運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
旅の衣・前編 1
旅の衣・前編 2
旅の衣・前編 3
旅の衣・前編 4
旅の衣・前編 5
旅の衣・前編 6
旅の衣・前編 7
旅の衣・前編 8
旅の衣・前編 9
旅の衣・前編 10
旅の衣・前編 11
旅の衣・前編 12
旅の衣・前編 13
旅の衣・前編 14
旅の衣・前編 15
旅の衣・前編 16
旅の衣・前編 17
旅の衣・前編 18
旅の衣・前編 19
旅の衣・前編 20
旅の衣・前編 21
旅の衣・前編 22
旅の衣・前編 23
旅の衣・前編 24
旅の衣・前編 25
旅の衣・前編 26
旅の衣・前編 27
旅の衣・前編 28
旅の衣・前編 29
旅の衣・前編 30
旅の衣・前編 31
旅の衣・前編 32
旅の衣・前編 33
旅の衣・前編 34
旅の衣・前編 35
旅の衣・前編 36
旅の衣・前編 37
旅の衣・前編 38
旅の衣・前編 39
旅の衣・前編 40
旅の衣・前編 41
旅の衣・前編 42
旅の衣・前編 43
旅の衣・前編 44
旅の衣・前編 45
旅の衣・前編 46
旅の衣・前編 47
旅の衣・前編 48
旅の衣・前編 49
旅の衣・前編 50
旅の衣・前編 51
旅の衣・前編 52
旅の衣・前編 53
旅の衣・前編 54
旅の衣・前編 55
旅の衣・前編 56
旅の衣・前編 57
旅の衣・前編 58
旅の衣・前編 59
旅の衣・前編 60
旅の衣・前編 61
旅の衣・前編 62
home > 小説・旅の衣 > 旅の衣・前編 15
旅の衣・前編 15

清貧に安んずることの道徳的価値は疑うべきもない。ただし、それが怠慢と無能の結果から生じたものでなければの話である。


●特攻隊の決意

 案内された場所は、この競艇場の地下室であった。
 重い鉄の扉を開けて中に入った。更に、奥に鉄の扉があり、そこに“休めの型”で両手を後に組んだ歩哨
(ほしょう)の制服姿のガードマンが一人立っていた。
 由紀子は、この特異な場所をギャング映画か、何かに出てくる秘密の裏取引をする場所ではないかという風に好奇の眼で捉
えていたようであった。何しろ地下である。そのうえ重厚な扉さえある。

 別に恋人のそれではないが、彼女の人なっこい性格は、私の腕にしっかりと縋
(すが)り付いていた。それはあたかも、お化け屋敷にでも入って、その中を見物する時のように……である。まるで少女の仕種(しぐさ)だった。
 またこの時、そこはかとなく忍び寄る共犯者じみた期待が、どちらともなく顔を見合わせて、戯
(おど)けたように微笑を交わした。それは“何か悪事に加担しているのではないか?……”というような、子供が想像する、そうした期待感からであった。そして蹤(つ)きつ離れつの、ほどよい間隔を取って為体(えたい)の知れない“怕(こわ)いもの見たさ”の心境が、由紀子に取り憑(つ)いていたようだ。
 ハラハラ、ドキドキの……そんな期待とソワソワ感が、由紀子にあったに違いなかった。要するに分けが解らず同行したのだった。彼女は生まれてはじめて、未知なるところに踏み入れたという、初めての経験を感得しているようであった。それが怕々
(こわごわ)と適度な恐怖を維持しつつ、然(しか)も適度にスリルを楽しんでいるのである。

 そして二人は、これだけで曾
(かつ)てないほどの“近さ”に導かれて行くようであった。彼女との仲が、グーンと縮まったような感覚を抱いた。
 運命の陰陽を操る何者かが、私をこのように導いているのだろうか。
 その時私は、何者かに操られているのではないか……と言う知覚を、うっすらと感じたのである。確かに、誰かが操っている……、そんな勘が働いたのだった。もう、こうなったら成り行きに任
(まか)せるしかなかった。

 二人はやがて、迷路の行き詰まりと思える部屋に通された。そこはアコーディオン・カーテンで間仕切りされ、その部屋の向こうに、誰か居るようであった。
 ヤクザ者は、その中の人物に、私を会わせようとしていたようだ。そして、私だけを中に入れようとした。

 「ねぇちゃんは、外で待ってな!」と、由紀子だけ中に入ることを拒
(こば)まれたが、
 「いや、この人も一緒に入れてやって下さい」とゴリ押しした。外に一人にしておくことが懸念されたからだ。何故だか、そう思ったのである。
 「このねぇちゃん、兄さんの何やねん?」
 理に合わない事を承知で押し通す私に、些
(いささ)か不満の仏頂面(ぶつちょう‐づら)を示し、ヤクザ者はこう切り返してきた。
 「僕の婚約者です。一身同体ですから、絶対に他言はしません」
 私はすかさず、こう応えていた。
 「ほおッー、婚約者ねェ……」と半信半疑の顔をして、不釣り合いなカップルに疑心の眼が漂っていた。
 一瞬意外な疑心漂う切り返しに、些か躊躇
(ちゅうちょ)を覚えながらも、私は最後の駄目押しに、ある種の期待を繋(つな)ぐと、「ほんなら、しゃあないなァ……」という言葉が返って来た。
 一心同体が利いたのだろうか。
 私の駄目押しに、半ば諦めたような態度であった。そして二人とも中へ案内された。
 このとき由紀子は、私が口から出任せに喋った「婚約者」といった言葉を、どんな顔をして聞いていたのだろうか。

 「あんたの噂は、よう聞いとる」
 中にいた男が大阪弁訛で、ふてぶてしく言い放った。
 その言葉の裏には
(あんたは大した悪党だ)と言う刺々(とげとげ)しさがあった。私の選挙ブローカーとしての噂は、この男の耳に入っているらしい。その道では、私もとんだ悪党の部類だった。自分ではそう思わなくとも、そう思われているのだ。しっかりと同類項にされていた。
 その男の眼には、水銀のようなキラッリと炯
(ひか)る、冷たい光沢があった。またナイフのような冷たさを思わせた。根性が坐っていて、何処か筋金が入っていた。海千山千の老獪(ろうかい)さが滲(にじ)み出ていた。隙を見せれば、丸ごと啖(く)われる弱肉強食を地でいく爬虫類だった。
 それは現世と言う、世知辛
(せち‐がら)い世の中の裏も表も知り尽くしていて、まさに蛇のしたたかさを思わせた。
 そして、和紙で出来た派手な大判の名刺を私に指し出した。
 名刺には、『B警備保障株式会社・代表取締役社長、佐多慶太郎』と書いてあった。恐らくこれは表向きの肩書きであろう。裏では幾つもの顔を持っているのだろう。

 「頼みは、政治のことや……」と、予想した通りのことを切り出した。
 私には、既に予期した事であった。選挙違反の依頼をしてきたのである。
 此処に案内したヤクザ者はそれを見越して、これまで私に付き纏っていたのである。
 「それを私は一体どうすればいいのでしょうか?」
 「なァーに、簡単な仕事や。しかし誰にも出来る仕事やない、手慣れたあんたにしか出来ん仕事や。整理券を朝9時から夕方5時まで、配ってくれればそれで終わりや」
 確かに簡単だった。聞いている分にはそう聴こえる。
 しかし何処で、どのように何をするか、そのことは喋らない。既に、察しがついているだろ?という憶測でものを言っているのである。詳しくは喋らないのだ。万一の場合、証拠を残さないためでもある。それだけに危険な依頼であることは間違いなかった。
 「それだけ百万円も頂けるのですか?」
 「ちと、多いかもしれへんが、残りはあんたの道場への寄附
(きふ)と思っておくんなはれ。では、やってもらえますかいなあ?……」訝(いぶ)かしさを相半ばして、私に返事を迫った。
 これを聞いた以上、厭とは云えない。

 毎度の事だか、この手の仕事は一瞬躊躇
(ちゅうちょ)を覚えた。法に触れるからだ。
 「はあ……」と、やや心許
(こころもと)無い返事をした。
 「どうやねん?!」息を呑んだような表情で迫った。
 睨んだその眼は、私の貌からはなれなかった、鋭く迫っているのである。
 この駄目押しに引っ掛かった感があった。相手は上である。見事の絡め捕られていた。
 私の眼をキッ!と睨
(にら)み付けて、自らの眼は動かそうとしなかった。私はまさに蛇に睨まれたカエルであった。
 「選挙違反の裏仕事をやれ」と言う犯罪を強要されているのである。
 「……………」私は絶句した。
 安易に返事をしたら、足許を見られる恐れもあったし、金で支配される犯罪を犯すことも些
(いささ)か憚られたからである。これはビジネスだが、ブラック・ビジネスだった。
 「どうやねん!」
 少し間を置いて、不意に猛々しく訊いたのだった。

 「分かりました」
 「そうか、やってくれるか」
 「その程度の仕事なら引く受けましょう」
 これは売り言葉に買い言葉であった。最早
(もはや)こうなったら仕方ないと言う妥協があった。
 私が“その程度”と言ったのは、確かに違法で買収行為に当たるが、しかしその程度のことだった。深く考えても仕方がないことだった。
 そして承諾しまっていた。
 「よっしゃ、決まった!」
 佐多慶太郎は手打ちをしたような言葉を吐いていた。
 しかし暫
(しばら)くして、内心は「しまった」と思った。迂闊(うかつ)だったと思った。
 だが取り消しは利かない。もう遅い。
 既に承諾の意志表示をして、全ては終わってしまっていて、今更、取り消すとは云えなかった。
 この世界では、言葉自体が重い。二言は赦
(ゆる)さぬのだ。吐いた以上絶対に厳守しなければならない。そして途中で敵前逃亡などは絶対に許されない。引き受けた以上、前線離脱は出来ないのである。

 政治で飯を喰うのは、何も政治家だけではない。
 一人の政治家を頂点として、その下にピラミットが出来ているのだ。このピラミットは与野党の別はない。考えれば、まさにアメリカの軍産複合体
(military-industry complex)を彷彿とさせる。アメリカの四軍(陸・海・空・海兵隊)を支えるために、その下を支える軍部と軍需産業との結びつきの産業上の利益に関与する体制構造である。この構造が政治の体制を支えている。

 一人の政治家を支えるために、支援体勢が出来上がっているのである。後援会組織もその支援体制だが、それは表向きのことであって、裏には多くの「政治ゴロ」が何重にも輪となって、巣食っているのである。それも正式な公設秘書から第二、第三、第四、第五くらいまでの私設秘書まで居て、裏の業界では有力政党員や政客の家に出入して、自ら金銭を無心するか、あるいは依頼されてその走狗となり、報酬を受けて生活をする下請けが控えている。これに総会屋までもが絡み、企業ぐるみの支持者の支援が行われていたのである。
 裏では立派な政治産業が成り立っていて、雇用までもが整っているのである。

 特攻隊とは、ズバリ選挙違反を請け負って、依頼者に一切の助けを求めず、それを個人的に単独で消化する仕事である。選挙で一番危ない仕事を遣る。仮に官憲に逮捕されても、その出処は絶対に洩らさないと言うのが掟
(おきて)であった。
 万一逮捕でもされれば、官憲の脅
(おど)しと拷問(ごうもん)に耐えなければならない。それは今日では想像も付かない過酷なもので、不眠と、心理戦に大いに苦しむ結末が待っていた。口を割らない、そうした忍耐料までもが、最初から依頼金に含まれているのである。
 政治ゴロも一種の無法者に違いないだろうが、アウトローの社会に生息しているのだから、ヤクザと共通したところがある。だから、筋金入りは官憲に逮捕されても簡単には口を割らない。
 その点では、逮捕された途端に何枚もの検事調書を取られる大商社の重役より、よほど意志堅固である。滅多に依頼主の名を明かしたりはしない。実に口が堅い。
 官憲から拷問まがいの脅迫を受けて、口の脅しとライトの照明拷問で簡単に口を割るのは、お祭り騒ぎで選挙事務所に出入りしている末端の後援会員である。この末端の後援会員は、町内の普通のおじさん、おばさんである。あるいは同じ宗派を信仰をする寺の宗徒や門徒である。
 口割り種属
(スピーシーズ)に、筋金入りの政治ゴロではない。脆(もろ)くて毀(こわ)れ易い人種である。

 当時の警察の捜査二課は、そんなに甘くはなかった。粘着質のしつこさで容疑者に迫るのである。この粘っこい拷問に、並の人間は耐えられないのである。直ぐにゲロするのである。
 それだけに、依頼者の佐多慶太郎は「あんたにしか出来ん仕事や」と言い捨てたのである。
 佐多慶太郎も“ワル”だったが、私も“ワル”だった。
 私は金に転んだ観
(かん)があった。
 何よりも、「その程度の事なら……」という安易な言葉が、それを証明していた。
 毎度の事ながら、私の言動には甘さがあった。金に転ぶのである。金に動かされるのである。あるいは貧苦がそうさせるのかも知れなかった。金に転ぶ、高が知れた人間だった。クズの部類である。
 結局、百万円の金と、簡単という内容で、具体的な内容も詳細に聞かず、これを受けることになり、此処を由紀子と二人で出た。指令塔から、一刻も早く離れる必要があったからだ。

 この依頼は、はっきり言うと選挙違反の裏仕事であった。
 それを思うと、一抹
(いちまつ)の不安が付き纏(まと)う。何かしら、空恐ろしい「勘」というものが働くのである。既に、しくじって、官憲に逮捕された時のことを予期したのかも知れない。あるいは私自身の小心者の怯(おび)だろうか。
 何か不吉なものを感じた。
 悪党の私の毒を、その上の悪党が利用し、ダシに使って、悪党の上前を撥
(は)ね、更に使いこなすという悪魔的発想が、この依頼の中には窺(うかが)われた。それを承知で、毒牙に掛かったのである。
 由紀子は、まだこの時、私の「選挙ブルーカー」という裏稼業のことを知らなかった。今日の依頼が、どういうものか彼女に分かるはずがなかった。これだけが、ささやかな安堵
(あんど)を思わせた。

 私は学生の頃から、政治家や政治団体と近付きがあった。懇意の地方政治家も何人はいた。政治の流れの裏や、地下組織にも通じていた。選対本部の参謀まがいのことも遣ってきた。思想の左右に関係なく、政治家や政治団体と繋がっていた。時には野党にも手を貸した。金になれば、右でも左でもよかった。アウトロー的に働くが、金に動くのだった。それが今日の、特攻隊を請け負うことになったのである。

 駐車場に行った時、殆どの車は既に去った後で、由紀子の赤いフェアレデがぽっんと残っていた。二人は一先ず、黒崎に戻った。
 車を駐車場に入れて、私は近くのレストランに彼女を誘った。
 今はないが、当時は『フジシマ』という名前が付いていた高級レストランがあった。
 その店は静かな趣味の良い、クラシックのピアノの引き当たり流れていた。こういう気の利いたレストランに、いい女を連れて、一度来てみたいと思っていた。その思いが、今日叶ったのだった。
 私たち二人が、店の中に入ろうした時、私の異様な姿に気付いたウエーターが慌
(あわ)てて飛んで来て、
 「当店は、規則により革靴以外の御客様は入れないことになっております。どうかお引き取りを」と“待った”を掛けた。
 私の恰好が、この場にそぐわないから帰れと云う。

 私はこれに何の怯
(ひる)みも見せず、冷静を装って、
 「僕の足も人間の皮で出来ていますから大丈夫です」と訳の分からない事を言って、ウエーターの肩をポンと叩き、強引に店内に入った。威圧勝ちだった。
 ウエーターも、私の訝
(おか)しな言い掛りと狂暴な言動に、これ以上何も言えないようだった。
 呑まれたのである。
 私に殺気のようなものを感じ、逆らわない方が賢明と考えたのであろうか。あるいは革ジャンに、蛇革の鼻緒の、畳の雪駄履きという出
(い)で立ちの恐れをなしたのだろうか。蛇か蛙を呑んだ観があった。

 店内に居た品の良い紳士淑女の客たちが、私たち二人に注目し、興味深げにジロジロと見る。恐らく、釣り合いの取れない奇妙な取り合わせのせいであろう。穿鑿の眼が、あちらこちらで、ぎらついていた。
 この私と彼女のアンバランスな二人の服装は、人を振り向かせるだけの威力があったらしい。興味津々
(きょうみ‐しんしん)という客たちの目付きは、私たち二人を不思議そうに見ていたのである。二人のギャップは大き過ぎた。格差はあまりにも違い過ぎていた。
 (どうしてあんな訝しな奴が、上品な育ちのいい美人を連れているのだ?奴とは、一体どういう関係なのだ?)という風な懐疑(かいぎ)の眼が、二人に注がれていた。

 身なりも、彼女は言わば知的さを象徴するような訪問服のような小粋
(こいき)な紺色のスーツにピンクのブラウスの幅広の襟を出し、教養と気品に満ちた美貌の持ち主である。それだけに、バシーッと決まっていた。私がそれに相応しくなければ訝(おか)しいのである。
 だが、彼女とは桁外
(けた‐はず)れに違っていた。私一人が完全に浮き上がっていた。このギャップは実に大きい。何ともアンバランスだった。それだけに好奇の眼が集中していた。
 私の姿は誰が見ても、こんな店とは無縁のドブ鼠
(ねずみ)の下品さを漂わせた、捻り鉢巻きの方がよく似合う日雇い人夫スタイルである。よれよれの労務者然である。この奇妙な取り合わせを周囲の人たちは、これをどう穿鑿(せんさく)していたのだろうか。
 しかし私は意に介さなかった。

 優雅な仕種
(しぐさ)で席に着いた由紀子が、
 「岩崎君て、大人しいように見えて、本当はライオンや虎のように獰猛
(どうもう)で、狂暴なところがありますのね」と訊くのだった。
 「いや、普通ですよ。僕を狂暴といったら、犬や猫でさえ獰猛な肉食獣になりますよ」
 「岩崎君から見てライオンや虎が、犬や猫じゃありませんの?」こう言って彼女はクスクスと笑った。
 「あの……」
 怕々
(こわごわ)と切り出した。心に憚(はばか)るものがあったからだ。
 「何ですの?」
 「僕と一緒に居て、恥ずかしくないですか?」
 「何のこと?」
 「僕と居ては、釣り合いが取れませんから……」
 「どうして?」
 「何だか、場違いなところに来たようで……」
 「そんなことありませんわよ」
 「じゃあ、猫より虎の方がいいや」
 本当に今から獰猛になってやるぞ……。大虎になって、ふてぶてしくなってやるぞ……。そんな気持ちが気丈にしていた。
 こんな冗談のような会話をしている時、高給レストランを裏付けする、品のいい接客訓練が行き届いたウエイトレスが、いかにも物慣れた微笑を湛
(たた)えてオーダーを取りにやって来た。

 「僕は、この店で一番高いフランス料理のフル・コースにします。あなたにも“おごり”ますよ」
 「でも、岩崎君。競艇場で全部お金使ってしまって、一文無しじゃありませんの?」
 「安心して下さい。お金はちゃんとあります」
 そうだ、金はあるのだ。もう直ぐ泡銭
(あぶくぜに)が入る。泡銭とは雖(いえど)も端金(はしたがね)ではない。百万円の大金だ。それがもう直ぐ手に入るのだ。
 「岩崎君の、そういう気後
(き‐おく)れを微塵(みじん)も感じないところ、本当に尊敬いたしますわ」
 彼女は本気なのか、冗談なのか訳の分からないことを言った。私に何を感じたのだろうか。
 「尊敬されるほどのことではありませんが、安心だけはしていて下さい」

 これは私の見栄である。
 気持ちが大きくなっていたのである。あるいは破れかぶれだったかも知れない。
 私は、この店でツケをする覚悟でいた。あとから二倍の代金を払ってやる。だから今日のところはツケである。そんなことは通らないかも知れないが、その時はその時だ、と思っていた。
 所謂
(いわゆる)私の劣等感から、困窮する貧乏人ではないという意地を、彼女の前で見栄を張ったわけである。そして、二人とも同じ、フランス料理のフル・コースにした。私の見栄は膨らんでいた。膨張する傾向にあった。

 息巻いて、恰好
(かっこう)を付けたまでは良かったが、しかし私は全くこの料理のテーブル・マナーを知らなかった。訳の分からないスプーンとホーク、それにナイフが数々並べられた。次から次にスープなどがどんどん出されて、客席係のウエーターが、各々の名前を一々いって説明してくれる。
 (何じゃ、これは?……)だけが、私を狼狽させていた。

 「僕はテーブル・マナーを知りません。好きなように食べますので笑わないで下さい」
 「お料理なんで、それでいいのですわ。食べる人が美味しく食べればそれでいいのですよ。そもそもテーブル・マナーは日本人が作った、勝手な盲信が入っていることが多いのですよ。そんなこと、気にしなくていいですわ」
 そして、幾らかの知的な会話を楽しんだ。その会話の中で、忘れたかに思っていた言葉が飛び出した。
 「競艇場の地下室で言ったこと、本当ですの?」
 「何が?……」
 「婚約者て言ったことよ」
 私はこの言葉に狼狽
(ろうばい)し、口に含んだ物を咽喉(のど)に支えさせそうになったが、何とか飲み下し、「さっきの事は気にしないで下さい。あれは緊急の場合の口から出任せです。行き掛りでのことです。気分を悪くしたら許して下さい。僕の失言でした。取り消します。不愉快でしたら許して下さい。だいいち僕があなたの婚約者になれる筈(はず)がないじゃありませんか」と、ふてぶてしく逃げ口上(こうじょう)をぶち、改めて座りなおし、深々と頭を下げて、お詫びの意味の許礼(きょれい)をした。
 それで納得したのかどうかは分からないが、彼女が世界の違うお嬢さまと言うことで、私を分相応な、然
(しか)も従順な人間にしていた。
 所詮
(しょせん)彼女とは、一期一会(いちごいちえ)の間柄なのである。そう思った瞬間、彼女との会話が止まった。

 彼女は子供の頃から、この種の料理のテーブル・マナーを教育されていると見えて食べ方が美しかった。
 食事を終え、伝票を掴み立ち上がってレジで勘定を済ませる時、彼女は私に黙って三万円さし出し、これを使えと言うのだ。
 私はこれに大いに驚いたのだった。私が既に一文無しと言うこと見抜いていて、恥をかかせない為の、私に対する思い遣りともとれた。鋭い観察眼をしていた。
 世の中には、伝票などの存在を知らないという女は多い。デートなどでは、伝票はみな男が掴み、レジで清算する。それを当たり前と思っている白痴女は多い。それだけに由紀子の行動は意外だった。益々、魅せられていくのだった。

 私はこの日を機会に、博奕事
(ばくち‐ごと)は一切辞めてしまうが、この辞める切っ掛けを作ったのは、この日の彼女の思い遣りが、骨身に沁(し)みたからである。
 どうやら私は、戻り道のない一方通行の地獄道から、奇跡の生還をしたようだ。彼女のお陰だった。
 この思い遣りこそ、私にこれ以上毒を食らい続けることを制してしまったのであった。こうなると、真っ当に生きる模索が始まる。一つだけ毒気が抜けたのだった。


 ─────私はこれに勢い付いて、食後の“口直し”と称して、由紀子をお茶に誘った。
 しかしこれとて、行きつけの馴染みの店がある訳ではない。事の成り行きで、行き当たりばったりの気持で何処か知らないが、“お茶”することのできる、それらしい店に飛び込んだ。そこが単に喫茶店だと思って中に入ったのだった。ところがこれが検討外れも甚だしかった。

 ドアを開けて中に入った途端、二人のアンバランスな格好を異様な眼で見た、店の主人だか、あるいは店員だかは知らない男が、私にちらりと鋭い一瞥
(いちべつ)を投げた。
 この男は「いらっしゃいませ」の一言もいわず、奇妙な取り合わせのアベックに、ただ口をぽかんと開けているのだった。それが私を突然、不愉快な気持に陥れた。

 この店は、客の誰をも、このような冷たい持て成しで出迎えるのだろうか。あるいは私の、皮ジャンに雪駄履きという、この服装が「いらっしゃいませ」の一言もいわせない原因をつくっているのだろうか。
 客を見て“もの”を言っている様子が、その態度から容易に窺
(うかが)われた。

 (何と愛想の悪い店だ)という感想を持ちながら、二人でカウンターに腰を降ろすと、黙って水の入ったコップを出し、
 「何になさいますか?」と無愛想な口調の訊ね方をした。
 「コーヒー下さい」
 店の主人だか、店員だか、何だかは知らないこの男は、一層不機嫌な表情を露
(あらわ)にさせて、
 「うちはねェ、紅茶専門店なんです。コーヒーショップではありません。表の看板をよく見てから入って下さい。表には《ティー・ルーム・カジキ》とあつたでしょ」と捨て鉢な言い方をした。
 その不機嫌な態度から窺
(うかが)えることは、(あんたのような場違いの田舎者は、何も分っちゃいない。入る場所を間違ったのではないか)という言い方であった。私の日雇風の服装から判断したようにも思えた。
 一瞬これにムッときた私だったが、隣に由紀子の居る手前上、軽々しく怒ることも憚
(はばか)られ、苦笑いを走らせながら、
 「要するに、ここは《通
(つう)》の店ですね」と言ってやった。すると、「そうだ」と言わんばかりの表情で頷(うなづ)いた。
 そうか、ここは通の店だったのか……と少しばかりの後悔を引き摺りつつ、「じゃあ、仕方ない。紅茶にしましょう」と諦めて言ったのだった。

 「では、紅茶は何になさいますか?メニューはこちらに出ておりますので、お好みのものをどうぞ」
 こう言われて、前方のマホガニー色の板壁を見上げると、私には全く訳の分からない色々な国の紅茶の銘柄
(めいがら)が英語で書かれていた。その何処から何処までが気障(きざ)に、気取り通し「紅茶通の店」という印象が滲(にじ)み出ていた。
 このメニューから由紀子は素早く、自分の好みのものを探し出したようだった。
 「あたしはインド産のアッサムセカンドフラッシュに、ミルクを入れたミルクティーを頂こうかしら」
 「お嬢さんはスモーキーな甘い香がお好きなのですね。ミルクティーだと渋味の中に、よりコクのある香が引き立ちます。実に《通》でいらっしゃる」
 男が私をあざ笑うように気障
(きざ)な言葉を吐いた。それは明らかに意図的だった。このままでは、恥をかくのは目に見えていた。
 私は
(何んば言いよるとかー)と博多弁を沸々とさせながら、一方では苦笑いを噛(か)み殺して、「じゃあ、僕は《通》でないから、お勧めのものを、“お任せ”で、お願いします」

 これに店の男は、「折角
(せっかく)うちの店に来られたのですから、ご自分で何か、銘柄の一つでも選ばれたらいかがですか?」
 この男は、どうやら由紀子の前で、私に大恥をかかせるつもりではないかという、勘繰
(かんぐ)りのような気持が湧き起こっていた。
 あるいは私が呆然とすることを窺っているのだろうか。何だか恥辱の白沙
(しらす)に立たされているようだった。どことなく、何から何まで癪(しゃく)に障(さわ)る男である。歯車が噛み合わない嫌なタイプの人間であった。
 私がこのように思うのだから、向こうも同じような気持ちを抱いているのだろう。
 共に相反するのである。持って生まれた悲しい宿命だった。
 心の片隅で訳の分からない腹立たしい気持が、むくむくと頭を擡
(もた)げて来たのだった。

 私の欠点は、直ぐに堪忍袋
(かんにん‐ぶくろ)の緒(お)が切れてしまって、カッとすることなのである。短気なのである。我慢ならぬと切れるのである。これも若気の至りなのだろうか。
 しかし由紀子を横にして、そんな衝動に駆られても、大人げないと思われて、最後に嘲笑
(ちょうしょう)されるのは私の方である。そういう“オチ”にはさせたくなかった。
 最後はバシッと極めてみたかった。極めて、余裕の残心を執
(と)りたかった。

 そのムッとした気持を抑え気味にして、やや冷静を装って、
 「じゃあ、日東紅茶ください」と言ってしまった。それも、しゃあしゃあと言ってしまったのだ。
 私の紅茶の銘柄といえば、テレビのコマーシャルでしか見たことのない、あの紅茶会社の名前であった。銘柄などと言われても、“通”でない私は、紅茶と言えば日東紅茶以外知らないのである。
 カウンターの中に居た男は、予期もしない銘柄に、手に持っていたティー・カップを一瞬落としそうになりながら、
 「えッ?!日東紅茶ですか?」と意外な注文に、その返事を再度訊
(き)き返した。
 「そう、日東紅茶!」
 紅茶の通の店で、日東紅茶を頼んだのは、後にも先にも私くらいであろう。
 この断定的に言い切ったような注文に、由紀子は何かが相当に可笑しかったらしく、口に手を当て俯
(うつむ)き加減に、クスクス笑い出した。
 「日東紅茶?……」きょとんとした顔だった。
 そう訊き返した表情は、呆れて、開いた口が塞がらないというような顔つきで、再度改めて訊き直した言い方だった。
 「えッ?お宅の店、日東紅茶、置いてないの?……。ここ通の店でしょ?」と、わざとらしく迫った。
 「はあ?……」
 口を開けたまま眼が点になっていた。バカも休み休み言えを完全に通り越していた。

 「ご存じありませんか?あのティー・パックに入ったやつですよ。上の方に糸のような紐
(ひも)が付いていて、それをカップに入れてお湯を注ぐと紅茶が出るようになった、あれですよ、あれ。
 驚いたなあ、ここ紅茶の専門店でしょ、日東紅茶、本当に置いてないの?……。参ったなあ……」私は真顔
(まがお)で聞き返していた。
 「あのッ……、お客さん。うちはね……あのですねェ……」
 この男は、うりはそういう店でないということを強調したかったのである。
 開いた口が塞がらない延長は、まだ続いていた。
 カウンターの男は、私に何かを説明しようとして、懸命に何から言ったらいいのか、話の前後を組み立てているようだったが、説明の糸口が見つからず混乱していて、ただ口をパクパクさせているだけだった。

 由紀子は私の腕を軽く叩きながら、「もう、イヤ」という表情で、その可笑しさに我慢が出来ないという仕種
(しぐさ)を続けていた。彼女の性格は“笑い上戸(じょうご)”であるらしい。
 店の男を困らせてやったことで、今までの腹立たしさが若干薄らいで、少し愉快になってきた。

 「要するに、国産の普通のやつでいいということですよ」と、これ位で勘弁してやろうという気でいた。男は、苦笑して、しきりに首を傾げながら、「参ったなー」という表情を見せた。
 「では、ミルクになさいますか。レモンになさいますか。それとも爽やかさをプラスして、ハーブバリエーションでキャットニップになさいますか?」
 「ウィスキー!」
 「えッ!?ウィスキーですか?……」
 「そう、ウィスキー!」
 「昼間からですか?」呆れたように訊き返した。
 「そう」
 「まあ、ご注文とあればやりますがね……」と、何処か納得がいかないという風な顔つきで、しきりに首を捻った。
 この男が何事につけ、頸を捻るのは、どうやら癖のようなものであるらしい。
 この遣り取りを見て、由紀子がまた俯
(うつむ)き加減に、口に手を当ててクスクスと笑った。
 俯き加減の顔には、きっと可笑しさで、眼に涙を浮かべていることだろう。それで、顔が上げられないのだろう。
 彼女はお嬢さま育ちのマナーをかなぐり捨てて、「もう……」という表情で、いつまでも私の腕を軽く叩いていた。
 私はそんな由紀子に、
(そんなにバカ笑いすると、顔が弛んで元に戻らなくなりますよ)と云ってやりたかった。
 どうやら私のピント外れのギャグに、笑いは止まらないという様子であった。
 この店の格調高いイギリス風のティーマナーは、下品な私一人に掻き回されていたようであった。
 この店の男にとって、今日はとんだ厄日だったに違いない。




  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法