運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 16

「空」とは、何も無いことでない。永遠不変で、かつ固定的実体がないことをいう。
 諸々は、物事の縁起で成り立つ。不増不滅である。
 「空」にして、増減は無しである。
 大事を為
(な)すものは、跡がない。
 それは「雲水」を見れば明快だろう。
 まず雲水の「雲」を考えてみるといい。雲の去ったのちに、そこには跡があるだろうか。
 跡はない筈だ。


●感情の鍛錬

 (しばら)く沈鬱(ちんうつ)な日々が続いた。
 毎日の稽古にも身が入らない。
 当時私の道場では毎日稽古が行われていた。土日や祝日も関係無しに稽古は毎日行われていた。
 私が大学の頃は、学校の授業が終われば、直ぐに博多から舞い戻って稽古を付けていたし、もう一人、Fという同じ大学の同級生が居たので、彼とローテーションを組んで、日々の稽古に何れかが顔を早く出すようにしていた。Fとは同じ大学だったが、学部が違っていた。そのために巧い具合にローテーションが組めて、必ず子供の稽古の時は、私か彼の何れかがいた。

 また大学を卒業して教師をしていた時は、だいたい学校に出掛けるのが午前6時に起きて、慌ただしく出勤の用意をし、家から電車かバスで八幡駅前行く。そして午前7時前後の博多行きの特別快速に乗る。この時間は約一時間強で、博多駅から駅前の駐輪場に止めていた自転車で学校まで行く。学校には午前8時半頃までに到着する。そして暫く校門の前に立たされ生徒と朝の挨拶を交わす。授業開始は午前8時50分頃であった。
 一時間授業だったので午前中の授業は10分間の休み時間を挟み、正午に三時限の授業が終了する。そこで昼食時間1時間を挟み、午後1時から午後の授業が始まる。
 午後がまた三時限で、10分間の休み時間があり、午後4時10分にその日の全授業が終了するのである。進学を意識した進学校でないから、一日の授業は6時限授業であった。そして私が下校するのは後片付けも含めて午後5時頃であり、博多からは午後5時半前後の特別快速で八幡へと直行し、道場の稽古を見ていた。そして八幡到着が午前7時前くらいであった。
 だいたい午後5時前になると子供たちが遣って来る。三歳から小学校の児童である。私が居ないときは、大人の部の古株に子供の稽古を見て貰っていた。そして今、学校を辞めた私は無職であった。収入源は道場の月謝と刀剣商をして何とか食い繋いでいたのである。辛うじて生かされている感じであった。

 この集団が毎日30名くらい集まっていた。
 出席表は道場の壁に一覧表が張り出され、誰が出席数が多いか競わせていたのである。一日出席すると、壁の一覧表の自分の名前の項に、判子は一つ押されるようになっていた。そして一番出席数の多かった者を表彰していたのである。これは大人の稽古についても同じだった。中学生以上になると、風呂屋と同じように大人と看做し、大人と同等に稽古を付けるのである。

 大人の稽古は毎日午後7時から9時までだが、早い人になると7時前から貌を出し、普通午後9時には稽古は終わりだが、終わっても直ぐに帰る人は少なく、総ての道場生が引き揚げるのは午前零時を回っての時間であった。毎日大人の部では50人ほどが参加し、わずか四十畳ほどの道場は芋を洗うような混雑ぶりだった。この50人の中に女性は四分の一ほど占めていた。毎日華やいだ稽古をしていたのである。
 そして一番華やぐのは暮れも近付いた12月の27、8日頃に行われる餅つきとそれに合わせた忘年会、更には正月二日の初稽古であった。この日は女性陣の半分ほどが振り袖の晴れ着姿で遣って来るのである。同時に子供たちも遣って来る。そして毎年の恒例は“おしるこ”が振る舞われることであった。それを狙って道場生とは関係のないその子供の友達という連中まで参加し、やがて彼らも次期道場生となるのである。
 一人が一人を連れて来る『道場生倍増計画』なるものを展開していたのである。これも一つのアイディアとして取り入れていた。

 当時の月謝は子供が300円で、大人が500円だったかと思うのである。
 最初は子供が50円で大人が100円だったが、余りにも安いと言う事で、数年後にはこの金額に改訂していたのである。それでも安い方であった。
 この当時、まだ世間には娯楽が少ない時代で、当時のちに大ブームになるボーリングが始まる少し以前の事であった。そのために道場での参加者は多かったのである。既に道場の稽古が娯楽の一つになっていた。
 当時は、今では信じられないくらいの稽古量で、多くの道場生はこれが当り前だと思っていた。
 大人の構成層は、中学生から上は84歳の明治生まれまでいた。

 そういう時の私である。
 何かに取り憑
(つ)かれたような夢遊病者のような状態になった。由紀子のことが頭から離れない。寝ても覚めても、彼女の事ばかりだった。追い払っても、追い払っても、纏(まつ)り憑(つ)くのだった。
 彼女を想い、あの大きな美しい切れ長の目を思い出すと、胸が締めつけられるような感じになる。身が入らないのは、何も稽古だけではない。
 頭の蝿が追えない。いつまでたっても追えないのである。
 何をやっても、口から自然と溜息
(ためいき)が洩(も)れてくる。何故か溜め息が洩れてくるのである。
 行き付けの飲み屋の止り木に腰を下ろしても、片手で頬杖
(ほお‐づえ)をつき、酒を呷(あお)っても何処からかともなく溜息が洩れてくる。無意識で溜息を洩らしていたのである。
 “焼き”が廻ったかな……。私の独り言の吐露
(とろ)である。

 ときどき月謝を集金した某
(なにがし)かの金を持って、呑みに出掛ける。飲み屋界隈をうろつく。飲み屋の誰かが話しかけても、それに気付かないくらい、心は何処かに飛んで行ってしまっているのだ。
 色の道の引退を考えねば……、そんな能力の低下を感じるのである。
 そして、夢想が起こる。厄介な症状だった。
 遂にイカれた観があった。腑抜けである。年貢の納め時かな?……。
 たった一日、彼女と一緒しただけで、もう、この態
(ざま)だった。情けない限りだった。
 今まで何人かの女と色恋沙汰
(いろこい‐ざた)を繰り返し、それが我が所有物になり、仮にそれが何十人であろうと、大した自慢にはならないのだ。そんなことに気付き始めていた。私の女性観の感覚が、今までとは変わり始めていたのである。

 今まで、付合った女たちはどうであったか。
 一人の女性と、付合いの承諾を得るのに、十数人に声をかけ、結局、やっとの思いで承諾を得る。この確率は約20分の1くらいであろうか。逆から言えば、一人の女性を落とすのに十一人の女性からは、肘鉄砲を食らう訳である。
 普通の男なら、しぶとさと根気がある者でも、これを2、3回、これを繰り返せば、心は、振られたダメージで、二度と立ち上がれなくなるくらいペチャンコになるであろう。完膚
(かんぷ)無きくらいに叩きのめされるだろう。自尊心もへったくれもなくなる。
 失恋に失恋を重ねて、更にまた、それを繰り返し、何度も片思いに破れて、平気で居れるような心臓の持ち主は、滅多にいない筈だ。モーション掛けて肘鉄砲を喰い「あほかいな」と言われる度に、自尊心はペチャンコになる筈である。

 しかし私は鈍感なせいか、それを懲
(こ)りずにやったことがある。馬鹿であった。
 人の三倍以上も恥をかき、しぶとく粘り抜いて、複数の女性と関係を持ったことがあった。そしてそれを唯一の自慢にしていた。だが、これが一変したのだった。色情因縁を断ち切った感じだった。色情狂に終焉
(しゅうえん)を告げた感じだった。邪な助平心で誘惑し、そのその卑劣さを思い知らされたのであった。特に由紀子と出逢ってから、愚かな漁色(ぎょしょく)は一変した。
 今まで、女性と見れば見境なく、誰にでも声をかけ、肘鉄砲を食らっても意に返さず、恋愛は確率だ……、そう言わんげに手当たり次第に場数を熟
(こな)していた。
 そして思うのであった。

 恋に夢見る鈍感は処女、あるいは色と金に転ぶ尻軽女は、自分が愛されていると思い、誰でも彼でも身を任せ、結局淫らな女に成り下がる。昨今のハイティーン等は、これに属する女が多い。若さ故に、転落の向こう側の落とし穴が見えないのである。
 こんな程度の低い女を何十人相手にし、陥落
(かんらく)させたところで、それが決して自慢にはならないことを……。
 要するに見境のない女誑
(おんな‐たら)しでは、自慢にならないということに気づいたのである。
 ジゴロ
gigolo/女にたかって生活する男)は所詮(しょせん)ジゴロなのだ。

 女性を射止めるとは、あるいは本当の色恋沙汰とは、気品のある、身を守るに固い女性を、その陥落までのプロセスにおいて、心理的な術策
(じゅつ‐さく)を用い、ついに落とし、陥落せしめることである。
 私は、女性の中に肉欲の満足以外に、精神的な何かがあると、そう信じる、信奉者なのだ。世間には、誘惑者だの、漁色家
だの、遊蕩児(ゆうとう‐じ)などの、快楽主義の男に投げ付ける言葉があるが、この手の男どもは、単に女を欲望の対象として観(み)ている人種に過ぎない。肉欲が達成されれば、それで総てが終わりなのである。
 ところが、私は同じ誘惑者でありながら、たやすく手に入らない、高い気品と、やや気位の高い、そんな女性にぶつかり、“じゃじゃ馬馴し”がしてみたかったのである。誘惑し、安易に肉体的な快楽しか求めない、その手の男どもとは次元の違うものを求めていた。肉の征服ではなく、心の征服を企んでいたのである。

 由紀子のあの美貌からして、周りには家柄と頭脳にものを言わせた海千山千の、誘惑上手の手練
(てだれ) が犇(ひし)めき合っているに違いない。私の気持ちが届くまで、彼女は果たして彼らの誘惑を撥(は)ね付け、身を固く守り抜いてくれるだろうか。
 もし彼女の心が、その方向に靡
(なび)くようであれば、もはや手の打ちようはなくなる。私の方に注視させるには、どういう術策があるというのだ。そんな想いを巡らせながら、八方塞(はっぽう‐ふさ)がりに陥っていた。


 ─────こんな時、自然と足の向くのが、山村師範の稽古場であった。
 爺さまのご教授を仰ごう……。つい、こうなる。
 別段行きたくないが、行かずにはおれない不思議な引力で惹
(ひ)き寄せられてしまうのである。
 まさかと思うが、爺さまが何らかの術を遣い、呪文によって惹き寄せているようでもあった。手強い爺さまである。この爺さまは一種の狂人であった。爺さまは訳の分らぬ如何わしい術も遣う。その術策に私がまんまと嵌まる。いつも筋書きはそうなっていた。
 山村師範の稽古場に足を運んだ時、この爺さまは、正月の準備でも始めるのであろうか、わが家の清掃にせっせと励んでいた。この辺は健気な“じいちゃん”と言えた。

 山村師範は私に気づくと、
 「丁度いいところに来た。その桶
(おけ)に、すまんが、ちょいと水を汲んで来てくれんかのう」と切り出すのであった。
 いきなり人使いの荒い本性を現してきた。
(何が、ちょいとだ)と思った。人使いの荒い爺さまだった。その辺に在るものは何でも遣う。人間の場合も同じである。
 しかし厭
(いや)とは言えず、黙って従うしかない。そこが付け目だった。為(し)て遣られるのである。これに逆らって、この爺さまの機嫌を損ね、怒りを買うこともあるまい。後が怕(こわ)い。
 そう思った私は、井戸まで一走りした。

 手に提
(さ)げた二つの大きな手桶(ておけ)は、修行者用と思えるような、不思議な工夫がなされており、手桶の横に渡す水平な棒が外されていて、そこに荒縄(あらなわ)を二重にした、太さが直径2cm程の麻(あさ)で出来た縄になっていた。その二重の縄は、その一本ずつが違った長さになっていた。一本はほぼピンと張られ、もう一本は弛(ゆる)ませてあった。
 最初これをどのように使い分けるか考えもしなかったが、井戸の水汲
(みずく)みを何度か往復させられるうちに、この使い分けを考え始めていたのである。どちらか、それぞれを握っても、何となく運び辛い。
 そうかといって、長短の両方の縄を同時に掴
(つか)んでも、その長短は何の意味もなさない。
 では、どうすれば良いか?ということが、この運んでいる間中、付き纏
(まと)った。結局、これは質問するしかあるまいという結論に至ったのである。

 「この桶の、縄の長短はどういう意味ですか?」
 思わず、こう口走っていた。
 しかしこの爺さまは、それを簡単に教えてくれない。勿体
(もったい)ぶりながら、
 「しからば、その桶にもう一度井戸水を汲んでこい。ただし桶の縁
(ふち)まで並々だぞ。そして一滴も零(こぼ)さぬようにじゃぞ」と、抜かしおったのだ。タダで物は教えないのである。代価は必要なのである。
 この爺さまの、またしても難題が飛び出した。まずは言われる儘
(まま)に黙って従うしかない。
 井戸の釣瓶
(つるべ)を滑車(かっしゃ)で巻上ながら、「並々と」と言うことだけを念頭に置いて、桶に水を張った。汲み終って、桶を持ち上げようとした途端、「一滴も零さぬように」という、念を押した言葉を思い出した。
 果たしてこれが、一滴も零
(こぼ)さぬように持ち上げることが出来るだろうか?……。
 仮に持ち上げたとしても、一滴も水を零さず、元の場所に運んで行けるだろうか?そんな疑念が込み上げて来たのである。言われる儘
(まま)に、恐る恐る足を進め、慎重に運んでいくのであるが、桶の水の揺れは中々止まらず、つい、ポトポトと零(こぼ)れてしまうのである。
 やっとの思いで、山村師範の前に姿を見せた時には、桶の上から4〜5cmのところまで、水を零して減っており、「一滴も零さぬように」という言い付けが破られていた。

 「いいか、これはこうして使うのじゃ」
 山村師範は、桶の縄の使い方の説明をした。長い方の縄を、その縄の中央部で自分の手首に巻つけ、もう一方のピンと張られた縄を握って持つのである。
 《ほーッ》という感想で、色々と道具には使い方があるもんだという気持ちで、有り難く拝見した。
 そして、もう一度井戸水を汲んでこいという。
 これを早速
(さっそく)試さなければならない。本当にそうなのか、そうでないかを。
 井戸の所に行って並々と桶に水を張り、言われた通りに、これを実行してみた。成る程これは中々、使い易いものだ。揺れるには揺れるが、安定していて、運ぶのにも苦にはならない。足腰さえ、ふらつかなければ、一滴も零すことはないであろう。いいことを教わった、という気持ちになった。

 武術家は自分を鍛えようとして、種々の術を編み出すものだ。
 この術を“策”として用いてこそ、武術家が、一ランク上にのし上がって、戦略家になれるのではないか、という模索が始まっていた。つまり武術家とは、技の優劣を競うのではなく、一種の戦略家であり、策謀家なのだ。これを解さずして、武術家の存在はあり得ない。技術の優劣ではない。強いか弱いかではない。ここが格闘に明け暮れる勝負師とは根本的に違っていた。万物に応用出来て初めて戦略家としての意味をなす。

 帰り道、この事を考えていた。
 一滴も零さないということは、端
(はた)から見れば、単に名人芸の一つに過ぎないだろう。
 しかし桶の中の水全体を、人の心に喩
(たと)えるならば、喜怒哀楽を表す感情であり、その水の表面は感情を覆(おお)い隠す顔、あるいは表皮のようなものだ。感情の動揺が表面に伝われば顔色は変わり、その動向や浮沈が表面化してくる。

 さて、恋は一種の戦争のようなものである。
 戦争には綿密
(めんみつ)な作戦計画と、戦争遂行上の戦争設計がいる。また敵の動向を探り、それを観察する観察能力、それを分析する分析能力が必要である。これを怠ると如何に大軍を有していると雖(いえど)も、単に“烏合(うごう)の衆”となり、烏合の衆の大軍は、ただ右へ左へ敗走するばかりで、決定的な戦果は期待できない。あるいは右顧左眄(うこ‐さべん)の消極的な“物見”で終る。
 逆に、敵が強力な大軍である場合、小兵力では勝ち目がなく、ここには戦術の粋
(すい)を凝(こ)らし、全体像を遠望した戦略が必要である。進退を繰り返しながら、敵の反応を見て、自分の行った攻撃が敵に対してどのような影響を受けているか、あるいはその攻撃によってどのように反応し、次にどのような作戦で来るか、それを分析しながら、次の攻撃方法を検討しなければならない。敵を悩ます策を立てる。それが作戦というものだ。
 これを更に広範囲な立場から総合的に検討すれば、戦略と詭道
(きどう)となる分けである。
 詭道……。
 それは計略である。敵を騙す策である。騙してこそ、策は戦略となり、したがって容易に攻め込まれない境界線を造る。

 戦略とは“武略”であり、武略は敢
(あ)えて方便さえも持(じ)さない。
 明智光秀
(あけち‐みつひで)は、仏家の嘘(うそ)を「方便」といい、武家の嘘を「武略」とさえ言いのけた。この言い回しは正しいだろう。
 武略とは、軍事上の策略だが、敵に我が方を弱者だ路侮
(あなど)らせ、誘い込ませて、深入りさせ、いい気になっているところを、逆に反撃に出たり、あるいは、追撃していると思わせながら、撤退(てったい)して、部分的な戦局に、濃淡粗密(のうたん‐そみつ)を設計し、仕掛け、術中に嵌めて、敵を悩ませる作戦を展開しなければならない。
 戦争は大軍をもって、戦術の正攻法のみで勝てるわけではない。全体像を把握
(はあく)し、敵を動揺させ、掻(か)き回す駆け引きが大切なのだ。
 もし、由紀子を手中に収めんとするならば、相手は強力な防備をなしていると考えて、これを陥落せしめる戦略が必要である。そしてその戦略を使う以上、私自身は感情の鍛錬が必要なのだ。
 この戦争は、全て、この感情の鍛錬如何に掛かっていると言ってもよい。事実、これが鍵を握っているのだと思った。しかしこれは夢想でしかなかった。
 果敢
(はか)ない夢想であった。
 この夢想から醒
(さ)めた私には、再び重苦しい現実が伸(の)し掛かり、何処からともなく深い溜息が洩れたのだった。
 そして由紀子の顔が目の前をちらつくのであった。
 しかしこれでは駄目だ。私が悩むのではなく、由紀子が悩まねばならないのである。
 由紀子を悩ます策はないものか?……。そんな探究は始まっていた。



●野稽古

 この日は小雪がちらついていた。外は朝から小雪が舞っていた。
 昨晩由紀子から道場に電話があった。
 「明日、少しお時間つくれて?」
 特長ある、やけに甘ったるい声で、何処か気取った電話だった。私の弱みを知り抜いているのだろうか。あるいは美貌を餌に男を手玉にとっているのだろうか。そう思わずには、いられないような誘いであった。そして私は穿鑿
(せんさく)した。
 「あの……」
 「なあに?」
 「どうして、僕なんかに声を掛けるのですか?……」
 「う〜ん……、どう言ったらいいのかしら。あらためて訊かれると困りますけど、なんていうのかしら、まあ、手近に誰もいなかったからでしょうか……」
 「……………」私の心の中は《なに!》となっていたのである。弱みに付け込んで、男をからかうなという憤りが起こっていた。
 厭(いや)なことを訊いてしまったと思った。訊かなければよかったと思った。訊かない方が、夢は保てたのである。つまらないことを訊いてしまったの思うのだった。
 私は“手近な相手”だった。彼女のドラマに登場する、通行人程度の存在でしかなかった。一瞬腹立たしくなった。
 (俺をバカにするな!……)そんな気持ちになっていた。
(通行人なら俺以外の者にしてくれ)と云いたい気持ちであった。だが、彼女の誘いを断る勇気はなかった。従うしかなかった。相手は“お嬢さま”である。彼女には弱いのである。

 そして私は、由紀子の誘いを受けた。次の日、ある喫茶店で待ち合わせることにした。
 この誘いは彼女の手早い先制攻撃なのか?……。
 まさか?……。そんな疑念を抱きながらも、この誘いは何処か息苦しくも、また一方で、小躍
(こおど)りするような嬉しさが込み上げていた。心が舞上がり、有頂天の絶頂だった。策に掛ったのだろうか?
 完全に喜怒哀楽の「歓
(よろこ)びの渦中」の渦に巻き込まれていた。浮ついた胸中は、悦楽の鼓動で満たされていた。それが束(つか)の間の幻(まぼろし)であると言う事も知らずに……。

 私の戦略上の感情の鍛錬は、なされているのであろうか?
 そんな不安を感じながら、表面的には快活を装っていた。こんな胸の張り裂けるような私の思いに、気付かないでいる由紀子が羨
(うらや)ましいと思った。遣られっぱなしである。
 ここは彼女が指定した店で余り目立たない小じんまりとした、それでいて中々洒落
(しゃれ)た店である。
 壁には西洋風の版画や骨董品の装飾具が掛けられていて、ちょっとしたアンチィーク調の、ロココ様式フランス風の造りが成されていた。昨今、流行のギャラリー喫茶という感じだった。
 恐らく由紀子の趣味や感性は、このようなものなのであろう。
 私は心が浮かれる儘
(まま)に任せて、待ち合わせの時間より30分程早く来てしまったのだった。早かったせいか彼女は、まだ来ていないようだ。この店の人目のつかぬ片隅の席に腰を下ろし、彼女の来るのを待つことにした。

 注文したコーヒーをすすりながら、
(一体、俺に何の用があるというのだろうか?)と、一人であれやこれやと穿鑿(せんさく)はするものの、これは愚かな彼女への探りであり、新たな寂しさを作るのではないかと、一種の不安らしいものも、うっすらと感じていた。しかし、それを何処まで追い掛けても、解決すると言うものではなかった。破れるまで、行くとことまで行くしかない。
 恋は結末的には成就せず、最後は破れるものなのである。それは恋の真似事
(まね‐ごと)が、やがて私に辛い幻影を投げかけるのではないかと言うふうに反芻(はんすう)されるのだった。
 すると私は徒労努力をしているのか?……。そんな疑念が湧いた。

 住む世界の違う彼女に、近付き過ぎてはいけないと歯止めが掛かるのだが、その彼女に、絶ちがたい禁断の魅力に魅
(み)せられて、ついには惹(ひ)きつけられてしまうのである。まるで蜜に集(たか)る蠅(はえ)のように……だった。私はいじましいのである。せこいのである。
 どうやら深みに嵌
(はま)って行く最悪?……の運命であるらしい。深みに嵌まれば、その反動は恐ろしいものだろう。この世は作用と反作用で成り立っている。作用すれば、必ず反作用という代償を払わされる。
 結末が最悪のシナリオであるらしい。
 啖
(く)われる運命だった。成就しない運命だった。
 そのシナリオは、男を取り殺すような、怪しくも美しい、異次元の妖怪に、魅入られてしまったような観があった。そして私の自らの魂も、由紀子に魅了されて、その中に溶け込もうとしていた。忘れ難き彼女への恋慕の想いが、微妙に目の前を交錯
(こうさ)していた。


 ─────その時不図
(ふと)、学生時代のことを思い出した。異様な男との出会いである。
 大学に入学して、直ぐに野仲義治
(のなか‐よしはる)という男と知り合った。奇妙な男だった。今までに見たことのない男だった。
 身長183cm、体重95kgの巨漢である。彼は柔道二段という。
 蟹股
(がにまた)で威風堂々(いふう‐どうどう)としたその巨漢の体躯から窺(うかが)える傲慢(ごうまん)は、大学一年生にしては莫迦(ばか)に態度がデカかった。この男は世間の常識を超えていた。
 彼はいつも白緒の高下駄
(たか‐げた)を履いていた。大学では下駄履きは禁止であったが、この男はこれを無視していた。無視しているというより、自分のカラーを押し通していたのである。大学など、クソ喰らえであった。しかし、バカではないらしい。

 学生課の教官から、
 「おい!君。駄目じゃないか。本学は下駄履き禁止であることを、よもや知らぬ筈
(はず)があるまい。学則で下駄履きは禁止だ。君、以後気を付け給え」と叱責されても意に介さない。
 こう注意されても、全く意に介さず、「こりゃ、どうも……」と云って、また次の日下駄履きで来るという、大学の学則を嘗
(な)めたようなところがあった。
 彼にとって規則等あって無いようなものであった。その後も度々注意されていたが、一向に改める様子が無かった。いつも黒の学生服に身を固め、坊主頭で腰に手拭
(てぬぐい)を下げた、博多弁丸出しの男であった。

 私と彼とは学部が違っていたが、ひょんなことで彼と知り合ったのであった。
 彼の父親は福岡天神で法律事務所を構える検事出身の弁護士で、彼は次男であり、三人兄弟の末っ子だった。長男は福岡郵政局の郵政事務官で、直ぐ上には姉が居て、その姉は新聞社のカメラマンをしていた。当時は珍しい女性カメラマンだった。そして彼は気儘
(き‐まま)な親の脛(すね)かじりの放蕩息子であった。
 私はこの男と高校時代の級友に紹介されて、学食
(学生食堂)で知り合うことになったのである。私が、突然紹介された彼に、熱心に会津自現流の話を持ち出したことがあった。

 彼に「合気」の説明をすると、それを疑ったところが若干あり、「柔道の技を使ってくさ、こういう時は、どげんするとや?」とか「相手がこういう絞め技で来た時機
(とき)にゃ、どう外すとや?」という具体的な挑戦じみたことを云ったことがった。そして私の会津自現流を些(いささ)か甘く見たところがあった。
 私は彼に説明は不要だと思い、技で具体的に説明するしかないと思った。
 そこで私は、彼に極め技を掛けて「この程度の軽い技だ。この技、使う者が下手であれば、実戦には全く役に立たない。俺もその下手の一人だ」と技を掛けながら説明したら、「もう、よか、よか。よう解ったばい。骨が折れるやなかや、骨が!ああッ……、痛ッタタ……」と、余りの痛さに飛び上がって喚
(わめ)いた。

 私が手を放して、彼に冷静さが戻ると、今度は私に非難の声を向けた。
 「あのくさ、そげんことして無茶苦茶に技を掛けたら、手首の関節が開いて駄目になるやなかや。これで俺は柔道ば、出来んごとなったやなかや。さっき、俺の高校の先輩がくさ、柔道部に誘いを掛けてきたっと。
 もう、こげんな手じゃ、柔道は出来んぜェ。どげんしてくれるとや」と言い掛かりをつけたのである。
 彼は柔道部入部に断わりを、私のせいにするらしい。私は呆れた顔で、彼の話を聞いていた。
 しかし彼の根底には、どうやら柔道部に入りたくないという意図が隠されていたようだ。

 「なって了
(し)もうた以上は、どぎゃんんも、こぎゃんもあるかァ。人間は諦めと往生際(おうじょうぎわ)が肝心たい」
 私は、柔道部に入りたくない彼に、それを増長させ、博多弁で拍車を掛けてやった。
 「ほんなら、もう柔道が出来んごとなったけん、今日から俺は会津自現流に転向するたい」と勝手な言い訳をし出した。
 柔道部に入部したくない意図ばかりではなく、どうやら、ささやかなお手並み拝見の中から、私の実力を少なからず認めたようだ。
 それからというものは、私を師と仰いだようだ。
 武術に関する限りの注意事は素直に聞くようになった。そして二人で『会津自現流同好会』なるものを体育会に作った。それは半ば強引に行われた。
 体育会の交渉は彼が全て引受け、いきなり年間予算と部室を確保して来た。体育会の先輩役員を彼独特の態度のデカさで威圧したのであった。そして誰もが彼を、まさか入学間も無い一年坊主であるとは思っていないようだった。

 彼の部費を調達した最初の言葉が、「これでいっちょ、パーッと、中洲
(なかす)にでも繰り出そうやなかや」であった。
 せしめた一年分の部費を、僅か今日一日で全部遣う気でいるらしい。
 これ以来、彼が大学を中退して、警察学校を卒業するまで、彼と一緒に訝
(おか)しな行動に付き合わされることになる。
 時には、分けの解らぬ沖仲仕
(おきなかし)のようなアルバイトまで探して来て、その誘いを受けて、筋肉痛で二三日動けないことがあった。彼は頭脳派ではなく、肉体派だった。

 当時、世の中は学生運動たけなわであった。
 「共産主義者で非
(あら)ずんば、人に非ず」の革命を標榜(ひょうぼう)する激動の時代であった。
 全学連と左翼グループの集団がバリケードを作り、至る所でデモっていた。大学へ行っても殆ど毎日といっていいほど休講が続き、またそんな中で通学することが馬鹿馬鹿しくなり、いつの頃か大学から足が遠ざかり、博多界隈
(はかたかいわい)の色街で遊び惚(ほう)けて、徐々に崩れいった。
 博多駅前で徒党を組んで、ジグザグ行進でうねり歩く、赤いヘルメットの学生を横眼で見ながら、私たち二人はいつの頃からか、玄洋社
げんようしゃ/元福岡藩士・頭山満翁が明治十五年に創設した政治結社)の傘下組織と思われる九州学生会議に出入りするようになっていた。
 学生運動もデモもどこ吹く風だった。
 大学では「右翼学生」の異名をとり、自治会活動を嫌い、何者にも束縛されない自由の中で気儘に奔放し、色事だけに興味を示して、それらを好き勝手に楽しんでいた。
 そして野仲は、赤ヘルを被り、ゲバ棒を振り回し、デモって気勢を上げる連中に対し、「あいつら、アホじぇ。騙
(だま)されているのも知らんと」と口癖(くちぐせ)のように言っていた。
 私が「何でや?」と訊くと、それには言葉を濁して中々答えようとはしなかった。

 これは後で分かったことだが、彼の父親は、かつて満洲国で検察庁の検事をしていたと言うが、ソ連が、日ソ不可侵条約を破り、満洲に攻め込んできた際に、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された経験を持っていた。シベリアや中央アジアには第二次大戦で、対日参戦したソ連が、投降した日本軍兵士を送り込み、強制労働に従事させたことから悲劇が始まる。抑留者は50万人を越え、劣悪な環境におかれて、多数の死者が出たのである。
 そして、シベリアに強制的に抑留された日本人の中には、単に軍人や軍属ばかりでなく、逃げ遅れた政府の官憲や、新京市
(旧満洲国の首都)の一般市民までもが含まれていたのである。

 この抑留生活の中で、徹底され、強制されたのが思想教育であり、日本軍捕虜の頭の中を共産主義に改造する学習であった。そこで野仲の父親は五年間抑留され、自己反省と学習の日々を送らされたと言うが、最後まで矛盾を感じ、これに馴染めなかったと言う。そして、最後に行き着いた結論が、「共産主義は虚構である」と言う事であった。
 マルクスはプロレタリア独裁の共産主義を提唱し、その提唱をレーニンがロシアの大地を実験場にして、“人間牧場”を彼地
(かのち)に作った。しかし、この動物実験はうまくいかなかった。末端に居る、底辺の労働者は最悪の生活苦を余儀なくされた。
 当時の報道写真などを見ると、プロパガンダを目的として、例えば“赤の広場”を軍事パレードする赤軍重砲兵部隊の背景には、レーニンの巨大な肖像画が掲げられた。
 目指したのは計画経済であり、その背景には重工業生産の西側陣営に対する威圧があったのである。目的はソ連の軍備再建であった。その一方で、当時、米英独仏を凌ぐ強大な軍事国家になっていた。
 軍事力と国家警察機構の監視や管理の許で、人民は管理され、それはあたかも「人間牧場」を彷彿とさせるものだった。共産党委員と被党員の格差と差別は甚だしいものがあった。
 そして当時の“共産主義被れ”した日本人のインテリ層は、かの国の共産主義者らが、ロシアの大地に実験場として「人間牧場」の試みをしたことを誰一人として気付た者は居なかった。誰もが「永遠なる平等」という虚構に浮かれ、躍ったのだった。

 共産主義や社会主義を一言で、「労働者独裁」と言う。
 ソ連では、労働者上がりの党幹部が、党を支配する場合、それは強大な支配力を持つ事になる。
 口々に「平等」を標榜
(ひょうぼう)しているが、その制度を維持し、指導していくことは、党幹部に強大な権力が集中し、その結果、党幹部だけがいい暮らしをして、一般大衆はその弾圧下で搾(しぼ)り上げられ、苦しい生活に喘(あえ)ぐことになる。トップの、一握りの幹部が頂点の座にありついて、多大な恩恵を受けるのである。
 この構図は、「ねずみ講」に酷似している。
 ヒエラルキーは酷似する。ちょうど「ねずみ講」で、入会順のその頂点にいる数人だけが、うまい汁を吸うと言う、あの構図だった。

 マルクスやレーニンの名は、1917年以降、ロシアで革命が起こって以来、日本でも共産主義者や共産党の存在が明確になっていく。不況の度に、共産主義理論や社会科学が大衆の関心を集めることになる。
 昭和8年2月20日には、急進的プロレタリア作家の小林多喜二が官憲の拷問によって殺された。小林はプロレタリア作家の先鋒として特高警察に逮捕されたのだった。そして20日夜、築地署で烈しい拷問を受け、虐殺された。まだ31歳の若さだった。
 この時代、巷
(ちまた)では社会主義運動は展開されていた。プロレタリア作家という文化人を気取る、自称“階級的自覚に基づいて、現実を階級的立場から描く文学者”の彼等は、大正末期から昭和初期に懸けて、一大勢力を築いた。民衆並びに搾取された人民解放のためだと嘯(うそぶ)いた。水平運動の運動家と共同戦線を張り、小説などを闘争のテーマにしてプロレタリア運動を展開した。
 また、労働運動とともに、労働歌が歌われたり、組合運動やそれを煽るプロレタリア演劇が催されていた。そして労働歌を歌ったり、組合運動に参加したり、急進的な無政府主義を講ずるような演劇を見に行っただけで、検挙されると言う暗い時代だった。

 その一方でそれ以前に、日本共産党の幹部だった野坂参三は、昭和3年3月の共産党大弾圧により、中国に亡命した。
 要領のいい人間は、国外に無事に逃げおせ、そこの組織で手厚く庇護された。
 同じく国内に残留した幹部の、徳田球一や志賀義雄らは、捕らえられ網走刑務所の獄に繋
(つな)がれた。彼等は兵役も課せられる事なく、終戦までムショ暮しをした。少なくとも、激戦地に送られ過酷な戦闘を強いられた兵隊達よりは、命を失わない点では、命拾いをしたと言える。
 そして、当時の共産主義イデオロギーには、福本イズム、プロレタリア独裁、コミンテルン、あるいは野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』などの共産主義啓蒙のイデオロギーが知識階級の間で絡み付いて、大流行していたが、その根本的な論理は、労働者に政治的な支配力を与える為には、暴力による革命以外ないと信じられていたことである。
 それは先ず、労働者の生活権を確保し、それを向上させるには、資本家を暴力で葬り去る以外方法はない。したがって、暴力革命を起こし、暴力によって政治体制を根本的に覆
(くつがえ)す必要があると信じられていたのである。

 当時、知識階級は共産主義をもろに信頼していた。その革命論理は正当だと信じる論拠は、何処にもなかったが、それを世界で“一番優れた正義”と信じている者は少なくなかった。
 ところが、この論理はやがて化けの皮が剥
(は)がれることになる。徐々に虚構である側面が顕われ、姿を見せ始める。
 それは、「労働貴族」という言葉が、共産主義や社会主義の虚構を証明しているようなものである。
 喩
(たと)えば、共産党内部で指導者が特権階級となり、それに反撥(はんぱつ)や反抗すれば、忽(たちま)ちリンチに遇(あ)うか、粛清(しゅくせい)される事になる。
 また、共産党がオルグ
organizer/オルガナイザー。組織者)として指導する労働組合では、中央執行委員会が総ての方策を決定するし、その委員長や書記長の役職にある者は、組合の資金を個人的な生活費に当てたり、遊興費に流用してしまう事も起きて来る。更には、裏で資本家と結託し、癒着(ゆちゃく)する現象が起きる事も見逃せない事実の一つとなる。

 「財産の共有」と「権利の平等」と言うのが、共産主義をアピールする時のスローガンである。
 もし、そうであるならば、この社会システムを監督し、管理する一握りの幹部は、その誰もが「聖賢君子」でなければならないし、人格者以前の崇高
(すうこう)な存在でなければならない。それは神の如き存在だ。
 一握りの幹部は、何事にも無私に徹し、権力欲など縁のない、神に等しい存在でなければならない。
 果たして権力の座に昇った者が、こうした心境で欲望にも無縁で、異性にも興味を示さず、色にも転ばず、権力にも転ばない聖賢君子状態を維持できるのだろうか。
 それに、刑務所の喩
(たと)えは少しばかり極端であるが、例えば、捕虜収容所に入れられた初期の状態の人間を見てみればいいだはないか。
 入所した初期において、その時点では、誰もが平等である。
 これは刑務所でも、捕虜収容所でも同じ事であろう。それなのに、年月が経つに従い、この中に格差が生じるのは何故か!……。これを考えれば一目瞭然となる。
 平等ならば、支配階級も被支配階級も生まれないはずだが、こうした集団には必ず階級が生まれて来る。

 平等を掲げた楽園は、誰の眼にもそこがユートピアのように映る。「地上の楽園」のように思えて来る。
 日本の昭和初期を顧みても、当時のインテリ階級が財閥や官僚の腐敗、軍部の派閥抗争などに不満を抱き、「地上の楽園」を夢見て、共産主義に関心を深めていったプロセスは、平等のユートピアの夢想から始まっている。
 だが、この夢想するユートピアの裏には、口先ばかりの「平等」が標榜
(ひょうぼう)された背後に、共産主義世界を一つのユートピアと考え、このユートピア実現の為に、その初期段階に社会実験を「社会科学」の名において実施し、その国の実験段階を「社会主義」と称したのである。
 ところが科学の名を借りた社会科学は、そのシステムの中で、指導者と民衆とに区別され、命令者と奴隸のような関係が浮上して来るのである。いつの間にか集団に命令を下す人間が擡頭
(たいとう)している。

 刑務所でも、捕虜収容所でも、入所当初は、誰でも同じ財産あるいは、同じように何も持っていないはずである。入所前には厳重な検査があり、私有財産は持ち込めないからである。その為に、貧富の差など起こりようがないように思える。
 ところが、こうした集団にも必ず貧富の差が出来はじめる。持てる者と持たざる者である。
 物資でも、命令を下す一握りにそれらが集まる。いつの間にか平等が平等でなくなっている。
 入所者は当初、一様に無産階級であり、裸同然の人間である。そしてこうした集団内では、定められた食糧が平等に配給され、この金網内に幽閉された人間達は、極めて平等に近い状態である。みな平等に食糧や衣服の配給を受ける。
 この意味で、所内は架空のユートピアである。
 しかし、このユートピアも長続きはしない。権力支配構造が出来、格差が出来るのである。この事は裏から見れば、ユートピアの共産主義を、そこの住人の大多数が望んでいなかったことになる。
 また、ロシア革命を裏から透視すれば、帝政ロシアを倒す為の手段に、共産主義が遣
(つか)われたに過ぎなかったことである。単に政権の交代が目的であり、共産主義の「平等」と言うスローガンは、民衆を騙(だま)す為の巧妙なスローガンであったことが分かろう。

 これが歴史の中で証明されたのは、帝政ロシアが斃
(たお)れた後の1922年、スターリンが共産党書記長の座に就き、その直後、恐怖政治を敷いたことだ。スターリンはテロの弾圧で権力の座に就いた。その後のソビエトが、マルクス・レーニン主義と共産主義の針路や結末を明確にしたからである。地上の楽園どころか、地上の地獄の人間牧場の残酷さを明確にしたのだった。全くの虚構理論であった。そしてロシア革命は民主的に行われたのではなく、「暴力的かつ破壊的に行われた」のである。
 マルクスの掲げた理論とレーニンの地上の楽園は、底辺階級の労働者に不等な夢を抱かせたことであった。幻想に酔わせたことであった。

 よく考えて見れば、自他共栄と言うこのような共に栄える原理は、先ず地球上に於ては殆どあり得ない。一方が栄えれば、他方が没落すると言うのがこの世の仕組みである。質量保存の法則からもそうなる。これこそ大法則である。覆せない。出れば、何処かが引っ込む。
 『聖書』に記された「一粒の麦」にしても、その一粒の麦が現実として死ぬから、次の生命が生まれるのである。
 政治に関係する為政者達は、この事を論じない。人々の、日本国民の反論を怖れて、これを口にしない。民主主義を標榜していれば安泰だからである。
 糾弾や攻撃を怖れて、人民の平等を説き、地上の楽園を完成させると言う共産主義者だって、この真実は口に出来ない。口にすれば破滅することになるからだ。
 同じ畑の上で、「一粒の麦」も死なず、また次ぎの麦も芽生えて共に成長すると言うことはあり得ない。同じ畑で両方が共存すると言うことはあり得ないのだ。
 どちらか一方が死ぬと言うのが、この世の仕組みである。この条件下において、どちらか一方が栄えるのである。
 私たち日本人はいつの間にか、同じ畑に、両方の麦は共に栄えて成長すると言う、共存と平等のマジックの巧妙さに騙されてしまったのだ。

 この世の中の総ての仕組みは不完全である。総ては、つまり科学と言う次元は、そもそも不完全帰納法より成り立っているのである。科学は完全帰納法でないところに注視したい。
 未だに大学の授業で行われる「物理実験」はニュートン以来の物理学に起因するものであるが、これが繰り返し行われるのは、この現象界において、出し得たデータ以外に「例外」という現象が起こるかも知れないという可能性に賭けて、世界の至る所で行われているのである。つまり、これは近代、迷信と信じられていた分野も例外によって起こったかも知れないという未科学の分野が残されているからである。そのために十七世紀以来、現代に至っても同じ実験が繰り返されている。

 不完全帰納法……。これを如何に完全に近付けようとしても無理な話だ。現実的には不備が起る。斑
(むら)が起こる。無理なコジツケは、必ず何処かに皺寄せが来る。
 人知で、改善しても改善しても、その後も不備や斑や皺
(しわ)寄せは永遠に続くだろう。如何に現代科学が進歩しても、地上では永久機関が作れないように、今なお未科学とされる分野に弁証法の詭弁(きべん)を用いたとしても、それは不可能だろう。
 この世には作用に対して反作用が働いているからだ。
 人智では、如何に足掻こうと自然の摂理は覆せない。自然科学が体系主義を以てしてもである。人智や肉の眼では確認できない「隠れた部分」が、この世には存在しているからである。藕糸
(ぐうし)である。
 共産主義や社会主義は、人類にとって大変な瞞
(まやか)しであったのだ。トリックだったのだ。虚構理論だった。

 この虚構理論では、「ねずみ講」と同じで、頂点の“一握りのエリート”が“ヒエラルキー”の上に居て、いい活計
(くらし)が出来るのであって、底辺の有象無象までその“おこぼれ”は回って来ないのである。
 利益の配分は平等ではない。能力や才能に応じて、役職や地位に応じて、また欲望の強弱に応じて多い少ないが出る。利益配分からして、この世は平等でない事が分ろう。
 ある意味で、共産主義は資本主義の同一線上の「裏返しの理論」と言える。マルクスが『資本論』を社会ダーウィニズムをヒントに書き上げた事は、よく知られるところである。しかしマルクスがダーウィンに『資本論』を示したとき、ダーウィンはマルクスにそっぽを向いたという裏話がある。
 適者生存における生存競争では欲望の強い人間ほど得をするように出来ている。そもそも欲望自体が生存競争の輪の中にあるからだ。
 頂点の一握りが、何れの主義でも優遇されるようになっている。底辺まで“お鉢が回って来ない”ことに気付かねばならない。
 そう言う意味で、野仲がぽつりと云った、「あいつら、アホじぇ。騙されているのも知らんと……」と云った言葉も、以上の事によるものであった。彼は搾取
(さくしゅ)の張本人を知っているかのようであった。搾取するのは資本家だけでない。
 まさに虚構理論の正体を見抜いているかのようであった。
 デモクラシー。共産主義だってデモクラシー。軍国主義だってデモクラシー。人間が行う政治システムは、総て人間が行う以上、総てがデモクラシー。民主主義の反対は決して軍国主義でない。民主主義の反対は、かつてのユダヤで行われていた神主主義、シオクラシーこそ民主主義に対峙する哲人政治であった。
 近代はニーチェが言ったように「神は死んだ」のである。


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