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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 42

初夏の風物詩・紫陽花の花


●本当の自由を得るとは

 私は慧春尼(えしゅん‐に)の話を聞いて以来、人間の“行い”を考えるようになった。
 人間には思議の及ばないところがある。これを三密
(さんみつ)という。これを密教では、仏の身・口(く)・意の働きをいう。
 また人間の身・口・意の三業
(さんごう)も、そのまま絶対なる仏の働きに通ずるという。更に三業とは、身体的活動の「身」と言語活動に「口」と精神活動の「意」を指す。つまり人間の一切の活動のことをいう。
 その意味で、本当に一心になって悪いことができれば、その悪さえも立派なものになる。一心とは、そういう魔力がある。そして悪をするか、善をするか、それは人間の因縁に属することである。
 何れにせよ、純粋に、一心に生きた足跡など残さず、この何れかが出来ればそれは立派なことであり、そのまま解脱の姿となる。
 慧春尼は、そのまま解脱した女性だった。

 人間は自分の意志よりも、因縁によって大きく動かされる。また自分の口
(く)としての言語も、身としての身体的活動もそれは因縁によるものである。
 姿や行為は、その時その場の因縁によるのだから、身を因縁に任せ、その足跡は一々振り向く必要はないのである。足跡が無いことが肝心なのだ。また、足跡を顧みることも必要無いのだ。
 世の中にはあらゆる種類の罵詈雑言
(ばりぞうごん)が言い放たれている。無責任な流言が飛び回っている。その上、妨害され、迫害を受け、脅(おど)されもする。それにもめげず、怯(ひる)む事なく、何故耐え抜こうとするのか。
 それは修羅場の人生を生き抜く為である。生きることは、外に向かって抗
(あらが)うことである。抗って、戦うことである。抗えば、必ず身に覚えのない、中傷が起り、誹謗(ひぼう)をされる。
 だが、これに腹を立て、憤懣
(ふんまん)やる方ない腸(はらわた)が煮えくり返るような思いを募らせても無駄であろう。
 それらの壁、闘い、中傷、誹謗、妨害や迫害の類
(たぐい)は、自分を成長させる、いわば「肥し」になるわけだ。この意味さえ把握しておけば、恐れ、あるいは怯(おび)えることはないのである。

 人生には「験
(ため)される」という事がよくある。
 果たして「どの程度」か、人生修行の程度を検
(み)られるのである。本物か否かを検られるのである。精進の度合いが検られるのである。それは心の強さを験されたり、本当の優しさを試されたりする。そしてそれが証明されるのは、人間が極限状態の窮地に追い込まれた時だ。
 この時に限り、人間は本性が剥
(む)き出しになる。白日の下(もと)に自分を曝(さら)け出すことになる。そこで自他倶(とも)に、率直な、かつ本当の人間の正体を見ることが出来る。
 極限状態に追い込まれれば、日常の見栄や虚飾は何の意味も為
(な)さなくなる。この次元では、何も通用しないのだ。
 考えてみれば、極限状態とは、実に不思議なものである。
 現代人の多くは、特に日本人に於ては、結構裕福で、安全地帯の内側での日常生活を満喫している。しかしこの日常が未来永劫までに続くと考えるのは短見であろう。
 今の安穏は、未来の波瀾
(はらん)を意味するのである。そして日常ですら、いつ、どうして非日常に変化するか分からない。現代人は少なくとも、こうした世の中に生きていることを認識しておくべきだろう。

 だからこそ、火定
(かじょう)に入った慧春尼の行動には大きな意味がある。
 火定は仏道の修行者が、火中に自ら身を投じて入定
(にゅうじょう)することだが、“物”に振り回されている状態では、心を乱すばかりで、この境地には中々辿り着けない。
 こういう考え方をするのは自力宗特有のもので、念仏宗などの他力本願で阿弥陀の者に辿り着こうとする宗派にはない。念仏宗や他力宗だったら、むしろ、これから逃げることを考えるだろう。逃げた方が、どんなに楽であるかを夢想するからだ。
 しかし、慧春尼はこれから逃げるのではなく、自分の危険と苦痛を顧みず、火定に至った。
 女ながらに凄まじいと思う。

 さて、慧春尼は物の本によると、大変に奇行の多い女性だったと言われる。また、美人ゆえに他の僧の修行の障
(さまた)げになるといわれれば、直にその行動として、火箸(ひばし)で自分の顔を焼くなどして、出家を乞うている。このような剛胆な人であった為、出家してからも修行を積み、また在家の人々からも慕われる優しさがあった。
 慧春尼の「冷熱は、生道人の知るところに非ず」とは、日々自分を誤魔化
(ごまか)して生きている人には、火の中の冷熱は分からないと言っているのである。
 人の世は、日常が正常で、非日常は異常と思ってる。また平時が当たり前で、戦時は間違いと思っている。そしてこの考えを、コミュニケーションの媒体であるメディアによって歪められ、日常が正常、平時が当たり前と言う思考を、現代人は植え付けられた。そしてこれを総じて「普通」と思うようになった。

 この「普通」という状態において、平和な時には、人間は自分で自分の人生を設計したり、あるいは不遇の困難を切り開いたり、何事かをでっち上げることが出来ると思い込んでいる。
 しかし、実際にはそうでない。
 如何なる国家形体も、社会制度も、種々の保険も、災害時を予想した訓練も、人知から起った知識も、人間の運命を本当に守り抜く事は出来ない。
 それは日常が非日常に変化すれば明らかになろう。非日常が訪れて嵐のような猛威を揮えば、人間はただ荒れ狂う運命に、己が身を託すしかないのである。そう言う時が、人生には度々訪れる。
 それは日本人以外の、何処の国の国民も承認していることである。こうした時には保険も利かず、訓練も知識も、何の役にも立たないのである。

 最早
(もはや)こうなれば、無能な人間であっても生き残ることはあるし、有能な人間でも、謂(いわ)れなく殺されることもある。戦時は、それが一番分かり易い時期ではないか。
 戦時こそ、人間を「試す」にまたとない時期と言える。運不運の明暗も、無差別に、無分別に顕われる。
 そして日本人ほど、謂
(いわ)れのない不等な悪運に見舞われた時、その不当が赦(ゆる)せない国民も少なくない。不当な裁きを受ければ、それに激怒する。
 つまり運が悪かった事について、自分でそれを認めないのだ。何でこの俺が?……となる。
 災害が起っても、不可抗力でありながら政府の怠慢を追求したり、「人材だ」と言い捨てる。決して「運が悪かった」と言わないのである。自分の運の悪さを、他人の所為
(せい)にするのである。

 しかし運が悪ければ悪いなりに、窮地に至っては善後策を講じ、ドン底に墜落して、そこから再出発することは可能だが、それを認めない限り、永久に運の悪さに付き惑わされる自分自身を演じてしまうのだ。愚かなことだ。運が悪かったと認めれば、それで済むことなのだ。
 もうこれ以上、改善の余地がないと、宿命に対して覚悟のほどを見せることだ。覚悟のほどを示すことだ。それだけで楽になるのである。
 その意味からすれば、慧春尼も自由を得て、楽を掴んだことになる。
 私は慧春尼の話から、本当の自由を垣間見たのだった。



●ロータリークラブでの講話

 私が、『会津自現流道場』を創設して約六年が過ぎた。また、北九州市教育委員会の社会教育認定団体として、教育委員会から認定を受けることが出来た。
 いろいろ問題はあったが、辞めずに続けた成果が実ったのである。「継続は力なり」だった。そして教育委員会から認定書が手渡され、この事を道場生全員に報告した。

 稽古が終わって、この日を祝うべく、指導員数名と近くの居酒屋で酒を呑み、いつしか各々が、今後の道場の展望と指針に話が勢
(はず)んでいた。会津自現流復興に関して、各々の口から旺盛(おうせい)な意見が飛び交い、ある一人の年配の弟子からロータリークラブで“一日講師”をしてみてはどうかという話が出た。そしてこれを勧められたのである。つまり、講演依頼であった。しかし、当時はこれを“一日講師”という名称で呼ばれていた。
 彼はロータリークラブの会員で、本屋を経営する社長であった。
 彼の話によると、講話日は一週間後の水曜日であった。

 普通、講演というと、何となく口達者な芸能人や人気作家が大企業やファン会などから依頼されて、多額の講演料を貰い、寄席に出る落語家か漫談師のように、「えー、一席お笑いを申し上げます」などと言って、ユーモラスに講習参加の観客を笑わせながら登場するのだが、私にはそうした高級な芸当はなかった。
 実りあるスピーチは、私の芸当にはなかった。しかし、無下に断るわけにもいかず、「ものは試し」と言うことで、直に了承して、講話の内容の検討に入った。
 頭の中はその吟味
(ぎんみ)と模索で一杯であった。この日は実に気持ちよく酔って、アパートに戻った。午前1時を過ぎていたであろうか。
 由紀子はまだ起きていて、自分の小さな坐り机に向かって勉学に励んでいた。多分、この時は臨床学か何かの論文を書いていたようだった。この時期彼女は、毎日このような状態であった。

 彼女はこの年の六月の医師国家試験には合格したものの、医師としては、臨床研修医の段階で、駆け出しの雛
(ひよこ)であった。
 私は、出来るだけ彼女の邪魔にならないように気を遣い、狭い部屋の、私のいつも坐る一点に身を狭めて、静かに腰を降ろした。

 由紀子は私に、「お帰りなさい。今晩は随分と遅かったのねェ……」と気のない返事を投げただけで、特に咎
(とが)めるような様子はなかった。
 ただ熱心に、医学書らしい書物に読み入り、メモのようなものを盛んにとって、大学ノートに書きなぐっていた。そして自分の勉学の手を休めようとしなかった。
 彼女も大変のようだ。何か論文の下書きの草案を練っていたようだ。
 私の遅い帰宅に不機嫌ではなかったが、愛想のない単調な返事は、少しがっかりさせた。
 内心、彼女の勉強は大変なんだと思いながらも、実は彼女に何処かで、いつも構ってもらいたいと言う子供のような甘えた気持ちがあったのである。
 しかしながらそれは許されない。静粛
(せいしゅく)を第一とする現実に従うことが、ここの生活でのルールであり、私もこれに従わねばならなかった。

 由紀子が持ち込んだステレオからは、FM放送にチャンネルがセットされ、ボリュームが小さく絞られたていた。そこからは軽音楽の静かな音楽が微
(かす)かに流れていた。彼女はこの音楽を、効率を上げるためにバック・グラウンド・ミュージックのような形で利用していたようだ。耳に軽い音楽があった方が、効率的であると言う事を知っていたためであろう。
 1960年代から1970年代にかけての、今は懐かしいボブ・ディランやサイモンとガーファンクルといった『明日に架ける橋』や『コンドルは飛んでいく』のような、当時流行の軽音楽がFMラジオから流れていた。

 机に坐った彼女の後ろ姿を見ると、勉学の蒐集
(しゅうしゅう)に一生懸命で、それを暗記しているという、大旨(おおむね)世の秀才が辿(たど)る勉学方法を模しているようだった。
 どうして世は、左脳だけを用いる暗記一辺倒なのであろうか。資格を得るとは、そんな暗記力に物を言わせる作業なのかと、私流の感想が生まれ、一瞬索莫
(さくばく)としたものを感じた。
 仕方なく、自分の講話のプランをレポート用紙に綴り始めていた。
 昨晩の多少の酒のせいで酔いが回り、いつしか寝込んでしまったようだ。

 ふと目が覚めて気づくと、私の肩には羽織が掛けられていた。由紀子は、まだ勉強に余念がなかった。
 午前3時を過ぎていたであろうか。
 「そんな処で転
(うた)た寝せずに、お蒲団の中でお休みになったら?」
 その声に耳を貸すと、私の横にはきちんと蒲団が敷かれていた。
 とりあえず由紀子の言葉に素直に従って、蒲団の中で寝ることにした。

 目が覚めたのは、午前7時頃であったろうか。
 突然の太陽光線の直撃で目が覚めた。カーテンと窓は開け放され、夏の強い陽差しが部屋の中一杯に差し込んで来て、眩
(まぶ)しくていつまでも寝ていられる状態ではなかった。頸許(くびもと)に直撃したその陽差しは、ねっとりと頸(くび)に絡みついた。寝不足気味の私にとっては辛い目覚めであった。
 彼女は既に起きていて、気忙しく朝食の用意をしていた。
 カーテンと窓を開け放して、無言の儘
(まま)起床を促したのは彼女の故意によるものであろう。この辺のところを考えてみても、全てが彼女の主導権の元で動かされているのだ。

 目に見えないものが、グウタラな私を更に鍛えているような感じがある。だから、この儘
(まま)いつ迄も寝ていることは、彼女から不謹慎(ふきんしん)の誹(そし)りを受ける恐れがあった。それで渋々起床を決意した。
 しかし、浅い眠りと、夢うつつの中を彷徨
(さまよ)いながら、寝不足で頭は些か惚(ぼけ)けていた。
 部屋に朝食の匂いが漂っていた。ふっと食卓に目をやると、トースト、ハムエッグ、ホウレン草にキャビアというメニューで居並び、露骨に欧米風の朝食という朝食だった。

 会話の少ない朝食後、由紀子はさっさと病院に出勤した。私一人がこの部屋に取り残されて、寂しがり屋の私の胸中には、一種の空虚感が支配し始めていた。これといった仕事のない私は、昨日の講話プランの内容を検討することにした。
 当時のロータリークラブは、今日のような昼食会を主体とした会合団体と違って、厳格な入会基準によって選ばれた人
(紳士録に載った地元の有志)だけが会員になれるハイクラスな社会奉仕団体であった。したがって質は極めてよい人材が揃って、社会奉仕の活動が盛んであった。
 そして私は講話の題材の選択に余念がなかった。

 私はこういう講話の基本構想を立てた。
 今日の世相をどうとらえるか、ということを講話内容の中心課題に置くことにした。私の社会観と人生観はこうであった。
 人は元々、不憫
(ふびん)なる運命を背負い、人生を経験していくわけであるが、無心無欲の心境が中々会得できず、貪欲な人生の業(ごう)を背負って、その人生を終わる者が多い。
 特に人生を不憫と感じる原因は、自分の思うように物事が運ばない点である。夢が途中で挫折したり計画倒れすることである。人生は思う儘にならないのである。
 囚
(とら)われた煩悩(ぼんのう)が、自分の思うように達成できない事が、人生をより一層不憫にする。
 しかし囚われている種々の煩悩は、現世の幻
(まぼろし)に過ぎないのである。端的に言えば夢である。

 この事が理解できないが故に、益々人生は不憫
(ふびん)さを増すのだ。
 柵
(しがらみ)という足枷(あしかせ)を付けられた儘、無心無欲では、世の中は上手に生きていけないというのが現状である。豊かさの中で、金と物に縛られて、気怠(けだる)い退屈と性欲と金銭欲に喘(あえ)ぎ、それに耐えなければならない宿命を、現代人は背負っている。やりきれない憤(いきどお)りを胸に描き、それにある種の罪の意識を感じながらも、如何(いかん)ともし難い。
 正不正をごちゃ混ぜにしながら、更に心を汚染させ、その精神面は、貧困と欺瞞
(ぎまん)に満ちている。
 これが現代人の精神性を急速に弱めた原因でる。現代の病める社会を打破するためには、現状に飽
(あ)き足らぬ社会風潮を批判精神で覆(くつがえ)すしかない。私は先ず、それに焦点を合わせることにした。

 次に個々の精進
(しょうじん)のあり方について構想を立てた。
 私の考えついたのは、『苟非其人道不虚行』であった。
 いやしくも、「その人に非
(あら)ざれば、道空しくは行われず」の例えの通り、現代人は心の置き方に問題がり、精神的には貧困である。
 昨今は、そのような人が急激に増えているし、そうならざるをえないような世相の流行
(はやり)がある。

 人間のランクには、「天・地・人」の三ランクあり、先ず裏打ちのある人
(生まれや家庭の好い人)、裏技を持っている人(秘に身に着けた技術)、不屈の精神を持ち根性のある人(逆境に強い人)である。
 これは日本陽明学の祖・中江藤樹も指摘するところである。藤樹は当時の武士を上・中・下に分類した。
 そして世の中は平和になって来ると、平和ボケが生じるためか、やたら「下の武士」が殖えることを嘆いている。
 つまり、下の武士はやたら猛々しく、武張ってみせ、平時でも鎧兜に身を固め、自己の武勇伝を語り、夜郎自大に陥って、傲慢なところが鼻に突くと嘆いているのである。これは今日の格闘技に共通する「蛮」の嘆きと同質のものであるようだ。競うは強弱のみで、結局これでは十六世紀の乱世の白兵戦に引き戻しただけであった。
 私のような貧しい生れの者にとっては、只管
(ひたすら)精進と努力を惜しまず、裏技を身に着けるくらいしかない。その裏技を身に着けるには、忍耐が必要であり、困難を跳ね返す逆境に強い、非常な努力が必要なである。
 この点を考慮して、精神性の裏技こそ、会津自現流でならなければならないと力説することにした。
 その中心は古武術であり、古武術の中にこそ、日本人のリーダーになりうる王道の根本精神が宿っていると考えた。これを説く以外ない。そう考えたのである。

 現代の西洋化された試合形式の武道は、勝者に傲慢
(ごうまん)な自惚(うぬぼ)れを与え、それを英雄視する危険性を説こうとした。
 競技武道およびスポーツの欠点は、闘争本能を煽り、その思想は取り分け、武術の本質を十六世紀戦国期の乱世の兵法に逆戻りをさせる危険性を持っているのでないか。
 「兵法
(正確には「ヒョウホウ」と発音する)は即ち、平法(へいほう)でなければならない」と、これを力説しようとした。

 次に、人間達道の理論である。
 この時私は、些か東洋哲学に凝
(こ)っていた。
 私の目指した哲学の原形は、王陽明
(おう‐ようめい)の『陽明学』であったが、よく曽国藩(そう‐こくはん)や邵康節(しょうこうせつ)のエッセイに目を向けたものである。現代に問い掛けて来るものがあるからだ。
 宗代
(北宋)の哲学者、邵康節は、『伊川撃壌集 (いせん‐げきじょう‐しゅう)』の中で、このように人間達道を論じている。
 「男子と作
(な)らんと欲すれば、すべからく四般(よんぱん)の事を了(な)すべし。財・よく人をして貧らしむ。色・よく人をして嗜(この)ましむ。名・よく人をして矜(ほこ)らしむ。勢・よく人をして倚(よ)らしむ。四患(しかん)、既に都(すべ)て去る。豈(あ) に塵埃(じんあい)の裡(うち)に存(あ)らんや」と説いている。

 即ち、これを要約すれば、一人の男らしい人間になろうとすれば、是非
(ぜひ)、次の四つの事を実行しなければならないと説いている。
 先ず、第一に、財利
(ざいり)は他人(ひと)に欲しいだけ儲(もう)けさせ、第二に、女色は他人に好きなようにさせておき、第三に、名誉は他人が自慢するに任せ、第四に、権力や勢力は他人に勝手にさせておく。この人間界の世俗を悩ますこの“四つの病(やまい)”を取り去ってしまえば、俗に伍(ご)する人間ではない。まさに天命を知る者がいえる境地である。

 学問と分析力の浅い人間程、直に激怒して、感情に動きやすいのだ。
 それ故に、他人の富み、地位、名誉、愛欲色欲、派閥、権力が許せないのだ。そうした考え方が、親分子分の関係や派閥に発展して、ついには腐敗を招いて“不正な力”に依存してしまう。
 そうした力による依存の形は、真理を見失い、自己の派閥や好き嫌いに偏
(かたよ)り、道理よりも利で動くようになる。これに慣れれば、損得(そんとく)で、黒も白と言い兼ねないのだ。真理を曲げて、利害、打算の観念が社会全体を覆ってしまったら、道徳や情愛は崩壊して、日本を破局に引きずり込んでしまうことは必定である。今日の世情にあって、これを指摘したかった。

 次に、日本の自然観である。
 私の心の片隅には、何の気なしに垣間
(かいま)見た、山村師範の古神道(こ‐しんとう)の考え方が蓄積されていた。古神道の素朴な風景だった。
 人は自然から何を学ぼうとしているのか。これを具体的に理解している人は稀
(まれ)であろう。
 東洋文明の、それも日本的文化の持つ精神的深さは、他の民族にはあまり類例がないであろう。特に日本古来から連綿
(れんめん)と続く『惟神(かんながら)の精神』は、大いなる自然への慈(いつく)しみがあった。
 そして「惟神の道」とは、神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道で、これは古神道に回帰される。

 日本人は、土地に執着する農耕民族である。土産
(うぶすな)信仰も、土地への執着も、その現れである。そして、農耕の代表は、何と言っても稲作である。
 稲作農業は気温の変化や雨の量にも気を配らなければならない。
 台風の時期になると水害から稲を守ったり、雑草の駆除
(くじょ)にも心を配る。そうやって、手塩にかけて稲を大切に育てるのである。
 この精神的忍耐と気候風土が、日本人の自然観を豊かにした。これがために、季節の移り変りに敏感で、その節目ごとに自然に感謝した。要するに自然に対する感受性が実に豊かであったのだ。

 台風の来襲に対しても、これを素直に受け入れた。
 台風は、また一方で恵みに雨であり、これにも豊かな感受性で感謝の心を持っていた。常に自然と共にあったのだ。
 しかし欧米の自然観は、これと全く逆の発想である。
 明治初頭の文化人の発想も、欧米の考え方に汚染されたものであり、脱亜入欧
(だつあ‐にゅうおう)の考え方はその最たるものであった。これまでの民族の伝統と日本的はものを、徹底的に嫌うことによって、日本人の培われた魂と心を破壊させてきた。これに変わって、自然を管理し、征服するという科学を前提にした考え方が生まれたのである。

 喩
(たと)えば、西洋のスポーツ登山のように山の頂上に昇るために、自然と闘って、それを征服するという思い上がりの思想は明治以前には日本にはなかった。
 それが明治以降、欧米の文化が雪崩
(なだれ)込むと、自然が人間に管理される対象物に変わった。人は自然を体系主義によってコンロトールし始めたのである。

日本人の山岳観は単に、強引に山の頂上を目指し、その頂上点を征服するのが目的ではなく、此処に至るまでの景観を味わうことが、日本人の心の中には存在している。

 また喩えば、これまでは、「山は登るものではなく、遠くから見て味わうもの」であった。この自然との調和を目指す考え方が、近年は征服し、管理するものに変わってしまった。これにより自然への慈
(いつく)しみの心が、日本人の中から崩壊するのである。
 今や美しき山河など見る事は稀
(まれ)であり、何処もかしこも管理の手が入ってしまっている。そして管理とは名ばかりで、実は乱開発がその実態なのだ。

 科学への盲信と科学者の思い上がりが、海を汚染させ、山を乱開発して木々を伐採し、水の循環は元通りに復元できないまで悪化した。例えば切り刻んだ物でも、再び繋ぎ合わせて元の形に戻せば、復元すると考えたのだろう。しかし自然は機械ではなく、機械を分解して再び組み立て、復元するようにはいかなかった。
 自然は、一旦毀
(こわ)れると、もう二度と元通りにはいかないのである。
 地球汚染の兆候
(ちょうこう)を、豊かさと便利さと快適さに置き換えて、物質面優先の現代人の盲信を指摘したかった。
 これをレポート用紙に纏め上げ、講話の構成を組み立てた。この講話に会津自現流の初伝・中伝の演武を付随
(ふずい)させるつもりでいたのである。


 ─────これを約一日かかって考えた。
 そこへ由紀子が病院から帰ってきた。
 彼女の「ただいま」という声が聞こえない程、熱中していた。
 由紀子は何度か、「ただいま」と言い直したようだ。これにやっと気づき、「お帰り」と返事を返すことが精一杯であった。そんな私に構わず、由紀子は夕食の用意を始めていた。

 私は、締め括りの内容を更に考えていたが、その結論をどう持っていくか、閉まりのない終止符に苦闘していたのだ。
 《どのように纏
(まと)め上げるか、そして何故古武術でなければならないか》、その主点を絞り切れていないで苦悩していた。私は、この難点の補足を考え続けていた。この儘(まま)では大事な要(かなめ)が落ちているように思えたのである。
 「お食事の用意ができましたわよ。お席にお着きになって下さい」
 私は、講話の内容を頭にした儘、由紀子の指示に従い、いつもの席に着いた。
 頭の中が、そちらの方に流れているので、折角の彼女の作ってくれた料理の味がわからない。
 やがて食卓にレポート用紙を持ち込み、食事か思考か、どちらかに徹し切れない躾
(しつけ)の悪い子供のようなことをした。
 熱中すれば、寝食を忘れて……という状態になるが、私の場合は中途半端だった。未だに愚の域は脱していなかった。
 いや、これは愚どころか、もしかすると蛮の域ではなかったか。
 愚者は一等堕ちて、蛮行者となっていた。

 「お食事の時ぐらい、それを止めたらどうですの?」
 由紀子はお説教調の口調で不機嫌な顔をした。
 私は甚
(はなは)だ神妙な面(おも)持ちで、これを素直に聴(き)き入れ、食事に徹することにした。
 食事が終わって、この儘
(まま)ではやがて壁に突き当たり、挫折してしまう感じがしたので、由紀子に散歩と断わって外に出た。
 頭を抱えたままの、霽れない心境である。
 近くの公園のベンチに腰をかけ、ある幻影に思いを馳
(は)せた。当時、私は思考に行き詰まると、誰もいなくなったこの公園の、このベンチによく腰を掛けることが多かった。
 このベンチは、丸太を半分にした木目を形どったセメント製のものであったため、夏でも腰をかけるとひんやりとして冷たかった。頭の中で、ある幻影が過った。


 ─────それは空想である。
 大男が私を追いかけて来る。太い筋肉をつけ、狂気に満ちている。その男の手には、三尺もあろうと思われる長い太刀あるいは長巻
(なが‐まき)か握られている。じりじりと追いつめて来る。足は早い方でないが、確実に私を捕らえジリジリ追いつめて来るのだ。
 その男を、どうすれば制することができるか、苦慮していた。まともに戦えば、勝てる筈がないと恐れをなしていた。それは同時に、私の心の中の恐れの幻影でもあった。そしてその幻影が、いつまでも私の頭を駆け巡り悩ませた。私自身の迷いと気迫の欠如のためであろうか。
 一瞬、生死に迷う、自分自身を垣間見た。

 「たぶん、此処だと、思ったわ」
 数か所を捜したらしく、息を弾ませて由紀子が言った。
 私は彼女の投げた言葉で、我に戻ることができた。
 「あまりに、遅いものだから、捜
(さが)しに、来たのよ」
 息を弾ませながら途切れ途切れに喋った。
 まるで2キロも3キロも走ったかのように、呼吸の乱れが荒々しかった。足許
(あしもと)をよく見るとサンダル履きであった。そして普段着のままだった。
 私の帰り遅かったことが、監視役の彼女としては不満であり、危ない綱渡りをする私の、多分それが心配だったのだろう。

 私は、
(いらんお節介だなァ)と、由紀子の過剰な心配症に苦笑いしながら、次第に呼吸が整っていく彼女を見ていった。
 「あなたこそ、自分の勉強はどうしたのですか?」 
 「あたしの勉強は順調に進んでいますわ。それよりもあなたの方が……」
 「子供じゃないんだから心配いりませんよ。僕が誰かに襲われるとでも思ったのですか?」
 「武道を心得た強いあなたのことです。まさかそんなことはないと思いますが、昨夜からのあなたの気配に心配しているのよ……」
 言葉尻に「お分かり」と付けられたら、更に過剰さは増していたことだろう。
 由紀子のこの一言で、私の忌まわしい幻影が未
(いま)だに拭(ぬぐ)われていないことを思い知らされた。

 帰路の途中、由紀子に訊ねた。
 「苦悩し、ややともすれば、挫折感に陥ってしまいます。突破口の糸口の模索に苦慮しています。出口が何処か分からないのです。どうすればいいと思いますか?」
 「あなたは闊達
(かったつ)な自由を失っているのではないでしょうか」
 「闊達な自由……」
 「固定観念に固執しているのではないでしょうか。南宋
(中国宋代の朱子学の大成者)の儒学者・朱熹(しゅき)の言葉に『疑わざれば進まず』というのがあります。疑問を持たなくなった人は、創造性や進歩は止まるといっているのです」
 「疑問を持つ……?」
 「そう、疑問です。人は疑問を持ち、その疑問を解明するために研究したり、実験したりするのではないでしょうか。これが闊達な自由の知恵の発想ではないでしょうか」
 「……………」
 「闊達な自由を会得した人は、少なくとも迷いと不安からは束縛
(そくばく)されないと思いますが……、いかがでしょうか」
 私は、急速に救われていた。
 由紀子の指摘に対して思わず固唾
(かたず)を呑んだ。目から鱗(うろこ)であった。この意味で、物知りの由紀子は、私の魔法の生き辞引(じびき)なのであった。
 人は、往々にして暗い固定観念の固執に陥りやすいものである。私もいつの間にか、暗い固定観念に纏われつかれて、自由を奪われていたのである。
 こんな状態では何者にも勝てる筈がないのである。戦う前から自分に敗れているのである。

 薩摩示現流は、初太刀
(しょ‐たち)に全てを賭(か)けると謂(い)われる。ただ初太刀だけである。後に何も無い。したがって、二之太刀(に‐の‐たち)以降の技法は存在しない。
 合理的だが、またそれだけに玉砕思想にも通じ、凄まじさを感じる。
 打ち込んだ吾
(わ)が剣が払われたり、躱(かわ)されれば、逆襲を受けて後はただ死ぬだけのことである。それゆえ初太刀に賭(か)ける気迫は凄じいものがある。
 初太刀に全てを賭け、打ち込む際の気声は、他流の気合とは違っている。敵の中に飛び込む際、敵から斬られる自らの悲鳴が、その気声なのである。この気声が、『猿叫
(えんしょう)』といわれるものである。
 則
(すなわ)ち、吾(わ)剣を打ち込みと同時に、自らは斬られる悲鳴を発する気声である。
 敵に初太刀を打ち込むのである。そして二太刀以降の剣技は存在しないのである。
 斬り殺された人間に、なにゆえ二太刀が必要であろう。
 以降、二之太刀もなければ、三之太刀もないのである。
 あるのは、ただ初太刀のみである。

 薩摩示現流の特長を技術の上から見れば、ただの一刀で両断するか、倒されるかでであり、攻防を遣
(や)り取りする技術は一切存在しない。
 これは偏
(ひとえ)に、命を捨てて、心に死を充(あ)てる玉砕(ぎょくさい)主義思想に則(のっと)っているためである。
 ここが諸流の巧みな小手先の、剣技のみに終始する試合形式の修行とは違っているのだ。
 実戦の場合、道場での試合上手が必ず勝とは限らない。気迫の面で劣っていれば、試合上手でも斬られる場合があるのだ。それは気迫の差にほかならない。
 会津自現流では、この気迫を『唯心威之位
(ゆいしんい‐の‐くらい)』という。私は、世俗の俗事に囚われて、これを忘れていたのである。


 ─────ついにロータリークラブでの講話の日がやって来た。
 由紀子が朝、病院に出勤する前、
 「頑張って来て下さいね」と激励してくれた。

 午前11時にロータリークラブの昼食会の会場に出向き、当番の月間議長に紹介され、予
(あらかじ)め講話の内容を議長に話した。
 正午待って、議長から会食に集まったクラブ会員に紹介され、30分の講話時間が与えられた。

 此処に参集した会員は、その誰もが私より年上で、社会的にも地位が高く、各々の分野で活躍している、謂
(い)わば地元の名士たちである。紳士録に名を連ねる有志たりである。私のような若造(わかぞう)が彼らを相手に講話をし、一緒に連れ立った弟子と演武をしたのである。
 清聴する相手は一廉
(ひとかど)の人物である。内容が薄っぺらであれば、冷ややかな嘲笑(ちょうしょう)は免れなかった。それは覚悟の上だが、こういう場合は一生懸命に、律儀と正直さで勝負すればいいのである。他に何を考える必要があろう。
 人生は総て初太刀以外ないのである。二太刀、三太刀はないのである。一回ぽっきりなのである。ならば初太刀に総てを賭けるのは当然である。
 そんな中、私は講話の基本構想に、「囚
(とら)われない心」という締め括(くく)りをつけ加えた。迷い通して自我に執着し、生死を解決することなく人生を終える人間の愚を説いた。
 人生も一回限りである。
 輪廻は繰り返すと言っても、今の肉体で、この世で霊肉ともに活躍で来るのは、たった一回なのである。
 これを初太刀を賭
(か)けずに何としよう。

 この日の講話は別にしても、連れ立った弟子数名と演武を行った柔術には、参集した人々から賞賛を受けたようだった。
 しかし、真相は本当に、これが受け入れられたか受け入れなかったかは分からないが、此処に参集した地元の名士の紹介で、道場に数人の入門者が送り込まれて来たことを考えてみると、満更
(まんざら)受け入れなかったとも思われなかった。何らかの効果があったことを、私は感得したのである。
 ロータリークラブでの講話は、このような経過を辿って、無事終了したのである。これは私自身に大きな成長を齎
(もたら)したことは言うまでもない。

 講演慣れした芸能人や当節流行りの人気作家は、ロータリークラブの講演の謝礼は、非常に安いと不満を漏らす。彼等が言う、「謝礼が安い」と言うことは、この程度の金では、安すぎて“いい稼ぎにはならん”ということだろう。
 あるいは自分のスピーチを高く買ってくれることを目論み、安売りはしないという事だろうか。傲慢な考え方である。思い上がった考え方である。誰もが総てこういう考え方を持っていないと思うのだが、一部にこういう手合いが有名人の中にいることは残念な限りである。足るを知らない人間の言うことであろう。
 しかし、私にとっては決して安い謝礼ではなかった。金銭的にはそうだったかも知れないが、私を招いてくれたと言うことで、金銭の如何に関わらず、講師として招かれただけでも、身に余る光栄だった。
 おまけに会食まで呼ばれ、錚々
(そうそう)たる中高年の地元有志と食事を共にさせて頂いたのである。過ぎたることだった。
 これで謝礼が安いなどと言うと罰が当たる。
 私は高い講演料を要求する芸能人や人気作家でないから、講演依頼されただけで満足だった。これで充分だった。この光栄を誇らずして何としよう。
 名誉だった。胸を張りたかった。無形の勲章を授かったような、気持ちになったのである。
 足るを知る私としては、何も不満はなかった。
 いま思い返しても、いい経験をしたと思っている。



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