運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 39

人間は「命(めい)」の中で、天命に生かされている。浮くも沈むも天命次第である。因縁は天命によって作られ、運命の陰陽に翻弄される。運命こそダイナミックな存在であるからだ。


●不吉な予感

 その予感は的中していた。厭な予感ほど中(あた)ることが多い。
 八門遁甲の奥底に潜む、平法「秘伝」の核心に触れて、知らなくていいもの迄を追い掛けてしまった。
 『秘め事』
ひ‐め‐ごと/秘めて人に知らせない極秘の事柄だが、近年で言う男女の性的交渉の「睦(むつみ)ごと」とは異なる)の註釈(ちゅうしゃく)に、少しずつ真綿(まわた)で首を絞められているような感覚に陥ることがあった。分けの分からぬ幻覚を覚えるのだった。それは不吉な予感といってもよかった。
 近未来に何がか起こりそうな、それも何か悪いことが起こりそうな、そうした不吉を感じたのである。
 何か悪いことが起こる……。
 そう直感したのである。
 この時、八門遁甲の詳細な遣
(つか)い方は、まだ知らなかったが、大まかな基本玄理(げんり)は分かっていた。

 私は二ヵ月間も何処にも動かずに、このアパートに住み着いてしまったのである。そろそろ人間の持つ、電気線の影響が現れる筈だと思った。その影響は、いい方に向かうことは稀で、大抵は悪い方向に向く。ここが恐ろしかった。
 人間は同じ場所に二ヵ月もじっとしていたら、電気線が、下に沈んでしまい、自己の先天的な生まれの宿命の因子
(いんし)に振り舞わされていまうのである。これを「電磁沈下」という。
 これは八門遁甲の玄理
(げんり)が、古典物理学の三次元立体で構築され、平面の配当盤に上下の高低を持つ為である。一箇所に止まることは、電気線の沈下を意味するのだった。
 つまりコップの中の泥水を掻
(か)き回して、暫(しばら)く放置すると、水と泥は上下二層に分離され、泥は下に沈んでしまう現象である。
 これは私のような道場経営者にとって、これは大変危険なことであった。
 余りにも、長期間動かずに停滞し、停滞し続けていたのだった。人間に内蔵されている俗称「電気線」は、長距離を動くと電気線は上に上昇し、同じ場所で動かずにいると下に沈む特性を持っている。

 これは攻め込まれる側には、非情な弱点となる。「命
めい/生年月日時に伴う人間の持つ先天的な星回り)を暴(あば)かれ」それを攻められればひとたまりもなかった。「命術」によれば簡単に割り出される。星回り独特の相尅があらわれるのだ。まさに、その弱点を曝(さら)した儘(まま)、敵の仕掛けた攻撃の日取りを、じっと待っているようなものであったのだ。籠城戦で、籠城側が敗北するのは、城主の命が暴かれる為であった。
 それは丁度、目標物として浮いている巨大な火薬庫を晒
(さら)け出すようなものであった。これを目標に、攻撃されたら一溜(ひとた)まりもない。全滅は避けられないのだ。これを知って顔面が蒼白(そうはく)になった。恐ろしい宿命の因子を、既にこの時、予感していたのである。
 何
(いず)れ、これが発火点となって、途轍(とてつ)もない大爆発を起こすということを……。
 そして私は、運命の陰陽の周期によって、自らのこれから先が操られ、支配されていくかのような予見を観じていた。
 運命の陰陽の支配は、紛
(ま)れもなく人間を支配するものだった。


 ─────朝の食事の時の会話である。
 「あなた、どうかしたの?何んだか顔色が悪いようですが……」
 「……………」
 「何か、心配事でもありますの?」
 「いや、ちょっと考え事をしていたたけですよ」
 「考え事って?」
 「……………」
 「災いのような事ではないのでしょうね?」
 女の勘
(かん)というものは、こういう時、実に良く当たるものだ。
 物事を的確に捕らえて、その真意に迫
(せま)るものがある。背後から追って来るものがあった。それを由紀子は「災い」といった。禍根(かこん)を顕す。そう云う意味で、由紀子の勘は鋭い女であった。
 人の棲
(す)む「この世」とは、善いことばかりが起こらないし、また悪いことばかりも起こらない。善悪は綯(な)い交ぜである。更に清濁(せいだく)(あわ)せ呑む。
 禍福
(かふく)は糾(あざな)える縄の如し。

 この日の午後、私は早速山村師範を訪ねた。
 「何じゃと!いつからそのような事をほじくっておったのじゃ!」
 爺さまは叱咤するように訊いた。
 まだ教えてもらえない『八門遁甲』を自己流で、勝手に独学していたからである。
 時に自己流という原理原則の理
(ことわり)を無視した独学は、とんでもない方向に進む場合がある。
 独学も、時には的外れな方向に進み、気付けば取り返しのつかない状態になっていることもある。実践すべき方向性を間違うと、先入観や固定観念から、本旨とは異なる全く違ったことを実践し、無駄、無理、ムラを働いているからである。

 「はあ、かれこれ二年程に……」
 「全く、馬鹿なことをしたものじゃ。無用なことをしおって……」
 「はあ、仰
(おお)せの通りで……面目ありません」
 「お前は、人を呪えば穴二つという例え話を知らなかったのか!」
 「はあ……」私は萎
(な)えていた。
 返事に詰まって、釈明が出来なかったのである。
 この意味は因果律
(いんが‐りつ)を説いたものである。
 壁に投げた投げたボールは必ず跳ね返ってくるという、この世の因果律を示したものである。白いボールを投げれば白いボールが、黒いボールを投げれば黒いボールが跳ね返って来るのである。黒いボールを投げて、白いボールが跳ね返ってくることはないのだ。
 これこそ因果応報だった。焦燥が齎した結果であった。

 何事も、なるようにしかならないし、また「なんとかなる」ものである。
 この、「なんとかなる」を自由という。こだわらない。自由に遊ばせる。
 その結果、遊び心が生まれる。遊び心が余裕を生む。
 余裕は、やがてユーモアとなって、周囲の人を和
(なご)ませる。一つの流れである。人生に余裕を齎す根幹に存在する流れである。
 「世の達人」と言う人は、みな飄々
(ひょうひょう)としている。飄々の裏付けは、余裕があるからだ。そのため拘泥しない。こだわらない。重箱の底を楊枝でほじくるような詰まらぬ真似をしない。見事に、何事もさらりと流れて行く。引っ掛からず、こだわらず抜けること、捕われないこと、躱(かわ)すこと、去(い)なすことが巧(うま)い。巧く立回る。巧くあしらう。それも易々と。
 その巧さが則ち「余裕」である。達人はこだわらない。常に余裕綽々である。

 その余裕が、時として、人を和ませるユーモアを生む。ユーモアを持っている人は、窮しても困らない。窮地に立たされても困惑しない。ゆえに余裕がある。しかし、余裕は弛緩させることでない。締まるべきところは締まっている。緊張すべきところは、無意識の緊張は働いている。
 あたかも『牡丹下の猫』のようにである。猫を斬ろうとしても、猫はその刃をさらりと躱し、易々と逃げていく。あの無意識の緊張である。緊張しながら寛
(くつろ)いでいるのである。その寛ぎの中にユーモアが存在するのである。
 このユーモアは「無意識の緊張」の中に存在しているものだろう。緊張して構えていないのである。無手である。ただ飄々として余裕を持っているのである。

自由に解き放つ 遊び心が生まれる 余裕が生まれる ユーモアが生まれる 周囲の人を和ませる

 この当時、私はこの流れが、この世に存在すること知らなかった。人間現象界には、喜怒哀楽の中に、この風が吹いているのである。この風と自由に遊べばいいのである。解き放てばいいのである。
 そこに自由がある。開放感がある。その後、のびのびとなり安らぎが訪れる。この境地を、仏道では安住という。

 思い返せば、焦りは禁物だったのである。また、痩せ我慢までも。
 無理すると却
(かえ)って駄目になる。
 痩せ我慢をすると、だいいち躰に悪い。精神の安定を得られない。不安定では、下手を打って墓穴を掘るだろう。根底に余裕がないからだ。
 私の人生を振り返れば、下手を打って墓穴を掘ったことが度々だった。遊び心を知らなかったのである。これを知るには、かなりの時間が掛かった。
 たいていの人間は生まれながらに愚人・愚鈍の類
(たぐい)として生まれて来る。誰もがハワードヒューズのように資本主義の権化のような天才とは限らない。
 私も、愚人・愚鈍の類で、生まれながらにして暗愚だった。
 物覚えも悪く、才能と言う才能は何一つなかった。したがって物事を覚えるにしても、会得するにしても、人より、ワンクッション遅れて掴めればいいが、それも逃しがちだった。
 そして目先の事に捕われ、大事を見逃し、小事を追い掛けていた。更に愚なるは問題ばかりを見て、結局、解決には至らなかったことである。そのため気付くのも遅かった。

 因果応報とは、仏道で言う過去における善悪の業
(ごう)に応じて、現在における幸不幸の果報を生じることを指すのだ。現在の業に応じて、また未来の果報を生ずることを指すのだ。
 しかし、この道筋を辿って行くと、この因果応報は、過去から未来に流れる時間を言うのではなく、未来から過去へと言う時間の逆転において、「現在がある」と考えれば、また此処には「そうなるべき自分」が、過去に存在したと言うことを指していることになる。
 時間が逆転すれば、因果応報は「逆因果律」ということになるのだ。
 世の中に、作用と反作用が働く故に、である。
 物事は、仕掛けに対して必ず揺り戻しが起こる。仕掛けが大きければ大きいほど、その反動も凄まじい。
 したがって、悪いことをしたから悪い禍が今に顕われるのではなく、悪いことをするような未来を今に顕わしているのだ。「今」という現実を捉えて、これが既に予定されたと言う、キリスト教の《予定説》にも匹敵するものだった。
 悪いことをしたから悪い報いが顕われるのではない。悪い報いが顕われるように結果を先に予定し、その予定通りの原因を過去に派生されることだったのである。
 こうして考えて来ると、原因が結果を作るのではなく、結果としての予定されたものが、原因に派生する要素を、予
(あらか)め仕組まれたと言うことになる。
 それは誰によってか。「天」によってである。

 私は脂汗
(あぶらあせ)を流していた。術中に自ら陥り、自爆への墓穴を掘ったのだった。
 「お前は、この儘
(まま)では死んでしまうぞ」
 それは《犬死にするぞ》という警告だった。
 「どうしてで御座いましょうか?」
 「運命に逆らったからじゃ」
 それは運命のダイナミックな動きの中で、逆走を働いたと言う意味だろうか。あるいは無駄な抗
(あらが)いをしたということだろうか。
 「これを食い止めるものは御座いませんでしょうか?」
 「無いこともないが……」爺さまは、また例の如く勿体をつけた。
 「それは如何なるものでしょうか?」
 「いいか、良く聞け。お前は命と同じ位ものを持っておるか。または、それ以上のものでも構わん」
 一体、何のことを言っているのか、絶句していたが、薄々分かり始めた。そしてその言葉の先を言われることに、口には言えない恐れを抱いていた。
 人間界というこの世の中には、確りと作用と反作用が働いている。作用だけ注視して、反作用は無視していいと言うものでない。何か事を起こせば、それに相当する代償を払わねばならない。その代償が、「捧げる」という供物
(くもつ)の提供であった。
 「それを生贄
(いけにえ)にして、運命に差し出すのじゃ」
 「何ですと?」
 捧げ者の提供に絶句を覚えた。
 「諸葛亮孔明も窮地
(きゅうち)に追い込まれ、困窮の挙げ句、これを行っている」
 これを聞いた時、
 (泣いて馬謖(ばしょく)を斬るとは、このことか?……)と思い出した。
 斬らねばならぬ相手を、他に置き換えたら誰だろう?……と思った。恐ろしい想像である。

 孔明に大層可愛がられていた蜀漢の武将の馬謖は、重用されて参軍になったのに思い上がり、羽目を外して街亭の戦で、命令に違反して山上に陣を張り、やがては自軍の飲み水の確保にも困窮し、そして戦略を誤り魏軍に大敗したのである。これにより、孔明の描いた中原攻略の壮大な雄図
(ゆうと)は崩れたのである。
 ために孔明は、泣いて馬謖を斬罪に処したのである。
 「全て宇宙法則である。人はこれに逆らうことができん」
 「もし……、もしもですよ。これに逆らった如何相成りましょうか?」
 「お前の命は最早これまでじゃ」
 それは、運命に心臓を鷲掴みされたというような言い回しだった。
 そして言葉の背景に、間接的ではあるが《お前の命に匹敵する一番大事な供物を差し出せ》と言っているようだった。
 この断片的な言い種
(ぐさ)に、次なる質問が出てこない。作用と反作用から考えれば「なるほど」ということが納得させられてしまう。人間は自分の行動においても、言動においても、総て責任を負わねばならないからである。これに頬(ほ)っ被りできない。運命は「代償」と言う形で回収して来る。これが厭でも必ず回収に来る。取り立てに来る。
 だが本来、無一物の私に何があるだろうか。まさか!……、と思う。思ってはならないことを思う。
 困窮
(こんきゅう)で、絶句した儘(まま)此処を立ち去らねばならなかった。そして空しく立ち帰る際、一言発した。

 「下手に藻掻
(もが)いて、死ぬなよ!」
 それは《もうこれ以上、詰まらぬ探求をせぬことだ》と聴こえた。
 さて、この言葉は、どういう意味であったのか。
 師が弟子を思う気持ちであったのだろうか。その真意に取りつけない儘
(まま)、困窮していた。
 山村師範は、八門遁甲の奥儀を極められておられたが、これを私に絶対に教えなかった。それは、このような事が必ず起こるということを予知していたからであろう。あるいは逆因果律を知っていたのかも知れない。
 運命に生贄
(いけにえ)を出すとは、由紀子を生贄に出せと言うことであったのか、と突然一つの不安が過って、心臓ために良くない想像をした。これが過激な想像となって、疑心暗鬼に陥る。確かにそのように働いているようにも思える。ずるずると蟻地獄の中に引き込まれるように……。

 蟻地獄の正体は“ウスバカゲロウ”の幼虫である。体長わずかに1cmにも満たないこの幼虫が、普段は土灰色で細い刺を持ち、それを隠して泥を被っている。この幼虫は、縁の下などの乾いた土砂に、擂鉢状
(すりばち‐じょう)の穴を掘って隠れ、すべり落ちたアリなどの小動物を“やっとこ状”の大顎(おおあご)で捕食する。
 だが“ウスバカゲロウ”は薄羽蜉蝣
(うすば‐かげろう)の漢字を用い、やがて成長すると翅(はね)は透明、細かな脈がある体長が8cmほどの成虫になる。幼虫は二、三年を経て成虫に羽化するのだが、成虫は夏場、水辺を飛び回り、交尾と産卵を終えれば、数時間で死ぬ昆虫だ。
 その儚
(はかな)い命に喩えて、「蜉蝣の命」などともいうが、人の命も、蜉蝣のそれのように、儚い人の命など比較されるのである。

 一つの命が生き残る為には、他の命を必要とする。他の犧牲を必要とする。
 生贄
(いけにえ)が必要なのだ。
 由紀子を生贄に出さなければ、こちらが運命から殺されてしまうのでは?等と、良くない事ばかりが脳裏を翳
(かす)めた。ただただ唖然(あぜん)となった。
 山村師範の言いたかった事は、人間は運命の陰陽の支配を受け、その中で人生を経験すると言う事だったのである。
 私は、遁甲の恐ろしさを十分に承知していた。安易に遣ってはならないものである。
 人間の持つ電気線の玄理
(げんり)は、電磁波などに代表される宇宙現象、あるいは宇宙法則である。それを無視して生きて行くことは出来ないのだ。
 人間が生まれ、そして死んで行くかは、総
(すべ)てこの玄理(げんり)の中で管理され、それが人間の叡智(えいち)を越えたところで忠実に実行されている。それを人間は知らない事だけなのである。

 如何なる天才も、如何なる美貌の持ち主も、あるいは大富豪でも、やがては時を終えると滅んで行く。確実に肉体は滅ぶ。
 天才だから、美貌だから、大富豪からという理由で、延命は一切行われない。姑息
(こそく)な手段で、流れ行く時間に逆らって、大枚(たいまい)を叩(はた)いたところで、それはほんの一瞬の延命でしか過ぎない。
 繰り返せば、宇宙の玄理において、延命はないのである。その人がどんなに正直者で、善行を積んだとしてもである。
 宇宙の構造は、流れるようにして、流れる方向に流れて行く。この流れを逆らって、流れが、敢えて遡
(さかのぼ)る事はない。これが宇宙の真理であり、玄理であるのだ。
 つまり、これこそが「予定説
(よてい‐せつ)」であるのだ。
 神の預言は、まさにこの「予定説」から成る。
 善人は「善を行う」から善人ではない。また悪人は「悪を行う」から悪人ではない。それは善を行うようにはじめから定められてものであり、また悪は悪を行うように定められたからである。
 原因があって結果があるのではない。結果が先にあり、その後に原因が来るのだ。これこそが、今まで日本キリスト者は、誰もが説明できなかった「予定説」である。

 喩
(たと)えば病気は、病気になる病因を作るから病気になるのではない。病気になった結果が、病気になる病因を招いたに過ぎない。病気と云う結果が、先にあって、病気と云う病因を招いたのだ。
 また、病気の病因は、先に述べた人間の電気線を、意識的か、無意識的にかは別にしても、無理に上げたり下げたりする事で起こるものということを、四千年前の賢人が、既に発見していたのだ。病気と云う結果は、電気線を上げたり下げたりする、その人の「予定説」によるものである。
 「予定説」は遁甲の玄理であり、また宇宙の真理でもある。
 そして、それが余りにも真理に迫っていたので、これをこれを知る者は世間に公開しなかったのである。


 ─────アパートに帰ってからも、この事を考えていた。由紀子の作った折角
(せっかく)の昼食を食べない儘、困惑をし続けていた。
 八門遁甲
(はちもん‐とんこう)は恐るべき術である代わりに、その術を使う者に対して、恐るべき責任を問いかけてくる。これは決して占いの類(たぐい)ではないのである。その人間の『命(めい)』に関わって、一生涯にわたり取り憑(つ)て、運命を左右する。
 聖徳太子以降、朝廷や幕府が、一切の遁甲に関する数々の『秘巻』を焼却したことから見ても、その恐ろしさが分かると言うものである。私は、その禁を侵してしまったのである。

 この日は、方策
(ほうさく)に苦慮(くりょ)して、途方に暮れていた。気力が失せていた。そして部屋の電気をつけない儘(まま)、じっとしていた。何時間そうしていたか憶(おぼ)えていない。そこに由紀子が帰って来るまで気付かなかったのだ。黄昏(たそがれ)時であったろうか。そして黄昏時は「大凶時(おおまか‐どき)といって、一切が禁で、慎まねばならぬ時刻。一日のうちで凶事を暗示する時でもあった。
 これから先の起る事を暗示しているのであろうか。何か、悪い時刻を犯したような、そういう不吉を感じたのである。

 「どうなさったの、電気もつけないで?……」
 「もう、こんな時間なのですか」
 「どうかなさったの?……」
 「別に何でもありませんよ」
 「最近、あなたの様子がちょっと訝
(おか)しいわ。何か困ったことでもあったの?随分と顔色が悪いようですけど」
 「……………」
 「あたしにも話せないこと?」
 「それを話すには、まだ考えが纏
(まと)まっていないのです」と力なげに答え、彼女の質問をはぐらかしていた。

 夕黄
(せきおう)まさに斜(ななめ)なり……。
 それは、私にとって沈む夕陽ではなく、堕
(お)ちる夕陽だった。没落を暗示していた。
 そんな黄昏
(たそがれ)が、私の頬(ほほ)を赧(あか)染めるような夕暮れ時であった。
 由紀子は、既に何かを感じ取っていたようだ。勘のいい女だ。危ない綱渡りをしている私の姿を既に察したらしい。
 しかし、私の沈痛
(ちんつう)の想いを察したのか、これ以上の詮索は続けなかった。こういう点が彼女の賢明なところなのだ。
 しかし私には、複雑な課題が残った。蜘蛛
(くも)の糸とのように、複雑に絡み合う糸の發(ほつ)れを、どういう方法で、解(ほぐ)していくかという複雑で難解な課題が……。


 ─────遁甲を一言で説明すれば、十干
(じっかん)・十二支(じゅうにし)と方術の組み合わせから、「方徳(ほうとく)と「方災(ほうさい)の攻めの吉凶を割り出して、それに六十四卦(ろくじゅうよん‐け)の易(えき)を付随させ基本形の七千六百八十通りの攻略の日取り(正確には日時分秒の決定と接近に要するまでの侵入口)を決定し、敵陣に攻め込むと言う恐るべき秘術である。決して占いの類いではないのだ。
 そして、これは極めて古典的な中国の物理学なのである。

 三元式遁甲は威力絶大なもので、満蒙
(まんもう)の騎馬民族の集団戦法で、略奪及び他国を侵略するときに用いる方術(ほうじゅつ)である。この方術は、動き(秘伝では、左回りの旋回をある中心軸に対して、繰り返す特殊な技法)を伴わせて用いる為に威力が絶大になる。
 道教の中に太平道
(たいへい‐どう)というのがあったが、黄巾賊(こうきん‐ぞく)を指導した八門(パーモン)先生(張角)は、この三元式遁甲を巧みに使い、また彼自身が相当なカリスマを持つ霊能者であったと謂(い)われている。それゆえに、その的中率と、預言は群を抜いていた。
 したがって八門遁甲は、決して占いなどの類
(たぐい)ではないのだ。
 また九星気学とも根本的に異なっているので、その的中率は凄まじいものがある。
 これは九星気学が過去のデータを集積して人間のタイプを九つに大まかに分類して、それに性格や、星廻りから来る方位の吉凶を占うのに対し、八門遁甲は一切そう言うものを排除して、方角の吉凶をシビアに計算するものであり、これは占いと物理学程の差があると言えよう。



●黄巾賊の乱

 黄巾賊の乱は、後漢の霊帝
(れいてい)の中平元年(184年)に勃発する。張角を首領として河北で起った農民反乱である。張角らは悉々(ことごと)く黄巾(こうきん)を着け、黄老の道を奉じて太平道と称し、貧民を救済したので、たちまち強大となり、蜂起した。
 この時代、まさに世は、風雲急を告げる、動乱の時代であり、国家は分裂状態にあり、乱れる様相を呈していた。
 この発端は、宦官
(かんがん)の横暴に始まり、政治は濁流(だくりゅう)に押し流されて地に落ちていた。
 長年の間、度重なる盗賊の襲撃に収奪を繰り返されて、飢饉と破産に苦しむ華北の民衆は、八門
(パーモン)先生こと天公将軍張角(こうてん‐しょうぐん‐ちょうかく)を指導者として仰(あお)ぎ、続々と集結した。
 河北、河南、山東など八つの県で、一斉に蜂起
(ほうき)した事件が起こる。
 これが世に言う「黄巾党の乱」
こうきんとう‐の‐らん/一般には黄巾賊の乱で知られる)である。

 この時、奇襲攻略として用いたのが、威力絶大な三元式遁甲である。
 指導者側の側近としては、次男の張粱
(ちょうりょう)、三男の張宝(ちょうほう)で、この三兄弟は特殊な道教呪術(どうきょう‐じゅじゅつ)をも心得ていた。
 病に苦しむ大勢の農民たちを、霊符
(れいふ)の書いた紙を水の上に浮かせ、その水を飲ませて病気を治したりして、益々その人気は高まった。動乱の世情不安の中、瞬く間に数十万の大組織に膨れ上がったいった。
 集団の各々が戦闘の時には、頭に必ず黄色い布を巻き、勇敢に戦ったとある。
 黄色は、道教の宇宙循環理論の五行説
(ごぎょう‐せつ)から成り立った聖色であり、漢帝国を打ち立てた火の徳「赤」は、土の徳「黄」をもって、新しく循環されにばならないという意味が込められていた。

 「土の徳」を表すこの集団は、黄色い布を巻いていたことから、「黄巾賊」の異名が付いたのである。彼らは黄色い布を身に着ける事によって神聖化されたと信じ、武器が貧弱にもかかわらず、その戦いぶりは神懸
(かみが)かっていた。非常に勇敢で、それを鎮圧する政府の征伐軍は大いに苦戦したとある。
 しかし同年末、張角の病死によって一旦は衰えたものの、その後も残党の反乱は長き、能
(よ)く八門遁甲を遣わしめて、ついに後漢滅亡の契機となった。



●八門先生の遺産

 黄巾党
(賊)の指導者・張角は、カリスマ性を持った超人間的な人物であり、三元式遁甲という世を混乱に陥れる恐ろしい秘術を伝承した人物であった。
 その秘術の中に秘める術理の危険性は、人間の運命と深く関わり、宿命を狂わせ、生命の有無に及び、人の明暗相剋
(めいあん‐そうこく)を操って、人間の運命に永久に纏(まと)わり着いて、離れない人間の宿命を操作する恐ろしさにある。あたかも遺伝子組替えに似た、神をも恐れる所業である。
 はっきり言ってしまえば、この術は古典物理学的な行動を表す、「呪
(のろ)いの藁人形(わら‐にんぎょう)」であり、攻撃することのみを中心に置いた巧妙な兵法である。

 諺に「人を呪わば、穴二つ」というのがある。
 これを使って攻撃した者は、また人からこれによって攻撃を受けるという意味を持っている。
 即ち、襲う者は、また襲われるのだ。
 敵を滅ぼした者は、やがて敵の子孫によって滅ぼされると言う皆殺しの戦法である。
 民族や国家の浮沈は、統
(すべ)てこの中に含蓄(がんちく)されている。その戦法の基礎となる戦争指導者の基盤であり、則ち、これが「命(めい)と「数(すう)である。
 「人間には命もあれば、数もある」と言ったのは、明治の文豪・幸田露伴
(こうだ‐ろはん)である。数は霊をなし、これを数霊(かずたま)として命を操るのだ。

 八門先生
(張角)も三元式遁甲の中心術理である「命(運命)」と「数(物事の複雑な関係)」を使って後漢政府を滅ぼし、農民王国の理想国家を造ろうと考えていた。しかしそれは果敢なくも実現しなかった。何故それが実現しなかったのか。
 それは才力や知力だけでは理想の新天地は開けないという、俗世間の素直にこれを認めない排擠
はいせい/他人を押し退け、自分が上位に立つこと)が働いて、現実とは違う方向に進んでしまうからである。それにより指導者・張角は、歴史上の悪党として、中国史に名前を刻まれることになる。

 太平道の指導者・八門先生は、「蒼天
(そうてん)(すで)に死し、黄天(こうてん)(まさ)に立つべし。歳は甲子(きのえね)に在(あ)り、天下太平とならん」と号令して、四十万の農民革命軍を指導して、新しい国造りを目指した。
 黄巾
(こうきん)を頭に巻き武器をとって蜂起した革命軍の最初の出だしは目覚ましかった。全国各地の官府を悉(ことごと)く焼き払い、燎原(りょうげん)火の如く掠(かす)め去った。
 しかしこれを封じ込める後漢政府は、黄巾を象徴とする彼らに対して、悪名高き「賊」の汚名を被せ、鎮圧軍を編成して、封じ込めを敢行したのである。
 だが、指導者・八門先生の巧みな遁甲戦術に政府軍はなす術もなく、この対応策に地方の豪族や私兵を動員して殱滅
(せんめつ)作戦で彼らと応戦した。これによって最初の華々しい出だしとは打って変わって、至る所で農民革命軍は敗走を重ね、更に指導者・八門先生の急死にともない主軍は壊滅するのである。

 農民王国の理想を掲げた太平道の世直しは、ここで事実上崩壊する。
 しかしこの農民王国の理想を引き継いだのが、五斗米道
(ごとべい‐どう)であった。
 盟主・張魯
(ちょうろ)は、教義に帰依(きえ)したものたちに、五斗の米を与えたという。五斗米道の由来はこれに始まる。しかし彼らも、最後は殱滅作戦に封じ込められて、理想の農民王国は完成を見なかった。そして八門先生の遺産であった三元式遁甲が、世直しを掲げる革命の度に浮上してくるのである。
 唐帝国が滅亡する時も、三元式遁甲と思われる戦法に、太平の世に慣れ切った政府軍は、軽挙妄動を煽る攪乱策
(かくらんさく)に陥り、これを裏で操った北方系の侵略者の影があったといわれる。

「こうこん」と言われる黄昏時。

 唐代末期の詩人・李商隠
(り‐しょういん)の詩に『楽遊原(らくゆう‐げん)』というのがある。
 この詩は、「斜めに傾く夕陽」を題材にしている。それをあたかも、滅び行く大唐帝国の末路に重ね合わせている。
 これによれば、「晩
(くれ)に向(なんな)んとして、意(こころ)(かな)わず、車を駆(か)って古原(こげん)に登る。夕陽(せきよう)限りなく好(よ)し、只是(ただこれ)黄昏(こうこん)に近し」と詠(うた)っている。
 つまり、「夕方になると何となく心が落ち着かず、車で楽遊原に登ってみた。夕日は限りなく美しいが、もうそこまで黄昏
(たそがれ)が迫ってきているではないか」という意味の詩である。
 唐代の詩人・李商隠は、その美しい夕陽の中から大唐帝国の崩壊を暗示したのだった。
 大凶時
(おおまかどき)に詠(うた)ったこの詩は、方(まさ)に的中であった。この詩の中には、世情の不安を詠(うた)い衰亡を思わせる暗示があったのである。唐は、この詩から僅か五十年後に、この暗示と共に滅んでいる。

 私の心情も暗い暗示に取り囲まれて、これと似ていた。
 私自身にも得体
(えたい)の知れない悲壮感(ひそう‐かん)に貪(むさぼ)られ、黄昏(こうこん)は、もうそこまで押し寄せていたのである。
 黄昏を「たそがれ」とよまず、あえて「こうこん」と読むのは、比喩的に、物事が終りに近づき、衰えの見える頃を、私は人生に重ねているのだった。そして背後には、滅びの影が忍び寄っていた。



●猛烈社員

 かつて流行した言葉に「猛烈社員」というのがあった。
 昭和40年代半ば、この言葉は日本中を席巻した。愛社精神を剥き出しにした会社員が、逸早く出世できるという妄想があったからだ。
 そしてこの頃のテレビのコマーシャルには「行かねばなるまい、妻子
(つま・こ)のために」という、江戸時代の裃姿(かみしも‐すがた)の武士が登場していた。妻子を喰わせるためと、君主に仕える宮仕の辛さの両方が表現されていた。そして外は雨である。
 それでも武士は傘を指して出掛ける。この猛烈社員をイメージしたコマーシャルを印象的に憶えている。
 まさにこの時代は、「行かねばなるまい、妻子のために」だった。マイホーム主義の先駆けと言えた。

 世の中には涙ぐましい努力をする人が居る。
 サラリーマンならば、女房・子供のために、わが身を犠牲にして猛烈に働いている人がいる。こういう人には実に頭が下がる。
 私の知人にも、こういう頭が下がる人がいる。女房・子供のため、更にはマイホームを守るために、静岡から名古屋まで出張し、月曜日から土曜日の午前中まで、奥さんと子供を静岡において、名古屋に行ったきりで働いている人が居る。休暇は土曜の午後から日曜日一杯で、月曜日の早朝には名古屋に行ったきりになる。
 また以前にも、薬品メーカのプロパーをしている人で、家に戻れるのは日曜日だけと言う人がいた。
 この御仁
(ごじん)は二人の子供を設けた人だが、まだ子供は幼稚園前で幼く、一番子供の可愛い盛りを、子供を見らずに仕事に意欲を燃やす人であった。

 おそらくこうした人は、「マイホーム」と言う掛け替えのない、わが城を守り、マイホームのローンや車のローン、他に種々のローンがあって、それを払うため、マイホームを守るために、少々会社側から無理難題を押し付けられても、黙々と理不尽を忍従し、わが城を守るために仕事に励む熱血漢であろう。
 がつて、こういう人たちは「猛烈社員」といわれた。
 昭和40年代半ばには、こういうサラリーマンで日本中に溢れていた。人よりもいい生活がしたい、家族に美味い物を喰わせてやりたい。自らも出世したい。その一念で、土日祝日を返上し、サービス残業は愚か、徹夜残業も厭わない人達であった。有休休暇も、有って無いが如しであった。
 私はこういう個人主義に徹して自分の城を守り、ひたすら会社に奉仕する人を、決して指弾したり、悪く言うつもりはない。むしろ頭が下がる。
 人生の目的意識をマイホームに置き、個人主義に徹して生きているからである。おそらくこういう家庭は、夫婦関係も良好で、仲睦まじいことであろう。また一週間に一度の帰宅は、妻君とも毎日、貌を合わせているわけでなく、帰宅の度に新鮮さを覚える筈である。毎回新婚生活のような瑞々しさを味わっている筈である。
 頭が下がるばかりでなく、新鮮であることは、何とも羨望を感じるばかりである。
 そして最も羨ましいことは、世の中を憂う訳でもなく、『陽明学』も『帝王学』も無用で、わが趣味に生きればいいからである。

 私はこういう考えで長期の出張生活をしている人を知っている。
 年齢的に言えば、四十代、五十代、六十代の各々の人達である。しかし感心すべきというか、驚くべきというか、知人の六十代前半の男性で久しぶりに帰宅して、妻君と交わり、かつての青年時代の焼け木杭に火が点
(つ)いたのか、七回も放ったという自慢話を聴いた事があった。六十四、五で七回もですぞ。
 私は、ただただ平身低頭して最敬礼する以外なかった。月に一度の“お義理セックス”に較べれば、何と新鮮であろうかと思った次第である。妻君の面がそこそこか、醜女でも、久しぶりに見るわが妻は、そこら近所にいない絶世の美女と映るのだろう。これはこれで新鮮で結構なことだと思う。

 だが、いいこと尽くめではない。見逃した落し穴もある。此処にも猟奇的な不可解がある。
 「久しぶりに出張から返って来たら、女房と中学生の息子が夫婦の寝室のベットで寝ていた」
 中年サラリーマンの告白である。
 亭主は涙ぐましい奮闘をする一方で、家庭での現実がこれでは、何とも亭主としては立つ瀬がなく、ある意味で残酷とも言える。此処には日本のサラリーマンが社畜化された現実が横たわっているようである。
 何故なら、この構図を作っていきながら、果たして誰が得しているのだろうかと思うからである。少なくともサラリーマン本人ではあるまい。誰だろう?
 これを思うと、背後に泛
(うか)び上がって来るその張本人を探ることはそんなに難しいことではない。
 『息子をサラリーマンにしない法』
 そんな一冊が想起される。
 わが子は親を越えては駄目なのだろうか。それとも人間牧場の中の大人しい住人となって、他人
(ひと)と同じスーツを着て、同じ思考で生活し、それで「中流の上」意識で満足しなければならないのだろうか。
 果たしてこれは、私の単なる過剰な思い過ごしだろうか。

 この時代、ある商売をしている家の夫人から、こういう話しを聞いたことがある。
 「もし、今度生まれ変わるとしたら、もう絶対に商売人の家に嫁いだり、商売をする家に生まれたくない。自分の収入内で満足できる国鉄職員のような給料が安定した家に生まれ変わりたい。資金繰りなどで毎月苦労する家には生まれてきたくない」という中年女性が居たが、果たしてこのご婦人は給与生活者を最上とし、自分で商いをして、生活費を捻り出す自営業や職人を低俗と懸念したのだろうか。もしそうだとうすると、大変な思い違いをして、波風の立たない保身だけが、自らの生きる道と思い込んでいる節があるが、私が想うに、何とも冒険心の無い、退屈な人生と思うのだが、読者諸氏はどう思われるだろうか。
 勿論、こういう生き方もあっていいと思うが、私個人としては、確定され約束された自分一人の安全圏に身を置く、保身的な生き方は余り好きでない。波瀾万丈の苦労の連続を体験しても、それはそれなりに生きる醍醐味があるの思うのだが、如何なものであろう。

 私はかつて『安政塾』を訪れ、その後も度々訪問したが、塾長の千葉先生は、このような事を言ったことがあった。
 「自分は数歩先の霧の中を歩いています。いつの時代も自分ような人間には冷たく、無理解で、ときには批難の渦の中に立たされます。それは家内共々覚悟の上です。しかしこの批難に、先覚者の吉田松陰先生や梅田雲浜先生は、決して嘆きはしなかったものです」先生の自信を失わない信念であった。その顕われが「まごころ」という赤誠の郷土愛であり、日本人は、みな同胞と考える日本人愛であった。
 当時「アメリカ帝国主義打倒」というプラカードを掲げ、それでいてアメリカ製のブルージーンスに、片手にはコカコーラ。あるいはハンバーガー。何から何までアメリカ製。彼らの多くは日本人を散々罵倒しながらアメリカンドリームに夢を託していた。それでいてアメリカ帝国主義打倒。その一方で日本人を罵倒し、共産主義や社会主義などの欧米の思想に入れ揚げ、日本国籍をもった無政府主義者であった。
 この無政府主義者にも、千葉先生は同朋愛は持っておられた。根は同じだと言う。
 「彼らは、いま熱病に罹っているだけです、やがて熱から醒めます」これが先生の持論であった。

 そして、「世の中には独自の着想力もなく、情熱もなく、自身と家族のための小さな欲望で満足する人がいます。そう言う人を、間違った生き方をしているとは思いません。その日一日を快適に、愉しく、無事な日常であれば、それだけで満足を覚える人がいます。個人主義に奔
(はし)る人達です。そういう生き方を否定しません。しかし自分は、個人の生活を楽しむ生き方を楽しむより、何かの不運が重なり、その切っ掛けで、ボタンを掛け違いを遣ってしまった若い世代の人に対し、幾らかでも修正につとめて、それが役に立てば、それに満足を覚える人間です。つくづく安楽と安堵の中に棲(す)めない人間であることを痛感します……」
 こう言って、自嘲
(じちょう)気味に笑っておられたことを覚えている。自分のことより、他人を優先する人である。そして、私に「あなたは、どちらの人でしょうか?なぜ『陽明学』を学ぶのですか?」と訊かれたことがあった。

 つまり生き方に情熱がなく、自身の欲望も、その他大勢の需
(もと)める物で満足し、日々をその日暮らしで面白可笑しく仲間内で楽しむような、個人としての生活を楽しむ人間ならば、「陽明学は必要ありません」ということだった。こぢんまり、小さく生き、小人(しょうじん)の一生で終えればいいと言うのであった。それを悪くないというのであった。
 故に、そう言う人は陽明学が必要でないと言うのである。その陽明学不要の人が、組織の頂点に立ったり、集団の代表者になったりしてはいけないと言う。そして、千葉先生の謙虚なところは「他人
(ひと)のことを小人と言う自分も、それ以上に輪を掛けた小人です」と自嘲しておられたことである。
 さて、この種属の人は小人として生き、小人として終わればいいと言うのである。悟る必要もないし、徳才もないから、その方面は、能のある人に任せて譲れば、経済的困窮に陥って貧乏になったり、不運を招くことはないということを言われたことがある。私には新鮮に、斬新に、強烈に響いた言葉であった。

 「小人は小人で、それはそれで愉しいものです。それなりに尊いものです」と言ったことを覚えている。
 それは、そこまでで満足せよと言うことである。“その程度”の「足るを知れ」ということだろう。
 もしサラリーマンなら会社でも、課長以上の役職は求めてはならないと言うのである。それ止りで満足し、上を目指してはならないと言うのである。私自身、個人的には筋の通った話だと思う。文句なしである。
 世の中は、課長まで止りの小人が、欲を出して上の役職を目指すからおかしくなる。小人が重役になるような会社は、必ず斜陽に陥る。また会社側もバカでないから、小人を重役に推すような会社はあるまい。
 私もこれまでの人生で、創業や倒産を繰り返して来たことがある。
 経験上から会社員の立場で働いたことは殆どないが、会社役員の立場に立って会社を運営したり、会社の顧問などを遣りながら会社員を指導したことはある。この経験から言うと、小人が重役になるような会社は殆どが斜陽を辿っている。

 小人は自分の徳才を知り、ただそれを弁
(わきま)えればいいのである。そして「社畜」になればいい。小人には世の中を変える情熱がないからだ。
 会社側から使役される社畜になって、大きなヘマを遣らなければ、安泰は確定的なものになり、給与確保と終身雇傭は間違いないだろう。先に立って出しゃばったり、目立ちたがり屋になる必要はない。
 人間は決して平等ではない。千葉先生は道学の実践者であった。情熱の人であった。
 “口先の徒”ではなかった。博識多聞でありながら、その知識や見識に胡座をかくことなく、自分の保身を図るわけでもなく、水火
(すいか)も辞さない人であった。貧富の次元を越えた人であった。
 千葉先生は、昔はこの地域の地主で資産家であったというが、青少年の更生施設に財を投じていたため、私が面識を得たときは、随分の貧乏をなされているようであった。

 また先生は、古代史や大陸史に通じていたので、極東の国『日本』の意味に独自の解釈を持っていた。
 「大いなる東
(ひむがし)」の『大東論』を力説されておられた。アジア連帯主義者であったと言えよう。
 そのため支那の実体を、よくご存知だった。支那は、今は共産党に侵略されてしまったが、それでも独立運動をしている国であると言う見解を持っていた。この国は、未だに独立してはいないと言うのである。
 その最たるも証拠は、かの国で、民主運動が起こっている事実を指摘したことがあった。

 先生は若い頃から穎悟
(えいご)の人で知られ、東洋哲学の世界では名の通った賢者であった。この賢者は先祖からの財を惜しむことなく、総てを抛って、それを社会的に底辺にいる青少年に投じ、彼らの更生に務めた人であった。自分だけの安泰を願うような人でなかった。金離れと物離れのいい人である。何事にも囚われない人であった。千葉先生は金や物に価値観を感じる人ではなかった。郷土愛と日本人愛に価値観を価値観を感じる人であった。それだけに、今日の現代日本人には見られない日本人の誇りを持っていたように思う。
 決して立派とは言えない塾の玄関前の国旗掲揚台には、いつも日の丸が掲げられいた。
 朝会は国旗掲揚から午前6時から始まり、終会は午後5時になると国旗が降ろされた。
 千葉先生の奥さんも、質屋通いで塾生たちの生計
(くらし)の賄(まかな)いに苦労しているようであった。塾生の衣食住は、此処では一切無料であった。
 経営は中々大変なようで、塾長の千葉先生は、私には「教育には金が掛かる」と苦笑しながら嘆いているようだった。

 今でも印象的に憶えているのは、「なぜ陽明学を学び、その学徒なのか」そして更には『金持論』について訊かれ、私が「先生は金持ちになる気はないのですか?」と訊くと、「それは先祖が遣ってくれました。自分はその血筋として、今度は先祖に代わって貧乏に全うするだけです」と、笑って奇妙な回答を返されたことあった。
 先生曰
(いわ)く「中途半端が一番いけません」というのである。
 「金持ちになるか、貧乏になるか、はっきりして下さい。あなたはどちらですか?」と鋭く訊くので、私は苦悶しながらも「私は先生と違って、貧乏な家に生まれました。目指すは金持ちです、ただし今は金持ちではありません。しかし金持ちの道を歩いています」というと、「それは既に金持ちになったのと同じですね」と返答されたことがあった。そして「富貴天にあり」
(『論語』顔淵)と、ぽつりと言われた。

 「あなたは金持ちの道を歩いているのなら、既に金持ちだ。奮闘努力して、実際に金持ちになれなくても、それはあなたの責任でない。富を得るか否かは、運命によるものです」
 先生の言によると、金持ちになるかならないかは、自分が決めるのではなく、天が決めるのであるから、なるならないは問題ではない。問題は金持ちになる道を歩いているのなら、もう金持ちになっても同じだというのである。奇妙な論だが、この当時、自分なりによく理解出来た。その論は確かに奇妙だが、私には斬新に響いたものである。


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