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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 41

禅の修行に「貰って歩く姿で与えて歩く」というのがある。これは昔の托鉢者の心であった。与えて歩く姿で貰って歩くのである。
 今日の経営者や事業家には存在しない心で、また資本主義の資本家にも存在しない心ある。利潤を得るために追求して止まないのが昨今の事業主のようだ。
 果たして、貰って歩く姿で与えて歩く托鉢者の心情は何処に消えてしまったのだろうか。


●尼僧慧春

 ある日曜日、八幡東区帆柱町(北九州市)にある『臨済禅(りんざい‐ぜん)大生寺(たいしょう‐じ)』の太田幸徳(おおた‐こうとく)老師を訪ねた。
 この大生寺は、私の家が、この寺の檀家
(だんか)でもある。また、この寺は度々に渡り、道場の坐禅会や老師の講話で、お世話になっていた寺である。私は定期的に道場生を連れて坐禅を組みに行ったことがある。
 五十人くらいの道場生がそれぞれに座布団を抱え、寺に向かうのである。坐禅するには、尻に据える枕がいるが、これを座布団で代用していたのである。こうしたこと以来、その後も暫くお世話になったことがある。

 この日、訪ねた理由は、自らの柵
(しがらみ)と迷いを断ち切るためでもあった。
 人の出逢い、殊
(こと)に男女の出逢いには哀憐(あいれん)が付き纏(まと)う。瞬時の縁(えん)の有無と、一瞬の感得がそれを支配する。まさに「一期一会(いちご‐いちえ)」であり、縁は再び巡る事はない。ただ新たな出逢いが繰り返されるだけである。
 縁は一回限りである。したがって同じことは繰り返さない。それが一期一会であった。
 それは歴史においても同じだろう。
 俗に、「歴史は繰り返す」などという。
 しかし、歴史は繰り返さない。過去にあったことが、同じような現象として起こっただけで、厳密には同じ現象は二度と現れない。そっくりのものは、未来に決して顕われない。仮に酷似していて同じだとしても、微妙に違う。瓜二つの現象は現れない。
 これは「カオス論」が説明するところである。

 歴史は繰り返さない。
 繰り返しているように、映るだけである。
 歴史は繰り返すのではなく、歴史の中で生きる人間性が、現代に再び繰り返されているだけである。人間性が繰り返すだけなのである。それが繰り返したように映る。歴史とは、そういう現象界のものである。
 人間性が繰り返す現実から、私たち人間は過去から現実に対する教訓を得るより、むしろ現実に現れた現象を「過去について学ぶ」ということで、そこから教えられることの方が多いのである。
 だから、どの時代においても一期一会なのだ。もう再び、そっくりな事象は顕われない。

 今日という、またとない良き日は、もう再び繰り返すことはない。ここに「今」を生きる現実がある。人間は「今」を生きなければならないのである。
 こだわって、過去の栄光にしがみついたり、希望的観測を抱いて「明日がある……」などと安易に先延ばしするのでなく、「今」を真剣に生きなければならないのである。今日というまたとない今日一日は、もう再び巡ってくることはない。今日限りのことである。「今」だけのことである。総てが、一期一会であり、ただ一回限りのことである。
 人間は出逢うために生きているのか、それとも別れるために生きているのか、その辺の見定めが、私には判断できなかった。

 由紀子との出逢いを宿命的な出逢いと定義付けるのならば、それは一つの苦悩であり、心の奥底では出逢いの背の裏側に、別れの影がはっきり意識できるのであった。
 相手を需
(もと)めて、精神の彷徨(ほうこう)を続けているに過ぎない私にとって、柵(しがらみ)と迷いは陳腐(ちんぷ)な形式をとった果敢(はか)ない冒険であった。更には、青春の一頁を怠慢(たいまん)に売渡し、そこからの現実逃避を謀(はか)るのではないかと反芻(はんすう)するだけであった。
 心の片隅には、自分は彼女から餌
(えさ)を投げ与えられて、飼育されているのではないか?という精神的苦痛と、自分には他に逃げ道が無いという恐怖が、どこまでも付き纏(まと)うのであった。そして狡(ずる)い逃げ道を、もしかしたら今、私自身が歩いているのではないか?という懸念(けねん)が先に立つのである。
 ペットでは何とも情けなかった。
 いつまでも一緒に居たいという気持ちと、そこから逃げ出したいという気持ちが相矛盾していた。
 また、それが一つの柵になり、迷いになって、いつまでも私の心に、蛇影
(だえい)のように纏(まつわ)り付くのであった。
 こうした理由が、太田老師を訪ねることになったのかも知れない。

 この席に由紀子も同席した。
 彼女の目的は、危ない綱渡りをする私の監視が、その目的とあったと思われたが、自身でも茶道の心得があるらしく、この寺の茶室で、御点前
(おてまえ)をするのが目的でもあったらしい。

茶を点て無意識の緊張の中にも安らぎを感じる。寛いだ中にもそれなりの緊張が疾(はし)る。常に、心にほどよい緊張があることはいいことである。
 それはまた油断せず、隙をつくらないことにも通じる。

 茶室の周囲には厳粛
(げんしゅく)な空気が漂っていた。亭主の案内で飛び石の上を歩いた。
 その竹林
(ちくりん)の奥に、茶室の躙(にじ)り口(茶室特有の小さな出入口であり、にじって出入する事からその名がついた。幅1尺9寸5分、高さ2尺2寸5分が定法) が見えていた。躙り口は、戦国期の傲慢(ごうまん)な武士でも頭を下げさせたという威力を持つものである。何と合理的な造りがなされているのであろうか。
 私は子供の頃の短い間、鎮信流
ちんしん‐りゅう/平戸藩第二十九代藩主・松浦鎮信が創始した茶の湯)と裏千家(うら‐せんけ)の薄茶(うすちゃ)の御点前を叔母から習っていて、少々の心得があった。彼女は表千家(おもて‐せんけ)であるようだ。
 この双方の、大きく違っている点は、表と裏では帛紗捌
(ふくさ‐さば)きが違うのである。
 表千家は武士階級に持て囃
(はや)され、戦国武将が戦場に出陣する際に、お茶を立て、これを一気に飲み干して戦場に向かったとある。

 茶室で由紀子の御点前を拝見した。
 季節は晩春
(初夏)なので釜様式は風炉(ふろ)手前である。
 床飾りには、唐銅鶴首
(からどう‐つるくび)の花入れに、曙草あけぼの‐そう/リンドウ科センブリ属の二年草)が一輪指てあった。
一輪挿。
 それは茶道の何気ない、自然の儘の心遣いである。


 一期一会
(いちご‐いちえ)を重んじる茶の湯では、新春の椿(つばき)と共に珍重されるこの花を、その性質上最高の茶花とするのである。茶碗も筒型の井戸碗(いど‐ぢゃわん)から夏の平茶碗(ひら‐ぢゃわん)に変わっていた。
 この日、由紀子は軽く髪を結って、白い結城紬
(ゆうき‐つむぎ)の小振り袖を着ていた。優雅で気品のある香りを漂わせて艶(あで)やかであった。
 彼女が立ち上がるにつけ、歩くにつけ衣擦
(きぬず)れの音を引いた。着物の襟から伸びた彼女の項(うなじ)が実にいい。着物が静寂な茶室の空間に静かに溶け込んでいる。
 そして表千家の帛紗
(ふくさ)捌き(その動作の一箇所で、パチンと帛紗の音を立てる箇所がある)が、いかにも武士のものらしいところを感じさせるのである。
 静かさの中に、何処となく利休の教え『和敬静寂』
わけい‐せいじゃく/心をやわらげて敬うこと)の響きが聞き取れるようだ。
 由紀子の立てたお茶を、私は茶道の作法にしたがって頂いた。

 これが終わってから太田老師の話を聞いた。
 『本朝参禅録
(ほんちょう‐さんぜん‐ろく)』に出て来る慧春(えしゅん)という尼僧(にそう)の話である。
 小田原の最乗寺
(さいじょう‐じ)という寺に、慧春という尼僧がいた。
 大変な美人で、気性の激しい女性であった。仏門に入る際も美人である為、他の僧の修行の妨げになると言って、度々断られた前歴を持っていた。
 しかし、慧春の決心は固く、最後には自分の顔を焼け火箸
(ひばし)で焼いて、出家を請うて来たのである。これには寺の住職も、一言も退ける理由をつける事が出来ず、ついに入門が許されたのである。

 入門してからも、人一倍の精進
(しょうじん)と修行を重ねた。しかし彼女の美貌は、他の修行僧の注目を浴び、度々恋文をつけられた。しかしこうした事には目もくれず、黙々と修行に励んだ。
 ある日、慧春は住職の命によって円覚寺
(えんがく‐じ)に遣(つか)いに出たことがあった。円覚寺の僧たちは慧春をからかってやろうと思い、彼女の前で道を塞いだ。そして一人の僧が前に飛び出し、わが衣の下を捲り上げて怒張した一物(いちもつ)を曝(さら)し、こう、大声で叫んだ。
 「わが一物、長さ三尺。どうだ驚いたか!」
 すると慧春は高笑いして、彼女も自分の前をはだけて、大声で答えた。
 「たかが三尺、なにしきのこと。尼僧が一物、底無し!」
 こう喝破
(かっぱ)して、自分の女陰を見せつけたのである。これに円覚寺の僧は彼女の豪胆さに、度胆を抜かれて青くなり、道を直ちに開けたと言う。

 慧春は、修行半ばの僧侶達の邪念を抜くために、自ら満座の中で裸になったことでも有名である。彼女は人一倍、愛欲と煩悩
(ぼんのう)を打つ鋭さは、誰にも負けなかったのである。
 そして、ついに悟りの境地を開いたのである。
 ある日、慧春は寺の境内に、高だかと薪
(まき)を積み上げると、火定(かじょう)に入ったのである。火定とは、燃え盛る火の中で坐禅(ざぜん)を組み、そのまま即身成仏(そくしん‐じょうぶつ)となる事をいう。
 この知らせを聞いた住職は慌てふためいて駆けつけ、これをやめさせようとしたが、火の勢いが強く、全く手の施しようが無かった。

 住職は、豪火の中の慧春に大声で問うた。
 「慧春よ!熱いか?」
 これに慧春は答えて曰
(いわ)く、
 「冷熱
(れいねつ)は、生道人(なまどう‐にん)の知るところに非(あら)ず!」と。
 そして即身成仏
(そくしん‐じょうぶつ)となったのである。
 実に考えさせられる言葉である。
 本当の熱さや冷たさは、中途半端な修行をして、自我
(じが)に執着し、人生を迷い通して生きている者には解らないと答えているのだ。
 悟りを開き、火定に入った慧春の話は、私にとっては強烈であった。それは凄じい衝撃でもあった。生死の迷いに囚
(とら)われることなく、行動によって悟りを一貫していなければならない。

 現代は余りにも生死に迷い、我が身の保身と保全に悩まされている。かくして迷いと悩みは、精神の向上を停滞させ、また物質文明の醜い贅肉
(ぜいにく)は、精神的な飽食を招き、既に精神的動脈硬化が始まり出したといっても過言ではないだろう。
 社会全体が避けがたい精神的心筋梗塞
(しんきん‐こうそく)に陥って、目前の煩悩(ぼんのう)に煽(あお)られ易い、不安定な状態になっているのだ。現代人はこうした縮図の中で生きているのである。
 平和惚けで死期を失った老人たちは、生死に散々迷うた挙げ句、色々な重荷に喘
(あえ)いでいる。生へ執着するあまり、自らの人生に何ら解答も出せず、迷いを解決する事も無く、生涯を終えようとしている。ここに生き延(の)びる事を前提としている現代社会の「生の哲学」の、哀れで悲しい自縄自縛(じじょう‐じばく)の結末を見ることができる。

 病室の固いベットの上で、半身不随
(はんしん‐ふずい)となり、あるいは寝たっきり植物状態に封じ込められて、喋(しゃべ)ることも、手を動かすことも、歩くこともできない苦痛さの中にあって、未(いま)だ生に未練(みれん)を引き摺(ず)りつつ、生に固執(こしゅう)する。これは決して悪い事ではないが、生死を解決できずに死んで行くことは、何とも哀れだ。
 また、生に固執する俗人の人間臭さは、決して責められる事ではないが。ただ哀れなだけである事を覚悟をの上ならば、それもよいといえるだろう。しかし、死期は完全に見逃したと言えるだろう。
 そして最期
(さいご)は悲惨な死を迎え、火葬場で、直に処分されるような哀れで小さな死を迎える事に、何の疑いも抱かないならば、またそれもよいであろう。
 しかし果たして死に行く病院の固いベットが、人生の完結を迎える上で、最高の場所、あるいは純粋な死の想いを成就させる所とは思わない。

 明治維新以降、勤勉で修身に身を挺
(てい)していた日本人は、欧米から様々な金融経済学と、利殖(りしょく)に励む、プロテスタンニズム的な姑息(こそく)な処世術を学んだ。
 資本主義は、ドイツの社会学者ウェーバー
(Max Weber)がその著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で指摘するように、休息日以外は労働すると言う事を民衆に植え付けたので、この精神が資本家を肥らせる要因になったが、一方労働者も、自分の労働力を売り込む事で、労働に相応しい対価を得て物質的豊かさを満喫する事が出来た。
 しかしその結果、物質界に豊饒
(ほうじょう)を齎(もたら)し、飽食に身を委(ゆだ)ね、有り余る物財の中で、古来より培った日本精神を無残にも埋もれさせてしまった。心より物が優先するようになった。物質に固執する時代である。

 特に戦後に至っては、贅沢
(ぜいたく)と大量消費の限りを尽くし、その贅肉(ぜいたく)の味に慣れきって、子供から大人まで気怠い豊かさの中で埋もれようとしている。多くは流行に煽られて、古人の培った崇高(すうこう)な精神を腐敗させ、自らの魂を黄金と引き換えに売り渡し、その奴隷と成り下がっている。今日は、心や魂よりは、金や物が優先する悲しい時代である。
 平穏な生活を守り、その裏で金銭や物財に固執して、表面上は貞淑
(ていしゅく)の美徳の冠を被ったように見える現代人は、快適で豊かで便利で、これまでにも増して明朗な営みをしているかのように見える。
 が、その一方で錯覚と過誤
(かご)からおこる「便利」という妄想に振り回されて、豊かさを求め、快適さを求め、それのみが人生の課題となって冷静な判断力を失い、己の死ぬ時期を見失って、だらだらと生き長らえている。
 死ぬべき時が来たら死ぬ。
 これこそが人生の基本であり、だからこそ慧春の無分別には激しい野性が感じられ、またそこに一種の郷愁
(きょうしゅう)と憧(あこが)れを呼び起こしてしまうのである。
 そして「迷わぬ」とは、こういう事ではあるまいか。


 ─────帰りの車の中で、運転する由紀子がぽっりと言った。
 「慧春尼
(えしゅん‐に)の話、どう思いました?」
 「僕には衝撃的でした……」
 「ねえ……悟りって、いったい何でしょうねェ?」
 「現代は生き延びることが前提となっている世の中ですから、退屈と絶望に追い込まれると、盲目的に生きながら、その精神は死んでいると思いますね」
 「でも、生命って大切なものよ」
 「生ながらに屍
(しかばね)となり、倦怠感と挫折に喘(あえ)ぎながら、生きる世の中なんか、何の興味もありませんよ」
 「それは……、死を選んだ方がいいということ?」
 「いや、そうでなくって、生にも死にも、囚われることなく生きるということですよ」
 「でも、一方で生に固執しながら、生にも死にも囚われないって、何処か矛盾してませんこと!」
 郷愁を、憧れを、許さない彼女の叱責
(しっせき)は実に鋭いところを突いてくる。

 「矛盾というより、毎日を死に充
(あ)てることで、その一瞬の新鮮さが尊いと言っているのですよ」
 「新鮮さって、死に直面しないと感じれないものなのでしょうか?」
 「ではもし、今日の夕刻までに死ぬとなったら、残った時間をあなただったら、先ず何に使いたいと思いますか?」
 「うう……そうね。あたしだったら、まず本当に有効に遣いたいと思いますわ。だって、死は刻々と迫っているし、そうした時間は本当に貴重ですもの。先ず、自分の医師としての仕事に、残りの時間に全て捧げて、悔いのない有意義な生き方を死の直前までしますわ」
 「それは、即ち、生き生きとして、光を放っているのではないでしょうか。死には元々そういう力があるのです」
 この言葉を聞いた由紀子は、一瞬ハッとしたようだった。何かに気付いたという驚きのようなものだった。
 この日は、私の方が冴
(さ)えていた。
 「死を心に充
(あ)てる」という心境は、死の連想で「武士の生き態(ざま)」というものに置き換えることができる。

 『武士道初心集』には、「死さへ常に心にあて候
(そうら)へば、万の災難も逃れ、無病息災にして長寿長久に、剰(あまつさ)え人柄迄よろしくなり、徳多きことにて候」とある。
 朝に夕に、常に死を心に充てていれば、無駄な俗界の柵
(しがらみ)は一掃されて、本当に生きる目標が定まり、利害や欲望にも目を向けることもなく、最も単的に、自分の生き方を素直に表現することができるのではあるまいか。
 「死を以て抗
(あがら)い、死を以て己の鎧(よろい)とし、楯(たて)として、永久に死を充て続ければ」それはどういう結果を齎すのだろうか。もし叶えば、俗世の迷いも権力闘争も、一縷(いちる)の価値すら感じられなくなるのではないかという、柵(しがらみ)の一掃である。
 即ち、最高の状態を保ちつつ、最善の道が開けて来るのではないかと言う思いがしてならない。
 世俗の世界を見回した場合、概ねは鮮度の落ちた俗世の現実、腐敗して悪臭を放つ俗世の現実しか存在していないのではあるまいか。そこには建前と本音の二枚舌を旨く使い分けた、御託
(ごたく)を並べる様な偽善的現実しか存在しないのではあるまいか。
 この俗世に長い間漬かっていると、その微温湯
(ぬるまゆ)の中で、温存的にしか生きていけない体質になるようだ。その温存こそが、新鮮さを誤る全ての主因となっているのだ。腐敗も此処から発している。

 私は、「死を心に充てて生きる」この中にこそ、人としての生き態
(ざま)があり、人生の真理があり、そこに人生観や人間観、もしくは本当の価値観があるのではないか、と言う気がしてならないのである。
 いつしか、山本常朝
(やまもと‐つねとも)の口述書『葉隠(はがくれ)』に記してある通り、「死に狂い」の境地に至らんと、既に模索を始めていたのであった。



●秘伝・合気霊術

 二階の部屋から窓越しに見える隣の家の庭に咲いていた、つい最近まで芳
(かぐわ)しい鮮やかな色をしていた紫陽花(あじさい)の花が、茶色い縁(ふち)どりを着けて茶褐色(ちゃ‐かっしょく)の枯色になっていた。
 また、あの紫陽花の隣には梔子
(くちなし)の花が芳(かぐわ)しい匂いを放っていた。暦(こよみ)の日数から数えれば、もうとっくに梅雨は明けてよいのであるが、このところ、再び梅雨がぶりかえしたようにダラダラと雨が降り続いていた。まるで雨は簾(すだれ)のように垂れ込めていた。梅雨明けが、例年より大分遅れているのである。

 ある日の日曜日、朝から小糠雨
(こぬか‐あめ)が降っていた。
 兎
(と)に角(かく)蒸し暑かった。重い雲を垂れ込ませながらも、何かを躊躇(ちゅうちょ)するように、一度にドッと降り切れずにいるのだ。
 湿度が高いためか、窓は水蒸気で薄曇り、雨景すら、はっきりと確認できない程の降り方をしていた。梅雨の全盛期を思わせるような雨で、午後になってもこの雨は降り止まなかった。しかし夕刻近くから降ったり止んだりの状態になった。そして雨が止めば止んだで、一層蒸し暑さが増し、風は止まっで、空気は淀
(よど)んだ儘(まま)であった。
 重く低く垂れ込めた分厚い空は、微動だにせず、ときおり思い出したように軒端
(のきはし)に吊した風鈴が微(かす)かな音をたてて鳴る。この風鈴は、少しでも蒸し暑い今日この頃に涼(りょう)を得るためにと、由紀子が架けた心遣いであった。しかしこれは、今は心に涼しさを送る機能を失っていた。

 由紀子は窓辺に寄りかかって、外の雨の景色に眼をやりながら、
 「相変わらず鬱陶
(うっとう)しい雨ですわ。いつになったら止むのかしら。今日で三日も、降り止んだりを続けているわ。どうやら、梅雨はまだまだ続きそうですわね」窓の外の空を見上げて、雨を恨むような独り言を呟(つぶや)いた。
 梅雨なら梅雨らしく降ればいいのだがという風な、何となく、鬱陶
(うっとお)しい今日この頃であった。
 由紀子も私も、この気が滅入るような季節が好きになれない。それに同調するかのように、私も窓の外を眺めていた。紫陽花の枯色になった色だけが、何とも印象的である。そして梅雨明けは、まだ先であるらしい。
 私は三日前から微熱を出していた。雨の中を傘を差さずに歩いて、濡れたのが原因らしい。頭がふらついて重かった。

 数日前から、私は秘伝霊術の修行に入っていた。
 秘伝霊術は、会津自現流の最も弦妙
(げんみょう)かつ恐ろしい修行法であるが、この時、初歩の縄脱けと、真剣白刃捕りを習っていた。
 この真剣白刃捕りは、白刃抜きと白刃入れの二つの遣り方がある。
 一つは白刃抜きは学生時代既に会得していたが、白刃入れは究めて高度で難解な技であった。次にもう一つはその白刃入れを抜き取った元の鞘
(さや)に戻すのみではなく、その鞘に別の刀を、もう一振り、差し入れるというものであった。一言で云えば危険なものである。だが通るべき修行の通路であった。
 それと平行するように縄脱けを習った。
 これは、両手首を針金で縛られ、ペンチで針金を捩
(ね)じり上げられた挙げ句、血行が滞って紫色になった時を見計らって、自分の拇指(おやゆび)の底骨を脱臼(だっきゅう)させ、そこを外して、手首を抜くという縄脱けの方法である。

 拇指
(おやゆび)の関節を外すことによって、手は手頸てくび/手首)と同じ大きさになるのである。一言で言えば、これだけのことであるが、拇指の関節を外すということは相当な苦痛が伴う。何しろ、拇指の関節を亜脱臼(あ‐だっきゅう)させなければならないのである。
 亜脱臼と本脱臼の違いは、完全に関節が外れたか、そうでないかである。
 例えば完全に外れれば苦痛は小さくなるが、亜脱臼の場合は、完全に外れていないので、相当な苦痛を伴うのである。そして、後遺症として何年も痛みが残る。
 今でもこの時の失敗の後遺症は残っていて、冬場には拇指の根本にズキズキと痛みが趨る。だが、これをやらない限り、絶対に奥儀の縄脱けができないのだ。
 苦痛と困惑の中で、何とかこれを熟したものの、次に控えるのは、更に恐るべき真剣白刃捕りと白刃入れである。これは中々会得できなかった。
 この真剣白刃捕りは、映画やテレビで出てくる掌
(てのひら)を合掌(がっしょう)させて、敵の刀を受け止めるものではない。あれは恐らく、武術に心得のない劇作家が、頭の中で立ち回りのワン・シーンとして創作・空想であろう。

 会津自現流の白刃捕りは、自らが敵の刀を握り込んで制してしまうものである。
 要するに、刀を掌で掴み捕り、握り込んでしまわなければ、事をなさない修行法である。更に白刃入れは、一旦抜いたものを、再び元の鞘に戻すというものであった。
 この会得に当たっては、非情な決心と度胸を要する。斬れるを超越し、斬られるを覚悟するからである。
 その決心とは、自らの手を切り刻む覚悟を以て行わなければならないということである。
 人間の掌は、単に肉体の一部ではない。
 掌そのものに、大きな秘密が隠されていて、そこには霊的な力がある。この事を多くの修行者は忘れて、掌を単に格闘の為の道具と思っている。ために、握力運動の反復をしたり、掌底として打ち出す、その程度の腕力の一部にしか用いていない。
 ところが掌には、労宮
(ろうきゅう)という経穴(ツボ)があり、ここは絶大な威力を隠し持つ霊的な場所でもあるのだ。昨今は、こうした霊的事実が封印されている為、この事実を知らない人が随分と多くなった。

 合気霊術を学ぶに当たって、その遣り方を山村師範が、一旦私の眼の前でやって見せてくれる。それと同じ事を、次に私に遣れというのである。見ていれば簡単だが、これを遣るとなるとそうはいかない。
 見れば極楽、やれば地獄の観がある。
 まさに「汝、眼に誑
(たぶら)かされる」のである。
 そしてつい先日も、これを行おうとして、元の鞘
(さや)に納める際に掌をざっくり切ってしまうのである。
 この技の構造が一体どうなっているのか、全く解らなかった。
 これを行うのに、旺盛な好奇心と勇気だけはあったが、肝心な理解力が欠けていた。頭で考え、理屈で行おうとしても、直ちに行えるものではなし、習得できるものでもない。
 結局、この日は再度失敗して、手に包帯を巻いて、空しく立ち帰る破目
(はめ)となった。
 困惑した儘、雨の中を黙々と歩いた。このずぶ濡れが原因で風邪
(かぜ)をひいたらしい。


 ─────そして、それから三日経っていた。
 いつまでも陰鬱
(いんうつ)な状態から抜け出すことができず、苦悩していた。締め切った部屋の壁からも、その陰鬱は忍び寄ってくるように思えた。
 こうした息苦しさの余りに窓を開けた。
 開け放った窓から煙る小雨を見ながら、由紀子に訊いた。
 「蟹
(かに)は甲羅(こうら)に似せて穴を掘る、という言葉を知っていますか?」
 「人には、各々力や能力があるということですの?」  
 「そうです。この頃、僕は自分の能力に底が見えたような気がします」
 「それは、どういうこと?」 
 「いや、いいんですよ」
 これ以上喋ることに口を閉ざした。自分の能力の限界に、疑いを抱き始めていたのである。
 (俺は武術家として、本当は才能がないのではあるまいか)と自分の力量を諦め始めていたのだった。

 由紀子は敏感な女である。
 それなりに勘
(かん)も鋭い。これ以上何も話さない私の心情を読み取ったらしい。
 「人生は長いんだ。甲羅に似せて蟹
が穴を掘る如く、自分のペースに合わせてゆっくりやれ、とあなたの先生だったら、おっしゃる筈ですわ」こう言って、私を勇気づけてくれる。
 ここまで言われて、奮起しなければ男が廃
(すた)る、と思いながら立ち上がったが、発熱のために一瞬足がよろけた。思うように動きがとれない。
 「ちょっと、出かけてきます」
 「こんな時間になって、何処に行こうというのです?」
 由紀子は夕刻の、この雨の中を私が出かけることが不満であるらしい。それに夕食前でもある。
 「個人的な処です、直ぐに戻りますから」
 「では、車で送りますわ」
 「いいんです」と断って雨の中を出かけた。

 不便でも由紀子の車に出来るだけ乗らず、勧められても断ることが、私の意地である。また自己を見失わないための痩せ我慢でもある。これを捨ててしまったら、私には何も残らない。
 行き先は山村師範の所であった。由紀子にもそれが分かったらしい。
 私は大蔵
(北九州市八幡東区)の電停に着くと、降りしきる雨の中に放り出された。一分も経たないうちに、雨の滴は全身を濡らした。
 私の横を走り抜けて行く車は、後ろから私に向けて、派手なクラクションを響かせて次々に去っていった。時には水溜まりの泥水を私に撥ね上げて、知らぬ顔の儘
(まま)に過ぎ去っていった。
 また、ある車は雨の中を黙々と歩く私を見つけ、速度を落とし、フロントグラスのせわしなく動くワイパーの向こうから、嘲
(あざけ)るような一瞥(いちべつ)をくれて通り過ぎていった。
 私は車を持てないのではなく、持たない主義であった。おまけに片目で遠近感も定かではなかった。
 この為、事故に遭遇したり、自ら事故を引き起こす確率も高くなる。これが私の持たない主義を貫く要因を作った。

 かつて高校に入って十六歳
(昭和39年当時)になった頃、原付二種(120cc未満 )を皮切りに、軽二輪(250cc)、自動二輪(800cc )、自動三輪(1600ccクラスの丸ハンドルで、クラッチはハンドルクラッチ。この当時の免許は普通車に格上げ)、軽四輪(360cc 、当時の試験場の車種はスバル360の達磨クラッチ。現在は普通車に格上げ)、普通一種と、北九州市小倉北方(きたがた)の自動車試験場に受けに行った事があった。全て一部合格(学科の法令と構造は合格したが、実技で失格したため、学科免除で実技だけを受ける制度)で、一部合格証を手にする度に、一ランクずつ上に上げていった。その度に警察署の交通課の事務官を呆れさせた。
 何故ならば、受験志願書がその度に、一部合格印の判子で汚れるからだ。一杯に押された判子で事務官は《お前は中々しぶとい奴じゃの》と呆れさせるのである。
 「原付二種から始まって、軽二輪、自動二輪、自動三輪と、どうして段々うえに上がっていくんだ。まあ、自動二輪か自動三輪ぐらいでよかろう」
 こう云われたのだが、「いいえ、今度は普通車の一種に挑戦します」と言い捨てたのだった。

 ある時、事務官が私に「一体、お前は何点で実技を落ちたんか?」と訊いたことがあった。それに私は「殆どが七十九点です」と答えたことがあった。
 事務官は「惜しいなァ。後
(あと)たったの一点か。あの試験場には随分と意地の悪い親爺が居ると聞いていたが……」と同情するような返事を返したことがあった。この事務官は自分のことのように、私の失格を悔しがる人の良さがあった。そしてこれが車を持たない、不適合人種の人間にされる原因となった。
 私はこれ以降、一般から受ける普通車に挑戦したが、一部合格でアウトになり、その後、これに二度挑戦したが、自動車試験場での合格のチャンスは永久に失われた。それは視力も、衰え始めていたからだ。

 傘を差さずに来たので、山村師範の処に着いた時には、ずぶ濡れであった。
 「よう、来おったか。ドブ鼠!」
 私の顔を見るなり、山村師範は悪しき態
(ざま)に言った。
 最近の自信喪失のために、ドブ鼠のような臆病な眼をしていたに違いない。それを山村師範は瞬時に見抜いたものと思われる。
 「凡
(おおよ)そ、俗界の既成の観念に捕らわれていては、何もできんぞ!」 
 「仰せの通りで……」
 このように返答するが、その真意は分っていない。ただの相槌であった。そもそも愚鈍には意味が分らず、愚者は無難な返答をするだけだった。
 「肉体
(頭脳)で考えるのではなく心で考えよ。心で物事を見据えよ。心眼を養うことじゃ。そうすれば道は自ずと開けよう」
 私は、
(そう簡単におっしゃいますがね)と反論したかった。
 「床の間の刀で、儂
(わし)を斬り付けてみよ」と自信たっぷりに言う。また酷い目にあいそうだと予想がついたが、断るわけにも行かないので、渋々仰せの通り斬り付けてやった。
 「あッ」
 その一瞬、身体が硬直し、山村師範は私の斬り込んだ刀を確かに掌
(てのひら)で握り込み受け止めている。握った刀を、私は引くことも押すこともできないでいる。そして、不思議なことに、刀の柄から自分の手を離すこともできないのである。馬鹿な!と思いながらも、その状態に嵌っていた。

 山村師範は、ほんの僅か、刀の握り込んだ手を捻ったかと思えたが、私は空中に浮かされ、その儘、土間の上に叩き付けられていた。投げ飛ばされた先が、運悪く柱の出っ張った角であったので、思いきり厭
(いや)と言う程、顎(あご)を打ち、このショックで顎が外れた。
 この状態を見る方は楽しいが、やられた方はたまらない。実に無態な恰好だ。
 苦痛のために金魚のような口をして、パクパクやっている私の姿に、山村師範はすこぶる御満足で大喜びであった。相変わらず犠牲者を痛
(いた)ぶる、この性癖だけは、雀(すずめ)百まで踊り忘れずのようだ。
 顎の関節が一旦外ずれると、後は段々と外れやすくなるが、最初の一回目は実に痛いものだ。
 山村師範は、私の顎の関節を中々入れようとせず、しぶりしぶり、じらしながら十分に楽しんでから入れてくれた。


 (何と悪い性格をしているのだ、この爺さまは)が、私の久々の感想であった。
 「儂の技を見て解ったじゃろうが」
 「はあ……」私は自信のない返事をした。
 「今度はお前がやってみい」
 そう勧められるのだが、私には躊躇
(ちゅうちょ)の歯止めがかかって、そう簡単にやれるものではない。
 難しい。併せて怕い。
 しかし山村師範の眼がそれを許さない。爺さまはサディストなのだ。他者を精神的・肉体的に虐げることによって満足を得る性的倒錯者なのだ。
 眼で「やれ!」と促し、意地悪にも急
(せき)きたてる。もたつくと何をされるか分らない。
 だが眼が完全に笑っているのだ。この笑いが怕い。この爺さまの悪癖が久々に浮き上がっていた。嗜虐的喜びを再発させたようである。悪い病気である。

 先日、左手はざっくり斬っていたので疵は治らず、今度は右手に刀を握って、その上から紐
(ひも)で縛(しば)りつけ、刀の引き抜きは何とか抜くことが、元の鞘に納める時、5cmも入れないうちに、またもや左手同様、ざっくり斬ってしまった。この技がどういう技なのか、全く解らず雲を掴むようなものであった。難解かつ怕い。
 この日も空しく立ち帰った。会得し切れない歯がゆさがあった。ガックリと肩を落として、行きと同様、傘を差さずに雨の中を黙々と歩いた。途中雨が激しくなった。

 地上の物音の一切を包んでしまうような激しい雨は、やがて私をも包み込んだ。バケツをひっくり返したような驟雨
(しゅうう)は容赦(ようしゃ)がない。しかしこの雨に抵抗することなく、切り傷も衣服も、ただ雨に濡れるに任せた。
 俄
(にわか)かに握り締めた掌の傷が、雨に濡れてズキズキと痛み始めた。そして実に情けない姿であった。

 大蔵のバス停近くに辿り着いた時、勘のいい由紀子が車で迎えに来ていた。
 一際目立つ、赤いフェアレディーZは遠くからでもそれが分かった。一時間以上も前から車を止めて待っていた様子であった。停車している赤い色の車の屋根は、鮮やかに赤味を増したように濡れ、ワイパーが忙しなく小刻みに動いているのが、何とも印象的だった。
 恐らく彼女は、私の肩を落とした貧相な姿を、遠くから見ていたに違いない。
 私がその車に近付いたら、助手席のパワーウインドウの窓を開けながら、
 「ビジョ濡れじゃないですか。どうしてして傘を持って行かないのです?」と、私に乾いたバスタオルと傘を差し出した。

 私はそれを手に取り、頭を拭きながら、 
 「必要ないんです」と平然と強がりを言った。
 「どうして?」
 「武術家は傘が嫌いなんです」
 「強がりばかり言わずに、少しは丸くなったら……」と、不機嫌そうな顔を私に向けた。
 私は、「ハッ!」として、
(丸くなったら、か……)と思った。

 私は由紀子の車に乗った。助手席の前方を見ると、フロントグラスの外でワイパーが忙しなく動いている。襲いかかる水滴を撥
(は)ねつけながらも、再び驟雨(しゅうう)に満たされてしまう。ワイパーが動く度に、前方の景色はくっきりと現れ、また消える。ずぶ濡れになった躰(からだ)を車のシートに横たえると、微かな安堵感が蘇(よみがえ)ってきた。そして体調の悪さが、躰に熱と浮腫(ふしゅ)を齎(もたら)していた。
 しかし冷房の利いた車の中は、驟雨の外とは違い、春の柔らかな日差しのように爽やかであった。時折、フロントグラスに激しく襲いかかる驟雨は、何かの光に反射して、私には愛着のある冬の太陽の日差しにも思われた。それだけ私は熱に冒され始めていた。もう外は暗くなり始めていた。

 つらつら考えることがあった。会津自現流の奥義に、『方円
(ほうえん)兼ねたら』という教えがある。
 水は、丸い円であろうが、四角い正方形であろうが、自在にその中に納まってしまう。逆らわない、自然な様を言うのである。私は自分の欠点が、自然の行動に反しているように思えて来た。余りにも俗性観念に囚
われ過ぎていたようだ。丸くなる必要が多分にあると思った。
 つまり「円」ある。円と書いて「まる」と呼ぶ。
 この日は由紀子に連れ帰ってもらったが、雨に濡れて風邪をこじらせたらしい。暫
(しばら)く、熱で魘(うな)されたようだ。
 そして夢の中で、斬り合いの夢を見た。


 ─────修羅
(しゅら)地獄は、こんなものではなかろうか、という空想から湧いた修羅場の夢である。
 互いに刀を構えて向かい合っている。
 そして、斬り合いが始まる。
 斬っても斬っても、敵がどんどん地面から沸き上がるように現れてくる。斬り殺したと思われる者まで、次々に蘇り、起き上がって、再び襲いかかってくる。敵の首が飛び、腕が斬り落される。それと同時に、どす黒い血飛沫
(ちしぶき)があがる。
 それが私の顔にもかかる。私も腕を斬られ、刀で腹を抉られる。その悶絶
(もんぜつ)の痛さが、全身を駆け抜ける。夢としての痛みがあるのだ。敵は死神かも知れない。私を現世から抹殺(まっさつ)することを目的にしているのだ。
 冥界
(めいかい)に拉致(らち)する作戦に出ている。
 以前の強健な手足は、疲れ果てて萎えてしまっている。もう自在に動かすことが出来なかった。
 そして輪廻
(りんね)に似た修羅(しゅら)地獄を見ているのだ。

 更に追い詰められ敵の最後の一太刀が、私の頭上に振り下ろされんとする時、それに逆らうことを止め、自然に受け入れる形になっていた。私は肚
(はら)を括(くく)ったのである。
 いっそのこと、斬られてやろうと……。
 そうすれば当惑するに違いない、そう思ったのである。つまり「空」だ。あるいは何もかもさっぱりしていいかも知れない。

 空の世界にまで敵は入り込めない。敵がジリジリと、にじり寄って来て、最期
(さいご)の止めの剣が打ち込まれた瞬間、私は無意識のうちに、その敵の剣の刃を掌で握っていた。
 金縛りの状態になって、私の躰は硬直していた。夢の中で動くことのできない息苦しさと、この儘
(まま)窒息するのではないかという苦痛が暫(しばら)く続いていた。これに逆らって悲鳴を上げていたようである。
 そのとき私はふと、誰かの呼ぶ声で、目を醒した。そして目を開いたものの、よく焦点が合わない。その遠近感のない先に、由紀子の白い顔があった。

 「あなた……」由紀子が呼んだ。
 彼女は繰り返し呼んでいるようであった。
 朧気
(おぼろ‐げ)ながら意識を取り戻した私は、《今のは夢だったのか……》と今更ながらに、彼女の母性に支配されていることを知った。

 熱でうかされながら見た夢は、不思議で、嫌な夢だった。躰中、汗びっしょりになって、傷ついた掌を握り締めていた。
 私は氷枕の上に寝かされていた。徐々に記憶が蘇
(よみがえ)る。動くと体の節々が痛い。頭がやけに重い。刀で切り裂いた手を見ると新しい包帯が巻かれ、由紀子の治療した後が窺えた。
 山村師範が刀で手を切り裂くように勧め、それを由紀子が治療する。そして、私が、また失敗して手を切り裂く。それを由紀子が、また治療する。輪廻の繰り返しを思わせる、何とも不思議なサイクルである。

 この秘伝霊術の完成に、私は約一年を費やしたが、素直な人なら数か月で完成するそうだ。
 結局、私は心の中の角がとれて、丸くなるのに人より時間がかかったのである。
 この技法は、刀の横研ぎを利用したものである。
 包丁や剃刀
(かみそり)のような縦研ぎの刃物で、これを行うことは不可能である。
 勿論、刀剣のその性質を十分に知り尽くし、精神的にも肉体的にもバランスを崩さない状態にしておかなければならないことは言うまでもない。
 そして精神的には度胸と胆力は勿論のこと、肉体的には、世間一般の先入観の尺度で、これを考えてはいけないのである。
 「方円を兼ねたら」これが会津示現流の教えであった。円くなるとは、このことだったかも知れない。



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