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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 10


 ─────とうとう、今日で一週間目に入った。肉が落ちた為か、ズボンのベルトの穴が、全く合わなくなってしまった。時々腹痛に襲われ、便所に駆け込むのだが思った程の排便がない。この頃になると、頬(ほほ)がこけて食事をとってないことが誰の目にもはっきり分かる様になった。そうでなくても、何かの病気に罹(かか)っているのでは?という目で見られていた。

筆者の教員時代

  職員室で同僚の女の先生から、
 「岩崎先生。何処かお躰でもお悪いのですか?」などと訊かれた。
 「いいえ、別に……。たいした事ではありません」という単調な返事にとどめ、その真相を語らず、断食をしていることを誤魔化していた。
 人と言葉を交わす事が面倒になっていた。躰がすっかり衰弱しきっていた。階段の上り下りは、手摺
(てすり)に捕まって行動しなければならない程、衰弱しきっていたのだった。

  暫
(しばら)くするとホームルームの時間に、少し変化が現れて来たことを感じた。
  以前のようなザワつきが殆どなくなり、生徒の服装が少しずつ“まとも”になり、派手な化粧が薄化粧になっているような気さえした。それは断食によって齎
(もたら)された、眩暈(めまい)から来る眼の錯覚であったかも知れないが……。

 十日目になった頃、腹痛と共に激しい頭痛に襲われて頭を押さえ込んで、その場に蹲(うずくま)ってしまった。酷い低血圧に陥って、眼が眩(くら)んでまともに歩けない。それは長時間の入浴によって、風呂の中で起こす、あの貧血から起こる立ち眩みによく似ていた。
 その時、ホームルーム議長をしていた生徒が駆け寄って来て、「岩崎先生。もう、こんなこと止めて下さい。わたしたち、先生の言うこと聞いて、“まとも”になりますから……」と言ってくれた。

 私は心で
(嬉しいことを言ってくれるじゃないか)と思ったが、ここで喜べば、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻りそうなので、一層オーバーにふらつきながら、彼女の腕に抱かれて教室に入った。

  入って「おーッ」と思った。どの生徒も普通の女子高生に変身しているではないか。クラスの殆どの生徒のセーラー服が規定の標準制服に戻り、どこのお嬢様学校なのかと眼を疑った。この時始めて私は、彼女たちの化粧をして居ない素顔を見た。どの顔も少女のように愛らしかった。そして私は赴任した当日、怕いガンを飛ばして悪態をついた佐藤みどりも、この中に入っていた。
  私の断食は、とうとう十日目に効果を現し、彼女たちはこの日から私に耳を傾けてくれる様になった。

  この事が、やがて校長に知れることとなり、美談として職員会議や朝会にとりあげられた。
 校長の家に夕食を招待されたことがった。この学校は、この校長の祖母が創立したもので、この人で三代目であると言う。この人の三女を嫁にどうだと進められたが丁重にお断りした。美人でないと言うこともあったが、私には想い人がいたからである。

  さて、私の担当するクラスのことであるが、それからというものは、授業態度も見違えるように良くなり、勉強に対する興味を殆どの生徒が感じ始めていたようだ。そして、言葉使いまでが変わってしまったのは驚きであった。
 彼女たちは、元々小学校高学年の時に落ちこぼれており、殆どの子が分数計算ができなかった。したがって式の移項などできる筈がなかった。
 学力は小学生程度かそれ以下で、総ての点で劣っていた。中学入学当初に習うアルファベットを書けない子や、小学校の国語に出で来る漢字などが読めない子が多かった。

  私も曾
(かつ)てそうであった。脳裡に、一瞬あの時のことが鮮やかに蘇(よみがえ)る。
 そんな彼女たちに対して、私は奮闘の情熱を燃やしていたのだ。

 授業の度に、私はこう言って、彼女たちを励ました。
 「勉強は、《出来る》のではなく、自らが《する》のだ」と。
 そして彼女たちは何らかの反応を、その言葉に感じたようだった。

 「世間には《やれば出来る》と言う言葉がある。しかしあれは嘘だ。瞞
(まやか)しだ。怠け者を作る瞞しの言葉だ。《する》こともしない者が、どうして《やれば出来る》という希望的観測で事が成就するのだ。
 《やれば出来る》という瞞
(まやか)しに誑(たぶら)かされることなく、基礎から徹底的に積み上げていこう。解らないことは、恥ではない。それを知らないこと、訊かないことが恥なのだ」
 この言葉に、些
(いささ)か勇気付いた彼女たちは、私の後を蹤(つ)いて歩き始めたようだ。

 数学の時間には、高校の範囲を一切やめて、小学校五年生で習う分数計算を第一に指導した。
 通分の仕方。最大公約数や最小公倍数の見つけ方。素因数分解のし方。共通分母にして計算する方法。文字式や式の移項の仕方。この内容のものが出来ると、次は中学の範囲に入っていった。図形の範囲は後回しにして、まず式の計算が出来る様にした。それが出来た上で図形範囲に入り、円と円周角。三平方の定理を指導した。
 文字式。式の展開。連立方程式。乗法公式の暗記。因数分解。平方根。二次方程式の解き方。

 この頃になると、出来る子は高校範囲の因数分解や大学受験の計算式にまで手を出している子がいた。更に、二次関数、三角関数、三角方程式、指数、対数、その図形問題まで進めた。そして、一気に、基礎解析の範囲の微分・積分の域に迄達していた。

 殆どの生徒が、この授業に蹤いて来てくれて、解らない時には、職員室の私の席まで質問に来るという、私一人の大盛況ぶりであった。中でも佐藤みどりは、質問攻めの信奉者で、白熱した質問を私に浴びせかけて来た。他の先生は、この光景にあっけにとられていたようだ。
 今迄とは違って、化粧をしてない素顔の佐藤みどりの貌
(かお)は美しく、その眼は美しく澄んでいた。まさに何か憑衣物(つきもの)が落ちたという感じだった。
 それにしても、この女番長は何と言う変わりようだろうか。そして以前の彼女と同一人物であると言うのが不思議でならなかった。
 しかし佐藤みどりは、何故こうも私に、食い付くように質問攻めばかりをするのであろうか。

 理科は生物の暗記範囲は兎
(と)も角(かく)、遺伝子の範囲や、メンデルの優性の法則を元にした分離比、進化論、染色体、DNAとタンパク質合成などを指導した。

 物理と化学の範囲は、全く壊滅状態であった。物理は最初の部分に出てくる運動法則の全ての公式を暗記させ、等加速度運動から始まって、ニュートンの万有引力の法則やケプラーの法則まで出来るようにした。

 化学は教科書の扉にある、化学記号を覚えさせ、その確認のテストを何度もやり、周期表の暗記を徹底させた。例の、「水、兵、リ、ベー、僕の、船、……」
(水素、へリウム、リチウム、ベリリウム、ホウ素、炭素、窒素、酸素、フッ素、ネオン……の順で、原子量の小さい順に並んでいる)というやつである。
 そして周期表には原子量の質量数の小さい順に並んでいることを教え、その番号と核を取り巻く格外電子の数がほぼ一致することを教えた。更に、価数表を暗記させ、それぞれの質量数と原子番号を覚えさせた。これを覚えることによって、原子の外殻に持つLMNの電子の個数を知ることができるのである。
 また電子殻に入りうる最大電子数が分かり、K殻では2個、L殻では8個、M殻では18…2n
(二乗)個となる電子配置が分かるのである。

 これによって中学の時に理解できなかった、イオン反応式が容易に理解できる様になったのである。更に、アボガドロ数や質量数、化学式やモル計算もできる様になり、理科Ιの範囲を全て終了した。

  この頃になると、かなりの学力になっていた。その辺の県立の進学校の、どん尻の生徒より、余程ましだと思った。
  結局、彼女たちは頭が悪かったのではなく、勉強する習慣と環境に恵まれず、学力が不足していただけのことである。やるべき時に、やらなかっただけであった。
 そして、私のクラスは乗りに乗り、更に盛り上がった。私は夏休みを返上して彼女たちに賭
(か)けてみることにした。もし、この儘いったら、一般受験による大学入学が可能になるのではと思ったのである。
 そして、夏休みにも熱の入った授業が行われた。彼女たちもよく蹤いて来てくれた。

  知的な面が光っている女性は素晴らしいと、この時改めて、彼女たちを見て感じたのである。この時程、彼女たちのセーラー服を見て、眩
(まぶ)しく感じたことはなかった。そして誰もが輝いていた。

 知的な面が輝いている女性と、そうでなく、いい男と見ると、やたらめったら、たやすく誘いに乗る薄っぺらな女との決定的な違いは、意識において、その次元に違いがある。
 ただ“見て呉れ”だけで、表皮しか問題にしない女は、一般的にファッションや流行に流され易く、頭の中が薄っぺらである。そして次元が低い為に、自意識が確立されていない。

 逆に、自意識が強過ぎても困りものだが、兎に角、相手の次元に自分を落とし、低俗な話題に振り回されて、変に姿勢を崩し、女と付き合うのも、中々骨の折れるものである。
 しかし相手の次元に、自分を無理に落とさずに済むと言う点においては、やはりある程度の知的な面が輝いていないと、付き合っても安堵を覚えないものである。ある意味で、女性は安堵
(あんど)を与えてくれる人でなければならない。

 私には、僅かな期間であったが、ドン底の最下位からある程度の次元まで、彼女たちを引き上げたと言う自負があった。
 これから数か月後、私は、この学校を去っていくが、後にも先にも、この学校から唯一人東京のT女子大に一般入試に受かった生徒がいた。彼女が女子大時代、東京で何度か会ったが、以前の不良少女の面影は何処にもなかった。
 また私に質問攻めを浴びせかけた、かつて強
(こわ)持てで女番長の異名をとった佐藤みどりは、その後、福岡県立のF女子大へと進み、卒業後、自分の母校の数学の教師となった。そして彼女の知的な面だけが美しく輝いていた。女が知的になると、美人にもなるようだ。

 私の発見した法則は、女性が知的になると美人になるという法則であった。




●私の道は何処にありましょうか

  M女子高校に赴任して、その年の夏休みも残り少なくなった頃、授業の合間を見て、久々に山村師範を訪ねた。

 「お前、高校の教員になったそうやのう。仕事は面白いか?」
 「面白いということはありませんが、相手が女子高生なので、大変気を遣
(つか)います」
 「何じゃと?お前。よりによって女子高校に勤めているのか。とんでもない奴じゃのう。油断も隙もないとは、この事じゃ」
 「あのですねェ、先生。私の勤めているところは……」と云いかけて、坐り直して状況を報告しようとしたら、この爺さまは、ますます調子づいて、「お前は、女には手が速いからからのう。直ぐに、何でもかんでも、青田狩りをする悪い癖があるからのう」と、とんでもない事を言い出した。
 私は精一杯、抗
(あらが)う気持ちを露(あらわ)にして、
 「あのですねェ……」
 「だまらっしゃい!」と私の言い訳など聴きたくないと言う、口調で遮った。
 しかし、これも面白半分、冷かし半分で言った事だろう。

 「私の学校は、先生が想像しているような学校ではありませんよ」
 「じゃ、どんな学校じゃ?」
 「だだの、女子高です」
 「その女子高が問題なのじゃ。お前にとっては……」
 「私のことを変に想像しては困りますねぇ。私は、此処で仕事をしているのですよ」
 「どんな仕事じゃ。まさか、女に手を出しとるんとちがうか?」と言いながら、何処となく卑しい目で、私の顔を斜め下からジロリと覗き込んだ。

 私はそれを否定するように、ムキになって、
 「そんなこと出来ませんよ。第一、教師がそんなことしたら、世間の笑われものですよ。それに、私の学校は手を出すような、上等の女はおりませんよ」
 「上等やなくてもお前は、直ぐに女と見たら、手当たり次第、片っ端から手を出しおるからな。全く困ったものじゃ」
 「あの、そんなに人を色気狂いのように言わないで下さい。知らない人が聞いたら、本当と思うじゃありませんか」
 「お前の場合、知ってる人が聞いても、嘘とは思うまい?」
 ああ言えば、こう言うであった。

  私は自分の何処が困ったものか、逆に反論したかった。
 こんな会話が続いて、私は山村師範に、女子高と言うだけで羨
(うらや)ましく思われたのである。この爺さまは、何故か、女子高生と聞けば、見目麗(みめうるわ)しきセーラー服の乙女を思い浮かべるようで、女子高生と聞いただけで、異常反応に示す化物(ばけもの)だった。

 しかし、人が羨
(うらや)むように、女子高は、そんなになま易しいものではない。女子高に限らず、学校に勤める常勤教師は皆そうであろうが。
 この学校には当時、非常勤の教師を含めて、男教師はわずか四人しかいなかった。そして常勤は、既に県立高校を退職した六十歳の国語の先生と私の二人だけであった。教科も数学Ι、基礎解析A、基礎理科
(現在の理科Ι)、生物、の四科目を、私一人で、一年生から三年生まで教えるのである。常勤は目一杯、こき使われるのである。
 ここが常勤教師の辛いところであった。

  授業は毎日60分の五時間でびっしりあり、職員室は女ばかりの長老群で占められていたため、自分の身の置き場がなかった。それ程、神経を使い過酷な仕事をしているとは、山村師範にも理解してもらえなかったようである。


  ─────今日は刀剣店に無銘の豊前刀
(ひぜんとう)を研ぎを出すということで、山村師範と久々の外出である。

 山村師範は外出の時、白い修験道の僧衣を着ることが多かった。頭は剥
(は)げていたので坊主である。大蔵(北九州市八幡東区)の街に入ったら、自らの本性が爆発するのか、態度の悪い高校生などを見つけては、それを一々注意するということを、唯一の趣味?にしていた。

 男子は男子で、特に悪ガキのような奴を見つけては、
 「お前ら、煙草を吸っちゃいかんぞ。学生服の襟はちゃんと閉めろ。帽子はきちんと被れ」等と、一人一人の服装などを注意をし、直して回るという、変わったことを平然とやっていた。

  また、女子には、持っていた鉄扇をパッと開いて止め、
 「ちょっと待った。カバンは手に提げなさい」と小脇に抱えている女子高生を注意するし、 口紅を塗っている女子高生に対しては、
 「色気ずくのは、まだ早い。不良のお前に、お母さんが泣いとるぞ」等と言って、手拭いを差し出しては拭き取らしていた。

 また男女で、アベックで歩いている高校生には、
 「一緒に歩くのは十年早い。不純異性行為はしちゃいかんぞ」などと一々釘を刺す。
  だから私も何となく、
(いらん、お節介するな。傍にいる私の身にもなってくださいよ。恥ずかしいたらありゃしない)と言いたくなる程、一瞬この行動に躊躇(ためら)いを感じてしまうのである。
 そんな時である。

  突如、顔の青白い神経質そうな三十歳前後の青年が、山村師範の前に両手を開き、大の字になって、《待った!》をかけた。
 一瞬ハッとする瞬間だった。見ると、写真で見た作家の太宰治のような感じの人である。私は、これは面白いと思った。こういう場合の、対処の仕方をどうするか見たかったからだ。

 山村師範は怯
(ひる)むことなく、堂々とした口調で、
 「ええッ……、私に何かご用でしょうか?」と切り出した。
 その青年は、「あなたはお坊さんでしょうか?」と、問うた答を即座に「そうです」と山村師範が徐
(おもむろ)に切り返し、その返事には一瞬「えへん」と咳払いをしたような重々しい威厳があった。

  その時、山村師範は古神道に通じた神官であり、真言密教や臨済禅などをはじめとする、禅の世界にも通じていた。そして神仙術の大家でもあった。

 その青年が、
  「私の道は、一体、何処にありましょうか?」と一見、禅の答案を思わせるような質問して来た。

 山村師範は暫
(しばらく)く考えて、
 「迷うことはありません。あなたの前にあります。真っ直ぐお行きなさい」と、自らの鉄扇でその青年の前を指し示した。
  この言葉を聞いた青年は、納得したのかしないのか、分からないが、山村師範に深々と頭を下げて、「どうも有り難う御座いました」と言って合掌し、此処から立ち去って行った。この禅問答にも似た質問は、意図も感単に答が出されたのである。

  ここに私は、一瞬この場に釘付けされ、張りつけられたようになった。人生を余すことなく見事に修行し尽くし、常に生死と対決して、生き抜いた達人の域を山村師範から感じ取った。どうしてあんな言葉が咄嗟
(とっさ)に出てくるのであろうかと思う程、この言葉の裏には、到底(とうてい)言葉で言い尽くせない人生の真理の奥深さが息づいていた。

  生にも死にも囚
(とら)われず、生にも死にも、一切の執着から離れて、毎日が安らぎのような澄み渡った達人の一面を、確かに見たのだった。道は自分の前にある。その通りだ。それを迷う事なく、見失わないようにするのが人生の修行なのだ。

 この夜はこれに感動して、柄にもなく心が冴
(さ)え渡り、寝つかれなかったことを憶えている。



●非情な教訓

 教師生活での夏休みも終わりに近付いた八月下旬、五日程、山村師範から奥儀(おくぎ)の特訓を受けたことがある。
  毎日朝4時に起床して、井戸から水を汲み上げて、神殿に備える《お水取り》をやらされた。
 これが終り、日の出に時間を見計らって、山村師範の天津祝詞
(あまつのりと)が始まるのである。

 古神道の祝詞では、謳い時間が約40分位かかるのである。この時間は、私のとっては最も苦痛で、最も退屈な時間であった。足が痺
(しび)れて動けなくなる。
 しかしこれを今考えると、これは足腰の鍛錬法の静坐
(せいざ)のお陰で、随分と精神力と胆力が強化され、長時間の静坐から起こる頭痛と妄念の恐怖から解放されることができたのである。

 奥儀の特訓期間も終わりに近付きつつあった数日前、私は不覚にも風邪をひいて熱を出してしまったことがあった。立つのがやっと、という状態であった。山村師範は、こんな私の状態に一切お構えなく、野外道場に引き立てようとするのである。

  そこで私は、渋々声を発した。
 「今日の私は、体調が良くありません。不覚にも風邪をひいてしまいました。病気ですから、今日一日だけ休ませて下さい」こんな体調で、全く練習意欲がなかったのである。寧
(むし)ろ今日一日だけ、この儘、静かに休ませて貰いたかった。

 そのような私に山村師範は突如怒鳴った。
 「病気であることを口実に、儂
(わし)の教えを断ろうというのか?!」
 「いいえ、そう言う訳ではありません。こんな体調で先生の教えを十分に学び取ることができないので、体調が良くなってからお願いしたいと言っているのです」
 「では、お前は、無法者のような敵が、攻め込んで来て、取り囲まれても、今と同じ言葉を吐いて、今日は病気だから明日にしろと言うのか?!」
 「……………」これには全く言葉がなかった。
 結局、この日は休むことは許されず、奥儀の教伝を受けた。

 真剣での剣の捌きと一刀流の奥の型を習った。
 熱があるためか凄い汗が出てくる。それでいて非常に寒いのである。震えが止まらない。自意識は朦朧
(もうろう)として気力だけで、何とか立っていた。少し位、私の躰を察して、手加減してくれるのかと思ったら、普段より一層手厳しかった。

 これでも、何とか怪我もせずに奥儀の教授は終了したが、この後に今まで、殆ど今までやらなかった掛かり稽古を久しぶりにすると言うのである。私は、この意外な練習に驚いた。何故だと思った。もう、これ以上稽古をしたら死ぬかもしれない、と思っていたからだ。

  私の手には木刀が握られ、それを無差別自在に、山村師範に向けて斬り込んでいくのである。そして技が掛かれば投げられてしまうのである。いつ終わるとも知れない、稽古が延々と続くのである。
 投げられる中、当て身がビシビシと打ち込まれてくる。手加減がない。

 これは想像を絶する苦痛そのものであった。そして、留めの一発の当て身が、私に打ち込まれた。アバラ骨を砕かれたのである。その折れた透き間から腸が飛び出してくる。これを道衣で抑えて、再び、掛かっていかなければならなかった。木刀を握る手が片手半身となり、隙だらけになったところに容赦のない当て身が飛んでくる。

 私はこの直後、気絶したらしい。気が付いた時には蒲団の中に寝かされていた。
 私がこの時、学んだことは、人間の絶体絶命の危機に対して、「待った」は、ないと言うことであった。

 そして、山村師範は稽古終了後、次のように述べた。
 「今日、お前は体調がよくないとか、風邪を引いてしまったなどと抜かしおったなァ?」
 「はい、そのように申しました」
 「これはじゃ。敵から見ると、お前の不運は、敵から見て幸運なのじゃ。誰がこの幸運を諦めて、体調がよくないとか、風邪を引いてしまったという、またとない幸運を誰が捨てるものか。逆にこの機会に、徹底的に攻め込んで叩いてやろうと思うのは、どの喧嘩師も考える事だ。そうは思わんか」
 私は、はッとするいがいなかった。弱味に付け込むのが、人間の習性の本然
(ほんねん)だった。

 武術家にとって、どんな状態においても、変化に応じて臨機応変に動かなければ、後は無慙
(むざん)に敗北して、死ぬしかないのである。

 この教訓から、私はこの十数年後、自分の起こした事業を度々失敗して、自殺しようと思ったことが三回程あったが、その時、この非情な訓練を想い出すことによって、これを克服していった。
 そして、未だ生きて修行する天命が与えられているのである。
 私の武術家としての精神的立脚の基盤は、この時に作られたものである。




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