運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 2
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旅の衣・前編 32

神仏の前にぬかずき、神仏と伴に生き伴に死に、神仏無用と傲慢(ごうまん)にならず、然(しか)も神仏とは平行線も辿らず、神仏のあることを自覚しつつ、それでいて、「神仏に縋(すが)らず」という心構えを確立したいものである。
 神仏と伴にありたいが、それに対して一切の「現世ご利益」を需
(もと)めない。
 ヒトラーに対して、レジスタンス運動を企てて斃
(たお)れた牧師にして神学者のディトリッヒ・ボンヘッファーは「神の前に、神と共に、神なしで生きる」という名言を残している。
 人は斯
(か)くもそうありたいものである。
 信仰者の生き方は、またある意味で無神論者のような生き方でもあるのだ。


●気を付け!休め!

 昨日、由紀子が私にこう言った。
 「あたしたちの卒業したあの小学校、来年新しい校舎に立て替えるんですって」
 私はそれを気も止めずに聞き流していたが、今日午前中、散歩がてらに何の気なしに、巣立って行った小学校の運動場に面した道を歩いていた。
 金網の低い塀越しに、春の運動会の予行演習が行われていた。暫
(しばら)く懐かしい気持ちで、それを眺(なが)めていた。

 ─────その時、あることを思い出した。
 それは小学六年生の卒業間近のことであった。
 傾斜面
(けいしゃ‐めん)
 これは私の小学校時代に付けられた、侮蔑
(ぶべつ)を込められた渾名(あだな)であった。ニックネームにしてはあまりにも“あざけり”に似た響きを持っていた。揶揄(やゆ)そのものであったろう。
 私には刻印された「悲しいニックネーム」であった。二度と耳にしたくない渾名だった。
 この謂
(いわ)れの由来は、私の頭の形が前方に傾斜していることから、この渾名がつけられた。頭上の中央が尖(とが)り、坊主頭の恰好が極めて異様なさまから、この渾名がつけられたのだった。
 更に、二度と耳にしたくない渾名があった。
 「ボンクラ」である。
 私は八月生まれで、わざわざ盆の、冥
(くら)い時期に生まれて来た。
 つまり級友のいうには、「盆の冥いとき」だったから、ボンクラなのだというのである。
 しかし、ボンクラは事実成績も悪かったし、こう渾名されても文句は言えない。
 だが傾斜面だけは、何とも恥辱に包まれた気持ちに連れ戻されてしまうのである。

 小学六年の三学期になると、殆どの男子生徒は、中学に上がる前準備として、坊ちゃん刈りの頭髪を丸刈りにするのである。私もこの前準備として、頭を丸刈りにした。しかし頭蓋骨の恰好が良くなく、キューピーさんのようなビリケン頭
(Billiken)で、頭骨の中央の頂きが尖(とが)る恰好の悪さがあった。
 ちなみにビリケンとは、アメリカ合衆国第二十七代大統領・タフトの愛称ビリーに由来するという。また日本では、韓国統監として韓国併合を強行した首相の寺内正毅がビリケン頭をしていた。

 私のビリケンの原因は、母が私を出産する際の難産に由来し、大変な難産のうちに私が生まれて来たのである。はっきり言えば、私の頭が大き過ぎて、なかなか出産ができず、産婆
(さんば)から頭を引っ張り出されて生まれて来たということであった。そのために頭の形が、いびつに尖り、縦長に歪んだということであった。

 先天的な要素に一つに、私の頭の形の悪さが出産と同時につけ加えられていた。その様
(さま)を級友たちは「傾斜面」と渾名したのである。
 クラスの男女を問わず、私のことを侮蔑
(ぶべつ)を込めて「傾斜面」と渾名し、言われる度に何処からともなく爆笑が起り、最後には担任までが「傾斜面」と呼びつける始末であった。
 最初はこの渾名に激怒の色が隠せなかったが、次第に私自身も聞き慣れて、怒る気力の失せていた。言いたければ言えというふうになっていた。
 また、確かにその通りだし、事実を事実として認めることが、この世の定めなのである。事実だから、憤慨
(ふんがい)しても仕方ないことであった。
 一枚の鏡の前に立って、自分の貌と頭の形を見た時、傾斜したピリケン頭はなかなか確認し難いが、二枚合わせの鏡で見た時、この頂きの様子はよく分かるのである。この事実を認めないわけには行かなかった。
 そして事実は事実として、これ以上どうしようもないから、諦める以外ないのである。
 むしろ気にすべきことは、この種のことであるまい。もっと他にある。

 生まれ落ちる際、産婆から無理矢理、頭を引っ張り出されて生まれて来たのだから、それは隠しようもない事実である。また「自分がこの世に生まれた」ということも、また事実だった。
 そのうえ私は選
(よ)りによって、「自分に生まれた」ということであった。
 頭の尖った「傾斜面」と渾名
(あだな)される自分に生まれたことである。
 世の中には、今の自分の生が終れば、その後、何もなくなって、もう何も生まれて来ないと言う考えに取り憑かれている人は、意外に多いと思う。人間に生まれ変わりなどない、と信じる人は多い。
 しかしそのように考えるのならば、今“あなた”は何故、生まれたのか?……。
 そしてその「生まれて来た」と言うことは、今はじめて生まれて来たと言うことなのか?……。
 更に、然
(しか)も何故「他人ではなく、今の“あなた”なのか?」と問いたいのである。
 また人類と言う生き物は、いつかは消滅する事だし、人類全体が絶滅すれば生まれ変わることはあるまいと思うかも知れないが、その考え方には生まれ変わったら「未来に生まれ変わる」と思っているからだろう。

 だが、この思考が通用するのは、宇宙全体が同じ時間の流れで、「一斉に動いている」という条件に限り、である。その中で、自分も他人も同じように動いているという同時間の意識が確認出来る条件でなければならない。
 時間の経過は過去から未来に流れるとしたのは、人間の持つ知性が生んだものだった。知性が生み出したことにより、顛倒妄想
(てんとう‐もうそう)である「生存の世界」が有限状態で出現することになった。
 実は、宇宙は無限と信じられているが、それは人間が計算できない広大な領域を支配するからだ。この宇宙には、人間が計算出来ないほどの広大な有限があるのである。これを捉えて、「無限」とするのは実に短見である。

 最新の宇宙論では、「実は宇宙は反転している」という有力な学説が登場してきた。
 私たちは、「宇宙の流れは過去から未来に向かっている」と思い込んでいるようだが、「宇宙は反転している」という学説に遵
(したが)えば、「未来から過去に向かっている」と言えなくもない。“反転”の論理が正しければ、そういうことになる。

 今の人間の「生」が終っても、その終りに少しでも「生」の根っこの“念”が残っていたならば、残した課題を他の「生」において果たすことになる。それがこの現世で言う、昔の人間になるか、未来の人間になるか、何れも考えられることである。
 私たちが安易に思い込んでいる時間の流れとは、過去の経験を基にした事柄を集大成して、未来像に結び付けて考えるという知性の産物である。つまり過去の残像を未来に結び付けようとする観念である。

 だから人間は生存を離れては、時間や空間は存在しないのである。況
(ま)してや、人類が滅亡した後の、時間や空間も存在しないのである。
 そう考えると、私は私に「なぜ生まれたのか?」とつくづく思うのである。よりによって、他人ではなく“私に”である。

 もし、生まれる以前に生まれる先を選ぶことが出来たなら、決して今の自分の生などは選ぶことがなかったのである。また「わたし」は生まれて来なくてもよかったのである。
 こうなると、ますます『パウロの黙示録』が光ってくる。

人間は災いなり

罪人は災いなり

なぜ、彼等は生まれたのか。

 私は「なぜ生まれたのか?……」と、自分に生まれたことを考えるのだった。それも、選
(よ)りによって人間界に、である。
 なぜ、「この世界だったのか」と思うのである。
 私は人間界の人間に生まれたのは、なぜか?……。
 果たして人間でなければならなかったのか。疑問は次々に湧いて来る。
 そもそも人間とは、禍を抱えた生き物なのであろう。


 ─────小学校の卒業式の当日、ある事件が起こった。
 起こったというより、起こしたという方が正しいかも知れない。
 この事件は私に生まれた「自分」が惹
(ひ)き起した事だった。これは卒業式終了直後の出来事である。
 小学校の卒業式の当日、これで此処とも“お別れだ”という、晴れ晴れした気持ちで学校に行き、暗愚を証明する予想通りの「1」ばかりの通信簿を教室で受け取り、外に出た途端、不愉快な過去の出来事を再び浴びせかけられたのである。

 平戸から転校して間もない頃の小学三年生の時、数人から『座布団重ね』という遊びで、苛められたことがあった。このとき、怕
(こわ)さと腹部に掛る苦痛のために大便を漏らしたことがあった。
 座布団重ねというのは、一人の警戒心の薄い、隙
(すき)だらけの者に後ろからそっと近づき、風呂敷のような布を頭からスッポリ被せて目隠しをし、数人で袋叩きにして弱ったところに、更に上着か何かを被せ、次々に上から重なって、一番下の者を潰(つぶ)し込むという残酷な遊びである。
 子供の体格から考えれば、これは上から十人も乗られてしまえば大変な重みであるし、大変な苦痛である。息苦しくもなり、腹部にも相当な圧迫が掛る。
 それはちょうど、階段なので将棋
(しょうぎ)倒しになって惨事を招く事故があるが、あれを想像してもらえれば、この座布団重ねという遊びが、いかに危険であるか分かるというものである。
 私は、限度を上回る腹部への加重と、その恐怖から下痢状の大便を漏らしてしまったのである。

 級友から「臭い!臭い!」と馬鹿にされながら、そして担任の先生から罵
(ののし)られながら、泣く泣く自分の大便の後始末と、自分の衣服や下着を持たされ、学校の洗面場に連れて行かれ洗濯したことがあった。
 子供ながらに恥ずかしさと惨めさを味わった。
 この時も、「なぜ自分が?」と思ったのだった。なぜ「自分が大便を漏らす役を演じたのか?」と思ったのである。
 そしてその卒業式の日、後輩から見送られながら、クラスごとに列を作って学校の校門を出ていく途中、通路の中庭を通りかかったとき、偶然にも、その衣服と下着を洗濯した用務員室脇の洗濯場を通ってしまったのである。
 厭な想い出が忽
(たちま)ち襲った。
 列を作った集団の中の級友の一人が面白半分に、
 「岩崎。お前、此処で何をしたか覚えているか。糞をしかぶってよ、ここで洗濯したたことをよォ」と意地悪く、昔のことを思い出させたのである。
 女子も一緒に列を作って歩いていたから、たまったものではない。顔から火が出る思いであった。その中にも由紀子がいたのだ。聞かれてはならない女子が居た。

 脳裡
(のうり)に当時の恥ずかしかった気持ちが鮮明に蘇(よみがえ)り、周りを取り囲んだ級友たちは当時と全く同じような扱いをして、「臭い臭い」と集団で冷やかしにかかった。一種の集団苛めだった。
 この級友の集団の中に、当時の現場にいた者がいたのである。恥ずかしさと悔しさで、眼から涙がこぼれるのを覚えた。同時にこれまでの自尊心が休息に崩れて行くような感じだった。
 私はその場に暫
(しばら)く立ち竦(すく)み、拳を握った。切れたというより、自己崩壊が始まろうとしていたのである。
 汚点はいつまで経っても拭い去れないのか。失敗の汚名は灌
(そそ)げないのか。済んだことを、いつまでも笑われなければならないのか。人生に汚点を濯ぐ、敗者復活戦はないのか……。
 そんな無念さが込み上げて来た。

 「おい、どうした?……傾斜面。また、ここで、ウ、ウ、ウ、ウンコするのか」と吃
(ども)りのような真似をして云った。
 これを聞いた皆は、身を撚
(よ)じって爆笑した。
 このとき私は、他人
(ひと)の嘲笑(ちょうしょう)というものは、恥ずかしさを通り超して、何と卑(いや)しいものか、と思った。
 人間は残酷な生き物である。人間と雖
(いえど)も食物連鎖の輪の中にある。弱肉強食の世界に生きている。
 相手が弱いと分かると、徹底的に叩くものなのだ。弱い者を労
(いたわ)るなどという気持ちは、端(はな)から持ち合わせてないのだ。こうなったら自己崩壊させて、切れまくり、爆発させてもいいと思った。兇暴になることだけで、自分の口惜しさは雪(そそ)がれるのだと思った。

 俚諺
(りげん)に「落ちた犬は、打たれる」というのがある。
 落ちれば、同情されないのだ。落ちたら誰から助けてくれるというような、考えは実に甘く、そのような考えが出来るのは、よほどの楽天家である。
 一旦、川か、ドブに嵌
(は)まった犬は、助け揚げてもらえないばかりか、更に石を投げ付けられて、酷い目に遭うのである。面白半分に、こうされてしまうのだ。残酷な結末が待っているのである。
 私も、まさに「落ちた犬」であった。嘲笑
(ちょうしょう)は止む事がなかった。こう感じた以上、やることは一つしかなかった。

 この言葉を聞いた時、こう言った級友目かけて飛びかかり、首に腕を絡めて、捩じり倒すように、首投でその相手を投げた。そして顔に、思いきり拳骨を数発食らわした。これが私の、敗者復活戦の遣り方であった。
 そんな私に、「本当のこと言って、何処が悪い!」と後ろから声がした。
 「本当に糞しかぶったお前は、本当の事をいわれて、口惜しいから暴力を遣うのか!」と、また後ろから声が飛んだ。
 「何だと?」私はムキになっていた。
 肩で息をしながら、次に投げる相手に身構えていた。そんな時、また後ろから声がした。
 「岩崎君、止めなさいよ」
 由紀子だった。

 「そうそう、止めなさいよ、岩崎君」
 誰かが、ちゃかし半分に揶揄
(やゆ)した。
 私はそう云った者に向かって、「何だと、もう一度言ってみろ!」と怒鳴った。我慢ならなかったのだ。
 「本当に止めなさいよ、岩崎君」由紀子は、更に言葉を繰り返した。
 私は黙って引き下がるしかなかった。
 「傾斜面は黙って、お嬢さまの言うこと聞く方が、お利口さんよ」また、誰かがからかうように云った。
 弱い者への集中砲火が始まったのだ。
 そして、その揶揄にドット笑いが起こった。
 ここでは由起子も揶揄の対象に入っているのだ。彼女の名誉も守らなければならないと云う気持ちがした。
 その少年期特有の残酷な笑いは、強い者に諂
(へつら)う媚(こ)びに似たものがあった。
 しかし由紀子の居る手前上、もうこれ以上何も出来なかった。口惜しい気持ちを、ただただ押し殺すしかなかった。今にも涙が出てくるのを覚えた。

 「坊や。これくらいで、泣いちゃァ駄目よ、泣いちゃァ。いい子だから泣かないで……」何処からか、再び揶揄の冷やな声がした。
 それを聞いた時、その場に動けなくなって涙が溢れそうだった。
 そして突っ立っていると、由紀子が近寄ってきて、腕をとり、「岩崎君、あんな人達のことなんか気にしないで、さあ行きましょ」と、脱出の突破口を開いてくれたのである。
 由紀子の言葉にしたがって、校門まで言ったとき、由紀子が、「今晩、岩崎君のお家
(うち)に訪ねて行くからね」と、約束のようなことをした。
 そして由紀子とは、そこで別れた。
 家に帰る途中、いつも通る学校近くの路地の所に、待ち伏せしていたと思われる、私を罵倒
(ばとう)した悪ガキ数人と、中学生数人が私の前に立ち塞(ふさ)がった。苛める側としては、私は恰好の餌食(えじき)であったのだろう。それが今から始まろうとしていた。

 「おい、お前。俺の弟をよくも痛めつけてくれたな」
 そう、私にいちゃもんを付けたのは、首投で投げた級友の兄であった。手に竹刀を持っていて、それを私の顔の前に突き出した。
 「弟に謝れ。手をちゃんと地面について土下座しろ!」半ば脅迫的であった。
 機転の効かない私が、暫く周章狼狽
(しゅうしょう‐ろうばい)し、躊躇(ちゅうちょ)していると、「早く、土下座しろ!」と再び怒鳴った。
 私は言われる儘
(まま)に土下座するしかなかった。拳を握って地面に正座した。
 「その顔は何だ。悔しいのか。手を着け!ちゃんと頭を地面に着けろ!」等とも怒鳴られた。
 私は渋々頭を下げた。土下座した。

 「これで許してもらえますか」涙ながらに竹刀を持った中学生に言った。
 「いいや。今から気合いを入れちゃる。そこに気を付けしろ!」
 言われる儘に気を付けをしていると、今度は「休め」と号令がかかった。この場は簡単には立ち去れないようだ。
 此処では「韓信
(かんしん)の股くぐり」【註】漢初の武将・韓信が青年時代、辱しめられて、股をくぐらせられたが、よくこれに忍耐したことに由来)のような事が起こっていた。

 「気を付け!休め!」の号令が交互に掛かる。
 その度に「気合いが入ってない」と言うことで、尻を嫌と言うほど竹刀で叩かれた。そして、また「気を付け!」と号令が懸かるのである。
 以前にもこような目に遭
(あ)ったことがあるが、今日は以前にも増して本気で痛めつけるらしい。私はそれでも我慢していた。屈辱に耐えた。
 この集団は、私が何も手出し出来ないと分かると、更に過酷な要求をしてきた。人間は、無抵抗でいると、相手はトコトン付け込んで来て、思い上がり、無理難題を吹っかけるらしい。

 「その場に這
(は)え!」声変わりを終えた声が怒鳴ったのである。
 この言葉に躊躇
(ちゅうちょ)して、直立不動のまま「気を付け」をしていたら、思い切り、背中を竹刀で叩かれた。それでも暫(しばら)く「気を付け」をしていた。悔(くや)しさと、情けなさで、顔はしわくちゃになっていた。
 「その顔は何だ!悔しいのか?」と、薄すら笑いを浮かべながら、もう一人の中学生が私に詰め寄り、今度は水月
すいげつ/胃の付近の急所で水落とも謂う)を厭(いや)と言う程、石を握った拳で叩かれた。
 人間は、弱い者には、こうも残酷なことをするのだろうか。
 胃袋に、言葉に表せないような激痛が走った。立っていられない程であった。目から涙を出して、声を立てずに泣いていた。何と惨めであったろう。

 「その場に這
(は)え!」
 再び同じ命令がかかった。悔しい思いを噛
(か)み締めながら、黙って言われる儘にした。
 そして、「傾斜面!」と罵
(ののし)られながら、あの時の座布団遊びのようなことが突如行われた。腹這(はらばい)になった私は、数人から小学三年生の時と同じように袋叩きにされ、蹴られ、殴られて、上から押さえ付けられた。そして無抵抗の儘、こうした虐待(ぎゃくたい)を受けている自分が情けなかった。
 惨めだった。
 私は大声で、「許して下さい。もうこれで勘弁して下さい」と声を出して泣いていた。だが泣いたくらいで赦
(ゆる)す形跡はない。彼等の執拗(しつよう)な苛めに曝(さら)され続けていた。
 「駄目だ、誰が赦
すか!」
 人間と言う生き物は、子供や大人に限らず、相手が弱いと分かると、徹底的に虐
(いじ)め抜くようだ。徹底的にいたぶり、残酷の限りを尽くすのである。これは歴史を見ても明らかであろう。人間とはそうした生き物なのだ。ちっとも優しくないのだ。
 「力は正義」の名をもって、強者は弱者の筋の通った道理を咎
(とが)め、強者は自分の文化を押し付けるのだ。この世は、力が支配する世界なのだ。

 「お願いです。助けて下さい」と彼等に赦
(ゆる)しを乞い、更に大声で「誰か……助けて下さい」と叫びながら泣いていた。
 その時、遠くからは、偶然にも通り掛かった担任であった有田が、冷ややかな目で私を見ていていた。彼は何も動こうともしないし、助けてもくれなかった。以前から、私は「虫が好かない人間だ」と思われていたようだ。この担任の言った「虫酸が奔る」という語が、それを何よりも雄弁に物語っている。
 これはかつての、私から水泳の競争で負けたことのお返しなのだろうか、それとも、私の受難に関わる事を躊躇
(ためら)ったからであろうか。
 その暴行現場を通りかかりながらも、これを黙認し、仲裁に入って止めようともしなかった。
 悔しかったが、私は止めない担任に何も抗議することができなかった。彼がいつも言っていた「仲良くしなさい」とか「弱い者を虐
(いじ)めては駄目だ」という言葉は、社交辞令のような軽いものであったのだ。

 教師自身、生徒に対しては、「仲良くしなさい」と言っておきながら、一度
(ひとたび)、職員室に戻ると、日教組と非日教組の間で反目があり、「仲良くしなさい」の言は、見事に裏切られてしまう。
 また、「弱い者を虐
(いじ)めては駄目だ」という言も、実際に弱い者が虐められている現場では、全く説得力がないようであった。
 ただ一方的に蹴られ、殴られたのである。無抵抗のまま惨じめさを味わっていた。
 調子に乗って、私に暴行を加える悪ガキを横眼で見ながら、その一部始終を見ていた有田という担任に、無性に腹が立った。彼の、日頃から“お題目”のように唱えていたウソに腹が立ったのだった。

 激しい憤
(いきどお)りが湧き起こり、私の中の、何か、芯(しん)のようなものが弾けた。躍り出たという感じだった。
 突如、私は居直り、目の前に落ちていた何かの瓶
(びん)のカケラ拾って立ち上がると、大声を出して彼等に突進した。日頃の鬱憤(うっぷん)が爆発したのだ。
 私に暴行を加えていた者たちに、今度は私の方から襲いかかったのだ。
 この突如の反撃に恐れをなしたのか、悪ガキ連は慌
(あわ)てて逃げ出した。私は窮鼠(きゅうそ)になったのである。そして悪ガキどもは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 どうやら、私の分別のない狂暴性は、この時に芽生えたらしい。

 私は目標を変えて、今度は有田目かけて走り寄り、「天誅
(てんちゅう)」と叫び、奴の尻に、この瓶のかけらをぶち込んでやった。そして、怯(ひる)んでいる隙(すき)に、落ちていた水道パイプの切れ端を握っていた。
 天誅とは、天のくだす誅罰
(ちゅうばつ)のことである。また、天にかわって誅罰することをいう。
 私は、奇
(く)しくもこの「天誅」と言う言葉を知っていたのである。【註】この謂(いわ)れは『旅の衣』後編を参照)

 その時、何からともなく叔父の言葉が聞こえて来て、「面打ちは、茶巾
(ちゃきん)絞りが肝心じゃ」というように聞こえた。
 その言葉通りに茶巾絞りを固めて、奴の頭目がけて、とどめを刺してやった。奴の頭からは血が吹き出していた。これで私の今までの多くの憤然の思いは、これで一矢
(いっし)報いることができた。
 奴は教師の立場からであろうか、怪我を負わされた事を一切不問にし、これを警察沙汰にしなかった。
 此処に由紀子がいなかったことが、せめてもの救いであった。

 父から買って貰った新品の中学の制服は、至る所が破れて泥だらけになり、顔や手足は痣
(あざ)だらけになった。家に帰ってそれを問い質(ただ)された時、母には、階段で転んだとだけ言った。

 母は私の持ち帰った通信簿を見て、嘆きのような溜め息を洩した。それには全ての教科に「1」がつけられていた。
 二学期までの成績はまばらに、4
(図画・工作。本来は五段階評価なので、クラスには「5」を貰えるのは50人クラスで五人居るはずなのであるが、美術史も含めて図画・工作もトップであったが、何故か一ランク墜(お)ちて「4」しか貰えなかった)、3(家庭科)、2(算数)の数字があったが三学期の評価は、統(すべ)てが「1」に化(ば)けていた。これまで得意だった図画・工作までもがである。
 有田教諭は担任だから、どのような評価を下そうと勝手だが、これは明らかに何かの意図をもった、不公平な評価である事は明白であった。
 そして所見の箇所にこう記されていた。

 『当人は将来にわたって、何の知的業績も、学術的要素や可能性も、一切期待できない』と、蔑みに満ちたそんな内容が、不名誉な烙印
(らくいん)と共に一種の確信を持った、まるで鮮やかな朱肉で押した判子を思わせれるような赤インクで記載されていた。
 どうして人ひとりを評価するのに、こうした有らん限りの蔑
(さげす)みの言語を寄せ集めて、こうまでに痛めつけねばならないのであろうか。あるいはそれだけ嫌われていたのだろうか。それが私には分からない。
 これを理解しようと思えば、私の生まれたこと事態を考え直さねばならない。
 一体、「虫酸が奔る」という罵倒は何に由来するものだろうか。前世から考え直さねばならぬのか。
 果たしてそう言うことがあるだろうか。
 人間は、ひとたび思い違いを致せば、ここまで暴走するものである。
 そしてそれが不動の固定観念になる。善い悪いではない。そこに先入観は定着し、もう再び修正されることはない。何と狭くて小さな生き物だろう。
 その所見は、神経質そうな細字が、更に、私の気に喰わぬことを強調しているかのようであった。
 しかしこの担任は、これだけでは言い足りないらしく、嬉野小学校に居た頃の『指導要録綴』を取り寄せ、更に細かく記した。

《田中A式知能指数五学年一学期72。二学期70。知能指数極めて劣勢。
 ・国語力への関心は極めて少ない。読解力は乏しい。
 ・社会科は常識に富む判断力を持ち合わせない。
 ・算数は計算力に欠け、九九
(くく)の暗唱に問題あり。国語力不足のため文章題は皆無。
 ・理科は実験に興味なし。
 ・音楽は音階判別に乏しい。
 ・図工は、やや図形的形状を把握する理解力はあるが、他人の作品に影響されて真似する模倣的な猿真似
(さるまね)が甚だしい。独創性なし。
 ・体育は運動神経及び反射神経に欠陥的問題あり。運動能力は常人の半分以下と認む。性格的には極めて暗愚かつ狂暴性を潜ませている。以上のことから、何の知的業績も、学術的要素も将来に亘り、一切期待できないと確信する》

 それは「絶対だ!」、「間違いはない!」と断定し、確信に満ちていた。これ以上の、一人の人間を、とことん詰
(なじ)る、こんな酷い表現方法が他にあるだろうか。
 人間は全てが「よく出来る」という万能人間も居ないかわりに、全てが「一切出来ない」と言う人間も居ないのである。出来ない人間でも、一つくらいは他人にない秀でたものは持っているのである。それを「皆無」という表現で決めつけてしまうのは如何なものか。
 しかしこの『指導要録綴』は、教師の記録作りという面で大きな成果があったと思われる。
 要するに文部省も県教育庁も市教育委員会も、現場を携わる教師を信用しない風習があり、形式ばかりを要求する体質がある。
 文部省の指定する教育指導要領に従い、要求された通りに書類や記録を沢山作成した教師が、何処の学校でも優秀な教師と評価されて、やがては学年主任、校務主任
(教頭)、校長へという出世のルートを約束されるのである。

 私は少年期のことを振り返って、こう思う。
 子供は、親や教師から躾
(しつけ)られ、教えられなければ育たない。しかし、親や教師の支配する枠の中で育つ訳では、決してない。
 戦後の民主主義の特徴に一つに、「平等主義」が掲げられているが、結局、その標榜
(ひょうぼう)とする「教育」、あるいは「子育て」という言葉は、表面的には美しいが、一皮剥(む)けば、植物の「促成栽培」、動物の「人工飼育」と、何ら変わるところはなく、「人間管理」や「子供支配」という、大人指向の幼児的な発想から抜け出していない。その範疇(はんちゅう)にとどめるものである。
 これは人間を歪める最も危険な考えではないか……と私は考える。

 私は北九州に居た、小学校高学年の時代の感想を、今でもこのように思っている。この時期は毎日が無念の日々だった。それでいて、登校拒否はしなかったのである。毎日、罵倒されても学校に足を運んだのだった。
 それは、登校拒否をすれば、自分が負けたことを意味するからだ。
 また、人の世は善悪綯い交ぜで、清濁併せ呑みのである。構想がこうである以上、悪の中にも善に気付かせる反面教師がいるのである。
 私の場合は、反面教師にお目に掛かっただけでも、他の誰よりも幸せだったと思っている。


 ─────そしてその夜、由紀子がお別れを言いにやって来た。
 彼女は北九州では古くから名の通っていた、有名私立のイエズス会ミッション系のM学園中等・高等学校に進学が決まっていた。名門校である。
 当時、彼女の父親は歯科医で、地元では屈指の資産家でもあり、この小学校のPTAの会長をしていた。その日、この威厳
(いげん)の有る父親が卒業式で祝辞の言葉を述べたことも、まだ記憶に新しく感じる程、その弁説は威厳があったことを憶(おぼ)えている。
 この晩の彼女との別れは、ただ、何とも言えないような、ほろ苦い、それでいて、空しいような気持ちで一杯になった。そして今でも、この時のことは懐かしく思い返されるのである。


 ─────これから暫
(しばら)く音沙汰がなかったが、由紀子とは、M学園高校が福岡県の合唱大会に出場した時に、偶然にもF美術館で顔を合わせた。
 私は美術館の前を歩いて、鉢合わせの偶然に遭遇したのだった。果たして偶然は起こりうることなのか。
 一口で偶然というが、これは起こるべきして起こった、内部に必然が隠された「因縁」でなかったのか。
 いつも「出会い」というものをそのように考えてしまうのである。

 彼女は合唱部に属していて、今日がその合唱コンクールの大会であったらしく、一方私はF美術館で開かれていた『マリー・ローランサン展』の展示会に来ていた。彼女も合唱コンクールの帰りに、この展示会に立ち寄ったものと思われた。
 「お久しぶり。本当に奇遇ですわね」
 確かに奇遇だった。美しい大きな眼には、親しみを込めた優しさがあった。
 彼女には当時の面影が残っている。懐かしい。こんなふうに、偶然に会えたことが、私にとっては思いもよらぬ驚きであった。
 八門遁甲では、これを「驚」といい、正八角形の“驚門”に配置する。不安や不安定を暗示する配当に振り当てる。決していい暗示ではない。そして人間は「最初の出会い」が後々まで余韻を引くことがある。

 「やあ、……桜井さん」
 私の言葉は、その後が繕
(つくろ)えなかった。美貌に恐れを為したからだ。後退したいような衝動にかられたのだった。
 あれから五、六年ほど過ぎただろうか。
 大人とも少女ともつかぬ彼女の美しさは、私を魅了するばかりではなく、突然の出会いに躊躇
(ちゅうちょ)すら与えるのであった。目映いばかりだった。
 「岩崎君。あの頃の面影がそのままね」と、懐かしさが溢れている。
 《暗愚で、あの頃のまま成長が止まっていますから》と云いかけて、ただ「久しぶりですね」と社交辞令のような言葉を云い添えた。
 このやりとりは、何処か噛
(か)み合わずにいた。しかし、お互いのこの五、六年に関して、このようなごく単調で、単純な言葉を交したとは言え、その年月を埋めるには充分な伝達力を持ち、大まかな骨子は疎通したものと思われた。
 「そうそう。丁度いい所で会ったわ。来週の日曜日、小学校の時のクラス会をしようと思っているの。岩崎君にも、“往復はがき”でお知らせしたんだけど、返事がなかったので心配していたのよ。出席するでしょ?」と、今まで忘れていたようなものを急に思い出したように言った。
 どうやら彼女がクラス会の音頭を取っているらしい。私は頭
(かぶり)を振った。

 「どうしてなの?」
 「やめとくよ」
 「都合が悪いの?」
 「行きたくないんだ」
 「どうして?」
 「理由なんかないよ」
 「そう……」がっかりした返事だった。
 「僕は桜井さんと違って、頭も悪かったし、成績もよくなかった。きっとあの頃の仲間に会っても、話す事など、何一つもないと思うよ。気の合う友だちは一人も居なかったし、ひとりぼっちだったし、行っても、馬鹿にされるのがオチだからね……」
 「本当に今もそう思っているの?」
 「……………」
 「だったら是非来てよ、それが思い込みであることが分かるから……」
 「いや、やはり、やめとくよ」
 それは脇役を懸念してのことだった。
 本来人生は、一人ひとりの誰もがそれぞれに主人公なのだが、主役でなく脇役に押し込まれる影の薄い主人公もある。こうした者は、たいてい哀れな結末を辿り人生を終える。そうならないためには、此処は踏み止まって、動かないことだ。

 由紀子はがっかりして、軽い溜め息をついた。彼女には、皮肉に聞こえたのだろうか。
 私は担任であった、あいつの顔が見たくなかったのである。あいつだって、私の顔は見たいとは思わないだろう。互いに不愉快になることはやめるべきである。済んだこととは言え、この手のシコリは、いつまでも尾を曳
(ひ)くようだ。
 由紀子は顔を出すだけで、その美貌にチヤホヤされ、いっぺんで主人公を演じることが出来ようが、私はそうではない。脇役に廻ることは眼に見えていた。
 嘲笑と罵倒が待っている人生の鬼門には、無闇に足を踏み入れないことだ。吉凶を予見し、凶には近づかないことだ。それが唯一の防禦策だった。触らぬ神に祟りなし……。これ以上の防衛はないのだ。
 辞退する……それこそ最大の防禦だった。

 私は、まだまだガキだった。未熟さを引き摺った成長の止まった軽薄なガキだった。
 少しばかり大人的な考え方が出来るのなら、嘲笑も罵倒も、誰かの怒鳴り声の揶揄も、蝉
(せみ)の鳴き声くらいには平気で聞き流すことが出来ようが、私は未熟で、まだガキだった。そう思うと、鬼門に顔を出す気分にはなれず、気持ちが萎(な)えてしまうのだった。未だに狭量が拭えないでいた。
 だか、狭い領域に押し込められた人生で潰
(つい)えるのは嫌だった。
 一泡でも二泡でも、吹かしてみせる人生を望んでいた。鬼神も避けて通るような人生を……。

 世の中に、人が見落とした隙間はないのか?……。
 それを探さずにはおかない。必ず探し出す。
 更に、見向きもされない宝の山はないのか。拾われずに放置された福は転がっていないのか。
 私の人生課題は、もうこの時から始まっていた。
 転んでも、タダでは起きないぞ。それが私の意地であり、一つの見栄から起こる痩せ我慢だった。
 人生は長いようで短い。本当に短いと思う。
 短いことに気付かないのは、思い上がった若者だけである。
 人生は短いのだ。決して長くない。これは、私の持論だった。
 一人の人間の人生を、決して長いとは思わなかった。人間、せいぜい長生きをしたところで、高が百年程度の人生である。宇宙の悠久の歴史から見れば、人間の人生は長生きしたところで、せいぜい百年である。

 下手をすれば、百年未満で死ぬ。その可能性も大だ。
 否それだけではない。その半分の五十年で死ぬ時もある。多くは、事故死である。自然死ではない。事故に遭遇して死ぬ。
 事故死は何も交通事故ばかりではない。病死もあろうし、殺人事件などに捲き込まれたりもしよう。不吉なものに取り憑かれて、自ら命を縮めることもある。避けるべきところを避け損なって、悲惨な事故死に遭遇するのである。
 生と死は表裏一体の関係にある。生の中に、死が内蔵されているのである。
 生きているとは、脳が正常に働いている時を云う。
 寝たっきりになったり、植物状態では、もう生きているとは云えない。行動が起こせてこそ動物であり、また人間のアクションが脳と連結した状態と云える。脳が働かなくては、死んだも同然だ。
 では、百年未満で死なないように長生きをするためには、どうしたらよいか。
 まず、体内の酵素が活性化されなければならない。活性化により、化学反応がスムーズに行わなれなければならない。その結果、新陳代謝が正常に行われるのだ。これが体調を良くする。限りある命を継続させる。
 同時に、脳の機能もアップされる。この条件が整って、はじめて脳を正常に維持できる。
 「人生はまことに短きことなり」と、『葉隠』でも言っているではないか。

 こうした短き人生を生きるには、有効に使うというより、好きなことをして過ごすしかない。嫌なことをすれば、寿命を縮めるだけである。好きなことをして、好き勝手に、それに一生懸命うちこむことだ。
 無理に、こだわることはないのだ。こだわれば、それだけ心労が祟
(たた)り、寿命を縮める。短き人生、いつまでも、こだわっている暇はないのだ。

 バカの一つ覚えのように、何事かに、こだわる必要はない。
 昨今は「こだわる」ことを間違った、然
(しか)も訝(おか)しな日本語が流行しているが、こうしたことがまた同時に、今日の日本人をおかしくしているのである。言霊を狂わしているのである。この狂いに気付く人は少ない。
 昨今の日本人がおかしくなったと感じるのは、私だけではあるまい。
 人生を短命に終わらせないためには「こだわらない」ことだ。
 そのためには好きなことをして生きるのが一番。もっと自由に生きればいいのである。
 金・物・色に振り回されて窮屈に生きる必要はない。
 執着しない、頓着しない。そして「こだわらない」が、私の人生のおいての大発見だった。
 こだわれば狭くなるのである。肩身は狭くなり、息苦しくなり、最後は自分すら見失って世間の風に吹かれてしまうのである。
 何事かに、一心に物事を探求したり追求するのであれば、それはこだわるのでなく、「極める」と言うべきであろう。こだわることは拘泥
(こうでい)である。小さな枠の小さな世界で、重箱の底を楊枝でほじくるような行為である。その行為は、確かにこだわりであろうが、極めることとは程遠く、依怙地(いこじ)そのものである。頑(かたくな)を感じさせる。迷えば頑迷となる。
 この頑迷は、極限まで迫ることでない。幻影を追求し、それを拘泥したことに過ぎない。
 拘泥は、短い人生を更に短く終わらせる「元兇」だった。それは不幸への元兇だったのである。
 「こだわりは短命のもと」だったのである。そのことに気付いたのだった。

 私と由紀子は、帰り、同じ道のりを辿った。
 長浜から、博多駅に向かうには同じコースしかなかった。
 F美術館前から直接バスに乗って、下宿先の西陣
(にしじん)の叔父の家に戻れば良かったが、彼女のことが何か気になったので、博多駅まで一緒に行き、その道中は幾らかの言葉を交わし、私は図々しく駅の構内まで同行し、此処で二人は別れた。
 博多駅前から私はバスで西陣へ、そして由紀子は、快速電車で北九州八幡に戻るのであった。駅の構内で別れて、彼女の後ろ姿を見た時、私の口から、切ない溜め息が洩れていた。
 (あんなのがいいなァ……)これが彼女への切ない思い入れだった。それが溜め息になって、洩れたことを憶えている。

 クラス会に行けば由紀子と会えるが、しかし担任の有田にも顔を会わすことになり、私があの時やらかしたことを、有田はそう簡単に許してくれる筈がないと思っていたからだ。
 それから由紀子の再会するのは、更に6年後のことだった。
 山口県の綾羅木
(あやらぎ)の海水浴場で会うのは、それから6年後のことだった。

 高校生当時の私は《金もないし、名門の御曹子
(おんぞうし)でもない。また、女から、ちやほやされる容姿も容貌も持たない。そんな人間が、恋なんて。所詮(しょせん)彼女は高根の花……》と、諦めた気持ちで由紀子を遠くから眺めていた。そしてこのとき、辛かった、厭(いや)だった記憶だけが脳裡(のうり)に甦(よみがえ)っていた。
 運動会の予行演習のマイクの声を聞きながら、「キオツケ!ヤスメ!」の号令を聞いた時、ふと、あの日のことを思い出していた。辛く、不愉快な日々だった。
 これは時が経っても、簡単の忘れられるものではなかった。そこには、何事も水に流せない、蟠
(わだかま)りを引き摺った私の姿があった。心のに貼り付いて、未だにほぐれないこだわりの塊(かたまり)があった。


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