運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 2
旅の衣・前編 3
旅の衣・前編 4
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旅の衣・前編 22

権力の地位について奢(おご)らなかった政治家は稀(まれ)である。信者が多く殖えて墜落しなかった宗教家は稀である。
 総じて人は、困窮したり、緊迫したとき乱れなくとも、羽振りのよいときに乱れるものである。そして害悪の及ぶところは、羽振りのいいときほど有害で、大きな疵
(きず)を残すものである。


●収監

 悪い予感ほど、よく当たるものである。翌朝午前6時頃、官憲の捜査の手が回った。まだ夜が明けのうちである。冬場の午前6時は真っ暗である。
 以前から選挙ブローカーとして、既に警察にマークされていたのだ。
 そこを寝込みを襲われたのである。寝込み襲うというのは、官憲の常套手段だった。
 夜の明けぬ朝ぱらから捜査課の刑事が来て、参考人として出頭を命ぜられたのである。
 母には「これは何かの間違いで、何でもないから、直戻る……」と云って、捜査課の刑事に同行した。有無も言わさぬ連行だった。強制連行と云ってよかった。
 彼等は私の両腕を側面からガッチリと二人掛かりで掴み、車の後ろの座席の真ん中に、挟むようにして押し込めた。手錠こそ掛けられなかったが、まるで凶悪な犯罪者のような不当な扱いを受けた。扱いは極めて強引だった。

 昨夜のうちに、ワラジを履くべきだった。つくづくそう思うのだった。しかし今となっては遅すぎた。
 B警備の佐多慶太郎が云ったように旅に出るべきだった。姿を晦
(くら)ますべきだった。温泉にでも逃げておけば良かったと後悔した。
 しかし由紀子の幻影が、それを鈍らせ、後ろ髪を引いたのだった。情に惹
(ひ)かされたのだ。それで、まごまごしてしまった。
 車は、Y警察署の裏側の駐車場に止められ、容疑者を連行する通用門から署中に入った。取調室に連れていかれ、共犯者と依頼主の名前を言えと、半ば脅迫
(きょうはく)めいた口調で脅(おど)された。しかし、推測の事情聴取の範囲を出るものではなかった。容疑者であったが、人権は辛うじて守られていた。
 だが一応“今日のところは……”という感じだった。証拠が固まれば、そういう生温いことは一変する。
 明日になれば、どうなるか分からなかった。事情は悪化するかも知れないし、あるいはそのまま御赦免
(ごしゃめん)になるかも知れなかった。罪科赦免の旨は宙に浮いたままだった。

 取調べは、この日の午前中一杯続いたが、どうやら私を起訴する有力な証拠がないらしい。帰る時、明日も任意出頭を命ぜられた。徹底的に遣ると取調官は抜かしおった。その言い方が執拗で、威圧的で、一種独特の脅しめいていた。それだけに何か、帰る時、得体が知れない不安な予感が付き纏
(まと)った。異変が起こるような、粘着性の“何か”が粘り着いた。
 そんな不信の念を抱きながら、この日は道場へと向かったが、万一のことを考えて、違法選挙で稼
(かせ)いだ金を道場の雨漏り等の修理代に当てるため、一旦この金を指導員の大谷に預け、近日中に雨漏りの修繕するように命じておいた。残りは道場の運営資金にせよと言い置きのような指示したのだった。
 もうこのとき、彼は私の身の上に何かが起こる予感のようなものを感じていたのかも知れない。


 ─────収監される数日前のことである。
 そんな時に由紀子から電話が掛かって来た。
 裏仕事を働いた昨日のことが、彼女は何となく気に掛かって仕方ないというのだ。女の直感のようなことを言うのだった。それで今から逢えないだろうかと言う。今度は彼女の方からのモーションである。私への叱責
(しっせき)が、まだ足りないのだろうか。
 あるいは、私が仕掛けた、離れ離れになる「すれ違いの恋の方程式」に、由紀子も私も、絡められているのだろうか。
 そう思うと、何故か切なさが募った。愛着が募った。彼女の言動からして、事態は逼迫
(ひっぱく)しているものと思われた。同時に、私まで自分の仕掛けた罠(わな)に、自分で掛かっていた。

 稽古途中、私は指導員に後を任せて、一先ず道場を暫
(しばら)く開けることにした。行きつけの、指定した中央町の喫茶店で落ち合い、それから彼女を食事に誘った。二、三日の、先行き不安な一時(ひと‐とき)を贅沢(ぜいたく)する金くらいは充分に持ち合わせていた。裏仕事で稼いだ金はそれなりに残っていた。
 人間は金を持つと何かしら積極的になり、大胆になり、強引になるらしい。まだ、その延長線上にいた。そして、その金が況
(ま)して泡銭(あぶく‐ぜに)から派生したものであるとなると、尚更(なおさら)だった。
 一気に、ぱーッと遣ってしまおうと云う気持ちになる。後先なしの「今」を思えば、一気に遣って……と、どうしてもそういう気持ちになる。宵越しの銭は持たぬ、あの豪毅さが頭を擡
(もた)げるのである。

 彼女を誘った店は、以前私が、この店で休みの度に働かせてもらった店だった。
 高校時代、時々博多から帰省する度にアルバイトをした、ある小さな料理屋であった。この店で、私は随分と日本料理の妙
(みょう)を仕込まれたことがあった。何となく懐かしくなって、この店に彼女を誘ったのだった。
 ある寺町通の裏手にあり、繁華街から少し脇道にそれた、奥まったところにある店だった。繁華街は相変わらず賑
(にぎ)わっていて、道に面した緩やかな石段を昇り、更に奥にいくと板塀に囲まれた旅館や住宅が立ち並び、それを過ぎて、一つ目の角を曲がるとその先が狭い袋小路になって、そこにひっそりとした小路の端近くに擦りガラスの看板があり、小さな明かりに『きぬ屋』という文字が浮き出ていた。あたりはひっそりと静まり返っていて、繁華街からの芸妓(げいぎ)の嬌声や車輛の騒音とは無縁だった。

 「ここですよ」
 私は由紀子とともに、石畳を踏んで、杉の一枚戸の開け放たれた門を潜った。
 石畳はよく水打ちされていた。
 店の中へ導く飛び石には、水がまかれてしっとりと苔産
(こけむ)した風情が、「わび」と「さび」の世界を醸(かも)し出していた。私は門から玄関までの間の通路が、非常に気に入っているのだった。
 入口の、戸口へと誘
(いざな)う短い通路の両側には、竹林を思わせる竹や笹の植込みがあり、緑の葉を照り返しの街灯の下で輝かせていた。何とも言えない独特のアプローチだった。
 奥行きが深く、然も全体としては柔らかな雰囲気を造り出しているのだった。そしてそれらは生垣の美しさを瑞々
(みずみず)しく湛え、それが風にサヤサヤと鳴っていた。風の穏やかな晩だった。
 そこには、こじんまりと纏
(まと)まった、数寄屋(すき‐や)造りの、離宮の重みを思わせる佇(たたずま)いがあった。玄関横には茶庭風の小さな“蹲踞(つくばい)”があり、水がちょろちょろと静かな音を立てていた。わび、さびをそそる、静かな夜景の小宇宙というところだった。

玄関横には手水鉢があり、静かな水の音を立てていた。
そして此処で手を洗い浄める。

 戸口の開けて中に入ると、入口近くの生
(い)け簀(す)には淡水の小魚が入れられ、沢山の泥鰌(どじょう)が水槽の所々で一団の塊(かたまり)をつくり、群れるように賑(にぎ)あっていた。また左手の一回り大きな生け簀には、真鯛(ま‐だい)や黒鯛(茅渟鯛/ちぬ‐だい等の高級魚が悠々(ゆうゆう)と泳いでいた。
 この店の主人は、庭の造りや店内の内装迄を自らの手で手懸
(てが)け、隅々に至るまで自分の設計であることを誇らしげにしている人であった。
 凡
(おおよ)そ、日本の造園術や寝殿造(しんでん‐づくり)が、中世の歴史上の名の有る隠遁者(いんとん‐しゃ)の権力そのもの具現であるのと対照的に、此処に具現されているのは鄙(ひな)びた山寺の枯山水(かれ‐さんすい)を思わせる簡素な数寄屋造(すきや‐づくり)の佇(たたずま)いであった。

 「いらっしゃいませ」という掛け声と同時に、私の顔を見るなり「おう、随分と珍しい人のお出でましじゃなか」と店の主人が、驚きと共に、昔を懐かしむような声を懸けてくれた。
 宵の口とはいえ時間が少々早いせいかい、まだ客は一人もおらず、がらんとしたカウンターに隣り合せで由紀子と席に着いた。そしてまずは、此処の名物の「泥鰌
(どじょう)の踊り喰(ぐ)い」を賞味することであった。
 私は由紀子の注意を引こうと無意識な行動に出ていたのかも知れない。恐らく「柳川
(やながわ)」という、食した経験のない彼女に、この「泥鰌の踊り食い」は興味津々(きょうみ‐しんしん)のものであったと値踏みしたのだった。
 店の主人がカウンターに、泥鰌の入ったグラスを差し出した。グラスの中では五、六匹の泥鰌が一点を軸に群れ合っていた。
 まずはこれで乾杯という訳であろう。主人は、これをグラスの水と同時に飲むようにと勧めるのである。一瞬驚いて躊躇
(ちゅうちょ)した由紀子に、“このグラスの中の泥鰌は、二、三日泥を吐き出させたので安全だ”と何度も念を押すように言った。
 「これを、この儘
(まま)飲んでしまうの?」何だか可愛そう……、というような顔をして、彼女は私にこう訊ねた。
 「そうです、こうやってね」
 私は手本を示すように、一気に飲み込んで見せた。

 これを見た由紀子は驚愕
(きょうがく)の表情の儘、「あたしも同じことをやるの?」と(まさか……うそ……)という表情を崩さない。
 「そうです。今更、頭を捻ってみても仕方がないでしょ。ただ単純に飲み干せばいいのです」
 「えーッ?」
 だが、由紀子は何処から手を下していいものか、まだ決心がつかないでいるらしい。
 「さあ、お嬢さんもどうぞ」
(今度はあんたの番だ)と言わんげに、躊躇(ちゅうちょ)している由紀子に、主人が勧めた。そこには、《駄目だ》と言おうものなら、タダでは済まないぞという、店の威信を賭(か)けた貌(かお)があった。
 これに堪忍したのか、由紀子は怕々
(こわごわ)とグラスを口に付け、目を瞑(つぶ)ったまま飲み込んだ。飲み込む際に少し咽喉(のど)につかえて噎(む)せたせいか、うっすらと目に涙の跡が窺(うかが)えた。その彼女の顔には、初めての物を口にしたという驚きと、無理にでも取り乱すまいとする婉然(えんぜん)とした微笑みが交互に交差していた。そしてやがてその色は、一色に落ち着いた。

 此処で小一時間ほど腰を落ち着け、柳川鍋や魚料理などを堪能
(たんのう)した後、今日の彼女の逢いたいという第一の目的が達せられたように思えた。その目的は私の安否だったらしい。
 人間、腹が膨れて満足すれば、次に手を出すのはアルコールであるらしい。一日の終わりに酩酊を味わう。これが最後の仕上げとなる。これは私個人の流儀であるかも知れないが、私は腹が一段落すると、酒の力を借りないと一日が終わったような気がしないのである。酒の力によって、明日への第一歩を踏み出すのである。
 彼女を次に誘ったところは、時々足を運んでいたカクテルバーであった。

 店内は煙草の煙が靄
(もや)のように霞(かす)み、洋酒党の酒好きが詩作に耽るような、思い思いの一時(ひととき)が繰り広げられていた。
 サム・テイラーのサックスの気怠いジャズ調の音楽が、煙草の煙で煤
(すす)けた店内の内装とよく調和していた。カウンターに腰を掛けると、初老のバーテンダーが、「いらっしゃいませ。何になさいますか?」という、いつもながらの声を懸けた。
 私はいつものようにブランディー・ベースのジンジャーエールを適量に加えた、ブランディー・ジンジャーと答え、由紀子にはドライジン・ベースのグリーン.ペパーミントの青い珊瑚礁
(さんごしょう)を注文した。

 こんな時、青い珊瑚礁は、まあ妥当な婦人同伴をした時の注文であろうが、ブランディー・ジンジャーは酒好きの、それを中国語に要約するならば《通串飲酒》であり、酒を串に通して飲むという直訳が浮かび上がってくる。
 しかし日本語的に考えれば、ハシゴというイメージにも似ている。その意味でこのハシゴという言葉から窺
(うかが)えることは、辛い宿酔(二日酔い)の明日への悪夢をイメージさせるものであった。
 その時、由紀子が一枚の壁に掛かった絵に気付き、
 「あの絵、もしかしたらマリー・ローランサンじゃないかしら?」と小声で囁
(ささや)いた。
 「そうですよ」
 「へッ…、素敵な絵」
 フランスの女流画家マリー・ローランサン
Marie Laurencin/1883〜1956)は最初キュビスム(点・線・面で幾何学的の再構成)を手掛け、のちに装飾風フォーヴィスム(色彩・線条・形態の配合・調和)に転じた画家である。

 由紀子の言葉には何かを思って安堵
(あんど)し、何かを嗅ぎ分けて懐かしさに耽った、数年前を回顧させる気持ちが込められていた。
 「覚えていいますか、福岡美術館のことを?」私は懐かしさを込めて言った。
 「ええ」
 それ以上由紀子は、何かに満足したかのように何も答えなかった。
 私は思っていた。由紀子と会ったことを。
 一度福岡美術館で、これと同じタッチのマリー・ローランサンの絵を見ているのである。そこには由紀子も居たのだった。高校生の頃だった。この時、偶然にも遭遇したのだった。鉢合わせという感じで、その会場でバッタリと出会ったのだった。あの頃が仄
(ほの)かに蘇(よみがえ)ってくるのだった。
 私は、間歇泉
(かんきつ‐せん)が噴出するような勢いでブランディー・ジンジャーを重ねていた。それは太く短い定められた時間内に、少しでも早く燃焼しようとする裂帛(れつばく)の気合いが込められていた。何かに急(せ)き立てられていた。

 「岩崎君を見ていると、まるで帰りを急ぐ“渡り鳥”みたい。何かに、随分と自棄
(やけ)になっているみたいですわ。違うかしら……」
 その先は続けないが
(本当はどうなの!違うかしら?)という問い詰めに近い訊き方であった。
 いったい私が何処に帰って行くというのだ。もしかしたら、彼女はその行き先を知っているのではないかという、勘の良さに警戒を示さずにはいられなかった。
 「僕は帰りを急ぐ渡り鳥ですか、これはいい……」
 私は自嘲
(じちょう)ともつかぬ、わざとらしい苦笑をして、本心を見抜かれないように微笑を作った。
 「話を反
(はぐ)らしちゃ駄目!」
 昨日と同じ様な叱責するような眼があった。

 「今晩ここで、明日の朝まで飲み明かしませんか?」
 これに対して彼女は暫
(しばら)く返事をしなかった。そして思い出したように切り出した。
 「本当に、何処か遠くに行ってしまうの?」
 彼女の突然に切り出した質問は、私に空しさを押し付けた。今宵
(こよい)の私が異常であろうが、正常であろうが、そんなことは私にはどうでもいいことであった。明日までの短い一時(ひととき)を、此処で全て燃焼することに賭(か)けていた私には、彼女の質問が愚問のようにさえ思えていた。
 「それは僕が、何処か異常ということで訊
(き)いているのですか?」
 「異常というより、何処か危なかしくて訊いているだけですわ」
 何か、下手な綱渡りをする曲芸を指摘されたような感じだった。
 「世の中の常識派の人に比べれば、僕は完全に異常者ですよ。異端者ですよ。決して正常でもなく、世間風の常識も持ち合わせないのが僕の本性です。そんなこと、今頃気付いたのですか……」
 自分でも驚くような、質
(たち)の悪い皮肉だった。
 「今日の岩崎君、本当にどうかしている……、何かあったの?」
 私はこれを否定もせず、肯定もしなかった。ただ静かに首を横に振るだけだった。
 世の中には適度な自らの本分を守り、常識派といわれる人が余りにも多い。その多い群れの中に入れない、私は社会不適合であった。これを今更、蒸し返しても仕方のないことだった。

 善良な市民……。
 それは恐らく、可もなく不可もなくの無力な善人に適用された言葉であろう。裁判所の定義にはそうある。その定義によって、裁判は行われる。落ち度があるかないかは、その定義による。
 人はそれを基準に是か非かが決定される。被害者に何の落ち度もなければ、加害者の罪は一等重くなるし、被害者に何かの落ち度があり、前科があれば加害者は罪一等が軽くなる。
 だが、確信犯はこうした扱いをされない。
 道徳的あるいは宗教的または政治的確信に基づいて行われる犯罪は、罪一等が重くなったり軽くなったりはしない。思想犯や政治犯や国事犯は一種の信念に基づき、アクションを起こすから、ここに罪の軽重はない。
 実行しなくとも企てただけで、それ相当に罰され、専制君主国家か、一党独裁の社会主義か共産主義ならば死刑になることすらあり得る。

 現に、大逆事件がそうだった。
 一部の社会主義者の天皇暗殺計画を理由に、多くの社会主義者や無政府主義者が検挙された。非戦論を唱える幸徳秋水。そして、これに共鳴したのが、管野スガだった。
 この事件は明治43年
(1910)に起こった。この事件で、26名が大逆罪で起訴された。
 そのうち無関係者を含めで、24名が死刑を宣告された。そして翌年の一月には、頭目と目された幸徳秋水
こうとく‐しゅうすい/平民社を起し、「平民新聞」を創刊。中江兆民に師事。平民社解散後渡米、帰国後無政府主義者に転向。明治天皇暗殺を密謀したとして起訴された。1871〜1911)や宮下太吉みやした‐たきち/機械工で無政府主義者。1875〜1911)ら、また女性では管野スガかんの‐すが/幸徳秋水と同棲しアナキズムに共鳴する。1881〜1911)を含む12名が死刑に処せられた。
 ちなみに、この事件で検事として幸徳秋水らに死刑を求刑したのが、後に総理大臣になった平沼騏一郎
ひらぬま‐きいちろう/帝国大学(のちの東京帝国大学で、戦後の東京大学法学部)法科大学卒。司法官僚。司法大臣、貴族院議員、枢密院副議長、枢密院議長、内閣総理大臣、国務大臣、内務大臣などを歴任。太平洋戦争後、A級戦犯として終身刑が言い渡されるが、昭和27年(1952)、病気のため仮釈放。1867〜1952)だった。

 また一党独裁の社会主義や共産主義国家においては、確信犯は処刑されることが通り相場であり、大逆事件どころの程度ではすまされない。独裁政党国家では、不正分子として粛清されるのが当り前であり、方針に反対する者は悉
(ことごと)く処刑される。資本主義幇助罪(ほうじょ‐ざい)として、正犯の実行行為を容易にした廉(かど)として、これもまた粛清される。
 世の中の構造の根底には、左右の思想に関係なくアナキストでもアウトローでも、この世から排除するという力学下に置かれているのである。
 そのために私のような少数派に属する異端者は、何処までも隔離され、スーパー・アウトロー的な譏
(そしり)を受けて、何者からも警戒される運命にあるのではあるまいか、という疑念が趨(はし)っていた。適合性がないのだ。適合性のない者は、世の中から排除されるのである。
 しかし私はこれに、あえて否定する気持ちはなかった。本
(もと)を正せば、その持って生まれた宿業(しゅくごう)は、極めて超過激なスーパー・ウエポンのような、異端分子であったからだ。ある種の、金で雇われる鉄砲玉である。そんな異端分子だった。世の中の食(は)み出し者だった。
 現に特攻隊も、その異端分子が仇を為
(な)した。
 政治ブローカーとして悪党に見込まれ、特攻隊を引く受けたのだった。依頼した方も悪党だったが、依頼された方も悪党だった。

 私は自分に微かな辟易
(へきえき)を覚えた。
 この時、遊び女には不自由していなかったが、何か今夜は由紀子が無性に欲しかった。由紀子の艶
(なま)めかしい肉体が頭の中を空回りしていた。ラブ・ホテルに誘うかどうか迷っていた。しかし、切り出せなかった。まだ世間風の常識は腐っていなかった。紳士としての分別はあった。

 由紀子と情愛を交わしたいと思いながらも、彼女の高貴な気高
(けだか)さに打たれて「片思い」のままで、踏み止まっていた。嫁入り前の娘に手を出して、彼女の両親の失望を買うこともあるまいという冷静さが僅かに残っていた。
 そうこうしているうちに、彼女が言葉を切り出した。
 「もう遅いから、今晩はこうけれで……」というような、未成年者のようなことを言い出した。
 彼女のその言葉で時計を見たら、まだ午後9時前であった。

 私は、
(まだ、宵(よい)の口の9時前ではないか。少年少女のお行儀の良い夜間外出であるまいし、何をそんなに急いで帰る必要があるのか……)そんな穿鑿(せんさく)を走らせながら、これから長い今宵をどのように過ごそうかと思案に暮れていた。私も潔(いさぎよ)く彼女の言葉に従うしかなかった。やはり彼女は、手の届かない遠い存在のように思えた。そういう意味で、彼女は箱入り娘なのだ。
 簡単に「すれ違いの恋の方程式」は功を奏しないものだ。
 本当にすれ違いになり、最後は離れ離れの結末で終わる、そんな終りを象徴していた。すれ違い劇が、すれ違ったまま終る劇ほど、惨めなものはない。

 由紀子は「ごきげんよう」と言い、私は「さようなら」を言って、彼女と別れた。
 私の「さようなら」は、もう二度と裟婆
(しゃば)の景色にお目にかかれないかも知れない「さようなら」だった。再び彼女と逢う事の無い「さようなら」であった。別れの挨拶「左様なら」は、私にとっては永遠の別れを意味していた。
 彼女がこれを何処まで理解したか知る由
(よし)もない。
 私は思っていた。
 ささくれ立っている今のうちなら、何の躊躇
(ちゅうちょ)いもなく、何処にも行けそうであった。どんな罰でも恐れるに足りない気持ちであった。例えそこが刑務所であっても……。
 そして彼女との仲は、今晩をもって、もうこれで完全に終了したと諦めた。
 いいではないか、ささやかな夢が見られただけでも、という気持ちでこの場を引き上げた。もう、思い残すことはないのだ。


 ─────次の日の朝、雪駄
(せった)を履(は)こうとしたら鼻緒が切れた。
 一瞬“不吉な予感”が脳裡
(のうり)を翳(かす)めた。これは悪い予感を暗示させるものであった。要するに悪いことばかりに絡まれているような予感があったのである。再び、Y警察署の捜査二課に出頭した。
 この日も昨日同様、事情聴取をされて、直に帰されるであろうと甘く考えていた。
 しかし驚くことは、この出頭と同時に選挙違反の重要参考人として身柄を拘束されたのである。身柄拘束の令状が、昨日のうちから密かに裁判所から用意されていたのである。
 わざわざ自ら捕まりに行ったようなものであった。間抜けだった。先を読めなかった軽率さがあった。いよいよ身を隠さなかったことが悔やまれた。
 身柄拘束のための拘束状は、選挙における買収行為と、その違反行為の容疑であったが、その時の詳しい内容は、よく覚えていない。いつの間にか、参考人が重要参考人となり、既に容疑者として扱われる羽目になっていた。完全な証拠がないから、まだ容疑者としての呼び名が使われないだけのことであった。

 私の手には、その場で手錠がかけられ、躰
(からだ)の前後は太い縄で腰が縛(しば)られた。収監である。
 早速、取調官と捜査課の若い刑事に付き添われて、強引に取調室に押し込まれた。
 作業は取調調書から始まり、取調官が私の口答を調書に筆記していく。氏名、生年月日、住所、本籍地、職業等の申告から始まった。次に躰の特徴が記録される。身長や体重はも勿論の事、その肉体的特徴なども全て申し出なければならない。そしてこれらが終わったところで、容疑内容の核心に迫っていくのである。
 この作業は、中々時間のかかるものであった。少しでも取調官が誤字などをおかして書き方を間違うと、“一字訂正”“一字挿入”の訂正書きが調書上部に付け加えられ、それだけでも時間が掛かり、取調べは長時間に亙
(わた)って行われた。だから取調官の筆記速度が遅いと最悪であった。途中、昼食を挟んで、更に続けられた。

 取調室は四方がコンクリートの厚い壁で覆われた、脱走不可能な三畳程の堅固な部屋で、天井は高く、飛び上がっても届かない上の方に30cm四方の小さな窓があり、その窓には鉄切り鋸でも容易には切断できない鉄格子がはまっていた。その窓から差し込む陽差しは長く傾斜をし、もう既に時間が黄昏時
(たそがれ‐どき)であることを教えているようだった。
 その斜めに傾いた陰気は陽差
(ひざ)しは取調官の肩辺りを照らし、その影は、更に小さな部屋の壁に届いて淀(よど)んだ。調書の作業が遅いので、私は時々退屈紛れに辺りを見回す余裕が生まれた。見回しても、これといった変化はなく、見回すことで、これから先のことを思い悩むのであった。
 こうなった以上、俎板
(まないた)の鯉(こい)であるが、自分に何か重大な罪があるのではないか、という不思議な懸念(けねん)に駆られた。此処には不思議と、人間の人格と信念を崩壊させる疫病(えきびょう)のような何かの発信源であった。理由もなく良心が萎縮(いしゅく)して、囚(とら)われの身の恐怖が、震えと倶(とも)に己自身を破滅に導くのである。

 私は崩れ落ちていく己の心と戦うことで必死であった。そして共犯者と依頼主の名前だけは、絶対に喋らなかった。
 取調官が、そこに触れてくると、黙秘権を行使して、頑
(かたく)なに貝の如く口を閉ざした。
 私のこの態度に、痺
(しび)れを切らした取調官が、
 「お前は、中々強情
(ごうじょう)な奴やのう。全部、吐いて、早く楽にならんかい!」などと、机を掌(てのひら)で激しく叩いて怒鳴った。
 それでも私は、取調官が確信に迫ってくると惚
(とぼ)けていた。それは依頼主への忠誠心ではなく、共犯者になってしまう大谷の身を庇(かば)ったからである。
 夕方、食事が終わった後で指紋、手形、写真、前科歴などが確認された。写真、指紋、手形は此処でも取られた。そして写真を撮られる時、不図
(ふと)学生時代、野仲という悪友と、H警察署の留置所に入つた時のことを思い出していた。


 ─────学生時代のことである。
 当時は共産主義の嵐が巷
(ちまた)を襲っていた。
 猫も杓子
(しゃくし)もプロレタリア階級闘争に入れ揚げていた。ブルジョワ粉砕を叫び、階級打破の精神を掲げることこそ、最先端を行く進歩派の共産主義青年を代表するインテリ学生と思われていたからである。自分自身に学のあることを周囲の者に証明してみせるには、プロレタリア革命の戦士を標榜(ひょうぼう)してみせるしかなかった。
 そして階級闘争への戦士としての細胞の養成は、殆どが高校生の頃に培養されているものと思われた。
 つまり、民主青年同盟の存在である。略してこれを「民青」という。民青は日本共産党指導下の大衆的青年組織である。
 私も一時、高校生の頃にこの組織に所属した事があった。
 民青の前身は大正12年
(1923)に組織された「共産青年同盟」である。そして戦後は、「日本青年共産同盟」と改称され、昭和31年(1956)より民主青年同盟となった。この組織で培養された青少年が、全共闘時代、革命戦士を気取るのである。猫も杓子もプロレタリア階級闘争に入れ揚げた時代だった。
 そこには常に暴力と破壊の嵐が渦巻いていた。
 そして、この暴力と破壊こそ、階級闘争のシンボルであり、これこそが正義であると、若者の誰もが、信じて疑わない一世風靡
(いっせい‐ふうび)の熱病があった。
 また、その時代は「全共闘」が猛威を奮った時代であった。階級闘争において、権力側の体制と戦う暴力こそ、正義と信じられていた。

 アメリカ帝国主義粉砕、国家権力の打破は、当時の若者の共通したスローガンであった。そして革命という暴力こそ、階級闘争における「正義」であると信じられた時代であった。
 当時の学生の多くは、他人や周囲から賢く思われるために、カール・マルクスの『資本論』に書かれた単純労働の理論を、社会システムの中で“最高の理論”と信じて疑わなかった。
 誰もが学者気取りで、時代の流行に乗り、唯物弁証法を口にし、唯物史観を論
(あげつら)い、革命分子として、個人よりは、全体としての全体主義的思考で物事を捉え、共産主義礼賛(らいさん)に惜しみないエールを送っていた。史的唯物論こそ、マルクス主義の歴史観を評価する最高の物と思っていた。これ以外にないと信じていた。

 モスクワ放送の『プラウダ』や、中共の『人民日報』の、日本人向けの短波放送に耳を傾け、大企業の粉砕を叫び、アメリカを植民地主義・帝国主義を、悪
(事実ユダヤのマスコミを操作する画策がなければそうであるが)の最たるものだと極付け、一時的な熱病にかかったように「反戦」を高らかに謳(うた)い上げた。
 しかし、ここには大きな矛盾があった。それは反戦を標榜
(ひょうぼう)しながらも、一方で暴力革命を肯定していたのである。
 そして誰もが、国際ユダヤ金融勢力の画策によって作られた虚構理論に入れ揚げ、画策され、騙されているとも知らず、共産主義者を模倣するしかない刹那的な時代の、その縮図の真っ只中にいたのである。
 何故ならばカール・マルクスはドイツ系のユダヤ人であったからである。ドイツの経済学者で哲学者でもあった。革命家を気取っていたユダヤ人だった。

 だがそれは、『旧約聖書』に出て来るユダヤ人のことではない。アシュケナジー・ユダヤ人である。
 アシュケナジム
(Ashkenazim)ともいい、離散(ディアスポラ)したユダヤ人というより、「ユダヤ教」に改宗した「カザール汗国」の国民達で、中世以降、ドイツ次いで東欧に移住した人々を指す。中世のユダヤ人は、ヨーロッパに移住したカザール人であり、此処でカザール人改め、「新ユダヤ人」となるのである。

 シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人
(The Merchant of Venice)』に代表される高利貸しの金融業者は、既にお馴染みだろう。
 金貸は新ユダヤ人
(白人の肌を持つアシュケナジー・ユダヤ人)に割り当てられた職業であり、金融業を営みながら、ヨーロッパ各地の政界の中枢に食い込んで行くのである。やがて栄えるが、第二次世界大戦下、ナチスのホロコーストの犠牲になった人達である。
 これに対して、『旧約聖書』に出て来るユダヤ人は、スファラディ・ユダヤ人とであり、またセファルディム
(Sephardim)とも云い、離散したユダヤ人の中で、中世以降スペインついで北アフリカなどに移住した人々である。

 両者は同じユダヤ人を標榜しているが、人種的には全く違う血縁を持っている。
 アシュケナジー・ユダヤは白人の肌を持つユダヤ人で、多くはヨーロッパに棲
(す)み、一方スファラディ・ユダヤは黄色人種の肌を持ち、多くは北アフリカなどに棲んだ。特にアラブ諸国に棲んだのである。
 当然、彼等はヨーロッパに棲んだアシュケナジー・ユダヤ人に比べて非常に貧しかった。
 一方、ヨーロッパに棲んだアシュケナジー・ユダヤ人は金融業が許され、王侯諸侯などの庇護もあり、王宮商人として各国にはフリーパスで行き来でき、商売の規模を広げ、裕福なユダヤ人達であった。貧しい同胞のセファルディムを苦しめている「中世の軛
(くびき)」とは無縁であった。
 特にこの中には銀行家や医者、弁護士など、職業の中でも上位の権威を持つ要職に就き、ヨーロッパではかなりの影響力を持っていた。

 『アンネの日記』に出て来る少女アンネ・フランク
Anne Frank/1929〜1945)も、このアシュケナジー・ユダヤ人である。
 この『アンネの日記』はナチスの迫害を逃れて、家族と共にアムステルダムに隠れ住んだ1942年からの二年間の生活記録となっている。
 しかし、これは病死するまでのアンネ・フランク自身が書いたものでなく、戦後アメリカの女流作家によって書かれた、半分以上が創作話しになっている。一部が捏造であるにも関わらず、それをあたかも事実のように書かれている。
 ナチス・ドイツの迫害により、ホロコーストで600万人のユダヤ人がドイツのアウシュビッツで虐殺されたと言うが、この「600万人」の数字も疑わしくなる。
 確かにアシュケナジー・ユダヤ人が犧牲になったことは確かであろうが、600万人の数字は疑わしい。
 何故ならば、アウシュビッツ強制収用所はその規模が15,000人未満で、ここで600万人が殺されたと言う話に、どうしても無理が生じるからである。

 一方、ドイツのアウシュビッツに対し、日本の『南京大虐殺』がある。
 当時の南京市民は、中華民国・国民党軍を合わせても5万人程度だったが、どうして此処で30万人もの中国人民が殺されたとするのであろうか。
 もし、これが事実だとすると、南京市民の赤ん坊や老人までもを含めて5万人を鏖殺しにした上で、更に25万人の屍体
(したい)を何処からか運んで来なければならなくなる。
 当時に日本軍に、25万人分もの屍体を運べるようなトラック機械化部隊は存在しなかった。この25万人はどのような方法で南京に運び込まれたのだろうか。

 南京大虐殺について、30万人の中国人民が殺されたというのなら、その日本軍の屍体を処理する機能を発達していなければならないが、田舎陸軍の精神主義だけの日本陸軍には、その能力はなかった。能力がないばかりに、先の大戦も大敗北して、日本国中を焦土に化したではなかったか。
 要するに、ナチスドイツのホロコーストも、日本軍の南京大虐殺も、戦争に負けたからこのような捏造が生じたのだった。勝てば官軍なのであるから、戦勝国は原爆を使用しても、またその開発計画に加わった者も決して指弾されることはない。戦争に負けると言うことはこう言うことなどである。
 戦争は絶対に行ってはならないが、行った以上、負けてもならないのである。
 戦争は行っているときよりも、終戦になって、負けたときから、本当の地獄が始まるからだ。この地獄の出現に「勝てば官軍の力学」が働いていることは明白だろう。

 こうした背景には、確かに何者かの誘導がある。穏微な集団の意図的な誘導がある。
 歴史は自然発生的に起こるのではなく、意図的に、人工的に作られるのである。
 特に十七世紀後半から十八世紀に掛けて、世界の歴史は、「一つの脈流」により、人工的に導かれてきた足跡がはっきりと見て取れる。植民地主義や帝国主義に、割拠する国家群の浮沈を見れば明らかだろう。
 つまり歴史は特定の目的による、特定の意図を持った「穏微な集団」により形成されて来たという事実だ。
 そしてその穏微な集団とは、フリーメーソンであり、フリーメーソンの総括組織である「イルミナティ」である。国際的な金融の実験を握る国際ユダヤ金融資本であり、この巨大資本は、一般のユダヤ人の一切関係がない。此処で実験を握っているのは、白人の肌を持つ一握りのアシュケナジー・ユダヤ人である。そして「鶴の一声」で世界の金融を初めとして、政治や経済や軍事に大きな影響力を持っているのである。
 このイルミナティこそ、全世界へ向けての指令塔であった。指令は此処から出る。

 此処から、マルクスに『資本論』を書かせたという信憑性は高い。
 何故ならば、ブルジョア革命によってフランスのブルボン王朝を崩壊させ、プロレタリア革命で帝政ロシアのロマノフ王朝の絶対主義支配制を崩壊させたからだ。崩壊に導くプロセスには、アシュケナジムのメンバーが構成する「世界統一政府樹立」の支配体制の意図が働いて居たからである。

 「ワン・ワールド」の意図により、第一段としてアメリカ独立戦争、第二段としてフランス革命、第三段として日本の明治維新と云うフリーメーソン革命、第四段として第一次世界大戦、第五段としてロシア革命、そして第二次世界大戦や太平洋戦争と続く流れの中に、穏微な集団の意図が働いた足跡を、はっきりと見ることが出来るのである。
 共産主義の虚構理論も、ブルジョア革命でなった近代資本主義に対峙
(たいじ)した世界構図の中で、一握りのエリート・ユダヤ人を中心とする、イルミナティの意図と影響力があったと見るべきだろう。


 ─────全共闘の時代、大学紛争を通じて、多くの学生は国公立や私学を問わず、直線的に共産主義青年たり得ることを自らの誇りにして、熱っぽい小批判者として、政府自民党及び国家権力に対して徹底的な敵愾心
(てきがい‐しん)を抱き、歴史を革命で作り替えようと乏しい画策を展開していた。やがて革命と云う名は、「正義」の代名詞となり、階級闘争の名を以て、多くの若者に信仰された。
 このように論旨の結論を導き出していくと、かつて悪友の野仲義治
(のなか‐よしはる)がぽつりと云った、「あいつら、アホじぇ。騙されているのも知らんと」といった言葉に、ますます信憑性が出て来るのであった。

 そんな時、悪友の野仲と二人で、左翼学生のデモ隊に暴行を加えたことがあった。
 私たちは、彼等の行動がグロテスクな印象にしか映らず、一種の熱病に浮かされている夢遊病者のように思えていた。そんな印象を持っていた時のことである。
 この日は朝から左翼学生が、博多駅前広場を占拠して、大きなプラカードと赤旗を掲げ、スピーカーのボリュームを一杯に上げて、大声でガナリ立てていた。
 道は何処も彼等に占拠されて、一旦こうした渦に巻き込まれると、進むことも戻ることもできなかった。私と野仲は馬場新町で、一晩中女郎屋で遊びまくっての朝帰りで、頭がボーとしていた。早く家へ帰って、寝るだけの作業が残さっれていたのである。

 野仲が、「おい、今日の太陽は黄色いぜェ」と、妙な疲れた声を上げた。
 「あッ!本当じゃ。真っ黄色じゃ」私も合槌
(あいつち)を打って、気怠い声を漏らした。
 「ああー、ああ。もう、俺、なーんも出てこん。出るのは、玉が二個出てきて、それで終わりじゃ」と、私たちは、こんな馬鹿な会話をしていた。
 するの野仲が、
 「あちゃ。今日は、こげんとこでデモやっとうやなかや。これでは家に帰えられんぜェ、どぎゃんしてくれるとや」と悲鳴に似た声をあげた。
 「どぎゃんもこぎゃんもなか。こいつら、クラ
(殴る)しあげちゃりたいなァ」
 「ほんなこて
(本当とのこと)、こいつら、邪魔やなァ」
 「ほんまじゃ」
 「ああ…!今日、こいつらのおかげで、汽車とまっと
(止まっている)。何ばして、ほんなこツ、こげなところでデモばするとかねェ」そして強引に人込みを掻(か)き分けて、前に進んで行った。
 「ここでも、“アカ”が出張っとやなかや」と、集団に取り巻かれた人込みから出口を捜していた。とうとう進むことも退くこともできなくなった。もう完全に渦の中に嵌
(はま)っていた。
 これに苛々
(いらいら)した野仲が、デモ隊の左翼学生に向かって、
 「君たち!ボボはしてええけど、デモはしゃいかん!」と例の調子で怒鳴り始めた。周りの左翼学生から、ドット笑い声が上がる。

 短気で喧嘩早い野仲は、
 「きさんら
(貴様ら)!デモやっとって、何が、おかしいとかァ!」と言って、デモ隊の前列の奴に、下駄を履いた儘、一発蹴りを入れた。
 興奮状態の野仲の赤い顔からして、大量のアドレナリンホルモンが分泌されているということが如実に窺
(うかが)われた。これからが大乱闘である。

 私も、野仲が火蓋
(ひぶた)を切ってしまったものだから、彼の友人の一人として、この乱闘に付き合わされる破目となった。この乱闘の中に、更に機動隊が参入した。
 とうとう三つ巴の乱闘になってしまった。学生服がぼろぼろに破れた。機動隊員の持っている警棒で嫌という程、躰中を叩かれて、頭はたんこぶだらけで、凸凹になった。数人の警官から取り押されられ、公務執行妨害の廉
(かど)で、引き回され、更に別の警官数人から警棒で袋叩きされた。

 野仲が、警官に向かって、
 「俺たちゃ、あんた達の味方やなかや……」と言ったが、取り合ってくれない。
 機動隊の警官の眼から見た場合、左翼も右翼も区別が付かず、等しく同罪なのである。
 私たちと格闘する巡査の階級をつけた警察官の年齢は、ほぼ私たちと同じ年齢であろうか。高校を卒業して警察学校に入り、一年間みっちりと鍛われて警察官になり、機動隊に配属され、まだ二十歳に満たない若い警察官たちだった。

 彼等の乱暴に喋る方言
(ほうげん)には、熊本弁、宮崎弁、長崎弁、鹿児島弁の何(いず)れかが混じる。人情の念が湧いて、一瞬の躊躇(ちゅうちょ)と手加減が走る。
 私の家も貧乏とはいえ、些
(いささ)かのペーパー試験に合格する、ちょっとした頭と、文部省から僅かながら保護を受けた奨学金で大学生がやっていられて、所詮(しょせん)右翼学生と豪語したところで、ノンポリの一種であった。
 野仲も図体ばかりは大きいが、弁護士の息子の世間知らずのボンボンであり、所詮、親の脛
(すね)かじりの放蕩(ほうとう)息子でだった。懸命に、職務に励む機動隊員の比ではなかった。
 九州の片田舎の「おらが村」の優等生の彼等は、警部補や巡査部長の階級を付けた上官の命令する通りに、健気
(けなげ)にも躰を張って職務に全うしていた。

 二人とも地面に押えつけられて後ろ手に回され、「公務執行妨害」という罪状で強引に手錠が掛けられた。他の左翼学生も、逃げきれずに何人か捕まった。彼等と一緒に護送車に乗せられ、一路H警察署へ。
 まずは十把一からげの集団に纏
(まと)められて、留置場の同じ監房に叩き込まれた。
 「お前らのせいで、こうなったちゃろが!」野仲が左翼学生に愚打
(ぐだ)を巻き始めた。
 口争いしているところに看守の警官が来て、
 「こら!お前ら、静かにせんか!」と怒鳴っても、野仲は聞き分けがなく、口争いが止まらず、とうとう我慢出来ずに再び手を出てしまった。二人のアドレナリン分泌は、未
(いま)だに冷(さ)めあらぬらしい。
 鬱憤ばらしに、二人で牢内の左翼学生の全員を畳んでやった。
 そして私たち二人は、「狂暴である」という廉
(かど)で、一時の間、隣の房の非常に狭い、畳一畳ほどの一人用の「反省房」という監房に移された。
 その日は交互に、一人ずつ取調室に呼ばれ長い長い調書を取られた。取調官の筆記速度が遅いので、まる一日かかった。
 これで終わりかと思っていたら、今度は二人一緒に呼び出されて、指紋や写真
(正面と真横)を撮られてた。

 野仲が写真を取られるとき、坊主頭をポマードでセットするようなジェスチャーをして、にこっと笑って「はい、チーズ」と言ったので、これを聞いた中年の鑑識課の警官が怒って、「こら、お前は警察をなめとるとか!」と、野仲が怒鳴られた。
 此処で一泊した後、野仲の叔父さんの加藤警部という人の助言で、漸
(ようや)くこの場から釈放された。

 此処から出る時、私と野仲は、彼の叔父である加藤警部の課長室に呼ばれた。
 「義治、一晩泊められた感想はどげんやったか?」
 加藤警部は、即座に野仲に感想を訊ねた。
 野仲は少し躊躇
(ちゅうちょ)して、頭をかくように照れ笑いしながら、
 「はあ、たまには別荘もよかと思います。しかし飯の不味のには閉口ました。あれじゃ、豚も食わんです。即刻食事の改善ば、求めます」と率直に留置所の感想を述べた。
 「何ば言いよっとか!あげんな大暴れして、これ位で済んだのは誰のお陰と思とっとか!昨日のことはお前の親父
(おやじ)にも、ようーォ伝えておいた。後はしっかり怒られてこい!」と大変な剣幕で怒鳴られた。
 しかし今思えば、実に寛大な処置であった。
 「はあ、すいましェーん」何が済まないのか、社交辞令のような「すいましェーん」だった。

 「義治。お前、鑑識で写真を取る時、うちの署員をコケにしたそうじゃのう?」
 「何ばですか?」
 「馬鹿なこと言ったそうじゃのう。帰りに“鑑識”に寄って、よーく謝っておけよ」
 「はあ……」
 そう言った野仲は、全く反省の色がなかった。
 彼は暖簾
(のれん)に腕押しであり、寔(まこと)に天真爛漫(てんしん‐らんまん)であった。


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