運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
旅の衣・前編 1
旅の衣・前編 2
旅の衣・前編 3
旅の衣・前編 4
旅の衣・前編 5
旅の衣・前編 6
旅の衣・前編 7
旅の衣・前編 8
旅の衣・前編 9
旅の衣・前編 10
旅の衣・前編 11
旅の衣・前編 12
旅の衣・前編 13
旅の衣・前編 14
旅の衣・前編 15
旅の衣・前編 16
旅の衣・前編 17
旅の衣・前編 18
旅の衣・前編 19
旅の衣・前編 20
旅の衣・前編 21
旅の衣・前編 22
旅の衣・前編 23
旅の衣・前編 24
旅の衣・前編 25
旅の衣・前編 26
旅の衣・前編 27
旅の衣・前編 28
旅の衣・前編 29
旅の衣・前編 30
旅の衣・前編 31
旅の衣・前編 32
旅の衣・前編 33
旅の衣・前編 34
旅の衣・前編 35
旅の衣・前編 36
旅の衣・前編 37
旅の衣・前編 38
旅の衣・前編 39
旅の衣・前編 40
旅の衣・前編 41
旅の衣・前編 42
旅の衣・前編 43
旅の衣・前編 44
旅の衣・前編 45
旅の衣・前編 46
旅の衣・前編 47
旅の衣・前編 48
旅の衣・前編 49
旅の衣・前編 50
旅の衣・前編 51
旅の衣・前編 52
旅の衣・前編 53
旅の衣・前編 54
旅の衣・前編 55
旅の衣・前編 56
旅の衣・前編 57
旅の衣・前編 58
旅の衣・前編 59
旅の衣・前編 60
旅の衣・前編 61
旅の衣・前編 62
home > 小説・旅の衣 > 旅の衣・前編 26
旅の衣・前編 26

世の中に怒り性と言う人がいる。挑発されれば直ぐに貌を赤らめて、怒る人である。しかし、この怒り易い人は、怒るべきときに怒ることを知らないで、いつも感情の嵐に吹き曝(さら)されている人である。


●真剣御試水

 私は山村師範を訪ねていた。
 「お前、警察で大分
(だいぶん)しぼられたそうじゃのう」
 「はあ、ちょいとしたことで」
 「ふン、ちょいとしたことか?……」
 これは私の心を見透かしてのことだった。おそらく既に実情を知っているのだろう。
 「はあ……」私は照れくさそうに頭をかきながら応えた。
 「ところで別荘生活は楽しかったか?」実に巧妙な鎌を掛けてきたのだった。したたかな爺さまである。
 「まあ……、その……なかなかのもので……」
 これは強がりとも思える暴言だった。
 「人間は、万難を経験し、窮地
(きゅうち)に追い込まれた方が、時には人生が一層楽しくなる。少しは薬になったじゃろう。毎日、微温湯(ぬるまゆ)に浸かっていては腑(ふ)抜けになるからのう。そうした事も、たまにはよかろうて」
 「はあ……、御尤
(ご‐もっと)もで……」
 「随分顔を見せんやったが、元気しとったか?」
 「はあッ、何とか。先生も、いつもお元気そうで……」
 「明治生まれの儂
(わし)と、戦後昭和生まれのお前とでは、端(はな)から鍛えからが違うわい!お前とは修行の次元が違うのじゃ!」
 これは空威張りだろうか……。否、そうでもないようにも思われる。確かに次元は違うだろう。
 この爺さまは本当に端から鍛え方が違っていた。その一つが「天狗足」にも見られた。山稽古を遣るとそれが歴然だった。私のようにヤワではなかった。「肉責め」という拷問にも耐えられる強靭な体躯をしているだろう。その意味で、私とは鍛え方が違うのである。
 「はァ、全く仰
(おお)せの通りで……」
 「まあいい、……儂の後を蹤
(つ)いて来い。いいものを見せてやる」

 蹤
(つ)いて行った先は、納戸代わりに遣っている別設(べつ‐しつら)えの押入れだった。
 押入れの中から縦長の、大きな風呂敷
(ふろ‐しき)包みを取り出して、その中を開いて見せた。中に十数振りの大刀があった。
 私の知らないうちに、よくぞ、これだけの刀を集めたものだと感心した。この爺さまは、せっせと老齢年金でも溜め込んで、日本刀を買い漁
(あ)っていたのであろう。感心する本数だった。
 そして、この中から「折れない刀を選んでみよ」というのだった。実地を兼ねた、日本刀の目利
(めきき)きをさせるらしい。私の眼力を試す気でいるらしい。凡夫(ぼんぷ)の「腕調べ」とでも云うのであろうか。
 既に刀剣商として、古物商許可を持つ私は美術刀剣は見慣れたものだったが、実用刀剣としての「斬れ味」の正味のほどは、それほど詳しくはなかった。まだ本当に実用刀の斬れ味を知らないのであった。試刀の実戦経験に乏しかったのである。
 試刀術を会得するには、数多くの刀剣を験
(ため)さねばならないのである。金も懸かる。道衣一つあればいいと言うものでない。金に余裕がなければ出来るものでないのである。これは軍事の根幹を為(な)す兵器でも同じであろう。攻められない境地を確立する為には、それなりに軍資金が必要である。
 そもそも武術修行と言うものは金の懸かるものなのである。
 金を懸けて、実際に試す……。この余裕がなければ出来るものでない。かつての武士が貧乏だった訳は、これに由来する。
 それだけに山村師範のこのときの稽古は、その後、大いに役立つものとなった。

 私は、悪い物を順に外していく方法を採
(と)った。
 一番最初に手に取ったものは、無銘
(むめい)の錆(さび)た刀であった。よく見ると少し曲がっている様に見える。いい物ではなさそうだ。これを安易に外した。しかしこれは錯覚か、あるいは未熟から、目利きが出来ないのかも知れないが、私には、そのように見えたのである。実に凡眼であった。

 二番目は、昭和新刀と云う軍刀で、旧陸軍が大量生産した見習の士官か、新任将校用に作られた軍の配給品であった。こうした国家が与える物を「官品」というが、官品に“優れ物なし”というのは通り相場で、これは昔も今も変わらない。既製品という要素が強いためである。特に「昭和新刀」という代物はこの傾向が強かった。したがって、この手の刀は、姿だけは日本刀を模倣しているが、中身は日本刀とは程遠い、劣悪なものだった。その機能を持っていないのである。
 一種の飾りで造られたもので、体裁を整えるという代物だった。
 この刀は昭和の初期、機械的に大量生産されたもので、刀としての機能も、美術品としての価値もない。
 この手の刀は、警察での「発見届」は出せても、教育委員会の文化財保護課での美術品としての審査は、悉
(ことごと)く不合格になるのである。登録審査会に出しても、美術品としての資格を得ないから、その場で没収され、切断されて鉄屑となり廃棄処分にされるのである。
 その理由は、全く鍛えておらず、即席の似刃
(にせば)といわれる物が付けられている。刀屋の間では「素延べ」と呼ばれる粗品である。斬れば、直に曲がる代物である。
 要するに下級将校や下士官の、儀礼用の指揮刀のようなものだ。体裁付けの官品に過ぎないのである。
 そして次に五振りほど選び出し、在銘
(ざいめい)であったが、殆どが偽物(ぎぶつ)の様に思えた。そうして弾き出していって、最後に二振りだけ、自信を込めて山村師範に差し出した。
 ちなみに、日本刀の数え方は「ひとふり」「ふたふり」……と数え、“ふり”を「振り」の漢字で書くが、刀剣専門用語では、“ひとふり”を「一刀
(ひとふり)」と数え、“ふたふり”を「二刀(ふたふり)」と数えるのである。

 私は二本を掴み出していた。
 「この二振りは、ほぼ間違いありません。私は、この二振が折れたり、曲がったりしないと思います」
 「ほーッ?」と声を上げた。一見、そうではないという言い方であった。
 「では、その証明はどのようにやってするのじゃ。さあ、如何!?」この質問の答えに困った。
 暫
(しばら)くして、「試し斬りをして証明してみてはいかがでしょうか」と、苦しい回答を出した。
 「試し斬りの媒体は何じゃ?」
 「濡れ藁
(わら)ではいかがでしょうか」
 「どのような方法で行う?」
 「据え物台に、縦に濡れ藁を五束重ねておきます。そして正面真っ向斬りで討ち据えます。ナマクラは、この時点で曲がりましょう」
 「尤
(もっと)もらしい事を抜かしおる。しからば、お前に訊く。濡れ藁を五束を見事斬り据えたものは折れぬのか?」
 「曲がらないものがどうして、折れましょうか!」
 「本当に、その通りかな……?では、早速、濡れ藁を据
(す)え物台に用意せい」
 「畏
(かしこ)まりました」

 私は、早速この用意に取りかかった。
 畳茣蓙
(たたみ‐ござ)を巻き上げ、人間の首くらいの太さにする。それを紐(ひも)で縛り、盥(たらい)に水を張り、その中に浸ける。本来は一昼夜浸けるが、この日は時間がなかった。即席仕立てである。据え物台に濡れ藁を五束を載せた。この用意に2時間程かかった。普通、“濡れ藁”は畳み表の茣蓙(ござ)をその代用として遣う。

試し斬りの稽古風景。(西郷派大東流合気武術総本部・尚道館での試刀稽古。演武者:岡谷信彦六段)

 「先生、支度ができました」
 「お前が、自ら斬り据えてみよ」
 「はッ!」
 濡れ藁は、十分に水を吸わせておかないと、斬る時に刀の引く。それは意外に斬れないものだ。そして刃毀
(はこぼ)れや曲がる原因を作る。
 これは刀の鞘
(さや)を傷めるばかりでなく、刀身そのものも、鉄の金属疲労で、やがて折れる原因をつくることになる。然(しか)るに斬り据える経験の力量と手の内の茶巾(ちゃきん)絞りの要領が重要なのだ。
 実際に数千回以上の「立ち木打ち」を、五年以上やったことがある者でなければ、不可能である。

 さて、先ず私の選んだ一振りを打ち据えることにした。その刀の中子
なかご/「中心」あるいは「中茎」とも)に、試し切り用の柄(つか)をはめる。そして、刀身は飛んでいかない様に、目釘穴(めくぎ‐あな)に油抜きをした竹の目釘(竹の油を抜くために火で焙(あぶ)ったもの)を打つ。その刀には銘(めい)が入っており、『備前長船胤景(びぜん‐おさふね‐たねかげ)』とあった。
 私の見るところ、胤景
(たねかげ)二代の作であるらしい。備前刀上作の業物(わざもの)である。五の目丁字の焼刃(やきば)が入っている。
 据え物台の濡れ藁
(わら)に、狙いをつけて上段に振り被り、一点に集中して、一気に斬り据えた。
 三番目の藁のところで止まった。二振り目は、新々刀で在銘
(ざいめい)ではあるが、本物ではあるまい。何と入っていたかは、忘れたが裏表に行らしい偽銘(ぎめい)はついていた。しかし斬る分には申し分ない刀で、これは斬れると思っていた。

 実際に新撰組局長・天然理心流の達人近藤勇昌宜
(こんどう‐いさみ‐まさよし)の持っていた『虎徹(こてつ)【註】長曾禰(ながそね)虎徹)は、偽物でありながらよく斬れたという。この事から考えて、新々刀の偽物は“よく斬れる”と思った。

 これも狙いをつけて上段に振り被り、一気に斬り据えた。これは思った通り、流石
(さすが)によく斬れた。五番目の藁の部分にまで達しているではないか。

 「先生。全て終わりました」悠々と胸を張って言った。
 「馬鹿者!まだ終っとらん。残りはどうなったのじゃ?」
 「残りは全部駄目です」
 「果たして、そうかな?これを見よ!」
 私が一番先に弾き飛ばした刀を持って、据え物台に濡れ藁に斬りつけた。濡れ藁を五束を全部斬り据え、しかも据え物台を斬り込んでいた。それを手で抜こうとしても、抜けないくらい深く食い込んでいた。

 更に、大盥
(おおたらい)に張った水に向かって、私が最初に扱った刀の刃を横にして、水に叩きつけた。その瞬間、刀は板ガラスが割れるように三つに折れた。驚きであった。刀などの刃物の「打物(うちもの)」と謂(い)われる武器の脆(もろ)さは、こうした側面にある。
 たかが水に、打物は破壊される。鉄で出来た刀が、水に折られたのである。こうした、水で試すことを《真剣御試水
(しんけん‐おためし‐みず)》という。据え物斬りの術の中には、こうした試す為の秘伝が存在するのである。
 この《真剣御試水》で、業物
(わざ‐もの)と看做されていた刀を失ったのである。買えば二百万円は下だらないと思われる業物『備前長船胤景』が、物の見事に折れてしまった。これは所詮(しょせん)美術品でしかなかったのか。
 美しいだけの価値しか満たして居なかったのか。
 確かに美術刀剣は美しい。鍛えた地肌が、何とも不思議な文様を作り出す。その文様の美しさは絶大なものである。
 しかし、美しい物には、その反動的な弱点をも持っている。
 刀の一番弱い処は、反
(そ)りのついた棟(みね)であり、次に弱いところは左右側面である。こうした三点に美しい物の弱点があった。

 次に、偽物の新々刀も簡単に折れた。次々に叩き折っていく。昭和新刀の軍刀だけは折れずに曲がった。そして、私が鈍刀と見て侮
(あなど)った無銘の錆びた刀は数回叩いても、曲がらず折れなかった。
 その刀は錆びていて、地肌の文様は定かに確認できなかったが、美術的な面と実用的な面の両方を持ち、これこそ、刀の中の刀だった。刀の中の刀にこそ、実は本当の刀姿があり、これを総称して「名刀」というのだった。名刀は美しいだけでなく、実戦的な実用面も兼ね備えているのだった。

無銘、伝加州清光

 山村師範は、これを天に高々と掲げて「お前に遣
(つか)わす」と言って、私に授けてくれたのである。
 賜
(たまわ)った刀を良く見てみると、少し曲がっている様に見えていたのは、刀身が「竹の子反り」であったためだ。ここに、達人の聖眼と凡夫(ぼんぷ)の凡眼の相違を見てしまった。まだまだ見る眼がなかったのである。私の眼力は、高が知れていた。
 眼の勝負ができるほど、私は大した実力が備わっていなかったのである。肉の眼で見て、それで判断する、その程度の観察眼しか持っていなかったのである。

 肉の眼……。
 これほどいい加減で、頼りないものはない。
 私は、眼力という世界のことをすっかり忘れていたのである。眼力とは単に肉の眼に頼ることではない。
 現代は眼に頼れば、それで十分であるという唯物史観に汚染され、その範疇
(はんちゅう)で自然科学すら観ていたのかも知れない。その程度の観察力だった。眼に誑(たぶら)かされた観察力だった。
 ところが眼力は、その奥の、闇の部分までもを見抜く力をいう。

 私たち、戦後生まれの戦争を知らない子供たちは、戦後教育の中で平和教育と平等教育を教わった反面、教育現場では先の対戦の反省と反動から、唯物論が主体だった。唯神論は、「オカルト」や「迷信」の範疇に押し込められ、“非科学”の名で一蹴
(いっしゅう)された。
 唯心の世界や霊的現象、更には肉の眼で捕らえることのできない不可視世界の未科学分野まで、非科学の汚名を被った。
 そしてこの汚名は、現在も延長され、その中で肉の眼に確認されない波動現象や霊的現象は、迷信の最たるものとされている。

 かつて私は少年時代、ボーイスカウトに入っていて、小学校高学年から高校時代まで此処での訓練を受けたことがある。野営の訓練は、成人したその後も非常に役に立ち、人に奉仕することや万難に対しての非常時に「備えること」も学んだ。入団していた時代、教わったことの多くは「非日常」の対処の仕方だった。
 「備えよ常に」とは、ボーイスカウトの掲げたスローガンだった。
 そのスローガンの許
(もと)に、かつて山中で遭難したとき、「木の切り株を見よ」と、マスターと呼ばれる指導者から教わったことがあった。東西南北は、樹木の切り株の年輪の偏りによって見当が付くというものだった。その根拠は、北側は寒く、南側は暖かい。したがって年輪の輪は北に偏り、南にその間隔が広いというものだった。
 ところが近年、木の切り株に方位は記されていないという説が有力になって、この「切り株を見る」という大自然の中の智慧は、迷信にされ、非科学的なものと一蹴されるようになった。第一、切り株を見ても、現実には北に偏って状態になっていないからである。だから切り株を見ても、無駄だというのである。それが一蹴される理由である。
 しかし私は、この「一蹴」にも反論があるのである。
 なぜなら、人間の肉の眼で切り株から、樹木のメッセージを読み取ることができないからである。樹木は何も、肉の眼に残るメッセージだけを発しているのではない。樹木は最近の研究によると、人間の言葉までも理解するという。植物の研究は大いに進み、樹木の研究は不可視世界の現象まで捕らえようとしている。

 人間以上に「霊的神性」の高い次元に居る樹木は、人間の肉の眼には見えない高次元のメッセージを発しているのかも知れない。当然そのメッセージには、年輪に方位を書き込むことくらい朝飯前だろう。すると、かつては非科学的と指摘された事柄でも、まんざら嘘ではないことになる。

 かつて、戦前・戦中・戦後と三時代に亘って、少年団活動と奉仕の精神を学んだ戦前生まれのボーイスカウトの指導者たちは、霊的な眼をもって、大自然の中で樹木と接してきたのかも知れない。今の私が忘れてしまったのは、こうした霊的世界の現象を無視して、「二十世紀」という科学万能主義に冒された結果、観察眼を暗くしているのかも知れなかった。
 あるいは時代が下るほど、人間の視覚は暗くなったのかも知れない。今より50年前の人は、今日の人が気付かない暗闇の中でも、辺りを見通す眼を持っていたのだろう。明るい視野を持っていたのだろう。
 また、樹木の発する幽
(かす)かなメッセージを読み解くことができたのだろう。
 暗くなったという現実は、今日の現代人にとって確かにあろう。視野が狭くなったというのは確かだろう。
 したがって現代人の眼は、視覚が暗くなっている。だから闇が見えない。闇の中の存在が見えなくなってきている。今日の夜の電気的な光の洪水は、現代人の闇を見抜く力を暗くしているのである。

 その暗さがまた、山村師範の行った「真剣御試水」で克明に格差を見せたのかも知れなかった。表面に捕われて、肝心の中身を見落としていたことになる。
 私の青春時代は、二十世紀後半の「科学的」という肉の眼に振り回された時代だった。唯物論が幅を利かせた時代だった。神を蔑ろにした時代だった。神仏が迷信の対象にされた時代だった。日本人が霊的な眼を失った時代だった。
 その天罰が、また今日の金銭至上主義や科学万能主義の反動として、病気の世界ではこれまでになかった奇病難病の慢性病を発症させた。大自然では自然災害といわれている異常気象や天変地異が、新たな形となって発生しはじめたのである。
 それは、あまりにも物質界に比重を置いた結果の「報い」であるように思えてならないのである。
 確かに眼力は古代人に比べて衰えたように思う。
 したがって、単に肉の眼で判断する見識眼でなく、霊的世界の高次元までもを見抜く霊眼を養わねば、用をなさないことが明白になったのである。
 真剣御試水で私は、このことを学んだのだった。
 「見る眼」の大事を学んだ。物事には肉の眼で見える、それだけではなく、その先のことまでもが存在するのである。

 動植物に限らず、万物は「波動」を発している。
 波動というものは、確かに存在するのだった。
 万物の波動は確かに存在する。その波動は決して無視できない。それはメッセージの発信であるからだ。
 もし、これを無視できるといいならば、その人は、よほど楽天家である。世の中や自然の現実を知らない、無垢な人である。無垢といえば、純真を錯覚させるが、実は見通しが立てられない人のことである。

 昨今の教育は、「無垢な人」を相手にしたそのベーシックが、日教組の作った作文からなっている。その伝統を引き継いでいる。その作文が、一時もてはやされた。誰もがこの作文を支持し、小・中学校教育はこのベーシックによって赤化された。こうした矛盾の最たる中で、私は戦後教育を受けたのだった。
 社会主義、共産主義こそ、小・中学校の日教祖・組合員である教師から、「正義とはいかなるものか」ということを押し付けられた。そういう先入観を、一方的に押し付けられたのである。その押しつけは、赤化こそ正義というのである。

 振り返れば、「戦後教育」とは酷いものだった。惑乱され、マスコミの誘導に踊った時代だった。嘘の多い時代の申し子を、私の世代は引き受けた時代である。
 物事の真相が見抜けず、赤化し、左掛かっていれば、「みな正義」だった。左翼的発言をすれば、それはみな正義だった。
 特に報道関係者は、左翼的発言をする自己主張こそ、自身を正義の使者と自負する風潮があった。
 正義の代弁者として政府に楯突き、権力に楯突き、大企業に、あるいは大富豪に楯を突き通すことが正義の代名詞だった。恐ろしい考えに、恐ろしいポーズに、日本人が、戦後このような教育システムの管理下に置かれていたのだった。若者の企業爆破の爆弾テロなども、この教育の影響であった。

 振り返れば、自由とは名ばかりの、恐ろしい時代であった。
 自由は嘘の代名詞だった。
 ところが、その嘘は大いに持て囃されていた。こうした「ウソ」に乗せられ、ウソをつき通し、ウソを高らかに宣言することが、自由主義の恩恵であると誰もが勘違いする時代だった。
 私が過ごした青春時代より、百年か、百五十年ほど前の時代を、酷い「封建時代」と言っていた。
 その時代には領主がおり、そこに棲む領民が居た江戸時代を、封建主義の最たるものと言っていた。
 だから、こうした封建体制を打ち壊し、薩摩や長州の倒幕運動に加担し、徳川幕府を倒すことこそ、正義であり、この正義を全うするために、明治維新が起こったのだと、学校の教科書では教えられた。

 そして私が子供だった頃、学校では日教組が猛威を振るった時代であり、日教組のやることなすことは、“全て正しい”と宣伝されていた。新聞やテレビ、左翼系の雑誌にもそのように報道されてた。
 また、教師の多くも、学校ではそのように指導し、社会主義的な、この偏った考えこそ、「科学」の名において、この科学は人類を救うと宣伝していた。唯物論を最先端の論理として祭り上げ、それに従うことが人類の幸福につながると、当時の小・中学校では吹聴していた。日教組の教師を通じて、そのように吹聴し、日教組こそ正義の代弁者であると、当時の学校では宣伝していた。

 ところが、それはウソだった。
 巧妙な仕掛けのあるウソだったのである。
 教師のウソ。学校教育のウソ。時代のウソ。
 そうしたウソが、私の世界観、更には思考力まで支配した。ウソの思考力こそ、この時代に生きた団塊の世代の、ウソ、ウソ、ウソの、嘘が捕らえた三拍子だった。この三拍子の嘘に、誰もが大いに翻弄
(ほんろう)された時代だったのである。

 その時代に便乗して、種々の発祥した古くからの「日本企業家潰し」の、荒唐無稽な事件が起こっていた。
 「科学」の名において旧家や知名人を叩き、古来よりの日本文化を没落させることが正義の名で持て囃
(はや)されていた。
 だがそれは科学とは無関係な、人間の、横領する欲望がそうさせたのである。
 一つの主義が支持者を得れば、社会構造はそっくりそのまま横領できる。共鳴者を募れば、それが権力構造となり、その構造が社会全体におよび、国は丸ごと一つのイデオロギーが占領することになる。フランス革命然
(しか)り、明治維新然り、ロシア革命然りだったではないか。こうした国家は、一つのイデオロギーで横領されたのではなかったか。
 科学と言う名は、一つの主張の、「国」と言う単位を横領する手段に過ぎなかったのである。この手段に、日本人は明治の末期から今日に至るまで魅了され、「四民平等」の平等社会を夢見て奔走したのだった。
 ところが、この奔走もウソだった。

 確かにそのように宣伝されたが、四民平等などと言う「新しい世の中」は出現しなかった。時の政府の支配者が、明治維新と言う革命を企てたメンバと入れ替わったに過ぎなかった。
 先の幕藩体制を「維新」と言う名で、見事に潰したに過ぎなかった。内容は少しも変わらなかった。四民平等は訪れなかった。平和な江戸時代より、その後の世の中の方が混沌としたのである。

 明治維新から平成の世の中まで、日本人は維新から数えて、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、そして太平洋戦争と、こうした戦いを経験し、最後の太平洋戦争では、こてんぱんに負け、世界に名だたる敗戦国になった。国際連合軍の敵国条項には、未だに日本とドイツの敗戦国は明記されている。
 この「負け」以来、日本人は卑屈になり、自虐的な意図に誘導され、民主政策の中で「左掛り、左に傾くことこそ正義である」と、戦後は学校で教わったのである。
 教育とは恐ろしいもので、そのように指導すれば、そのような似非
(えせ)正義が派生するものなのだ。幾重にも末端を拡散させる。更に膨張し、過大に増幅させる。善も悪となり、悪も善になる。
 考え方も、「進歩的」というような、思想に傾くことに何の疑いも抱かなくなるのである。
 日本人の場合は、「科学的」という言葉に代表されていた。
 今日の「科学的」という言葉に照らし合わせても、マスコミの専門家然とした論評は何とも不可解だった。科学的が、科学でないからだ。
 科学的であることが、科学だったのである。そのような「科学」と言う名を借りた弁証法に振り回され、科学的という言葉に、その手の学問をしたことがない連中までもがこの世界に介入し、二言目には科学的と言う言葉を乱発していた。
 また二十世紀は、科学的と言う言葉を乱発しながら、眼に見えない波動のことを言うと“非科学”と言う言葉で嗤
(わら)った時代だった。それはナンセンスと言う言葉と同義語だった。
 理科の教科で赤点をとっていた者までもが、科学、科学……科学……と言っていたのだから、科学的と言う言葉は、何か、理詰めで突っ込まれれば「科学的でない」と言うだけでそれで済むのだから、実に便利な言葉だった。

 日本人の多くはこの「不可解」に乗せられつつも、それに疑念を抱くことはなかった。こういう私も例外ではなかった。
 まんまと乗せられ、踊る傀儡
(くぐつ)を演じたのである。眼に見えないものは信じない時代だった。今もその延長上にある。
 唯物論、あるいは弁証法という「似非科学」の名に引き込まれ、ありもしないダーウィン進化論の「社会進化論」に魅
(み)せられた時代だった。そして社会主義や共産主義の政治システムを名付けて、“社会科学”とまで持ち上げていたのであった。
 物質一辺倒に偏り、精神世界を蔑ろにしたのだった。そのため多くは心眼を曇らされていた。霊的神性を曇らされ、金・物・色に肉の眼を奪われた時代だった。今もその猛威は衰えていない。ますます盛んだ。
 そして人間は、金の奴隷になって平伏
(ひれふ)す現実は、今も昔も変わりがない。
 かの道元禅師も、「汝
(なんじ)眼に誑(たぶら)かされる」と指摘しているではないか。



●売卜者

 「もし、そこの人……」
 何処からともなく、そんな嗄
(しわが)れた声で、私は呼び止められた。辺りを振り返って後ろを見ると、一人の売卜者が私を呼び止めたのだった。街角の辻占師である。老人であった。

 私は夕方6時頃、中央町の商店街を歩いて居て、そんな声に後ろから呼び止められたのだった。
 その声に振り向くと、四ツ辻
(よ‐つ‐つじ)に小さなテーブルを出し、その上に『易』と書いた小さな灯籠(とうろう)に蝋燭(ろうそく)を灯(とも)し、易を生業(なりわい)とする売卜者(ばいぼ‐しゃ)だった。
 “なんだ易者じゃないか……易者が何のようだ……”そんな見下すような眼で、売卜者を見たのである。
 売卜者とは今風で云えば、“易者”である。八卦見
(はつけ‐み)ともいう。
 しかし、本当の意味で占師ではない。単なる占師ではないのである。
 易も、大きく分ければ占師の類
(たぐい)だろうが、単に占いを生業する者と、売卜者とは根本的に違う。
 売卜者は霊的な能力を持っているからである。闇を見抜く力がある。それゆえ霊的な眼を持ち、闇を見抜く視力に明るい。また視角が広いために、闇の中に蠢
(うごめ)く“蠱(こ)”を見抜くことが出来る。昔ながらに霊的神性を失っていない。霊的知覚が優れているのである。それゆえ売卜者なのだ。
 “蠱”は“蠱”とは、「まじもの」である。漢字では「蠱物」と書く。
 人を惑わすものであり、魔物である。『雨月物語』にも登場する。

 ところが現代人は霊的神性が失われた。“蠱”を見抜く力がない。視角が狭く、また視野が暗い。明るい視覚を持っていない。そのために闇を見抜く能力がない。闇の世界は、“蠱”が蠢く世界である。この世界を見通す視力と視覚が要
(い)るのである。しかし現代人は、闇を見通す視覚を失っている。闇が見えないのである。肉の眼しか見えないのである。
 この実情がまた、「科学的なるもの」へと奔
(はし)らせた。
 昨今では、占の類
(たぐい)を「運命学」などというようだ。行らしい呼び名でこの類を呼ぶようになった。その恩恵に預かっているのが占師である。
 しかし私が若い頃には、霊的神性を失っていない本物の売卜者も居たのである。本物たちは“蠱”の蠢きを暗闇から見抜いたのである。
 一方占師は、ある種の理論に基づいて、「科学的」いう言葉をこじつけて、人間の宿命を占う。固定した論理に基づき、万人に当て嵌め、その論理結果から導き出された星を見て占う。星とは、占いの大半が生年月日や名前を基にしている。

 一般に占いは、九星気学や四柱推命、その他、水晶占い、魔術カード占い、トランプ占い、霊感占いなどがあるが、売卜者は算木
(さんぎ)や筮竹(ぜいちく)を使い、易によって八卦見(はつけみ)をする。八象(はっしょう)を基本に置くところは、どこか地理風水(ちり‐ふうすい)に近いところもある。自然の様子を観察し、山川や水流などの様子を考え合せて、都城、住居、墳墓の位置などを定める術を“地理風水”というが、易の見方もこれに近いところが有り、易経の説くところに基づいている。
 また八卦とは、陰陽の爻
(こう)を組み合せた「八つの形象」を指す。そこに、神仏のようなものは持ち込まない。あくまでもシビアで容赦(ようしゃ)のない現実的な暗示を告げる。それは『八門遁甲』然りである。
 被見者が、もし死ぬような運命が、直ぐその先に控えていれば、それをそのまま、包み隠さず告げる。この点は容赦
(ようしゃ)もない。自然の摂理を、自然のままに告げていると云うところもある。

 歩行中の私は「何か?……」と訊いたが、足は止めなかった。
 私は振り向き、一旦足を停めた。易者は私に、筮竹
(ぜいちく)を握って手招きをする。この場から離れようとしても、何かで引き寄せられているようで中々離れることができない。蜘蛛の糸で絡め捕られているようでもあった。
 (何だ、易者が私に何のようだ?……)と、軽い気持ちで振り向き、再び意に止めず歩き出そうとした。そうすると再び、声が懸
(か)かった。
 「もし、そこの人」
  もう一度、呼び止められたのである。
 (何だ、うるさい易者だなァ)と思う気持ちで振り返り、もう一度易者を見据えて、「なんか用か!」というふうな貌
(かお)をして、キッと鋭く睨(にら)んだ。しかし売卜者は、この睨みを意に介さない。睨んでも効果がない。どこか飄々(ひょうひょう)としていた。老人であるだけに、したたかな年輪を宿していた。まさに老練で狡猾な古狐か古狸だった。
 私には、「剣難の相」でもあるのか?……あるいは何か他のことでも?……。
 仕方なく易者に近寄ったが、この易者は何と私に、「貴殿には“女難の相”が出ておりますぞ」と、徐
(おもむろ)に言うのであった。そして、その言い回しが、何か勿体(もったい)を付けたようなところがあった。
 「女難の相?……」私は訊き返していた。
 「左様、女難の相!」
 二言目は、かなり力は入っていた。

 私は「何ッ?!……、女難の相?」と訊き返した。
 その女難の相の貌
(かお)で、この易者の顔をまじまじと覗き込んだ。すると、逆に覗き込まれて、意味ありげに「おやッ?」という奇妙な貌をした。
 私もその仕返しに、更に接近して覗き込んでやった。
 易者は自分の顔を覗かれていることも意に介さないふうだった。年輪を重ねているだけに、百戦錬磨の“つわもの然”としていた。こうした奇妙な遣り取りに、遂に載せられた観があった。
 うまいもんで、こうした剽軽さに手玉に取られていたのである。
 もう一度、「女難の相?」という言葉を吐いて、その真意を聴いてみたくなった。嵌まったのである。
 それは一種の興味半分であった。しかし、私は女に騒がれるほど、“優男
(やさおとこ)”ではない。そんな風姿(ふうし)もない。それに自分独特の女性に対する好みや女性観も持っていた。
 いい女というのは、例えば由紀子のような女を云うと、一種の独自の女性観があった。

 女難の相とは、男が、女との関係で災難を受けることをいう。世間でも、一般によく知られた女性関係の禍
(わざわい)を云う。そこから、女との関係で派生する“絡み”の禍を云う。絡めば、難儀が起こる。
 振り返れば難儀を抱えたようなことをしたのかも知れない。しかしその数を数えて直ぐには思い出せない。数を頭の中で反芻するのだが、難儀の数は、はたとは思い出せなかった。
 この易者は七十歳ぐらいの“八卦見帽”を被った老人だった。一見飄々
(ひょうひょう)と見える老人である。その態(さま)が、古狐か古狸であった。
 他人の事を意に介さないところは、何か超然
(ちょうぜん)として、掴み所のない人物のようにも見える。ある意味で、飄逸(ひょういつ)なるものを感じ、この老人は、人事や世間の事を気にしないで、明るく呑気(のんき)に生きているような人物のようにも思えた。だから“易者”なのだ。
 完全に人の幸・不幸を見て、傍観者になり得るのだ。
 ある意味で気軽な商売かも知れなかった。そんな気持ちで易者を見た。
 そして「まず、見料を」と云いやがった。
 「うム?」私は衝かれた。
 この点は抜け目がなかった。中々の“世間師”である。
 「さて?」売卜者はどうするか糺
(ただ)したのである。
 私は、まず『見料百円』を支払うしかなかった。
 財布から百円札を抜き取り、易者の座っている前のテーブルに、「しめて百両!」と百円札をバーンと叩
(はた)いた。
 「おやッ、威勢のいいこと」と驚いていった。
 「不足ですかな」
 「いや」
 「ならば見て頂きましょう」
 「では早速」と言いやがった。
 それでもこの易者は、別に驚く様子もなく、飄々としていた。それだけに、何故かこの易者は信頼できる筋の“八卦見”をするのではないかという期待を抱いた。途端に“面白い、見てもらおうじゃないか!”と言う気になった。一瞬気負っていたのである。
 「その女難の相とやらを、是非聞かせてもらいましょう」
 (さて、その真意は?)という貌で迫った。さあ、どうする古狐か古狸か知らんが老獪じじい!

 「わしは永年この商売をやって来たが、貴殿のような、後ろに、女衆
(おなご‐しゅう)を、ぞろぞろ引き連れた人を見たのは初めてじゃなァ。賑(にぎ)やかというか、派手と言うか……、まあ、そのッ……、呆れると言うか、実に、そのッ……」といきなり、見料百円を払った客に向かって、こんな事を抜かしおった。
 「どこ?……」
 その言葉に釣られて、一瞬自分の後ろを振り返った。しかし、“ぞろぞろ引き連れた”という形容に相応しい女の姿など、何処にも居なかった。
 そして更に言葉を続けるのであった。
 「貴殿は、生きた女やら、死んだ女やらを、ぞろぞろと後ろに引き連れておる。これはまさに、“女難の相”の典型じゃな」
 「うぬッ!……」狐か狸か知らんが、この手のものに摘まれたような気がした。
 「そして今からの禍
(わざわい)を暗示しておる。おまけにその生きた女やら、死んだ女に、また、何かが憑(つ)いて、肉愛や情愛に引き摺(ず)り込もうとしている。色情じゃな。これでは、貴殿は、身も心も、くたくたじゃろうて」
 この易者は自分が、さも現場を見てきた講釈師のようなことをいう。妙な言い方をしたのだった。
 私を色狂いの色情狂のように言うのである。

 「では、私の後ろに何が見えるのですか?」と戯
(おど)けた貌で訊(き)いてみた。
 「そうさなァ……、まず、二十歳
(はたち)前後の髪の長い女子(おなご)が見えますなァ。この人は事故死じゃ。それも自殺!」まさに断定的だった。
 私は、「うーッ」と唸
(うな)った。
 それは
(千代のことか?……)と問い質(ただ)したかった。この易者は、何を根拠で、そう云うのか、それも訊いてみたかった。
 また、易者の云った、「生きた女やら、死んだ女やらを……」というこの言葉の意味にも、興味をそそるものがあった。
 今度は、その「生きている女」のことを訊いてみたかったのである。

 「さて、そこでじゃ……」と易者は、勿体
(もったい)付けて、次の事を切り出した。
 私はそれを興味津々、ある意味で面白半分に窺
(うかが)おうとしたのである。私は売卜者の易など信じるようなヤワな人間ではなかった。感性はそんなに貧弱には出来ていない。
 むしろ唯物論的な思考の持主である。こう見えても、大学では理系に進み、そこでは自然科学を学んだ。神も仏も、敬
(うやま)うことはあれ、端(はな)から信じない質(たち)だ。
 しかし、この瓢逸
(ひょういつ)なる老人の語り口に、つい惹(ひ)かれた。惹かれた以上、その先に興味があった。どうしても、その先が聴きたかった。
 その先を拝聴願えないものかと、一瞬身を乗り出して、易者の次の言葉を待った。しかし、この易者の云う「女難の相」など、端
(はな)から信用してないのである。私は易や占いを信じるほど、そんなヤワな人間ではない。
 ただ、易者が「女難の相」にかこつけて、私を呼び止め、私の好奇心を逆撫
(さかな)でしたのだった。そこが老人の瓢逸なる魅力だった。それに、“生きた女やら、死んだ女やら”の、その表現が実に面白かった。
 こうまで面白く語られて、これを拝聴しない手はない。
 「宜
(よろ)しいかな、わしの云うことを忠実に実行なされ。そうすれば、女難の相は、必ずや消えましょうぞ」
 (ほんまかいなあ)と思いながらもこの言葉を、興味半分に聴いていた。況
(ま)して、それを訊いて実行する気など、毛頭ない。しかし、語り口は面白いと思った。やはり聴くしかないのだ。
 「これより先に、神功皇后
(じんぐう‐こうごう)が朝鮮征伐の際に、船の帆柱を切り出したと言う“帆柱山”という山がある……」
 「うんうん、それで……」
 「さて神功皇后は、恐れ多くも、仲哀
(ちゅうあい)天皇の皇后。その妃……」と切り出し、「名は息長足媛(おきなが‐たらし‐ひめ)と申す。また、開化天皇第五世の孫にあたられ、息長宿禰王の女(むすめ)である。仲哀天皇とともに熊襲(くまそ)征服に向い、天皇香椎宮に崩御の後、新羅(しらぎ)を攻略して凱旋(がいせん)した。
 この新羅攻略が、俗に言う朝鮮征伐である……」と繋いだ。
 まるで講釈師のようなことを言い出した。
 その語り口は、喋りなれた文章の一節をスラスラと喋ったと云うような、まったく途切れも感じさせない、矢継ぎ早の喋りといってもよかった。話術の妙である。
 私は、そんな歴史の前置きはいいから、ズバリ本題に迫ってもらいたかった。その先は。

今でも帆柱山には、「皇后杉」と言う名の杉の巨木が生きている。

 (じじい、その先を、早く言え)というせっかちな気持ちで、少しばかりの苛立ちがあった。
 この老易者は、人の気持ちを見抜く読心術にも長
(た)けていたようだ。
 「まあまあ、そんなに慌
(あわ)てなさんな……、早漏は駄目ですぞ」と、逸るなと制しやがった。
 「うぬッ……」
 「さて、その帆柱山の中腹に、霊験あらたかな帆柱八幡
ほばしら‐はちまん【註】この八幡宮は物語上の架空のもの)がある。その八幡社において、きたる四月一日から十日に懸けて、幸甚祭(こうじん‐さい)が行われる。
 この幸甚祭
【註】この「祭り」は物語上の架空のもの)は、人々の何よりの幸せを願って催される祭りである。
 貴殿は、その祭りに四月一日から十日まで、毎晩夕方6時から出掛けて、そこで女難退散の祈願をする事じゃ。これは“無言”でする願掛
(がんか)けじゃ。しかして“無言詣り”ともいう。別名“無言祀り”じゃ。
 無言で一心に願を掛けるのじゃぞ。無言で詣でて、そこで祀りの願を懸ける。行って帰る間、一言も、誰とも口を訊いてはならぬ。だから“無言詣り”という。無言であることのみが、神との契約を遂行していることになる。そこに霊験あらたかな御利益がある。その御利益をもってすれば、貴殿の女難は消滅し、幸せが転がり込むやもしれぬ。だが……その後が問題じゃ」

 最後の言葉が、やけに気になった。
 「その後とは、いったい何ですか?その後に何か起こるのですか?その後、私はどうなるのですか?」
 「そうせっかちに、質問攻めされては返事のしようがないではないか。まあ、落ち着いて……」
 あたかも熱
(いき)り立った馬を宥(なだ)めるように、“どうどうどう”という仕種(しぐさ)をするのであった。
 「……………」一瞬黙るしかなかった。
 売卜者は咳払いの後言葉を続けた。
 「一時的には、貴殿に福が転がり込む。それはそれは大変な福じゃ。しかし、この福を継続させる事は難しい。難しいが、努力により継続できるやも知れぬ……」
 「では、それにはどうすればよいのですか?」
 「先ず、幸甚祭に行き、女難退散の願を掛け、一心に福が転がり込む事を念じることじゃ。ただし、宜
(よろ)しいかな、この幸甚祭に出向く際は、必ず沐浴斎戒(もくよく‐さいかい)し、目と鼻と口と耳と肛門の穴の五箇所の“五穴”を清潔にし、特に口は清水で濯(すす)ぎ、帆柱八幡に向かう際は、絶対に誰と遭遇しても口を聞かぬことじゃ。行って帰ってくるまで、絶対に喋ってはならぬ。沈黙を通すのじゃ、一言も口を訊いてはならぬぞ。宜しいかな、一言もじゃぞ……。これが上の口の掟……」
 老易者は徐
(おもむろ)に言い放った。
 「うム?……上の口……」
 では、上の口がある以上、下の口の掟もある筈。
 そのことが知りたかった。
 「妙な顔をしなさったなあ……」狡猾は徐に訊いた。
 「では、下の口は?……」
 「自分で考えなされ」

「帆柱八幡」のモデルとなった帆柱稲荷神社。

 「……………」私は神妙だった。
 この狡猾の古狐か古狸は、自分で考えろと抜かしおった。それは考えなくても分かる。
 上の口に対比する下の口は肛門である。肛門を浄め、禊
(みそぎ)をせよということだ。
 しかし内面はやはり、“ほんまかいなあ?……”という疑いも拭えなかった。そのうえ沈黙は難しい。無言で行って無言で帰るなど、私には出来るだろうか。途中で知人にあったら、どうすればいいのだろうか。無言詣でとと聞いて、そのことが不安になった。
 「そしてじゃ」
 「まだ何か?……」
 「帆柱八幡は八幡地区の、ほぼ南にあり、“天子
(てんし)北面に坐し、南に向かう”の喩(たと)えから、帆柱八幡に向かう際は北方から南方に至る位置に住居を構えなければならない」
 「南方に至る位置に住居とは?……」
 「つまりじゃ、方角が“災方”を避ける為、南北の方位線上に住居を構えなければならぬ」
 「では、南北の方位線上になければ?」
 「その方位線上の場所に引っ越すことじゃ」
 「なぬッ?……」
 (なんと、引っ越せとぬかしおった)そんな顔で私は易者を睨み付けた。
 「何も、そんな怕
(こわ)い貌をせんで宜しい。簡単じゃ、ただ引っ越せばよいのじゃ」
 「引っ越し?……」
 バカも休み休み言えという気持ちだった。
 ところが古狐か古狸か知らないが、この老獪じじいは意に介さない。
 「左様」
 老易者はにっこりと頷
(うなず)いた。
 「引っ越しは、タダでは出来ません。それに引っ越し料や、棲
(す)む先の敷金や礼金なども、更には家賃なども……」
 「けッ!……そんな金を惜しんで何になるのじゃ!ケチってはいけませんケチっては、ケチると人生は至る所でケチが付きますぞ!」
 「?…………」
 云われてみれば尤
(もっと)もだった。

 「それとも福が転がり込んで来ると分かっているのに、この多大な“福”をみすみす逃がす、お積もりか!」と一喝し、なおも大袈裟
(おおげさ)に云う。そして私を、ぎょっと睨んだ。
 「うん〜ん……」唸
(うな)る以外なかった。
 「人間には人生で、三回だけ福が転がり込んで来る絶好の好機がある。それは周期的に遣
(や)って来る。
 しかし、この好機到来を知る者は少ない。多くは好機を“神任せ”にするか、戯言
(たわごと)と考えて、鼻も引っ掛けぬようじゃが、結果的に、それで大切な福を取り逃がす。貴殿もその口かな?」と、実に巧いことを言う。なかなかの策士である。
 これを聴いて、ますます尤
(もっと)もでもあり、あるいは、ますますそうでないようでもあり、しかし、何か心に響くものがあった。
 三回だけ福が転がり込んで来る……に惹かれたのである。妙な説得力があった。信じよう。
 少し、「この遊びに、ちょっと乗ってみるか……」
 そんな軽い気持ちで売卜者の言に耳を傾けたのであった。当たるも八卦、当たらぬも八卦なのだ。
 私は「当る方」に賭
(か)けたのだった。
 「では、南北の方位線上とは?……」
 私は思案後、開口一番これを訊いてみた。
 「国鉄の八幡駅周辺が宜しかろう」
 「なぬッ……、八幡駅周辺?」
 「左様」
 売卜者はしゃあしゃあと抜かしおった。


 ─────こうして私は八幡駅周辺に引っ越すことになり、帆柱八幡の『幸甚祭』に出かける羽目になったのである。しかし、よく考えてみれば、此処に引っ越せば道場にも、ほんの数分で歩いていける距離であり、売卜者の云った南北の方位線上の八幡駅周辺は、別の意味で新たな新天地を拓く場所でもあったのである。それはむしろ、私は売卜者の言に随
(したが)ったのではなく、便利さや活動範囲の有利さを選んで引っ越しを決定したのであった。
 もともと売卜者の言は、当たるも八卦、当たらぬも八卦である。私は「当る方」に賭けたが、もし当れば、それは「おまけ」と思うことにした。
 そして、私は八幡駅周辺にある、家賃九千円の『帆柱荘』という木造の十世帯くらいの安アパートに引っ越すことになるのである。第一、道場にも近いという理由で此処を選んだのである。実家に母だけを残して、大蔵町から此処に引っ越して来たのは、三月も、下旬の頃であったろうか。



<<戻る トップへ戻る 次へ>>


  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法