運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 33

窮すれば通ず……。
 この言葉の根本には「一寸先は闇」が挙げられるが、『易経』と文句からきた「窮すれば即ち変じ、変ずれば即ち通ず」であり、人間の運命には窮して、窮して、窮して、窮乏の真っ只な化にあってドン底まで落ちれば、もう落ちるところがなく、底辺に至ってしまえば、そこから上へ上昇しようとする変化が起こることを暗示している。墜ちれば上に向かう以外ない。上昇変化だ。
 その変化が生じることによって、今度は顛落とは逆の上昇と言う可逆性が起こるのである。その可逆性が起こった時に、「通じる道が開ける」ということを『易』は暗示しているのである。落ちたからと言って、そこで終わりではないと教えるのである。


●肉体仕事

 山村師範の所での練習の帰りに、久しぶりに実家を訪ねた。しかし、母は居なかった。
 どうしたのだろうと、辺りの畑を捜したり、山林を捜したが、母の姿は見つからなかった。野良仕事をしている訳でもなかったようだ。
 おそらく買物にでも出かけて、そのうち帰って来るだろうと思い、仕方なく、合鍵で戸口の鍵を開け、中で暫
(しばら)く待っていたが、いつまで経っても帰ってくる様子がなかった。

 今日は、何処かに遠出でもしているのだろうか、と諦
(あきら)めて帰ろうとした時、隣のおばさんが来て、昨日急病で、救急車で運ばれて、緊急入院したと聞かされたのであった。病院の場所と電話番号を訊(き)いて、その儘(まま)直行した。
 私の見た目では、想像したより母は元気だった。命に関わるような病気でもないようだった。
 帰りに担当医から、病状の説明を聞いた。腹部に悪性の腫瘍
(しゅよう)が出来ていて、中々厄介で、危険な状態だと言う。聞けば聞く程、これは急を要することが分かった。医師は盛んに手術を薦(すす)める。手遅れにならないうちに早急な決断が迫られた。私もこの緊急事態に狼狽(うろた)えた。一時混乱の極みにいた。

 本当に大変なことになった、私はそう思った。
 手術するだけの金が、私にあるか?……。これが第一に課題だった。母自身も、そんなに大した貯えはない筈だ。それを思うと「いま直ぐ」という緊急事態に対応できる財力がなかった。緊急手術をする医療費がなかったのである。さて、どうしようというだけではなく、思わず唸
(うな)ってしまった。
 急場に資金をどうして調達するか。散々考えた挙げ句、まず手術するにも輸血が必要になるだろう。先決は血の調達だった。そして、そのための肝心な輸血の血液を、どのようにして調達するのか。
 まず調達法の課題に迫られた。
 手術するには、金と輸血する血液が必要である。輸血量が十分でないと手術できない。この当時の医療はこの程度であり、外科手術の輸血は患者側の負担だったのである。家族が走り回って輸血してくれる献血者を探さねばならなかった。医療費の他に、輸血に必要な血液も患者側が段取りをつけ、用意しなければならなかったのである。困った事態に陥ったのである。

 両方が一つでも欠けていれば、急を要する手術でも、決して行われることはない。手遅れとなる。
 貧乏人は先送りされて、手術待ちの患者は命を危険に曝
(さら)す。何とかしなければ……。
 私は、ただそう思うだけだった。切羽詰まった課題が、あたかも喉元
(のどもと)に匕首(あいくち)を突き付けたように迫ったのだった。
 病院を出る際、再び母の病室を訪ねて様子を窺
(うかが)った。
 母は痛み止めの鎮静剤を注射されて、静かな寝息を立てて寝ていた。ふっと、これが「今生
(こんじょう)の別れでは」と、そう思う。不吉の妄想だった。
 しかし、それにしても何としても助けたい。子が親を思う気持ちであった。
 母親というのは、人間にとって、自身の一番弱い泣き所であったからだ。
 何とか助けたい……。
 泣き所がつつかれる。どうにかして、生きてもらいたい……。そう思うのだった。

 私は生まれてこの方、母親とは縁が薄かった。
 幼い頃、母親に甘えたい時分には、母は病弱で、入退院を繰り返し、私は叔母や、有田の親戚、そして姉たちの親族の手によって育てられた。
 所謂
(いわゆる)、親戚中を盥回(たらい‐まわ)しされたわけであった。いつも寂しい思いばかりをしていた。
 その寂しさが他に向けられた場合、違う形の人間像が出来上がる。あたかも新国劇の『瞼の母』のような、お涙頂戴の“母恋もの”の新派劇風の人間が出来上がる。
 親戚という親族は先ず親戚という理由で、誰かが押し付けると、直接、親族としての血統から言って、嫁に来た者とか、婿養子に入った者が、押し付けられた子供を毛嫌いする。穀潰しのように扱われる。普通そうである。厄介者が来たと、嫌がられるのだ。。
 ただし、違うのは実の親が、その親戚筋に十分な謝礼を払い、十分な心付けをした場合は違おうが、大抵はそういう余裕がない。
 また預けられた親戚側も、十分に余裕がないのである。こうなると双方に余裕がないのだから、預けられた子供は疫病神にされ、邪魔者にされたり、愚痴や苛めの対象となる。こうした預けられた子供は、その家の親だけでなく、そこの子供からもいびられる。

 血統的に血縁関係にある親族側は、こうした子供を押し付けられた場合、しぶしぶ我慢するが、その直接血縁ではない、その家の“嫁”とか、“婿”はあくまでも第三者だから、血縁としての責任も、あるいは養育義務もない。
 したがって、こうして親戚中を盥回しする子供は、明らかに厄介者扱いされる。
 また、親戚といいながら、その家
(うち)の子供とは明らかに、待遇も眼で見て分かるような格差が生じていることが歴然と起こって来る。
 厄介者扱いされた子供は居場所がなくなり、子供心に肩身の狭い重いをする。
 自分の居場所を見出せない子供は「親戚中の盥回し」が異常であることに気付き、あるいは格差のあることに気付くのである。同時に性格がねじれる。
 そして、こうした扱いをされることにより、「世間」というものを、他の誰よりも早く知ることになる。
 これが世に言う「他人の冷や飯」である。

 普通、「他人の冷や飯」というのは、雇用人が、雇用主の家か商店で「住み込み」という形で働きながら、その家の飯を喰うということではない。これなどは、丁稚奉公とか、寮の社員規定とか、住み込み従業員の扱い方の規定というものがあり、雇用契約上、ある程度名分化されているため、その規定の示す範囲で労働者としての権利を得るが、親族の場合は違う。もっと冷ややかな場合もある。
 親族の場合、幾ら親戚と言っても、血縁は片方だけの血縁であり、他方は赤の他人である。その血縁の嫁や婿は、明らかに「赤の他人」である。
 そして、「赤の他人」の冷遇は、丁稚奉公や寮、住み込みの従業員の処遇とは、比べ物にならないくらい厳しいものである。これこそが本当の意味での“他人の冷や飯”であり、更に正確に述べるならば「赤の他人の冷や飯」ということになる。
 「赤の他人の冷や飯」は、「他人の冷や飯」の比ではない。
 これは親戚中を盥回しされた子供しか分からない。

 したがって早くから世間摺
(ず)れし、ある意味で、子供ながらに自立を余儀なくされる。私もその一人だったのである。
 親戚中を盥回しされた後、最後は平戸の叔母の家に落ち着いた。この叔母は母の姉にあたる人で、当時電電公社に勤めていた。そして独身だったので快く私を預かってくれたのである。今で言う、キャリアウーマンであり、裁けた人で、財力もあり裕福だった。
 そして、再び母が病気になって、有田の親戚を経由して、小学校五年生のとき最後に預けられたのが嬉野温泉の姉の置屋であった。腹違いの姉であった。姉と私は異母姉弟だった。
 双方は父親の血が繋
(つな)がっているだけに、此処では他の親戚で受けた酷い扱いはされなかった。ゆったりとした、「水入らず」という扱いを受けて、伸び伸びと出来た。

 しかし母と接した少年時代は、殆ど無いと言ってよかった。
 そんな縁の薄い母であるが、何とか手を打たなければならない。ベットに横たわって瞼
(まぶた)を静かに閉じた母の顔を覗(のぞ)き込んだ。
 一瞬、「これが今生
(こんじょう)の別れになるのでは?」という、不吉な不安さえ感じ、一旦は頭(かぶり)を振ってみるものの中々消えなかった。それが矢鱈(やたら)目の前にちらついて、私を焦躁(しょうそう)に掻き立てた。気持ちばかりが先走って、「何とかしなければ……」の思いに反して具体策が決まらないまま、ただ、おろおろするばかりだった。そう思ったとき居ても立ってもいられず、輸血の血液を調達するための血液の人数分を担当医に訊(たず)ね、その足で赤十字血液センターに直行した。私自身が献血するためである。

 私の献血カードには、僅かに三個の判子しかない。“三つポッキリ”では手術など出来る筈
(はず)がない。今日は、どうにか頼んで、二人分でも、三人分でも、自らの血を取ってもらわなければならない。
 血液センターで献血するに当たり、血液の検査が行われ、そこの常駐の初老の医師から、「君は血液の濃度が薄いので、きっと食べ物が悪いか、好き嫌いをして、偏食ばかりしているのだろう」と難癖
(なんくせ)を付けられた。
 医師からは単刀直入に、「君の血液では比重が軽過ぎて、血液としては使い物にならん」とも言われた。
 それでも構わないから血を抜いてくれるように頼んだ。しかし、中々うんと言わない。
 だが私も食い下がった。医師は執拗な懇願に根負けして、渋々わずか200ccだけ採ってくれた。当時の採血量から言えば、たった牛乳瓶一本分である。
 指摘された通り、献血した後、頭がふらついて貧血状態に陥った。やはり、血液濃度が薄いのか。
 明日、もう一度ここに来ても、二度と私の血は抜いてくれないだろう、と言う感想を持ちながら、此処を後にした。

 それにしても困ったことになった。
 輸血のことは、道場の誰かに呼びかけて、協力してもらうしかないが、金のことは自分で作るしかない。
 当時の手術に要する血液は患者側が事前のうちに用意し、それに見合う分の血液が潤沢にあるというのが条件だった。それでも足りなければ、血液銀行で血液を買わなければならない。更に困ったことは高額な手術代も必要となる。
 そうかと言って、道場の安い月謝の上りでは、とても手術するだけの金額には達しない。全く治療費の足下
(あしもと)にも及ばないのだ。

 私のような俥夫馬丁
(しゃふ‐ばてい)以下の日銭(ひぜに)稼ぎでは、まとまった金を右から左に動かせるような経済力はなかった。困窮する毎日だった。
 貧乏の惨めさは、貧乏生活をしているその状態での貧乏は、別に大したことはない。
 問題は枯渇した財力しか持たないくせに、緊急事態の医療費とか、その他の急を要する場合の財力が枯渇している場合が、実に貧乏とは惨めなものに感じるのである。
 惨めさは、ひもじいのは何とか我慢できても、緊急事態に何の手当も出来ない僅かな軍資金しか持たない場合である。この無策が、何とも惨めである。枯渇寸前の軍資金では、何一つアクションを起こせない。消沈して為
(な)す術(すべ)がない。これは、実に惨めだった。
 金さえあれば……の、この世の中を恨めしく思うのである。

 てっとり早く金策するには、誰かに泣き付かねばならないが、平戸まで出向き、親戚筋を一々当たって“ドサ廻り”することも時間の掛かることであり、況
(ま)して由紀子だけには、この事が、口が裂けても切り出すことは出来なかった。借りばかりが大きくなってしまうからである。
 確かに、由紀子にこの事を言えば、一も二もなく早急に治療費相当分は直ぐに手当くれるだろう。
 しかし、それでは私の“人生の貸借対照表”の帳尻が合わなくなる。「負債の部」ばかりが増えて、返済不能になる。返済不能の借りを作ることは嫌だった。男の估券
(こけん)に関わることだった。これ以上男の値打ちを下げるわけにはいかない。これだけは何とか避けたかった。自力で、自前で、遣りたかったのだ。
 恥を知れば知るほど、そう思うのである。

 とにかく、早急に数十万単位の治療費がいるのだった。それも近日中に、である。
 このとき不定期で葬式屋でアルバイトをしていたが、不定期のため纏
(まとま)った金が稼げなかった。「これからも、もっともっと人が死んで、葬式が増えますように」などと、不謹慎なことを願うのは、あまりにも罰当たりなことだった。
 不定期的な、小刻みではどうしようもなかった。
 こうなると、残された仕事は肉体労働以外なかった。肉体を酷使して、懸命に働けば辛い分だけ金になる。そう信じていたのである。

 思いつく儘
(まま)、考えた挙げ句、選んだ道は、早朝の「タチンボウ」といわれる日雇(ひやとい)労働者になることであった。
 四、五日も働けば、手術代の頭金くらいは何とか捻り出せるだろう、そう考えていた。私の思い込みは、緊急の場合は肉体労働が、直ぐに手っ取り早く金が稼げると信じていたからである。
 これは女性が身を売って、即金が稼げると思っている同じ心理だった。売春婦は手っ取り早い金策で、この商売をする女性も少なくなかったのである。
 人権より、まず何事も金であり、その金は贅沢をするための金ではなく、救急の場合の金だった。切羽詰まった金である。


 ─────翌朝5時、タチンボウの集まる尾倉町
(北九州市八幡東区)の電停に行った。
 もう既に相当な数の、日雇を望む労務者風の男たちが集まり、廃材に薪
(たきぎ)にし、それを燃やして、暖をとりながらざわめき合っていた。彼等は騒然(そうぜん)と犇(ひし)めいていた。そして注視すべきは、彼等は「何でも燃やす」という生まれながらの習性があった。
 夏の暑い盛りにも、決して暖を取ることがないのだが、枯れ枝や廃材があれば、直に火をつけて燃やしてしまうのである。多くは燃やし屋であり、焚付け屋だった。夏でも焚火は、この種属
(スピーシーズ)には必須条件だった。

 その理由は二つあった。
 一つは、いつでも煮炊きが出来る状態にしておいて、小動物を捕まえたら直に焼いたり煮たりして食べられる体勢を作っておくこと。特にスズメなどはよく捕まえられて丸焼きにされ、引き裂かれて喰われていた。それに焼酎を引っ掛けて、その日一日の憂さ晴らしをするのである。
 あるいは集団暴動において、「炊き出しが出来る状態」の“おにぎり”などを、一種の戦闘食を作るためのものだった。
 そしてもう一つは、いつでも火が点
(つ)けられる不穏な状態にしておいて、何か暴動などが起れば、直に延焼させることを目論んでの事であった。
 火は人々に恐怖と勢いを与えるエネルギーがあるからだ。戦
(いくさ)まえの「篝火(かがりび)」は、これを象徴している。
 十六世紀の戦国期には、出陣前の夜に篝火が戦いの象徴として炊かれたのである。火のエネルギーを、わが体内に注ぐためである。洋の東西を問わず、この方法は何処の国でも盛んに用いられた。

 後に「いつでも火がつけられる不穏な状態」は60年安保闘争の時に、学生や労働者がこの状態を真似し、辺りにあった車などを手当りしだいに放火する戦術に使われ、更に70年の安保条約の延長をめぐっては反対運動にも火が使われ、これが最も頂点に達したのは、全共闘や成田闘争に於てであった。
 「火炎瓶」のアイディアも、第二次世界大戦当時、ナチス・ドイツに対抗するパルチザン部隊が使ったのが最初といわれ、これは“焼夷背手榴弾”を簡化させたももので、対戦車作戦で多く使われ、その仕組みは瓶などの容器にガソリンや灯油などを詰め、投げつけて燃えあがらせる仕掛けを施した手投げ武器であった。
 人間を始め、哺乳動物が一番怖れるのは火の恐怖である。燃え盛る火は、猛威を揮うと実に恐ろしいものである。
 したがって、火は革命の象徴になったりもする。

昭和27年5月1日の皇居前広場の血のメーデー事件。
 これより三日前の講和条約の発効によって、日本は連合国軍の占領から解放されるが、同時に安保条約締結により左翼陣営が騒ぎ始めた。
 この日の皇居前広場には、都学連を主力とする学生や労働者からなるデモ隊2000人が警官隊と激突し、流血の騒ぎとなった。暴徒化した学生や労働者は米軍車輌や、パトカー、白バイなどの警察車輌に放火し、大乱闘となった。
(『昭和史』毎日新聞社篇、講話・独立、昭和26〜30年より)

 これが近年に至っては、階級闘争において使用されるようになり、「いつでも火がつけられる不穏な状態」は革命集団の常套手段だった。不穏な状態を演出するのは、火の恐怖を煽ることであった。
 おそらくこの状態にしておくことは、「どや街」から始まったのだろう。日雇労務者の群れが、常に火を用意するのは、何か事が起れば、火をつけて騒ぎを大きくして転覆
(てんぷく)を狙う為である。常に労務者の中には、こうした騒ぎを大きくするリーダー役が紛れ込んでいる。煽動役でアジテーターである。

 暴動争議とは、革命の火種を常に燃やしておくことなのだ。そして事に乗じることなのだ。
 一旦、事が起れば燎原
(ぎょうげん)火の如く燃え広がるのである。それを煽動(せんどう)する煽動者が、必ず紛れ込んでいて、この男が暴動へと誘導するのである。
 廃材に薪
(たきぎ)にするのは、この階級の生まれながらの習性であろう。そして暴徒は、本能的に火に烈しく反応するものである。


 ─────暖を取っている集団の中の、そのざわめきを破って、一台の荷台に幌
(ほろ)を被ったトラックが突き進んで来た。
 運転台の助手席から、濃いめのサングラスを掛けた人相の悪い、ヤクザ風の肩を怒らせた男がトラックの窓を開けて「昼間8千円、夜間1万円、人数五人!五人ないか!」とドスの効いた濁声
(だみ‐ごえ)で叫んだ。柄が悪いだけに凄みがある。
 その声に釣られて、ウシ科の哺乳類のヌー
(gnu)のように群がった日雇労務希望者の集団は、濁声の方に移動が始まった。有に二、三百頭は居ると思われる群れが、騒然として朝日の中に浮かび上がった。仕事を探す騒然とした群れであった。

 その中を縫
(ぬ)って、更に、もう一台の大型ダンプカーが突っ込んで来た。群れの脇腹に止まり、頭の禿(は)げ上がった、もうじき五十に手の届く年齢の腹の突き出た男が、ドアを開けて外に出てきて、低いドスの利いたテキ屋風の売り込みのような声で、
 「えーェ、8千円、8千円。三人、三人居ないか!」と怒鳴った。
 ありらこちらで、こうした声が上がっている。5千円と云う声もあれば、6千円と言う声もある。中には昼間で1万円と云う声もあった。
 しかし何も知らないヌーの群れは、これを手取りと思っているらしいが、二割から三割ピン撥
(は)ねされるのを知らないでいるらしい。この声に釣られ、欲を纏(まと)ったヌーの群れは、移動が開始された。
 彼等は“大人しい欲望”を纏
(まと)った草食動物たちであった。礼儀の面は尋常でないが、決して兇暴でもない。根は従順である。

 暫
(しばら)くするとこの場に、次から次へと、トラックや図体の大きい外車が駆け付け、群がる集団の脇腹に横付けを始めた。集団は、金に釣られて目紛しく動き、好き勝手な方向に移動が開始された。
 此処の全員の思っていることは、少しでも日当が高く、少しでも楽な、少しでも汚れない仕事に有り付くことであった。しかし、どの依頼主が正直で今日一日の日当が良く、どの依頼主がピン跳ねをするか、全く見当がつかないようだ。

 私としては、選
(よ)り好みをする余裕などなく、早急に何処かの仕事を請け負わなければならなかった。早く決めなければ、この日の仕事に溢れてしまうからだ。溢れれば今日一日棒に振ることになる。焦るしかなかった。
 私が選んだ仕事は、カーキ色の幌を張った4噸
(トン)トラックの現場監督らしい出(い)で立ちをした痩せ柄の男の仕事を請け負うことにした。
 この仕事を請け負うことにした理由は、日当が1万5千円、労働時間は朝9時から夕刻の6時までで、昼食付きと言う、今日一番の高値であった事と、依頼者の代理ではあろうが、現場監督風の男が人相的にも尋常だった。多少たりとも他の仕事の依頼人より、正直者に思えたからだ。
 この仕事には、七人の者が選ばれた。選ばれた殆どは、年齢が三十前後だった。そして私のような二十代も何人かいた。一体、これは何を意味しているのか見当がつきかねた。

 狭いトラックの荷台に押し込まれるように乗せられ、寿司詰めにされた。荷台には片側に四人、もう片側に三人と言う配列で、トラックに据え付けられた木製の長イスに座らされた。昔の囚人
(しゅうじん)護送車を思わせた。
 座ると直にトラックの荷台の幌
(ほろ)は閉じられ、幌が走行中開かないように頑丈な紐(ひも)で外から縛られた。これは獲得した得物を逃がさないようにするためであろうか。
 走行中のトラックの中では、誰一人として口を聞く者は居なかった。誰もが俯
(うつむ)き加減で黙り込んで居る。まるで数分後、頭部に拳銃を打ち込まれる屠殺場(とさつ‐ば)に向かう、牛か豚を思わせた。
 私は四人側に座らされたので、トラックが揺れる度に、横の者と肩がぶつかり合い、窮屈
(きゅうくつ)な思いをした。全く何処を走っているか、暗い幌の中では見当が付かなかった。

 それから一時間近く走ったろうか。
 長い道のりだった。そして船の汽笛が聞こえたので、港湾関係の仕事をさせられると察しがついた。
 多分、沖仲仕
(おきなかし)だろう。その想像は的中していた。
 何処かの港に着いたときトラックの後ろの幌が開けられ、眩
(まぶ)しい朝の太陽の光が差し込んで来た。誰かが外で、「早く降りろ!」と柄(がら)の悪い声で怒鳴っている。

 荷台から降ろされ、怒鳴った男を見ると、カーキ色のランニングシャツから肩の刺青が、露
(あらわ)に剥(む)き出ていて、如何にも、その刺青をちらつかせるような態度で傲慢(ごうまん)を装って、見るからに肩を怒らせ、粋(いき)がっていた。年齢は五十(いそじ)を少し越えた位であろうか。手には太目の青竹が握られていて、片方の掌(てのひら)をそれでピシャピシャと叩いていた。周囲を威圧しているのである。
 最初に姿を現した現場監督風の男は、もう既に此処から姿を消して、見当たらなかった。これで初めて、大変な所に来てしまったという気になった。正直そうに見えた現場監督風の男は、此処の日雇い人夫、それも若い丈夫な者を集めるための、巧妙なカモフラージュであったかも知れない。
 食い詰めた人間の搾取の手法である。

 港に着いた私たちは、小さな艀船
(はしけ‐ぶね)に乗せられ、更に沖合いに停泊する1万トン級の老朽貨物船に乗せられた。
 この船は、船尾に書かれた『PATRICLA』の文字が、女性の名前を船名にしていることから、アメリカから来た船舶であることが分かった。恐らくシカゴから大量の大豆を運んで来たのではないかという想像がついた。その証拠に船に喫水線
(きっすい‐せん)が莫迦(ばか)に沈んでいたのである。この港は、周りの景色から見当をつけて、門司埠頭(北九州市門司区)か門司港の、孰(いず)れかの港であろうと察しが付いた。

下関側(山口県)から見た関門海峡 門司側(福岡県)から見た関門海峡

 艀
(はしけ)に乗せられる前、恐れをなした一人の若者が、この仕事をキャンセルしたいと、青竹を持った男に申し出ていたようであるが、聞き入れて貰えなかったようだ。この尻込みして打たれる、か弱き羊のような若者は、狭い路地に胸倉を捕まれて連れ込まれ、陰惨(いんさん)な脅しを受けていた。
 数人の荒くれ男から脅
(おど)され、青竹で額の先を小突かれ、口角泡を飛ばす罵声(ばせい)の限りを受けて散々怒鳴られ、あるいは優しく猫撫(ねこな)で声で宥(なだ)められた挙げ句、素直で柔順な人間に改造されていた。
 彼はこれから先の、自分の運命に諦めをつけたのだろうか。
 この若者は、二十歳そこそこの黒淵
(くろぶち)の眼鏡をかけた、恐らくこの若者は学生のようであったが、一見気の弱そうな印象を受けた。軽い、アルバイトのつもりで飛びついたのだろうか。それにしても予想外のことが起きていた。

 私は沖仲仕
(おきなかし)の仕事は、学生の頃に一度体験しているので、差程驚くことではないが、私が直感したのは、この仕事が今日一日で終わる仕事ではないと思ったことだ。
 つまり何日間か、この船の中に閉じ込められ、昼夜を問わず、半ば強制的な肉体労働に従事しなければならないと言うことであった。それだけに、この仕事は半端ではないことが想像できた。下手をすれば一週間あるいはそれ以上、タコ部屋という獄舎
(ごくしゃ)並みの豚小屋に詰め込まれ、強制労働を強(し)いられるのではないか?……と不安が込み上げて来た。
 私を除く、六人の日雇労働を決め込んだ者たちは、金だけに釣られて、のこのことやって来た節があり、誰もが初めてと見えて、この事が直ぐには想像出来ないでいるらしい。

 もともと日雇労働者の賃金は「ニコヨン」と云われていたのである。
 「ニコヨン」とは「二・五・四」の隠語で、一日朝から晩まで働いて、手取りでもらう日当が254円の平均値を指す。
 これは時代が少し下がり、日雇賃金が幾分かは上がったとは云え、当時の相場からすれば、やはり一日せいぜい4,000〜5,000円程度ではなかろうか。良くても、最高は7,000円止まりであろう。それが二倍強の労働賃金であるのだから、この仕事が決して楽な、半端なものではないと検討が付くのである。彼等はこうした単純計算が出来なかったのだろうか。
 私も彼らも、幾ら金のためとはいえ、大変な所に連れ込まれたものである。
 此処から数日間は帰ることが出来ないとなると、母の病気はどうなるのだ、あるいは由紀子は……?、そして居なくなった私をどう思うのか?……、それを思うと心配の種は尽きなかった。

 朝七時半から、ぶっ続けで正午までしっかり働かされた。
 「労働時間は朝9時から」というのは真っ赤な嘘であった。長時間労働のハードな肉体労働だった。
 仕事は大豆の荷揚げ作業であった。大豆の袋を船に設置された大型クレーンで引き上げる際の積み込み作業である。これを直脇に横付けされた小型の作業船に積み換えて、港まで運んでいるらしい。
 横付けされた作業船が、この船を離れ港に走る間、一時
(ひと‐とき)の休憩が許された。しかし作業船は一艘(いっそう)でないらしく、行って戻って来るには、当初艀船(はしけ‐ぶね)でこの船まで渡された時の時間から考えて、その往復時間が早過ぎた。短い距離を行き来しているのであろう。

 大豆の入った麻袋
(あさ‐ぶくろ)から大豆の黄色い粉が、辺り一面に立ち籠(こ)めて、先ず咽喉(のど)を苦しめた。
 口はタオルで、ヘルメットの顎紐
(あごひも)の間に挟み、固定して塞いでいるが、これは殆ど用をなさなかった。咽喉に纏(まつ)わり付き、痰(たん)が出てきて、呼吸することすら儘(まま)ならなかった。
 労働衛生上、極めて悪い環境下で働かされたのである。
 確かに昼食付きだったが、昼食は粗末な弁当が出された。何処で調達したかは知らないが、米に添えられた漬物や卵焼きが、乾いた干物のようになっていた。衛生上問題があるような、劣悪な食べ物だった。それを食べるか、食べないうちに、十分な休みを与えてもらえない儘、午後から再び、ハードな同じ仕事が始まった。
 この仕事は過酷な労働であった。肉がうずき、骨が軋む、そういうハードな仕事だった。
 稽古とは違う筋肉と躰の動かし方をするので、慣れない私は顎が出掛かっていた。
 躰の至る処から汗が幾重にも吹き出て来て、止まる事を知らなかった。
 汗が滝のようになって流れ出し、それが目に入り、痛みを与えるが、大豆仕事の、咽喉の咳き込むような苦しみに比べれば、まだ軽い方であった。

 この作業に少しでも休んだり、のろまで能率の悪い動きをして、手を抜こうものなら、青竹を持った男の青竹が飛んで来て、悪辣
(あくらつ)な罵声を浴びせかけ、尻を容赦(ようしゃ)なくひっぱたくのであった。
 「きさん
(貴様)、それでも男か!きさん、金玉もっとろうが。さっさと働かんか!働かん奴は、タマを抜いてフィリピンに叩き売るぞ!グジャグジャ言わずに働け!」と脅し上げるのである。何とも乱暴だった。
 これは単に脅しだけでなく、《タマ抜きの人身売買》を、この港湾労働組織が裏家業で行っているという暗示にも受け止められた。人間を闇ルートで、売り飛ばすのである。その際に、男はみな去勢手術をされるのである。何の目的で使役されるか、想像に難しくないだろう。
 気の弱そうな黒淵の眼鏡の学生が、最初の落後者として尻を叩かれたようだ。

 こうした惨事にも、《何と残忍な……》と、同情を寄せる暇など与えないように、次から次へと追い立る。
 更に、弱りかけた落後者には、痛烈な罵声
(ばせい)と脅迫めいた怒鳴り声が交互に飛びかった。まるで過酷な労役に駆り出される哀れな家畜であった。
 この仕事は、午後の四時で一旦打ち切られ、従事者七人は船底の船室と思われる場所に集められ、直ちに睡眠をするように命じられた。この部屋は冷遇の極
(きわ)みであった。
 汗ばんで、すえた臭いのする毛布が各々に配られ、鉄板の床には、粗末な使い古された不潔な蒲団下用のマットが一枚敷かれているだけであった。それに枕はなく、枕代わりに使うのは、部屋の中央に置かれていた直径10cm程の長い一本の丸太であった。この丸太に、全員が頭を並べて仮眠するのである。

 偶然、メガネの学生と隣り合わせた。
 彼は毛布を被
(かぶ)った儘(まま)、寝た振りをしたが、実は泣いているようであった。船室のドアには、外から鍵をかけられ、逃げ出せないような状態にされていた。私は今自分の目に映っている部屋が、なぜか現実離れした拷問部屋のようにしか見えなかった。
 ここに至っても、お互いに会話を交わすような者は一人も居
(お)らず、各々が沈黙を保って、見知らぬ他人を装っていた。それでも全員の顔の表情の何処かに、溜め息のような吐息(といき)が洩(も)れ、声にならない小さな呷(うめ)き声に似た息遣いが、ハァーハァーと辺りに漂っていた。

 やがて各々は重労働の疲れから、囚
(とら)われの身であることも忘れて、崩れるように寝込んだようだ。誰もが泥のように寝入った。重労働を強いられる囚人と化していた。
 私も、臭いのきつい毛布に包まって、崩れ込んだ。兎
(と)に角(かく)疲れているのだ。とんだ所に来たなどと言う反省や、それを考える暇はなかった。ただ非常に疲れていた。
 疲れ切った躰を、すえた臭いのする毛布と、縁が綻
(ほころ)び、中のスポンジが飛び出したマットに、身も心も委ねたのだった。
 また船内の他の便所には一切行かせてもらえず、この船室の片隅にベニヤ板で仕切られた仮設の便所で用を足すように命ぜられた。仮設の便所と言っても名ばかりで、大きなポリバケツの底に砂が敷いてあって、それが一つ置いてあるだけの、まるで猫のトイレであった。

 私の時計によると、午後8時頃に突然船室のドアが開けられ、枕代わりに使っていた丸太が、乱暴に激しく青竹で叩かれた。
 「起きろ!いつまで寝てる!起きろ!」と、青竹を持った男が悪態をつき、大声で怒鳴った。
 脅して人を遣う手口である。それは力で抑え込み、不透明な管理を意味していた。
 こんな起こし方をされれば、頭に直接衝撃が走って、嫌でも目を覚まさずにはいられなかった。またそれが威圧的な恐怖となった。そして眠り足りない不快感があった。

 青竹を持った男の、助手を務めるチンピラ風の若者が、私たち七人に夕食の弁当を配った。
 その弁当は昼間食べたのと同じものであったが、昼より更に腐敗が進み、米飯からも御数
(おかず)からも、異様な悪臭が放たれていた。
 まさに残飯
(ざんぱん)に群(むら)がるのら犬の餌(えさ)程度であった。「不味い」とか「美味い」とかの感想を持つ余裕もなく、強引に口の中に詰め込んだ。それは本能だけという感じだった。
 これに比べれば留置場や刑務所の食事の方が、よほど人間的で、遥
(はる)かに高級で、遥かに美味い……と思った。

 互いは、一言も交わすことなく黙々と、しかも口一杯に食べ物を頬張り、まさに動物の餌を食べていた。これを食べ終ったら、直に次の作業に取りかからされた。午後9時から午前1時という、“ぶっ続けのハード・スケジュール”であった。
 私の想像によると、どうやら仕事の依頼主は、この船に積まれた大豆の荷揚げを急いでいるようであった。それが急
(せ)かされている理由のようだった。

 此処に集められた日雇労働者の一人が、
 「この仕事、いつまで続くんやろか……」と悲しそうな独り言を呟
(つぶや)いた。
 その呟きには、怯
(おび)えも入っていた。ハードな肉体労働から解放されないという不安も混じっていた。それがこうしたボヤキのような呟きとなって口から漏れてくるのだった。
 「そんなに長く続きはしないさ」私はこれに答えてやった。
 気持ちだけでも、不安から解放させてやらなければならないのである。
 そうすると、気の弱そうな学生が、「どうしてそれが分かるのです?」と詰め寄って来た。
 「深夜を徹して荷揚げ作業をするのは、積み荷の陸揚
(りくあげ)を急いでいるからです。これが遅れたら、船を今よりも二日も三日も停泊させることになり、依頼主は大きな損をするからです」
 「へェー、なるほど。兄ちゃん、尤
(もっと)もらしいことを言うねェ」
 傍
(そば)に居た三十男が、私の話に感心した。

 その時、上甲板から、
 「そこのお前ら、無駄なことは喋るな!」と青竹を持った男が怒鳴った。その声に従い、また沈黙の作業が始まった。喋ると共同謀議でもして、叛乱でもすると思っているのだろうか。
 黙々とハードな仕事は続けられた。
 この仕事が終わったのは、作業スケジュールを大幅に狂わせた午前3時をとっくに過ぎていた頃であった。時間の長さから言って、無茶苦茶な労働時間だった。労働基準法違反もいいとこだった。
 一旦この仕事が終わると、また元の船室に集められ、部屋に押し込まれてから外から鍵をかけられた。監視付き労働を強いられているのである。
 依頼主は、私達が逃げ出すのを警戒しているらしい。それとも、周りが海であることから、船内をうろつかれるのが困るのであろうか。あるいは法に触れるような船荷を積んでいるのかも知れなかった。

 不安に戦
(おのの)く、私の横にいた学生が、私にすり寄って来て、「ちょっと訊いてもいいですか?」と不安げに訊くのであった。
 「何をです?」
 「僕は怕
(こわ)いのです。こんな仕事は初めてです。仕事を監督する人も、どうみても堅気(かたぎ)ではありません。ヤクザです。大変な所の来てしまったようです。この仕事、本当にいつまで続くんでしょうね。
 僕たちはいつになったら帰してもらえるのでしょうか。本当に帰してもらえるのでしょうね。こうなったらお金なんかどうでもいいから、一日も早く此処から解放されたいですよ。まさか何処かに連れて行かれて、牛馬のように扱
(こ)き使われ、最後は殺されるじゃないでしょうね」と、在(あ)りもしない妄想を吐露し始めていた。解放されない苛立と、先が見えない監禁労働にすっかり怯(おび)えきっているのだ。
 この若者は欲に転んで、この仕事を自分で請け負った癖に、自分の選択した軽率な行動を棚に上げて、自分以外の者を責め、自分には全く責任はないと云う言い方をしたのだった。
 しかしそれにしても、監禁労働とは酷いものだった。受刑者でもこうしたハードな肉体労働は強いられた例はない。シベリア抑留の強制労働並みだった。
 酷寒のシベリアに比べて、寒さが加わらないだけ、少しばかりマシという程度だった。

 私もこうしたハードな肉体労働は初めてだった。
 私が学業と併行して働き始めたのは中学校の頃の新聞配達だった。中学一年のときに棲
(す)んでいた製鉄アパートの同級生が新聞配達を始め、それは一種の地域の少年の流行となって、近くの新聞販売店に殺到したのだった。先に押し掛けた組が、運良く雇ってもらえたのだった。家は、新聞配達をするほど生活には困っていなかったが、新聞配達は地域の流行として、多くの同級生がこれを行っていたのだった。

 私はこの当時、今で言う学習塾に、嬉野から北九州に戻ってきたとき、無理矢理母に連れて行かれて、ある寺の住職が経営する塾に入れられたのだった。小学校高学年のときに、算数ではなく、数学と英語を習っていたのである。数学はその寺の住職が担当し、英語は芦屋米軍基地の通訳をしていた元海軍士官出身の先生が教えていたのである。
 私が新聞配達で得た金は、総てここの塾の月謝となったのだった。この新聞配達は、中学一年の一学期後半から、中学三年を終えるまで続けられた。
 その後、新聞配達で得た金銭が本当に必要になってくるのは、父が私の中三夏休み期間中に脳卒中で急死したことから、私の働きは、ある程度家計を助けたのではないかと思うのである。
 勉強しながら働くという精神は、このときに植え付けられたのかも知れない。
 新聞配達を朝晩し、それに山村師範の道場にも通っていたから、毎日の一日の予定はぎっしりであったが、「勉強しながら」という労働も、然程
(さほど)きつい事とは思わなかった。どれも挫折せずに続けられたのである。
 高校に入ってからは、新聞配達の他に牛乳配達も遣ったし、夏休みには日本料理店で板前見習として働かせてもらっていたが、時間を有効に使えば、働きながら勉強をするという作業は、私にとってはそんなに酷なものではなかった。むしろ社会勉強となり、少年ながらに金銭感覚を巧みにしてくれた観があった。私にとっては一石二鳥であった。

 要するに、勉強することや働く仕事の内容が、好きか嫌いかのことだけなのである。
 人間は好きなことならば、かなりハードな仕事にも耐えることが出来、勉強も、その学科が自分の興味があるものならば、難問でも、睡眠中の夢の中でその解法を考えることが出来るのである。
 私の場合は数学に限りであるが、数学を必死になって解く夢をよくみた。夢の中でも、かなり難問の数学の問題を解いたことがあった。そして、その間に、ハッとして解放に思い当たるのである。好きなことは、このように決してハードなことでも、ハードでなくなり考え続けることが出来るのである。連続して休まず考え続けることが出来る。
 ハードに感じるのは、好きなことを遣っていない時である。強制された労働などは、それが喩え軽作業であっても、ハードな仕事と感じてしまうのである。
 これまでの過去のことを一瞬思ったのであった。そして今は、強制労働であり、監視を強いられる労働であったから、これこそハードな酷される肉体労働と感じていたのである。

 「ちゃんと帰してもらえますよ。彼らは私達の労働力を必要としているのです。何も私達を取って食おうと言うのでないのですから……」
 私はこう答えて、周りの雰囲気を少しでも和らげる必要があった。和らげ、励ます必要があった。
 「兄ちゃん、どうしてそんなに落ち着いていられるんかねェ」
 周りに居た一人の中年男が、こう切り返してきた。
 「落ち着くも何も、自分達は此処で、仕事をする為に雇われたのですよ。雇い主が使用人を、どうして殺すようなことするんですか。そんなことはあり得ませんよ。相手がヤクザでも、雇用関係が崩れれば、結局は自分達の首を絞める事になるんです。どうして自分の首を自分で絞めて、自滅する人がいるんですか。
 資本主義経済では、資本家と労働者は明確なる雇用契約が約束されていなければならないんです。そして日雇労働者と雖
(いえど)も、こうした約束は繰り返し、反復されなければならないのです。
 でないと、次の仕事も貰えなくなります。人間社会の命令系は横ではなく、縦なのです。彼等も縦の枠組みの中で仕事を貰っているのです。このルールは無視できません。縦の関係は何処の世界でも服従しますよ。これが縦の関係の掟です。ヤクザでも同じ事です」

 私は演説調になっていた。少し大袈裟
(おおげさ)に、励ますつもりで、此処の皆に某(なにがし)かの勇気を与えようと激励の弁を奮っていた。
 すると横に居た三十男が、「何や、よう解
(わか)らんけど、要するに兄ちゃんはインテリらしいね。それに度胸もいい」と、私の理屈に感心し感嘆の声を上げた。
 その時また違う男が、「兄ちゃん、この仕事はいつ終わると思うね?」と訊いた。
 「明日一杯でしょう。遅くとも、明後日の昼前までには終わる筈
(はず)です」
 「どうしてそれが分かるね?」
 「船底の大豆は上甲板の淵
(ふち)から検討して下の方に集中しています。これは荷が少なくなって来た証拠です。もう少しで終わりますよ」

 昔やった沖仲仕
(おきなかし)の仕事の経験から、こう言ってやった。
 これを受けて勇気付いたか、何処からともなく拍手が起こり、やがて全員は嬉しかったと見えて、「やったァー」と声を発しながら拍手の渦が巻き起こった。このとき船室の外のドアの所で監視していた、チンピラ風の若者が、ドアを蹴って、「やかましい、静かにしろ!」と怒鳴った。
 この声に、一同は水を打ったように静まり返った。

 隣の男の寝相が悪くて、その寝苦しさに目を覚ますと、船のエンジン音が聞こえた。この船は動いているのでは?……という疑いがもてた。
 船底に配したこの船室は窓がないので、どういう状態なのか見当もつかないが、確かに移動しているような気配が窺
(うかが)われた。これに誰かが気付けば、また一騒動持ち上がる筈(はず)である。気付かぬ振りをして横になるしかなかった。これを考えただけで、また一つ不安の種が増えた。
 この状態で陸に上がれない儘
(まま)、何処か異国に連れていかれるのではなかろうか?……と、一種の妄想が頭を持ち上げて来た。悪い妄想は連鎖反応を起こす。そして、急病で苦しむ母はどうなる。私の消息を掴めない由紀子はどうなる?……。そのことだけが気掛かりだった。
 私も、金の為に、欲に絡んで安易な選択をしたものだと後悔しはじめていた。しかし今となっては後の祭りである。


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