●気を付け!休め!
昨日、由紀子が私にこう言った。
「あたしたちの卒業したあの小学校、来年新しい校舎に立て替えるそうよ」
私はそれを気も止めずに聞き流していたが、今日午前中、散歩がてらに何の気なしに、巣立って行った小学校の運動場に面した道を歩いていた。
金網の低い塀越しに、春の運動会の予行演習が行われていた。暫(しばら)く懐かしい気持ちでそれを眺(なが)めていた。
─────その時、あることを思い出した。
それは小学六年生の卒業間近のことであった。
傾斜面(けいしゃめん)。これは私の小学校時代の侮蔑(ぶべつ)の込められた渾名(あだな)である。
この謂(い)われの由来は、私の頭の形が前方に傾斜していることから、この渾名がつけられた。頭上の中央が尖(とが)り、坊主頭の恰好が極めて異様なさまから、この渾名がつけられたのだった。
小学六年の三学期になると、殆どの男子生徒は、中学に上がる前準備として、坊ちゃん刈りの頭髪を丸刈りにするのである。私もこの前準備として、頭を丸刈りにした。しかし頭蓋骨の恰好が良くなく、キューピーさんのようなピリケン頭で、頭骨の中央が尖(とが)る恰好の悪さがあった。
その原因は、母が私を出産する際の難産に由来し、大変な難産のうちに私が生まれて来たのである。はっきり言えば、私の頭が大き過ぎて、なかなか出産ができず、産婆(さんば)から頭を引っ張り出されて生まれて来たということであった。そのために頭の形が、いびつに尖り、縦長に歪んだということであった。
先天的な要素に一つに、私の頭の形の悪さが出産と同時につけ加えられていた。その様(さま)を級友たちは「傾斜面」と渾名したのである。
クラスの男女を問わず、私のことを侮蔑(ぶべつ)を込めて「傾斜面」と渾名し、言われる度に何処からともなく爆笑が怒り、最後に担任までが「傾斜面」と呼びつける始末であった。最初はこの渾名に激怒の色が隠せなかったが、次第に私自身も聞き慣れて、怒る気力の失せてしまっていた。
卒業式の当日、ある事件が起こった。起こったというより、起こしたという方が正しいかもしれない。これは卒業式終了直後の出来事である。
小学校の卒業式の当日、これで此処ともお別れだという、晴れ晴れした気持ちで学校に行き、暗愚を証明する予想通りの「1」ばかりの通信簿を教室で受け取り、外に出た途端、不愉快な過去の出来事を再び浴びせかけられたのである。
平戸から転校して間もない頃の小学三年生の時、数人から『座布団重ね』という遊びで、苛められたことがあった。この時、怕(こわ)さと腹部に掛る苦痛のために大便を漏らしたことがあった。
座布団重ねというのは、一人の警戒心の薄い、隙(すき)だらけの者に後ろからそっと近づき、風呂敷のような布を頭からスッポリ被せて目隠しをし、数人で袋叩きにして弱ったところに、更に上着か何かを被せ、次々に上から重なって、一番下の者を潰(つぶ)し込むという残酷な遊びである。
子供の体格から考えれば、これは上から十人も乗られてしまえば大変な苦痛である。息苦しくもなり、腹部にも相当な圧迫が掛る。
それは丁度、階段なので将棋(しょうぎ)倒しになって惨事を招く事故があるが、あれを想像してもらえれば、この座布団重ねという遊びが、いかに危険であるか分かるというものである。
私は、限度を上回る腹部への加重と、その恐怖から下痢状の大便を漏らしてしまったのである。
級友から「臭い!臭い!」と馬鹿にされながら、そして担任の先生から罵(ののし)られながら、泣く泣く自分の大便の後始末と、自分の衣服や下着を洗面場に連れて行かれ、洗濯したことがあった。
子供ながらに恥ずかしさと惨めさを味わった。
そしてその卒業式の日、後輩から見送られながら、クラスごとに列を作って学校の校門を出ていく途中、通路の中庭を通りかかった時、偶然にも、その衣服と下着を洗濯した用務員室脇の洗濯場を通ってしまったのである。
列を作った集団の中の級友の一人が面白半分に、
「岩崎。お前、此処で何をしたか覚えているか。糞をしかぶってよ、ここで洗濯したたことをよ」と意地悪く昔のことを思い出させた。
女子も一緒に列を作って歩いていたからたまったものではない。顔から火が出る思いであった。その中にも由紀子がいたのだ。
脳裡(のうり)に当時の恥ずかしかった気持ちが鮮明に蘇(よみがえ)り、周りを取り囲んだ級友たちは当時と全く同じような扱いをして、「臭い臭い」と集団で冷やかしにかかった。
この級友の集団の中に、当時の現場にいた者がいたのである。恥ずかしさと悔しさで目から涙がこぼれるのを覚えた。
私はその場に暫(しばら)く立ち竦(すく)み、拳を握った。汚点はいつまで経っても拭い去れないのか。失敗の汚名は灌(そそ)げないのか。済んだことを、いつまでも笑われなければならないのか。人生に汚点を濯ぐ、敗者復活戦はないのか。そんな無念さが込み上げて来た。
「おい、どうした。傾斜面。また、ここで、ウ、ウ、ウ、ウンコするのか」と吃(ども)りのような真似をして云った。
これを聞いた皆は、身を撚(よ)じって爆笑した。
この時、私は、人の嘲笑(ちょうしょう)というものは、恥ずかしさを通り超して、何と卑(いや)しいものか、と思った。
人間は残酷な生き物である。相手が弱いと分かると、徹底的に叩くものなのだ。弱い者を労(いたわ)るなどという気持ちは、端(はな)から持ち合わせてないのだ。
俚諺(りげん)に「落ちた犬は、打たれる」というのがある。一旦、川か、ドブに嵌(は)まった犬は、助け揚げてもらえないばかりか、更に石を投げ付けられて酷い目に遭うのである。面白半分に、こうされてしまうのだ。残酷な結末が待っているのである。
私も、まさに「落ちた犬」であった。嘲笑(ちょうしょう)は止む事がなかった。こう感じた以上、やることは一つしかなかった。
この言葉を聞いた時、こう言った級友目かけて飛びかかり、首に腕を絡めて、捩じり倒すように、首投でその相手を投げた。そして顔に、思いきり拳骨を数発食らわした。これが私の、敗者復活戦の遣り方であった。
そんな私に、「本当のこと言って、何処が悪い!」と後ろから声がした。
「本当に糞しかぶったお前は、本当の事をいわれて、口惜しいから暴力を遣うのか!」また後ろから声が飛んだ。
「何だと?」私はムキになっていた。
肩で息をしながら、次に投げる相手に身構えていた。そんな時、また後ろから声がした。
「岩崎君。止めなさいよ」
由紀子だった。
「そうそう、止めなさいよ、岩崎君」誰かが、ちゃかし半分に揶揄(やゆ)した。
私はそう云った者に向かって、「何だと、もう一度言ってみろ!」と怒鳴った。
「本当に止めなさいよ、岩崎君」由紀子は、更に言葉を繰り返した。
私は黙って引き下がるしかなかった。
「傾斜面は黙って、お嬢様の言うこと聞く方がお利口さんよ」また、誰かが云った。
そして、その揶揄にドット笑いが起こった。
ここでは由起子も揶揄の対象に入っているのだ。彼女の名誉も守らなければならないと云う気持ちがした。
その少年期特有の残酷な笑いは、強い者に諂(へつら)う媚(こ)びに似たものがあった。
しかし由紀子の居る手前上、もうこれ以上何も出来なかった。口惜しい気持ちを、ただただ押し殺すしかなかった。今にも涙が出てくるのを覚えた。
「坊や。これ位で、泣いちゃあ駄目よ、泣いちゃア」何処からか、再び揶揄の冷やな声がした。
それを聞いた時、その場に動けなくなって涙が溢れそうだった。そして突っ立っていると、由紀子が近寄ってきて腕をとり、
「岩崎君、あんな人達のことなんか気にしないで、さあ行きましょ」と、私の腕を取り、脱出の突破口を開いてくれた。
由紀子の言葉に従って、校門まで言った時、由紀子が、「今晩、岩崎君のお家(うち)に訪ねて行くからね」と、約束のようなことをした。
そして由紀子とはそこで別れた。
家に帰る途中、いつも通る学校近くの路地の所に、待ち伏せしていたと思われる、私を罵倒(ばとう)した悪ガキ数人と、中学生数人が私の前に立ち塞(ふさ)がった。苛める側としては、私は恰好の餌食であったのだろう。それが今から始まろうとしていた。
「おい、お前。俺の弟をよくも痛めつけてくれたな」
そう、私にいちゃもんを付けたのは、首投で投げた級友の兄であった。手に竹刀を持っていて、それを私の顔の前に突き出した。
「弟に謝れ。手をちゃんと地面について土下座しろ!」半ば脅迫的であった。
機転の効かない私が周章狼狽(しゅうしょうろうばい)し、躊躇(ちゅうちょ)していると、「早く、土下座しろ!」と再び怒鳴った。
私は言われる儘(まま)に土下座するしかなかった。拳を握って地面に正座した。
「その顔は何だ。悔しいのか。手を着け!ちゃんと頭を地面に着けろ!」等とも怒鳴られた。渋々頭を下げた。
「これで許してもらえますか」涙ながらに竹刀を持った中学生に言った。
「いいや。今から気合いを入れちゃる。そこに気を付けしろ!」
言われる儘に気を付けをしていると、今度は「休め」と号令がかかった。この場は簡単には立ち去れないようだ。
此処では「韓信(かんしん)の股くぐり」(【註】漢初の武将・韓信が青年時代、辱しめられて、股をくぐらせられたが、よくこれに忍耐したことに由来)のような事が起こっていた。
「気を付け!休め!」の号令が交互に掛かる。その度に気合いが入ってないと言うことで、尻を嫌と言う程、竹刀で叩かれた。そして、また「気を付け!」と号令がかかるのである。
以前にもこような目にあったことがあるが、今日は本気で痛めつけるらしい。私はそれでも我慢していた。
この集団は、私が何も手出し出来ないと分かると、更に過酷な要求をしてきた。人間は、無抵抗でいると、相手はトコトン付け込んで来て、思い上がり、無理難題を吹っかけるらしい。
「その場に這(は)え!」怒鳴ったのである。
この言葉に躊躇(ちゅうちょ)して直立不動のまま「気を付け」をしていたら、思い切り背中を竹刀で叩かれた。それでも暫(しばら)く「気を付け」をしていた。悔(くや)しさと、情けなさで、顔はしわくちゃになっていた。
「その顔は何だ!悔しいのか?」と、薄すら笑いを浮かべながら、もう一人の中学生が私に詰め寄り、今度は水月(すいげつ/胃の付近の急所で水落とも謂う)を厭(いや)と言う程、石を握った拳で叩かれた。人間は、弱い者には、こうも残酷なことをするのだろうか。
胃袋に、言葉に表せないような激痛が走った。立っていられない程であった。目から涙を出して、声を立てずに泣いていた。何と惨めであったろう。
「その場に這(は)え!」
再び同じ命令がかかった。悔しい思いを噛(か)み締めながら、黙って言われる儘にした。
そして、「傾斜面!」と罵(ののし)られながら、あの時の座布団遊びのようなことが突如行われた。腹這(はらばい)になった私は、数人から小学三年生の時と同じように袋叩きにされ、蹴られ、殴られて、上から押さえ付けられた。そして無抵抗の儘、こうした虐待(ぎゃくたい)を受けている自分が情けなかった。惨めだった。
私は大声で、「許して下さい。もうこれで勘弁して下さい」と声を出して泣いていた。彼等の執拗(しつよう)な苛めに曝(さら)され続けていた。
「駄目だ、誰が赦(ゆる)すか!」
人間と言う生き物は、子供や大人に限らず、相手が弱いと分かると、徹底的に虐め抜くようだ。徹底的にいたぶり、残酷の限りを尽くすのである。これは歴史を見ても明らかであろう。
「力は正義」の名をもって、強者は弱者の筋の通った道理を咎(とが)め、強者は自分の文化を押し付けるのだ。
「お願いです。助けて下さい」と彼等に赦(ゆる)しを乞い、更に大声で「誰か助けて下さい」と叫びながら泣いていた。
その時、遠くからは、偶然にも通り掛かった担任であった有田が、冷ややかな目で私を見ていていた。彼は何も動こうともしないし、助けてもくれなかった。以前から、私は「虫が好かない人間だ」と思われていたようだ。これはかつての、私から水泳の競争で負けたことのお返しなのだろうか、それとも、私の受難に関わる事を躊躇(ためら)ったからであろうか。
その暴行現場を通りかかりながらも、これを黙認し、仲裁に入って止めようともしなかった。悔しかったが、私は止めない担任に何も抗議することができなかった。彼がいつも言っていた「仲良くしなさい」とか「弱い者を虐(いじ)めては駄目だ」という言葉は、社交辞令のような軽いものであったのだ。
教師自身、生徒に対しては、「仲良くしなさい」と言っておきながら、一度(ひとたび)、職員室に入るとと、日教組と非日教組の間で反目があり、「仲良くしなさい」の言は、見事に裏切られてしまう。
また、「弱い者を虐めては駄目だ」という言も、実際に弱い者が虐められている現場では、全く説得力がないようであった。
ただ一方的に蹴られ、殴られたのである。無抵抗のまま惨じめさを味わっていた。
調子に乗って、私に暴行を加える悪ガキを横眼で見ながら、その一部始終を見ていた有田という担任に、無性に腹が立った。彼の、日頃お題目のように唱えていたウソに腹が立ったのだった。
激しい憤りが湧き起こり、私の中の、何か、芯(しん)のようなものが弾けた。
突如、私は居直り、目の前に落ちていた何かの瓶(びん)のカケラ拾って立ち上がると、大声を出して彼等に突進した。日頃の鬱憤(うっせき)が爆発したのだ。
私に暴行を加えていた者たちに、今度は私の方から襲いかかったのだ。この突如の反撃に恐れをなしたのか、悪ガキ連は慌(あわ)てて逃げ出した。私は窮鼠(きゅうそ)になったのである。そして悪ガキどもは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
どうやら、私の分別のない狂暴性は、この時に芽生えたらしい。
私は目標を変えて、今度は有田目かけて走り寄り、「天誅(てんちゅう)」と叫び、奴の尻に、この瓶のかけらをぶち込んでやった。そして、怯(ひる)んでいる隙(すき)に、落ちていた水道パイプの切れ端を握っていた。
天誅とは、天のくだす誅罰(ちゅうばつ)のことである。また、天にかわって誅罰することをいう。
私は、奇(く)しくもこの「天誅」と言う言葉を知っていたのである。(【註】この謂(いわ)れは『旅の衣』後編を参照)
その時、何からともなく叔父の言葉が聞こえて来て、「面打ちは、茶巾(ちゃくん)絞りが肝心じゃ」というように聞こえた。
その言葉通りに茶巾絞りを固めて、奴の頭目がけて、とどめを刺してやた。奴の頭からは血が吹き出していた。これで私の今までの多くの憤然の思いは、これで一矢(いっし)報いることができた。
奴は教師の立場からであろうか、怪我を負わされた事を一切不問にし、これを警察沙汰にしなかった。
此処に由紀子がいなかったことが、せめてもの救いであった。
父から買って貰った新品の中学の制服は、至る所が破れて泥だらけになり、顔や手足は痣(あざ)だらけになった。家に帰ってそれを問い質(ただ)された時、母には、階段で転んだとだけ言った。
母は私の持ち帰った通信簿を見て、嘆きのような溜め息を洩した。それには全ての教科に「1」がつけられていた。二学期までの成績はまばらに4(図画・工作。本来は五段階評価なので、クラスには「5」を貰えるのは50人クラスで五人居るはずなのであるが、美術史も含めて図画・工作もトップであったが、何故か一ランク墜(お)ちて「4」しか貰えなかった)、3(家庭科)、2(算数)の数字があったが三学期の評価は、統(すべ)てが「1」に化(ば)けていた。図画・工作までもが、である。
有田教諭は担任だから、どのような評価を下そうと勝手だが、これは明らかに何かの意図をもった、不公平な評価である事は明白であった。
そして所見の箇所にこう記されていた。
『当人は将来にわたって、何の知的業績も、学術的要素や可能性も、一切期待できない』と、そんな内容が、不名誉な烙印と共に一種の確信を持った、まるで鮮やかな朱肉で押した判子を思わせれるような赤インクで記載されていた。
どうして人ひとりを評価するのに、こうした有らん限りの蔑(さげす)みの言語を寄せ集めて、こうまでに痛めつけねばならないのであろうか。
その所見は、神経質そうな細字が、更に、私の気に喰わぬことを強調しているかのようであった。
しかしこの担任は、これだけでは言い足りないらしく、嬉野小学校に居た頃の『指導要録綴』を取り寄せ、更に細かく記した。
《田中A式知能指数五学年一学期72。二学期70。知能指数極めて劣勢。
国語力への関心は極めて少ない。読解力は乏しい。
社会科は常識に富む判断力を持ち合わせない。
算数は計算力に欠け、九九(くく)の暗唱に問題あり。国語力不足のため文章題は皆無。
理科は実験に興味なし。
音楽は音階判別に乏しい。
図工は、やや図形的形状を把握する理解力はあるが、他人の作品に影響されて真似する模倣的な猿真似(さるまね)が甚だしい。
体育は運動神経及び反射神経に欠陥的問題あり。運動能力は常人の半分以下と認む。性格的には極めて暗愚かつ狂暴性を潜ませている。以上のことから、何の知的業績も、学術的要素も将来に亘り、一切期待できないと確信する》
それは「絶対だ」、「間違いはない」と断定し、確信に満ちていた。これ以上の、一人の人間を、とことん詰(なじ)る表現方法が他にあるだろうか。
しかしこの『指導要録綴』は、教師の記録作りという面で大きな成果があったと思われる。要するに文部省も県教育庁も市教育委員会も、現場を携わる教師を信用しない風習があり、形式ばかりを要求する体質がある。
文部省の指定する教育指導要領に従い、要求された通りに書類や記録を沢山作成した教師が、何処の学校でも優秀な教師と評価されて、やがては学年主任、校務主任(教頭)、校長へという出世のルートを約束されるのである。
私は少年期のことを振り返って、こう思う。
子供は、親や教師から躾(しつけ)られ、教えられなければ育たない。しかし、親や教師の支配する枠の中で育つ訳では、決してない。
戦後の民主主義の特徴に一つに、平等主義が掲げられているが、詰まるところ、その標榜(ひょうぼう)とする「教育」、あるいは「子育て」という言葉は、表面的には美しいが、一皮剥(む)けば、植物の「促成栽培」、動物の「人工飼育」と、何ら変わるところはなく、「人間管理」や「子供支配」という、大人指向の幼児的な発想から抜け出していない。これは人間を歪める最も危険な考えではないか……と私は考える。私は北九州に居た、小学校高学年の時代の感想を今でもこのように思っている。
そしてその夜、由紀子がお別れを言いにやって来た。
彼女は北九州では古くから名の通っていた、有名私立のイエズス会ミッション系のM学園中等・高等学校に進学が決まっていた。
当時、彼女の父親は歯科医で、地元では屈指の資産家でもあり、この小学校のPTAの会長をしていた。その日の昼間、この威厳(いげん)の有る父親が卒業式で祝辞の言葉を述べたことも、まだ記憶に新しく感じる程、その弁説は威厳があったことを憶(おぼ)えている。
この晩の彼女との別れは、ただ、何とも言えないような、ほろ苦い、それでいて空しいいような気持ちで一杯になった。
そして、今でもこの時のことは懐かしく思い返されるのである。
─────これから暫(しばら)く音沙汰がなかったが、由紀子とは、M学園高校が福岡県の合唱大会に出場した時に、偶然にもF美術館で顔を合わせた。
彼女は合唱部に属していて、今日がその合唱コンクールの大会であったらしく、私はF美術館で開かれていた『マリー・ローランサン展』の展示会に来ていた。彼女も合唱コンクールの帰りに、この展示会に立ち寄ったものと思われた。
「お久しぶり。本当に偶然ですわね」
美しい大きな眼には、親しみを込めた優しさがあった。
彼女には当時の面影が残っている。懐かしい。こんなふうに、偶然に会えたことが、私にとっては思いもよらぬ驚きであった。
「やあ、……桜井さん」私の言葉は、その後が繕(つくろ)えなかった。
あれから五、六年ほど過ぎただろうか。
大人とも、少女ともつかぬ彼女の美しさは、私を魅了するばかりではなく、突然の出会いに躊躇(ちゅうちょ)すら与えるのであった。
「岩崎君。あの頃の面影がそのままね」と、懐かしさが溢れている。
《暗愚で、あの頃のまま成長が止まっていますから》と云いかけて、ただ「久しぶりですね」と社交辞令のような言葉を云い添えた。
このやりとりは、何処か噛(か)み合わずにいた。しかし、お互いのこの五、六年に関して、このようなごく単調で、単純な言葉を交したとは言え、その年月を埋めるには充分な伝達力を持ち、大まかな骨子は疎通したものと思われた。
「そうそう。丁度いい所で会ったわ。来週の日曜日、小学校の時のクラス会をしようと思っているの。岩崎君にも、往復はがきでお知らせしたんだけど、返事がなかったので心配していたのよ。出席するでしょ?」と、今まで忘れていたようなものを急に思い出したように言った。
どうやら彼女がクラス会の音頭を取っているらしい。私は頭(かぶり)を振った。
「どうしてなの?」
「やめとくよ」
「都合が悪いの?」
「……行きたくないんだ」
「どうしてェ?」
「理由なんかないよ」
「そう……」
「僕は桜井さんと違って、頭も悪く、成績もよくなかったし、きっとあの頃の仲間に会っても、話す事など、何一つもないと思うよ。気の合う友だちは一人も居なかったし……。行っても、馬鹿にされるのがオチだから……」
「……………」
由紀子はがっかりして、軽い溜め息をついた。彼女には、皮肉に聞こえたのだろうか。
私は担任であった、あいつの顔が見たくなかったのである。あいつだって、私の顔は見たいとは思わないだろう。互いに不愉快になることはやめるべきである。済んだこととは言え、この手のシコリは、いつまでも尾を曳(ひ)くようだ。
帰りは、F美術館前から直接バスに乗って、下宿先の西陣(にしじん)の叔父の家に戻れば良かったが、彼女のことが何か気になったので、博多駅まで一緒に行き、幾らかの言葉を交わし、此処で二人は別れた。
博多駅前から私はバスで西陣へ、そして由紀子は快速電車で北九州八幡に戻るのであった。駅の構内で別れて、彼女の後ろ姿を見た時、私の口から、切ない溜め息が洩れていた。
クラス会に行けば由紀子と会えるが、しかし担任の有田にも顔を会わすことになり、私があの時やらかしたことを、有田はそう簡単に許してくれる筈がないと思っていたからだ。
高校生当時の私は《金もないし、名門の御曹子でもない。また、女から、ちやほやされる容姿も容貌も持たない。そんな人間が、恋なんて……所詮(しょせん)彼女は高根の花……》と、諦めた気持ちで由紀子を遠くから眺めていた。そして、辛かった、厭(いや)だった記憶が脳裡(のうり)に甦(よみがえ)った。
運動会の予行演習のマイクの声を聞きながら、「キオツケ!ヤスメ!」の号令を聞いた時、不図(ふと)あの日のことを思い出していた。辛く、不愉快な出来事だった。
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