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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 51

燕子花図(イラスト/曽川 彩)

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●かきつばた

 宿は高校・大学と、かつて訪れたことのある『さかいや旅館』だった。
 高校の時は修学旅行で、大学の時は工場見学で日本航空を見学した時に訪れた学生相手の山谷的な三流旅館だった。
 私が旅館を訪れると、ここの若い女中さんは、私がたいそうな美術書を持ち歩くものだから、神田神保町界隈
(東京都千代田区内の一地区)の、近くにある大学の非常勤講師と思ったらしい。おそらく美術史の講師と間違ったのだろう。
 夕食のときも、私を「先生」と呼び、朝食のときも「先生」と呼んだ。
 そして朝、出かけるときも「先生」だった。
 その日一日の締め括
(くく)りは、夕刻、由紀子へ電話をすることだった。
 社交辞令のような、在
(あ)り来(き)たりの電話であるが、それでも約束通りに掛けてくる電話に、由紀子は私が羽目を外しているのではなく、真面目に古美術関係の仕事をしているものと思われ、電話の応対には凄く機嫌が良かった。
 私の遣
(や)ることは、由紀子への電話で、その日が終了するのではない。食事を了(お)え、由紀子への電話が終ると、またこれからが一仕事なのである。午後七時頃から、深夜まで図書館で借りた美術書籍の猛勉強をしなければならなかった。重要事項をノートに書き抜き、それを頭に叩き込まなければならない。
 私は日本美術と名の付くものの総てに亘
(わた)り、猛勉強をする必要があった。そして午後七時頃から始まった日本美術史の勉強は、深夜まで及んだ。これを短気で習得しなければならなかった。

 次の日も図書館に通った。
 判を押したように同じことを繰り返した。そして、こうした繰り返しが三日間続き、明日は四日目の、いよいよ最終日となった夜の事である。
 食事を了え、由紀子への電話も済ませて、東京での最後の夜、例の如く日本美術史の勉強を遣っていた。

 その時である。
 部屋の襖
(ふすま)の外から、毎日、私を先生と呼ぶ若い女中さんの声がした。
 「あの……、先生。少しよろしいでしょうか」と、些
(いささ)か遠慮気味な声を掛けられた。
 私は襖越しに、「はあ、構いませんが」と返事をした。
 女中さんは、「失礼します」と断って襖を開け、何か云い難そうにもじもじしていた。
 私が「何か……」というと、その女中さんは、「実は……」と切り出した。
 それでも、まだ何か云い難そうに、「実は、わたくしどもの処に、お嬢さまが居
(お)りまして、その……実は……」と尻切れとんぼで、何か云い難そうに切り出した。
 「それで……」私は聞き返す以外なかった。
 「実はお嬢さまが、いま、お泊まりのお客さまの中に、大学の美術史の先生がいてという、先生のことを御存じで、その先生とお話をしたいと申しておりますが、少々お時間を拝借頂けませんでしょうか」
 「はあ?」私は一瞬、呆気
(あっけ)にとられる以外なかった。
 私は最後まで、この界隈の大学の美術史講師に間違われているらしい。N大芸術学部美術科の美術史講師にでも間違われているのであろうか。

 「お嬢さまは、いま、お躰を悪くされ、もう一年近くも床に臥せって闘病生活を続けられて居りますが、少し体調がよろしい時は起きて、絵を描かれるのでございます。ご病気をされる前はM芸術大学に通われておられたのですが、ご病気で休学したままで御座います。
 わたしどものお泊まりのお客さまに、美術の先生が居られると云うと、たいそうお喜びになって是非お合いしたいと申しているのでございます。もし、お時間を拝借願いますれば、少しだけで結構で御座いますから、お話の相手でもして頂けないでしょうか」
 女中さんの声が、あまりにも切なる願いのように、私には聴こえた。
 「はあ、それは構いませんが」
 「では、お嬢さまの処に御案内します」
 女中さんはそう云って、私をその娘が臥
(ふ)せっていると言う「離れ」へと案内した。恐らくそこは、此処の旅館に併設されている離れ家であろう。渡り廊下を通り、横に庭園らしき離れ石を見ながら、ある部屋へと案内された。
 女中さんは、「お嬢さま。いま先生をお連れ致しました」と襖の前に坐り、中に声を掛けた。
 中から「どうぞ、お入り下さい」と声掛かった。その声は何となく、弱々しい声だった。一年近くも闘病生活をしていると言うからそのせいだろう。

 私は部屋の中に案内された。そして今まで床に伏せていたであろうと思われる娘の前に通された。
 娘は、「お見苦しいとは存じますが」と断り、床の中に静坐した。その娘に女中さんが羽織を羽織らせ、「大丈夫で御座いますか」と声を掛けた。
 娘は、「志乃さん、お願い」と何かを要求したようだった。その要求が、私には何かは知らないが、女中さんは「はい、畏
(かし)まりました」と云って下がっていった。
 娘は美形だが、躰の線は何故か細く、弱々しかった。病気のためだろうか。歳の頃は二十歳前後と言う感じだった。そして、ふと、横に眼を遣
(や)ると、大きな画紙に見事な燕子花(かきつばた)の画が水彩画で書かれていた。一瞬その絵の迫力に息を呑まれ、はッとした。
 「その画、まだ途中なんです」娘は、私がそれに気付くと、すかさず切り返した。
 実に大胆な画であった。縛り付けられ、呑まれるような迫力である。
 娘の躰の線に反比例して、そこに描かれた燕子花の画の線は太くて力強かった。
 燕子花はアヤメ科の多年草であり、池沼や湿地に生じ、高さ約70cmほどの背丈である。葉は広剣状で、初夏に花茎の先端に大形の花を開く。色は通常紫または白であり、大きな三枚の外花被片には、中央に一本の白線が入る。日本では古くから鑑賞用の花として知られる。
 日本美術史では、燕子花は江戸中期の画家の尾形光琳
(おがた‐こうりん)の『燕子花図屏風』で有名である。

 私が描き掛けの燕子花の画に眼を止めたことを、この娘は見逃さなかった。そして、その画に何らかの批評を受けたいふうであった。
 「その画、あたしが三年前、京都に行った時に仙洞御所
(せんとう‐ごしょ)の池で、燕子花を観(み)てスケッチしたものを起こして、いま描き上げているところですの」
 私は「仙洞御所」という言葉に強く惹
(ひ)き付けられた。私も予々(かねがね)そこを訪れたいと思っていたからだ。
 「……………」
 「でも、何か抜け落ちていて、それが何か分かりませんの。ご教授願えないものかと、先生を此処までお呼び致しました。何か、ひとことお願いできれば……」
 この娘は私を験
(ため)しているのであろうか。私には、そんな気がしてならなかった。
 私は美術史の猛勉強の中で学んだ古典から『伊勢物語』のある一首を口ずさんだ。
 『伊勢物語』は御存じのように、平安時代の歌物語で作者未詳である。しかし、在原業平
(ありわら‐の‐なりひら)らしき男性の一代記風の形で、色好み、則(すなわ)ち男女の情事を中心に、風流な生活を叙した約125の説話から成る物語である。

唐衣(からごろも) きつつなれにし つましあれば

はるばるきぬる 旅(たび)をしぞ思ふ
(『伊勢物語』より)

 一昨日、俄
(にわか)に覚えた一首を口にしたのである。
 娘もそれに応じたように、「まあ、
“かきつばた”ですね」と娘は驚いたような声を上げた。
 「よく御存じですね」
 「唐衣の“か”、きつつなれにしの“き”、つましあればの“つ”、はるばるきぬるのは”、旅をしぞ思ふの“た”。それそれの頭をとって“かきつばた”でしょ?『伊勢物語』の一節じゃありませんこと」
 娘は見事に伏せられた言葉の謎解きをしたのである。私に返事を求めるように聞き返し、こぼれるような笑顔をつくった。
 「そこまで御存じならば、何も考えあぐねる必要はありません。あなたの考え通りに描いて御覧なさい」
 私も嬉しくなったのである。
 この、一見分けの分からぬ禅問答のような言葉に、娘は納得したのか、平安中期の歌人・平兼盛
(たいら‐の‐かねもり)の一首を詠(よ)んだ。
 「先生は『忍ぶれど 色に出てにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
(平兼盛)』という歌、御存じかしら?」
 不思議な縁により、いよいよ知能戦の始まりだった。
 「?……………」
 「恋とは、如何なるもので御座いましょう?」
 娘が澄んだ声で問うた。
 (何か鋭いと思う)思わぬ不意を衝
(つ)かれて絶句したが、「朝の露(あした‐の‐つゆ)と思って下さい」とすかさず切り返していた。喋ってしまった後で、一瞬、気障(きざ)な言葉を吐いたものだと後悔した。
 「朝の露?……」
 「そう。朝露(あさつゆ)
 「?…………」
 「朝露は朝、草葉などに溜
(た)まる露(つゆ)ことです。しばしば人生が儚(はか)く、人の命の消え易いことの喩(たと)えに遣(つか)われます。もともと、この世には存在しないもの。
 しかし、人はこの儚いものを追って奔走します。幻
(まぼろし)を追いかけて、心をときめかせ、その一方で心を迷わせます。そして、肉の眼に見えるものは迷いを生みます。心の眼を開いてこそ、迷いが去り、本当のものが見えて来ます。本物をしっかりと見据えなさい」
 「何だか、難しいですわねェ」
 「そうです。難しいのです。難しいから、これは偉い禅僧の“受け売り”なのです」
 「そうでしたの……」種明かしに驚いたように言う。
 私がこう云うと、娘は矢庭
(やにわ)に笑った。
 「なんだ、そんなことかと思ったでしょ?」
 「ええ、“受け売り”だなんて種明しするのですもの。つい可笑しくなって」
 娘は口許
(くちもと)を、浴衣の上から着た羽織の袖(そで)で押さえた。
 「こちらも困りましたよ、質問に禅問答で切り返されたのですから……」私も皮肉まじりの笑いを、言葉にして返した。
 しかし“受け売り”と種明ししてから心は随分と楽になり、初対面ながら打ち解けた感じがしたのである。
 「申し遅れましたが、わたし境美鈴
(さかい‐みすず)と申します」娘は自己紹介した。
 「ああ、これはこれは……ご丁寧に。岩崎健太郎です」恐縮したように頭を下げた。

 二人が名乗り合ったところで、襖の外から先ほどの女中さんの声がした。
 「お嬢さま、よろしゅうございますか」
 「ええ、どうぞ」
 女中さんが小さな包みを持って部屋に入り、それを美鈴と名乗った娘に手渡した。そして私にお茶と茶菓子を置いて下がって行った。
 美鈴は小さな包みの結び目を解きながら、「これ、先生に貰って頂けるかしら?」と包みの中から小さな箱を取り出した。それは7cm×9cm程度の長方形に、厚みが3cmほどの漆黒塗りの箱だった。
 私が手に取ると、「蓋
(ふた)を開けていただけないかしら」と云い放った。
 蓋を開けると、箱の底には実に見事で繊細な蒔絵
(まきえ)が描かれていた。
 「これは凄い」私は思わず感嘆の声を漏らしていた。
 平安時代の貝合せのような貝の裡側
(うちがわ)に、絵と歌の上の句を描いた見事な漆絵だった。
 「それ、あたしが悪戯半分に描きましたの。色漆
(いろ‐うるし)を遣(つか)って約半年掛りで」
 「これを頂けるのですか?」
 「ええ、是非先生に貰って頂きたいの。先生だったら絵を知る人と思っていますから」
 「どうして、これを私のような者に?……」
 「あたし、血液の病気なんです。でも、移りませんから心配しないでください」
 そう聴いて言葉がなかった。

 白血病のような血液のガンでも抱えているのだろうか。白血病は、白血球の腫瘍性増生を来す疾患である。
 「……………」余りにも気の毒だった。
 「時々貧血を起こして、寝込んでしまいますの。感染抵抗力も低下しているので、外に出ることも、人に合うことも、今ではお医者さんから止められています。でも、毎日がこんなふうで、退屈でしょうがないから、絵を描いたり、本を読んだりで退屈を紛
(まぎ)らしているのです。
 最近、フランスのアンドレ・ジードの書いた『狭き門』を読みましたの。この小説は、外見は甘味な恋愛を挙げていますが、あまりにも美しい反面、禁欲的信仰と生との矛盾を提起しています。恋愛を描きながらも、一方で悲劇的な展開がなされています。そして、お互いが相手を美化すると悲劇が起るとしています。
 ヒロインのアリサはジェロムを愛しながらも、やはり離れていってしまいます。天国へ至る門は確かに狭き門と思いますが、アリサが天国に二人で入るには、これが如何に狭いかを感じて、遂には身を引きジェロムと別れていってしまうのです。そして、最後は孤独な旅に出て死んでしまいます。
 でも、ジェロムはアリサが死んだ後も、彼女の幻を追い続けながら、慕い続けていくのです。恋とは、結局そんなものなのでしょうか。もし、そうだとすれば、いま先生が仰
(おっしゃ)った“恋は朝露のようなもの”ということも、何だか理解できるような気持ちになります」
 「……………」私はただ聞く以外なかった。
 「あたし、もう直、死んでしまうのです。そんな気がします。恋を知らぬまま死んでいきます。
 だからこそ、その“蒔絵箱”を先生に貰って頂きたいのです」
 「それは大変な思い違いでしょう。だいいち私は、ここの女中さんに、多くの美術書を抱えていたから、何処かの大学の講師と間違われたのでしょうが、私は大学講師でもないし、あなたが云うような先生でもありません」

 これを聴いた美鈴は、暫
(しばら)く黙っていたが、
 何かを思い立ったように「では、何ものなの?」と訊
(き)き返してきた。
 即断を迫られ、返答に窮
(きゅう)したが、機に応じて口から出鱈目(でたらめ)な冗談混じりで、「天下無禄(てんか‐むろく)の、一介の痩(や)せ浪人です」と答えてやった。
 こう答えた私を、彼女は暫
く私の顔を見据えていたが、何か可笑しくなったのであろう、口許を袖で押え、くすくすと笑い出した。
 「どうして痩せ浪人ですの?」
 「これといった定職がなく、無職に近い自由人業だからです」
 「自由人業?」
 「そう、自由業ではなく自由人業です」
 「その自由人業とは、如何なるお仕事でしょうか?」
 「夢を追い掛けるから自由人。それを生業
(なりわい)にすれば“自由人業”となります。無理にご理解して頂かなくても結構です」
 「でも、何となく分かりますわ」
 「したがって、こうちた精魂を込めた素晴らしい作品を頂く人間としては、私は不適当です」
 「だから、やはり貰って頂きたいの、痩せ浪人さんに」
 どうやら私は、これを辞退することが許されないようだ。断れない運命は決定されたように思われた。
 これも、何か眼に見えない、神の手に操られているのであろう。

「死ぬなどと、簡単に諦めないで下さい。人の運命は病気が決定するものではありません。人間は病気では死なないのです。人が死ぬのは寿命です。病気ではなく寿命で死んでいきます。
 また生きる因縁があれば、如何なる最悪の病態であろうとも、長生きしますが、生きる因縁がなければ、人間は直ぐに運命の陰陽に操られて、天の命から殺されてしまいます。
 見るところ、あなたは少なくとも、いま直ぐに死ぬような因縁は持っていない。
 まだ寿命は尽きていません。大丈夫、もっともっと長く生きます。あなたの頭上には、そんな赫
(かがや)きがあります。これは何となくそう思うのではなく、断言です」

 別に励ます意味で云ったわけではなかったが、燕子花
(かきつばた)の画は、まだ未完成である。
 これが未完成である以上、彼女はまだまだ死ねないのである。
 もっと生きるだろう。そう検
(み)たのである。
 運命は、天の命は、彼女に未完成を残して死なせるほど、甘くはないだろう。
 むしろ、まだまだ生かさせて、未完成を少しでも完成に導くはずである。私は彼女の描いた未完成の燕子花図を観
(み)て、そう思ったのである。

 「とても、いいお話、有難う御座います」
 彼女は深々と頭を下げた。何か一つ勇気を取り戻したようであった。
 私は彼女の差し出した小さな蒔絵箱
(まきえ‐ばこ)を、一応預かることとして、この場を退散した。
 部屋に戻り、再び蒔絵箱を開いてみたが、見れば見るほど素人離れしており、蒔絵師顔負けの職人業
(しょくにん‐わざ)と思われた。これには一つの執念が罩(こも)っていた。果たして私ごとき凡俗が、これを頂くだけの資格があるのだろうか。そんな反芻(はんすう)が繰り返されるのだった。



●藤四郎

 最終日の翌朝が遣
(や)ってきた。
 この日は、午前中までみっちりと勉強し、研究しなければならない。そして午後から新幹線で京都に向かうのである。それまでは猛勉強だ。即席の猛勉強であるが、即席は即席なりに、別の形で効果を上げなければならない。手抜きは許されないのだ。

 朝起きて、朝食の給仕を受けているとき、昨日、美鈴と名乗った女性から預かった蒔絵箱の包みを、三日間世話をしてくれた女中さんに、「これは受け取れない。分不相応だから返して下さい」という旨を伝えた。
 女中さんは妙な顔をしたが、「天下無禄の、一介の痩せ浪人には、荷が重過ぎますといえば分かります」といって、お返しする旨を伝えた。
 私ごときの痩せ浪人に大層なものを受け取る資格はないのだ。何故ならば、私は自由人業であるからだ。
 昨日のうちに、蒔絵箱の中に『葉隠』道歌の一首を書いて、箱の中に入れておいたのである。

恋死なん 後の煙にそれと知れ ついに漏(も)らさぬ中の思いは

 この短歌の意味を、境美鈴
(さかい‐みすず)は果たして理解してくれるだろうか。
 私は理解してくれて、彼女が、自らを慈
(いつく)しんで、寿命を全うしてくれることを希望した。そして朝食後、この旅館を後にしたのである。
 この最終日、全力を尽くす以外なかった。とにかく調べ尽くすことは、一応調べたつもりでいた。そして午後からは、その実践をするのだ。知る事は行う事の、陽明学で言う「知行合一
(ちこう‐ごういつ)」を実践するのである。
 さあ、これからが正念場
(しょうねん‐ば)と思う。
 この「知行合一」は、明の王陽明
(おう‐ようめい)の学説である。
 王陽明は、朱熹
(しゅき)の説く朱子学(しゅし‐がく)の先知後行説が「致知」の「知」を経験的知識とし、広く知を致して事物の理を究めてこそ、実践しうると説いた学説に真っ向から対立する哲学を展開した。
 王陽明の学説は、「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は「行」のもとであり、行は「知」の発現であるとし、知と行とを、同時一源のもの捉
(とら)えたことにあった。
 これは当時としては、革命的な学説であり、後に行動原理の根本真理となったのである。
 私は今まで学んだことの「知」を「行」として、ただ「知行合一」を実践するのみであった。
 正午を少し廻った頃、図書館を出て、タクシーで東京駅に向かった。そして新幹線の自由席のキップと乗車券を買い求めて一路、京都に向かった。


 ─────むかし大学の頃、京都御苑で道を尋ねて知り合った、京都市左京区在住の女子高生に郁子
(いくこ)という言う娘がいた。彼女は髪がサラサラの“おかっぱ頭”をして、可愛らしい貌(かお)をしていた。
 苗字は既に忘れてしまったが、名前の「郁子」だけは、よく憶
(おぼ)えていた。
 あの可愛い貌をした郁子は、今どうしているのかと思うのだった。
 あの頃、私が大学四年で、彼女が確か高校二年生だったから、歳の差は五歳ほどだった。あれから五年経っていた。今ごろ、何処かの大学に行っているか、あるいは結婚して嫁に行ったかも知れない。
 その時、彼女から親切に京都市内を市電で案内されたことがあった。そして観光地を一通り観て廻った後、彼女が次に案内したところは、上京区の同志社大学の裏庭の芝生の上であった。
 そこで坐り込み、陽が沈むまで語り合った事があった。

 いま彼女はどうしているのだろうかと、ふと昔の想い出に浸る京都であった。私に過ぎ去りし日の京都の街を、一瞬思い出させてくれた。
 京都駅に着き、北口から駅の外に出て眼の前に迫って来る京都タワーを見ていよいよ京都に来たかという、そんな印象で京都の土を踏み、そこから徒歩で丸太町通りの仙洞御所
(せんとう‐ごしょ)へ向かった。歩いても大した距離でなく、せいぜい20分程度であろう。

 炎天下に照らされながら、烏丸通り真っ直ぐ北上した。市電に乗れば御所までは直ぐだが、歩いて、街並みの古風な造りを見たかったのである。日本建築の勉強なるし、また京言葉の嫋
(たお)やかな京訛りの音色を思わせる、こうしたものにも触れてみたいと思ったからだ。
 汗を吹きながら北上して、やがて仙洞御所の入口に着いた。

桂離宮・庭園。桂離宮を含めて、仙洞御所や修学院離宮を参観するには、宮内庁京都事務所宛に参観申し込みの手続きをしなければならなかった。

 ところが、仙洞御所に着いて分かったことだが、此処を参観するには、面倒な手続きが必要だった。
 入場資格は18歳以上と限られ
(これには問題ないが)、官製往復はがきで、参観希望場所を作成し、あらかじめ仙洞御所(せんとう‐ごしょ)・桂離宮(かつら‐りきゅう)・修学院離宮(しゅうがくいん‐りきゅう)の参観を希望する場合は、宮内庁京都事務所宛に申し込み、決められた日の、決められた時間に、庭園を見せて頂くというルールに則(のっと)らなければならない事であった。
 私は、思わず「アチャー!」と大声を張り上げてしまった。折角
(せっかく)此処まで来て、参観できないとは、いったい何たる事であろうか。
 しかしこの儘
(まま)では引き下がれないと思い、もう一度受付の係員に掛け合い、何とかならないか、ごねてみた。係員は判子(はんこ)を押したように「駄目です」の一点張りを繰り返すばかりだった。そしてこの種の人に、何度言っても無駄であると悟るのに、そんなに時間が掛からなかった。
 そして、もう一度「アチャー!」と大声を張り上げてみた。

 そのとき下駄履きの、しょぼくれた老人が傍
(そば)を通りかかった。その爺さまの下駄がチビって、まさにしょぼくれていた。
 老人は私を見て、こう言うのだった。
 「あんはん、さっきから、何を“アチャー!アチャー!”言っておますのや。花菱アチャコ
はなびし‐あちゃこ/大阪の漫才師で、『二等兵物語』で伴淳三郎と組んで当時人気者だった)やおまへんでェ。ここはなァ、三ヵ月前に、ちゃんと宮内庁に申し込んどかんと参観できませんのや」
 しょぼくれ爺さまはこんなことを抜かしおった。アチャコ世代の爺まさだろう。
 「そうらしいですね」
 「知らはんかったんか?そらァ、えろう災難やなあ」
 しょぼくれ爺は同情するように言った。
 「はあ……」
 「何処からお出ではったん?」
 「福岡県北九州市からです」
 「そらァ随分と遠くから……ご苦労はんなこっちゃなァ」
 「仙洞御所の庭園を参観しようと思ったのですが、参観できずに残念です」無念の表情を露
(あらわ)にしていた。
 「そら、可哀相になァ」
 「まったく……」
 「ほならァ、庭園を見るくらいの時間潰しやったらァ、“うち”へ寄って行かれまへんか。狭い処やけど、小さな庭もおます。仙洞御所とはいかずとも、その百分の一の箱庭くらいはおますで。ほな、行きまひょか」
 こう言って、私をしきりに誘うのである。誘うと言うより、人の返事も訊
(き)かず、勝手に決めてしまったような観があった。そして一瞬ではあるが、この老人のキラリと烱(ひか)る鋭い目が気になった。
 その目を見て、矢張り蹤いて行くべきだ感得したのである。この目、徒者
(ただもの)ではない。このしょぼくれ爺には、何か得体の知れないものが隠されている……、そう検(み)たのである。

 そして、私の都合も訊
(き)かず、勝手にどんどん先へと歩いて行くのであった。
 「もし……、御老人」と声を掛けても、私の意向はお構え無しに、先を歩くのだった。先導しているのであろう。
 この老人は実に瓢逸
(きょういつ)な人だった。世間の事を気にしない、そんな人に見えた。その得意な服装を見ると、白地に明るい薄茶色の“搦(から)み織”の絽(ろ)の着物に、茶色の筒袴を履いていた。下駄は相当にちびっていた。一体この老人が如何なる身分の人か、予想が出来なかった。また金持ちなのか、貧乏なのかも計りかねた。貧乏のようで金持ちのようにも見える。余裕があるように映るのである。
 だが、これも「何かの縁」と思って蹤
(つ)いて行くことにした。老人の下駄がカラコロと響いていた。そして賀茂川沿いに蹤いていった先は、京都市左京区烏丸○○上ルだった。

 門構えに威厳があったが間口はそれほど広くなく、だが奥行きの深い。一見して京都特有の町屋という感じであった。奥に入って驚いた。それは何とも大層な邸宅だった。一瞬、豪奢
(ごうしゃ)な公家邸か神官邸を思わせた。
 座敷に通され、「お茶でも、どうでっしゃろ」と言われた。「お言葉に甘えて」と、座敷へと上がらせて頂いた。そして座敷から見える庭が実に見事だった。庭と言うより、まさに庭園である。先ほど老人が、「仙洞御所とはいかずとも、その百分の一の箱庭くらいはおますで」の言葉の意味は、これを見せる為の方便であったのだろうか。だが、自慢するでもなかった。淡々としていることからして風流を解すのだろう。
 私は「実に見事ですね」の言葉を最後に、とうとう絶句してしまった。
 人間、上には上がいるものだと思った。人の上には人がいるのである。確かに天は人の上に人を造っているのだった。決して平等などではない。研鑽を積んだ人間は、確かに凡俗の並みの人間の上に、精進に精進を重ねた跡を見せていた。その跡を、私はこの老人に確
(しか)と観たのである。凄い人だ。
 先ず眼の前に飛び込んだものは、森閑
(しんかん)とした枯山水(かれ‐さんすい)を想わせる庭であった。庭に惹(ひ)き付けられて、廊下の板張りに出てみた。そして縁側の大きなガラス戸は、室内に涼(りょう)を取るために開け放たれていた。そこには解放感が感じられ、一つの宇宙を構成していた。

 京都の夏は蒸し暑いと聞いていたが、此処だけは別世界だった。気持ちの良さそうな春風が吹き抜けて行くような爽
(さわ)やかさを感じた。奥まった造りをした京都の町屋では、その狭き空間がゆえに涼しい風が吹き抜けていた。京都人の智慧であろう。
 八月上旬の、外は照りつける炎天下の猛暑でありながら、この庭は異次元に迷い込んだ錯覚を抱かせる。見間違うばかりの清々しさがあった。此処に、古来よりの日本人の智慧
(ちえ)の数々が展開されていた。
 外では蜩
(せみ)の大合唱である。蝉時雨(せみしぐれ)の声がひとしきりだった。
 だがその蜩の声も、実にいい。庭の風景に溶け込んでいた。木陰から蝉時雨が響いているのである。それに暑苦しさを感じないのは何故だろう。
 私は絶句したまま、縁側で胡座
(あぐら)を組んで、暫(しばら)く庭を眺(なが)めた。
 普通、夏場の灼
(や)け付くような蝉時雨は暑苦しく感じるものだが、ここでは蝉の声に清涼感があった。なぜか爽やかに感じられるのである。不思議な空間だった。私の裡(うち)では静かな時間が流れていた。

静寂な佇い。静寂とは、音がないことではない。適度な、耳障りを感じさせない音が存在する、そこが静寂の真っ只中なのである。

 苔
(こけ)に覆(おお)われた築山(つきやま)があり、その覆われた苔の茂みは以外と深い。また、そこから甃(いしだたみ)が庭の中央に延びていた。そしてそれを取り囲む白砂利は、陽の光りを照り返して、白く眩(まぶ)しい光を放っていた。
 此処には孤独と寂寥
(せきりょう)と、そして瞑想を耽らせずにはおかない、何かがあった。私は今まで、こういう味わいのある静けさの世界を、まるで知らずに過ごしてきたのだった。
 総
ての音と光は、築山の庭苔(にわごけ)に吸い取られてしまうのではないかという錯覚を抱かせた。
 蜩
(せみ)の声さえ、吸い取り、その声を調べに置き換える、何かが働いているのである。
 一般に静寂と言えば、「音が無いこと」を静寂と勘違いするようであるが、静寂とは、決して音が無いことではない。耳障
(みみ‐ざわ)りを感じさせない、適量な音が存在しているからこそ、それは自然であり、また寂寥(せきりょう)の要素になり得るのだ。

 例えば、小川の“せせらぎ”とか、秋の“虫の声”とか、あるいは夏場の“蜩の声”などもそうである。そして風に揺らいで鳴り響く、風鈴
(ふうりん)もその一つであろう。
 この庭には、その静寂の透明の中に名石が点々としていた。一見乱雑に置かれたかのように見えるが、実は整然とした規則によって配置され、その儘
(まま)宇宙の玄理(げんり)に結びついているのではないだろうかと奥深い幻想を抱かせるのだった。
 石と樹木による枯山水
(かれ‐さんすい)の庭の構成。そして自然物を素材として、構成される動かぬ佇(たたずま)い。そうした物言わぬこれらの戸外作品は、それだけに、天候如何で、様々な表現を催す事であろう。
 これからの季節は、樹木の深緑が、やがて紅葉に変化することだろう。それは実に見物に思われた。

 蝉時雨は未
(いま)だ鳴り止まず、脳裡(のうり)に染み入って来るが、私は既に、幽(かす)かに秋の気配を感じ取っていた。この庭は、やがて秋には紅葉に染まり、そこで“落ち葉時雨”が始まることであろう。
 また冬には、雪で白一色となり、深閑
(しんかん)とした静寂を取り戻す。観る者に、心の引き締まる凛(りん)とした印象を与える。
 そして春には、桜の花弁
(はなびら)が乱舞することであろう。そんな光景が、今にも眼の前を鮮やかに覆(おお)いつつあった。想いが、脳裡を美しく駆け巡るのである。
 そして再び冬に引き戻され、葉を落とした木々や、この辺りの静まり返った景色は水墨画のような世界が現われるのである。それは限定的であろうことを想像した。
 私はいつしか、この庭の春夏秋冬の、変化を齎
(もたら)す世界に引き込まれ、水墨を以て、描かれたような幽玄性(げんゆう‐せい)に、妙に心を惹(ひ)き付けられていたのだ。
 この意味で、枯山水
(かれ‐さんすい)と云う言葉には、一種独特の響きがあり、人を惹(ひ)き付けて離さない魅力のようなものがあるように思われた。
 庭の構造。それは無数の世界観や宇宙観が、この中に凝縮されているのである。動かぬ、そして物言わぬこれ等の自然物は、時間と空間を飛び超えて、醸造
(じょうぞう)され、円熟して、根を張り、日本人ならではの美意識の世界に誘(いざな)って、寂寥の縮図が此処に漂っているように思われた。そうした世界観が私の脳裡(のうり)に渦巻いていた。

 「あんたはんは、庭が理解出来る御仁
(ごじん)とお見受けしました。お気に召されましたやろか。まあ、そんな庭ばかり見とらんと、一服してお茶でも飲みなはれ。粗茶(そちゃ)どすけど、如何でっしゃろか」老人が背後から、こう声を掛けた。
 私は背後で老人の声を聞きながらも庭に見入って、「うーん〜」と唸
(うな)り、魅(み)せられていた。
 「何をそんなに、うーん〜、うーん〜唸っとりおすのや。お茶でも飲んおくれやす」
 「いや〜ァ、これは実に見事ですね!」
 「そんなに力
(りき)までも宜(よろ)しいがな」
 「でも、実に見事です!」
 「これはこれは、お褒
(ほ)めに預かって光栄どす」

 そしてお茶を頂こうとして、振り返った二間ほどの床の間の「違い棚」を見て唸らざるを得なかった。
 一個の茶碗、一幅
(いっぷく)の掛け物に、大金を叩(はた)いて購入したものと思われる物が、そこら中をゴロゴロしていた。
 然
(さ)りげ無く座敷を飾っている「貫名海屋ぬきな‐かいおく/江戸後期の書家。幕末の三筆の一人)」の書額に寒雉かんち/江戸中期の釜師で、宮崎寒雉)の鉄瓶(てつびん)。更には、今お茶として出された永楽善五郎作の赤絵金襴手(あかえ‐きんらん‐で)の極彩色物の煎茶茶碗(せんちゃ‐ぢゃわん)
 この家では、こうした高価な書画・骨董類を生活必需品として、何気
(なにげ)なく日常生活の中で使っているのである。ゆえに総てが生きていた。これは唸るしかなかった。
 本来は見る美術品が、ここでは生活の一部に溶け込んで居た。そして、それが全く不自然を感じさせないのである。
 周りを見渡せば、古伊万里
(こ‐いまり)の鉢(はち)が飾られており、吉田窯(よしだ‐がま)の徳利があった。
 他にも、陶磁器色絵物、古赤絵や鍋島
(なべしま)、古伊万里や柿右衛門などがさり気なく置かれ、このお宅では、観賞陶器の影響を殆ど受けていないように窺(うかが)われた。本来ならば鑑賞用として、美術館に展示品として置かれていても訝(おか)しくないものが沢山あった。殆どが国宝級に近い。

 「あんたはんは、庭だけではなく随分と書画骨董がお好きな人とお見受けします。あんたさんの目を見て、よう分かります。本当にあんたさんは、こうしたものが本当にお好きですのやね」
 「はあ、駆
(かけ)出し者ですが……」
 「では、“虎穴に入らずんば、虎子を得ず”という言葉も知っとりおすか?」
 「?…………」
 「書画骨董が本当に好きで、これを求めんとするならば、“目利
(めき)き”の人に接して勉強しなければなりまへん。本の上だけの知識では役に立ちまへん。この事が、よう分かっとらんと、絶対によい物は手に入れる事が出来まへん。そして、目利きの人から買うか、譲るかしてもらっておけば、必ず、そうした物は日とともに、美術品としての価値がどんどん上がっていき、いよいよ美術品に対して、楽しい希望が生まれくるものどす。
 しかし今までと違い、今後の書画骨董の世界では、余程この道のこと、よう研究や探究せんことには、掘り出し物も見つけ出すことができまへん。
 売る人が目が利かず、買う人が目利きならば、売る人の負けでおます。また、この逆もおます。
 したがって、いい加減な研究で自信過剰に陥ったり、修羅場
(しゅら‐ば)の真剣勝負を避けて通るようなことをしていては、よい物を見る目は養われず、こうしたことでは寔(まこと)に浅慮(せんりょう)と言わねばなりまへん。これこそ、固く慎(つつし)まんと、いかんのと違いますやろか。
 これを投機的に買い漁
(あさ)っている人にも、同じ事が言える思うのどす。
 昨今は、投機は株式か、骨董か、と言われておりますけど、株式を買うか、骨董を買うかの問題は、これを同じ土俵の持ち出して論ずるのは、ちと訝
(おか)しいのと違いまっしゃろか。わては、そこんところが、どうも残念でたまりませんのや」
 「………………」私は黙って聞き入っていた。成る程と思う。
 最初、しょぼくれ爺と感得したのは、私の大きな誤算だった。接していると、その大きさが徐々に思い知らされるのである。私の前に、この爺さまは巨人のように聳
(そび)え始めた。私は人を見る眼を完全に見失っていた。今まで、何処を見て修行して来たのか、と自らに叱責が疾(はし)るのであった。そして自身で、自分の凡眼が腹立たしかった。

 「真に古美術を愛する人は、金儲けには無関心で、精神の世界に素晴らしい喜びを持ち、心の富者として、名器と共に、清貧に甘んじる心境に至れる人こそ、真に好ましい愛好家と言えると思うのどす。
 つまり、骨董は投機の対象から外れて、欲張り者より、好き者としての道を選び、日本文化と共に生き、これに誇りを感じていく心が大切なのと違いまっしゃろか。

 掘り出し物は、骨董の世界を愛する者達の一つの夢であり、この夢があればこそ、この道を愛する者は、希望を持って、それに邁進
(まいしん)することができると信じます。
 どうか、あんたはんも大いに見て、大いに学び、大いに掘り出し物を探し求め、物を見る眼を養い、この道に絶え間ない研究と努力を注ぎ込んでおくれやす。
 あんたはんの意見も聞かず、わし、一人でしゃべってしもうたけど、あんたはんは本当に古美術を愛しているとお見受けしたから、失礼も顧みず、つい年寄りの独り言が出てしもたのどす。どうか、口の過ぎたことを堪忍しておくれやす」
 私は、じーんと心に感じるものがあり、黙って聞き入っていた。凄い精神世界を語っているのだ。
 この老人の誘われるまま、このお宅まで蹤
(つ)いて来たが、蹤いて来て、本当によかったと思った。私の眼の前の、邪魔な鱗(うろこ)が、また一つ墜(お)ちたような気がした。
 そして老人は、鍔を納める箱のような物を取り出して、私にこう言うのだった。
 「あんたはん、この鍔、ご存知ですやろか。あんたはんの強そうな腕っ節をみて思うたんやけど、些か剣に通じているお方と違いますやろか。剣術か何かの心得があるように検
(み)みましたんやが、ちごうとりますやろか。そこで、この鐔(つば)を見せて、失礼やと思うたんですけど、さて、この鐔、あんたはんは、どう検ますやろか」
 「あッ!」思わず声を挙げた。
 まさしく、安親
(やすちか)だった。私にはそう見えたのである。
 刀剣・小道具の書籍によく紹介されている有名な鐔であった。
 「これ、ようできた贋作
(にせもの)でおます」
 「えッ?!……」
 私は疑問に思ったが、老人は直ぐさま切り返し、「これ、銘に安親
(うあすちか)とあるますやろ、しかしよく作られた贋作でおます。この鐔なあ、四条の骨董屋が持って来たんやけど、幾らでもいいから買ってくれんかと言いますのや。幾らだ?と訊くと、50万と抜かしよりました。吹っかけですわ。それに、こんな贋作、買い取っても仕方ありまへんがなあ、しかし、これを放置すれば、この贋作に騙される人も、ぎょうさんおりますやろ。そこで、言い値で、50万で買い取りました。但し、これが贋作でおますと、釘は一応指しましたがなあ」と、あっけらかんに言うのであった。
 「見せて下さい」懇願するように言った。
 私は安親の鐔を手に取らせても、どこがどう贋作なのか知りたかった。
 「よく見ておくんなはれ。よそしゅうおますか、此処ですがな。此処、よく見ておくんなはれ。此処の“打ち返し耳”よくできてますけど、これ、土手耳ですがな。分りますか?」
 そう言われれば、そのようにも見えた。この老人は眼の勝負師の観察眼を持っていた。恐るべし……。

 「安親は打ち返し耳を得意とする鐔師でおます。しかし、この耳、土手耳です。打ち返し耳は鐔の外周を丁寧に打ち叩き、折り返す技法でおます。ところが土手耳は耳を作る際に円周状に地面より厚く仕立てます。よく似た耳どすけど、微妙に異なります。障泥形鍔
(あおりがたつば)こそ安親の特徴でおます」
 老人は鐔の古美術の専門用語を並べ始めた。
 それが私が、それに応じて蹤
(つ)いて行けるものと検たからであろう。そうでなければ、ここまでよくできた安親の贋作など見せはしないだろう。
 私は、自身の眼力とともに、剣術の実践家として、その腕のほどを験されているのであった。
 あたかも「あなたの腕のほどは如何ほどでしょうか」というような、験され方をしていたのである。鋭い老人だった。真剣勝負の場に引き摺り出されたような錯覚を抱いたのである。

 土手耳の鐔は、些か真剣の装着すると重く感じるし、また実戦において剣の切り返しをする場合は、手の甲を邪魔するため、あまり遣う場合はいいと言える物ではない。むしろ、耳は少しばかり薄い方がいい。
 真剣を使って鍛錬すれば、次場の善し悪しで、遣い勝手が善いか悪いか決まって来るのである。そのためには多くの真剣を検て刀身を研究するとともに、拵に装着した鍔自体も大いに研究し、その遣い勝手を熟知しなければならないのである。
 その意味で、贋作を見せられたことは、私に大いに勉強になった。
 そもそも日本刀は美術品である前に、武人の魂と心の姿の映しのようなものであり、それが実用に使用できて、日本刀は美術の世界を遥かに凌駕して生きて来ると思うのである。
 古美術を学ぶには、本物だけを見ても駄目である。大いに贋作を見て研究する以外ないのである。その学ぶ努力が、眼力を養って行くのである。


 ─────その時、「ただいま」と玄関から元気の良い娘の声がした。
 「ああ、あれは孫娘のトーシロウでおます」
 「?…………
(トウシロウ?)」と思わず言いかけた。
 その娘が元気の良い姿で、座敷に顕われた。
 「おい、トーシロウ。お客さんにご挨拶をしなはれ」
 「あら、おじいちゃん。また、お客さんを連れ込みはったん?」
 「これ、ご挨拶……しなはれ」
 手にはエッチバンドで縛った数冊の教科書を持ち、白の半袖のブラウスに紺色のスカートで、彼女が何処かの大学の女子大生であることは一目で分かった。細面
(ほそ‐おもて)の中々美形の顔立ちで、髪型はボーイズ・カット(当時流行の七三に分けた短かめの髪型)である。面(おも)立ちがはっきりしている上に、キラキラ輝く目が特に美しい。更に付け加えるならば、短い髪がスポーツ・ウーマンを思わせ、どことなく活発さが全身から滲(にじ)み出ている。いかにも敏捷性に富んでいるようだった。膝上の短いスカートから窺(うかが)えるその脚線美は「カモシカのような」という形容がぴったりだった。溌溂(はつらつ)として爽やかな印象を受けた。

 私は、老人の孫娘に促した機先を制して、まず私の方から名乗るのが筋道であると思った。
 「ああ、これは申し遅れました。僕は福岡県北九州市八幡区から参りました岩崎健太郎と申します。仙洞御所の前で、ご老人とお会いし、奇
(く)しき縁で、お宅に御招待を受け、お邪魔しております。お庭を見せて頂いたり、骨董を見せてもらったりしておりました」
 「そうでしたの。ところで、御所は参観されはりましたの?」
 「いいえそれが、前もって申し込んでおくなどの手続きをしなかったものですから、結局、中に入れて貰えませんでした。しかしご老人に誘われ、お宅をお邪魔して、大変な眼の保養をさせて頂きました」
 「そうでしたの」娘は愛想よく応えた。
 「まあ、ゆっくりしていきなはれ。わても、一席ぶって、大変楽しませてもらいました」
 「あら、おじいちゃん。また、この方に骨董の話されはったん?
 ねえ、聴いて下さい。うちの祖父ったらねェ、誰でも此処に上げて、骨董の話を一席ぶたはるんですのよ。そら、構かましませんけど、うちのこと、人前で“トーシロウ”“トーシロウ”と呼ぶんです。これ、失礼と思はりません?」
 「その“トーシロウ”って、何のことですか?」
 「それはねえェ、業界用語で“藤四郎”といわはるんですのよ」孫娘がすかさず切り替えした。

 「藤四郎ッ?……、確か『慶安太平記
(けいあん‐たいへい‐き)【註】由井正雪・丸橋忠弥らの企てた倒幕陰謀事件を材料とした講談の題名)に出て来る、弓師の名人の“栗林藤四郎”のことですか、あの由比正雪(ゆい‐しょうせつ)を密告したという……?」
 「いえ、違います」
 「?…………」
 「つまり“藤四郎”とはねえェ、素人の意味です。“トーシロウ”を逆さ読みして、擬人名化した隠語が藤四郎で、反対から読めば“シロウトー”となりますやろ」
 「なるほど、奥が深い……」
 「変なところで、感心しないで下さい」
 「……………」
(こりゃ、また失礼致しました)と頭を下げそうになった。
 「でも失礼しちゃうと思はりません?女の“うち”を捕まえて藤四郎だなんて……ねェーッ……」
 この活発な娘は、祖父が渾名
(あだな)する「藤四郎」の呼び名が嫌であるらしい。同情を求めるように、私にいう。
 「うち、早斗子。久我宮早斗子
(こがのみや‐さとこ)いいます。お見知りおき下さい」
 彼女は標準語のつもりで喋っているのであろうが、アクセントはまさに京訛だった。それが可愛らしくもあった。
 「えっ!?もしかしたら。ではご老人は古美術界で著名な久我宮修平
(こがのみやしゅうへい)先生ですか!」思わず驚いて訊き返した。
 「さよう」一瞬待ち構えていたように、老人が頷
(うなず)きながら返事をした。
 「これは大変失礼しました。予々
(かねがね)先生のお名前だけは聞き及んでおりましたが、こうして御本人に直接お会い出来るとは、まことに光栄です」
 そう云ったのも束
(つか)の間、(ではこの娘は、最近ちょいちょい新聞のスポーツ欄で名前を顕わす、今売り出しの女流剣道学生日本一で、M学院大学の久我宮早斗子四段か。これは驚いた)と思った。骨董界の神様的存在の達人に、いま売り出し中の女流の剣道日本一の花形選手だった。
 (いやーッ、世間とは狭いものだ。いつどこで、どんな人に遭うとも限らないこの世界を実に不思議なものだ)と思った。

 「いや、こちらこそ、どうぞ宜
(よろ)しく」私は改めて正坐し、彼女にも頭を下げた。
 「しかしなあ、“藤四郎”は骨董が好きやあらしませんのや。どうかご勘弁を……」
 「また、うちのことを“藤四郎”と呼ぶ。うちの厭
(うち)なのは骨董ではなく、“藤四郎”と呼ばれることが嫌いなんです」彼女は可愛く拗(す)ねてみせた。
 「あんたさん、書画骨董もお好きで、造詣を持ってるようですけど、相当に、腕に覚えもある御仁
(ごじん)と観(み)ました。違いまっしゃろか?」
 「いや、めっそうもありません。僕はその道の全くの“藤四郎”です」
 これを訊
(き)いて老人は、膝を叩いて大声で笑った。
 「うんうん、それで宜
(よろ)しゅおます。流石(さすが)ですな、藤四郎どの」
 「はあ……」思わず、照れて頭に手を遣
(や)っていた。
 「能ある鷹は爪を隠すと申します。それで宜しいですがなァ」こう云って、また老人は大声で笑った。私も笑った。

 娘はこの意味が掴み切れずに、「ねえねえ、おじいちゃん。何を二人で、そんなに笑っていはるの?藤四郎と名乗ったり、藤四郎と呼んだり……。ねえねえ、教えて?」
 こう糺
(ただ)されて、再び老人は笑い、また私も笑った。
 「二人とも、変なの……」と浮かぬ顔をした。
 老人は、私の正体が何者であるか分かったのであろう。鋭い観察眼である。流石であった。
 眼光鋭いその目付きは、やはり私を何者か、見抜いていたのである。私の何処を見たのだろう?……。
 そして私の運命は、不思議なところに、不思議な人の縁で、不思議な交わりとして運ばれて行く自分に気付いたのだった。もうこれは、私の意思の及ぶ所でなかった。確かに私は、運命に命を運ばれていたのである。



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