●忍ぶ恋
宮本武蔵の『独行道』の中に、「恋慕(れんぼ)の思いなし」という一節がある。
これは修行者に、愛欲自体が無用であると戒めた言葉ではない。その言葉の裏には、隠された「忍ぶ恋」が説かれている。
人間の欲望の中で、愛欲程、手に負えないものはない。それなるが故に、一方において、愛欲を罪悪だと思い込ませる異端視的な現実がある。しかし、その愛欲を横目で見ながら、これを無理に避(さ)けて通れば、太陽や月や星が大空に輝いているのに、それを見ようとしないのと同じになる。同時に、この存在すら否定することになる。
修行者が愛欲を放棄し、只管(ひたすら)殺伐(さつばつ)とした必勝の世界に明け暮れるようになってしまったら、もはやそれは、人の修行ではなく、狂人の暴力と成り下がる。そのような人間に、細やかな人情の機微(きび)などあろう筈がない。人間としては失格である。そして人間失格者は狂気に趨(はし)り、やがては自滅するのである。
男女の愛欲の現実を、あるが儘(まま)に認め、受け入れ、その中の人とならなければならない。これが人生を生きる現世の人間の、吾々(われわれ)に課せられた任務であり、修行ではなかろうか。
人間を外して、修行はあり得ないのである。人間界から抜け出して、深山幽谷(しんざんゆうこく)の山野に入り、そこに籠(こも)ってみたところで、それは所詮(しょせん)、独りよがりの幻(まぼろし)に過ぎない。
真(しん)の人間たろうとすれば、俗界にあり、俗事にまみれて、更にその俗事に染まらないと言うのが最高の教えでなければならない。隔離した世界に、人間など存在しないからだ。
そして俗界の修行場に、情愛と言うものが存在している。これを慎(つつ)んで捕らえれば、人間としての成長を促すが、憶測(おくそく)を誤り、愚(ぐ)を侵せば、溺愛(できあい)の渦中に巻き込まれる。
だからこそ、情愛の究極の姿は、「忍ぶ恋」なのである。ここに究極の姿を説いた古人の短歌がある。
|
恋死なん 後の煙にそれと知れ ついに漏(も)らさぬ中の思いは
|
この短歌の中に、格の高い、丈(たけ)の高い、そして気高(けだか)いまでの情愛を感じるのは、決して私だけであるまい。
私はこの時、その「忍ぶ恋」の中にいた。だから長年連れ添った夫婦が、倦怠感に陥って、互いに罵(ののし)り合って、愚痴や小言に愛想を尽かしているのとは正反対に、いつも新鮮であり、常に瑞々(みずみず)しさを失っていなかった。それは肉の交わりを待たないが故に、情熱の恋が生きているからである。情熱は、新鮮さを齎(もたら)してくれるものである。単的に云えば、心を主体とする「心主肉従」が、肉欲の絡む愛情である「肉主心従」より持続性が長いからである。
「肉主心従」になれば、やがて恋の新鮮さは欠け、その威力は消滅して死んでしまうからである。恋は、生き続けることに大きな意味合いを持っているのである。
そして、戦前の青年たちが、肉欲と愛欲を器用に分類して暮らしていたように、私も肉欲と愛欲の違いを分類し、それを強(したた)かに心得ていた。
この時、由紀子と私は、そうした新鮮さの中に居たのだった。
私は情愛とは、慎むことであると思っている。軽々しく言葉の応酬(おうしゅう)で、安易な意思表示を肉体を通じてするべきではないと思っている。
特に日本人には、欧米人にはない、縄文人以来の以心伝心(いしんでんしん)との特異な機能が内蔵されている。そうしたものを駆使すれば、欧米人のように言葉巧みに迫らなくても、また大袈裟なアクションで、ジェスチャーの類いを乱発しなくても、以心伝心を遣えば、容易に思念は伝わる筈であった。
しかし明治以来、欧米化の波に翻弄(ほんろう)されて、こうしたものは退化の一途にあり、その機能が錆(さび)ついてしまったのである。今こそ、わが先祖から連綿として受け継がれた、こうした機能を復活させるべきである。
だから私は、「愛」だの、「恋」だのと、言葉を、軽々しく一度も乱発したことがなかった。そういう言葉は禁語であり、ある意味において、私は、まさに「忍ぶ恋」を全(まっと)う出来たと思っている。それは肉欲に至らなかった為である。
昨今はアメリカ風の恋愛術が巷(ちまた)に氾濫(はんらん)し、恋を打ち明け告白し、要求して、ラブホテルなどに強引に連れ込んで奪い取るという、三段構造の求愛が展開されている。
押し一手のエネルギーを、外へ外へと発散させ、それを拡散して行き、一旦獲得したら、馴(な)れ馴れしくなって、やがて瑞々(みずみず)しさを失う。そしてお互いの男女が辟易(へきえき)し、いたわりが無くなり、墜落する危険性を持っている。更に、倦怠感に陥ってしまうという欠点を持っている。
その背後には「狎(な)れ」が隠れているからだ。狎れはやがて「飽き」を伴って、まるで進行ガンのように全肉体を蝕み、総てを亡ぼしてしまうものなのである。
これが昨今の、恋愛術が畸形(きけい)した夫婦の離婚現象の実態ではあるまいか。
アメリカでは現在、急速に離婚率が高くなっているという。日本もその後を追いかけている。そうした現象は求愛と発散によって、拡散されたエネルギーが、本来の中心軸からズレてしまったことを物語ったものであり、中心にあるべきものが、中心にないという事であろう。
あるべき筈(はず)ものがいつしか見えなくなって見失い、中心から遠のいた拡散・膨張に、その原因があるのではないかと思っている。最初の出逢いの中心軸が拡散によって膨張し、これが急速に新鮮さを失う原因だと考えている。
現代人は、まさに拡散と膨張の中に、総(すべ)てが仕組まれた縮図として組み込まれてしまっているのである。何もかも、膨張し、中心から拡散するのだ。
何もかも膨らみ、そしてお互いが中心軸から離れようとするのだ。
『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』に代表される日本式恋愛術は、「忍ぶ恋」の典型である。
これには『葉隠』の口述者・山本常朝(つねとも)も絶賛している。これを丈(たけ)の高い恋と力説しているのだ。
この物語の発端(ほったん)は、それまで平凡な生活をしていた醤油屋平野屋の手代(てだい)徳兵衛と、北の新地の天満屋の遊女お初の二人が、仮初(かりそめ)の恋に落ちたことが原因だった。そして、その焔(ほのお)は炎上へと向かう。
二人は恋の焔を灯(とも)すことによって、その焔は巨大な火柱になって燃え上がり、一挙に悲劇のヒーローとヒロインに躍(おど)り出るのである。
そこには恋の新鮮さがあり、鮮明さがあって、恋に生き続けた男女の結びつきが、その中心に向かってエネルギーが収縮され、やがて永遠の生命が齎(もたら)され、それが力強く躍動(やくどう)していったのである。そして忍ぶ恋の特徴は、悲劇のヒーローとヒロインに躍り上がっていく過程の中のストーリーが、何と言っても「切ない」から人の心を打ち、惹(ひ)き付けるのである。日本人の悲恋物語に対する「哀愁」や「切なさ」は、ここに回帰されるのである。
現在はアメリカ指導型の民主主義に代表される、奔放主義的自由恋愛が巷(ちまた)に氾濫(はんらん)している。以前に比べれば、性愛から肉欲まで、異性を物質かしてモノにするチャンスは多くなった。
が、同時にそれは、性愛は肉欲を、その延長上に置いているため、恋愛自体は死同然の溺愛(できあい)の落とし穴に落ち込んでいる。そして鮮やかな新鮮さは、不透明(ふとうめい)な濁りに汚染されて、色褪(いろあ)せたものになっている。
恋は打ち明け、「愛してます」と告白し、求愛をしたと同時に、その新鮮さは急速に失なわれ、況してこれに肉が絡めば、致命的な欠陥を抱えることになる。そして恋の生命は、やがて死んでしまうのである。
 |
| ▲恋は水分を含んだ、しっとりとした若葉のような状態が維持されなければならない。 |
恋は、しっとりとした若葉のような潤(うるお)いを持っていなければ、瑞々(みずみず)しい新鮮さを保つことができない。しかし潤い過ぎると、ふやけて溺愛となり、盲目となって盲(めくら)同然になる。盲目の愚は冒すべきでない。やはり張りのある方がよい。溌溂感(はつらつかん)のある方がよい。新鮮で、活きのいいことだ。
この世での男女は、相対的な関係にあり、一方の格が低くなれば、もう一方の格も低くなるという表裏一体の関係をなしている。それ故に、打ち明け、告白した恋は格が低く、一生打ち明けない恋は格が高いというのが、その所以(ゆえん)である。そして、それはいっも新鮮で鮮やかな瑞々しさを失わないのである。
『葉隠』の「忍ぶ恋」には、裡側(うちがわ)に秘めた儘(まま)で、「打ち明けない恋」にこそ、新鮮で美しく、生き生きしていると断言しているのだ。
アメリカ式恋愛術のパターンで求婚し、長年連れ添った夫婦が、いつしか倦怠感に陥り、恋の生命が衰(おとろ)えて、消滅に向かっている現実を見ると、そこには決して、格の高さなど感じられないのである。
恋を打ち明け、要求して、獲得するという三段構造は、急速に新鮮さを失うという欠点を持っている。
彼らの言うLOVEの実体は、精神主義ではなく、寧(むし)ろ肉欲主義が主体であり、男女が合体して享楽を貪ることが、その実態のようだ。またそれが情愛であると、信じて疑わないのが、昨今の風潮であるようだ。要するに愛の根拠が薄っぺらなのだ。
少なくても今日の多くの若い男女は、戦後、デモクラシー教育の中でそう教えこまれ、この肉欲主義に陥っている傾向がある。肉の交わりイコール愛なのだ。即ち、新鮮さが急速に薄れて、新鮮な目で恋愛を捕らえる観察眼が疎(うと)くなっている。
そして、こうした観察眼の変わりに、肉欲眼だけが発達していて、互いの欠点だけを論い、裡(うち)に秘めた格の高い精神面を見落としている。目につくものは表皮的なものばかりで、スタイルがいいとか、あるいはファッション感覚とか、プロポーションやスマートだとかの、人間を単に、物質化した外面的視野の表皮部分で眺(なが)めているようだ。
また金銭や財産を、その評価に置くべく、人間の肉体そのものもを評価の対象に入れてしまっている。その人のもつ、精神性を否定して、容姿だけを評価の対象にすり替えてしまっている。
そして昨今の肉欲眼の評価は、精神的な面は、一切相手になれないというのが現実なのではあるまいか。
昨今は、こうした欠点に、益々拍車がかかっている。
若者の恋愛は性愛に代わり、性愛の延長上に愛欲ならぬ、不埒(ふらち)な性器目当ての肉欲が鎮座(ちんざ)している。欧米にかぶれて、進歩派文化人を気取る多くの「性の解放論者」は、性教育と称して人間の躰が、まるで生殖器のみで出来ているかのように力説する。
現代は、性の生理だけが追求され、「異性の性器」だけを求めている場合が少なくなく、快楽遊戯のみを求めようとしている傾向が強い。
異性に対し、客体物として接し、欲望の一時的享楽のための道具として扱われる傾向が強く、それはあたかも売春に類似している。
その最も悪名高き例が、週末の過ごし方などを満載した、男女選び方を記載した「肉欲情報誌」や「エロ・スポーツ紙」である。
上は結婚対象のブライダル情報から、下は男女斡旋の俗悪な情報まで、溢れるばかりの男女の肉欲情報を載せ、営利本位の記事と広告が、若者の恋愛問題の矛盾を押しつける。そして、自分が今何をしなければならないかも分からない無能な読者に、男女の一時の過ごし方や、疑似(ぎじ)恋愛術を教えている。
日本の一億総中流の恋愛不感症は、実に、ここに由来するのである。
人間生活の構造は、『欲・触・愛・慢』の四つから構成されている。
その中に、男女の事実をあるが儘(まま)に認め、それを実現し体現して、その中の人とならなければならない。これが人生修行の現実である。
それを無視して、例えば一年前、いや半年前でもいい。その結婚した女性が、その一年前もしくは、半年前の娘の魅力を持っているだろうか。
多くは、そこに見えた、いつもながらの慣(な)れ合いと、既に定まってしまった、彼の(男性の)人生行路に、少なからずの将来性に懸念(けねん)を抱き、倦怠期の前哨戦(ぜんしょうせん)として、人間の奥底に混迷(こんめい)する擾乱(じょうらん)を演じようとしているのではあるまいか。
つまり慣れと疲れとで、崩れてしまっているのだ。
その結果、不倫に走り、逢引(あいびき)の約束に一時(ひととき)の慰安を覚え、期待と翹望(ぎょうぼう)を侍(じ)して、快楽遊戯(かいらくゆうぎ)の肉感に侵食されている。そこに魂的な愚を冒している世俗的な疑惑が見隠れするのである。
涜神(とくしん)の恐ろしい歓びを、一種の官能(かんのう)に摺(す)り変える疑似(ぎじ)への幸福感。そして一時の快楽遊技を目的にした慰安への逃避。
これが、自由の名の下(もと)に、押し進められてきた色欲の実態ではなかったか。そして人々を惑わす自由主義を、更に公正化した詭弁(きべん)ではなかったか。
白痴的に汚染を受け続ける、われわれ日本人は、陰(かげ)の仕掛人からあらゆる洗脳を強いられている。その罪悪や背徳や無智は、まさにアメリカ式恋愛術のパターンの代表的なものと言ってもよいのではなかろうか。
そしてどこまでも、アメリカナイズすることを誰もが善しとしている。
果たして、この見据えた先に、魂が安住(あんじゅう)する境地は控えているのだろうか。
そんな疑いを持ちながら、私は今ひとまず、安住の棲家(すみか)にいた。悪い言い方をすれば、人知れぬ、隠微(いんび)な喜びに浸り切っていたのである。
そして私の恋は、自分の中に無いものの、その無いもの強請(ねだ)りだったのかも知れない。
●人接、春風の如し
遠くから男の声がした。数人の男たちが、誰かを追いかけていた。それが段々こちらに近づいて来くる様子だった。
誰かが、「その男を捕まえてくれ。泥棒だ!誰か捕まえてくれ!泥棒だ!」と大声を張り上げた。
また数人の男たちが大声を張り上げながら、五十柄身の異様な風体(ふうたい)をした男を追いかけていた。
追われている男は、労務者風らしい作業服を着こみ、薄汚れて風采(ふうさい)の上がらぬ恰好をしていた。その恐ろしく歪(ゆが)んだ顔をした男が、猛烈な勢いで、こちらに向かって突進してくる。そして、その後を五、六人の店員風のワイシャツにネクタイをした男たちが追いかけていた。彼らは口々に大声で叫んだ。
「そこの人、そいつを捕まえてくれ。その男だ!」
追われる男は、雑踏(ざっとう)を手荒くかき分けるように、人込みの中を半ば強引に駆け抜けていた。何人かの人の肩に、その男がぶつかり、誰かが倒れそうになった。
そして、男は逃げ切れないと思ったのか、ポケットから果物ナイフを出して、振りかざし、悪態(あくたい)をついて居直った。
「こら!お前ら、近寄るんじゃない。これ以上、俺に近寄るな……!」と上擦(うわず)った声で怒鳴った。
この男の行動に、周囲の通行人は目を留めた。その隙(すき)を突いた、一瞬の出来事が起こった。
追われていた男が、その周囲にいた、五、六歳くらいの幼女を突然抱き寄せて捕まえ、なんと人質に捕(と)ったのである。一瞬の出来事であった。怕(こわ)さのために小さな少女は、訳も分からず泣きわめいている。
その子の母親らしい人も、これをどうすることもできず、ただおろおろして、
「誰か……、誰か、子供を助けて下さい。お願いします」などと大声を出して、狼狽(うろた)えて居た。
「子供を離してやれ。これ以上の犯罪を重ねるな!」追跡者のネクタイが、こう叫ぶ。
「……やかましい。俺に近付くと、子供の命はないぞ」
「子供だけは離してやれ。子供には関係ないじゃないか」と、誰かがそう言うと、
「黙れ!この子は俺が関係ある……。人質だ。もっと下がれ。近付くな……」と、兇悪ぶりを露(あらわ)にした。
窮鼠(きゅうそ)に似た、後先を考えない、追い込みと緊張が招いてしまった結果である。周りの人達は、如何ともし難い態度だった。口々に子供が可哀想だと言いながら、誰もこれに介入しようとはしない。ただ外野席から、呆然(ぼうぜん)と事の成り行き見ているだけであった。
この日、私は由紀子の勉強につき合わされて、市立図書館からの帰りに、この現場を偶然にも通りかかったのだった。
そして、この事件を目撃することになったのである。
やがて屋根に回転灯を赤い点(つ)けたパトカーが、けたたましいサイレンの音とともにやって来た。その中から二人の警察官が降りて来た。その階級章から、二人のうち、一人は三十過ぎの巡査長、もう一人は新任のような若い巡査であった。
まず軽感が説得にあたった。いろいとろ問答しているが結着がつかないようだった。そして男は益々窮鼠(きゅうそ)の色を濃いくした。
警官が既に腰の拳銃に手を掛けようとしていた。正当防衛を理由に拳銃を抜くらしい。私はこれを見て、《馬鹿な?!》と思った。此処はアメリカではなく、日本なのだと思った。
たかが貧弱な果物ナイフを持った者に拳銃で応戦するとは、狂気の沙汰だと思ったのである。
「子供を離せ。卑怯(ひきょう)な真似はするな!」と若い巡査が上ずった声で怒鳴っていた。
母親が狂ったように泣き喚(わめ)き、
「どうか子供を助けて下さい。お願いします……」と犯人の男に哀願していた。
この錯乱した母親の悲痛な叫びに、男は暫(しばら)く考えていた様子であったが、観念したのか、子供を離した。
「ナイフを捨てろ!おとなしく言うことを聴け!」と先輩格の巡査長が今度は怒鳴った。
男は動転の局地にいたらしく、この言葉に従う様子がない。
「俺がこうなったのは政府のせいだ。政治の貧困がこのような俺を作り上げた。総ては政治が悪い!」
男は全共闘か、革新系の政治家が喋っているような受け売りを始めた。
確かに政府は、人民に安らぎを与えるほど健全な政策は打ち立てていない。寧(むし)ろ政治は腐敗し、いつの世も政治家達のスキャンダルは絶えない。近頃は泥棒と雖(いえど)も、政府の非を詰り、政治の貧困を論(あげつら)う。
まともに額に汗し、8時間労働の仕事にありついている者より、泥棒か、強盗をするような人間の方が、政治の貧困を切実に感じ、汚職政治家の腐敗を肌身で痛烈に感じ取っているかも知れない。
男の風体は地位も名誉も、何一つ、窺(うかが)わせるようなものはない。名を惜しむにも、惜しむ名が無いというのが表情だった。
だからこそ、泥棒までして非合法の手段でしか生きられないのか。
もしそうだとすると、人質の子供同様、この男も政治の貧困から来る、ある意味での人質ではないのか。
その時、若い巡査が空に向かって一発、威嚇(いかく)射撃をした。
「ナイフを捨てなければ今度は撃つぞ!」
この現場に急行した警官二人は、このような事件を余り手がけた経験がないらしい。警官自身も、この男と同じ位、緊張をしているのである。
この時、巡査長が男に向けて、両手・腰溜で拳銃を構えた。今にも射殺せんばかりの構え方である。
(まずい!本当に撃つかも知れない)と思った。私の足は巡査長の前に進み出ていた。
「僕に話しをさせて下さい」
「何だね、君は?」
「通りかかりの者です。3分以内に話をつけますから、僕に任せて下さい。もし、3分で話がつかなければ、僕も一緒に射殺しても構いません」
このハッタリともとれる異様な私の申し出に、警官二人は気圧(けお)され、唖然(あぜん)とした儘、道を開け、私の気迫に押しきられて仕方なく、これを黙認したようだ。
周りにいた人達も、私の言葉を訝(いぶか)しく受け取ったに違いない。
私には、この男を取り押さえる自信があった。近寄って、当て身を入れ、押え込むには5秒もあれば十分だった。しかし、これを遣(つか)わなかった。男に近付き静に話した。
「もうこれで、お仕舞いにしましょう。ナイフをこちらに渡しなさい」
私はその男の前に手を出した。
「寄るな。……近寄るな」
「さあ、ナイフを渡して下さい」手を出して、更に一歩近づいた。
「やめてくれ、そんなに近付いたら、お前を刺すぞ!」
貧弱な果物ナイフを震(ふる)わせながら、男はなおも喚(わめ)く。
「あなたには刺せませんよ」私は躙(にじ)り寄(よ)っていた。
「よせ、俺に近付くな。頼むからよせ。離れてくれ……」男の声は涙声に変わった。
私は男の頼みを無視した儘、更に近付き手を差し出した。男の抵抗は、既に崩れかけていた。
「どうか、そのナイフをこちらに下さい。あなたには必要ありません」
「駄目だ、俺は泥棒をした。……罪を犯した。もう、犯罪者だ。兇悪な犯罪者だ。恥ずかしくて、これ以上生きていけない。醜い人間だ、此処で死んでやる」
「心まで本当に醜い人間がいると思いますか!」
男はハッとして、その場にナイフを捨てた。これで、この場は一件落着した。
男はナイフを捨てる切っ掛けが欲しかったようだ。幸運にも男は、そのチャンスに恵まれたのであった。これで一瞬の寸劇(すんげき)は終わったのである。
周りの見ている人達から拍手が巻き起こった。警官の一人が私の住所と名前をしきりに聴いたが、通りがかりの者とだけ言って、それ以上の返事を避けた。
手に手錠を掛けられパトカーの中に押し仕込まれていく男が、私に振り返り、一つの質問をした。
「俺のような、世の中の少しも役に立たないゴミは、一体どうしたらいいかな。生きていて価値があるかなァ」
私は以前、山村師範のぽつりと言われた言葉を思い出した。そして、それを言ってやった。請け売りである。
「目がものを視、耳がものを聴き、手がものを握り、足が歩いて、わが身、一身(いっしん)と成す。目は耳の視えないことを笑わないし、耳は目の聴えないことを恥と思うでしょうか」
この言葉に男は満足したか、そうでないかはわからないが、目に涙を一杯溜めて無言の儘、深々と私にお辞儀をして、連れていかれた。
人の世は、相互扶助であり、何かが循環しなければならないのである。この順環の中に不要なものは、何一つないと言うのが宇宙の玄理(げんり)であり、不要か、不要でないか、それを気付くのは自分自身であるのである。
この男は、果たしてこれに気付いたのだろうか。
─────私たちは車の置いて、ある駐車場に向かった。
「……今日は、あなたをちょっと見直しましたわ」
「何を見直したと言うのです?」
「今さっきの事件のことよ……」
「僕は一度でいいから、あんな場面で、何か、カッコいい言葉が云いたかったのですよ、映画の名シーンのような……ね」
「へー、それって、腕に覚えがあって遣(や)ったんじゃなかったんですか」
「腕に覚えなんて、全然ありませんよ」
「じゃア、腕に覚えがない人が、吾(わ)が身の危険も顧(かえり)みず、ああした無謀な行動をなさったんですか?」
「だって映画の名シーンですよ。こんなカッコいい名シーンに、颯爽(さっとう)と登場した僕が、多勢の観客の前で、屁っ放(ぴ)り腰になったり、ビビッていたら“みっともない”じゃありませんか。僕は、いつも自分の真横に、映写カメラが備えられ、そのカメラのケーブルが巨大劇場に繋(つな)がっていて、そこで五万人か、六万人くらいの大観衆が居て、その観客が、僕の演ずる主人公の、映画か、何かを観(み)ていると、いつも想像するのですよ」
私は、禅で云う「人はみな主人公」である事を言いたかったのだ。
彼女はこれに対し、
「まあ、何て逞(たくま)しい想像力ですこと」と、半分驚き、半分ちゃかすように云った。
「しかし、この逞しい人間の想像力が、この世の原動力になっているではありませんか。人間社会の文明の発達の影には、この想像力が源泉になっているのです」
「それで、今のように、ハッタリのようなこと、遣(や)ったというわけですの?」
「だって、僕がですよ。こうした事件現場に通りかかって、何もせずに通り過ぎてしまったら、この巨大劇場の観客はどう思いますか?」
「そりゃあ、がっかりするでしょうし、面白くも、何ともないでしょうね。主役が無力な小市民を代表していてはね」
「でしょ。だから、主役の僕としては、颯爽(さっそう)と登場する必要があったのです」
「でもよ。もし犯人のナイフに刺されてしまうかも知れませんわ」
「バカも休み休み言って下さい。どうして主役が殺(や)られてしまうんですか。主役は絶対に殺られないんです。映画の粗筋だって、だいたいがそうなっていて、危機に瀕(ひん)しても、カッコよく立ち回るのです。そんなこと、あなただって知っているでしょ!」
「ええ、ご存じ、申し上げておりますわ」
「だから絶対に主役は殺られないんです、主人公は僕なのですから。もしですよ、主人公の僕が殺られてしまったら、巨大劇場の観客は、入場料を返せと怒りますよ」
「でもね、大怪我したらどうしますの?」
「例え、大怪我を負っても、そこで立ち上がって、演技を続けるのが主役の役目じゃないですか。観客はそうした、“どっこい”起き上がってくる主役に、拍手喝采(はくしゅかっさい)のエールを贈るのです。僕は主役ですから絶対に殺れないんです、これで“一巻の終わり”と言うことはないのです。どんな危険なことになっても、どんな窮地(きゅうち)に陥っても、必ず蘇(よみが)るのです、不死鳥のように」
「それって、本気でそう思っているの……?」
「勿論です」
「まあ、呆れた」
それは私の頭の中が、単純明解というふうな、単純構造の単細胞を揶揄(やゆ)したようでもあった。
「今日は幸運にも、主役としてのチャンスに恵まれただけですよ、巨大劇場の観客も大満足でしょう」
「どうしたら、そんな客観的な頭で、第三者の眼で御自分の姿を捉える事が出来るのかしら……ね……?」と半分馬鹿にしたような言い方をする。
しかし私は、小さな外野的意見を意に介さず、
「主人公を演じる僕の才能です」と断定的に言ってやった。
「随分と自信がありますのね」
「だって、映画が始まってですよ。主役が登場して、たったの2、3分で鉄砲弾に当たって、死ぬような主役の劇は、面白くありませんからねェ。もしそうなったら、観客は怒りますよ。こんな、つまらない映画、観(み)るのやめた、金かえせ、とね」
「じゃあ、今日の主人公の、あなたさまの演技は最高点が頂けたのでしょうね」
「はい、勿論です」
「では、ところで、今日のお芝居の入場料は、お幾らで御座いますか?あたくしも、今日の最高点の、お芝居を観させて頂きましたもの。当然、お代はお取りになるのでしょね?」
「そんなもの要(い)りませんよ。だって、お代が頂けるようなものでもなかったし、ちょっとした寸劇(すんげき)でしたからね。僕は“短篇小説”や“ショート・ショート”の類(たぐい)には代金を頂かない主義なのです」
「じゃあ、無料(タダ)と云うわけですか?」
「そう、今日はタダ。そのうち入場料がしっかりとれる、デッカい、臨場感があって、迫力のある、長編小説なみの大芝居を見せてあげますから期待してて下さい」
「えッ?何か……この先、また、危ない綱渡りのような大芝居、やらかそうというの?あたくしにとっては、どれもこれも、デッカい、臨場感があって、大迫力で、スーパーサウンド付きの大河ドラマのような、大々スペクタクル映画を、今まで、散々あなたから、たっぷりと何度も、繰り返し観(み)せて頂きましたわ。もう、入場料が払えきれなくなるくらいたっぷりとね!」
「いやだなァ、そんなこと言って、からかっちゃ」
「からかっておしませんわ。もう、これ以上の大スペクタクルも、寸劇も、どちらも堅くお断り申し上げておりますのよ」
「それはそれは……」(欲がないですね……)と云いかけて、先の言葉を失った。
「ねえ……?、最後に言った言葉は、いったい誰の言った言葉?」
私の機嫌を取りなすつもりで訊いて来たのであろう。
「師匠の言葉ですよ。その元は王陽明(おうようめい)ですがね」
「王陽明て、陽明学(ようめいがく)の……?」
「そうですよ。僕は、あの教えを自分の行動原理にしているのです」
「行動原理て……?」
「知ることと、行うことは一体だと言う『知行合一(ちこうごういつ)』ですよ。人間は知識というものは、本を読んで知っているだけでは駄目なのです。その知識を初めて行動に現して、その知識が生きてくるのですよ」
「……何だか、分かるような気がするけど……」と彼女は言葉を濁した
私は久しぶりに爽快(そうかい)な気分になり愉快であった。
『人接(じんせつ)春風の如し、 己(おのれ)にして秋露(しゅうろ)の如し』は、山村師範の格言である。
人は、みな自分には甘く、他人には厳しい。山村師範はこうした人間の衆生を、逆に取って、人に接する時は、暖かい真心で接せよと言ったのである。
容姿や身なりが見すぼらしいからといって、侮ってはならない。更に、自分自身には秋の露のように、冷たく厳しくあれとこの教訓は説く。魂を燃やし、その魂と戦う、己のあり方を教えているのである。
次の日、由紀子は、この手の本ばかりを買ってきて、私にプレゼントしたが、本当は卑猥(わいせつ)な官能小説を期待していたのだった。
しかしこれが、寸劇の入場料だったのだろうか。
|