運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 4
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旅の衣・前編 43

人を愛し、自らの胸の裡(うち)を、来る日も来る日も、どうしたらこの張り裂けんばかりの思いを、意中の相手に伝えようかと思いつつも実はこれに費やす時間と同じくらいに、愛している当の女を養って行かねばならない、それと同等の時間を費やしているのである。時間にも作用と反作用が働いている。
 引き換えというやつである。
 例えば、心を掻
(か)き乱している女が、自分の胸の裡を知ろうが知るまいが、そんなことはお構え無しに、胸の張り裂けん思いをしながらも、それに、ある種の満足を感じているのである。

 これは丁度、映画女優やタレントや、舞台女優を見る、観客側から検
(み)た男の眼に酷似するものであろう。そしてこうした女優に恋をしたとすれば、これを見ている青年は、その瞬間に聾(つんぼ)になり、眼はその女優にだけしか見えなくなり、その女優の心までもが申し分のないものであると錯覚するようなものである。
 しかし、その女優が立派な心の持ち主とは限らない。
 これを道元禅師は「汝、眼に誑かされる」といった。寔
(まこと)に仰せの通りである。


●忍ぶ恋

 宮本武蔵の『独行道』の中に、「恋慕(れんぼ)の思いなし」という一節がある。
 これは修行者に、愛欲自体が無用であると戒
(いまし)めた言葉ではない。その言葉の裏には、隠された「忍ぶ恋」が説かれている。
 額面通りの表面だけを読み、これを読み違えると大変なことになる。
 武蔵の諭
(さとし)しは、「藕糸(ぐうし)がある」と検(み)るべきだろう。
 そもそも兵法家の論は体系的に論ぜられているのでなく、隠れた部分があることが分る。有機的繋がりによって、当然見えない部分も存在するのである。

 さて、武蔵の藕糸を辿ると見えて来るものがある。武蔵は「人間の欲望の中で、愛欲ほど、手に負えないものはない」と、そのように指摘しているように思えるからだ。それなるが故に、一方において、愛欲を罪悪だと思い込ませる異端視的な現実がある。
 しかしその愛欲を横目で見ながら、これを無理に避
(さ)けて通れば太陽や月や星が天に輝いているのに、それを見ようとしないのと同じになる。同時に、この存在すら否定することになる。果たして、否定も肯定も存在するのか。この部分の「読み」である。

 修行者が愛欲を放棄し、只管
(ひたすら)殺伐(さつばつ)とした「必勝の世界」に明け暮れるようになってしまったら、最早(もはや)それは、人の修行ではなく、狂人の暴力と成り下がる。
 性格粗暴者の「狂」である。そのような人間に、細やかな人情の機微
(きび)などあろう筈(はず)がない。人間としては失格である。
 そして人間失格者は狂気に趨
(はし)り、やがては暴力沙汰で自滅するのである。

 男女の愛欲の現実を、あるが儘
(まま)に認め、受け入れ、その中の人とならなければならない。人になりうることで、人生を全うする条件を得る。これが人生を生きる現世の人間の、吾々(われ‐われ)に課せられた任務であり、修行ではなかろうか。
 人間を外して、修行はあり得ないのである。
 人間界から抜け出して深山幽谷
(しんざん‐ゆうこく)の山野に入り、そこに籠(こも)ってみたところで、それは所詮(しょせん)、独りよがりの幻(まぼろし)に過ぎない。人生を通じて、人情を学ばなければならない。
 また人情や情愛の中でも、男女が愛し合うと言う精神世界にも、当然、重点は置かれるだろう。
 生きとし生けるものは、如何なる生物であっても「対
(つい)」を為(な)す。二つで一つの機能を負う。その意味では、人間も例外ではなかろう。
 しかし一方で、生きとし生けるものの全てがそうであるように、その姿は例外なく利己的である。また生物はそれぞれに天敵が居て、臆病でもあり、移り気でもあり、文明人の表皮的な部分を虚飾しながらも、中身は野蛮である。それでありながら、恋に魅
(み)せられた男女は、身も心も一つになりながら、やがて「行く末を契(ちぎ)る」のである。心が結ばれるのである。
 この「契り」を交わした後、二人にとっては、宇宙の冷淡さも敵意も、未来の脅威も、階級間の闘争も、国家間の憎悪も、忽
(たちま)ちのうちに煙りと消え、見えていて見えなくなるのである。二人だけの世界しか見えない。そして若いと言うこの時期のそれは、最も強烈な媚薬(びやく)となる。
 しかし、この媚薬を用いての処方箋
(しょほうせん)を間違えば、「恋の為なら命も惜しまない」という盲目的な男が出て来るし、女が出て来る。こうなれば、実に危険な状態となる。
 自己を失い、盲目になってしまう。恋に盲となる。そして最後は狂うのである。狂い死にするのである。

 恋の為に男は、等身大の自分を忘れ、強がって椀飯振舞
(おうばん‐ぶるまい)で威勢良くしてみたり、女は普段では見られなかった淑女ぶりに虚栄を張ってみたり、双方倶(とも)に見栄から起る虚勢に振り回されてしまうのである。その為に、それぞれが所有する欠点すら曇らされてしまうのである。
 こうなると、「恋は盲目」となる。恋の結晶作用が働くからだ。
 この愚を冒さない為に、まず、双方を客観的に見詰めて、一度頭を冷やす必要があろう。本来の自己の姿に戻るべきであろう。この作業を怠ると、その後の男女の結末は悲惨なものになる。
 先ず大事なことは、男女が尊敬し合うことであろう。
 単に長所ばかりを魅せられて目を眩
(くら)まされ、相手を過大評価するのでなく、恋の結晶作用で掻(か)き消される「尊敬のフィルター」を通して浄化するべきであろう。
 そのためには、美化された部分だけを見ていては全体像が見えない。全体像を観るためには、醜態なる部分や悪壁なども考慮する必要がある。それを総て把握した上で、承知の愛情ならば、それは真物であろう。そしてその有機的結合は、藕糸の部分も踏まえて確実に存在しているからである。恋は幻というものではない。正真正銘の愛である。
 情愛には表面がゴールド鍍金
(めっき)で出来た贋作(がんさく)と、純粋ゴールドのフォーナインの真物とがあるのである。何処に基点を置いているかが問題である。

 ただ、肉の一部だけの美しさや相手の性器の妙に囚われているうちは、醜態なる部分やもって生まれた性悪な悪壁なども目に入らないであろうから、いい部分だけを見ている恋愛ならばそれは真物でない。鍍金の情愛に過ぎない。
 他方、総てを受け入れ、その一切を「よし」とし、裏切られることまで覚悟して、それで愛情とするならば真物だろう。そして一切を「よし」としたところに本当の尊敬が生まれる。
 ここに、「恋に命を賭けてもいい」という有機的結合が生まれる。わが命と引き換えに、である。
 人種を問わず、女にとって一番幸せな事とは、「愛に命を賭ける事」ではないだろうか。
 それは互いが尊敬し合えるからである。

 全身全霊を捧げて、命懸けの恋をしている女は幸せである。
「命を捨ててもいい」ほどの男を見つけた女は幸せである。
「愛する人の子孫を残す事」 これこそが女の、「己が生た証
(あかし)」である。
 では男にとって、一番幸せとは何か?……。
それは、「自分が正しいと思った事に、命を賭ける事」である。依って以て死ぬ何かれを見つけたとき、男はそれに命を賭けようとする。また、女もその男の命懸けを信じ、縁の下から支えようとする。
 自分の命を捨てても惜しくないほどの「何か」を見つけた男は幸せである。
 その「何か」に一途に打ち込んでる人間は、愚痴なんか言わない。自分のしていること、自分の仕事に「つまらん仕事……」などのボヤキは言わない。愚痴はこぼさない。叱言
(こごと)もいわない。健気に地獄の果てまで蹤(つ)いて来る。どんな仕事にも誇りを持ってやっている。そういう誇りを持ったとき、人は尊敬の対象になる。
 これは女が男を尊敬し、男が女を尊敬する構図である。既婚者ならば亭主が女房を尊敬し、女房が亭主を尊敬する夫婦和合であり、これなしに鍍金の情愛では、やがて破綻を来す。

 女が、男の力や勇気を尊敬しないで、真の幸福を得たと言う話は聴いたことがないし、普通の男が、男勝りの強引な女と一緒になって、「琴瑟
(きん‐しつ)相和す」という話も聴いたことはない。つまり、琴(こと)と瑟(おおごと)とを弾じて、その音がよく合う例えだ。
 こうした時に、男女の魂は調和する。共鳴する。高らかに鳴り響く。
 したがって、恋の基準には、双方が尊敬すると言う、「親しき中にも礼儀あり」という態度を忘れてはならないと思う。狎
(な)れ合いになるような恋愛には、結末として破局が待ち構えているのである。親密過ぎて節度を失うのは不和のもとだ。
 この点を『葉隠』では、「親密な中にも礼儀を守るようにせよ」と教える。要するに人間は「礼儀」の生き物であるから、礼儀は崩壊した時、そこには破局が待ち構えている。

 真(しん)の人間たろうとすれば、俗界にあり、俗事にまみれて、更にその俗事に染まらないと言うのが最高の教えでなければならない。隔離した世界に、人間など存在しないからだ。したがって俗にあっても、礼儀だけは忘れたくないものである。礼儀を忘れた恋は、格の低い物になる。狎
れ合いから恋を肉愛や情愛に変質させてしまうからである。
 そして俗界の修行場に、情愛と言うものが存在している。生を貪るだけの情愛が、かなり存在する。これを慎
(つつ)んで捕らえれば、人間としての成長を促すが、憶測(おくそく)を誤り、愚(ぐ)を侵せば、溺愛(できあい)の渦中に巻き込まれる。これが肉愛かする所以(ゆえん)だ。恋の結晶作用の愚であり、蛮である。

 だからこそ、情愛の究極の姿は、「忍ぶ恋」なのである。ここに究極の姿を説いた古人の短歌がある。

恋死なん 後の煙にそれと知れ ついに漏(も)らさぬ中の思いは

 この短歌の中に、格の高い、丈
(たけ)の高い、そして気高(けだか)いまでの情愛を感じるのは、決して私だけであるまい。
 私はこの時、その「忍ぶ恋」の中にいた。
 だから長年連れ添った夫婦が倦怠感に陥って、互いに罵
(ののし)り合って、愚痴(ぐち)や小言に愛想を尽かしているのとは正反対に、いつも新鮮であり、常に瑞々(みずみず)しさを失っていなかった。それは肉の交わりを待たないがゆえに、情熱の恋が生きているからである。情熱は、新鮮さを齎(もたら)すものである。
 単的に云えば、心を主体とする「心主肉従」が、肉欲の絡む愛情である「肉主心従」より持続性が長いからである。
 もともと『葉隠』でいう恋愛は「忍ぶ恋」の一語に尽きる。それは「打ち明けない」ことを主体としているからである。「打ち明けない恋」ならば、その恋は生涯本物の恋となりうる。丈の高い恋になる。
 一方、打ち上げた恋はどうなるか。一気に丈の低い恋になる。

 昨今流行しているアメリカ流の恋愛術では、打ち上げる恋を基盤とし、そこに要求と肉体の獲得がある。そのエネルギーは内側に向かうものでなく、外へ外へと向かい、拡散し膨張するエネルギーに支配されている。つまり、「発散する恋愛術」だ。そして発散した後は何も残らない。その上、こうした恋愛術では、恋のボルテージが高くなった時点で、「肉を通わせる」から、「精」を発散した途端、幻滅されてしまうと言う逆説的な破壊構造を持っている。

 現代に生きる若い男女の世界はマスコミ汚染の結果、肉を通わせる恋を愛と錯覚し、男は肉を通わせることで女を愛していると信じ、女は男から愛されていると思い込んでいる。
 しかしこの手の肉を媒介とした恋愛術は、総てが直線的である為に、熱し易くもあるが、覚め易くもある。
 昨今の若い男女は、昔に比べて恋愛する機会も多くなり、性愛的なテクニックもポルノなどで学び、かつての時代に比べれば、物質的かつ肉体的には豊富なほど恵まれている。
 しかし、肉を支配する恋愛術は、直線的で短絡的ある為に、双方がそれぞれの性器を獲得した瞬間に、恋は消滅する。肉を交えることを、恋愛期感に何度も繰り替えしていると、現代独特の恋愛不感症を発症させるのである。これまでの情熱が冷めてしまうのである。

 「肉主心従」になれば、やがて恋の新鮮さは欠け、その威力は消滅して死んでしまうからである。
 恋は、生き続けることに大きな意味合いを持っているのである。
 そして、戦前の青年たちが、肉欲と愛欲を器用に分類して暮らしていたように、私も肉欲と愛欲の違いを分類し、それを強
(したた)かに心得ていた。両者は大いに違うからである。愛は性器を媒介させないでも通じ合うからである。心と心、魂と魂が触れ合うだけでも、本物は性器を媒介する以上にその魂は交流するからである。

 一方性器を媒介してする恋愛術は結末が惨めだろう。散々双方の性器が食い荒らされるからである。
 『理趣経』などの教えに従って、こうした男女の肉の穢れを検
ると、それは「蝕まれた」という悲惨な状態になっており、その最たるものは上は性病から下は不感症までといろいろである。物としての媒介した跡の、作用と反作用から無慙(むざん)な肉の塊(かたまり)が残骸として転がっているのである。この残骸に、愛の跡など何処にも観られない。恋が破綻した残骸である。
 そしてそこには、双方が性器の対象として蝕んだだけの残骸が転がっているだけである。
 決して愛は清らかなものでなかった……と言う残骸だけが、まざまざと見せ付けられるのである。
 既に発汗が始まり、落花が始まっている。これこそが肉特有の現象であった。情を通わせるのではなく、肉を通わせるのである。そうした男女を、現世ではたまたま見掛けることがある。


 ─────このとき由紀子と私は、そうした新鮮さの中に居たのだった。
 私は情愛とは、慎むことであると思っている。軽々しく言葉の応酬
(おうしゅう)で、安易な意思表示を肉体を通じてするべきではないと思っている。何故ならば、身体障害者の男女にも愛情は生じるかである。これは何も性器を媒介しての愛でない。直接性の交わりでなく、媒介性の交わりである。媒介性のものであっても愛情は通うのである。
 日本人はこの「媒介性の愛」を古くから知っていた。その典型が『万葉集』などに見られる歌であろう。

 特に日本人には欧米人にはない、縄文以来の以心伝心
(いしん‐でんしん)の特異な機能が内蔵されている。
 そうしたものを駆使すれば、欧米人のように言葉巧みに迫らなくても、また大袈裟なアクションで、ジェスチャーの類いを乱発しなくても、以心伝心を遣えば、容易に思念は伝わる筈であった。
 しかし明治以来、欧米化の波に翻弄
(ほんろう)されて、こうしたものは退化の一途にあり、その機能が錆(さび)ついてしまったのである。今こそ、わが先祖から連綿として受け継がれた、こうした機能を復活させるべきである。
 だから私は、「愛」だの「恋」だのと、言葉を、軽々しく一度も乱発したことがなかった。また躍らされることもない。そういう言葉は禁語であり、ある意味において、私は、まさに「忍ぶ恋」を全
(まっと)う出来たと思っている。それは肉欲に至らなかったためである。

 昨今はアメリカ風の恋愛術が巷
(ちまた)に氾濫(はんらん)し、恋を打ち明け告白し、要求して、ラブホテルなどに強引に連れ込んで奪い取るという、三段構造の求愛が展開されている。
 押し一手のエネルギーを、外へ外へと発散させ、それを拡散して行き、一旦獲得したら、馴
(な)れ馴れしくなって、やがて瑞々(みずみず)しさを失う。そしてお互いの男女が辟易(へきえき)し、労りが無くなり、墜落する危険性を持っている。更に、倦怠感に陥ってしまうという欠点を持っている。
 その背後には「狎
(な)れ」が隠れているからだ。狎れはやがて「飽き」を伴って、まるで進行ガンのように全肉体を蝕み、総てを亡ぼしてしまうものなのである。
 これが昨今の、恋愛術が畸形
(きけい)した夫婦の離婚現象の実態ではあるまいか。

 アメリカでは現在、急速に離婚率が高くなっているという。日本もその後を追い掛けている。そうした現象は求愛と発散によって、拡散されたエネルギーが、本来の中心軸からズレてしまったことを物語ったものだ。中心にあるべきものが、中心にないという事であろう。
 あるべき筈
(はず)ものが、いつしか見えなくなって見失い、中心から遠のいた拡散・膨張に、その原因があるのではないかと思っている。最初の出逢いの中心軸が拡散によって膨張し、これが急速に新鮮さを失う原因だと考えている。

 現代人は、まさに拡散と膨張の中に、総
(すべ)てが仕組まれた縮図として組み込まれてしまっているのである。何もかも、膨張し、中心から拡散するのだ。
 何もかも膨らみ、そしてお互いが中心軸から離れようとするのだ。

 『曽根崎心中
(そねざき‐しんじゅう)』に代表される日本式恋愛術は、「忍ぶ恋」の典型である。
 これには『葉隠』の口述者・山本常朝
(やまもと‐つねとも)も絶賛している。これを“丈(たけ)の高い恋”と力説している。
 この物語の発端
(ほったん)は、それまで平凡な生活をしていた醤油屋平野屋の手代(てだい)徳兵衛と、北の新地の天満屋の遊女お初の二人が、仮初(かりそめ)の恋に落ちたことが原因だった。そして、その焔(ほのお)は炎上へと向かう。
 二人は恋の焔を灯
(とも)すことによって、その焔は巨大な火柱になって燃え上がり、一挙に悲劇のヒーローとヒロインに躍(おど)り出るのである。
 そこには恋の新鮮さがあり、鮮明さがあって、恋に生き続けた男女の結びつきが、その中心に向かってエネルギーが収縮され、やがて永遠の生命が齎
(もたら)され、それが力強く躍動(やくどう)していったのである。そして忍ぶ恋の特徴は、悲劇のヒーローとヒロインに躍り上がっていく過程の中のストーリーが、何と言っても「切ない」から人の心を打ち、惹(ひ)き付けるのである。
 日本人の悲恋物語に対する「哀愁」や「切なさ」は、ここに回帰されるようだ。

 現在は、アメリカ指導型の民主主義に代表される、「奔放主義的自由恋愛」が巷
(ちまた)に氾濫(はんらん)している。以前に比べれば、性愛から肉欲まで、異性を物質かしてモノにするチャンスは多くなった。
 が、同時にそれは、性愛は肉欲を、その延長上に置いているため、恋愛自体は死同然の溺愛
(できあい)の落とし穴に落ち込んでいる。そして鮮やかな新鮮さは、不透明(ふ‐とうめい)な濁りに汚染されて、色褪(いろあ)せたものになっている。
 恋は打ち明け、「愛してます」と告白し、求愛をしたと同時に、その新鮮さは急速に失なわれる。
 況してこれに肉が絡めば、致命的な欠陥を抱えることになる。そして恋の生命は、やがて死んでしまうのである。肉には限界があるからである。

恋は水分を含んだ、しっとりとした若葉のような状態が維持されなければならない。

 恋は、しっとりとした若葉のような潤
(うるお)いを持っていなければ、瑞々(みずみず)しい新鮮さを保つことができない。しかし潤い過ぎると、ふやけて溺愛となり、盲目となって盲(めくら)同然になる。盲目の愚は冒すべきでない。
 やはり「張り」のある方がよい。
 溌溂感
(はつらつ‐かん)のある方がよい。新鮮で、活きのいいことだ。
 この世での男女は、相対的な関係にあり、一方の格が低くなれば、もう一方の格も低くなるという表裏一体の関係をなしている。それ故、打ち明け、告白した恋は格が低く、一生打ち明けない恋は格が高いというのがその所以
(ゆえん)である。そして、それはいっも新鮮で鮮やかな瑞々しさを失わないのである。

 『葉隠』の「忍ぶ恋」には、裡側
(うちがわ)に秘めた儘(まま)で「打ち明けない恋」としている。これこそ瑞々しいと論じている。新鮮で美しく、生き生きしていると断言しているのだ。
 アメリカ式恋愛術のパターンで求婚し、長年連れ添った夫婦が、いつしか倦怠感に陥り、恋の生命が衰
(おとろ)えて、消滅に向かっている現実を見ると、そこには決して、格の高さなど感じられないのである。
 恋を打ち明け、要求して、獲得するという三段構造は、急速に新鮮さを失うという欠点を持っている。
 彼らの言うLOVEの実体は、精神主義ではなく、寧
(むし)ろ肉欲主義が主体であり、男女が合体して享楽を貪ることが、その実態のようだ。またそれが情愛であると、信じて疑わないのが、昨今の風潮のようだ。
 要するに愛の所在と根拠が薄っぺらなのだ。

 少なくても今日の多くの若い男女は、戦後、デモクラシー教育の中でそう教えこまれ、この肉欲主義に陥っている傾向がある。肉の交わりイコール愛なのだ。即ち、新鮮さが急速に薄れて、新鮮な目で恋愛を捕らえる観察眼が疎
(うと)くなっている。
 そして、こうした観察眼の変わりに、肉欲眼だけが発達していて、互いの欠点だけを論い、裡
(うち)に秘めた格の高い精神面を見落としている。目につくものは表皮的なものばかりで、スタイルがいいとか、あるいはファッション感覚とか、プロポーションやスマートだとかの、人間を単に、物質化した外面的視野の表皮部分で眺(なが)めているようだ。
 また金銭や財産を、その評価に置くべく、人間の肉体そのものもを評価の対象に入れてしまっている。その人のもつ、精神性を否定して、容姿だけを評価の対象にすり替えてしまっている。
 そして昨今の肉欲眼の評価は、精神的な面は、一切相手になれないというのが現実なのではあるまいか。

 昨今は、こうした欠点に、益々拍車が掛かっている。
 若者の恋愛は性愛に代わり、性愛の延長上に愛欲ならぬ不埒
(ふらち)な性器目当ての肉欲が鎮座(ちんざ)している。欧米にかぶれて、進歩派文化人を気取る多くの「性の解放論者」は、性教育と称して人間の躰が、まるで生殖器のみで出来ているかのように力説する。現代の性教育である。いや、性器教育だろうか。

 現代は、性の生理だけが追求され、「異性の性器」だけを求めている場合が少なくなく、快楽遊戯のみを求めようとしている傾向が強い。
 異性に対し、客体物として接し、欲望の一時的享楽のための道具として扱われる傾向が強く、それはあたかも売春に類似している。
 その最も悪名高き例が、週末の過ごし方などを満載した、男女選び方を記載した「肉欲情報誌」や「エロ・スポーツ紙」である。
 上は結婚対象のブライダル情報から、下は男女斡旋の俗悪な情報まで、溢れるばかりの男女の肉欲情報を載せ、営利本位の記事と広告が、若者の恋愛問題の矛盾を押しつける。そして、自分が今何をしなければならないかも分からない無能な読者に、男女の一時の過ごし方や、疑似
(ぎじ)恋愛術を教えている。
 日本の一億総中流の恋愛不感症は、実に、ここに由来するのである。

 人間生活の構造は、『慾・触・愛・慢』の四つから構成されている。
 その中に、男女の事実をあるが儘
(まま)に認め、それを実現し体現して、その中の人とならなければならない。これが人生修行の現実である。そして『理趣経』は次のように教える。地球上の人類が、『理趣経』の「五秘密尊曼荼羅(ご‐ひみつ‐そん‐まんだら)」のように、慾触愛慢(よくそ‐あいまん)となり、男女の性愛が清らかなものになれば、まず、昨今に急増している性犯罪は一気に解決するだろう。また、流行のようになっている醜い離婚問題も、一気に解決しよう。
 これは男女の性愛そのものが、
“金剛さった”の顕われと観(かん)じればよいからである。
 五秘密尊曼荼羅とは、慾金剛菩薩、触金剛菩薩、愛金剛菩薩、慢金剛菩薩に、主尊の
“金剛さった”を加えた五尊の事である。

美男美女の異性を見て、抱きたい、あるいは抱かれたいと願う心、欲する心。
自分の好みの異性と交際したり、接吻とか性交をして、肉体的に関わること。
異性の肉体と関わることによって、単にプラトニックより、更に情が深まること。
男女が肉体と愛情の交換によって、心から満足すること。

 以上を簡単に云えば、恋愛結婚に至る男女の姿である。恋愛を通じて性愛の中で人間の心が芽生え、相手を労り合う優しい気持ちが生じる。その気持ちそのものが、
“金剛さった”の働きであると言う。また、これこそが男女のペアで行う即身成仏の体験であると『理趣経』は教える。それはいきなり肉欲に走ることを教えるのではない。
 むしろ、恋愛術の伝統を持って、段階的な手順を踏むことを教えている。恋愛は決して近代化の中には存在しない。近代化された遣い分けの利く、要領のいいそうしたものを『理趣経』は説いているのではない。
 『理趣経』では、まず「愛は清らかなものである」とした上で、安っぽい肉欲を展開するのではなく、尊敬のある男女の姿である。それが「清らかな愛」を齎
(もたら)すのである。
 要するに男女の情愛は、肉欲に転び、融通の利く「愛」という名の保全策や瞞
(まやか)しではないのだ。

 世間には、性欲の対象として利用されている女達がいる。性欲の対象にされていることを、自分は愛されていると錯覚している女達がいる。一方男は、こうした女を性欲の対象にして、愛していると言う奢
(おご)り高ぶるところがある。
 しかし性的な満足と言うものは、『理趣経』でいう、「愛は清らかなもの」という教えに比べれば、実際には実に他愛のない、つまらないものなのである。「精」が萎
(な)え、情事の後はこの象(あらわ)れが顕著となる。肉の交わりは、清らかな愛を思い描いて想像するほど、そんなに素敵なことではないのである。

 愛は肉の交わりを媒介しなくとも、そこで繋がっている愛こそ、純粋なものはない。これこそ無視出来ない事実であろう。
 それを無視しないところに、それなりの愛の表現も可能なのである。物質的な形としては不自然と言うような意見を言うものもあろうが、少なくとも、馴
(な)れ馴れしい愛よりは上だ。色褪(いろ‐あ)せた肉愛より上である。
 例えば一年前、いや半年前でもいい。その結婚した女性が、その一年前もしくは、半年前の娘の魅力を持っているだろうか。魅力が失われるのは、馴れ馴れしく入るアメリカ流の恋愛術の欠陥にある。
 つまり愛の表現は、性的な結びつきだけではないと言うことだ。
 多くはこれまで見えた、いつもながらの馴
(な)れ合い定着する。既に定まってしまった彼の(男性の)人生行路に、少なからずの将来性に懸念(けねん)を抱き、倦怠期の前哨戦(ぜんしょう‐せん)として、人間の奥底に混迷(こんめい)する擾乱(じょうらん)を演じようとしている。恋が死んだ状態である。
 仮に相思相愛だったとしても、馴れと疲れとで、崩れてしまっているのである。その結果、不倫に走り、逢引
(あいびき)の約束に一時(ひととき)の慰安を覚え、期待と翹望(ぎょうぼう)を侍(じ)して、快楽遊戯(かいらく‐ゆうぎ)の肉感に侵食されていくのである。世の不倫現象は此処に起因する。そこに魂的な愚を冒している世俗的な疑惑が見隠れするのである。

 涜神
(とくしん)の恐ろしい歓びを、一種の官能(かんのう)に摺(す)り変え、幻の中に描いた疑似(ぎじ)への幸福感。そして一時の快楽遊技を目的にした慰安への逃避。
 これが「自由」の名の下
(もと)に、押し進められてきた色欲の実態ではなかったか。そして人々を惑わす自由主義を、更に公正化した詭弁(きべん)ではなかったか。

 白痴的に汚染を受け続ける、われわれ日本人は、陰
の仕掛人から、あらゆる洗脳を強(し)いられている。
 その罪悪や背徳や無知は、まさにアメリカ式恋愛術のパターンの代表的なものと言ってもよいのではなかろうか。そしてどこまでも、アメリカナイズすることを誰もが“よし”としている。
 果たして、この見据えた先に、魂が安住
(あんじゅう)する境地は控えているのだろうか。

 そんな疑いを持ちながら、私は今ひとまず、安住の棲家
(すみか)にいた。悪い言い方をすれば、それだけで居心地がよく、人知れぬ、隠微(いんび)な喜びに浸り切っていたのである。そして私の恋は自分の中(うち)に無いものの、その無いもの強請(ねだ)っていたのかも知れない。
 しかし、それも許されていいだろうと思うのである。
 何故なら、生きている人間に残されている課題は、人間の一生は、もう元へは戻らないからだ。好きなことをして暮せばいいのだ。斯くして愚へと一巡する。

 この地球と言う“水の惑星”では、人間と神との契約事は一切色褪せ、神不在で、現代の社会は動かされている。神と平行線を辿る生き方が「現代流」などと、自惚
(うのぼ)れた意見が主流を占めている。神との平行線を辿る生活の中では、約束事の一切は色褪せてしまう。
 見直すべきであろう。
 そして残されたものは、異性あるいは同性と情愛を交わすこと、また憎むこと、更には生きて死ぬことだけが残るようになった。肉を介した愛憎は悲喜劇の培養装置となり、現代人の人生は他愛のないものになったようだ。そして生の行き着いた先は、「死ぬだけ」という何とも虚しい未来が残されている。
 相対するのは、「死を如何にして克服するか」だけである。これは意識が後退する現象で、そこには確かに精神的動脈硬化が始まっていると思うのである。
 願わくば精神を詰まらせるべきではないだろう。もう少し、自他を見詰め、観察する必要があるようだ。

 「忍ぶ恋」の原点を考えてみたい。
 藕糸の部分を持つ愛の精神作用は「恋死なん」は互いに肉愛の中にあるのではいけない。互いが、相手を思い遣ってどんなに必要としているか、それを認識し、互いに藕糸で結ばれていることを確認していなければならない。
 かのワイルド
(Oscar Wilde)は言う。
 「結婚して三日間は男女とも夢中である。三ヵ月間は互いを研究する。そして三年間は優しく愛し合う。あとの三十年間は、共々に我慢し合って生活していくものである」
 イギリスの唯美主義者の名言である。彼の言の藕糸を洞察すれば、「寄り添って三十年後に、双方すっかり鼻に衝いてから本当の夫婦の愛情が始まる」とも読める。
 私は「恋死なん」とは、果たして何であろうと考え続けるのだった。



●適正価格

 人間界に存在する物を販売したり、あるいは客の要求す事柄に対して、便宜を図る用務などには「値段」と言うものが存在することを理解しておかねばならない。総て物には、金額で顕される値があり、それ相当の値段がある。
 教育においても同じだ。私のような道場師範と言う商売にも価格は存在する。私の場合は、芸事や習事に対する対価としての「月謝」である。
 昭和47年当時、私の道場では、上限が、つまり大人においては五百円であり、下限の子供においては三百円であった。当時でも安い方で、以前は大人百円、子供五十円であった。
 こういう低い月謝に押さえられていた理由は、道場が慈善事業のイメージを持たせるためと、ある人物の意図で、私に金力を持たせないためであった。生かさず殺さずの構図の中で閉じ込めておくことを上策としたのだろう。つまり軍資金を得るルートを絶った状態にしておいて、何か事あると、私の某かの金を掴ませ、自由に使役するという画策者の意図があった。そのために金銭的自由を奪い、充分な収入源を絶つことで、私を使役するという意図があったようだ。要するに私は、画策者の家畜にされていたのである。
 これはいつまでも後遺症として残り、私の自由な行動は制限されていた。こうなると他に生活の糧
(かて)を他に求めなければならなかった。

 それは、以前は選挙ゴロであり、それ以外にも刀剣商をしていた。そして刀剣商と抱き合わせになった商売が家庭教師であった。家庭教師は大学の頃、古物鑑札を取得すると同時に始めた内職であり、私は家庭教師と刀剣販売を同時に遣っていたのである。
 普通誰が考えても、この両者は一致する接点があるとは思わないし、また思いもよらぬことである。一般人の常識思考では見落とすことが多いのであるが、私はこれを密接に結びつけて両方をこなしていた。
 これを昭和40年頃からしてたので、その経験は7年ほど持っていた。
 但し、これは両者は成立して初めて動く商売だったので、家庭教師だけとか、刀剣販売だけの場合は、どういう訳か遣る気がしなかったのである。そのために依頼がなければ働かないのであるから、私が豊かになる訳がなかった。
 依頼がなければ、細々と清貧ならぬ、私の場合は濁貧に甘んじて生きることになる。

 大学時代から家庭教師はしていたが、それもただの補習的な家庭教師でなく、「大学受験専門」の家庭教師していた。大学へ合格させることを最終目的にして依頼を受け、はじめて行動を開始するのである。したがって大学に合格させることだけを目的としたのである。つまり学校での中間や期末の試験の成績を上げるためではなかった。要するに大学に合格さえさせれば、私の役目は終わるのである。
 その目的は次がある。合格した後に、今度は私自身の魂胆があったのである。
 大学に合格した後には、私が販売する上作にランクされる刀剣を合格の「祝い物」として、その子弟の親に買って頂くのである。合格させ、その然
(しか)る後に、おおよそ一千万円クラスの重要美術刀剣を買って頂くのである。
 買わなければならない必然的構図を作っておくのである。それは私の受験指導によって、大学に合格したという事実だけである。この事実が存在すれば、親は無下に断る分けにも行かない。
 大学卒業後、一時期高校の教師を遣っていたが、退職後これと言った職は持っていなかった。故に道場の上がりだけでは極めて貧しいのであった。

 何とかしなければならない。
 こういう一種の焦りが、再び家庭教師に舞い戻らせたのである。
 軍資金も殆ど底を突いているし、ここらで一つ、打ち上げ花火でも派手に打ち上げるかが、この頃、頭を擡げたて、次ぎなる行動を起こしていたのである。
 このまま濁貧状態を放置していれば、私の『人生の貸借対照表』は、ますます負債の部ばかりが膨らんでいくのである。何とか阻止しなければならない。そういう危機感を持っていた。

 そこで新聞の広告欄に打ち上げ花火を打ち上げたのであるが、私の欠点は、総て駒
(こま)が揃わないと、単品だけでは動かないのである。手駒は一個だけでは心もとない。複数、手の裡にあって、玉(ぎょく)攻めは可能になる。将棋の指し手の心理だろう。
 そして漸
(ようや)く、この頃、その目処(めど)が立ち始めて行動を開始したのである。

 私の最終的な目的は、生徒を間違いなく志望校に送り届けてやる、それだけだった。
 学校の試験や授業の補習的な教授は、私の目的とするところではなかった。最終目的の「合格祝い」として名刀を買って頂いて、はじめて終了するのである。そして私の遣っていた家庭教師は、大学を合格させるだけの目的で遣るのだから、私が如何なる教科も教えきるか否かは問題でないのである。そういうことは、どうでもいいことであった。
 世には、如何に努力したかは余り問題にされない。ただ努力の結果がどうなったかが問題にされる。
 したがって受験指南ならば、目的は唯一つ。志望大学に合格させればいいのである。したがって、生徒の質問には答えないし、答える義務もなかった。その点で父母と一致すれば、私はプロの家庭教師として大学合格させるだけを目的に仕事を受けるのである。それ以外は受け付けないのである。家庭教師を学校の授業の補習に充てるのなら、他の人を傭
(やと)うか、補習専門の塾か予備校でも行けばいいのである。

 志望大学合格のみを指南する家庭教師。
 この考え方は、広く受け入れられなかった。側面には詐欺の匂いがするからである。特にこの匂いを感じるのは所得も「中の上」と思い込んでいる所得層は、これを敏感に嗅ぎ取るだろう。したがって、「中の上」と思い込んでいる所得層の子弟は請負わない。請負っても、合格は無理である。そういう子弟は金銭的遺伝があるから、頭の程度も、「中の上」を越えることはない。金銭的遺伝は資産家かそうでないかにある。
 だが世の中には、奇特な人物が存在するものである。
 そういう人物から、このたび声が掛かったのである。

 久々に、この手の仕事が舞い込んで来たのである。
 その依頼主は、北九州市の門司区に棲
(す)んでいた。門司港を見渡せる小高い丘の国鉄の官舎に棲んでいる重役である。これもただの重役ではない資産家である。その家庭の子女に、勉学指南に当ることになったのである。こう言う御仁は、確率的には千人に一人である。そういう人に出くわすことがある。これは土地家屋調査士の合格率とほぼ同数であろう。だが、その種の職業人が依頼する訳でない。依頼の資産家である。

 門司の資産家がいうに、それも二人同時にという。久々に美味しい仕事が転がり込んで来たのである。
 つまり二人同時と言うのは、姉妹であり、姉は山口大学の医学部の一年生で、妹は有名私立のM学園の高三生であった。しかしこの二人は年子でない。姉の方は既に上智大学の英文を卒業していて、山大医学部に今年合格したばかりであった。
 では、この医学部生に何を教えるのか。彼女は文系畑を歩いて来たので、数学もそうだが、大学の物理がさっぱりというのであった。そこで姉の方に、土日帰宅した際に物理を教え、妹に何処かの大学の医学部に合格させると言う条件で引き受けたのである。
 私の時給は如何なる事があろうとも、一万五千円なのである。それ以下では請負わない。
 面白いことに、この資産家は「そこに信頼性を感じる」と言ってくれたのである。
 私は信用されるだけでは動かない。信頼されてはじめて動く。つまり、依頼主が私に下駄を預けてくれないことには動かないのである。依頼主は下駄を預けてくれた。そこで動くのである。あとは志望校合格の最終目的に向かって、子弟共々疾走すればいいのである。信頼を得て、願いは亨
(とおる)のである。『易経』の示すところである。
 では、受験指南において、志望校に合格するために「願いが亨」とはどういうことか。
 次の表を見れば一目瞭然であろう。

願いが亨(合格) 願いが通らない(不合格)
・指南役に一切を任せ、信頼している。
・最終目的を見失っていない。
・適正価格を知り、相当分の謝礼をする。
・指導法を理解している。
・子弟に背筋力があり、集中力がる。
・子弟に大学で学ぶ才能がある。
・子弟が殆ど質問をしない。
・指導法に親が口出しをする。特に母親。
・途中経過を重点的に問題にする。
・適正価格を知らず、金銭的にケチる。
・指導法を理解していない。
・子弟に背筋力がなく、集中力がない。
・子弟に大学で学ぶ才能がない。
・子弟の質問多で、補習的な作業をさせる。

 姉妹併せて、時間給一人、一万五千円。二人で三万円。それを二時間ということで、これを日曜日の午前中に遣る事になった。締めて一ヵ月の月謝売り上げは十二万円。要するに一ヵ月十二万円貰って、姉の物理の成績を上げるというか、赤点と取らないようにして遣って
(目的は単位取得)、妹を何処かの医学部に押し込めはいいのである。そして私の最終目的は「合格祝」を買って頂く。これで総てが終了する。
 合格祝の事までは条件に付けられないが、金額で一致し、指導条件も諒解して頂き、姉妹の人相骨相卑しからずまで面通しし、親子共々満場一致で依頼が成立したのである。
 この時代、大学出の初任給は四万円前後であったから、そう悪い商売ではなかった。

 だが山師の私としては、この程度で終わらない。手駒を揃えるためには、行掛けの駄賃も必要とする。山師の山師たるところである。同時に二つ以上のことを遣ることで、私の頭はやっと回転し始めるのである。手駒が揃うまでには、したがってかなりの時間が掛かるのである。
 ところが転機が舞い込んだ。季節も五月半ば。いい風が吹き、風の中に転機の訪れを感じる。それだけで爽快な気分になる。もし、読み違えでなければの話である。

 初夏の新禄の美しい門司港の山の頂きには『めかり山荘』と言う国民宿舎がある。
 此処で道場の子供たちを集めて一日合宿を行うのである。一泊二日の稽古込みの宿泊をするのである。このとき子供の数は30人ほどいて、去年の夏合宿は松の樹の下に蚊帳を吊っただけの貧しい合宿だったが、今年こそはリッチにということで、夏の合宿の予行演習を兼ねて、この宿に宿泊することにしたのである。
 日程としては、土曜日の午後、道場に集合する。大人の部のオヤジどもも、仕事が終わればこに一日合宿に来てもらう。その際、車は各自で持参してもらう。
 子供は交通費と宿泊込み
(食事付き)で五千円。大人は宿泊(食事付き。交通費別)と宴会付き(酒と肴(さかな)は各々が持参)で一万円だった。
 この夏合宿の予行演習には、大人と子供併せて70名ほど集まっただろうか。
 マネージメントは私が管理してピン撥ねするので、その点は金が自動的に転がるシステムが出来上がっていた。だいたいピン撥ね額は約売り上げの半分ほどであったろうか。ざっと子供分7万5千円。大人分10万円で合計粗利は17万円前後であろうか。そして子供の親に合宿代の五千円をすんなり払わせる策として、教科の一切合切を持参させて、勉強させるポーズを作るのである。親は喜び、進んで参加させる。盲点である。

 もともと道場には学校のような大きな黒板が掛かっており、ここで私は一度も勉強を教えた訳ではないが、子供たちは学校が終わると、家に帰らず、そのまま道場に直行してくる。
 道場は午後からは解放しているので、勝手に上がり込んで、好きなことを遣らせるのであるが、一度だけ遊ばせずに今日一日学校で習ったことを各自復習させたことがあった。一種の実験である。すると面白いことに気付いた。
 上級生が下級生の勉強を見てやっているのである。なるほど、これは面白いとなったのである。

 かつて鹿児島で自彊学舎というところに見学に行ったことがあった。西郷隆盛が野に下り、明治7年6月、城山の私学校跡に創設された学舎である。
 自彊学舎の「自彊
(じきょう)」は『易経』(乾卦象伝)にある「天行は健なり、君子以て自彊して息(や)まず」から採ったものである。
 自ら、自発的な学び勉め、励むのである。気高き指標である。
 此処では校区内の児童がいつも学舎に集まり、宿題などの学習や相撲ならびに柔道などに励んでいた。そして指導は此処の出身の青年や中・高生の先輩連が当たっていた。その中には社会人も居た。その人達は後輩の面倒を見るのである。上が下の面倒を見る、知育、体育ともに学び、そして教えるのである。いいシステムだと思ったのである。
 それを私は勝手に道場で遣らせていたのである。後に、私は学習塾を始めるが、この当時の寺小屋のような雰囲気が、当初の起因になったようである。

 「次の休みは長期出張に参ります」
 由紀子に吐露していた。
 「どこに?」
 「警察の留置所でありませんから、ご安心下さい」
 「ん、まあ!」
 「至って真面目です」
 「その真面目、内容をお窺いましょうか」
 「訊かれても、他言したくありません、人格に関わりますから。第一、理解してもらえないでしょう」
 「そのように、最初から決め付けるものではありませんわ」
 ついに白状させられた。だが、こちらも然
(さ)るもの。すんなりとは答えて遣らない。迂回を企てる。
 「あなたは医学部時代、物理はA・B・Cのうちの評価はどうでしたでしょうか。つまり優・良・可のうち何れだったでしょうか。不肖、この岩崎めに、お鉢が廻って来て、なんとか「可」だけでもという哀れな仔羊がおります。救出に参りたいと考えておるのですが、そのような事情です。然
(しか)も仔羊には二種類おりまして、そういう訳で長期出張に参ります」
 「長期出張って期間は?」
 「一泊二日の長期に亘りであります」
 「岩崎君、これの何処が長期ですの?」
 「お察し頂ければ有難いのですが、桜井さん」
 しかし桜井さんは手強い。
 尋問されて、だんだん躱すのが難しくなった。なぜなら時給が一万五千円であるからだ。おそらく、この価格が適正かどうかを疑われるだろう。それに姉妹の二人同時というのも、まず理解してもらえまい。
 そして最悪なことに、道場の一日合宿まで知られてしまい、一緒に参加すると言うのである。
 しかし私は、それでもへこたれない。これくらいで頓挫すれば、それまでだ。来たければ来るがいい。

 この、人間現象界と言うステージは、自分で運命の脚色を如何に演出し、その出演者として自分が如何なる人物の役をやるかは、自分次第なのである。私は出来るだけ愉しい、おもしろい役者がいい役者だと思うのである。そのためにはあらゆる経験を積んで、「経験譚」を豊富にし、波瀾万丈の人生舞台を演じなければ、それは面白い、興味深い劇にはならないと考えていたのである。


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