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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 29


●肉体仕事

 山村師範の所での練習の帰りに、久しぶりに実家を訪ねた。しかし、母は居なかった。
 どうしたのだろうと、辺りの畑を捜したり、山林を捜したが、母は見つからなかった。おそらく買物にでも出かけて、そのうち帰って来るだろうと思い、仕方なく、合鍵で戸口の鍵を開け、中で暫
(しばら)く待っていたが、いつまで経っても帰ってくる様子がなかった。

 今日は、何処かに遠出でもしているのだろうか、と諦
(あきら)めて帰ろうとした時、隣の人が、昨日急病で、救急車で運ばれて入院したと聞かされたのであった。病院の場所と電話番号を訊(き)いて、その儘(まま)直行した。

 私の見た目では、想像したより母は元気だった。
 帰りに担当医から、病状の説明を聞いた。腹部に悪性の腫瘍
(しゅよう)が出来ていて、中々厄介で、危険な状態だと言う。聞けば聞く程、これは急を要することが分かった。医師は盛んに手術を薦(すす)める。手遅れにならないうちに早急な決断が迫られた。

 本当に大変なことになった、私はそう思った。手術するだけの金が私にあるか、母自身もそんなに大した貯えはない筈だ。
 そして、そのための肝心な輸血の血液を、どのようにして調達するのか。手術するには、金と輸血する血液が必要である。両方が一つでも欠けていれば、急を要する手術でも、決して行われることはない。先送りされて、命を危険に曝
(さら)す。何とかしなければ。私は、ただそう思うだけだった。
 病院を出る際、再び母の病室を訪ねて様子を窺
(うかが)った。母は痛み止めの鎮静剤を注射されて、静かな寝息を立てて寝ていた。ふと、これが「今生(こんじょう)の別れでは」と、そう思う。しかし、何としても助けたい。子が親を思う気持ちであった。

 私は生まれてこの方、母親とは縁が薄かった。
 幼い頃、母親に甘えたい時分には、母は病弱で、入退院を繰り返し、私は叔母や、姉の親族の手によって育てられた。所謂
(いわゆる)、親戚中を盥回(たらいまわ)しされたのであった。

 したがって早くから世間摺
(ず)れし、ある意味で、子供ながらに自立を余儀なくされていた。母と接した少年時代は、殆ど無いと言ってよかった。そんな縁の薄い母であるが、何とか手を打たなければならない。横たわって瞼(まぶた)を静かに閉じた母の顔を覗(のぞ)き込んだ。一瞬、「これが今生(こんじょう)の別れになるのでは」という、不吉な不安さえ感じ、一旦は頭(かぶり)を振ってみるものの、中々消えなかった。それが矢鱈にちらついて、私を焦躁(しょうそう)に掻き立てた。
 そう思った時、居ても立ってもいられず、輸血の血液を調達するための血液の人数分を、担当医に訊
(たず)ね、その足で赤十字血液センターに直行した。私自身が献血するためである。

 私の献血カードには、僅かに三個の判子しかない。三つポッキリでは手術など出来る筈
(はず)がない。今日は、どうにか頼んで、二人分でも、三人分でも、自らの血を取ってもらわなければならない。
 血液センターで献血するに当たり、血液の検査が行われ、そこの常駐の初老の医師から、「君は血液の濃度が薄いので、きっと食べ物が悪いか、好き嫌いをして、偏食ばかりしているのだろう」と難癖
(なんくせ)を付けられた。

 正直言って、「君の血液では比重が軽過ぎて、血液としては使い物にならん」とも言われた。それでも構わないから血を抜いてくれるように頼んだら、渋々わずか200ccだけ採ってくれた。当時の牛乳瓶一本分である。指摘された通り、献血した後、頭がふらついて貧血状態に陥った。やはり、血液濃度が薄いのか。
 明日、もう一度ここに来ても、二度と私の血は抜いてくれないだろう、と言う感想を持ちながら、ここを後にした。

 それにしても困ったことになった。輸血のことは、道場の誰かに呼びかけて、協力してもらうしかないが、金のことは自分で作るしかない。それかと言って、道場の安い月謝の上りでは、とても手術するだけの金額には達し得ない。全く足下
(あしもと)にも及ばないのだ。
 私のような俥夫馬丁
(しゃふばてい)以下の日銭(ひぜに)稼ぎでは、まとまった金を右から左に動かせるような経済力はなかった。

 てっとり早く金策するには、誰かに泣き付かねばならないが、平戸まで出向き、親戚筋を一々当たってドサ廻りすることも時間のかかることであり、まして由紀子だけには、この事が、口が裂けても切り出すことは出来なかった。

 思いつく儘
(まま)、考えた挙げ句、選んだ道は、早朝の「タチンボウ」といわれる日雇(ひやとい)労働者になることであった。四、五日も働けば、手術代くらいは何とか捻り出せるだろう、そう考えていた。
 翌朝5時、タチンボウの集まる尾倉町
(北九州市八幡東区)の電停に行った。
 もう既に相当な数の日雇いを望む労務者風の男たちが集まり、廃材に火を灯して、暖をとりながらざわめき、騒然
(そうぜん)と犇(ひし)めいていた。そのざわめきを破って、一台の荷台に幌(ほろ)を張ったトラックが集団の中に突き進んで来た。

 運転台の助手席から、濃いめのサングラスを掛けた人相の悪い、やくざ風の肩を怒らせた男が、トラックの窓を開けて、「昼間8千円、夜間1万円、人数五人!五人ないか!」とドスの効いた濁声
(だみごえ)で叫んだ。
 その声に釣られて、ヌーのように群がった日雇労務希望者の集団は、濁声の方に移動が始まった。有に二、三百頭は居ると思われる群れが、騒然として朝日の中に浮かび上がった。

 その中を縫
(ぬ)って、更に、もう一台の大型ダンプカーが突っ込んで来て、群れの脇腹に止まり、頭の禿(は)げ上がった、もうじき五十に手の届く年齢の腹の突き出た男が、ドアを開けて外に出てきて、低いドスの利いたテキ屋風の売り込みのような声で、
 「えーェ、8千円、8千円。三人、三人居ないか!」と怒鳴った。
 ありらこちらで、こうした声が上がっている。5千円と云う声もあれば、6千円と言う声もある。中には昼間で1万円と云う声もあった。
 しかし何も知らないヌーの群れは、これを手取りと思っているらしいが、二割から三割ピンはねされるのを知らないでいるらしい。この声に釣られ、欲を纏
(まと)ったヌーの群れは移動が開始された。彼等は大人しい欲望を纏(まと)った草食動物たちであった。

 暫
(しばら)くするとこの場に、次から次へと、トラックや図体の大きい外車が駆け付け、群がる集団の脇腹に横付けを始めた。集団は、金に釣られて目まぐるしく動き、好き勝手な方向に移動が開始された。
 此処の全員の思っていることは、少しでも日当が高く、少しでも楽な、少しでも汚れない仕事に有り付くことであった。しかし、どの依頼主が正直で、どの依頼主がピンハネをするか、全く見当がつかないようだ。

 私としては、選
(よ)り好みをする余裕などなく、早急に何処かの仕事を請け負わなければならなかった。早く決めなければ、この日の仕事に溢れてしまうからだ。
 私が選んだ仕事は、カーキ色の幌を張った4噸
(トン)トラックの現場監督らしい出(い)で立ちをした痩せ柄の男の仕事を請け負うことにした。

 そこの仕事を請け負うことにした理由は、日当が1万5千円、労働時間は朝9時から夕刻の6時までで、昼食付きと言う、今日一番の高値であった事と、依頼者の代理ではあろうが、現場監督風の男が、多少たりとも他の仕事の依頼人より、正直者に思えたからだ。
 この仕事には、七人の者が選ばれた。選ばれた殆どは、年齢が三十前後だった。そして私のような二十代も何人かいた。一体、これは何を意味しているのか見当がつきかねた。

 狭いトラックの荷台に押し込まれるように乗せられ、更に寿司詰めにされた。荷台には片側に四人、もう片側に三人と言う配列で、トラックに据え付けられた木製の長イスに座らされた。昔の囚人
(しゅうじん)護送車を思わせた。
 座ると直にトラックの荷台の幌
(ほろ)は閉じられ、幌が走行中開かないように頑丈な紐(ひも)で外から縛られた。これは獲得した得物を逃がさないようにするためであろうか。

 走行中のトラックの中では、誰一人として口を聞く者は居なかった。誰もが俯
(うつむ)き加減で黙り込んで居る。まるで数分後、頭部に拳銃を打ち込まれる屠殺場(とさつば)に向かう、牛か豚を思わせた。
 私は四人側に座らされたので、トラックが揺れる度に、横の者と肩がぶつかり合い、窮屈
(きゅうくつ)な思いをした。全く何処を走っているか、暗い幌の中では見当が付かなかった。

 それから一時間近く走ったろうか。長い道のりだった。そして船の汽笛が聞こえたので、港湾関係の仕事をさせられると察しがついた。
 多分、沖仲仕
(おきなかし)だろう。その想像は的中していた。
 何処かの港に着いた時、トラックの後ろの幌が開けられ、眩
(まぶ)しい早朝の太陽の光が差し込んで来た。誰かが外で、「早く降りろ!」と柄(がら)の悪い声で怒鳴っている。

 荷台から降ろされ、怒鳴った男を見ると、カーキ色のランニングシャツから肩の刺青が、露
(あらわ)に剥(む)き出ていて、如何にも、その刺青をちらつかせるような態度で傲慢(ごうまん)を装って、見るからに肩を怒らせ、粋(いき)がっていた。年齢は五十(いそじ)を少し越えた位であろうか。手には太目の青竹が握られていて、片方の掌(てのひら)をそれでピシャピシャと叩いていた。

 最初に姿を現した現場監督風の男は、もう既に此処から姿を消して、見当たらなかった。これで初めて、大変な所に来てしまったという気になった。正直そうに見えた現場監督風の男は、此処の日雇い人夫、それも若い丈夫な者を集めるための、カモフラージュであったかも知れない。

 港に着いた私たちは、小さな艀船
(はしけぶね)に乗せられ、更に沖合いに停泊する一万トン級の老朽貨物船に乗せられた。
 この船は、船尾に書かれた『PATRICLA』の文字が、女性の名前を船名にしていることから、アメリカから来た船であることが分かった。恐らくシカゴから大量の大豆を運んで来たのではないかという想像がついた。その証拠に船に喫水線
(きっすいせん)が莫迦(ばか)に沈んでいたのである。この港は、周りの景色から見当をつけて、門司埠頭(北九州市門司区)か門司港の、孰(いず)れかの港であろうと察しが付いた。

 ハシケに乗せられる前、恐れをなした一人の若者が、この仕事をキャンセルしたいと、青竹を持った男に申し出ていたようであるが、聞き入れて貰えなかったようだ。
 この尻込みして打たれる、か弱き羊のような若者は、狭い路地に胸倉を捕まれて連れ込まれ、陰惨
(いんさん)な脅しを受けていた。

 数人の荒くれ男から脅され、青竹で額を小突かれ、罵声
(ばせい)の限りを受けて散々怒鳴られ、あるいは優しく猫撫(ねこな)で声で宥(なだ)められた挙げ句、素直で柔順な人間に改造されていた。
 彼はこれから先の、自分の運命に諦めをつけたのだろうか。

 この若者は、二十歳そこそこの黒淵
(くろぶち)の眼鏡をかけた、恐らくこの若者は学生のようであったが、一見気の弱そうな印象を受けた。軽い、アルバイトのつもりで飛びついたのだろうか。

 私は沖仲仕の仕事は、学生の頃に一度経験しているので、差程驚くことではないが、私が直感したのは、この仕事が今日一日で終わる仕事ではないと思ったことだ。

 つまり何日間か、この船の中に閉じ込められ、昼夜を問わず、半ば強制的な肉体労働に従事しなければならないと言うことであった。それだけに、この仕事は半端ではないことが想像できた。下手をすれば一週間あるいはそれ以上、タコ部屋という獄舎
(ごくしゃ)並みの豚小屋に詰め込まれ、強制労働を強(し)いられるのではないかと不安が込み上げて来た。私を除く、六人の日雇労働を決め込んだ者たちは、金だけに釣られて、のこのことやって来た節があり、誰もが初めてと見えて、この事が直ぐには想像出来ないでいるらしい。

 もともと日雇労働者の賃金は「ニコヨン」と云われていたのである。
 「ニコヨン」とは「二・五・四」の隠語で、一日朝から晩まで働いて、手取りでもらう日当が254円の平均値を指す。
 これは時代が少し下がり、日雇賃金が幾分かは上がったとは云え、当時の相場からすれば、やはり一日せいぜい4000〜5000円程度ではなかろうか。良くても、最高は7000円止まりであろう。それが二倍強の労働賃金であるのだから、この仕事が決して楽な、半端なものではないと検討が付くのである。彼等はこうした単純計算が出来なかったのだろうか。

 私も彼らも、幾ら金のためとはいえ、大変な所に連れ込まれたものである。
 此処から数日間は帰ることが出来ないとなると、母の病気はどうなるのだ、あるいは由紀子は……?、そして居なくなった私をどう思うのか、それを思うと心配の種は尽きなかった。

 朝七時半から、ぶっ続けで正午までしっかり働かされた。
 「労働時間は朝9時から」というのはまっかな嘘であった。
 仕事は大豆の荷揚げ作業であった。大豆の袋を船に設置された大型クレーンで引き上げる際の積み込み作業である。これを直脇に横付けされた小型の作業船に積み換えて、港まで運んでいるらしい。
 横付けされた作業船が、この船を離れ港に走る間、一時
(ひととき)の休憩が許された。しかし作業船は一艘(いっそう)でないらしく、行って戻って来るには、当初艀船(はしけぶね)でこの船まで渡された時の時間から考えて、その往復時間が早過ぎた。短い距離を行き来しているのであろう。

 大豆の入った麻袋
(あさぶくろ)から大豆の黄色い粉が、辺り一面に立ち籠(こ)めて咽喉(のど)を苦しめる。口は、タオルで、ヘルメットの顎紐(あごひも)に挟み、固定して塞いでいるが、これは殆ど用をなさなかった。咽喉に纏(まつ)わり付き、痰(たん)が出てきて、呼吸することすら儘(まま)ならなかった。

 確かに昼食付きだったが、昼食は粗末な弁当が出された。何処で調達したかは知らないが、米に添えられた漬物や卵焼きが、乾いた干物のようになっていた。それを食べるか、食べないうちに、十分な休みを与えてもらえない儘、午後から再び、ハードな同じ仕事が始まった。

 この仕事は過酷な労働であった。躰の至る処から汗が幾重にも吹き出て来て、止まる事を知らなかった。汗が滝のようになって流れ出し、それが目に入り、痛みを与えるが、大豆仕事の、咽喉の咳き込むような苦しみに比べれば、まだ軽い方であった。

 この作業に少しでも休んだり、のろまで能率の悪い動きをして、手を抜こうものなら、青竹を持った男の青竹が飛んで来て、悪辣
(あくらつ)な罵声を浴びせかけ、尻を容赦(ようしゃ)なくひっぱたくのであった。
 「きさん
(貴様)、それでも男か!きさん、金玉もっとろうが。さっさと働かんか!働かん奴は、タマを抜いてフィリピンに叩き売るぞ!」と脅し上げるのである。これは単に脅しだけでなく、《タマ抜きの人身売買》をこの港湾労働組織が裏家業で行っているという暗示にも受け止められた。
 気の弱そうな黒淵の眼鏡の学生が、最初の落後者として尻を叩かれたようだ。

 こうした惨事にも、《何と残忍な……》と、同情を寄せる暇など与えないように、次から次へと追い立る。
 更に、弱りかけた落後者には、痛烈な罵声と脅迫めいた怒鳴り声が交互に飛びかった。まるで過酷な労役に駆り出される哀れな家畜であった。

 この仕事は、午後の四時で一旦打ち切られ、従事者七人は船底の船室と思われる場所に集められ、直ちに睡眠をするように命じられた。この部屋は冷遇の極
(きわ)みであった。
 汗ばんで、すえた臭いのする毛布が各々に配られ、鉄板の床には、粗末な使い古された、蒲団用のマットが一枚敷かれているだけであった。それに枕はなく、枕代わりに使うのは、部屋の中央に置かれていた直径10cm程の長い一本の丸太であった。この丸太に、全員が頭を寄せて仮眠するのである。

 偶然、メガネの学生と隣り合わせた。
 彼は毛布を被
(かぶ)った儘、寝た振りをしたが、実は泣いているようであった。船室のドアには、外から鍵をかけられ、逃げ出せないような状態にされていた。私は今自分の目に映っている部屋が、なぜか現実離れした拷問部屋のようにしか見えなかった。
 ここに至っても、お互いに会話を交わすような者は一人も居
(お)らず、各々が沈黙を保って、見知らぬ他人を装っていた。それでも全員の顔の表情の何処かに、溜め息のような吐息(といき)が洩(も)れ、声にならない、小さな呷(うめ)き声に似た息遣いが、ハァーハァーと辺りに漂っていた。

 やがて各々は重労働の疲れから、囚
(とら)われの身であることも忘れて、崩れるように寝込んだようだ。私も、臭いのきつい毛布に包まって、崩れ込んだ。兎(と)に角(かく)疲れているのだ。とんだ所に来たなどと言う反省や、それを考える暇はなかった。ただ非常に疲れていた。疲れ切った躰を、すえた臭いのする毛布と、縁が綻(ほころ)び、中のスポンジが飛び出したマットに、身も心も委ねたのだった。

 また船内の他の便所には一切行かせてもらえず、この船室の片隅にベニヤ板で仕切られた仮設の便所で用をたすように命ぜられた。仮設の便所と言っても名ばかりで、大きなポリバケツの底に砂が敷いてあって、それが一つ置いてあるだけの、まるで猫のトイレであった。

 私の時計によると、午後8時頃に突然船室のドアが開けられ、枕代わりに使っていた丸太が、乱暴に激しく青竹で叩かれた。
 「起きろ!いつまで寝てる!起きろ!」と、青竹を持った男が悪態をつき、大声で怒鳴った。
 こんな起こし方をされれば、頭に直接衝撃が走って、嫌でも目を覚まさずにはいられなかった。またそれが威圧的な恐怖となった。そして眠り足りない不快感があった。

 青竹を持った男の、助手を務めるチンピラ風の若者が、私たち七人に夕食の弁当を配った。
 その弁当は昼間食べたのと同じものであったが、昼より更に腐敗が進み、米飯からも御数
(おかず)からも、異様な悪臭が放たれていた。
 まさに残飯
(ざんぱん)に群(むら)がるのら犬の餌(えさ)程度であった。「不味い」とか「美味い」とかの感想を持つ余裕もなく、強引に口の中に詰め込んだ。これに比べれば留置場や刑務所の食事の方が、人間的で、遥(はる)かに高級で、遥かに美味い、と思った。

 互いは、一言も交わすことなく黙々と、しかも口一杯に食べ物を頬張り、まさに動物の餌を食べていた。これを食べ終ったら、直に次の作業に取りかからされた。午後9時から午前1時という、ぶっ続けのハード・スケジュールであった。
 私の想像によると、どうやら仕事の依頼主は、この船に積まれた大豆の荷揚げを急いでいるようであった。

 此処に集められた日雇労働者の一人が、
 「この仕事、いつまで続くんやろか……」と悲しそうな独り言を呟
(つぶや)いた。
 「そんなに長く続きはしないさ」私はこれに答えてやった。
 そうすると、気の弱そうな学生が、
 「どうしてそれが分かるのです?」と詰め寄って来た。
 「深夜を徹して荷揚げ作業をするのは、積み荷の陸揚
(りくあげ)を急いでいるからです。これが遅れたら、船を今よりも二日も三日も停泊させることになり、依頼主は大きな損をするからです」
 「へー、なるほど。兄ちゃん、尤
(もっと)もらしいことを言うね」傍にいた三十男が私の話に感心した。

 その時、上甲板から、
 「そこのお前たち。無駄なことは喋るな!」と青竹を持った男が怒鳴った。その声に従い、また沈黙の作業が始まった。
 この仕事が終わったのは、作業スケジュールを大幅に狂わせた午前3時をとっくに過ぎていた頃であった。
 一旦この仕事が終わると、また元の船室に集められ、部屋に押し込まれてから外から鍵をかけられた。依頼主は、私達が逃げ出すのを警戒しているらしい。それとも、周りが海であることから、船内をうろつかれるのが困るのであろうか。

 不安に戦
(おのの)く私の横にいた学生が、私にすり寄って来て、
 「ちょっと訊いてもいいですか?」
 「何をです?」
 「僕は怕
(こわ)いのです。こんな仕事は初めてです。仕事を監督する人も、どうみてもヤクザです。大変な所の来てしまった様です。この仕事、本当にいつまで続くんでしょうね。いつになったら帰してもらえるのでしょうか。本当に帰してもらえるのでしょうね。こうなったらお金なんかどうでもいいから、一日も早く此処から解放されたいですよ。まさか何処かに連れて行かれて、殺されるじゃないでしょうね」
 「ちゃんと帰してもらえますよ。彼らは私達の労働力を必要としているのです。何も私達を取って食おうと言うのでないのですから……」
 「兄ちゃん、どうしてそんなに落ち着いていられるんかね」
 「落ち着くも何も、私達は此処で、仕事をする為に雇われたのですよ。雇い主が使用人をどうして殺すようなことするんですか。
 相手がヤクザでも、雇用関係が崩れれば、結局は自分達の首を絞める事になるんです。どうして自分の首を、自分で絞めて、自滅しようとする人がいるんですか。
 資本主義経済では、その資本家と労働者がはっきりとした雇用契約で約束されていなければならないんです。そして日雇労働者と雖
(いえど)も、こうした約束は繰り返し、反復されなければならないのです。でないと次の仕事も貰えないのです。人間社会の命令系は横ではなく、縦なのです。彼等も縦の関係で仕事を貰っているに過ぎません。ヤクザでも同じ事です」
 私は演説調に、少し大袈裟
(おおげさ)に、励ますつもりで、此処の皆に某(なにがし)かの勇気を与えようと激励の弁を奮っていた。
 すると横に居た三十男が、「何や、よう解らんけど、要するに兄ちゃんは大したインテリらしいね。それに度胸もいい」と、私の理屈に感心し感嘆の声を上げた。

 その時また違う男が、
 「兄ちゃん、この仕事はいつ終わると思うね?」
 「明日一杯でしょう。遅くとも、明後日の昼前までには終わる筈
(はず)です」
 「どうしてそれが分かるね?」
 「船底の大豆は上甲板の淵
(ふち)から検討して下の方に集中しています。これは荷が少なくなって来た証拠です。もう少しで終わりますよ」

 昔やった沖仲仕の仕事の経験から、こう言ってやった。これを受けて勇気付いたか、何処からか拍手が起こり、やがて全員は嬉しかったと見えて、「やったー」と声を発しながら拍手の渦が巻き起こった。
 この時、船室の外のドアの所で監視していた、チンピラ風の若者が、ドアを蹴って、「やかましい、静かにしろ!」と怒鳴った。この声に一同は静まり返った。

 隣の男の寝相が悪くて、その寝苦しさに目を覚ますと、船のエンジン音が聞こえた。この船は動いているのでは?という疑いがもてた。船底に配したこの船室は窓がないので、どういう状態なのか見当もつかないが、確かに移動しているような気配が窺
(うかが)われた。これに誰かが気付けば、また一騒動持ち上がる筈である。気付かぬ振りをして横になるしかなかった。これを考えただけで、また一つ不安の種が増えた。

 この状態で陸に上がれない儘
(まま)、何処か異国に連れていかれるのではなかろうかと、一種の妄想が頭を持ち上げて来た。母はどうなる、由紀子はどうなる、そのことだけが気掛かりだった。

 母は病院のベットの上で病に苦しめられ、私の帰りを心待ちにしているであろうし、由紀子は毎日のようにアパートを訪ねては、私の行き先を捜し求めるに違いない。大変な所に連れて来られたと言う不安と、金のために危険な仕事を選んだと言う後悔が先立った。

 朝8時を回った頃、船室のドアの鍵が開けられ、弁当が配られた。
 弁当は昨日までとは打って変わって豪華なもので、今朝作られたばかりの出来立てであった。
 この時、気付いたが船のエンジン音は消えていた。弁当を食べ終って、監視の男が席を外した時、誰かが夜中に船のエンジン音がしていたと言うことを喋り始めた。船が再び何処かに移動したのではないかと言う疑惑が持たれたのである。
 この話を誰もが聞いた時、再び不安に脅える動揺が起こり、これが陰気で小さな船底の船室を支配した。船室は忽
(たちま)ちのうちに、各々の不安の声が飛びかった。

 私はこれを宥
(なだ)める様に、
 「安心して下さい。今弁当を食べたでしょ。この弁当はどういう弁当でしたか?」
 「昨日の飯より上等だった」
 「そうでしょ。それもその筈です。この船は何処かの港に停泊していて、監視の誰かが今朝、弁当を買いに走ったのですよ。だから弁当に温もりがあったし、御数
(おかず)は新鮮でした。そうでしょ」
 「そう言えばその通りだ。なる程、兄ちゃんは中々察しがいいね」
 これで一同の気持ちは和らいだようであった。

 この後直態
(すぐさま)、仕事に駆り出されて、午前中の作業が始まった。作業は昨日と同じ大豆の荷揚げ作業であった。一袋40kgはあろうと思われる大豆の麻袋(あさぶくろ)は、連続して肩に載せ持ち上げていくと、腕と肩と腰と膝周辺に極度の筋肉痛を覚えた。動いている時は差程感じないが、休憩している時には、その痛みが一種独特の激痛となって、各々の箇所に襲いかかるのだった。各箇所を掌(てのひら)で揉(も)んでみても、おいそれと治るものではなかった。しかし咽喉の咳き込みは麻痺している為か、昨日程ではなかった。

 昼食は正午を下回った3時頃に出された。弁当は今朝と同じ豪華なもので、まだ冷え切っていない。この船が何処の港に停泊しているのは間違いないようだ。
 しかし船底からは、空を見上げ事も出来ず、気配から辺りを窺
(うかが)うしかないが、陸地はそう遠くないらしい。もしかしたら、やはり何処かの港に停泊しているのだろう。

 弁当を食べ終ると休む間もなく、直に次の作業が命ぜられた。
 船底の大豆の荷は、殆ど残っていない。この調子では、夕刻を待たずに終わるのではないかという期待が持たれ、一同は帰りたい一心で、疲れた躰に鞭打って新たの希望を抱き、少しでも早く終わらせる為に意気揚々であった。急ピッチで作業が捗
(はかど)ったせいか、午後5時を待たずに作業が全部終了した。

 青竹を持った男が、作業に従事した全員を前にして、「みんな、ご苦労やったのう」と礼を述べ、酒の肴
(さかな)にはちょっと程遠いが、ビニール・パックに入った簡素なバター・ピーナツのツマミと日本酒の一升瓶を振る舞った。一時(ひととき)の解放に向けての平和が蘇ってくる。
 誰彼の顔にも、ほっとした安堵感が全身に趨っていた。私も振る舞い酒に、とろりとした酔いを徐
(おもむろ)に躰中で感じながら、つい、ほろ酔い気分となり、いつしか赤鬼、青鬼の亡者に取り巻かれているような錯覚に陥った。各々が仕事終了時の様な気持ちで愉快に酔い痴(し)れていた。これで、誰もが帰れると思っていたのである。

 その時、振るまい酒を呷
(あお)り、ツマミを加えた一人の男が、口をもがつかせながら、「儂(わし)ら、仕事が済んだというのに酒が振る舞われるとは、些(ち)と、訝(おか)しいのと違うか。皆、そう思わんか?」と不吉なことをいい始めた。
 「そうや、何でこんな処で酒を飲んでいるんや。何か訝しいのう……」
 これで再び不安の声は高まった。

 一時間程、だらだらと酒を振る舞われ、酒が切れた頃に青竹を持った男が、再びやって来て、次の船に移動すると言い始めた。
 此処に集った一同は、各々が顔を見合わせて、「えーッっ!」と声にならない声を出した。これによって、ほろ酔い気分の酔い失
(う)せて、全員が泣きたくなるような顔になった。勿論、私もその一人であった。

 上甲板に上げられ、初めてこの船が何処の港に着いていたか検討が着いた。洞海湾
(どうかいわん)の若松側に停泊していたのである。近くには若戸大橋が確認出来た。
 一旦船から港の岸壁に降ろされ、直横に停泊していた、別の500トン級の小型貨物船に乗せられた。この船は砂利運搬船で、船底に積み上げた砂利をベルトコンベアーに積み換えて、陸揚げすると言うものであった。
 この仕事は奴隷の労役を思わせた。

 この徒刑場さながらの船底は、古代ローマか、何処かの国の、大理石を採掘
(さいくつ)する、辛くて過酷な石切り場のような所であった。
 その作業は全てスコップで行われ、大豆の陸揚を更に上回る過酷な肉体労働であった。エンジン付きのベルトコンベアーに、けたたましいエンジンが掛かると、一斉にその作業の始まりである。

 スコップを握り締めた掌
(てのひら)は、忽(たちま)ちのうちに豆だらけになり、その砂利から出る砂煙は大豆の粉より更に酷かった。咽喉(のど)の中が砂だらけになり、唾(つば)を吐くと唾液に混じって泥と砂が出て来た。この作業は深夜に及んだ。
 これに従事した全員は、私を含めて疲労困憊
(ひろうこんぱい)の状態で、砂利を掬(すく)い上げる重いスコップに歯を食いしばり、踏ん張った膝と腕の筋肉を震(ふる)わせながら、誰もが崩れ込む寸前であった。
 監視され、時折
(ときおり)叱責されながら、誰一人として不満の声すら洩らさなかった。科(か)せられた刑罰のような重労働を黙々と果たしているように見えた。少し見間違えば、此処はまさに労役刑場であった。此処には暗澹(あんたん)たる重い空気が流れ、誰もが苦悩に藻掻(もが)き、恐怖に緊張し、汗まみれになって命乞い的な労働に従事し、躰(からだ)の至る所は痛みに喘(あえ)ぎ、筋肉は鬱血(うっけつ)していると思われた。

 母がどうなったか、由紀子がどうしているか、そんな事はどうでもよかった。ただ、疲労のために何処でもいいから、早く横になる場所が欲しかった。
 この作業が積み残しの砂利を残して、一応終了したのは、午前2時を過ぎた頃で、私たちは港の作業場に隣接した小さなタコ部屋のような作業小屋が割り与えられた。その作業小屋には、一応昨日の船室とは違って、枕や蒲団
(ふとん)などが揃えられていたが、どれも至る所が破れ、汚れていて、臭いはきついものであった。しかし疲れのために、そんな贅沢(ぜいたく)は云っておられず、直に誰もが鼾(いびき)をかいて深い眠りに落ちた。

 早朝5時頃、始めてみる男が、弁当を運んで来た。昨日の弁当と同じもの出来立てであった。
 弁当を頬張
(ほおば)る誰もが、一切の口を聞くこともなく、半ば諦めたように明治時代の刑務所の囚人のような表情をして、黙々と弁当を食べていた。

 弁当が食べ終ると、直に同じ作業に就かされた。
 持参したタオルは真っ黒に汚れ、痰
(たん)と唾を常に吐き出していなければ、咽喉(のど)が詰まって呼吸困難になるような感覚に襲われた。
 この日の昼は昼食が出なかった。ぶっ続けの重労働だった。夕方5時を回っても中断することなく続けられ、僅かに途中で30分程の休憩時間が与えられただけで、あとは休みなく作業が強制された。
 この作業から解放されたのは、夜の9時を過ぎていた。そして昨日と同じ作業小屋に詰め込められ、誰もが疲れのために、床に崩れ臥
(ふ)した。勿論、外には見張りがいた。

 次の日の早朝4時、「起床!直ぐに起きろ!」の号令で、全員が叩き起こされた。
 労役に駆り出される奴隷たちの作業開始の合図なのである。
 昨日より一時間も早く叩き起こされた。起きると躰の関節の節々があちらこちらとビリビリ・キリキリと痛い。筋肉痛は頂点に達し、動きもどことなく鈍くなっている。
 目を擦りながら、今から食事かと思ったが、食事は出てこず、いきなりトラックに詰め込まれて移動が始まった。

 揺られるトラックの中で、誰かが、「儂
(わし)ら、一体これからどうなるのやろう……」と何かを諦めたような声で呟(つぶや)いた。
 すると反対側から、
 「東南アジアか、何処かの外国にでも売り飛ばされるのと違うやろか」などと、飛躍した妄想のようなことを呟いた者がいた。この言葉で一同の動揺は深まった。

 「今日中には帰れますよ。必ず帰れます」私がそう言うと、
 「兄ちゃん、この前もそう言ったが、作業が終わっても帰えれんかったやないか。気休めばかり言って、糠
(ぬか)喜びさせんどってくれんか」
 「いや、きっと帰れますよ。もし今日帰られない時は、僕が必ず帰してあげますよ」
 「それ、本当
(ほんま)かいなァ……」

 それは不信と諦めを合わせて、苦笑いをしたような返事だった。そして一同の沈黙がまた始まった。
 揺られて行き着いた先は、下関港であった。そこには遠洋漁業から寄港したと思われる大型のトロール船が岸壁に横付けにされていた。
 此処での仕事は、船倉からの魚の荷揚げ作業であった。全員に胸まである長めの長靴が配られた。朝食をさせて貰えない儘、作業を強制された。私は、この仕事は直に終わると踏んでいた。食事をさせないのはそのためである。
 「儂
(わし)ら、今日は朝飯食わせてもらえんのかのう」
 「食事のでないのは、この仕事を急ぎたいからです。直に終わってしまいますよ」
 私の激励に反応した返事は、「そんなもんかなァ……」であった。

 私はこの日で仕事を終る気でいた。それは独断である。依頼主がどう言おうと、関係なく終る気でいた。だから魚の荷揚げ作業だけはきちんとやって、貰う金だけはきちんと貰って、何が何でも帰る気でいた。

 仕事は二手に割
(さ)かれた。船倉の船底からスコップでベルト・コンベアーに乗せる組と、ベルト・コンベアーに乗って来た魚を、トロ箱に詰め上から氷を載せて、貨車に詰め込む組であった。

 私は船底の組に回された。作業が始まって10分も立たないうちに猛烈な汗が出始めた。冷凍室のような船倉であるが、長靴を履いているためそれ自体が蒸
(む)れて、更に周囲の空気が遮断されて、汗でびっしょりとなり、全身が濡れ始めた。
 まさに此処は、小林多喜二
(こばやし‐たきじ)のプロレタリア小説『蟹工船(かにこうせん)』の船内工場に出で来る、あの過酷な作業場に似ていた。

 関節の節々の痛みを我慢して、必死で早く帰ることだけを願って、作業に打ち込んだ。この仕事は正午前に全て終了した。
 一旦全員が岸壁の一か所に集められ、同時に昼食が用意された。昼食は弁当ではなく、まだ温もりの残った丼物
(どんぶりもの)であった。何処か近くの食堂から出前させたのであろう。

 私は丼
(どんぶり)を手にした儘、好き勝手に、港に横付けされた船のワイヤー・ロープを固定した鉄の船止めに腰を下ろし、他の全員とは離れて食事した。
 それを食べ終った後、青竹を持った男が、黒塗りの高級車に乗って現れ、仕事はこれで終わりという。各々に厚手の封筒に入った今日までの賃金が配られた。
 封筒はしっかりと強力な接着剤で封印されており、中に如何程の金が入っているか見れないようになっていた。

 青竹を持った男は、その封筒を家に帰ってから開けろと子供騙しのようなことを言った。私はそれに従わず、その場で封を切り、金額を確かめた。封筒の中には千円札が30枚で、合計三万円しか入っていなかった。一日一万五千円と聞いていたので、一瞬目を疑ったが、しかし三万円しかない。

 「あれだけ扱
(こ)き使われて、たったの三万円?……冗談じゃないぞ!」
 半分以上ピン跳ねされたのである。私は腹立たしさにそれを口走っていた。
 私のその言葉に釣られて、他の六人も封筒の中身を確認し出した。そして一同に不満の声が上がった。

 それを聞いた青竹を持った男が、
 「やかましい!四日もタダ飯食わしたり、寝床まで用意してやった。金が貰えるだけでも有り難いと思え!命のいらん者
(もん)は前へ出らんかい!」と濁声(だみごえ)で怒鳴った。
 迫力あるこの言葉に、逆らう者は、誰一人としていないように思われた。

 私は怒りが込み上げてきたが、命あっての物種
(ものだね)、帰して貰えるだけでも有り難いと、渋々我慢を決め込んだ。
 不図
(ふと)、目を投げた先に、青竹を持った男の黒塗りの車が目に付いた。その車は、助手として付き纏うチンピラ風の若者が丁寧にワックスをかけ、丹念に磨かれていた。

 青竹を持った男は、連れて来た所まで送り届けてやるから、トラックに乗れと、しきりにガナり立てていた。私は腹立たしさの余り、この声が聞こえなかった。いや、聞こえない振りをしていた。
 黒塗りの車にワックスをかけているチンピラ風の若者に近付いて行った。この若者は、私の顔を見て、「へへーッ」と笑った。ざまあみろ、と言わんげであった。これが私の気持ちを逆撫
(さかなで)でしたのだった。

 私は、この安っぽいチンピラを見て、無性に腹が立ってきた。側にあったスコップを手に取って、若者が車の後ろのトランクを磨いている隙
(すき)に、丁寧(ていねい)にワックスがかけられた車のフロントガラスに第一打を、ボンネットに第二打と第三打を打ち込んでやった。フロントガラスは粉々(こなごな)に割れ、ボンネットからは、白い湯柱を吹き上げ煙のようなものが上がった。

 「ピン跳ねした金で、修理代くらい出るだろう」と捨て台詞
(せりふ)を吐いてやった。
 チンピラ風の若者が驚いたのは勿論のことであるが、もっと驚いたのは、この車の持ち主の青竹を持った男であった。トラックに乗り込む寸前の六人の男も、私の行動を見て唖然
(あぜん)となった。これだけの事をしてタダで済む筈がない。誰もがそう思っていた。

 一戦を交えるつもりでいた私は、決戦を覚悟していた。しかし、私に挑戦するものは居なかった。それは私を狂暴な人間と判断したのか、それに準ずる、その辺の判断が働いたものと思われた。

 私はその儘、道路のある所まで歩いて、そこからタクシーを拾った。
 そして住所とアパート名だけを告げて一路、自分のアパートに向かった。
 兎
(と)に角(かく)疲れていた。アパートに着くまで、タクシーの中で深い眠りに落ちたらしい。何処をどう通ったのか、如何程(いかほど)の時間がかかったのか、全く覚えていなかった。
 そしてアパートも前にタクシーが横付けされて、運転士から起こされた時、その料金は何と25,400円だった。
 私はこの金額に驚いた。下関から八幡までで、そんなにかかる筈がないからである。
 この運転手は、山口県下関市から関門トンネルを抜けて北九州に入り、八幡周辺を相当走り回ったらしい。おまけに地元の運転士でない為に、私の告げたアパートを探すため、至る処をうろついたらしかった。
 「詳しい場所を聞く為に、お客さんを何度も起こしたのですが、中々起きてくれなかったものですから……」というのが運転手の言い訳だった。
 この日のタクシー代は、大きな出費だった。そして私の手許に残ったのは、たったの4,600円だった。



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