運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 2
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旅の衣・前編 4
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旅の衣・前編 14

自分の夢を追うのに、自分の夢に責任を負うには何が必要であろうか。それを挙げれば切りがないが、まず健康であることは言うまでもなく、知識、見識、胆識、判断力、先見の明、予想力、直感力、実践力、耐久力、辛抱、始末などであり、また愛情とか宗教心なども必要であろう。
 おおよそ人間の徳目と考えるもの総てが、その中に含まれよう。


●競艇通い

 幾日か、困窮(こんきゅう)の日々が続いた。私は“甘い夢”を見たのだ。つい先頃の出来事は、幻想だったのだ……そう思い込むことによって現実逃避を企てていた。哀れな生き態(ざま)だった。虚しい日々だった。そして思えばこれまでの私の人生は苦労の連続であった。
 人生が楽しいなどということは、映画かテレビドラマの中であり、現実にああいうことはあり得ない、と妙な悟り方をしてしまうものである。
 しかし、どうしても由紀子の事が頭から離れないのである。
 何処までも付き纏
(まと)った。魅入られたと言っていいほどの感情が支配していた。狂おしいばかりの感情である。声を挙げて「狂おしい……」とでも叫びたいような感情だった。
 全域を占有されているから、追い払っても、付き纏
う蠅(はえ)のようなものに憑(つ)かれていた。
 由紀子の美しい笑顔が、私にどこまでも憑
(つ)き纏(まと)う。脳裡(のうり)の片隅から、由紀子が何かを囁(ささや)きかける。それは、耳を塞(ふさ)いでも聞こえて来るのだった。
 おかしい……と思っても、訳の分からない幻影と幻聴に憑かれたのである。
 見えないものが見えるような幻影となり、聴こえないものが聴こえると言う、恋の片想い現象に囚われ出したのである。とんでもない化け物に魅入られてしまったようだ。

 由紀子に逢ってからというものは、美しい妖怪に取り憑かれたように、気も漫
(そぞ)ろになり、はっきりとした理由も分からぬ儘(まま)、心の何処かで空洞化が起こり、ぽっかりと穴が空いているようであった。そこに空虚(くうきょ)があった。何とも虚しいものである。わが身の空っぽを感じざるにはいられなかった。
 言葉で言い表せない、精神的ショックのようなものを感じながら、貧しい毎日を暮らしていた。
 何を考えても、全て振出しの戻るのである。
 あたかも道中双六
(どうちゅう‐すごろく)の起点に引き戻されるのであった。
 またそれが、夢の一種に組み込まれた、在
(あ)りもしない蜃気楼(しんき‐ろう)でもあった。その幻影をいつまでも見せられるのである。終わりのない無間(むげん)地獄の幻を……。そして、やがて衰弱するだろう。
 私の薄っぺらな自尊心は、ヒリヒリと痛み感じ、血を流しているかのように思われた。

 何故こんなに、切ないのだろう。苦しいのだろう。
 こう思う時、一人の男が、一人の女に夢中になってしまう原因は、やはり女の方が、何かの切っ掛けを作ってしまうからではないか、そんなことが反芻
(はんすう)されるのだった。自分だけが、特別な人間であるかのような錯覚をもたせてしまうからではないか。女にはそう云う魔力があった。
 それが例え、一期一会
(いちご‐いちえ)のような、たった一回限りのものであったにせよ、この責任は彼女にあるのでは?……ないか。それが無意識であっても……などと、一人勝手な御託(ごたく)を並べ始めていた。崩壊に至る末期症状である。
 そして張り裂けんばかりの彼女への想いと恋慕、更には困窮の迷妄
(めいもう)の極みは、その臨界点に至ろうとしていた。メルトダウンが始まっていたのである。
 そこには塞
(ふさ)ぎ切れない大きな穴が開いていた。異常な穴である。私は、そこを塞ぐ術(すべ)を知らなかった。
 私の胸中には、荒涼とした枯れた“芒ヶ原
(すすき‐が‐はら)”は広がっていた。それだけに虚しかった。

胸中は芒ヶ原の寂寥(せきりょう)だった。

 何処からともなく、言葉にならない空虚
のような惨(みじ)めさが押し寄せてくる。それは悲壮感に満ちた“遣(や)る瀬(せ)なさ”のようなものだった。些(いささ) か金のない惨めさが、一層拍車をかけた。確かに金はないのだ。貧血病ならぬ金欠病だった。重症の“金欠病”だった。
 しかし柄
(がら)にもなく、彼女に、更に近付くには、どんな手段があるのだろうかと、下心にも似た思いを巡らし、その模索(もさく)と空想に耽り始めた。
 部屋の片隅に身を寄せて、薄く潰
(つぶ)れてしまった座布団の上に何時間も座った儘(まま)だった。時々溜息を漏らす自分に気付き、その滑稽(こっけい)さに、苦笑せずにはいられなかった。金欠病なるが故の溜息だった。
 そしてこの模索と空想に思いを馳
(は)せることは、やがてこれが大きな幸福、あるいは大きな悲しみの第一歩になるとも知らないで……。
 その予想と成り行きが見通せずにいた。これが恋としての情熱への始まりであった。
 『恋愛論』の著者・スタンダール
(Stendhal)の言うところの、「結晶作用」の始まりである。フランスのスタンダールは社会批判と心理分析に優れた作家である。著書の中で特に有名なのが『恋愛論』である。
 『恋愛論』は記す。
 「恋が始まると結晶作用を起こす」と。
 想い焦
(こ)がれ、恋焦がれ、鉄板の上で身を焼かれるような、灼熱の火で灼かれ、そして炙(あぶ)られ、由紀子を美化して考える結晶作用が、私の心に始まっていたのである。哀れと言うべきか……。

 私に必要なものは、いま一時
(ひと‐とき)を感じる現実感であった。
 あの晩のことが嘘でない証拠に、由紀子のところに電話を掛けようとした。愚鈍で単純な頭では、これくらいのことしか思いつかなかった。愚者の智慧はこの程度だった。
 道場で、誰も来ない時間を見計らって、早めに出勤し、電話のダイヤルに指をかけた。これで彼女が電話口に出れば、何もかもが現実味を帯びてくるからである。
 しかし電話口に出た相手が由紀子でなかったら、どういう結果となるか。そんな計算までしていた。
 一度はダイヤルを回したものの、直に愚行をやらかしている自分に気付いた。愚行は避けたい。そして受話器を置いた。
 下手を打って、惨めさを味わうこともあるまいと思ったからだ。同じ轍
(てつ)は踏みたくない。
 小心者の私は、後込
(しり‐ご)みをしたのであった。


 ─────昔の人はよく言ったものだ、「金の無いのは、首の無いのと同じ」と。
 貧しさが与える屈辱
(くつじょく)や怒りが、私の全エネルギーであった。そうした一種の悔(くや)しさが、私の原動力であった。
 私は子供の時から、一種の暗い固定観念があった。これは言葉を換えれば「惨めさ」である。
 当時の私は、この「惨めさ」の中で、不思議なくらい、何かに追い詰められていた。その何かは、金のない惨めさであった。経済力も乏しかった。そして、大それた相手に魅入られ、惚
(ほれ)れてしまったという貧者の嘆きがあった。
 日本語的解釈をすると、「惚
(ほ)れる」と「惚(ぼ)ける」は同じ漢字を書く。送り仮名も、「惚」の漢字に書き添える語尾の助詞の、「れ」「け」が違うだけである。

 私の場合「惚れる」を通り越して、「惚ける」に近かったのかも知れない。まさにボケ老人のそれであり、ついにボケてしまったのか……そんな嘆きがあった。それがボケならボケで仕方のないことだ。このまま彼女にボケ通してやろうではないか。ボケ通して、今度は私が彼女をボケさせてやる。ボケを伝染させてやる。
 そんな埒
(らち)もないことを考え続けた。遂に、頭に昇ってしまったと観念する以外なかった。
 しかしここで一気奮戦して、男の意地と甲斐性
(かい‐しょう)を見せ付けることが、私の出来る唯一つの行動でもあった。(俺をボケさせたのだから、今度は由紀子をボケさせてやる。俺と同じ苦しみを、彼女に体験させないと片手落ちではないか……)これが私の脳裏に過(よぎ)った、彼女への反撃であった。

 金に追い詰められた人間は、どうも博奕
(ばくち)に手を出すらしい。私も例外ではなかった。
 ふっと学生時代に、時偶
(ときたま)やっていた競艇のことを思い出した。
 大学時代の悪友の野仲という男と二人で、F競艇場によく足を運んだものだ。
 選挙運動のアルバイトで稼
(かせ)いだ金を、いつも擦(す)ってばかりいたが、競艇通いの同級生に大穴で240万円当てた奴がいた。
 帰りは、私たち二人をボディー・ガードに雇い、家まで護衛させた奴を思い出した。それで、夢をもう一度という、寝ている子を起こすようなことを考え付いたのである。
 それは世にも危険な堕落への道標
(みち‐しるべ)であった。その道標の示す、地獄への掲示板は、その儘に歩き続ければ、逆戻りのできない一方通行の道標でしかない。行き着く先は破滅である。そんな第一歩を踏み出していた。

 ギャンブル……。賭けごと……。
 それはつまり、博奕は、それ自体が秩序に対する反抗である。
 人間は本来、“群れの秩序”に依存して生きる生き物であるが、その依存こそ、「保護の依存」であった。
 しかしギャンブルは、その群れの名目的な“保護の手”すら及ばなくなる世界のものである。
 ギャンブルの淵
(ふち)にのめり込めば、まるで蟻地獄に滑り落ちて行くそれは、自らを破滅に導く行為であった。その行為の特徴は、「賭け事」という、毒性の副作用が存在する為であろう。

 私は蟻地獄の淵に立った。ギャンブルにのめり込んだ。そんな日常を送っていた。
 その人生は、賭け事の毒の副作用で、次第に自分の正常な金銭感覚を狂わせ、墜落の道を辿
(たど)ることは必定である。先は見えていた。人の感覚を麻痺(まひ)させる不思議な毒素は、一体何処から沸(わ)き上がってくるのだろうか。
 もう、毒に狂い始めたのである。
 脳の中枢が、毒に狂いはじめたのである。それはまた、賭け事で金を失う崩壊感覚と言うものだったかも知れない。

 考えれば考える程、中枢
(ちゅうすう)を麻痺(まひ)させる一時の夢が、美しくも、醜くも、嬉戯的(きぎ‐てき)な隠亡(おんぼう)となって墓を掘り、感覚と精神の放蕩(ほうとう)が始まるのであった。紛(まぎ)れもなく崩壊感覚だった。
 賭
(か)けて儲(もう)け、儲けては、また賭ける。これが崩壊感覚でなくて何であろう。そして賭けては負け、負けては、また賭ける。これは尽きる事のない、無間(むげん)地獄であった。その地獄に引き寄せられていた。滅びの構図である。
 賭け事は、まさに「毒」の一語に尽きるのだ。
 しかし私は、この危険な毒を、思う存分
(ぞんぶん)に食(く)らってみようを思った。永い間、蟄居(ちっきょ)を食らった放蕩息子(ほうとう‐むすこ)が、今までの憂(う)さを晴らすように、その気晴らしの限りを尽くすのである。私は賭け事を始めてからと言うものは、非建設的なものや毀(こわ)れて行くものの世界に、どっぷりと頸(くび)まで浸かり始めていたのである。
 そして私の心の奥底には、いっそのこと、由紀子を攫
(さら)ってしまいそうな恐ろしいことまで考え付いていた。
 (あいつを攫って、手込めにしてやる)そんな不埒
(ふらち)なことまで考えたのである。
 単純ではあるが、好きな女を純粋に心底
(しんそこ)好きであったならば、世の男どもは、無分別と本能を剥(む)き出しにして、なぜ女を攫(さら)わないのか。力ずくで自分の《もの》にしないのかなど、悪魔的で、不埒な考えに冒されていくのだった。
 それと同時に、自分自身の財力の乏しさを顧みた時、幾日か前、間近
(まぢか)で見た由紀子が、遠い存在のように思い返された。私には、遠い人。それが由紀子だった。


 ─────A競艇場行きの無料バスに乗った。地獄行きのバスだった。
 この日から“一獲千金の夢”を追って競艇場通いが始まったのである。
 毎日、顔を合わせる連中は、もう、既に人生を諦めた人間が多かった。身も心もドロドロに汚れていた。それは賭け事という毒の食らい過ぎのためであろうか。
 その副作用の毒素は、その中枢神経にまで達し腐蝕させ、正常な感覚を蝕 んでいるようであった。この人種は私を含めて、何も最初から破滅の毒を喰らう気はないのだが、どうしてもその軌道に誘導されてしまうのである。もう、すっかり破滅のコースに誘導された観があった。

 「兄さん、だいぶん熱心に通っているね」などと声を掛けられる程、その連中と仲良くなった。もう、すっかり同類項だった。私も徐々
(じょじょ)に汚れ始めていた。これは人生の橋頭堡(きょうとう‐ほ)から、足を踏み外してしまった人間同士の社交辞令のような、挨拶だった。
 お互いに予想屋の情報を流したり、穴を張って合従策
(がっしょう‐さく)に出て、当たれば山分けという手も使ったが、幸運の女神は一向に微笑んでくれなかった。

 最終レースである。
 これでやられれば足代がない。そんな時のことである。
 最後の手段として、有り金を叩
(はた)き、ここ一発の大穴狙の勝負に出た。その時、凄みのあるヤクザ者のような男が私に声をかけた。見るからに筋の者である。
 「兄さん、眼が血走ってるぜ」
 金に取り憑
(つ)かれ金に追い込まれた人間の心を見透かしたようなドスの利いた低い濁声(だみ‐ごえ)が、真横から響いた。その声に頸(くび)を捻った。
 その男は、一重瞼で目が細く、大きな顔の左頬に、抉
(えぐ)れたドス傷が7cmばかりある大柄な男であった。鋭い陰険な眼をしていた。その眼に負けるのが癪(しゃく)だったので、私も、この男をギョロッと睨(にら)んだ。眼と眼が合って、一瞬火花が散ったような睨(にら)み合いになった。
 ちょうど大相撲で見るような、力士と力士の“睨み合い”のような眼になった。その眼は挑戦的であり、その挑戦的な眼差
(まなざ)しから、自分の眼を反(そ)らすと、何もかもが負けてしまいそうな気持ちになった。だからこの男の眼から反らしてしまうことは、今日の勝負に、全て負けてしまうのではないかという、考えを抱いた。

 相互の視線は、大相撲の“四つ”のような、両手を差し合っての組み合いとなり、絡
(から)みつくだけ絡みついて、解(ほど)けなくなるのではないかと思われた。激しい睨み合いが続く限り、この戦いは終わりを見ないのだ。しかしこの戦いは、この男が折れることで、睨み合いのバランスが崩れた。一瞬、ホッとした気持ちになった。
 この時間は、僅か数秒であったろうと思われたが、私には1分とも2分ともつかぬ長い時間に思われた。そして、根性の据
(すわ)り方だけは、この男の方が一枚も二枚上であろうと思った。それはこの男が、過去に犯罪歴を物語る頬(ほほ)のドス傷からであった。

 レース会場では、投票の締切時間が終わり、いよいよスタートである。ボートはスタートを切って一周した瞬間、勝負が決まる。下手打って誰かが転覆
(てんぷく)しない限り、これは最後まで変わらないのだ。
 そして各艇がゴールラインに飛び込んだ時、
(やられた!)と思った瞬間、私の大穴は見事に外れていた。艇券(ふなけん)を二つに破って宙に放り上げた。
 「兄さん、今日はツイてないようじゃのう」
 この瞬間、私は足代がなくなり、時計を近くの質屋に入れて、足代を捻り出さなければならなくなった。
 「兄さん、足代がないんと違うか?」この男が、やけに付き纏
(まと)う。
 「……………」図星であるだけに、この言葉に絶句した。

 私が答えられずにいると、
 「送るよ、わしの車に乗りな」と云い放った。
 私はその男の言われる儘に、後を蹤
(つ)いて行き、車に案内された。
 車は、趣味の悪い、幅広のアメ車の、黄色と茶のツートンカラーの“モナーク”であった。
 この図体のデカい、趣味の悪いアメ車は、いかにも“ヤクザ者の車”という感じがする。その男に黒崎
(北九州市八幡西区)まで乗せて貰った。
 車を降りる時に、「兄さん、明日も来るかい?」と声をかけたので、「勿論です」と返事した。この男は黒崎に組事務所を置く、九州極洋連合傘下・江川組の若頭の石田という男であった。



●久米仙人

 次の日の午後も、競艇新聞片手にA競艇場行きの無料バスを黒崎バスセンターで待っていた。この場所はさして広くもない、A競艇場行きの無料バスの発着所だった。
 バスセンター広場には競艇場通い特有の猥雑
(わいざつ)な雰囲気が漂っていて、それがそっくり、競艇場の騒(ざわ)めきを此処へ出張した感じがあった。
 此処に集まった人の渦はさまざまだが、多くは予想紙を開いたり、赤鉛筆を握っていると云った、よく競艇場で見かけるあの風景であり、ただ彼等に共通しているのは、今日のレースで、何とかひと儲けてやろうと企んだ、脳裡
(のうり)を灼(や)き尽くすような烈(はげ)しい煩悩(ぼんのう)が誰の眼にも漂っていた。もちろん私も、焦げるような煩悩を持った一人であった。

 この日は、日曜日だったと記憶している。そこへ、見たことがあるような、派手な赤い高級車が道路の向こう側に止まった。

 (まさか!あの車は由紀子のでは?)と内心思ったが、その「まさか!」であった。
 どう考えてみても、私の知っている曾
(かつ)ての由紀子の行動から考えて、由紀子らしからぬ行動である。一瞬、怪しみ、そして一応は否定してみた。頭を振って、その幻を追い払った。由紀子でないと思い直した。それで由紀子は消えたが、やはり由紀子では?……という思いが消えなかった。

 すぐに思い直すと、やはり由紀子かどうかが気になるのである。
 もっとも由紀子だとしたら、やはり私の知らない処に、奇異
(きい)な一面もあるに違いない。そうした女の一面を私が知らなくても、不思議ではあるまい。男と女は、そもそも生理機能が異なるばかりでなく、思考も行動も異なるからだ。

 その時である。
 由紀子が車の窓を開けて、私を「岩崎君!」と大きな声で呼ぶのである。
 何処となく世間知らずで、お節介な彼女に、人前での気後
(きおく)れというものは全くないらしい。
 (みっともないなぁ、こんな処で……。岩崎君!と呼ぶことだけは止めて貰いたいものだ)と、ほとほと気後(きおく)れのしない彼女に呆(あき)れた。空惚(そら‐とぼ)けて気付かない振りをして、反対側を向いて知らん顔をしていた。すると再び大声で「此処よ。何処見てるの、岩崎君!此処……」と叫び、今度は私に手を振っている。車の窓を開けて、喚(わめ)いているのだ。
 それが呼ぶのでなく、喚いているから始末が悪かった。


 (アチャー……、恥ずかしかー)無言の博多弁が飛び出していた。
 手に持っていた競艇新聞で思わず顔を隠した。しかし、こんなことで諦めるような彼女ではない。
 すると今度は「岩崎君〜、岩崎健太郎くん〜。此処よ此処」と、更に声を張り上げるのだった。
 それもフルネームである。全く気後れもせず、周囲の迷惑も顧みず、フルネームで呼びつけるのだった。
 彼女の辺りを憚
(はば)らない呼び声は一層大きくなり、バス停で乗車待ちをしている人を振り向かせる程であった。
 こうなれば知らん顔は出来ない。恥ずかしいどころではない。公衆の面前で大恥をかかされているような、最悪の恥ずかしさだった。それだけに私は小心なのであった。超小物だったのである。

 (呼ばれているのは俺なんだ)と、人差し指を自分の顔に指してみた。
 競艇仲間のオヤジどもが、横目で私をジロジロ見る。“お前の名前、岩崎健太郎と言うのか”という、やや見下した眼で、世にも不思議な生き物を眺めるように見るのだった。
 偶然とはいえ、寄りによって、何とまずい処に現れたものだ、と思った。

 彼女の旋毛曲
(つむじ‐まが)りの呼び声には、些(いささ)か閉口させられた。この儘(まま)では、周囲の人から一斉に注目を浴び、わが身一身に受けている恥かしさだけが先走って、私の立場としては非常にカッコ悪いのである。
 公衆の面前で、先ず、彼女を黙らせることが先決問題なのだ。
 そう思うと一先ず、道路の向こう側に渡って駆け寄り、由紀子の車に近づいて、世間話しの一つもしなければならないのだ。
 私は強引に車を避けながら道路を横切ったのだった。

 「やあ、奇遇
(きぐう)ですねェ」
 「お乗りになりませんこと」
 「はあ……」
 一瞬の躊躇
(ちゅうちょ)が伴った。
 「さあ、どうぞ」
 彼女の車に乗るのは初めてではないが、薦
(すす)められている以上、こうなったら乗るしかなかった。お行儀よく座って、世間話の一つや二つしなければならないのである。
 車の助手席に乗った途端、運転している彼女の脚にまず眼が行った。そこに眼は釘付けになった。彼女のスカートが前より一段と短くなったように思った。

 当時、流行のミニスカートから伸びた二本の形の良い脚が、艶
(なま)めかしい。一瞬、ゴクリと唾(つば)を呑みそうになり、もう少しで、「ごっつあんです」と声を出しそうになった。
 彼女の張りのある、潤いを持った脚は、ドッキと震
(ふる)えるような艶(なま)めかしさと、妙な迫力があった。また、見えそうで見えないところが、更に好奇心と助平心を煽(あお)った。
 そしてこんな処が、色情家の私の助平根性の一面と思うのだが、横に美人がいて、それもミニスカートから艶
(なま)めかしい脚が、眼を抉(えぐ)らんばかりに伸びていて、こんなとき眼の遣(や)るところが他にあるだろうか?
 人間の眼は、道元禅師が言ったように「汝
(なんじ)眼に誑(たぶら)かされる」と指摘する通り、誑かされるばかりでなく、久米仙人のように墜落すらさせてしまうのである。これが肉の眼の恐ろしさだった。

 まさに吉野川上空を飛行中の久米仙人
(くめ‐の‐せんにん)の心境だった。この仙人の墜落した気持ちが分からない訳でもなかった。まったくの同感だった。
 『今昔物語集』や『徒然草』などによると、久米仙人というのは、俗に久米寺
くめでら/奈良県橿原市にある真言宗の寺で、久米仙人の創建と伝えられ、白鳳時代後期に成るという)の開祖と伝える人である。
 大和国吉野郡の竜門寺に籠
(こも)り、行(ぎょう)を積んで仙人となったが、飛行中、不覚にも吉野川に衣を洗う若い女の脛(はぎ)を見て通力を失い、墜落したのである。それほど女の脚は艶かしい。脚自体が艶かしい妖怪である。脚が男を惑わすのである。
 その意味では、由紀子の美形もご多分に漏れなかった。
 こう見えても、私は無類の女好きである。女の色香に弱いのである。魅惑され易い。私は女に弱いというより、由紀子のような、この手の美人に弱いのである。惑わされる。そして遂に顛落の憂き目を見る。その意味では、まさに久米仙人然であった。
 久米仙人は、かつてにわが身を戻すために、以降、苦慮の連続だった。
 神通力を取り戻すために、かなりの苦労と時間を要し、都造りの材木運びの際に、漸
(ようや)く通力を取り戻し、その御褒美(ごほうび)によって免田(めんでん)三十町(さんじっ‐ちょう)を得て、久米寺を建てたというのである。
 漁色家で、色情家である私も、久米仙人さながら、ミニスカートから伸びた由紀子の脚を見た途端、色情地獄に墜落しそうであった。彼女の脚だけが、何か別の生き物のようであった。
 しかし、私と久米仙人の違いは、辛うじて墜落を食い止め、私を制御したのは、子供の時から染み付いた貧乏人の意地であり、「武士は喰
(く)わねど高楊枝」の、愚直なる“痩せ我慢”であった。

 「何処に、お行きになるの?」
 「今から、出勤です」
 「そのファッションからお察しすると、随分と変わった処に、お勤めされているのですね」
 恐らくこの言葉は、私の風体から判断したものなのであろう。あるいは侮蔑
(ぶべつ)を含んだ皮肉なのだろうか。
 この会話の最中、無料バスは発車してしまった。

 (しまった!ああ……あァ、バスが……)と思ったが、既に遅かった。

 頭にタオルで捩
(ねじ)り鉢巻(はちまき)をし、耳に赤鉛筆を挟み、競艇新聞を手に持って、革ジャンを肩に羽織り、腹巻きの中に数枚の千円札をねじ込んで、作業ズボンに雪駄(せった)履きという奇妙な出勤姿は、世界の違う雲の上のお嬢様には無縁なものなのである。そして、自分の出勤姿を見ながら、(俺も落ちたな)と思った。

 「お勤めされている処まで、お送りしますわ」
 また、由紀子の例のお節介が始まった、と思った。どうやら世界の違う、高次元の領域に住む高等生物の彼女は、低次元の下等動物の領域を好奇の目で捉
(とら)えたらしい。
 内心、
(この女に来るなと言っても無駄であろう。バスが発車してしまった今、途中で降りると言ったら、第七レースからの投票は間に合わない。もしかしたら、残りの全レースに間に合わないかも知れない)という不安があったので、この儘(まま)乗せて貰うことにした。由紀子も競艇場の中まで付いて来るだろうなと思ったら、そのようになった。
 駐車場は、ほぼ満車で、スペースが少なかったが何とか奥に止められた。
 「うあー、変わった処。大きなプールがあって。いったい此処、何処ですの?」
 由紀子が競艇場の巨大プールに感嘆し、無邪気
(むじゃき)な叫び声を上げた。彼女にとっては、余りにも自分の世界と掛け離れた風景が、その眼に映ったのであろう。

 内心、私は、
(馬鹿か。ここはボートレース場じゃ、こんな処も知らんのか)と言いたかったが、彼女の異次元世界での育ちは、こんな処を無縁にしているのだ。

 A競艇場は、川を塞
(せ)き止めた大きなプール型の溜め池で、他の競艇場のように海等の海浜を利用して出来たものとは違っていた。
 この日の勝負は連続2レース擦ってしまった。裏目に出てツキてない。混乱して苛々
(いらいら)していた。
 競馬、競輪、オートレース、競艇と、それぞれのスタートには、レース特有のスタートがある。
 例えば競馬の場合は一斉にゲートが開いて飛び出す形になっているため、視覚的にも素人には分かり易い。しかし競艇の場合は、作戦の展開や選手特有の思惑があって、特異なスタートがあり、これは非常に頭脳的である。そして競艇の場合は、最初の一周で勝負のケリの付く場合が多い。

 昨日のヤクザ者の男が私の傍
(すば)に来て、また声をかけた。
 「兄さん、ツキがないようじゃのう。ところで、今日は上玉のスケ、連れてきとるやないけ」とガラ悪く話しかけてくる。私が何処かで、上玉の女を弄
(もてあそ)び、巧妙に騙(だま)して「すけこまし」でも働いたという言い方だった。由紀子を私が弄(もてあそ)んだ女と検(み)たのだろうか。それだったら全くの御門違いである。
 これを聞いた由紀子は、その男を不安そうな眼で見ながら、私に寄り添ってきて、
 「あの方、どなた?岩崎君のお知り合い?」と訊いた。 
 「いいえ、知らない人です」
 「そう……」
 彼女は、初めての処に来ている為か、私の腕に縋
(すが)りついて、十七、八の女学生のような好奇心でこの場を捉(とら)え、何となくワクワクして、莫迦(ばか)にはしゃいでいる様子だった。そのあどけない女学生のような匂いを、振り撒(ま)いた仕種(しぐさ)が、また何とも可愛いかった。
 そして汚れを知らない、純真な乙女のように無邪気さが漂っていた。
 これがいつもの私の勘?を狂わしている原因かも知れないと思った。不思議と、どのレースも取れない。次から次へと、ボロ負けする。なぜだ……。悔し紛れに艇券
(ふなけん)を破って宙に放り揚げた。

 艇券を破るのを見て、
 「どうして破ってしまうの?」と訊いた。
 「外れたからです」
 新聞を読む振りをして、それを聞いたヤクザ者が、
 「兄さん、今度もスッたようじゃのう」と、一々私に絡み付く。一瞬いらんお世話と思う。
 そして最終レースを迎えた。
 これで外れれば、スッテンテンである。投票場に由紀子を連れて艇券を買いに行った。

 その時、由紀子が、
 「これって面白そう。あたしも買ってみようかしら……」と、出し抜けに言い出した。
 「買っても、中々当たるものじゃありませんよ」
 「じゃあ、どうして岩崎君、お買いになるの?」
 螺子
(ねじ)の外れた質問に、まともに答える気持ちも起こらない。
 由紀子のこの“突っ込み”に一瞬ムッとしたが、彼女は初めてなのだから、一々噛
(か)み砕いて競艇場のシステムとルールを説明しなければならないという冷静さが残っていた。そして彼女は頭の何処かで、この大人の博奕(ばくち)と言う“火遊び”を懸命(けんめい)に理解しようという思考が働いていたようだった。

 「あのですねェ……」
 「なあに?」
 彼女が、私の言葉を受けて返した返事は意外と冷静であった。
 「競艇は六漕で競うものなのですよ」
 「それで?……」興味を抱いたような訊き方をしたのだった。
 どうして私がこんな説明をしなければいけないんだと思いながらも、こんこんと諭
(さと)すように説明したのである。
 「連勝複式では、当たる確率が三十六分の一なのです。三十六通りの組み合わせから条件を満たすものを拾い上げていくのです。要するに、数学的確率を、各選手の今日までの戦勝成績と、その選手の癖や性格を分析して、当たると思われるものを検討します」
 「ふんふん……」
 納得したように相槌
(あいづち)を打つが、理解のほどは不明で、これが何とも頼りない返事だった。
 「いいですか、競艇は6レースまでが連勝複式で、7レース以降が連勝単式なのです。連勝単式はこれまでの連勝複式と違って、例えば1〜2と買ったら、2〜1と入っても、当選という分けにはいかないのです。一着と二着を正確に当てる必要があるのです。レース後半の方が難しくなるのです。
 更に選手間の癖や戦歴、これにその日の天候や気温が加わります。これらを加味して当たる確率条件の高いものを冷徹に洞察します。それを更に吟味して、長年の勘と経験で、この新聞に書かれた情報を分析し、緻密
(ちみつ)な予想を立てて艇券(ふなけん)を買うのです。したがって盲(めくら)買いの人より、当たるか確率が高いのです」
 分かり切ったことを一々説明するのは、顎
(あご)がだるくて面倒だ、という答え方をしていた。
 「でも、長年の勘と経験で、冷徹に情報を分析するわりには、今まで買った艇券が全部外ずれているじゃありませんこと」
 彼女の切り返しは手厳しかった。そして尤
(もっと)もだと思った。しかし、彼女に押し捲(まく)られるのも口惜しかった。
 「それはですねェ。いつもの霊妙
(れいみょう)な勘と、いつもの調子が狂っているからです」
 「変な、負け惜しみ……ですこと」と言いながら、由紀子は何かの組み合わせの艇券を買ったようだ。
 私も散々迷い抜いた末、有り金を叩
(はた)いて、固くて安全なところを買った。連続の惨敗で弱気になっていたのだ。

 投票口の小さな窓が一斉閉まり、投票時間が締め切られた。
 私は買ってきた艇券をしっかり握って、両手を組んで祈った。“神さま仏さま。どうかこのわたくしめに、最後のチャンスをお与え下さい……”と一心に念じた。
 “もし今日、これをスルと、明日から生活が出来ません。何とか立ち行くようしにて下さい。どうか神さま仏さま。もし、わたしくめの願いを聞き届けて下さいましたら、今後は心を入れ替えて、酒も断ちます。女も断ちます。どうかわたくしめに最後のチャンスと幸運をお与え下さい”それは、全身全霊を挙げての切なる願いだった。
 天を仰ぎ見ながら、あたかもカトリック教のチャペルで跪
(ひざまず)き、懺悔(ざんげ)するように、私の両手はしっかりと組み合わされていた。

 そんな姿を見た由紀子が、「岩崎君て、見掛けによらず、随分と信心深んですね、こんなところに来てまでお祈りするなんて」と頓狂
(とんきょう)なことを言い出した。
 「えッ?!……」
 「岩崎君って、クリスチャンか、何かなの?」
 「違いますよ、ただ念じただけです。天に通じるように念じただけですよ」
 「あたくし、岩崎君が敬虔
(けいけん)なクリスチャンかと思いましたわ。考え違いして損しちゃった」
 「?…………」
 (馬鹿も休み休み言え。どうして俺がクリスチャンなんだ。こんな雪駄履きで、皮ジャンの不届きなクリスチャンが何処にいるのだ)しかし私の反論は言葉にならなかった。

 プール中央にある大時計の秒読みが始まった。六艇のエンジンの音が、けたたましい音を上げている。一斉にスタートを切った。
 艇券を握りしめて、心の中で「いけ!」と大声を張り上げていたが、僅か一週目で勝負は付いた。またもや外れてしまった。会場から、どよめきと溜め息が上がった。
 一方、冬空の中、ありらこちらで破れた艇券が桜吹雪のように宙を舞う。これで私が、掻
(か)き集めた道場の月謝を1円残らず遣い果たした。要するに私の大事な“虎の子”は、全て玉砕(ぎょくさい)したのだった。

 そのとき「あたしの勘、当たったみたい」と由紀子が艇券を見せた。バッチリ来ていた。素人はこれだから恐ろしい。
 中央正面にある電光掲示版に配当金が掲示され、再び会場からどよめきが上がった。
 約十倍の配当になった。意外な大穴だった。一度は考えついた組み合わせだが、小心者の私は怕
(こわ)くて手が出せなかった連券である。しかし今となっては、もう遅い。後の祭だった。

 「此処で待ってらして。あたし、これ、替えてきますから」
 初めての処でありながら、もうしっかりと競艇場の勝手を覚え込んでしまったようである。由紀子は交換所に向かった。
 私は、彼女を見て、私より莫迦
(ばか)に経済感覚が発達しているではないか。そんなことを思い浮かべながら苦笑を趨(はし)らせていた。やはり金持ちは、その金持ちたる所以(ゆえん)が、経済感覚の発達に源泉があるのではないか、と思わずにはいられなかった。
 逆に貧乏人は経済感覚の疎
(うと)さから、いつまで経っても貧乏から抜け出せないのではないのか。そんな軽い反芻(はんすう)が、脳裡(のうり)を交錯していた。

 この時、また、ヤクザ者が声を掛けた。
 「兄さん、今日はツキに見放されて駄目だったようじゃのう」絡み付くように云うのだった。
 「そのようです」と、がっかりした声で言うと、
 「いい仕事があるんやが、手伝う気ないかのう?」
 その言葉は、私を急
(せ)かすようなものだった。鎌を掛けた言葉であり、粘着性の籠(こも)った纏わり付く言葉だった。
 この男は、実に、この事を昨日から言いたかったのである。それを辛抱強く、私が一文無しなるまで待っていたようだ。私は既に以前からマークされていたらしい。そして、一文無しになった今、私に再び声を掛けたという訳である。
 「やってみましょうか。幾らです?」
 私は何も考えずに、もうこうなったらどんな仕事でも金になるのならやってみようと思っていた。金が喉から手が出るように欲しかった。
 「一日、百万だ」
 「一日、百万……ですか?……」
 一瞬上ずった。法外な金額に上ずったのだった。その上ずりが、また私の声を裏返した。
 するとヤクザ者は、何を思い直したのか、
 「いや、半日で百万だ」と考えるように言い直したのだった。

 ギクッとして、
(やばいな)と思いながらも、聞くだけ訊(き)いてみようと思った。
 「危ない裏仕事でしたら《前》
(前科)ありますから出来ません。それに執行猶予が未だ消えていません」
 「ほうッ〜、兄さん、《前》あるんかい。何やったんかい?」
 「傷害です」
 「素手でかい?」
 「いいえ、長刃
(なが‐どす)を持っての、一対一の果たし合いです」
 「ヤッパ
(短刀または30cm程度の脇差しをいう)でかい?」
 「はあ……」
 ヤクザ者は一瞬息の止まったような顔になった。
 しかし一呼吸置いて、
 「まあ、いい……。面白い処
(ところ)に案内するぜ。わしの後を蹤(つ)いて来な」と吐き捨てた。
 ヤクザ者は、私をどのように理解したのだろうか。

 そのとき由紀子が戻って来た。千円が一万円程に化けたという。嬉しそうな顔で答えた。この金で、後で私と食事をしようというのだ。

 私は誘われる儘
(まま)、ヤクザ者の後を蹤(つ)いて行く他なかった。
 しかし、由紀子をどうしょうかと思っていた。
 彼女をこの場に待たせて、置き去りにすることはできない。こんな柄の悪い狼だらけの競艇場に、由紀子一人をほったらかしにしたら、攫
(さら)われることはないにしても、狼どもに絡まれて大変なことになる。あるいは啖(くら)われるかも知れない。
 ここには金銭欲、物欲、それに性欲が渦巻いているのだ。いい女は、チンピラから絡まれて、其奴らの餌食
(えじき)になって行く。由紀子にもそんな懸念があった。
 また彼女は、こんなところに、全くと云っていい程、免疫
(めんえき)というものがないのである。全てが鷹揚(おうよう)なのだ。彼女はこういう場所でも、人を疑うということを知らないであろう。それだけに警戒心も皆無の筈だ。
 もともと、彼女がこんなところに居ること自体が場違いなのだ。場違いなものは、狼どものターゲットにされる。この構図が見えていた。
 易々と口車に乗せられるかも知れない。まんまと騙されて罠に嵌められるかも知れない。もしかすると彼女は、人間総てを、皆善人に見ているのかも知れない。そういうところが危険だった。

 「渡る世間に鬼はなし」という俚諺
(りげん)通り、生まれつき良い環境に恵まれた彼女のことだ。狼を狼と見ないであろう。彼女は狼を知らない純心無垢(じゅんしん‐むく)な《赤頭巾ちゃん》なのである。
 世間知らず……。彼女はそれだった。
 自他との環境の違うところが理解できない。そういうのを世間知らずという。
 ある意味で理解できないということは、実に美しいことだ。
 天真爛漫
(てんしん‐らんまん)で純真な、天使のような魂は最初から悪を理解する能力を持たないのである。だから私の傍(そば)から離れて、万一のことがあったら大変だと思っていた。それで、彼女も連れて行くことにした。言われるまま、私と由紀子はヤクザ者の後に従ったのである。


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