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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 38





第六章 宿命の因子





●おめだま

 《うわちゃ、えずかー》博多弁で「怕(こわ)い」の意味である。
 あたかも至近距離から直撃弾
(ちょくげき‐だん)を食らったような気がした。私は反撃できずに、蟻(あり)にでもなって、穴の中に入りたい気持ちであった。

 表裏一体……。
 それを確認すれば、山の神も、幾らか見られる顔になり、仏の悦の顔になり、これを感得することこそが夫婦和合、あるいは男女和合の秘訣になるものと信ずるのである。「怒」と「悦」はもともとが一体だったのである。
 それを信じて、是非お試し頂きたい。
 しかし、私の胸中を由紀子に悟られれば、彼女はいっそう激昂
(げっこう)するだろう。何しろ、不謹慎であるからだ。
 ときどき皺を寄せて般若の眉間になる。彼女が作る絶頂の悶えの仕種
(しぐさ)を盗み見ながら、時にはしなだれ、時には上目遣いで、擬似的な反省の色を浮かべながら、お行儀よく、恭(うやうや)しく、静かに拝聴のポーズを作るのだった。
 私はひたすら打ち拉
(ひし)がれながら、ただ項垂(うなだ)れて、恭順(きょうじゅん)の態度を示していた。これを昔風に云うならば、彼女の仕種は「柳眉(りゅうび)に逆立てる」と云った形容がぴったりで、怒っている女の顔も中々なものだと食指が動くのであった。

 「兎に角、あたしが納得のいくように、今晩あったことを一部始終、包み隠さず説明なさって下さい!ゆっくりと聞いてあげますから」と促し、その構えに容赦
(ようしゃ)がない。
 冷静を装いながら、そこまで立て続けに一気に喋ると、次に猛々しく説明を促した。
 彼女の簡抜
(かんぱつ)も赦(ゆる)さない舌鋒(ぜっぽう)には妙に迫力があり、一方で鋭く、また他方で隙(すき)がなく、隅々まで精密に冴え渡っていた。逃げ場を失った仔鼠(こ‐ねずみ)に、いったい何を喋らそうというのであろうか。
 尋問に執念を燃やす夜叉の呪縛から、彼女は未だ解放されていないのである。
 「さあ……」と迫るように促した。
 「……………」
 私は苦悶して付け入る隙
(すき)がない。
 「さあ、躊躇
(ちゅうちょ)することはないわ」と矢継ぎ早である。彼女の声が更に尖った。
 私は、まるで姉から説教を食らっているようであった。考えもなく下手に喋ると、二次災害が生ずる虞
(おそ)れがあった。とんだ厄日だった。

 「何とかおっしゃって……!」
 由紀子は激しい口調で、私の尻を叩いた。聞き糺
(ただ)そうとしているのである。
 「何でござんしょ?」私は、どこまでも恍
(とぼ)ける気でいた。惚(ぼ)けて通す。
 「まあ、何でござんしょって、白々しい!」
 「……………」
 「何を言い淀
(よど)んでいるの?!」舌鋒鋭い。
 彼女は逃げる隙
(すき)を与えない。夜叉の如しだった。逃げられない。
 「ううゥ…ッ……」
 「ううゥ…ッ……って、なによ?!」
 「病気なんです」
 「どこが?」
 「全体が。強いて言えば、頭の方が些か重症でして」とこともなげに答えた。
 「そういう言い逃れ、許しませんよ」
 問い詰められ、益々戸惑の坩堝
(るつぼ)に堕(お)ちた。一種の私への謂れのない敵愾心(てきがいしん)のようなものが漂っていた。責めを受けているのである。
 「……………」これにどう反撃すべきか。
 「さあ、聴いて上げます。正直に答えてください」
 「正直にですか?……」些かの躊躇
(ちゅうちょ)が伴った。
 「そう!」
 告白しろと促した。

 「正直と申されましても、岩崎は、果たして正直者でしょうか。得てして、大嘘つきだと自分でも自負しているのです。その大嘘つきに正直といわれますと、些か無理があるのではないでしょうか」
 「それは詭弁
(きべん)です」
 「なかなか鋭いですね。さて、岩崎と致しましては、生きて行くには余りにも少なく、そうかと言って飢え死にするには余りにも多い岩崎の所得としては、金勘定に些か苦労しておりまして、その資金繰りというか、心の清算と言うか、双方の鬩
(せめ)ぎ合いがありまして、困惑しているところに、かような禍が降り懸りまして、いまもなお苦慮しているところでございます」
 「全く分りません。岩崎君の言っていること、あたくしには理解不能です」
 「ご冗談を。頭脳明晰な、あなたが理解不能なんて……」
 「あたくしには理解の及ぶところでございませんわ」
 「そう仰らずに」
 「でも、分らないことは分らないのです」
 「そこを何とか……」
 懇願するだけ懇願してみた。駄目でもともとである。

 「あなたと話していると、いつの間にか焦点をはぐらかされて、全く関係のない無駄話をさせられてしまうますわ。こういうのを山師の『話術の妙』というのかしら」
 「やっとお分かり頂けましたか」自棄糞
(やけくそ)で相槌(あいづち)を打った。
 「確かに、あなたは正直者ではないらしいわね!」
 「そこまで露骨に指摘されなくても……」
 「ご自分で、それが分っているとでも?!」叱責であった。
 「承知はしておりませんが、理解はしているるもりです」
 「なんて、不真面目な方でしょ!」ついに叱責を通り越して、既に指弾だった。
 これを彼女のユーモアと解しては失礼になるだろうか。

 次から次に責め立てられて、私は答を返す機会を失っていた。これ以上逆鱗
(げきりん)に触れない努力が必要である。この怒り心頭の“般若面さま”を、“おかめさま”の笑顔に変えさせなければならない。
 内心、《ええい、こうなったら“ひょっとこ”の顔でも作って思い切り笑わせてみるか》という気持ちが起こるのだが、それも博多俄のような一条
(ひとすじ)の寸劇(すんげき)のようには行かないだろう。
 さて、一条の寸劇……と考えてみた。
 何か手を打たなければならない。策が尽きて切羽詰まっていた。そして事は最悪なのだ。
 それに、彼女は思ったより手強
(てごわ)い。般若の如しだ。どうしても秘策が思い浮かばない。

 誰か話術名人に、こんな最悪の非常事態に、どんな顔をして、どのような言葉を交したらいいか、去
(い)なしたらいいか、教えてもらいものだと思った。
 詰め寄られていた。しかし、なかなか話の糸口が見つからない。
 言葉を探す頭の中が混乱して、ついに以前、H警察署で写真を取られた時の、坊主頭の野仲義治
(のなか‐よしはる)の顔が頭に浮かんだ。奴の下手なギャグで逃げ切ろう……そう思ったのだった。

 仕方がないので、ニッコリと笑って、「はい、チーズ」と言ってしまった。軽率にも不真面目
(ふ‐まじめ)なギャグで逃げ切ろうとしたのである。
 退廃
(たいはい)的な気分に陥っていた私は、些かの開き直りも伴って、このような馬鹿なギャグまで口走ってしまったのである。
 しかし、これは一条の寸劇であったが、受けなかったらしい。
 この軽率で、的外
(まとはず)れなギャグは、彼女を更に怒らせた。

 「もう、バカ、バカ!……全く、人の話を真剣に聞いてないんだから。困った人ですわ……」
 彼女は怒りを解かなかった。更に頑
(かたくな)にさせたのだった。
 こうなったら奥の手を使うしかなかった。
 奥の手といっても、一つの鍛錬法である。
 自分の周囲の、約270度の広角を視る場合に使う「寄り眼の術」である。鍛錬によって叶う術である。併せて眼球の運動にもなる。疲れ目などは一ヵ所を凝視することで起こる。一ヵ所の凝視は視点が停止してしまうから要注意である。その症状を和らげるために眼を寄せる運動は大いに効果がある。この運動に併せて、逆に離していく方法もある。

 私は左右の黒目を、思い切り寄せたのだった。
 これは「八方眼」という術を使うときに用いる稽古方法で、眼を中央にそれぞれ近寄せたり、離したりする訓練法なのである。この方法を行なうことにより、眼の中の汚れを取り除くと同時に、霊的浄化も行うのである。また、闇の中を見据える視力が鍛えられるのである。要するに「視界が拓ける」のである。
 その最初の鍛錬法が、眼を中央に寄せる「寄り眼の術」であった。その術を使って、思い切り左右の眼を寄せたのだった。
 この術を知らない者が見たら、眼を寄せた顔は、実に滑稽に見える。道化に見える。間抜け面に見える。笑いの対象になるだろう。それを使ったのである。
 道化師は道化に達することで、受難を回避することも出来る。

 「寄り眼の術ッううゥ……」
 こう言って、彼女に正面から見せたのであった。
 それを見て、彼女は突然吹き出し、笑い出したのである。
 今まで、般若面のように吊り上げていた眼を解き、身悶えるように笑うのだった。笑い上戸のいつもの顔が戻ってきたのだった。
 これまでを思えば、私への監視、猜疑心
(さいぎしん)、卑猥(ひわい)、嫌忌(けんき)、そして敵意など、由紀子が耐え難い眼差しは些か払拭されたのかも知れない。天下晴れての私であったろうか。
 私は自分なりに、このような解放感を味わっていた。
 しかし私は、この期
(ご)に及んでも甚だ不真面目だということで、更に散々絞られたのだった。
 そして、私はだんだん彼女から、尻に敷かれ始めているのを感じていた。

 此処で一時間程、こってり絞られてアパートの戻った。本日は、とんだ二重の厄日であった。
 勿論、大乱闘をやって弁償させられた挙げ句、怪我人の治療代まで払わされたことは言うまでもない。これで私の貯金はゼロになってしまった。「負債の部」が、益々膨らむばかりだった。



●八門遁甲

 この日、恐ろしいことを知ってしまった。
 今まで密
(ひそ)かに研究していた書物の中から、不思議な事実に行き当たってしまった。太子流平法(たいしりゅう‐へいほう)の奥儀の確信に触れてしまったのである。平法に関する思想的な触れ方をしたのであった。人間の「命」に触れたのだった。
 大自然の一員である人間は、この自然の法則により、生まれて死ぬまでの間、運命という陰陽に支配され、そこでダイナミックな行動や行為をする。それがまた、やがて因果律ともなり、あるいは逆因果となって、跳ね返ってくる躍動に影響される。その影響を軽減したり、ダイナミックな躍動に時として、積極的に打って出たり、じっと我慢して忍の一字で、野に臥せて待たねばならない時もある。

 かつて諸葛亮孔明は、荊州
(けいしゅう)の地・隆中(りゅうちゅう)に居いて晴耕雨読の生活を続け、やがて天に昇る時を待って野に臥せ、その姿は「臥竜」といわれた。
 孔明は青年期、晴耕雨読の生活を続け、極めて恵まれた人間環境の中で育ち、叡智を蓄えつつ、地道に人間を磨き、臥竜の如く、野に臥した時代があった。

 臥竜とは、一種独特の響きがある。野に隠れて、世に知られていない大人物を指す。そして辛抱強く、天に躍り出る時機
(とき)を野に臥してひたすら待つのである。
 運否天賦
(うんぷてんぷ)は、人為に非(あら)ず、天の意によるものである。また、人の運・不運も天意によるものである。人に与えられた運と言うものは、万人に等しく与えられているものである。
 しかし、それをいつ、運が巡り、それを観じ、その巡りを巧に読み、それに乗って、自分を生かす事が出来るかは、個人の伎倆
(ぎりょう)と力量による。そして運・不運を決定するのは、その時代・時代に対応した時機を読む「風(ふう)」である。これは「かぜ」と読まない。「ふう」と読む。
 風はいつの時代にも吹いている。その風を意図的に動かせばどうなるか。意図的に謀ればどうなるか。
 これは決して、触れるべきものでなかった。運命への操作であるからだ。意図的介入である。
 私は、こうした「禁」をやらかし、自らを危うくした時があった。


 ─────戦時の話を挙げてみよう。
 軍隊組織の機能よりも、精神主義のみを突出させ、戦術や戦略を精神主義で乗り切ろうとしたり、例えば、軍事機能では当然必要になる後方支援の、輜重兵の本質や意味すら理解できなかったのである。騎兵の意味も機能も知らず、騎乗する軍人は身分の高い上士のみで編成するものと勘違いまでをした。
 況
(ま)して動員計画や占領地の行政などに至っては殆ど理解できなかった。軍人はただ戦うだけと思っていた。この考え方で、大東亜戦争【註】日本が先の大戦で戦った戦争は、正しくは「大東亜戦争」という。太平洋戦争という呼称は、戦勝国のアメリカ側によって名付けられた戦争名である)まで押し通したのだった。そして、これこそが日本軍の重要な欠陥と弱点になっていたのである。

 明治の軍人たちは、徳川年間265年間における軍隊の空白と、徳川幕府という非武装中立の中央集権体制から脱却するために、必死の努力を重ねた。265年の空白を埋め合わせるために、何とか近代的な軍隊を創ろうとしたのである。そして、軍隊の基本に立ち返り、そこで見出したものは江戸初期以前の戦国期の軍事組織だった。戦国大名が日本列島で生き残るために凌
(しのぎ)ぎを削る「軍法」という軍事思想の学ぼうとしたことだった。
 これは今日にでも、『孫子』の兵法論が未だに注目されているのと同じように、日本の軍事指導層は江戸期以前の兵法と軍法に注目したのだった。しかし、軍事組織を失っての265年の空白は長かった。ここで学んだとしても、それは“付け焼き刃”に過ぎなかった。この程度の付け焼き刃では、徴兵制で押収した大多数を担う一般日本国民の軍隊に、軍事機能の本質と本来の軍隊機能を知らしめることは出来なかった。
 日本の軍隊は、形態だけの「肝っ魂」だけで戦うことを強要し、肝心の軍事思想や戦争間は徴兵のよって押収された兵隊には植え付けることが出来なかったのである。

 このことが、やがて日本の軍人を夜郎自大化させ、「礼節に欠ける威張る軍人」が出現するようになるのである。その典型が、昭和の陸海軍ではなかったか。
 そして、日本軍で陸海軍のいずれも、戦争指導者が指導した軍人心得は、生き残って戦うことではなく「死んで還る」ことばかりを強調したのだった。
 出征兵士は、その多くが「死んで還る」ことに心を囚われ、死ぬこと賛美する奇妙なマゾ集団の中に叩き込まれ、そこで強要されたことが「玉砕
(ぎょくさい)」だった。「滅びの美学」に偏っていくのである。
 ところが、日本以外の外国の軍隊は、根本的に違っていた。

 外国の軍隊は、戦況の如何に関わらず、自ら進んで志願し、その志願者の多くは「出来るだけ多くの敵を殺して帰還する」という信念に基づいて戦地に赴いた。また敵と戦い、已
(や)むを得ず捕虜になった場合は、そこで死ぬのでなく、生きて生きて生き抜いて、時を見計らい、脱走を企て、それが成功すれば帰還後は英雄となれた。
 したがって外国の軍隊では、決死隊は編制されただろうが、日本軍のように負けが込んで来ると特攻隊のような「必死隊」という、最初から死ぬための特殊部隊は編制しなかったのである。
 つまり、決死隊は有りだが、必死隊は無しなのである。また、必死隊と言う考え方は、これは軍事機能から言っての理不尽で、実際的でなく、更には科学的かつ合法的でない。不条理で作り上げられている。

 そして外国の場合、例えば決死隊を編制する場合、その志願者は職業軍人の中から志願者を募るのが通例だった。日本の場合のように職業軍人を温存させ、一般人の中から特攻隊員を熱望で強制召集することはなかった。
 第二次世界大戦においても、欧米各国はこの原則を押し通した。
 ところが日本は違った。特攻隊を見た場合、特攻隊員のおおかた90%は学徒動員の訓練期間の少ない、素人の学徒動員を使ったことだ。このレベルの軍隊とは無縁の素人兵を最前前線の特攻攻撃に当てたのである。そして前面に出るべきの職業軍人は、銃後の後方に避難させたのである。当時の戦争指導者の蛮行を挙げるならば、最前線で戦うことを素人兵にさせたことだ。素人に焼きを入れて叱咤激励する精神主義では、戦争に勝てないのである。
 当時の陸海軍首脳は軍隊官僚化していた。その最たるものは当時難関校といわれた陸軍士官学校であり海軍兵学校だった。そして甚だしきは陸軍大学校であり、海軍大学校の一握りのエリートだった。ここで養成されたのは、戦争を戦うための軍人ではなく、軍人の恰好をした軍隊官僚を作り出すことだった。卒業時の成績順に役職のポストが決まっていくのだ。そして殆ど軍事思想や戦争観はなく、だが官僚であることが、わが身の安定と保身を図る手段に使われ、やがて形骸化していったのである。
 これでは、勝てる戦争を戦っても、勝てる訳がない。

 また、軍隊の常識から言っても、最前前線で決死隊として戦うのなら、特攻兵機である飛行機は途中で不時着したり、あるいは特殊特攻艇が途中で故障し停止して、そこで敵に捕まり拷問されても、職業軍人なら自軍の軍事機密を敵に漏らすことがない。
 また、これと同じことは敵前逃亡にしても、職業軍人ならば、一般の徴兵による一時的な召集兵とは軍法会議で刑の重さも違う。これが外国の軍隊の常識であり、軍事思想と戦争観を知る指導層の認識だった。
 こうした結末を招いたのは、その根本に徳川265年間の、軍事機能の空白の時間があったからだ。その時間のために、日本人は「武の道」の根本を忘れてしまった。則ち根本的な「平法の心」を喪失したのである。


 ─────八門遁甲は、別名「奇門
(きもん)遁甲」とも言い、昨今の占いブームに屡々(しばしば)奇門遁甲の名前を目にするが、正確にはそのような占いの類では断じてない。
 奇門遁甲の看板を掲げた占師の仕事場や事務所には、宗教儀式のような神棚を祀
(まつ)っているが、奇門遁甲と霊的な神聖は、一切関係ない。
 極めてシビアーな神も仏も存在しない、電磁気、力学、幾何学を用いる中国の古典物理学であるのだ。したがって、一切の神聖なものや占いは、ここに入り込む余地がない。
 もし、ここに神聖なものや、占いとしてのものが入り込んでいたとしたら、これらは全て偽物
(にせもの)であり、自分の遁甲知識の無知を補うために、神や仏を持ち出しているに過ぎない。

 遁甲は、もともと「地理風水
(ちり‐ふうすい)」の一種であり、正確には「八門金鎖(てっさ)の陣」と「奇門遁甲」の二つが合体して、「八門遁甲」になったと言われ、漢籍書(かんせき‐しょ)は「子部兵書」に属しており、列記とした「兵術」なのである。
 中でも、三元式の八門遁甲は、満蒙の騎馬民族の兵術であるとされ、騎馬戦法に際しては、恐るべき威力を発揮するといわれている。
 わが国における遁甲の由来は、推古天皇
(すいこ‐てんのう)の御代六百二年十月に、百済(くだら)の僧侶、観かんじん/観勒とも。『日本書紀』よれば天文、遁甲、暦書を伝えたとされる)が日本に訪れた際、『暦本』『天文地理書』と共に朝廷に献上(けんじょう)したことから始まる。

 直伝は、「符使式」とは違う「三元式」のもので、朝廷の命に従い、大友村主高聡が習得し、天武
(てんむ)天皇自身もこれが大変上手であった謂われる。
 遁甲は満蒙の騎馬民族の兵術であった為、中国でも学ぶことが禁止された。
 唐六代・玄宗
(げんそう)皇帝は、王室以外の者に漏れるのを恐れ、金属製の箱に厳封(げんぷ)したとある。やがて日本でもこれが禁じられた。
 後に皇室が、一切の遁甲に関する秘巻を焼却したのを始め、これらの兵書は悉
(ことごと)く禁止されて、日本からは、その殆どが消滅している。
 密かに伝わったものとして、甲州流
(山本勘助)や山鹿流、他に越後(えちご)流、長沼流、宮川流、宇佐美氏等の兵術が存在しているが、今日では一番肝心な日取りの軍配術(軍立/いくさ‐だてなどの、奥儀と称される秘伝が悉く消滅しているのである。
 したがって、山鹿流でも直伝のものは失われ、大方は室町期に複製書物として、後に作ったものであると謂われている。しかし、その威力
(この威力というものはあくまで電気的エネルギーという意味で、霊的エネルギーは一切存在しない)を恐れるあまり、徳川年間になっても、それを研究したり、用いたりすることは厳罰に処され、これらの書物を持っていただけで、即刻打ち首になったとある。
 遁甲の語源を、岩波書店の『広辞苑』で索引すると、「人目をまぎらわせて身体を隠す、妖術。忍術」と記されている。これは語源学者自身の不勉強から起こる誤った解釈であろう。遁甲は忍術のように、その術者が姿を隠すものではない。

 遁甲は、あくまで隠れるのは、十干
(じっかん)の「甲」が、六儀(ろくぎ)(戊、己、庚、辛、壬、癸)の中に隠れるのであって、人間が姿を消したり、隠れたりするのではないのである。
 十干の「甲」が、六儀の中に隠れるとは、方術
(ほうじゅつ)の術法に隨(したが)って、物理学と同じような物理法則に随い、電気的法則(今日でいう常微分方程式のような)に則って、これを用いる。
 甲または乙が、各々に変化して、三奇
(さんき)(乙、丙、丁)の中で入れ替わり、複雑な行動を示す術として最重要視されていたのである。

 蜀
(しょく)の丞相(じょうしょう)諸葛亮孔明(しょかつ‐りょう‐こうめい)が使ったといわれる「八門の陣」という得意な戦法も、この八門遁甲に由来している。これは別名を「八卦(はっけ)の陣」と謂って、八つの陣から成り立ち、この陣へ攻撃を加える攻撃者の目から見れば、どれが一体本当の陣か分からないのである。
 攻める側としてみれば、攻撃部隊を八つに分けるわけであるから、戦力は八つに分散され、攻撃機能が低下するばかりか、下手をすると攻撃側の命取りにもなりかねないのである。

 指揮官の戦場心理の一つとして、戦闘展開のプログラムをどう演出していくか、そして当面の敵に対し、何処に優先順位をつけて、攻撃にかかるかと言うものに心を砕
(くだ)くものである。したがって一定兵力を、攻撃目標に対して、それぞれ割かなければならない。
 しかしそれには優先順位があり、本隊の主力を結集させれば、別動隊は攻撃に至っても、完全な勝利は期待できず、戦闘も手薄の状態で展開が始まる。
 逆に別動隊に主力を結集させると、本隊は手薄となり、辛い状態で戦わねばならなくなる。二つに割かれても、このような驚異の影が付き纏
(まと)うのであるから、八つに分けられた陣を攻撃するのは慎重な対策がいるのである。
 これらを攻撃する側から見る場合、更に悪いことは、この八つの陣は均等に八つに分かれているのではなく不均等で、どれが主力であるか分からないばかりか、変化に富んだ複雑な地形に陣地の配置がなされているのである。
 ちょうど一人に対して、八人の敵が包囲してしまった時と同じ状態になっていまう。これには魏
(ぎ)の最高司令官であった司馬仲達(しば‐ちゅうたつ)も散々悩まされ、大いに苦戦したとある。
 司馬仲達は、孔明の「八門の陣」という布陣の見事さに感嘆の声を上げ、「天下の奇才
(きさい)なり」と唸(うな)らせ、その英知と力量を率直に評価している。

 根源は全て、八門遁甲の複雑な奥儀に由来する。
 会津自現流の技の中には、他武道では見られない多数捕りは、江戸年間に由来しているものと思われる。
 そして八門遁甲の奥底に秘めた、何か恐ろしいものを見た。
 それは見てはならない全貌を見てしまったような気がした。なぜならば、その奥底に秘められた『秘め事』には恐るべき註釈
ちゅうしゃく/但し書き)が付けられていたからだ。
 以降、これが私を悩ませ続けるのである。



●二人の銀座

 道場で機関雑誌を作って、印刷代が払えなくなったことがあった。
 この刊行物については、私は全く知らなかった。一部の幹部道場生が勝手に広告を集め、『和合への道、創刊号
(ここでは実際名を記載する)』を、私に何の相談もなく発刊したのである。内容も他派の歴史を引用し、間違いだらけであった。
 この間違いが二十五年を経て、マイナーな武道雑誌から誹謗中傷の原因を作ることになる。揚げ足を取られたのだ。
内容は一方的で、公平と公正に欠け、四流五流の週刊誌並みの、当方の発行物の誤りを、スキャンダル情報のような形で載せ、鬼の首を取ったかのように得意げに誹謗中傷されていた。

 さて、この間違いを記載した機関雑誌には、私の巻頭言や紹介欄はなく、専
(もっぱ)らこの雑誌を作った数名の者が雑誌の冒頭に紹介されていた。私は発行人になっていたが、全くこのことを知らなかった。
 そして、福岡市のF印刷屋から印刷代を35万円請を求されたのである。
 この雑誌には広告欄があり、この広告の集金については既に集金が終わった後で、この金銭も一体どこに消えてしまったか分からなかった。
 兎
(と)に角(かく)印刷代35万円を請求されたのである。しかし所得の少ない私としては、この一喝払いに窮した。

 だがこの時期、私にはこの金額がなかったので、この印刷代を作るために自分の持っている刀剣類の処分をするしかなかった。それを処分するべく、東京に行くことを決意したのである。
 自分の所持している日本刀や小道具を整理し、売れそうな物を選別して、東京の古美術商に売却する予定であった。北九州の地元より、東京の方が高く売れるためである。
 この時、これを知った由紀子は、この金額を道場の寄進として提供するといってくれたが、私は彼女の有り難い気持ちだけを受け取って、東京へと旅だった。
 金のことで、絶対に彼女の世話にはならないという私の意地があった。自立していることが、私の誇りでもあったからだ。

 途中彼女が、乗車駅である門司駅まで車で送ってくれた。
 門司から乗車した理由は、寝台特急『はやぶさ』が、当時小倉駅に停車しないためであった。翌朝、東京駅に到着した時、古田という大学時代の友人が迎えに来てくれていた。
 この古田の家を宿として、三日程世話になり活動した。東京都内の道案内もしてもらった。
 東京の大手の古美術商の柴田刀剣や、その他の古美術商を廻り、何とか五十万円程の金を作った。この日、代々木参宮橋の刀剣博物館に寄って、刀剣を鑑賞した帰り、当時この近くにあった『合気道養神館』にも足を運び、稽古を見学させて頂いた。

合気道養神館で、館長の塩田剛三先生、串田先生、寺田先生から貰った各々の名刺。

 受付で私の名刺を渡し、二人で道場内の末席で暫
(しばら)く座っていると、そこに寺田先生が名刺を持って現れ、私に丁重に挨拶した。
 そして稽古時間が早いということで、二階の応接室に案内された。更にこの後、串田先生が入ってこられ、大東流の技のことについて色々と訊かれたので、踏み技と影技を説明したら、合気道にはないということで感嘆の声を上げられた。

 稽古が始まった時、稽古風景を撮影する旨を伝えたら、快く了解して下さり、8ミリ撮影を一時間程させてもらった。【註】合気道養神館で撮影したその時の8ミリフィルムは尚道館に保存されている)
 その途中、塩田先生が名刺を持って現れ、私に丁重に挨拶をした。事前に私のことは、寺田先生の方から連絡済であったようだ。道場内の人々は私のような若造に、次々と先生方が挨拶されるので、私がどういう人物であるか興味を持たれたようだ。
 稽古が終わって、塩田先生の稽古終わりの締め括りの挨拶に「今日は、九州からある流派の師範が、この道場を見学に来られている」ということを言われ、有り難い紹介を受けて、私は道場生全員の前で一礼した。
 稽古が終わり帰る時、ある女性から話しかけられた。
 私は、彼女が誰であるか知らなかったが、目の大きな美人であったと記憶している。袴を履いていたので
(当時養神館では師範以外は袴を許可する風習はなかったようであるが、彼女は履いていた)有段者であると思い、「何段ですか」と言った意外は、何を話したかはっきり憶えていないが、立ち話で彼女と十分位話したであろうか。

 私の案内役であった古田の話では、彼女が女優
(当時はアイドルだったようだが)の和泉雅子(いずみ‐まさこ)であるというようなことを言っていたが、彼女が女優であることを知ったのは、九州に戻った後の、テレビの中で彼女が、男性歌手と、『二人の銀座』という歌を唄っている時であった。

 芸能情報に疎
(うと)かった私は、合気道養神館での彼女との立ち話を、意外にも淡泊な表情で受け止めていたようだ。当時を振り返れば、ザ・ベンチャーズが作曲して、山内賢とデュエットで唄っていたと記憶している。



●テレビ出演

 私が北九州に帰るに当たり、見送りに来てくれた古田と東京駅の新幹線ホームに立った時、昭和45年4月の、フジテレビ『万国びっくりショー』に出演した当時のことを思い出していた。

 二年前のことが鮮やかに蘇
(よみがえ)ってくる。
 私がまだ、大学四年になったばかりの春休みのことであった。
 私は弟子二名を連れて上京した。
 しかし心外だったことは、東京駅の改札口を出て、八重洲口からタクシーの乗ろうとした時、数人の警察官に取り囲まれ、私の手に持っている刀袋の中の日本刀のことについて職務質問を受けたことだ。
 この二週間前に日本刀と猟銃で武装した、赤軍派の「よど号事件」が起こっていた。
 東京駅の派出所に同行を求められ、それに応じる以外手が無いと踏んだ私は、素直に蹤
(つ)き従い、刀剣の登録証を提示した。
 しかし更に身分、上京の目的等を訊
(き)かれ、少々腹立たしい思いをした。そして此処から解放されたのは職務質問から二時間以上経った、夕暮れに近い時間だった。
 テレビ局の人に、時間の遅れたことの理由を述べてお詫びし、その日は用意してくれた宿屋に落ち着き、翌日の午前中フジテレビに向かった。

 この番組は大阪で行われてた、世界万国博覧会を記念して催された番組であり、毎週金曜の午後九時
(録画番組)から全国ネットで放送されていた番組である。この時、二人の弟子を従えて、揚々(ようよう)とテレビ局に乗り込んだものである。

 私の演武の企画をプロデュースしたのは、大阪の『萬年社』というテレビ番組制作会社で、テレビ出演は昨年の『桂小金次アフタヌーショー』に続き、今回で二回目のことであった。したがってテレビカメラやスタジオ見学者の視線も気にならない程、テレビ慣れしていた。

 この当時起こった事件としては、日航の『よど号事件』で、日航機が日本刀や猟銃などで武装した赤軍派学生からハイジャックされた事件
(極左の赤軍派九人が日航機よど号をハイジャックし、乗客解放後、朝鮮民主主義人民共和国へ亡命した事件)であった。「よど号」ハイジャック事件が起こった。
 昭和45年
(1970)3月31日午前7時40分、富士山南側上空で日本初のハイジャック事件が発生した。
 過激派
(赤軍派)学生9名による羽田発福岡行き日航機351便(よど号)乗っ取り事件である。彼等は日本刀や猟銃で武装していた。そして北朝鮮行を要求した。
 この事件は、テレビ出演と前後して、ほんの一、二週間前に起こっていた。
 当時はまだ革命に嵐が吹き荒れていて、左翼系学生や勤労共産主義青年が健在であった時代である。そんな時代背景の中でのテレビ出演だった。

 私たち三人は、番組が録画される一日前に、萬年社の手配するフジテレビの近くの旅館に滞在して、簡単な持て成しを受けていた。
 テレビ録画は翌日の午後から行われ、録画前にまずは拵
(はらごしらえ)と言うことで、フジテレビの大食堂に案内された。大勢の人がセルフサービスの食堂で食事をしていた。何やらテレビで見覚えのある人たちが数人いた。
 萬年社のスタッフから、色々とセルフサービスのシステムの指示を受けて席に着いたのであったが、丁度私の迎え合わせに居たのが、当時一世風靡
(いっせい‐ふうび)したカルメン・マキという女性歌手であった。私はこれを知らず、弟子からこのことを聞いて、テレビ局での芸能界の一面を垣間見たような気がした。

 食事が終わって、控え室に案内され、私たちより先に司会のアナウンサーであった八木二郎氏
(故人)が既に来て居て、台本を見ながら数人のスタッフと打ち合わせに入っていた。
 私はこのような番組に、私の喋る科白
(せりふ)があると言うことで、少し驚いてしまった。喋る一言一句が克明に決められて居るのである。
 これには些か抵抗したい気持ちになった。そして、私独自のやり方で、やらせてもらいたいと言うことを司会の八木二郎氏とスタッフに申し入れて、要約その了解頂き、本番並みのリハーサルとなった。

西郷派大東流剣術、枯竹斬りの妙技。

西郷派大東流白刃抜きで、引き抜いた後の、刀を握った手を見せるところ。司会は八木治郎アナウンサー(故人)だった。 白刃捕りの演武。一旦引き抜いた掌の鞘から、再び許の鞘に納める高度な儀法。

 この番組は30分番組であるが、私がメインと言うことで、私だけに15分の時間が割 かれていた。この15分は、ただ単に15分間淡々と演武をすれば良いと言うものではない。一時間近い録画の中から、よいカットだけを絞り込んで編集し直すものであった。私の演武は、有に二時間に及んだのである。

 私たち以外に二組の外人招待ゲストがいて、彼らはアクロバットやジャグラーのペアーであった。私は彼らの演技に興味はなく、失敗しないように決められたことを確実に熟
(こな)す事ができるかどうかと言うことだけを念頭に置いて、一人壁に向かい、静坐して、壁の一点を凝視しながらイメージをくり返し、精神統一を図っていた。私の癖である。
 もし怪我をしたり、失敗したりすると、私のみのが恥ではなく、流派と道場を代表して来ている関係上、一つのミスも許されなかった。全体の恥になる。
 ミスは、即ち、流派と道場のミスに繋
(つな)がるからである。責任には重大だった。
 私の背中の後ろには、この流派と道場の代表者としての金看板が担わされていたのである。そんな私を見つけた八木二郎氏が、和
(なご)やかに話をしかけて来た。番組の科白(せりふ)とは全く関係ない世間話であった。

 「少し前に日航機のハイジャック事件がありましたね。覚えていますか?」
 私は、アナウンサー口調の歯切れの良い声に振り向いた。八木氏の緊張を解すような優しい心遣いが窺
(うかが)われた。
 「はい」
 「もし、君だったら、ハイジャックされた機内で、彼らをどのようにして、取り抑えますか?」実に鋭い質問であった。
 八木氏は気軽に訊いたのであろうが、私には鋭かった。それだけに、逆に緊張した。
 「君は真剣白刃取りが出来るそうですね。それもかなり高度な白刃取りが……」
 即座の返事として、私はこれにどう答えてよいか分からなかった。直ぐに回答できなかった。

 「そんなに真剣に考えなくてもいいですよ。彼等はライフル銃も持っていたそうですから、真剣は取れるとしても、銃に立ち向かうことは不可能でしょう。私は君を緊張を解す気持ちで言ったことが、逆に緊張をさせてしまったようですね」八木氏の笑顔が疾った。
 何か、つまらないことを滑らせてしまった世間話に、八木氏は逆に恐縮したように言葉を繕い、そのお詫びを無言のうちに述べているようであった。私の顔色を読んで緊張を解すためだろうか。

 「まだ、時間があります。お弟子さんも一緒に連れて、喫茶室でコーヒーでもいかがですか?」
 私たち三人は八木氏の誘いを受けて、喫茶室でコーヒーをご馳走になったが、私の頭からは「よど号」をハイジャックした赤軍派と機内で遭遇し、戦わなければならなくなった時、私は一体どういうことが出来るであろうか?という自問自答が生まれた。
 相手の斬り込む刀を受け損なって、無慙
(むざん)に斬り刻まれるか、あるいは首尾よく白刃取りが出来たとしても、ライフル銃で頭を打ち抜かれているのでは?という、自問が脳裏を駆け抜けていた。
 この自問は本番の時には消えていたが、本番が無事終了すると、再び頭を持ち上げて来た。

 テレビ局の玄関で八木氏と別れる時、
 「八木さん。僕は今後の課題として、あのハイジャックに遭遇していたら、どうするかを今後の修行で結論を出しますよ」
 「えッ?まだ、あのことを考えていたのですか」ちょっと驚いた様子であった。
 私の中に、何かの迷いが吹き切れた、清々しい風が吹き抜けていた。八木氏と喫茶室で話した話にも、満足行くものでなかったが、《あの時、ハイジャックに、もし遭遇していたら》という自問自答は、今後の修行の励みになった。
 しかしその結論は未
(いま)だに出ていない。そして八木氏も既に故人になってしまっている。
 だが、この日のことは、未だに忘れてはいない。窮地
(きゅうち)に追い詰められた事態になると、八木氏に言った言葉を、時々思い出す今日この頃であった。
 死を恐れて、武士道は成り立たない。死生観を克服する。死を超越したところに本物の武士道の崇高
(すうこう)さがあるのだ。私の格闘は、外の敵ではなく、心の裡(うち)の敵との戦いであった。


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