●綱渡りの果てに
私が沖仲仕(おきなかし)の仕事を終えてアパートに辿(たど)り着いたのは、解放されたその日の夕刻近かくであった。ボロ雑巾のように疲れ切った躰(からだ)を横たえていると、暫(しばら)くして由紀子が現れた。もう、完全に「勝手知ったる他人の家」になっていた。
彼女の、私を睨(にら)んだ眼は、“今まで何処に行っていたのよ”という風な眼で私をじっと見据(みす)え、無言で何かを訴えるようだった。その形の良い唇に、表現出来ない程の、もどかしさを感じた。
そして、今にでも根掘り葉掘りと問い質(ただ)して、喰いついてくるのではないかと思われた。
美しい大きな眼は、悲しみの眼付きで満ち溢れていた。ほんのりと潤(うる)んで、涙さえ窺(うかが)われた。暗澹(あんたん)たるすすり泣きが、今から始まろうとしていた。
彼女の瞼(まぶた)を濡らす涙癖(なみだぐせ)は、以前と少しも変わっていないようだ。
四ヵ月程前、私が留置場に収監されて面会の時に見た、あの眼と同じものであった。健全な眼の動きが、鋭く私を叱責(しっせき)している。それを殊更(ことさら)素直に受け入れ、神妙に受け止めて、ある種の戦慄(せんりつ)を感じられずにはいられなかた。周囲には息詰まるような空気が漂っていた。
そして、今まで涙をこらえて唇(くちびる)を噛んでいた由紀子が、ついに涙声を発した。
「どうして早く言ってくれなかったのよ……」
彼女は今にも泣き出さんばかりの声で言った。
「何をですか?」
私は一応惚(とぼ)けてみたが、直に見破られたようだった。
「お母様のこと……」
私は二の句が続けられずにいた。
しかし私の顔を見て、安堵(あんど)の気持ちに辿り着いたのか、由紀子は徐々に愁眉(しゅうび)を開いた。彼女は既に、母の事を知っていたらしい。何から何までお見通しのようだった。
私は返す言葉なくって、黙っていた。これを察して、これ以上責めたてる気持ちは、彼女にはないらしい。
後で訊(き)くと母の事は、彼女によって完全な処置が施されていた。手術費を含む金銭的なことから、輸血の血液集めまで……。
「今まで、ろくなもの食べてないんでしょ?夕飯の支度しますから暫(しばら)く待っいらしてね」
由紀子は指で涙を拭うと、笑顔を繕(つくろ)ってエプロンをかけ、小さな台所に向かった。
激しい重労働をした為、私は疲れのために坐(すわ)るだけの気力を失いかけていた。とうとう坐っていることが出来ずに、その場にゴロリと横に転がった。やがて睡魔(すいま)が襲って来て、うとうとと十数分程、転(うた)た寝したようだった。
目を覚ました時、私の汗臭い躰(からだ)には一枚の毛布が掛けられていた。
「さあ、お食事できましたわよ。お起きになって」
はッとして、この声で起きようとしたが、中々腰を上げることが出来ない。腰に激しく引き攣(つ)るようなものがあった。そして、腰を上げようとしても、腰が抜けたようになっていた。
(どうしたんだろう)と、自分でも不思議に思っていると、
「どうなさったの、お食事よ。早くお起きたら……」とやや強引な言葉。
「聞こえていますよ」
しかし七転八倒しながらも、どうしても起きることが出来ない。上半身を起こすことすら出来ないのである。それでも腕を突っ張って上肢だけを引き起こした。
その状態を見ながら、私の傍(そば)に寄って来た彼女は、
「もうイヤ!散々人に心配をかけた上に、まだ下手な芝居するなんて……」と笑いながら、私の肩を軽くポンと叩いたら、腰骨がガックと崩れるように鈍い音を立てた。それと同時に錐(きり)を揉(も)み込むような激しい痛みが、電気のようにキリリと疾(はし)り、一瞬にして動けなくなり、躰全体が萎(な)えるのを覚えた。そして少しでも動くと、猛烈な痛さが疾った。
その激痛や、強烈であり、再び横に転がった。《うあーッ!》声にならない声を上げていた。
「どうなさったの?」と白々しく云う。
(どうなさったって、あんたが、今叩いたからだろうが……)と言いたかった。
「変な冗談、おやめになって……」彼女はまだ笑っていた。
(馬鹿言うな、これの何処が冗談なのかよ……)
「腰が、腰が……ううッ……」と言って、歯を食い縛(しば)って必死に立ち上がろうとするが、どうも儘(まま)にならない。私の姿に、どうやら、何らかの異常があると気付いたのは、2〜3分程過ぎてからであった。
激しい肉体労働の挙げ句、椎間板(ついかんばん)ヘルニア、つまり俗に言う《ギックリ腰》を煩(わずら)ったわけである。
立つことも歩くことすらも出来ない状態になった。動けば激痛が疾る。それから丸五日間、外には出られず、道場に顔を出すこともできなくて、ゴソゴソと、部屋の中を這(は)って移動する、尺取虫(しゃくとりむし)のような生活が始まったのである。
─────それから六日程たった。些(いささ)か腰には不安があるが、何とか歩けるようになった。久しぶりに山村師範を訪ねた。
訪ねる途中、道中の路面電車の中で、訝(おか)しなことに気付いた。
今朝あたりから躰の至る所が、痒(かゆ)くてたまらないのである。今迄は腰痛に悩まされて殆ど痒さに気付かなかったが、腰の痛みが和らぐと、今度は痒さに襲われたのだった。
背中から肩から肘から、そして脇腹や下腹や、特に性器(殊に睾丸)付近が燃えるように、灼(や)け付くように痛痒いのである。手を見ると、指の間にも何かブツブツのような、赤い斑点(はんてん)が出来ていた。
しかし電車の中のでは、流石(さすが)に人目を憚(はばか)るしかなく、今でも掻き毟(むし)りたい衝動に襲われたが、只管(ひたすら)これを押し殺し、我慢に我慢を重ねた。
山村師範から稽古の手解きを受けたが、その灼け付くような痒みで、中々集中出来るのもではなかった。
稽古の終わった後、山村師範が、
「お前、躰が痒いのと違うか?」とズバリ聞いて来た。
「はあ、実はそうですが……」
「じゃあ、それは伝染病じゃなァ。間違いない、確かに伝染病じゃ」と断定したように言う。
「えッ?!どんな伝染病ですか?」
「疥癬(かいせん)という伝染病じゃ」
「疥癬……?」
「いいか、この病気はなァ。戦時中、中国大陸から、日本の軍人が、国内に持ち込んだものじゃ。儂(わし)も現地で何度も罹(かか)った経験がある。実に痒いものだ。
疥癬は、ヒゼンダニという節足動物の昆虫でなァ。人間の皮膚のごく浅い表面に取り憑(つ)いて、長期にわたり悩ますものじゃ。人間の体温を敏感に関知して、僅か30分も経たないうちに、直に人から人へと伝染していく大変な病気じゃ。
お前も小学校の時に経験があると思うが、頭から振りかけられたDDTという《メリケン粉》(小麦粉の俗称)のような農薬を知っておろうが?」
「はい、知っていますが……」
「それは戦後直、進駐軍(日本占領下の米軍。その総司令部を、G・H・Qといった)が持ち込んだものじゃ。虱(しらみ)や蚤(のみ)や疥癬を殺虫するために使われた有機塩素系の強力な殺虫剤じゃ。
このDDTによって、一応疥癬は日本では終息したが、最近になって東南アジアに出張した商社マンが、色遊びの中で現地の女と接触し、性器に宿したまま、これを再び日本国内に持ち込んで帰って来た。つい最近まで、この病気をは性病と信じられていた。そしてこれを退治するのにDDTが遣われた。
DDTは、現在環境汚染防止のためと、発癌性(はつがんせい)のある有害物質として厚生省は、これを使用禁止にしている。だから今は、これが使用できん。
この病気はなア、三十年周期に姿を現し、猛威(もうい)を振るって流行する、恐ろしい伝染性の皮膚病じゃ。この生息期間は約六か月と謂(い)われている。世の中が混沌(こんとん)とすると、この病気が流行すると云われている」
《何と言う情報通!》と、山村師範の物知りに感心し、舌を巻くと同時に、これを聞いた瞬間、顔は一瞬青ざめて、(アチャー、何と言う破目(はめ)になったのか)という恐ろしい気持ちになって来た。
しかしDDT(dichloro diphenyl trichloroethane/ 有機塩素系の殺虫剤で現在日本では環境汚染防止のため使用禁止となっている)とは実に懐かしい言葉であった。
私は、DDTとくれば直ぐに虱(しらみ)を連想する。そして、次に長い髪を連想する。
私は、虱には一つの思い出があったからである。
人間に取りつく虱は、コロモジラミ、アタマジラミ、インジラミなどであるが、DDTはこれらの虱や蚤を退治するためにアメリカから、戦後日本に持ち込まれた有機塩素系の殺虫剤であった。
─────虱については、次ぎのような思い出があった。
私が小学五年生の、嬉野から八幡に舞い戻った頃の話しである。私の母はある意味で民族や人種等に拘(こだ)わらない人であった。裏を返せば人の不憫(ふびん)や哀れを知る人情の機微を大切にした人であった。
ある日のことである。
母が近所の貧しい朝鮮人の、同級生の少女の長い髪を洗ってやる為に、虱(しらみ)採りの作業をしているのを、遠く、軒先から遠望したことがある。丁寧(ていねい)に虱を櫛(くし)で掬(すく)い、掬い取った虱を一匹ずつ石の上に乗せて叩いていたことを憶(おぼ)えている。
午後の陽差しの逆光の中で、影絵のようなシルエットは、愛くるしい少女の長い髪を梳(す)き、その光景は中々の風情と映ったことがあった。少女の癖のない長い髪の縁取りは、陽(ひ)に透けて黄金色(こがねいろ)に輝いていた。
その少女が何故、母と知り合いであったか知る由(よし)もないが、その少女の家は、街の商店街を少し離れた河川敷(かせんじき)の近くにあり、母一人、娘一人の朝鮮人の母子家庭(在日朝鮮人であった父親は、朝鮮戦争に出征して戦死したとも謂(い)われる)であったことを憶えている。
家業は河川敷の一劃(いっかく)に、ほんの畳(たたみ)一畳(いちじょう)程の焼き薯(いも)屋を営んでいた。母は此処でよく焼き薯を買っていた。恐らくそんな事が、この少女と知り合う切っ掛けになったのであろう。
また、その母子の衣服、殊(とく)に少女の衣服はどこかみすぼらしく、哀れな態(さま)を見かねて、親戚中に手配して女物の衣類をかき集めていたことがあった。
何故そうまでして、この少女に施しをするのか知る由もないが、私が嬉野にいた頃、病気がちな母は焼き薯屋を営んでいた、この母子に親切にされたのか、あるいは何かで助けて貰った(命に関わる危険な状態の時に)ことがあるらしかった。
もうそれだけで、母は人種や民族の垣根を超え、立派に隣人になる資格を相手に与えてしまうのである。それは母が育った、教育と環境に根付くものであるらしい。
母方の祖母は武家の出で、それを鼻にかけるような人とではなかったが、また、こうした階級の出身者には良くある、「○○とは氏(うじ)も素性(すじょう)も違います」などと、為来(しきた)りを、とやかくいう人とではなかった。
元は平戸藩の造船奉行の家系であったと言うが、先祖の事を自慢したり、そうしたことは一言も云うような人とではなかった。そうした祖母の気性を受け継いで、母も育ったのだろう。
私はこうした家系を自慢しない、祖母を偉い人だと思い、母に対してもそのように理解していた。
そうでなければ、また氏も素性も違う貧困な朝鮮人の母子など相手にする筈がなかった。
当時、北朝鮮のイメージは秘密のベールに包まれ、異民族としての排他的感情は根強く、朝鮮人と口を聞いたり、接触することは憚(はばか)られた時代であった。
しかし、母はそれを気にする人ではなかった。
何かの縁が隣人と成す、その縁を大切にする人であった。何度かその少女は、私の家に上がり込んで衣服の丈(たけ)を合わせたり、お菓子を貰って食べていたことを見掛けたことがあった。
しかしこの母子の掘建て小屋のような小さな家も、昭和33年の台風で壊れ、私はその壊れた様子を一人で見に行ったことがあった。そこに、どれだけの時間、居たか分からないが、ただ呆然(ぼうぜん)と見つめ、立ち竦(すく)んで居たことを憶(おぼ)えている。
何故、私がその少女の家に行ったか、はっきりとした理由は憶えていないが、恐らく母が梳(す)いてやっていた、恐らく、あの癖のない黄金色(こがねいろ)に光った長い髪を見たかったからであろう。
家の周りは、衣類やその他の粗末な寝具等が散乱していた。簡易造りバラックの掘っ立て小屋は、既に倒壊していた。煉瓦(れんが)や置き石を載せたトタン張りの屋根は無残にも吹き飛び、家全体が横倒しになっいた。室内の粗末な調度品が壊れて散乱していた。
室内と外を隔てる壁は、ゆうに半分以上を失い、見るも無残だった。その中で少女は母親とともに後片付けしていたが、あの日、母が、いつもその長い髪を櫛(くし)で梳(す)いてやっていたあの長くて美しい髪は、風に解(と)かれて、無惨に散っていた。
少女は長い頭髪を振り乱して、半狂乱になり、泣きながら後片付けをしているのを、私は何か一つの大きな衝撃として、印象的に憶えている。
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| ▲当時、私が見た少女は、こんな感じの娘だった。大陸系か朝鮮系の少女と思われる。この物語には関係ないが、余りにもよく似ているイメージなので挙げて見た。写真は昭和15年頃で、撮影場所は錦州とあり、題材は「綿花を摘む少女」となっている。(毎日新聞社編・昭和史「日本植民地史」別巻1より) |
振り乱した少女の髪は、時々襲ってくる突風に更に乱れ、その度に飛ばされて乱れた。その解かれ方、散り方に一定の法則があるのではないか、とさえ思うほど不思議な生き物でも見ているようであった。私はこの光景を、正直言って美しいとさえ思った。
呆然(ぼうぜん)と立ち竦(すく)む私は、時々少女と眼を合わせたが、彼女の少し目尻の吊り上がった、大陸人特有の勝ち気な眼は、何もしない私を恨むでもなく、ただ泣き腫(は)らせて悲しそうであった。今想(おも)えば、あれは私に何かを訴える、哀願の眼であったかも知れないが、その意図は分からない。
その少女が母親とともに、「地上の楽園」と称された北朝鮮に帰って行ったのは、それから間もなくのことであった。当時の朝鮮総連は日本共産党と友好関係にあった。こうした関係が、在日同胞を、次々に北朝鮮へと送り出していた。
日本から北朝鮮に渡った者を「帰国同胞」と言い、それを縮めて「帰胞(キッポ)」と呼ばれて蔑(さげす)まれるそうだが、しかし血統(出生成分)を第一に重視する北朝鮮に帰ったとて、決して幸せな生活は送れる筈(はず)がなかった。彼女は日本に居た時よりも、差別され、更に酷いか遣い方をされているに違いない。二十歳(はたち)過ぎた今、彼女は彼(か)の国で、どうしているのだろうか。
─────DDTの白い粉を思う時、虱と長い髪を思い出し、私は直ぐにあの少女の長い髪が私の母の手によって奇麗に梳(す)かれ、その梳かれた髪が、あの台風の日、風に解かれて散って、美しく天に舞い上がっている、あの時の記憶が鮮やかに蘇(よみがえ)ってくるのであった。
不図(ふと)、山村師範の《DDT》という言葉から、こんな事を思い出していた。
「お前、何処か汚い所で寝たじゃろが?」
山村師範のこの問いかけに、はッとして我に帰った。
「そう言えば、あの時……」
「やっぱり、そうか」
「では、治すにはどうすれば良いのですか?」
「そうじゃなァー……」と語尾を引きずり、先ず勿体(もったい)付けた。また、これがこの爺様の意地悪な一面である。
(勿体ぶらずに早く言え)と、気持ちが逸(はや)った。
「それはどうしたら?……」と問うた質問に、咳払いを払って、
「まあ、そうじゃな」
「?…………」
「そうじゃなァー……、気長に二十日間程、軽い断食するか……」
(何……?)「二十日間も……」
「それとも……」悪戯小僧のように面白半分の眼を投げかける。
「それとも?(何……?)」私はとにかく先が知りたいのである。
「まあ、落ち着け。実はじゃなア……」そう言って言葉を切った。
私は「事は急を要するのです」という哀願するような眼を投げた。
それに応えて、これで許して遣るか、というような口調で、
「半年間、その儘(まま)放置してじゃなア、辛抱強く、その切ない痒さにじっくり耐えることじゃ。やがて白血球の働きで自然治癒(ちゆ)する筈じゃ。しかしそれは随分と切ないぞ……ホーホー」と、意地悪な目で、笑顔さえ泛(うか)べて笑い始めた。
何と云う爺様だと思いながら、
「半年も……」と項(うな)垂れた。
この時、一つの疑問が生まれていた。
何故、疥癬(かいせん)という伝染性皮膚病に対して、「治療」ではなく、「殺虫」と言う医学用語をあえて用いるのは何故であろうかと思った事だった。病気であれば、それを治すためには、治療が必要であり、何も殺虫という言葉を用いなくてもいい筈である。それとも単に、用語の使い方の誤りであるのか。
山村師範の話では、確か30分も立たないうちに伝染すると言っていたから、山村師範にも伝染しているのではないかと、その真意に鎌を掛けてみた。
「先生には伝染しないんですか?」
「儂(わし)は免疫が出来とる!」
「えッー!免疫?」(何と丈夫な爺さんだ)と思った。
「それよりも、もしかしたら、お前の女に、既に伝染しとるのと違うか。全身に回って、手遅れにならないうちに、早急な忠告が必要だぞー……」と、脅し半分に、ニヤリと笑ったような言い方をした。
絶対に知られてないと思っていたが、既に山村師範は由紀子のことを知っていた。何処で由紀子のことを嗅ぎ付けたのだろうか。それとも千里眼か。
そして解明できない、一つの疑問に、ある思索が浮かび上がった。
それは一度、蜂(はち)に刺された人が、もう一度蜂に刺されても、皮膚に腫(はれ)れや炎症(えんしょう)を起こさないだろうかということであった。
幾ら免疫があったとしても、病原菌に対しての免疫と、虫刺されとは全く違う筈である。どうも、「殺虫」と云う言葉と、「免疫」と云う言葉は、平行線のように思えるが、これが一つの謎として、私の脳裡を渦巻き始めた。
しかしそれにつけても、とんでもない病気を移されてしまったものだ。
欲に転んだ日雇仕事は、半分以上も給料をピン跳ねされた挙げ句、タクシー代で殆ど消え、とんでもない病気まで背負い込こむ破目(はめ)となった。
危ない綱渡りは、意外な結末となって、我が身に跳ね返って来たのである。そう思いながら疥癬の恐怖に脅(おび)えて居ると、
「一つだけ良い方法があるぞ」と、絶望感から抜け出せるような言葉を山村師範は呟(つぶや)いた。
「えッ?それは……一体、どんな事ですか?是非(ぜひ)教えて下さい!」
「ドクダミ風呂に入ることじゃ。乾燥したドクダミ200g程を布袋に入れて、それをじゃなア、風呂の中で炊き込む。更に、それを高温で十分に煎じた後、一旦火を落とし、冷えるの任せて、丁度頃合いの温度になった頃、風呂に入り、毎日一時間程度、これを一ヵ月間くり返す事じゃ」
(こりゃぁ駄目だ!)この話を聞いて、更に絶望的になった。何故ならば、うちには風呂がないのである。
私の困り果てている顔を見て、
「なんなら、儂(わし)の所の五右衛門風呂を貸さんこともないがア……」と語尾を曳き、その言葉に中には、眼光鋭い中にも人の足許(あしもと)を見るような一抹(いちまつ)の冗談めいた意味が含まれていた。その眼差しは、私の弱みに付け込んだものであった事は明白であった。
「本当ですか?」
「しかし、なアー……」と更に語尾を長引かせ、気持ち悪くニヤリと笑った。
それは困窮者?への憫笑(びんしょう)の笑いだった。何か交換条件がありそうだ。
(また例の良からぬ悪癖が始まったのでは……)という気持ちが、その爺さんの眼差しに、ありありと窺(うかが)えた。
「しかし……?」
「儂のなア。……稽古相手のなア……、ちょっとした《的》になることが、その条件じゃがア……」と覗き込むように言い、妙に何かを仄(ほの)めかすように勿体ぶった。
《的》と聞いてドキッとした。
(この爺さん、一体何を考えているのだ?)とあらぬ穿鑿(せんさく)が趨(はし)った。真逆(まさか)以前の悪い性癖が再浮上して、また私を玩具(おもちゃ)にするのでは、と言う変な不安が脳裡(のうり)を翳(かす)めたのだった。
「どうじゃ?この辺で手を打ってみては……」と人の足許(あしもと)を見透かした眼を投げた。
「ドクダミ入りの五右衛門風呂に入って一ヵ月懸かるなら、断食して二十日間の早い方を選びます」
「ほーッ、よくもぬかしおった。お前に二十日間の断食が、果たして出来るかな?」
「出来ますとも」
「じゃあ、痒みにじっくり耐えながらやってみることじゃ……」冷たくあしらわれていた。
こう言われて、この場を去ったが痒みに耐えることが、如何に苦しいか、この時始めて分かった。
─────その日の夕刻、由紀子の来るのを待って、彼女に早速訊(たず)ねてみた。
「何処か痒くありませんか?」
「何処かって?」
「躰(からだ)がですよ」
「まあ、失礼なこと言わないでよ!」
ピシャリと叩かれた様な返事が返ってきた。
私は思わず、「これは失礼しました」と深々と頭を下げていた。
「あなたと違って、あたし毎日お風呂に入っているんだから……。何故そんなこと訊くの?」
「伝染病に感染しました」
「えッ?伝染病って?」
「疥癬(かいせん)です」
「疥癬……?」
「こんな病気の名前も知らないんですか?」
「ええーッ……?」と、心もとない曖昧(あいまい)な返事をしながら、
「医者の卵だと言っても、何もかもオール・マイティーじゃないんですからね……。言っときますけど、あたしの専攻は小児科ですからね」と、一見怒ったような言い訳がましいいことを言って、急いで自分の大きな鞄の中から医学辞典を取り出して、それを素早く捲(めく)り始めた。
「ありましたわ。この病気ね。なる程……、病院の入院病棟や集団生活をする場所で感染する伝染性皮膚病ね。ヒトを固有宿主とする疥癬虫(Sarcoptes scabiei var.hominisによる感染性皮膚疾患)、つまり節足動物門蛛型網ダニのヒゼンダニが皮膚の表面に寄生することによって起こる湿疹(しっしん)で、指の間、腕や脇、肘関節の内側部分や下腹及び内股部分、更に性器まで……と書いてあるわ。
動物には取り憑(つ)かず、ヒトにだけ取り憑くともあるわ。きっと、ヒトの体温と関係がありそうね。
人体を離れると、熱には弱く25度では三日間、12度では二週間、50度の熱湯に浸すと約10分間で死滅する、とあるから熱湯消毒が必要ね。
それから……えッーと、何々……。
肉眼では観察できないから、感染の疑いのある患者の皮膚の表面を摘出して、顕微鏡でその生息を確かめ、その有無を診断する。なお、硫黄成分に弱く、幼虫や卵は殺虫出来ないが、成虫は硫黄で殺虫出来る。
ふーん……、医薬用として疥癬虫を殺虫するには安息香酸ベンジルという速効性薬剤を用いる。
つまり農薬に似た非ホルモン系の殺虫剤で殺虫するわけね。一つだけ良い勉強になりましたわ」
「良い勉強になった等と、落ち着いている場合じゃありませんよ」
「でも、心配はいりませんわ。明日、うち病院の皮膚科から、ここに書かれたお薬貰って来てあげますわ」
「一体、そんな薬でこの痒いのが治るのですか?」
「治りますとも、ここに書いてあるんですから。首から下の足まで、お薬を全身に着けると、ほぼ一日目で痒みが止まり、一週間目で消滅します。更に、二週間程経過すると、ヒゼンダニの潜り込んだ皮膚が、フケが落ちる様に剥(は)げ落ちてきます。これによると全治二週間と言う所かな……」
「それ、本当ですか?」
「と、これには書いてありますわ」
「たく、頼りないんだから、まいったなアー」思わず頭を掻き毟(むし)っていた。
「痒いでしょうけど、今晩一晩だけは我慢して下さいね」
「我慢するったって、もっと他に方法がないのですか?」
「そうねェ……」
「あなたは頭がいいんでしょ。何か方法を考えて下さいよ。この痒さは凄くて、気がおかしくなりそうですよ」
「そんなに痒いの?」と言いながら、暫(しばら)く彼女は何か考えていた。
「ああ、そうだ。あれあれ……」と何か思い付いたようだ。
それは家庭で、入浴する際に用いる「家庭温泉」と銘打った『六一〇(むとう)ハップ』という、一般に薬店で市販されている薬品であった。既に、この薬品が、硫黄と生石灰で構成されていることを知っていたようである。
それが、自分の荷物の中にそれがあるらしい。直にそれを取り出して来て、洗面器に注ぎ、更にお湯で何倍かに薄めた。それにを脱綿を染み込ませて、
「これで塗布して上げますから、上半身裸になって」
私は彼女の言われる儘(まま)に裸になると、下腹には赤い斑点(はんてん)が幾つもあり、肩や肘や太腿は赤く腫れ上がり、傘蓋(かさぶた)になってゴツゴツしていた。斑点の上を、彼女から脱綿(だしめん)で性器以外を塗布して貰った。性器は彼女の見えない所で自分で塗布した。その後、自らの衣服を纏(まと)った。
暫(しばら)くすると、今までの踊り狂いたいような酷い痒さは不思議と止まったが、それでもまだ何処かチクチクと針を刺す様な痒みが疾(はし)る。
これで何とか一晩だけは我慢出来そうだ。痒みの和らぎと共に、昼間の謎が頭を持ち上げて来た。
「一つ質問をしてもいいですか?」
「どんなこと?」
「疥癬は伝染性の皮膚病なのに、どうして殺虫という医学用語を使うのでしょうなね。病気の治療なら殺虫ではなく、治療という用語が適当ではないかと思いますが……」
「それはねェ……、ちょっと待って下さい」再び鞄の中から医学辞典を取り出してきた。
「それに、もし殺虫だったら、虫刺されと同じようなものだから、免疫はつかない筈なのですが、免疫をつけた人がいるのです。あなたは蜂に刺された人が、再び蜂に刺されても、以前刺された免疫によって皮膚が腫れないと思いますか?
更に、蚊に刺された経験のある人が、蚊の飛び回る処で、蚊に刺されないと思いますか?
僕には、これを考えた場合、殺虫と免疫は、何処まで行っても平行線と思えますが、あなたはどう思いますか?どうです?
更に、大いなる宇宙の創造主である神は何故、疥癬虫のような昆虫を地球に誕生させ、人間に取り憑くように仕向けたのでしょうか?
彼等はどんな役割を帯びているのでしょうか?
疥癬虫は果たして、食物連鎖の関係から、人間の人体を分解する分解者なのでしょうか?
もし、そうだとすると、人間は分解されてどのようになってしまうのでしょうか?」
「もう!頭が混乱するから、そんなに一度に訊(き)かないで下さらない。あたくし、聖徳太子じゃないんだから。今、捜していますから……待って下さい」
私は彼女の懸命に医学辞典を捲(めく)る間、次の質問を控えた。
緻密かつ冷徹な頭に、何か閃(ひら)めいたようだ。
「解ったわ!これこれ。疥癬には大きく分けて二通りあります。
これによると、この病気にはアジア型疥癬と、更に強力なノルウェーイ型疥癬とがある。アジア型疥癬には東南アジア型疥癬とホンコン型疥癬がある。
身体に取り付くヒゼンダニの成虫の数は、アジア型疥癬及びホンコン型疥癬で約千匹以上、ノルウェーイ型疥癬では、約一万匹以上と言われている。
ノルウェーイ型疥癬は、ノルウェーイの医学者がこれを発見したので、ノルウェーイ型疥癬と名付けられた。
アジア型疥癬及びホンコン型疥癬は首から下に分布するが、ノルウェーイ型疥癬は頭部を含む全身に分布する。
ただし、ノルウェーイ型疥癬に感染した患者は、免疫がついて、再び感染しても、直に完治するとあるわ」
「つまり、アジア型疥癬及びホンコン型疥癬は免疫がつかないが、ノルウェーイ型疥癬だけは免疫がつくというわけですか?」
「その通りよ。またこれで一つ勉強になりましたわ」
「それなら僕に感染した疥癬はどちらと思いますか?」
「頭まで痒いの?」
「いいえ、主に首から下です」
「じゃあ、アジア型疥癬かホンコン型疥癬ですわ」
「それでは、アジア型疥癬かホンコン型疥癬のどちらと思いますか?」
「ええーッ?そんなこと知りませんわ。だって、あたしの専攻は小児科ですもの」
「子供だって疥癬に感染する筈ですよ」
「それ、あたしを困らせているつもり?!」冷ややかな目付きで睨(にら)まれた。
謎の解けた今、彼女に突っ込みを入れても無駄に思われたので、それから先の言葉を控えた。
この後、彼女のお節介が続いた。
「あッ!肝心なことを忘れていましたわ。何もかも、50度以上で熱湯消毒しなきゃね。さあ、着ているものを全部お脱ぎになって」
私の着ている服という服は、鶏が羽毛を毟(むし)られる様に全て剥(は)ぎ取られ、下着一枚を残して丸裸にされた。その儘の格好で部屋の片隅に立たされ、粗大ゴミか不用物のようにしばらく放置された。蒲団や毛布は全て熱湯消毒の対象となった。
彼女のお節介は、これだけに止まらなかった。
畳の表や板張りは、熱湯で何度も拭き取られた。洗えるものは熱湯で全て洗ってくれて、この場で簡単に洗えない大きな布団や毛布の類はクリーニング屋に彼女が頼んだ。
翌日、彼女の持ってきた薬を言われる儘、首から下の部分に塗ったら、一時間も立たないうちに痒みはピタリと治まった。この薬は農薬と同じものだから、二回以上は避けた方がいいと厳重な忠告を受けた。皮膚癌になる恐れのある、発ガン性の強い薬らしい。
結局彼女には、この病気は移らなかったらしい。(何と運の強い奴)と言うのが、私の正直な感想であった。
─────週間程たって、痒みを忘れた頃、山村師範の所を訪ねた。
私の顔を見た山村師範は、
「しっかり断食やっとるか?それにしては痩せた様子がないが……。以前に比べて一回り肥ったようじゃな」と、悪戯そうな口調で訊いてきたので、
「いいえ、断食は止めました。半年間この痒みに耐えて、自然治癒させる道を選びました」と冗談がましく答えてやった。
山村師範はこれを本気にとって、
「ほーッ、お前にそんな根性があったとは恐れ入った……」と首を捻りながら、少し呆(あき)れた顔をしていたが、実は由紀子の持ってきた薬で治しているとは夢にも思わないだろう。私の冗談を山村師範が本気にとって、呆(あき)れているのが、何とも愉快だった。
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