運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 28

高慢で、尊大で強いことをいう弱い人は、弱いことをいう弱い人よりも有害である。また相手を遣り込めようとして、傲慢な口調で指弾する弱い人は、弱いことを言う強い人より、有害である。
 更に弱いことをいう強い人は、強いことをいう強い人より、極めて有用である。


●開眼

 ある日、眼の焦点が合わなくなっていることに気付いた。
 食事の時、食卓に載った食べ物が、自分の思うように掴
(つか)めない。全て、物が平面に見えてしまう。立体感がないのである。左眼が失明寸前で、右眼だけで見ているためである。
 私は眼窩に疵
(きず)を持っていた。
 ゆえに見ている物への距離感が殆ど掴めない。
 恐らく、かつて山村師範から左眼下を棒で突かれたときの疵のせいであろう。その外傷が眼球の内部まで侵入して、悪化させているのだ、と思った。左眼の弱視である。
「万難、我に……」と、三日月に祈る山中鹿之助の少年像。自ら難儀を買って出た鹿之助。

 自らを鍛えるために万難を待ち望んだ、戦国の武将・山中鹿之助
(やまなか‐しかのすけ)ではないが、「我に万難来たれ」と豪語していたら、本当にその洗礼を受けたらしい。これも天命だとさっぱり割り切った。
 人間はどうにもならないことはさっさと諦め、それを潔しとして割り切るしかないようだ。いつまでも「こだわる必要」はない。ならぬものは、ならぬのだ。

 何事も諦めが肝心である。
 二進
(にっち)三進(さっち)もいかなくなったら、諦めて、あとは天に任せることだ。
 徹底的に人事を尽くす必要があろうが、努力して遣るだけのことをやったら、後は任せて、その後、何が起ころうと頓着する必要はないのだ。
 これこそ「努力する他力」だった。
 努力して後は任す……、人間の遣れるところまで人間が遣れば、あとは人間に責任はない。天に委ねるところである。
 人間の知るところではない。

 愚かな人間ほど、人間の人知には限界があると云うことを知らない。
 これを人知で、努力で何とかなると高を括
(くく)っている。
 そして「無限……」とか、「無限の可能性……」などと軽々しく云う。
 もし無限を確信で来るのなら、無限を信じた人間は古代より精神思考を司る間脳
(中脳と大脳半球を結ぶ部分で、中心部に第三脳室と呼ばれる腔所で、霊的なものを司り霊的神性の拠り所)は大きく進化している筈である。

 ところが、二千五百年前の人間より優れているかというと、そうではない。現代人は太古の人間より退化した人間なのである。現代人の科学万能主義の過信は、それを雄弁に物語っている。
 人知で大自然の猛威は制御出来ない。
 しかし人間の力で管理出来ると考える。天変地異を人災などというバカも居る。自然災害まで人知の所為
(せい)にしてしまう。そして人災だと喚く。それゆえ人知で解決出来ると過信している。
 だが人知で、どうしようもないこともある。それを人間の力で改善できると思うのは、人間の思い上がりである。
 もともと人間は「非存在」なる生き物なのである。
 この生き物は、自分の力で生きているのではない。天により、天命により生かされているのだ。此処を思い違いすると大変なことになる。心にはいつも謙虚に「生かされている」ということに感謝する気持ちが大事なのだ。

 戦時や災害時には、多くの死者が出るので、人間の生死には、これを別ける明暗に何か眼に見えない力が働いているのでは?……、と考えるのであるが、これは平時の平和惚けの中にいると、人間が自分の力で“何とかなりそうだ”などと思い上がった考えを持つようになる。
 それは得てして「平和惚け」から来る思い上がりであろうが、この思い上がりこそ、最も警戒しなければならない事柄であろう。
 今日の日本のように、国民の殆ども戦争を知らず、その悲惨さもし習い集団の中では、殆ど戦争の恐ろしさが分らない。また平和の有り難さが分からない。
 こういう状態の中にいると、人間は人生設計を自分の力で切り開いたり、自分の努力で地位が向上したり、何でも自分の力と自分の努力さえあれば、何でもできるような気持ちになる。そうした、努力が実るような錯覚を抱く。ところが実際にはそうではない。現実はそうではないのだ。

 現実問題として、いかなる社会制度も、種々の保険も、防災に対する訓練も、人間が考え出した知恵も、人間一人ひとりの生命と財産は、完全に守りきる事は出来ない。これは一度戦争が起れば、それらが無に帰するのは誰の眼にも一目瞭然であろう。
 人間とは……人間の運命とは、結局戦時でも平時でも、戦争と云う名の付く“一大事”に変わりなく、それに匹敵する禍
(わざわい)が起るのである。戦時も平時も、その分類は無用だ。
 人間に降り懸かる禍
(わざわい)は、いつの時代にもやって来る。そしてその人に禍を齎(もたら)すものも、そうでないものも、それは天の仕業(しわざ)である。

 安穏と、無能を曝
(さら)して生きる時もあれば、ある日突然、いわれなく殺される時もある。これらは総て天の仕業である。人間には及びもしない、空恐ろしい力である。この力に人間は敵(かな)うわけがない。敵わないからこそ、努力を精一杯やった後には、「人事を尽(つく)して天命を待つ」のである。人間として出来る限りのことをして、人事を尽くしたならば、その後は天命に任せて心を労しないのである。
 此処に「他力一乗
(たりき‐いちじょう)」の妙がある。
 何事も努力後は任せれば良いのである。


 ─────さて、困ったことだが、私はこの時、左眼が弱視になりつつあった。併せて、遠近感がなくなりつつあった。いわれのない災難だった。
 だが任せると云っても、何に任すのか。他力一乗に縋
(すが)るかないのである。
 他力一乗に縋り、遠近感を克服するのか。果たしてそれは可能か。
 こうした一切が数珠
(じゅず)(つな)ぎになって、私の脳裡を翳(かす)めていた。
 しかし武術家の立場から言いうと、遠近感がないことは、飛び道具に対して非常に不利となる。
 視覚の遠近を失うため、矢や手裏剣が受けられなくなるばかりでなく、制空圏を持つ剣や槍や拳すら、受けたり、躱
(かわ)したり出来ない状態になる。
 もし、そのような事態が発生したら、後は自らの第六感に頼るしかない。間合についても同じことが言えるだろう。
 相手との距離感を探るにも眼以外の、勘
(かん)に頼るしかないのである。
 これは武術家として、致命的な欠陥を背負ったことになり、余生は廃人同様となる。勘に頼り、そこから憶測することは難しいからである。
 これを不運な人生と取ればそれまでだが、天命と捕らえて、天が、吾
(われ)を験(ため)さんとして、火と水の試煉(しれん)を与えていると捕らえれば、差し当たり、悔(く)やんで嘆くこともない。こうしたとき、この切替は早い方がいいのだ。何も「こだわる」ことはない。やはり任せるべきは「他力一乗」だろう。私はそう踏んだのだった。
 総て「天」に任せれば良いのである。

 天は、吾
(われ)に何事かの大役を与えんとしているのだと、頭から、私はそのようにこじつけた。
 とは言うものの、内心は、そう単純に割り切れるものでなかった。不安で複雑な動揺が脳裏を翳
(かす)めていた。そして私の開眼への模索は、この時から始まったのである。
 迷いが解けなかった。何かが絡み付いているような、自分の中に弱さとか、弱き者に対しての弱気を分かち合う共感のようなものが巣食っていたからである。これを駆逐しなければならないと思っていた。
 以前から感じていたことだが、この共感がややともすると外に向かわず、裡
(うち)に入り込んで来ることもある。
 弱気が忍び込めば、心が弱くなるばかりでなく、何事にも挫け易くなる。人生の苦難の旅は、いま始まったばかりである。此処で挫
(くじ)けるわけにはいかなかった。

 したがって、わが肉眼だけでなく、心の領域までもの眼が狭まり、曇らされ、迷わされ優柔不断に陥り、単眼視野で見てしまうのが殆どだった。
 最近はこれが烈
(はげ)しくなったように思うのである。妥協に奔(はし)るのは弱い証拠である。
 修行が足りないな……。そういう悔悟が疾
(はし)るのであった。
 見えるものを見ていないし、観えている筈のものも正しく観ていなかった。それは単眼視野の所為
(せい)であった。視野自体に奥行きがなかった。みな平面だった。
 あたかも壁に掛かった絵を、辺りの景色に観ているようだった。
 奥行きがない。遠近感がない。総て平面に観えてしまう。これを何とかしなければならなかった。
 このままでは肉の眼だけではなく、心に映るものまで見えなくなってしまう。
 これを何とかしなければ……。何とか駆逐してこの元兇を回避しなければが、私の課題だった。

 私は旅の決意をしていた。一人旅である。
 自らを見詰め直し、深く掘り下げて己を探求するためである。
 柵
(しがらみ)を離れての一人旅である。
 出発真際
(まぎわ)、由紀子に逢(あ)って行こうと思ったが、逢えば悲願を成就して思い立った旅が、途中で挫折(ざせつ)してしまいそうな気がしたので、逢わずに行くことにした。
 思えば既に、帆柱八幡の「幸甚祭」で挫折させられたからだ。今度も、同じ目に遭
(あ)えば必ず挫折させられる。未練が重くなる。そして悲願は成就しない。
 彼女に逢えば心が揺らぐに違いない。
 揺らげば、是非とも成就したいと、心から念じている願望が総崩れする。そうなってはまずい。暫
(しばら)く忘れることだった。柵になる、恋慕の思いなど、暫(しば)し忘却する以外なかった。
 私の行動の源は彼女に逢わないことで、その意地が保たれているのである。痩せ我慢のエキスである。
 由起子は、今は脳裡に置くべき人でない。取り払うべき女だった。

 自分の手短な荷物を鞄に纏
(まと)め、五日程の旅を決意した。
 道場は各曜日ごとの担当の指導員に任せることにして、直に帰る予定でいた。兎
(と)に角(かく)一人で、ぶらりと旅に出ることにしたのである。気ままな一人旅だった。

 旅先は差し当たり決まっていなかったが、学生時代、訪れた事のある熊本県南阿蘇
(みなみ‐あそ)の垂玉(たるたま)温泉渓谷に行くことにした。
 
(ここは、ひとつ温泉にでも浸かって、これまでの世間の垢と心労からの疲れでも、洗い流してみるか)そんな「ありったけの我が儘」を満喫してみることが、この旅に目的だった。私流に、自分を自分の気のすむように動かしてみたかったのである。もう、これ以上の理由付けはいらなかった。
 八幡駅から午後の急行列車に揺られて、一路熊本へ。熊本駅からローカルの垂玉
(今は第三セクターになっている)に乗り換えるのである。

 渓谷の山間
(やま‐あい)を縫(ぬ)って走る、二両編成のツートンカラーのディーゼル列車は新緑の山並みを縫い、長閑(のどか)な春風を車内に齎(もたら)せてくれる。午後の陽差しが心地よい春風とともに頬(ほほ)を撫(なで)る。
 景色は数年前と殆ど変わっていなかった。違っていたのは、その景色が遠近感のない平面に見えたことだ。
 しかし、暮れ泥
(なず)む春の気色は、実にいいものであった。そして、長閑(のどか)でもある。
 山並みを遠望すれば、そこはまさに山水画の世界だった。
 車内に夕陽が差し込んで、あたりを赤く染め上げたのだった。そしてその赤が、また旅情に何とも言えない哀愁を添えたのだった。
 時刻は黄昏が迫ってくる頃だった。何もかもを赤く染める暮れ泥む黄昏が近くに迫っていた。その染まった山は、一風変わった風貌を覗かせていたのである。

暮れ泥(なず)む春の山間。

 垂玉
(たるたま)駅は、黄昏にすっかり包まれ、周囲の山々は赤く染まっていた。夕陽に染まった美しい景色である。
 この山の駅は深い山間
(やまあい)と渓流の流れる傍(そば)にある。此処から曲がりくねった山路を、更にバスに揺られて垂玉温泉へと向かうのである。バスの所要時間は30分ほどであろうか。
 そして終点の山口旅館に着いた。
 既にあたりは、仄暗
(ほのぐら)かった。夕闇が迫り辺りはぼんやりとしていた。夜の帳(とばり)が降り、山里の風景はすっかり宵闇(よいやみ)に包まれた静けさを漂わせていた。

 学生時代、此処を訪れた時は二人の若い住み込みの女中さんが居たが、このとき彼女達は此処を去って、もう居なかった。結婚でもしたのであろうか。その代わりに五十年輩の女性が、日通いで働きに来ていた。
 この人は如何にも農家の“働き者”という感じの主婦で、まめまめしくよく動き回る人だった。機転が利くためか、客の接待もそつが無かった。

 またシーズン・オフで客が少ないせいか、この女性が一人で、旅館内を切り盛りしているようだった。
 今回は全く女気無しの、地味な滞在になりそうである。そう思うと、不純なことは頭から一掃されたようであった。
 客は私の他に、福岡県大牟田から来たお遍路
(へんろ)さん老夫婦と、熊本の行乞僧(ぎょうこつ‐そう)らしい壮年の人と、合わせて四人であった。
 此処は寂
(さ)びしい山の中である。
 夕飯を済ますと囲炉裏端
(いろり‐ばた)へ話し込みに行く。夜は当然、人恋しくなるので、お互いが一つの集団になって、火の入っていない囲炉裏端を囲み、自然とそこに世間話に花が咲くのである。
 私は聞き役に回って相槌
(あいつち)を打ち、話に趣(おもむ)きを添える役に回った。
 そして程よい頃になると、誰からともなく身の上話が始まる。
 最初はお遍路さん老夫婦の、旦那さんの若かりし日の軍隊時代の話であった。次に復員してからの夫人との馴
(な)れ初(そ)めであった。

 お遍路さん老夫婦は、その夫人が脳卒中の後遺症からか、両手が中気
(ちゅうき)のような不自由な状態で半身不随であるらしい。下半身にも軽い症状が出て思うように歩けず、いつもその旦那さんが付き添っていて、入浴や食事、便所の行き来まで面倒を見ていた。
 この老夫婦のお遍路さんは慎
(つつ)ましく食事を自炊し、食事の時は旦那さんが、夫人の口までスプーンで食べ物を運んで食べさせてやっていた。長年、連れ添った夫婦ならではのことであろう。実に、ほほえましい光景であった。
 夫婦とは歳老いても、斯くもこうあるべきだと言う教えを受けたような気がした。私はこれらの光景をこの旅館に到着した時、それを遠くから見てそう感じたのである。そして、この老夫婦の旦那さんの語り口は、なかなか雄弁であった。

 もう一人の客は、僧侶で五十歳くらいの曹洞宗
(そうとう‐しゅう)の行乞僧(ぎょうこつ‐そう)であるという。話してみると中々の博識(はくしき)である。社会情勢や風俗に至るまでのことを、何から何までよく知っていた。聞くところによると、その人は、元は熊本市内で、小さな鉄工場を経営していた零細企業の社長であったと言う。
 この人の話によると、鉄工場の工作機械に腕を挟まれて、腕から下を切断したらしい。この僧には、右腕が肩の付け根から無かった。入浴の際、私と一緒に入った時に、このことを話してくれた。それ以来、人の世の無常
(むじょう)を感じ、人生を模索したその選択の結果、出家して曹洞宗の行乞僧になったという。

 無常とは、仏道によれば、一切の物は生滅し、変化して、常住でないことをいう。常住でなければ、その世界に生きる生きとし生けるものは、“儚
(はかな)い存在”といえるだろう。一切のものは無常であると観想(かんそう)する。そこに人間の人生模様が織り込まれているという。
 人の一生には、様々な経験や体験が織物の模様に織り込まれているのだ。
 私はこの日、そうした人生模様を見た思いだった。


 ─────湯槽
(ゆぶね)の中での話である。
 「君は何をしているのですか?」
 岩風呂の石に背を凭
(も)たれ、湯の中で手足を伸ばし、のんびりと寛(くつろ)いでいる私に、僧侶は唐突に訊(き)いて来た。
 「僕ですか。僕は一介のしがない武術家です。それで細々と生計
(くらし)を立てています」
 「今時、その道で生計を立てているとは、実に珍しいですね」 
 「食えない毎日が続きます。困窮
(こんきゅう)することも屡々(しばしば)です」
 「ところで、君はどういう目的で此処に来たのですか?」
 「開眼
(かいげん)です」
 「何を開眼するのですか?」
 「闇夜にも見える眼が欲しいのです」
 「ほうー、迷いを解こうという訳ですか?」

 この僧は察しが早く、実に鋭いところを突いてくる。私がどうする事もできない柵
(しがらみ)に纏(まつ)わりつかれて膠着(こうちゃく)し、苦悶(くもん)していることを既に見抜いているかのようであった。
 「君は、凡夫
(ぼんぷ)の悲しみは、一体何処から起こると考えますか?」
 「地位や名誉、肩書きや財産、それに家族などの重荷を担っていることが、その原因と思いますが……。つまり人生の柵
(しがらみ)です」
 「ほうーッ、柵ですか。人間は柵に苦悩する生き物と観
(み)るのですか。そうですか……君は随分とこの道の事に詳しいですね」
 その云い放った言葉の裏には、奥歯に物が挟まったような感じがあり、率直に言い切らぬ歯切れの悪さがあった。つまり裏を返せば“浮き世の柵が苦悩を齎しているとでもいうのか。そうではあるまい”というような言い方だった。ずばり盲点を衝かれたような感じだった。

 「だだ詳しいだけで、その真意は計り兼ねることが多々あります」
 「それが、即ち君自身の迷いではないでしょうか?」
 この切り返した言葉に、一縷
(いちる)のキラリと炯(ひか)る希望のようなものを感じた。
 “迷ってばかりで、何一つ解決しようとしていないではないか”というような含みがあった。
 “知っているだけで行動が伴わないのではないか”と言いたかったようである。確かにそうかも知れないと思った。
 僧は更に続けた。
 「暗ければ道が見えない。明るければ見えるというのは、即ち、俗世の心の迷いではないでしょうか?」
 「仰
(おお)せの通りです」
 「暗い、明るい等と、俗世の可視現象に迷わされることなく、一点に定めた道を見通すことが、真理というものではないでしょうか。拙僧
(せっそう)はそう思いますが、君はどうですか?」
 「全く、同感です」
 私は、この僧の一言で目から鱗
(うろこ)が落ちた。
 迷い続けて生きることの“愚”に気付いたのである。

 「迷い」とは、布織物の布の経糸
(たてい)と緯糸(よこいと)が解(ほつれ)て片寄ることを、それに準(なぞら)えて言う。それを悟りが得られないからだとする。
 禅では迷いや動揺を感じて、それに振り回されることこそ煩悩
(ぼんのう)だいう。これを心の汚れとし、それを戒める。同時に、それに一々振り回されないことが真理として、最高の教えと説いている。奥深い思想である。しかし私には、いま一つ、この奥深さがピンとこなかった。

 真理とは、他人が持ち去ったり、自らが失ったりするもので無い。確かにそう思う。いつも自分の裡側
(うちがわ)にあるのである。
 あるが儘
(まま)の自分こそ、真理そのものである。しかし“あるが儘(まま)の自分”とは、一体どんな自分なのか。
 こうした禅問答は、追い掛ければ追い掛けるほど、逃げて行く。これこそ迷いなのではないか。
 いかなる万難も、あるが儘に受け入れ、それに捕らわれないことが本当の悟りではないかという。その教えは正しいだろう。迷いが解けて真理を会得する、それが悟りだろう。真理を会得することが悟りだろう。
 しかし、凡夫
(ぼんぷ)の私には「真理を会得する」ことは理解しかねる。
 だいいち禅で云う「悟り」とは何なのか。それ自体も非常に難しい難問である。
 悟りは自分から追い掛けてはならないのだ。任せることなのだ。
 任せれば、向こうからやって来るものなのだ。運を天に任すしかないのだ。

 「悟り」などという、小難しい言葉に振り回されるから、ますます悟りは逃げて行くのだ。任せよう。私はそう思ったのだった。
 総て任せることが、武の道で云う「他力一乗」なのだ。
 「天」に任せるという、私流の結論が出たのだった。それは「こだわらない」ことだった。こだわりを捨てることだった。捨てれば何事も楽になるのである。

垂玉の滝行。滝行は、落水に打たれて、日々の喜怒哀楽の迷いをなくす。
 ところが「無」になろうとして『般若心経』などの経を唱えれば、忽
(たちま)ちのうちに妄念(もうねん)が趨(はし)り、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に引き戻されてしまう。修行は無ではなく「空」なのだ。(滝行をする筆者)

 そんな思いでこの僧から貴重な教訓を得ていたが、この僧は囲炉裏端では決して禅問答のような話はしなかった。
 専
(もっぱ)ら世間の俗っぽい、かっての若い頃の艶話(つや‐ばなし)を面白可笑しく聞かせてくれた。この僧は飄々(ひょうひょう)とした気さくな人物であるが、中々鋭い一面を持った人であった。
 私は湯槽
(ゆぶね)での話が頭から離れず、私の番が廻ってくると、此処では自分の自己紹介程度の簡単な話で済ませた。
 私に、自分の経歴を聞かせて話すようなものは何一つなかった。

 私は次の日から、自炊して食事を作ることを止めた。
 あらかじめ用意した蕎麦粉
(そばこ)を水に溶いて、コップ一杯を一日三回摂ることで、糊口(ここう)をしのいだ。
 日に何度も垂玉の滝に打たれた。岩を縫
(ぬ)って、轟々(ごうごう)と流れ落ちる清らかな清水の滝に、己の迷いを洗い流す事が急務なのだ。
 滝に打たれることで、一週間の満願成就
(まんがん‐じょうじゅ)を祈願した。日増しに、これまで身に染み込んだ“穢(けが)れ”と“迷い”が落ちていくような気がした。

 滝に打たれる時の注意は、以前から何度も山村師範に聞かされていたので、邪道の愚は侵すことが無かった。
 滝に打たれるときは、後ろ頸の『唖門宮
(あもん‐きゅう)』で受けなければならない。ここで受けることで、唖門宮が開き、水の精気(せいき)が躰(からだ)を浄化するのである。
 邪道の愚とは、滝の水を直接頭で受けてしまうことである。頭には泥丸
(でいがん)と云う、天・人・地の、天と人を結ぶ経路があり、此処を滝の水に打たせてはならないのである。泥丸は人と神を結ぶ唯一の経路である。此処を滝の水の衝撃波で叩いてはならない。
 泥丸に衝撃波を受ければ「神
(しん)」を冒されて精神分裂状態になるからだ。また神を冒されれば、霊的抵抗力が失われて憑衣(ひょうい)され易い霊体構造になってしまうのである。更には、命を取られる場合もある。
 一口に「滝行」というが、これは非常に危険な行法の一つである。

 滝行をするには、慎んで、畏
(かしこ)み畏み、「滝の神霊」に頭(こうべ)を垂れて「滝行」の許可を願い、周囲の邪気を祓う「真言九字を切る作法」がある。これを無視して、滝などに打たれる愚行をすれば、魂が吸い取られ、命までもを取られてしまう。
 滝の神霊は「竜神」である。「水神」ともいう。恐ろしい神である。
 竜神の前では、人知など高が知れている。

 滝の周囲ではマイナスイオンが発生しているが、科学面の良いところばかりを見てはならない。また滝行をすれば、毛細血管のグロミューが開発されるが、人体面の長所ばかりを期待してはいけない。
 滝行とは、単に滝に打たれることを言うのではない。正しい滝行の修法を知らなければならない。
 御滝場などにいくと、新興宗教の信者等が、声高らかに経典を唱え、滝に打たれている姿を目にするが、あれは間違いだらけの自己流の悪しき滝行である。
 「泥丸
(でいがん)」から直接滝の水に打たれと、「神」と同時に脳の毛細血管が破壊され、毛細管に目詰まりを起し、脳障害やアルツハイマー型痴呆症の病因になる。

 滝行は、頸椎
(けいつい)部位の唖門(あもん)に受ける「術」を、正しい指導者について学ばないと、命までもを取られてしまう、非常に「危険な荒行」なのである。体力に物を言わせた“滝の水打たれ”は、非常に危険である。
 ゆめゆめ滝行は滝の水圧に耐えて、それに頑張る肉体的な“筋トレ”などとと思ってはならない。邪心を抱いて、滝行をした者は、再び現世に還って来れない「恐ろしい行」である。
 恐れを知らない人間ほど、安易に命を落とすようである。
 また、こうした事故も多発している。竜神は恐ろしい神である。
 「神霊の理
(ことわり)」を知らないでする滝行の蛮行は要注意である!

 また最近では、プロボクサーが「精神を鍛える為」と豪語して、滝行をして事故死
(横死)する事故が起っている。滝行をするには体質が重要であり、体力の有無とは無関係なのだ。
 格闘技の猛者
(もさ)と雖(いえど)も、竜神を無視すればとんでもない事になるのである。決して自然をなめてはならないのだ。恐れを知るべきである。水の事故は、竜神を甘く見たところに起こる。滝で死ぬ人、水遊びで川や海で死ぬ人、プールや風呂場で死ぬ人は、竜神を甘く見た人だ。竜神を迷信と決め付けた人だ。
 「甘く見たツケ」は必ず廻ってくる。

 よく、御滝場に行くと、新興宗教の信者と思われる人達が、周りの迷惑も考えず、『般若心経
(はんにゃ‐しん‐ぎょう)』を声高らかに唱え、頭から滝に打たれている光景を見る事がある。彼等は自己流で偏見(へんけん)に満ちた、霊能力の修業と称するものを行っている集団である。
 そして、彼らが声高らかにして唱えるお経に、耳障りな騒音を感じ、またそうした愚行に、不愉快を感じるのは、果たして私だけであろうか。

 私は、ついに一週間の満願成就を果たした。
 五日で終える予定が十日に伸びた。日程は伸びたものの、ここでは難なく「行」を終えて、再び八幡に戻って来た。
 私の悟ったことは「任せる」ことだった。天に任せることだった。他力一乗を学んだことだった。
 任せれば、人間が如何に藻掻
(も‐が)いたとしても、天の力には敵(かな)わないし、天の仰せに従いそれに任せれば、思わぬ活路が開けることがある。
 つまり、運命には逆らわないことに決めたのである。その陰陽に出来るだけ囚われないようにすることだ。
 淡々と流れていけばそれでいいのである。

 運命はダイナミックな生き物であるから、人間がねじ伏せようとしても、どうなるものでもない。
 人間の予想を越えて大きくうねる流動体である。人間はこの流動体の勢いや、流れを阻止したり、逆らうことは出来ない。流されるだけである。
 流される中に、流れて行く中に、実はこの世の人生の真実があるように思うのである。何事も、無駄な物は捨て、捨てて行く中にこそこの人生の真実があるのである。拾うのではなく捨てる。それが人生における真実である。固執することはないのだ。
 それには任せることだ。天に任せればいいのである。
 任せることが分かれば、これまでの柵
(しがらみ)から解放され、自由になるのである。失いたくないと思うから不自由になるのである。
 自由になるには流れに逆らわず、無駄な物を一つずつ捨てて行けばよいのである。この自由が、物事を冷静に見る心眼を開いてくれるのである。

 多くの人は肉の眼は開いて、外を見ているものの、肝心な心の眼は閉じてしまって、自分が何者かすら見ようとしない。自己を掘り下げて、その奥を見ようとしないのである。これでは閉ざされても当然だろう。
 私の垂玉行きの一人旅は、何らかの収穫を齎した。以前、見えなかったものが見えて来たような気がした。これは単なる気のせいであろうか。そんな感想を抱いて帰路の途に着いたのである。


 ─────帰路の途中、寄り道をした。
 まだ見えないものがあったからだ。見せそうで見えないものがあった。私の炯眼
(けいがん)の域まで到達していなかった。迷いが多かった。矛盾も甚だしかった。
 帰路の途中、寄ったところは知人が遣っている青少年の更生塾であった。
 最初、この塾を知ったのは女子高の教員をしていた頃であり、昭和46年の6月頃であろうか。教員になった間もない頃であった。此処にはその後も何度か訪れたことがあった。
 最初、此処を訪れるようになったのは、知人からの紹介であった。
 行って驚いたのは、実に奇抜な発想で人間教育をする塾であった。非行少年少女を集めて「自力更生」をスローガンに、「自前主義」をモットーにして、また塾長がまた変わった人であった。

 此処を尋ねる経緯は、私の勤めていた高校も、博多の不良少女ばかりを集めた酷い学校であったからだ。
 勤務した学校が酷く荒れていたからである。似たようなところがあった。しかし、青少年更生塾はそれを見事克服したと聞いていたからである。
 悪しき共通項を持ち、それを打開するために、まず見学に行ったのである。
 そして塾長の千葉先生を知ることになる。
 この先生は東大インド哲学科を卒業され、仏教学
(専門はラマ教史や密教史)に通じた陽明学者であった。
 私は陽明学にも興味があったが、何よりも千葉先生の経歴だった。この人物に興味を抱いたのである。
 この塾では、まず塾生に労働を教えることであった。働く喜びを教えるのである。陽明学らしい知行合一が実践されていた。

 塾生達は豚を飼育し、全員で働くことを覚える。共同作業をする。塾生は此処では養豚を通じて、最初に労働を学ぶ。豚を飼育し、出荷出来るまでになると解体まで行っていた。豚肉を出荷して、その売り上げを塾の運営費の一部に当ていた。塾名を『安政塾』という。

 青少年に労働を教え、次に読書することを学ばせる。読書をする習慣を身につけさせるのである。
 読書する本は、特別に決められた教科書はない。グラビアのエロ写真集以外は何でもいいのである。読み応えのある文字があればいいのである。漫画でも許可されていた。読み書き出来ない塾生に文字を教え、この学習を通じて学問することを教える。恥を知ることを、学問を通じて教える。
 然
(しか)る後に、先生は『菜根譚』を講義された。襟を糺(ただ)させるためである。

 千葉先生は誰も見向きのしない、世の鼻つまみ者の落ち零れのために、自前で更生施設を創ったのである。
 ちなみに塾名の『安政』は、安政の大獄で斃
(たお)れた梅田雲浜・吉田松陰・頼三樹三郎・橋本左内らの志を継いでという主旨であった。しかし、この主旨はあまり評価されず、地域住民からは不逞の輩(やから)の集団と看做されて敬遠され、安政塾は地域の嫌われものだった。危険集団と懸念されていたのである。警察の公安もマークしていた。

 千葉先生は、私に言ったものである。
 「自分は数歩先の霧の中を歩いています。いつの時代も自分ような人間には冷たく、無理解で、ときには批難の渦の中に立たされます。それは家内共々覚悟の上です。しかしこの批難に、先覚者の吉田松陰先生や梅田雲浜先生は、決して嘆きはしなかったものです」
 先生の自信を失わない信念であった。その顕われが「まごころ」という赤誠の郷土愛であり、日本人はみな同胞と考える日本人愛であった。そして、「安易に隣人を愛せ、他国を愛せ、人類はみな兄弟、国際協調などというが、自分の国を愛せない人が、どうして外国を愛せましょう。まず自国を愛する事から始まります」と言うのであった。自分を愛するように他人も愛せとは、まず自分を愛することから始まるのである。

 日本人は日本人を罵倒し、欧米の思想に入れ揚げる日本国籍の無政府主義者であっても、同朋愛は持っておられた。考え方が違っても、根は同じだと言う。
 「彼らは、いま熱病に罹っているだけです、やがて熱から醒めます」これが先生の持論であった。

 また千葉先生が、先達の偉人に対し「先生」と呼んで敬服していたことを、私は一種独特の感動をもって敬承していたことを覚えている。また塾生に対し、決して名前を呼び捨てにせず、十代初めの学校嫌いの子供にも、女子は「さん」付け、男子は「くん」付けし、互いに敬語で話すことが、この塾の決まりであった。
 そして先生は、またこうも言われた。
 「世の中には独自の着想力もなく、情熱もなく、自身と家族のための小さな欲望で満足する人がいます。
 そう言う人を、間違った生き方をしているとは思いません。その日一日を快適に、無事な日常であれば、それだけで満足を覚える人がいます。個人主義に奔
(はし)る人達です。そういう生き方を否定しません。
 しかし自分は、個人の生活を楽しむ生き方を楽しむより、何かの不運が重なり、その切っ掛けでボタンを掛け違いを遣ってしまった若い世代の人に対し、幾らかでも修正につとめて、それが役に立てば、それに満足を覚える人間です。つくづく安楽と安堵の中に棲
(す)めない人間であることを痛感します……」
 こう言って、自嘲
(じちょう)気味に笑っておられたことを覚えている。自分のことより、他人を優先する人である。そして、私に「あなたは、どちらの人でしょうか?なぜ陽明学を学ぶのですか?」と訊かれたことがあった。

 つまり生き方に情熱がなく、自身の欲望も、その他大勢の需
(もと)める物で満足し、日々をその日暮らしで面白可笑しく仲間内で楽しむような、個人としての生活を楽しむ人間ならば、「陽明学は必要ありません」ということだった。こぢんまり、小さく生き、小人(しょうじん)の一生で終えればいいと言うのであった。
 故に、そう言う人は陽明学が必要でないと言うのである。その陽明学不要の人が、組織の頂点に立ったり、集団の代表者になったりしてはいけないと言う。
 千葉先生の謙虚なところは「他人
(ひと)のことを小人と言う自分も、それ以上に輪を掛けた小人です」と自嘲しておられたことである。
 さて、この種属の人は小人として生き、小人として終わればいいと言うのである。悟る必要もないし、徳才もないから、その方面は能のある人に任せて譲れば、経済的困窮に陥って貧乏になったり、不運を招くことはないということを言われたことがある。私には新鮮に、斬新に、強烈に響いた言葉であった。

 「小人は小人で、それはそれで愉しいものです。それなりに尊いものです」と言ったことを覚えている。
 それは、そこまでで満足せよと言うことである。“その程度”の「足るを知れ」ということだろう。
 もしサラリーマンなら会社でも、課長以上の役職は求めてはならないと言うのである。それ止りで満足し、上を目指してはならないと言うのである。私自身、個人的には筋の通った話だと思う。文句なしである。
 世の中は、課長まで止りの小人が、欲を出して上の役職を目指すからおかしくなる。小人が重役になるような会社は必ず斜陽に陥る。また会社側もバカでないから、小人を重役に推すような会社はあるまい。
 小人は自分の徳才を知り、ただそれを弁
(わきま)えればいいのである。そして「社畜」になればいい。
 小人には世の中を変える情熱がないからだ。
 彼らは会社側から使役される社畜になって、大きなヘマを遣らなければ、給与確保と終身雇傭は間違いないだろう。先に立って出しゃばったり、目立ちたがり屋になる必要はない。
 人間は決して平等ではない。
 千葉先生は道の実践者であった。情熱の人であった。
 “口先の徒”ではなかった。博識多聞でありながら、その知識や見識に胡座をかくことなく、自分の保身を図るわけでもなく、水火
(すいか)も辞さない人であった。貧富の次元を越えた人であった。

 千葉先生は、昔はこの地域の地主で資産家であったというが、青少年の更生施設に財を投じていたため、私が面識を得たときは、随分の貧乏をなされているようであった。
 あるとき先生に訊いたことがあった。
 「先生は金持ちになる気はないのですか?」と訊くと、「それは先祖が遣ってくれました。自分はその血筋として、今度は先祖に代わって貧乏に全うするだけです」と、笑って奇妙な回答を返されたことあった。
 先生曰
(いわ)く「中途半端が一番いけません」というのである。
 「金持ちになるか、貧乏になるか、はっきりして下さい。あなたはどちらですか?」と鋭く訊くので、私は苦悶しながらも「私は先生と違って、貧乏な家に生まれました。目指すは金持ちです、ただし今は金持ちではありません。しかし金持ちの道を歩いています」というと、「それは既に金持ちになったのと同じですね」と返答されたことがあった。そして「富貴天にあり」
(『論語』顔淵)と、ぽつりと言われた。

 「あなたは金持ちの道を歩いているのなら、既に金持ちだ。奮闘努力して、実際に金持ちになれなくても、それはあなたの責任でない。富を得るか否かは、運命によるものです」
 先生の言によると、金持ちになるかならないかは、自分が決めるのではなく、天が決めるのであるから、なるならないは問題ではない。問題は金持ちになる道を歩いているのなら、もう金持ちになっても同じだというのである。奇妙な論だが、この当時、自分なりによく理解出来た。奇妙だが斬新に響いたものである。
 それは未
(いま)だ辿り着かないが、その延長線上にあると信じている。金持ちになって、得た金を、名も無い大勢に投じてみたいと考えている。全人格を表面に打ち出しての奉仕である。己の勘定はない。
 私の理想は「大勢の人と一緒に理想郷に辿り着く」ことである。そこまで、大勢で辿り着くには、些かの路銀
(ろぎん)が懸かる。その路銀を稼ぐために金持ちになる必要がある。己一人の金でない。

 また、私も豚は潰すところは、最初から一部始終見せてもらったことがあった。それは実に凄まじいの一言に尽きた。先ず、豚の脳天に大きなハンマーを打ち込む。一撃で倒す。一回限りのことである。その必殺を、礼に帰していた。
 千葉先生は私に言ったものである。
 「一発で倒して、楽にしてやらないと、豚に失礼です。何度も叩きないしでは残酷で、だいいち豚に無礼を働くことになります……」と、よく言ったものである。
 食べ物に対しての礼儀を説いた人である。
 「命を頂きます」の感謝の気持ちを説いたのである。
 だから合掌して感謝の意を顕し「頂きます」という。
 次に斃
(たお)れた豚の両足を、即座に解体台の滑車の縄に結(ゆ)わいて吊り下げ、腹を、一気に解剖刀で断ち裂(さ)く。すると血塗れの腸が、どさっと勢いよく飛び出て来る。そして腸は、ビニール・シートが敷かれた床に飛び散り、あらかも大樽(おおだる)の中の流動物をひっくり返したように垂れ下がる。見るのを慣れない人は、実に気持ちが悪い光景である。

 その腸の上に、長靴を履いた塾生の青年が5kgくらいの粗塩を蒔
(ま)いて、腸を塩で揉(もん)んで洗うのである。更に別の青年が腸をナイフと、裁ちバサミで適当な長さに切って、スコップで掬(すく)ってポリバケツに次々と入れていく。そのバケツを持って、年少の少年が流水場に運び洗いに走る。そのとき切断された腸は、まだ生きていて、ピクピク痙攣している。奇妙な生き物のように見えたことを、今でも印象的に記憶している。はっきり言えば、気持ちのいいものではない。
 気の弱い人は、その時点で以降、肉など食べたくないと思うだろう。この現場を見た以上、その日の食事もろくに喉の通らないであろう。
 一方で、人間が他の命を犠牲にして生きている傲慢
(ごうまん)も思い知らされる。

 この塾に裏地には『豚塚』なる慰霊塔が建っていた。
 人間に喰われるために命を差し出した豚に対しての慰霊である。命を差し出してくれた豚を食べるときは、合掌して豚に感謝し、「頂く」というのである。
 そういう過去を尋ねて、この帰路に『安政塾』を訪問したのである。
 そして数ヵ月後、此処に由紀子を同伴して訪れたことがあった。彼女に是非、豚の解体現場を見せて遣りたかったからである。
 仔牛のソテーの何のかんのという食の原点を知らない者に、食べるとはどういう事かを教えて遣りたかったのである。何も、牛肉でも豚肉でも、最初から発泡スチロールに入ってパックされていないからである。
 よくデパ地下でマグロなどの鮮魚の解体ショーを遣っているが、あれを牛や豚で遣ったらどうだろう。それも屠殺から。
 おそらく殆どこの種の食品は売れなくなるだろう。
 それは日本人の遺伝子の中には、四ツ足を食べない先祖からの記憶が刻まれているからだ。肉を食べたいと思うのなら、肉がどういう行程で生産されているか、知るべきであろう。



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