)に襲われていた。

 敵と言うものは、その全貌
(ぜんぼう)が見えれば見えたで、実に恐ろしいものである。また、見えなければ見えないで、何かを企んでいるのではと、疑心暗鬼に陥るものである。だが、やはり抜け目なく計算し、奇抜な奇手(きて)を考え出すしかないのである。思案に暮れ、行き詰まった観があった。



●韓国からの密航者 

 そんな時である。後ろから、誰かに肩をポンと叩かれたのである。
 振り向くと、「あッ!」という感想とともに「もしかしたら……」という言葉で始まり、何処かで見覚えのある顔だった。再び「あッ」という驚きを発し、誰かと思ったら、梅原という男だった。

 この男は韓国からの密航者で、以前私が匿
(かくま)ったことがあった男であった。その面影が、今の彼に微(かす)かに残っていた。
 あれは確か、私が中学二年生の頃であったろうか。

 この男が、日本に居る叔父さんを頼って、韓国から単独で漁船と貨物船を乗り継いで、日本へ密航してきたことがあった。私は、その彼を二週間ほど匿
(かくま)ったことがあった。
 日本語の喋れない彼に、簡単な日常会話程度の日本語を教え、読み書きを教えて、食事の差し入れをした思い出がある。その時の彼は眼光が鋭く、その鋭さは今でも変わっていなかった。
 しかし性格は、負けん気の強い、大陸人か半島人の独特の我慢強さと、したたかさがあり、それにプライドも高かった。子供心に、その毅然
(きぜん)とした態度に、感銘を打たれた事があった。

 私に、彼への懐かしさが甦
(よみがえ)って来た。
 たった今、挫折した気持ちに襲われていた私は、再び黄金の輝きを取り戻して、彼を眩
(まぶ)しい眼差(まなざ)しで眺めたのである。彼は人情家で、男気もあり、実に頼りになる男だったのだ。


 ─────中学一年が終えて、二年の進級をまっている春休み、黒崎町(北九州市八幡西区)に韓国から不思議な少年がやって来た。この少年は密航者であった。

 黒崎に住む、私の中学時代の子分核の秦野
(はたの)という同級生が、彼を見つけたのである。家に、食べ物を盗みに入ったところを捕まえたのだという。
 日本語が喋れず、年は私と同じか、一、二歳上のようにも見えた。背は低く、痩せていて、異常に目だけがぎょろぎょろとして鋭かった。言葉は何を言っているのか分からないが、どうも、韓国から来たらしいと判明した。

 この少年を、どうするかを集まった仲間で話し合った。結局、この少年を見つけた、私の子分核の家の納屋
(なや)に隠すことにした。
 日に二度、この納屋に食事の差し入れをして、学校帰り此処に寄って、日本語を教えることにした。この少年は「雀
(ジャク)」という名前であることが分かった。
 そして後に、彼は「梅原」と名乗るのである。

 二週間程で彼は、ついに近所の者に見つかって警察に通報され、一時税関に保護されてた。その後どうなったか分からないが、各機関の手を経て、最後は在日韓国人の団体が彼の身柄を引き受けたようだ。
 そしてその後、彼は叔父さんのいる大阪に向かったという。昼間は町工場で働き、夜はある空手道場に通ったと言う。そこで沖縄剛柔流鉄信館道場に入門して、本格的な空手を習ったという。

 彼と再会したのは、それから約十年後で、黒崎でばったりと会ったのが、この時であった。鋭い目付きは、以前と変わらないが、日本語は日本人と同じように流暢
(りゅうちょう)に喋っていて、三国人(中国人、朝鮮人、韓国人らを指す)には多い、特有の韓国訛(タ・チ・ツ・テ・トの「タ行」に変な癖が出る)がなかった。自信に満ちていて、弁説爽やかで能(よ)く通る声だった。そして敬虔(けいけん)なクリスチャンでもあった。

 彼は、私に一枚の名刺を差し出した。名刺を見ると、
 「梅豊流
(ばいほうりゅう)空手道七段最高師範・梅原五郎」となっていた。
 話を聞くと、広島の栗田豊
(くりた‐ゆたか)と言う男と一緒に空手をやって、自分の「梅原」の「梅」と「栗田豊」の「豊」をとって、梅豊流という空手を創始したと言う。そんな彼と、ばったりあったのである。

 昔話も程々に近くの喫茶店に入り、再会を喜び、再び昔話を始めたら、矢鱈
(やたら)に刑務所の話が出て来て、そのうち仲間を紹介すると言い出したのである。
 彼が今までの十年間、何をして来たか知る由
(よし)もない。
 しかし、何らかの情報が掴めないものかと、彼の言う儘
(まま)に、彼の信頼のおける一人を、その翌日紹介された。

 紹介された男は、肩書き上は広告代理店の掲示板を仕切る代行業の社長であったが、どうやら任侠
(にんきょう)の世界にも通じているらしかった。私はその時、安田組の話を持ち出し、その実情を何気なく聞いてみることにした。
 その彼は躊躇
(ちゅうちょ)することもなく、一部始終を、聞きたいことを全て教えてくれた。
 これらを私に教えたことは、曾
(かつ)ての梅原が、私に匿(かくま)われて、世話になったことのお礼であったのかも知れない。彼は儒教の国で育っただけあって、非常に義理堅かったのだろう。一瞬そんなことを考えてみた。
 そして安田組の一切が分かった。


 ─────奴等の組構成は、総構成員27名で、兄弟分の杯を交わした上層の組が二つあり、これらの勢力を入れると約60名に達するという。
 凶器は、中心が短刀等の小型の刃物が多いが、拳銃やライフル銃やスコープのついたカービン銃も数丁所持しているという噂だった。これで奴等の全貌が、凡
(おおよ)そ分かり始めてきたのである。
 そして梅原は武器について、「しかし」という言葉で、もう一言付け加えた。
 「何だ?」と訊き返すと、未確認情報だと前置きした上で、奴等には沖縄の米軍から手に入れたバズーカ砲があると言う噂だった。これを聞いて、私は絶句した。

 それにもう一つ、奴等は今田道場の息子を用心棒に雇うているということであった。あの『三宝堂』で見た登録証のない、あの拵
(こしらえ)の付いた刀は、どうやら前田道場の息子が遣(つか)うものらしいという筋書きが読めたのであった。


 ─────梅原はこれから十年後、覚醒剤の運び屋として奔走するが、下関の関釜フェリー税関で逮捕されて、韓国に強制送還されている。
 その間、彼とつき合うこととなる。
 彼が逮捕された時は、一緒に私も、その仲間ではないかと疑われ、数日間にわたって、Y警察署から任意出頭を命ぜられたことがあった。私の家も家宅捜査されたのだった。とばっちりを受けて、私としては、いい迷惑であった。

 翌日、ラジオで彼の覚醒剤不法所持のニュースが流れた。覚醒剤の密輸犯罪史上初めてという10kgの大量持ち込みで、末端価格は当時の金で、二十億円であったという。空手の先生であるということも強調された。
 これを私は偶然にも、弟子の車の中で聞いたのである。
 彼には「まさみ」という日本人の妻と、十九歳の妾
(めかけ)がいることも、ラジオは併せて報道していた。
 彼の裁判の判決では、懲役十三年が言い渡され、服役後は国外退去処分になった。彼はその間、福岡刑務所に服役した。彼が服役中、何度か、ここを訪れたことがある。意外と元気で、私との面会の時にも、常に腕立て伏せや、兎跳
(うさぎと)びなどをして動き回り、覚醒剤10kgを持ち込んだ反省の色など全くなかった。

 数ヵ月後、恩赦
(おんしゃ)で刑期が短くなり、八年後、彼は韓国に強制送還された。そして風の噂によると、今は韓国で果物屋の社長をやっているという。
 今は懐かしい思い出である。




●夜戦でのシミュレーション

 私はそんな彼の仲間から貴重な情報を仕入れ、この対決に臨むことにした。
 この後、安田組と兄弟分の杯を交わした上位に属する事務所も、徹底的に調べ上げ、総戦力の分析に入った。

 その分析結果は、有事の際に動員できる機動力は、約40から50。武装は小型の刃物を中心とした素人を脅
(おど)すための恐喝的な生活経済の威圧力が中心である。行動右翼のように戦闘訓練は殆ど受けておらず、況(ま)して、夜戦に関しての訓練は皆無であった。
 私はこれを知った時、勝てると思った。勝てないにしても、対決に持ち込むことによって、奴等はおいそれと、今後、わが方に手は下すことはないであろうと踏んだのである。これこそ「負けない境地」の定理である。

 しかし、引っ掛かるものもあった。奴等のバズーカ砲と、居合の手練
(てだれ)である。だが果たして、これ等は登場するのだろうかと言う疑いもあり、半信半疑だった。

 夜戦。それは闇
(やみ)の中の戦いである。夜軍(よ‐いくさ)ともいう。
 しかし、一言で夜戦と言っても、これは経験した者でなければ分からない戦いである。
 私はこの夜戦という一種独特の戦い方に、その威力の大きさを十二分
(じゅうにぶん)に承知していた。暗やみでの戦いは、方角が定め難い。そして不注意からミスが生じ易い。それなるが故に、小を以て大を制するには、最も効果が大きい戦い方なのである。

 私は曾
(かつ)て高校時代、夜戦でのシュミレーションを実験したことがあった。あれは高校三年の時でる。
 気の合った仲間内を集めて、会津示現流の同好会を作ったことがあった。そこには50名ほどの武術愛好者が集まり、私を中心として武術の結社『D修気会』を作り、その年の夏休みを利用して、山口県吉見町のY海上自衛隊で、三泊四日の合宿訓練をしたことがあった。

 午前中は自衛官の指示に従って、手旗信号や手旗モールスなどの訓練をやらされ、あるいは小型掃海艇に乗せられて、疑似機雷
(ぎじきらい)撤収(てっしゅう)などの海洋訓練の見学をするが、午後は自由で、自分達同士の練習が許された。

 その訓練のメインイベントは最終日の夜襲訓練で、紅白の組に分けて、頭に絞めた鉢巻きを争奪するという訓練であった。

 予
(あらかじ)め班編成をして、奇数の班を白組、偶数の班を赤組として、その班編成の内訳は、2人1組のバディ・システムを作らせ、更に、その1組を2編成して1チームを作らせ、その1チームを1班としたのである。
 即ち、1チームには、四人がいてその四人の頭が班長であった。1班に合計五人がいて、五人の長を伍長
(ごちょう)としたという、孫子(そんし)の兵法に出てくる《伍長》の組織編成を取ったのである。

 この伍長の組織編成は、紀元前五世紀の墨子
(ぼくし)集団(儒教の儒家に対して墨家という。墨攻とも)が用いた戦術の一種を取り上げたもので、組織的に戦うための最小単位が《班》なのである。

 私は、軍隊を機能的に動かすためのシュミレーションを、この夜戦の実験で試してみたことがあったのである。
 同じ実力同士の者で編成すれば、なかなか決着が付かないので、優劣がはっきりするように、一方は体力と技量がある有段者同士を、他のもう一方は体格体力ともに劣り、武術については経験不足の者たち同士を組織化して、この双方が夜戦で戦ったら結果がどうなるか、それを試してみたことがあった。
 素人目から見ると、戦う前から結果が出ているようなものであったが、予期した通りに結果が出ないのが、夜戦での戦い方である。

 私は劣勢集団に、一つの教示を与えた。

その第一
闇夜の中では方角が定めにくいので、昼間、実地見聞して攻撃目標を正確に把握しておくこと。
その第二
実行するに当たり、白昼、地形を充分に熟知しておき、その距離感を掴んでおくこと。
その第三
闇夜の行動は、仲間と逸(はぐ)れ易くなるので二人一組になって、互いを充分に注意し合うこと。
その第四
昼間充分に睡眠をとって、夜目(よめ)に慣れておくこと。
その第五
敵味方の識別方法を考えること。

 また敵に回った集団から発見されない工夫等を、促し厳重注意したのである。
 この劣勢集団は、私の言うことを厳守し、相手方の混乱と隙
(すき)を突いて鉢巻きを悉々(ことごと)く奪い取り、夜戦での戦いに大きな成果を収めたのである。

 そして忘れてはならない事が、もう一つある。
 それは「2乗均等
(じじょうきんとう)の法則」が働くと云う事である。

 喩
(たと)えば、実力相当の能力が均等で、10対6で、正攻法(奇計や謀略を用いず、正面から正々堂々と戦いを挑むやり方)で正面から対戦した場合、10の兵力が6の兵力を上回っている事は、誰にでも分かるが、では6の兵力は全滅したとして、一体10の兵力はどれだけ生き残るか、それは意外に、あまり知られていない。

 算術の計算で、単純に10マイナス6イコール4という数字にはならないのである。これは10という数字を2乗し、更に6という数字を2乗して、そこから計算するのであるから、100マイナス36イコール64になるから、つまり64は8の2乗であるから、生き残り数は8という事になる。これを結論からいうと、10の兵力は、僅か2の兵力だけを失えば、相手の6の兵力を全滅できる事になる。

 逆から見て、兵力が六割だと云う事は、6対10ではなく、36対100であり、兵力は六割ではなく36%に過ぎないのであり、相手方の総兵力の三割強が、6の方の実力と云う事になるのである。したがって劣勢側は、正攻法では絶対に勝てないのである。残る手は奇襲戦以外ないのである。

 よく時代劇のチャンバラ・シーンで、一人のヒーローが、敵を斬り捲
(かく)り、全滅させると言う芝居があるが、あれはあくまで芝居であって、現実のものではない。どんなに腕がたっても、最高で精々三人までであろう。これは高性能銃が発達した現代でも変わりがない。高性能銃を手に入れているのは吾(わ)が方だけではなく、敵も同じ性能の小銃を手に入れているからだ。戦い方は、敵も味方とも同じように進化するのである。時代的に同時進行しているのである。

 したがって、一人にバッタバッタと斬り倒すなど、絶対にあり得ないのである。更には、自分とほぼ互角の相手に対し、斬り合いをする中で、刺し違えて死ぬというのであれば、まだ勝つ可能性があるが、こちらが無傷で、相手側だけを全滅させると言うことは、大きな矛盾なのである。こんなことは現実には有り得ないのだ。それはアクション映画の世界であり、また一対一の試合の中の世界である。したがって、試合上手が実戦でも必ず強いとは限らない。

 人間が観客席を設け、「試合をする」という行為は、戦いで云えば、一種の正攻法の論理によって組み立てられた、ルールを厳守するもので、これは実際の実戦とは、大きく隔たっている。実戦では、正攻法にこだわる必要もないから、それは奇手
(きて)であっても構わないのである。奇手こそ、一対多数の場合は大きな決め手であろう。

 もし、一縷
(いちる)の望みがあるとするならば、まずこうした正攻法を回避し、背後から、綿密(めんみつ)な計算を立てて、それも夜陰に乗じた夜戦でなければならない。
 圧倒的な優勢な敵に対し、「負けない位
(くらい)」を満たす為には、尖鋭(せんえい)に秀でたゲリラ部隊の奇襲作戦が必要なのである。こうした奇手(きて)が用いられて、はじめて上手に負ける掛け引きができるのである。則(すなわ)ち、負けない位と言うのは、「上手に負ける」手段を指すのである。

 これを結論から言うと、組織戦において、サバイバルの勝者は、必ずしも強いだけが勝利者にならないのである。
 道場内における平地での戦いと、野外を舞台にした「三次元の実戦」での戦いは、大きく異なっていることであった。特に、野戦に於てはこれが大きい。自然を味方につけることが出来るからだ。
 この意味で戦いとは、大将同士の一騎打ちによる個人プレーで、組織戦を戦い抜いていけるわけはないのである。敵も、己も、先に「よく知る方」が勝つと言うことなのだ。勝たなくても、「負けない境地」は保つ事が出来るのである。

 また平面の、上下・高低の傾きのないリングの上で、試合する格闘技は確かに、序列があって、個人戦ともなれば、やはり強い者が、強いという結果に落ち着く事が多いが、そのチャンピオンとて、例えば、マタギと一緒に冬山に入り、ここで戦ったとしたら、30分もしないうちに、道に捲
(ま)かれ、銃撃戦ともなれば易々(やすやす)と殺されてしまうであろう。
 要は、実戦と云う自然相手に、自然をどれだけ理解し、その自然に適応して、奇手
(きて)と言う画策を練るのが重要なのである。
 私は、これまでのシュミレーションの結果から、このような経験を持っていた。肉体的な強さの序列ではなく、経験の量的なものが、実戦では問題になるのだ。

 取り敢
(あ)えず、私は一人で大勢の相手と戦うのであるから、相手方の戦闘訓練の如何が勝敗を決するのである。奴等が、私の考えているような訓練をしたことがあるのなら、私は敗北するであろうし、逆に、そうした訓練をしていなければ、勝因は、私にある筈だと考えていた。

 ただ気になるのは、バズーカ砲は登場しないにしても、前田道場の用心棒の居合が出てくるのか、出てこないかであった。もし、出てくれば真剣で武装してくるだろう、という推測に至ったが、これについては、最後まで調べることができなかった。そしてあの登録証のない、新々刀の庄司次郎太郎直胤
(しょうじ‐じろうたろう‐なおたね)の行方であった。



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