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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 35

ソクラテスは「汝自らを知れ」といった。
 「お前は他人のことよりも自分自身のことを反省せよ」
 アポロンの神殿に掲げられた標語である。

 よく考えると、難しい標語である。
 難しいのは、自分の非を棚に上げながら、その非の所在が何処にあるかも知らず、分らないままで、「自分を見逃す」ことである。自分を見逃すとは、他人を嘲笑った相当分の自分の非を見逃すということである。他人の非がそれだけ眼に付くということはそれ相当分、自分の非も他人から指弾されているということである。

 また、自分で自分が分らないのであるから、「知らない」とか「気付かない」というのは、それ自体に反作用が働いている事実を見逃していることである。
 遣り込めたはいいが、それ相当量の作用に対する反作用が自分の身に降り懸っていることを知らないことである。



●危ない綱渡りの果てに

 「虱」については、次ぎのような想い出があった。
 私が小学五年生の、嬉野から八幡に舞い戻った頃の話しである。私の母は、ある意味で民族や人種等に拘
(こだ)わらない人であった。裏を返せば人の不憫(ふびん)や哀れを知る人情の機微を大切にした人であった。

 ─────ある日のことである。
 当時母が、近所の貧しい朝鮮人の同級生の少女の長い髪を洗ってやるために、虱
(しらみ)採りの作業をしているのを、遠く、軒先から遠望したことがある。丁寧(ていねい)に虱を櫛(くし)で掬(すく)い、掬い取った虱を一匹ずつ石の上に乗せて叩いていたことを憶(おぼ)えている。
 午後の陽差しの逆光の中で、影絵のようなシルエットは、愛くるしい少女の長い髪を梳
(す)き、その光景は中々の風情と映ったことがあった。
 少女の癖のない長い髪の縁取りは、陽
(ひ)に透けて黄金色(こがね‐いろ)に輝いていた。
 その少女が何故、母と知り合いであったか知る由
(よし)もないが、その少女の家は、街の商店街を少し離れた河川敷(かせん‐じき)の近くにあり、母ひとり、娘ひとりの朝鮮人の母子家庭(在日朝鮮人であった父親は、朝鮮戦争に出征して戦死したとも謂(い)われる)であったことを憶えている。

 家業は河川敷の一劃
(いっかく)にほんの畳(たたみ)一畳(いちじょう)程の焼き薯(いも)屋を営んでいた。母は此処でよく焼き薯を買っていた。恐らくそんな事が、この少女と知り合う切っ掛けになったのであろう。
 また、その母子の衣服、殊
(とく)に少女の衣服はどこかみすぼらしく、哀れな態(さま)を見かねて、親戚中に手配して女物の衣類をかき集めていたことがあった。
 何故そうまでして、この少女に施しをするのか知る由もないが、私が嬉野にいた頃、病気がちな母は焼き薯屋を営んでいた、この母子に親切にされたのか、あるいは何かで助けて貰った
(命に関わる危険な状態の時に)ことがあるらしかった。
 もうそれだけで、母は人種や民族の垣根を超え、立派に隣人になる資格を相手に与えてしまうのである。それは母が育った、教育と環境と親の躾に根付くものであるらしい。まだ、日本がおかしくなる前の、戦前・戦中の家長制度がはっきり根付いていた時代のことである。
 母方の祖母は武家の出で、それを鼻にかけるような人ではなかったが、また、こうした階級の出身者には良くある、「○○とは氏
(うじ)も素性(すじょう)も違います」などと、為来(しきた)りを、とやかくいう人ではなかった。
 元は平戸藩の造船奉行の家系であったと言うが、先祖の事を自慢したり、そうしたことは一言も云うような人とではなかった。そうした祖母の気性を受け継いで、母も育ったのだろう。
 私はこうした家系を自慢しない、祖母を偉い人だと思い、母に対してもそのように理解していた。
 そうでなければ、また氏も素性も違う貧困な朝鮮人の母子など相手にする筈がなかった。

 当時、北朝鮮のイメージは秘密のベールに包まれ、異民族としての排他的感情は根強く、朝鮮人と口を聞いたり、接触することは憚
(はばか)られた時代であった。しかし、母はそれを気にする人ではなかった。
 何かの縁が隣人と成す、その縁を大切にする人であった。何度かその少女は、私の家に上がり込んで衣服の丈
(たけ)を合わせたり、お菓子を貰って食べていたことを見掛けたことがあった。

 昭和33年の台風のときである。この母子の掘建て小屋のような小さな家が台風で壊れたことがあった。
 私はその壊れた様子を一人で見に行ったことがあった。その場所にどれだけの時間、居たか分からないが、ただ呆然
(ぼうぜん)と見つめ、立ち竦(すく)んで居たことを憶(おぼ)えている。
 なぜ私が、その少女の家に行ったかはっきりとした理由は憶えていないが、おそらく母が梳
(す)いてやっていた、あの癖のない黄金色(こがねいろ)に光った長い髪を見たかったからであろう。

 家の周りは、衣類やその他の粗末な寝具等が散乱していた。
 簡易造りバラックの掘っ立て小屋は無慙
(むざん)に倒壊していた。無慙と形容する以外ない酷い毀(こわ)れ方だった。
 煉瓦
(れんが)や置き石を載せたトタン張りの屋根は吹き飛び、家全体が菱形(ひしがた)のように押し潰されて横倒しになっていた。辺りには室内の粗末な調度品が散乱していた。
 室内と外を隔てる壁は、ゆうに半分以上を失い、見るも無残だった。その中で少女は、母親とともに後片付けしていたが、あの日、母がいつもその長い髪を櫛
(くし)で梳(す)いてやっていたあの長くて美しい髪は、風に解(と)かれて、無残に散っていた。
 少女は長い頭髪を振り乱して、半狂乱になり、泣きながら後片付けをしているのを、私は、何か一つの大きな衝撃として、印象的に憶えている。
 振り乱した少女の髪は、時々襲ってくる突風に乱れて、その度に飛ばされて乱れた。その解かれ方、散り方に一定の法則があるのではないかとさえ思うほど不思議な生き物でも見ているようであった。
 私はこの光景を、正直言って美しいとさえ思った。
 呆然
(ぼうぜん)と立ち竦(すく)む私は、ときどき少女と眼が合ったが、彼女の少し目尻の吊り上がった、大陸人特有の勝ち気な眼は、何もしない私を恨むでもなく、ただ泣き腫(は)らせて悲しそうであった。
 今にも「アイゴー
(aigo)」と声を発しそうであった。
 いま想
(おも)えば、あれは私に何かを訴える哀願の眼であったかも知れないが、その意図は定かでない。

 その少女が母親とともに、「地上の楽園」と称された北朝鮮に帰って行ったのは、それから間もなくのことであった。当時の朝鮮総連は日本共産党と友好関係にあった。こうした関係が、在日同胞を、次々に北朝鮮へと送り出していた。
 日本から北朝鮮に渡った者を「帰国同胞」と言い、それを縮めて「帰胞
(キッポ)」と呼ばれて蔑(さげす)まれるそうだが、しかし血統(出生成分)を第一に重視する北朝鮮に帰ったとて、決して幸せな生活は送れる筈がなかった。彼女は日本に居た時よりも、差別され、更に酷い扱い方をされているに違いない。
 当時のことだが、二十歳
(はたち)過ぎた今、彼女は彼(か)の国で、どうしているだろうか。


 ─────DDTの白い粉を思う時、虱と長い髪を思い出し、私は直ぐにあの少女の長い髪が私の母の手によって奇麗に梳
(す)かれ、その梳かれた髪が、あの台風の日、風に解かれて散って、美しく天に舞い上がっている、あの時の記憶が鮮やかに蘇(よみがえ)ってくるのであった。
 ふと、山村師範の《DDT》という言葉から、こんな事を思い出していた。

 「お前、何処か汚い所で寝たじゃろが?」
 山村師範のこの問いかけに、はッとして我に帰った。
 「そう言えば、あの時……」
 「やっぱり、そうか」
 「では、治すにはどうすれば良いのですか?」
 「そうじゃなァー……」と語尾を引きずり、先ず勿体
(もったい)付けた。また、これがこの爺さまの意地悪な一面である。
 (勿体ぶらずに早く言え)と、気持ちが逸(はや)った。
 「それはどうしたら?……」と問うた質問に、咳払いを払って、
 「まあ、そうじゃな」
 「?…………」
 「そうじゃなァー……、気長に二十日間程、軽い断食するか……」

 (なに?……)「二十日間も……」
 「それとも……」悪戯小僧のように面白半分の眼を投げかける。
 「それとも?
(なに?……)」私はとにかく先が知りたいのである。
 「まあ、落ち着け。実はじゃなァ……」そう言って言葉を切った。
 これをまともに聞くと碌
(ろく)なことがない。とんだとばっちりを啖(く)う。ほどほどに聴いて、あとは抜ける。人生道である。
 爺さまは時として、要注意人物ならぬ超危険人物になる。

 私は「事は急を要するのです」という哀願するような眼を投げた。
 それに応えて、これで許して遣るか、というような口調で、
 「半年間、その儘
(まま)放置してじゃなア、辛抱強く、その切ない痒さにじっくり耐えることじゃ。やがて白血球の働きで自然治癒(ちゆ)する筈じゃ。しかしそれは随分と切ないぞ。ホーホー」と、意地悪な目で、笑顔さえ泛(うか)べて笑い始めた。
 何と云う爺さまだと思いながら、「半年も……」と項
(うな)垂れた。
 この時、一つの疑問が生まれていた。
 何故、疥癬
(かいせん)という伝染性皮膚病に対して、「治療」ではなく、「殺虫」と言う医学用語をあえて用いるのは何故であろうかと思ったことだった。
 病気であれば、それを治すには、治療が必要であり、何も殺虫という言葉を用いなくてもいい筈である。それとも単に、用語の使い方の誤りであろうのか。
 山村師範の話では、確か30分も立たないうちに伝染すると言っていたから、山村師範にも伝染しているのではないかと、その真意に鎌を掛けてみた。

 「先生には伝染しないんですか?」
 「儂
(わし)は免疫が出来とる!」
 「えッ!免疫?!」
(何と丈夫な爺さんだ)と思った。
 「それよりも、もしかしたら、お前の女に、既に伝染しとるのと違うか。小娘に伝染しとったら大変なことになるぞ。疥癬は三十分で次々と伝染する。全身に回って、手遅れにならないうちに、小娘に早急な忠告が必要だぞ」と、脅し半分に、ニヤリと笑ったような言い方をした。
 絶対に知られてないと思っていたが、既に山村師範は由紀子のことを知っていた。
 小娘という以上、知っているのだ。
 何処で由紀子のことを嗅ぎ付けたのだろうか。それとも千里眼か、この爺さまは……。
 そして解明できない、一つの疑問に、ある思索が浮かび上がった。
 それは一度、蜂
(はち)に刺された人が、もう一度蜂に刺されても、皮膚に腫(はれ)れや炎症(えんしょう)を起こさないだろうか?ということであった。
 幾ら免疫があったとしても、病原菌に対しての免疫と、虫刺されとは全く違う筈である。
 どうも、「殺虫」と云う言葉と、「免疫」と云う言葉は平行線のように思えるが、これが一つの謎として、私の脳裡を渦巻き始めた。
 しかしそれにつけても、とんでもない病気を移されてしまったものだ。
 欲に転んだ日雇仕事は、半分以上も給料をピン跳ねされた挙げ句、タクシー代で殆ど消え、とんでもない伝染病まで背負い込こむ羽目
(はめ)となった。
 危ない綱渡りは意外な結末となって、わが身に跳ね返って来たのである。
 そう思いながら、疥癬の恐怖に脅
(おび)えて居ると、「一つだけ良い方法があるぞ」と、絶望感から抜け出せるような言葉を、山村師範は呟(つぶや)いたのである。

 「えッ?それは……一体、どんな事ですか?是非
(ぜひ)教えて下さい!」迫るように訊いた。
 「ドクダミ風呂に入ることじゃ。乾燥したドクダミ200g程を布袋に入れて、それをじゃなア、風呂の中で炊き込む。更に、それを高温で十分に煎じた後、一旦火を落とし、冷えるの任せて、丁度頃合いの温度になった頃、風呂に入り、毎日一時間程度、これを一ヵ月間くり返す事じゃ」

 (こりゃぁ駄目だ!)この話を聞いて、更に絶望的になった。何故ならば、うちには風呂がないのである。
 私の困り果てている顔を見て、「なんなら、儂
(わし)の所の五右衛門風呂を貸さんこともないがァ……」と語尾を曳(ひ)き、その言葉に中には、眼光鋭い中にも人の足許(あしもと)を見るような一抹(いちまつ)の冗談めいた意味が含まれていた。その眼差しは、私の弱みに付け込んだものであった事は明白であった。
 「本当ですか?」
 「しかし、なァー」と更に語尾を長引かせ、気持ち悪くニヤリと笑った。
 それは困窮者?への憫笑
(びんしょう)の笑いだった。何か交換条件がありそうだ。
 (例の良からぬ悪癖が始まったのでは?)という気持ちが、その爺さまの眼差しにありありと窺(うかが)えた。
 「しかし?……」その魂胆を想像した。
 「儂のなァ。……稽古相手のなァ……、ちょっとした《的》になることが、その条件じゃがァ……」と細切れに、覗き込むように言い、妙に何かを仄
(ほの)めかすように勿体ぶった。《的》と聞いてドキッとした。
 (この爺さん、一体何を考えているのだ?)とあらぬ穿鑿(せんさく)が趨(はし)った。
 まさか以前の悪い性癖が再発して、《また私を玩具
(おもちゃ)にするのでは?》と言う厭な不安が脳裡(のうり)を翳(かす)めた。
 「どうじゃ?この辺で手を打ってみては……」と人の足許
(あしもと)を見透かした眼を投げた。
 「手打ちしないといけないのですか」
 「そうじゃ、単純明快なる手打ち。これ以外あるまい?」
 「ドクダミ入りの五右衛門風呂に入って一ヵ月懸かるなら、断食して二十日間の早い方を選びます」
 「ほーッ、よくもぬかしおった。お前に二十日間の断食が、果たして出来るかな?」
 「出来ますとも」
 「じゃあ、痒みにじっくり耐えながらやってみることじゃ……。とにかく失恋したときのように、しくしくと切ないぞ」
 冷たくあしらわれたのはいいが、何とも“失恋したときのように、しくしく”の形容は、あまりにも露骨であった。こう言われて、この場を去ったが、痒みに耐えることが如何に耐え難く、かつ苦しいか、このとき始めて分かったのである。まさに、しくしく、切ないのである。その痒さが。


 ─────その日の夕刻、由紀子の来るのを待って、彼女に早速訊
(たず)ねてみた。
 「何処か痒くありませんか?」
 「何処かって?」
 「躰
(からだ)ですよ」
 「躰って?」
 「例えば、お美しいお御足なんかが?」
 「まあッ、失礼なこと言わないでよ!」
 ピシャリと叩かれたような返事が返ってきた。
 私は思わず、「これは失礼しました」と深々と頭を下げていた。
 「あなたと違って、あたし毎日お風呂に入っているんだから……。何故そんなこと訊くの?」
 「伝染病に感染しました」
 「えッ?伝染病って?」
 「疥癬
(かいせん)です」
 「疥癬……?」
 「こんな病気の名前も知らないんですか?あなた医者でしょ?」
 「ええッ?……、まあ、一応は……」と、心もとない曖昧
(あいまい)な返事をしながら、「医者の卵だと言っても、何もかもオール・マイティーじゃないんですからねェ……。言っときますけど、あたしの専攻は小児科ですの」と、一見怒ったような言い訳がましいいことをいって、急いで自分の大きな鞄の中から医学辞典を取り出た。そして、それを素早く捲(めく)り始めた。あたかも分厚い辞書を引くようにであった。

 「あッ、これこれ、ありましたわ。この病気ね。なるほど、病院の入院病棟や集団生活をする場所で感染する伝染性皮膚病のことですね。ヒトを固有宿主とする疥癬虫
【註】Sarcoptes scabiei var.hominisによる感染性皮膚疾患)、つまり節足動物門蛛型網ダニのヒゼンダニが皮膚の表面に寄生することによって起こる湿疹(しっしん)で、指の間、腕や脇、肘関節の内側部分や下腹及び内股部分、更に性器までと書いてあるわ。また動物には取り憑(つ)かず、ヒトにだけ取り憑くともあるわ。きっと、ヒトの体温と関係がありそうね。人体を離れると、熱には弱く25度では三日間、12度では二週間、50度の熱湯に浸すと約10分間で死滅するとあるから熱湯消毒が必要ね。それから……えッーと、何々それから……」と前置きの講釈が長かった。
 「そういう前置きは結構です」
 「でも、聞くものです!」
 「ええッ〜、長ったらしい前置きを聴かなければならないのですか?」
 「あなたは黙って清聴する。それ以外、他にありますか」
 「言われれば、ご尤もで。主導権は、そちらでしたね」
 「では、よく聞いて下さい。有難い講釈を致しますから。
 さて、医学事典によりますと、『肉眼では観察できないから、感染の疑いのある患者の皮膚の表面を一部摘出して、顕微鏡でその生息を確かめ、その有無を診断する。なお、ヒゼンダニは硫黄成分に弱く、幼虫や卵は殺虫出来ないが、成虫は硫黄で殺虫出来る』とあります。なかなかいい書き出しですね。
 それから何々……『医薬用として疥癬虫を殺虫するには安息香酸ベンジルという速効性薬剤を用いる』とあるから、つまり農薬に似た非ホルモン系の殺虫剤で殺虫するわけね。一つだけ良い勉強になりましたわ」
 「良い勉強になった等と、落ち着いている場合じゃありませんよ」
 「でも、心配はいりませんわ。明日、うち病院の皮膚科から、ここに書かれたお薬貰って来てあげますわ」
 当時は医薬分離の前であり、同病院内の診療科が違っても、医師であれば、薬などは薬剤師を通さずとも融通性があった。無法と言うより、医術の世界は今よりもずっと自由であったのである。

 「一体、そんな薬で、この切ない痒さが治るのですか?」
 「治りますとも、ここに書いてあるんですから。首から下の足まで、お薬を全身に着けると、ほぼ一日目で痒みが止まり、一週間目で消滅します。更に、二週間程経過すると、ヒゼンダニの潜り込んだ皮膚が、フケが落ちる様に剥
(は)げ落ちてきます。これによると、全治二週間と言う所かな……」
 「それ、本当ですか?」
 「と、これには書いてありますわ」
 「たく、頼りないんだから、まいったなァー」思わず頭を掻き毟
(むし)っていた。
 「痒いでしょうけど、今晩一晩だけは我慢して下さいね」
 「我慢するったって、もっと他に方法がないのですか?」
 「そうねェ……」
 「あなたは頭がいいんでしょ。何か方法を考えて下さいよ。この痒さは凄くて、ちくちくして、気がおかしくなりそうですよ。そしてもう一つあます……」
 「なあに?」
 「切ないのです、しくしくと」
 「そんなに痒いの?」と言いながら、暫
(しばら)く彼女は何か考えていた。
 「ああ、そうだ。あれあれ……」と何か思い付いたようだ。

 それは家庭で、入浴する際に用いる「家庭温泉」と銘打った『六一〇
(むとう)ハップ』【註】現在この温泉薬は、呑んで自殺する者が殖えたため、発売禁止になっている)という、一般に、薬店で市販されている薬品であった。既に、この薬品が、硫黄と生石灰で構成されていることを知っていたようである。それが、自分の荷物の中にあるらしい。
 直にそれを取り出して来て、洗面器に注ぎ、更にお湯で何倍かに薄めた。それに脱綿を染み込ませて、「これで塗布して上げますから、上半身、裸になって」と促された。
 私は彼女の言われる儘
(まま)に裸になると、下腹には赤い斑点(はんてん)が幾つもあり、肩や肘や太腿は赤く腫れ上がり、傘蓋(かさ‐ぶた)になってゴツゴツしていた。斑点の上を、彼女から脱綿(だしめん)で性器以外を塗布して貰った。性器は彼女の見えない所で自分で塗布した。その後、自らの衣服を纏(まと)った。
 暫
(しばら)くすると、今までの踊り狂いたいような酷い痒さは不思議と止まったが、それでもまだ何処かチクチクと針を刺すような痒みが疾(はし)る。
 これで何とか一晩だけは我慢出来そうだ。痒みの和らぎと共に、昼間の謎が頭を持ち上げて来た。
 「一つ質問をしてもいいですか?」
 「どんなこと?」
 「疥癬は伝染性の皮膚病なのに、どうして殺虫という医学用語を使うのでしょうね。病気の治療なら殺虫ではなく、治療という用語が適当ではないかと思いますが……」
 「それはですねェ……、ちょっと待って下さい」再び鞄の中から医学辞典を取り出してきた。
 「それに、もし殺虫だったら、虫刺されと同じようなものだから、免疫はつかない筈なのですが、免疫をつけた人がいるのです。あなたは蜂に刺された人が、再び蜂に刺されても、以前刺された免疫によって皮膚が腫れないと思いますか?
 更に、蚊に刺された経験のある人が、蚊の飛び回る処で、蚊に刺されないと思いますか?
 僕には、これを考えた場合、殺虫と免疫は、何処まで行っても平行線と思えますが、あなたはどう思いますか?どうです?更に、大いなる宇宙の創造主である神は何故、疥癬虫のような昆虫を地球に誕生させ、人間に取り憑
(つ)くように仕向けたのでしょうか?果たして彼等は、どんな役割を帯びているのでしょうか?
 疥癬虫は食物連鎖の関係から、人間の人体を分解する分解者なのでしょうか?
 もしそうだとすると、人間は分解されてどのようになってしまうのでしょうか?」
 「もう!頭が混乱するから、そんなに一度に訊
(き)かないで下さらない。あたくし、聖徳太子じゃないんだから。いま捜していますから待って下さい」
 私は彼女の懸命に医学辞典を捲
(めく)る間、次の質問を控えた。

 緻密かつ冷徹な頭に、何か閃
(ひら)めいたようだ。
 「解ったわ!これこれ。疥癬には大きく分けて二通りあります。
 これによると、この病気にはアジア型疥癬と、更に強力なノルウェーイ型疥癬とがある。アジア型疥癬には東南アジア型疥癬とホンコン型疥癬がある。身体に取り付くヒゼンダニの成虫の数は、アジア型疥癬及びホンコン型疥癬で約千匹以上、ノルウェーイ型疥癬では、約一万匹以上と言われている。ノルウェーイ型疥癬は、ノルウェーイの医学者が、これを発見したので、ノルウェーイ型疥癬と名付けられた。アジア型疥癬及びホンコン型疥癬は首から下に分布するが、ノルウェーイ型疥癬は頭部を含む全身に分布する。
 ただし、ノルウェーイ型疥癬に感染した患者は、免疫がついて、再び感染しても、直に完治するとあるわ」
 「つまり、アジア型疥癬及びホンコン型疥癬は免疫がつかないが、ノルウェーイ型疥癬だけは免疫がつくというわけですか?」 
 「その通りよ。またこれで一つ勉強になりましたわ」
 「それなら、僕に感染した疥癬はどちらと思いますか?」
 「頭まで痒いの?」
 「いいえ、主に首から下です」
 「じゃあ、アジア型疥癬かホンコン型疥癬ですわ」
 「それでは、アジア型疥癬かホンコン型疥癬のどちらと思いますか?」
 「ええーッ?そんなこと知りませんわ。だって、あたしの専攻は小児科ですもの」
 「子供だって疥癬に感染する筈ですよ」
 「それって、あたしを困らせているつもり?!」冷ややかな目付きで睨
(にら)まれた。

 謎の解けた今、彼女に突っ込みを入れても無駄に思われたので、それから先の言葉を控えた。
 この後、彼女のお節介が続いた。
 「あッ!肝心なことを忘れていましたわ。何もかも、50度以上で熱湯消毒しなきゃね。さあ、着ているものを全部お脱ぎになって」
 私の着ている服という服は、鶏が羽毛を毟
(むし)られる様に全て剥(は)ぎ取られ、下着一枚を残して丸裸にされた。その儘の格好で部屋の片隅に立たされ、粗大ゴミか不用物のようにしばらく放置された。蒲団や毛布は全て熱湯消毒の対象となった。
 彼女のお節介は、これだけに止まらなかった。
 畳の表や板張りは、熱湯で何度も拭
(ふ)き取られた。洗えるものは熱湯で全て洗ってくれて、この場で簡単に洗えない大きな布団や毛布の類はクリーニング屋に彼女が頼んだ。
 翌日、彼女の持ってきた薬を言われる儘、首から下の部分に塗ったら、一時間も立たないうちに痒みはピタリと治まった。この薬は農薬と同じものだから、二回以上は避けた方がいいと厳重な忠告を受けた。皮膚ガンになる恐れのある、発ガン性の強い薬らしい。
 結局彼女には、この病気は移らなかったらしい。
(何と運のいい奴)と言うのが、私の正直な感想であった。


 ─────何週間か経って、痒みを忘れた頃、山村師範の所を訪ねた。
 私の顔を見た山村師範は、
「いいえ、断食は止めました。半年間この痒みに耐えて、自然治癒させる道を選びました」と冗談がましく答えてやった。
 山村師範はこれを本気にとって、「ほーッ、お前にそんな根性があったとは恐れ入った……」と首を捻りながら、呆
(あき)れた顔をしていたが、実は由紀子の持ってきた薬で治しているとは夢にも思わないだろう。
 私の冗談を山村師範が本気にとって、呆れているのが、何とも愉快だった。



●安政塾

 疥癬騒動が終わって暫
(しばら)くしてのことである。
 私は由紀子を誘って、田舎の風景を愉しみに『安政塾』に行ったことがあった。その時のことである。
 此処を訪問したのは今回が二回目であり、昭和47年頃であった。その後も、度々訪れ、その後も約3年間続いた。昭和50年頃まで続いたのである。
 事あるごとに訪れて「道」を訊く。方向性を訊く。よく塾長の千葉先生の貴重な経験譚を聴かせて頂いたことがあった。先生との邂逅
(かいこう)以来の習慣である。何度も足を運ばせるほど魅力的な人物だった。
 それは単なる話を聴くのではなく、あたかも大学で講義を聴講するという感じで聴いたものである。言わば私は、この塾の特別聴講生のようなものだった。

 二回目のときは、晩春の四月半ば過ぎであったろうか。桜は既に終わり、田圃には、一面、蓮華草の紅紫の絨毯で一色だった。そろそろ田植えが始まる時期である。
 由紀子の手造り弁当で出掛けた。この日、彼女は休みだった。
 通い妻の彼女しては、この日、朝早く出てきて弁当を作り、それを抱えて、足取りも軽くという感じで、二人で出掛けたのである。
 この日の足は、彼女の車に頼らず、公共機関を利用した。同乗させてもらうと碌なことがない。
 国鉄で八幡駅から鹿児島本線を下り、遠賀川駅で超ローカルな鞍手線に乗り換え、終点の鞍手駅まで向かうのである。鹿児島本線は折尾駅を越えた辺りから、風景が一変し、田園風景に早変わりする。
 この田園風景は途中の水巻・遠賀川・海老津・赤間・福間・東郷・古賀……と続き、博多の一つ手前の吉塚くらいまで続くのである。遠賀川周辺ともなれば、一面に筑豊平野が広がり、田圃また田圃であった。
 この路線はかつて、大学時代に通い馴れた鹿児島本線であった。

 さて、高校の頃に話を戻す。
 私が高校の頃、福岡・博多・筑豊・筑後地域では、この頃になると、「田植休暇」と言うのがあった。
 家が農家だったり、農家に手伝いに行くアルバイトであれば、この時期に限り、学業日であっても欠席とはならなかった。授業に出ていないでも、誰かが「田植えです」といえば、それで赦
(ゆる)された。
 教師は授業の最初に出席を取るが、例えば教師が「赤星」と呼べば、誰かが「田植えです」と答える。それで赦されたのである。
 この頃、日本は未だ「百姓国家」であった。そのために、当時は田舎者に対して「百姓やのう」という侮蔑語があった。博多でも、この侮蔑語は大いに流行
(はや)った。
 地方出身の朴訥
(ぼくとつ)な者は田舎者であり、田舎者はみな「百姓」にされた。
 その、百姓時代の頃である。
 教師はそれを知らず、「青木」「田植えです」、「井上」「田植えです」、「上田」「田植えです」などと順に、渡辺あたりまで行くのであるが、その半分以上が総て「田植えです」で済まされてしまうのである。
 私も御多分に漏れず「田植休暇」を大いに利用させて頂いた。級友に頼んで、「田植えです」と言わせたのである。この巧いシステムを、私が見逃す訳がない。

 教師が「岩崎」と呼んだ。
 そこで、すかさず「田植えです」と依頼者が返事してくれる。
 すると教師は「おい、本当に岩崎の家は百姓か?」と疑われたことがあった。
 だが、恃
(たの)んでおいた級友も頭が回る。小賢しい弁明を用意している。それだけに割増料金だった。
 「本当です。根っからのどん百姓です。岩崎は母ひとり、子ひとりの母子家庭です。それで、この時期になると田植えで忙しく、約一ヵ月ほど田植えの連続です」と見てきたようなことを抗弁する。
 すると、教師は「それは大変だ。私も農家なので、母ひとり、子ひとりの百姓の辛さはよく知っている。私も休んで田植休暇を貰って岩崎の家に手伝いにいくか」という、大変な人騒がせになったことがあった。
 このとき“代返”を恃んでいた級友が逸早く報せてくれたからいいものの、もし知らなければ、あとで大目玉を喰らっていたことだろう。下手をすれば退学になっていたかも知れない。
 勿論、私の家は農家なのではない。田植えなど皆無である。しかし一度、田植えのバイトに行って、たった一日で足腰が立たないほど筋肉痛になってしまった事があった。これまで、田植えという仕事を甘く見ていたのである。
 当時は既に耕耘機などの耕作機械があったが、それでも手作業の田植えが主流であった。
 大学の頃になって、やっと耕耘機などの工作機械が普及して来るのである。この頃になると、耕耘機を牽引仕掛けにしておいて、乗用車代わりに乗り付けて来る学生もいた。時には、牽引したリヤカーに肥桶を積載したままでである。今日は莫迦に肥溜め臭いと思っていたら、肥桶の中に糞尿を汲み込んだままだった。

 「あのッ、ひとつ疑問がありますの」由紀子が訊いた。この話の疑問点を関してである。
 「なんで、ござんしょ?」
 「岩崎君のお父さま、八幡製鉄にお勤めでしたでしょ。田圃など持っていなかったわよねェ」
 彼女は時として、「あなた」から「岩崎君」に変わることがある。
 特に疑わしくなると、決まって「岩崎君」だった。私への懐疑の呪縛は解けていなかった。これまで、一歩近付いたと安堵すると、またこのように、一歩突き放すのである。斯くして挑発に乗るしかなかった。
 「そうです、桜井さん」
 私もお返しをする。苗字で呼び返し、応戦することになる。
 「お母さまも、普通の主婦でしたわよね?」
 「そうです」
 「お母さまって、どういう家の人だったの?」
 「まァ、平戸の網元の娘でして、百姓とは無縁で、箸より重たい物を持ったことがありません。そのため躰が弱くて、僕は親許を離れて親戚中を盥回しでした」
 「それはよしとして、高校の先生が、岩崎君のお家
(うち)に訪問に来なかったの?」
 「来ましたよ」
 「そのとき、どう躱
(かわ)しましたの?」
 「そりゃァ、頭を遣って見事に躱しましたよ」
 「それで高校の先生、納得したの?」
 「勿論です」要するに“見事に躱した”と言いたかった。
 「どう躱したか、教えて下さらない?」
 「しかし、言いたくありません」人間はそう言うときもある。彼女に通じるだろうか。
 「でも、最初の件
(くだり)だけでも……」恃(たの)むように強請(ねだ)る。
 「代役。つまり柳川から来ている級友に急遽、俄農家を作ってもらって、その家の子に成り代わりました」
 「あなたの悪巧み、どこまでも無尽蔵なのですね」呆れ顔で言う。
 「その代わり、おつりも確
(しっか)り取られましたよ」
 「おつりって?」
 「代償、代償ですよ。つまり作用に対しての反作用。この世は何事も、最後は代償を払わされて、プラス・マイナス・ゼロですからね。一方的、プラスになったり、マイナスになったりすることはありません。最後の帳尻はゼロで確り辻褄が合っている。この世の掟です」
 「でも、代償って、どんな?」
 「一口で言えないなァ」
 「じゃあ、二口では?」畳み掛けるように訊いて来る。
 「二口でも、三口でも無理です」
 「どうしても?」
 「何でも隠さずに話したいのはやまやまですが、その質問だけは答えられません。この話、ここで打ち切ります」
 「なんだ、つまんない」

 高校の時分、教師が出席をとるとき、「岩崎」といわれて、「田植えです」と代返させたことが懐かしく、田園風景を見ながら回想するのだった。
 この話を、ローカル線に乗り換えて鞍手駅に着くまでの間、由紀子にしたら、即座に「悪いやつ」と返事が返って来た。そして、また蒸し返してきた。方法論の切り口を転換させたのである。巧妙だった。
 「一ヵ月も田植休暇を貰って、何していたの?」と訊くから、「勿論、家が貧しいから、朝から晩までバイトですよ」と答えた。
 興味津々の彼女は、次々に質問を浴びせ掛けたのである。
 「どんなバイト?」と訊いてきた。鋭いところを衝く。
 「朝は新聞配達と牛乳配達、昼は道路工事の土方で肉体労働、それが終わって夕刊の新聞配達、夜は夜で割烹料亭で板前見習、そこが跳ねて、プール・バーで翌朝までバーテンダー」
 「凄いわね。それで、いつ寝ますの?」と鋭い突っ込みを浴びせ掛けた。
 そもそも24時間、休み無く働き続けるバイト人間に疑いを持ったのだろう。
 「えッ?……」
 「だから、いつ寝るの!」と畳み掛けて来る。
 「?…………」
 私は当惑して返事に窮した。
 「本当は、田植休暇などと言って、どこで、何をしていたのです?!」
 それは穿鑿というより、厳しい叱責に近かった。全貌を暴露しようとしていた。彼女の興味津々は尽きないのである。しかし、これは答えられない。答えても遣らない。

 一ヵ月の田植休暇を貰って、嬉野温泉の姉の置屋に転がり込んで、芸者を挙げてドンチャン騒ぎをしていたのである。これまで貯め込んだ金を、ここ一番と、散財すのである。しかし、これは告白できない。
 これが知れれば、決して「悪いやつ」だけでは済まされない。烈しい罵倒と叱責とが飛ぶだろう。以後、即絶交だろう。おそらく高校生の分際で、“芸者を挙げてドンチャン騒ぎ”というのは、如何に弁明しても理解してもらえない筈だ。
 延々と続く筑豊の田園風景を観賞しながら「素敵ねェ、この牧歌的風景……」と感嘆しているのに、“芸者を挙げてドンチャン騒ぎ”は絶対に認めないであろう。
 一晩、数人の芸妓を挙げて遊び呆ければ、当時でも一回の花代で「金壱拾萬円也」
【註】花代は水引の熨斗袋に入れて、表に「金○○萬円也」と書くのがこの世界のルール)は下らなかった。そういう浪費をしながら、どこが貧しい?と問われれば、全くの弁解の余地がない。果たして、私は貧しかったのだろうか。
 田植休暇を「代返」で切り抜けていた、あの頃のことを思い出しながら、田圃一面に覆い茂った蓮華草
(れんげそう)を見て当時のことを思い出していた。しかし、いつ思い返してみても、一ヵ月の田植休暇が悔いのないほど愉しかったかと言えばそうでもない。いってみれば束(つか)の間(ま)のことだった。束の間の桃源郷であった。その桃源郷の中で、ときどき幻覚を見た。
 姉の家は置屋であり、芸者衆が出入りする。その芸者衆に、ふと千代の姿を見ることがあった。
 勿論、幻覚であろうが、生き写しのような後ろ姿を見ることがあった。そのときに限り、千代が自分の眠る地下の幽界から舞い戻って来たのではないかという戦慄すら覚たのである。そのため、いつしか千代の写真が飾っている仏間を通り抜けることが、何となく憚れるようになっていた。入ってはならない結界域のようになっていた。
 人にはそれぞれに古疵があるものである。その疵は出来るだけ触られたくない。私は叩けば埃
(ほこり)の出る躰だった。悪しき黴菌が舞い上がって来る。そういうものは、静かにそォーッとしておくものである。
 田植休暇には、人に言えない私の恥部が横たわっていたのである。

 遠賀川駅から鞍手線の終点の鞍手駅まで、おおよそ一時間ほどであろうか。
 この路線は単線であり、一日に数本で、二時間おきくらいに単線を往復している。本数も少ないが、それだけに田園風景は哀愁のあるものであった。忘れかけている日本の故郷を思い出せてくれる風景であった。
 この時代、地方の急速な都会化は進んでいたが、まだこの当時は、こういう片田舎は昔の日本の田園風景だった。農耕民族の証
(あかし)が濃厚に残っていた。
 この日はよく霽
(はれ)て、何とも長閑(のどか)であった。幽(かす)かに初夏の匂いを感じさせ、田圃の至る所では田植えが始まっていた。その田園風景を見ながら、二人で『安政塾』までテクテクと歩いた。駅から徒歩で40分ほどであろうか。天気もいいし、急ぐ事ではなかった。そこら辺を道草しながら、ゆっくり歩いても一時間ほどであろう。
 私は由紀子の作ってくれた手弁当の入ったバケットを持ち、彼女は小脇に手土産の茶箱が入った風呂敷包みを持っていた。彼女の出立ちは、ショルダーバックを方に掛け、薄いピンクの日傘を差し、相変わらず当時流行の、中が覗けそうなミニスカートを履いていた。病院では注意されなかったのだろうか。
 これで患者の眼の毒にならないものと余計で不埒
(ふらち)な心配をした。あるいは眼の保養か。
 だが、流行だから仕方ない。当時は、世の中全体が老いも若きも、ツイッギー
(英国の女優)以来の流行に汚染されていた。

 一面、田園風景である。
 民家は少ないが、遠くには藁葺
(わらぶ)き屋根のがっしりとした堅牢(けんろう)な家が見えた。あたかも豪農を思わせた。その家の脇には白壁の土蔵があった。この家は倉持の家であった。
 かつては、今日訪れる千葉先生の先祖も、名字帯刀を許された豪農と聴いたことがあった。この辺り一体の大地主と聴いていた。

 「蓮華草って、畑に敷いた絨毯
(じゅうたん)みたい。素敵な風景、そう思いませんこと?」
 一面に蓮華草だった。春は花……というが、上を見れば空があるばかりだった。感嘆の青空であった。柔らかな晩春の陽の光が燦々
(さんさん)と降り注いでいた。実に気持ちがいい日であった。
 「はあ、いいですね、雲雀
(ひばり)もさえずって。雲雀の声すら、既に田園詩です」
 「ヒバリっていう漢字、『告天子』とも書くと、知ってました?」
 「ほォ……ッ、天子のお告げですか……。いいですね」
 「だからね、哭
(な)き声は、『一升貸して、二斗取る、利取る、利取る……』と聴こえるんですって、ご存知でした?」
 「いえ。しかし、まるで、高利貸しの複利ですね」些か揶揄気味に言った。
 「ん、まあッ」と呆れたように切り返して来た。
 「一升貸して、二斗取る……なんて、これは複利よりずっと凄い。もしかすると、雲雀って鳥は、凄い利息計算が出来る数学者かも知れませんよ」
 「岩崎君の話、聴いていていると、徹頭徹尾、直ぐにお金に結びつけてしまうのですね、頭の中は利息計算で一杯なんでしょね?」と、私を金の亡者のように言う。
 そして、呼称が再び「岩崎君」に戻っていた。私への懐疑は、時として発作的に襲って来るらしい。

 「岩崎は、それほどでもありません。不肖ながら、NASA
National Aeronautics and Space Administration/アメリカ航空宇宙局)の数学者には遠く及びません」
 「NASAって、アメリカの惑星探査計画や惑星などの宇宙科学の研究をしている宇宙センターのこと?それと利息計算と利息計算がありますの?」
 「デリバティブ
(derivative financial instruments)って、ご存知ありませんか。債券や株式などの本来の金融商品から派生した金融商品のことです。これはNASAの数学者が考え出した流体による金融工学なんです」
 金銭の流れを流体に見立てた理論である。この頃から、日本では金融派生商品が出始めていた。その後、この仕組みもよく理解できない企業が、これに手を出し倒産に追い込まれる会社も続出した。
 「岩崎君って、妙なことをいろいろと知ってますのね。感心させられますわ。あなたといると、毎回退屈しませんわ。講釈も面白いし、何しろ、一風も二風も変わっていて……」
 「ご冗談でしょ。でも、岩崎を山師のようにいうのは、平にご容赦を」
 「あなたは山師ではなかったの?」わざと恍
(とぼ)けたように訊いた。
 「そんな、山師だなんて大袈裟な」まさか褒
(ほ)め言葉ではあるまい。
 「だって、そうでしょ。お利口さんがね、愚者を見下して悪口を言う場合、バカとか、たわけとか、うつけとか、阿呆とか、脳足りんとか、いろいろあるでしょ。でも愚者が智慧者の悪口を言う場合は、一つしかありませんのよ。それはねェ、山師!」
 「うム!」
 「山師と言われると、岩崎が凄く悪巧みに長
(た)けた天下の大悪党のように聴こえるではありませんか」
 「でも、中
(あた)らずと雖も遠からず……ではありませんこと」
 それは選挙違反容疑で官憲に逮捕され、収監されたことをいっているのだろうか。

 「言い方も、いろいろとあるものですね」
 「その山師さんが、今日は鞍手くんだりまで来て、どういうご用?」
 「勉強を兼ねて、あなたに素晴らしい、とっておきのショーをご覧にいれようかと思いまして」
 「とっておきのショーって?」
 「それは観てからのお楽しみ」
 「それって、またハラハラ・ドキドキ?」
 「いえ、至ってノーマルです」
 しかし、こうした回答を素直に信じる彼女でなかった。疑いの眼を崩さない。
 だが、まさか、豚の解体ショーを見学に行くなどとは言えない。言わぬが花であった。ショックはその後に味わってもらえばいい。

 その時である。
 後ろから車が近付いて来た。横広のアメ車で黒塗りのキャデラックであった。如何にも、「その筋」と分る車であった。乗っている連中も、明らかにその筋の者であった。堅気ではない。人相からして筋者だった。
 車は速度を落とし、私たちに声を掛けて来たのである。
 「この辺に『安政塾』というのがあるの、知らんか?」訊き方も態度も横柄である。
 「それでしたら、この道を真っ直ぐに行って左です。日の丸が揚がっていますから直ぐに分ります」
 「そうかい、有り難うよ」
 横柄な連中は、一言、そういっただけで走り去っていった。
 私は、あの連中を見たとき、『安政塾』の千葉先生は、随分と至る所に借金を拵
(こさ)えているのだなあと気の毒に思った。更生施設を維持するために多額の借金を抱えているのである。
 いま見た筋者は、紛れもく何かの目的をもっての行動であろう。だが、それは分らない。
 本日の解体ショーは、もしかすると、あの連中も同席するのだろうか。

 先ほど道を訊いた筋者を、少しばかり訝
(おか)しいと思った。直観である。
 「今の連中、訝しいと思いませんか」由紀子に訊いた。
 「なにがですの?」
 「何か目的があって確かに『安政塾』に向かっている思うのですが、そうした人がわざわざ他人
(ひと)に道を訊くでしょうか。普通は充分に下調べして出向くと思うのですが、あの連中、変と思いませんか?」
 「それもそうですね、あの人達、何なのかしら……」
 「いったい何者だろうか」私は頸を捻った。
 だが答えは出ず仕舞いだった。直ぐに想起したのは、もしかしたらヒットマンでは?だった。あるいは、単なる考え過ぎで、ただの取立屋?なのだろうか。何れにしても厄介な連中が押し掛けているようだった。

 暫く歩くと、そこから先は田圃の中に陥没池が永遠と広がっていた。この陥没池は、炭坑の坑道が落盤で崩れ落ち、そこに大量の雨水が溜まって出来た池であった。水深はそれほどでもないが、陥没が長々と続いているため、陥没した池も広大な湖面の広がりを持っているのである。田園風景を隣接して、筑豊平野の雄大な風景が田圃と陥没池を挟んで濃淡を付け、斑
(まだら)になって展開していた。見渡す限り、平面だった。
 この池では、あちらこちらに散り舟が浮び、また岸辺では釣り人が糸を垂れていた。実に長閑な、時間の止まった風景であった。
 そのとき一人の釣り人を見た。何と千葉先生であった。
 この池では、後に誰かが放流したためか、鮒、鰻、鰌、鯰、鯉などがいるが、釣り人の目当てはヘラブナだった。単に糸を垂れているのでなく、ヘラブナ釣りの醍醐味を味わうために釣りをしているのである。
 だがこの時代、好運にも欧米から持ち込まれて放流された稚魚喰いのブラックバスだけはいなかった。
 しかし、千葉先生はそういう趣味で糸を垂れているのではない。豚の餌を此処で釣っているのである。ヘラブナ以外だったら、何でもいいのである。

 私は近付いて聲
(こえ)を掛けた。
 「先生、今日はどうですか?」
 「おォ〜ッ、君ですか」
 私はバケツの中を覗き込んで、「今日は、いささか時化
(しけ)気味ですね」と感想を述べた。
 「うん、この頃は暫く大漁がありません。はたと止まってしまった、もう何ヵ月もです。しかし世の中、それでもなんとかなるものですよ」
 「なんとかなるですか、いい言葉ですね」
 私は千葉先生の老荘的な考え方が好きなのである。
 かつて『老子』を読んでも、さっぱりわからなかった。そこで教えを請うたのである。
 そして『老子』と『禅』の共通項を諭され、それ以来、老荘的な考え方に興味を覚えたのである。だが、それは触り程度で、真意を理解するには、まだまだ先のことだった。
 「今日はご婦人連れですか。このご婦人、どういう関係で?」
 「いや、どういう関係と言われましても……」
 「あの、あたくし、婚約者ですの」勝手に由紀子が割り込んで、しゃしゃりでた。
 「そうですか、婚約者ですか。そろそろ君も、身を固めて、自らの針路を見据え始めたようですね。喜ばしい限りです」
 「いや、まだ、そこまでは……」
 私はこれを照れたのではない。幾つもの懸念があって、解決できない呪縛が掛かっているからである。その呪縛が未だに解けないのである。それを懸念しての言葉であった。心境は複雑だった。
 果たして依怙地
(いこじ)が、そうさせているのだろうか。
 しかし、未知の領域に踏み込んで行くと、それなりに興味が湧くものである。
 陥没池で三人が合流した象
(かたち)になって、これからいよいよ『安政塾』へと向かうのである。
 『易経』でいう「困」で受難を顕す。しかし易というものは一本調子でいくものでない。
 これから始まるであろうことは、まず豚の解体ショーに併せて、借金取りの矢の催促が予想された。
 前途多難というより、前途受難であった。



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