運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
旅の衣・前編 1
旅の衣・前編 2
旅の衣・前編 3
旅の衣・前編 4
旅の衣・前編 5
旅の衣・前編 6
旅の衣・前編 7
旅の衣・前編 8
旅の衣・前編 9
旅の衣・前編 10
旅の衣・前編 11
旅の衣・前編 12
旅の衣・前編 13
旅の衣・前編 14
旅の衣・前編 15
旅の衣・前編 16
旅の衣・前編 17
旅の衣・前編 18
旅の衣・前編 19
旅の衣・前編 20
旅の衣・前編 21
旅の衣・前編 22
旅の衣・前編 23
旅の衣・前編 24
旅の衣・前編 25
旅の衣・前編 26
旅の衣・前編 27
旅の衣・前編 28
旅の衣・前編 29
旅の衣・前編 30
旅の衣・前編 31
旅の衣・前編 32
旅の衣・前編 33
旅の衣・前編 34
旅の衣・前編 35
旅の衣・前編 36
旅の衣・前編 37
旅の衣・前編 38
旅の衣・前編 39
旅の衣・前編 40
旅の衣・前編 41
旅の衣・前編 42
旅の衣・前編 43
旅の衣・前編 44
旅の衣・前編 45
旅の衣・前編 46
旅の衣・前編 47
旅の衣・前編 48
旅の衣・前編 49
旅の衣・前編 50
旅の衣・前編 51
旅の衣・前編 52
旅の衣・前編 53
旅の衣・前編 54
旅の衣・前編 55
旅の衣・前編 56
旅の衣・前編 57
旅の衣・前編 58
旅の衣・前編 59
旅の衣・前編 60
旅の衣・前編 61
旅の衣・前編 62
home > 小説・旅の衣 > 旅の衣・前編 10
旅の衣・前編 10


人生における夢と言うものは、一方で人間の進歩の原動力となった。しかし他方で、ややともすると却(かえ)って人間の生命を萎縮させ、しばしば人間を絶望の淵の中に叩き落とすことがある。
 夢には諸刃の剣のような二面が備わっているのである。


第三章 教職時代の回想



●当時の時代背景

 私は最初から食えない武術家を志したわけではない。つい昨年まで、歴(れっき)とした高校の教師をしていたのである。正直言って、道場経営だけでは食って行けないのである。日本では、道場経営はあくまでも副業に属するべきものであった。
 道場を運営して行くためには、それ以外の別の職業を持っていて、その運営は余暇を利用して行うと言うのが日本では通り相場だし、また、代々が流派の後継者でない家では、“仕事の合間に道場を”というのが、道場運営の要締
(ようてい)であるようだ。

 しかし何故か、日本人の多くが、日本古来の武術を、それほど高く評価しておらず、スポーツや競技武道や格闘技に比べて、武術は一等も二等に低い存在であるようだ。
 武術と言う響きは試合して、その優劣を証明できないと言うことも然
(さ)る事ながら、この世界には評論オタクという人種がいて、一部の理論には莫迦(ばか)に詳しく、この手合の自称“武術研究家”という輩(やから)が、「便所の落書き」のような評論を、マイナーな武術武道雑誌に投稿することであった。
 それがまた、「便所の落書き合戦」となって悪口の言い合いとか詰り合いとなり、“目糞
(めくそ)鼻屎(はなくそ)を笑う”のレベルで、これを有識者や文化人から一等も二等も低く見られる現実を招いていたのである。演武形式の武術は試合がないだけに、好き勝手な事が言い放題なのである。言ったもの勝ちすらの観がある。見苦しい限りである。

 一方、スポーツは明治以降、知育として教育の一貫として取り込まれ、対等な立場を確立していた。
 体育としてその位置を不同のものにしていたし、競技武道もそれに準
(じゅん)ずる地位を確保して、柔剣道が戦前・戦中・戦後と愛好者の裾野(すその)を広げながら、いまなお盛会を見て来た。
 しかし、武術と言うものは、それほど文化価値も評価されず、一等も二等も低い位置に甘んじなければならなかった。そして、その恥の上塗りが、自称“武術研究家”という輩の「便所の落書き」である。
 この落書きからは、知性と言うものは感じられない。自己中心的で誹謗中傷
(ひぼう‐ちゅうしょう)を好き勝手に喋り、無責任を露(あらわ)にしているだけである。

 この“レベルの低さ”は、ネットスズメが投稿する『某ちゃんねる』でお馴染みであろう。
 この誹謗中傷には、知性もなく、根拠もなく、眼と耳で確かめたわけでもなく、「思い込み」によって、匿名で無責任な論陣を張っていることである。そして世間は、この“お騒がせ”に躍
(おど)り、あたかも自分の眼で確かめない癖に、事実と思い込んでしまうのである。
 裏から見れば、“この程度の人間が、この程度の事で騒いでいるのか”という、有識者や文化人から、一等も二等も低く見られる要因をつくり出していると言えよう。自称武術家イコール「便所の落書きをする輩」と執
(と)られてしまっているのである。

 また、「武術」や「古武術」などと称すると、単に泥臭いだけでなく、危険な軍国主義に繋
(つな)がる悪しき文化遺産と、1970年代までは思われていた。右翼思想の“最たるもの”と思われていたのである。
 そしてこの時代、日本全土は革命一色に包まれた時代であった。

 私が大学に在学した間、その当時の世の中は、共産主義革命を夢見た若者で溢れていた。戦後生まれのベビー・ブーマーは、熱病に罹
(かか)ったように、共産主義に取り憑かれた。
 昭和四十年代は大学入学から卒業に至るまで、革命の嵐に吹き晒
(さら)された時代である。全共闘が荒れ狂った時代である。
 大学の至る所で、不正・不法に占拠された構内の学舎では、解放区が造られていた。何を解放するのか知らないが、至る所を「解放区」として、勉強もしない学生達が占拠して、浅はかで意味不明なマルクス論を展開し、訳も分からず、朝から晩まで拡声器を遣ってガナリ立てていた。
 このガナリ立てる輩
(やから)には、マルクスとエンゲルスを、同一人物と思ってフルネームが「マルクス・エンゲルス」と思い込んでいるバカ学生もいた。
 そして彼等は二言目には「革命」を口にし、日本を共産主義革命で、差別のない平等な社会を造るのだとガナリ立てていた。それがマルクスの空想した虚構理論であることも知らずに……。
日本中は革命一色の嵐の渦にあり、ベ平連などが大暴れしていた。そして不穏な動きに一つとして、過激派分子による「国際反戦デー」が企てられていた。
 デモに参加した多くの学生や労働者は、共産党特権階級から酷使された底辺の微生物分子だった。

 当時、世の中は学生運動たけなわのころで、「共産主義者で非
(あ)ずんば、人に非ず」の時代であった。
 組織された全学連のデモと、官憲の間に、果てしない暴力が応酬
(おうしゅう)が繰り返され、世は革命一色で、日本全体を覆(おお)わんばかりの勢いであった。また、大学紛争に際し、諸大学に結成された新左翼系ないし、無党派の学生組織の全共闘が猛威を振った時代でもあった。破壊できるものは徹底的に破壊し、革命の為の暴力が肯定された時代であった。革命のための破壊や暴力は、この時代、絶対正義であった。そして朝日新聞や朝日ジャーナルが暴力革命の正義論を打ち立て、日本の若者を左寄りに誘導した。

 アメリカがベトナム戦争の泥沼で苦悩していた時代であり、日増しに全学連と警察が、その実力闘争を激化していた時代である。これを機に、アメリカのヒッピー思想に共鳴して、全国に反戦団体が次々に作られ、その闘争の中心課題である「国際反戦デー」に向けて、着々と用意周到な準備が進められていた。「べ平連」なども、その一つである。

 またアメリカが、ベトナムの足枷
(あし‐かせ)に苦しんでいる時、これを好機として、日本国内では、反政府運動の声が高まり、モスクワ放送や中国人民日報等を通じて、日本は共産国陣営の間接的侵略の異常事態を招こうとしていた。
 もしこの時、ソ連と中国が協力し一枚岩となって一体化して、間接的な思想侵略をしていたら、日本は恐らく今日の面影は全くなかったと言っていいだろう。完全に赤化されて居たであろう。
だが幸か不幸か、この時、中国に文化大革命が起こり、更に、中ソ対立の緊張事態が発生して、中ソ一体化は奇
(く)しくもなされなかった。
 しかし、全学連や共産党員の中には、中ソ一体化を目指して、彼等の赤化工作に協力し、手を貸し心身を捧げて、愛国者面
(つら)し、その工作活動のために奔走(ほんそう)した連中がいたことを忘れてはならない。
 彼等が果たして、本当の愛国者であったか疑問である。本当の愛国者は、誰であったか、やがて歴史が決めてくれるであろう。

 当時、学生の多くは、共産主義の思想にとことん入れ揚げたのである。
 只管
(ひたすら)革命を信じていた彼等は、一部の共産党特権階級の手先となって、走狗の徒に成り下がり、地味な反戦広報やポスター貼りなどに日夜駆り出され、心身ともに酷使された。
 そしてまた、今日、皮肉なことに、彼等は企業の中間管理職として、資本家の手先となって、企業から不規則な就業時間を強いられて、心身ともに酷使されている。当時の学生達が、昔も今も、二重の使役で酷使されるのは、何とも皮肉な事である。
 彼等の身の上に、突然降り注ぐ、過労死や突然死は、何も企業へ入社した時から始まったことではなく、その下地は、既に階級闘争の走狗
(そうく)として奔走した、あの学生の頃から始まっているのである。何と言う皮肉な事であろうか。

 更に、笑い話のような話であるが、当時、警察を国家権力の最たるものとして決めつけ、機動隊に投石した彼等は、いま皮肉にも、今度は自分が病院で“透析”を受ける羽目になっているのである。
 確かに「投石」と「透析」は字が違っても、何故か、遣
(や)ったら遣られるという因縁めいた一種の「めぐり」のようなものを感じるのである。作用に対する反作用である。現象界特有の法則である。
 酷使すると言う点で、共産党特権階級と、自由競争・市場原理を掲げる資本家階層は、同じ共通項を持つ。資本家の酷使と共通性を持つ。
 この両者は、底辺の力無き者や、底辺にいる者を陰から巧妙に操り、いつの時代も大衆を酷使して、何の憚
(はばか)る事も知らなかった。そして酷使の背後には、こうした仕掛け人がいることを忘れてはならない。
 昭和四十年代という時代は、共産主義のイデオロギーで、世が一色に染まった時代であった。
 私はそういう時代背景の下
(もと)で、一介の教師の道を歩んでいた。



●教職課程事始め

 私は“教職課程”を履修
(りしゅう)していたので、四年生(一般には「四回生」というそうだが、私は、この呼び方が好きではない。「回生」とうこれは、いつからこんな学年表示が出来たのだろうか。こんな呼称は辞書にも載っていないが、何処かのバカな私大から始まったのだろう)の九月、任意で各学校に教職課程の実習に行かなければならなくなった。

 私が教職課程を履修したのは、何も将来教師で身を立てようと思ったからではなかった。二年生と三年生の時、殆ど大学には姿を顕わさず、四年時に、大学から呼び出されて、「君はこのままで行くと、単位不足で卒業できないよ」と言われたからであった。
 当時工学部では、卒業の最低単位が143単位であった。これだけあれば何とか卒業出来るのである。しかし私は、遥かにこの単位に及ばなかった。あまりにも足らな過ぎた。
 それで、二年三年で履修していなかった教科まで再履修し、再試験を受け、何とか卒業単位を稼がねばならなかった。それで四年時に、一切合財ひっくるめて、“何でも履修してやるぞ”という意気込みに燃えて、ついでに教職課程も履修したのだった。片っ端から、という感じだった。大学四年間の教育期間に、一心不乱で勉強したのは、この世年時の一年間だけであった。四年懸かるものを一年で詰め込んだのである。

 私が教職課程で履修しなければ行けない学科は数学と理科だった。そして高校の数学と理科を選択していたので行き先は、福岡県下の公立もしくは私立の高校を選ばなければならなかった。
 先発
(せんぱつ)組が、公立トップ校や有名私立の進学校に行って、質問攻めに遭い、コテンパンに叩かれたという噂を聞いていたので、私はそれを避けて私立にした。それも有名私立とはほど遠い、大学進学とは全く縁のない三流四流の私立の高校に決めたのである。
 この学校は、博多区にあるM女子高校で、噂にたがわぬ大学進学とは無縁の、博多の不良少女ばかりを一手に集めたような強持
(こわも)て女学校であった。
 では何故こんな学校になってしまったかと言うと、教務課に実習先の高校を紹介してもらいに行ったときに始まる。そこで「M女子高しかない」といわれたからである。だから仕方なしにM女子高にしたのである。
 此処はとんでもない、想像を絶する女学校だった。全く“学問”とは無縁の学校だった。
 彼女らの話題は、学問とは無縁の、女性週刊誌に掲載され芸能人の記事のことや、はちゃめやの娯楽テレビ番組のことや、それにセックス情報だけであった。

 教育実習生の私は、いきなり三年生のクラスを担当にさせられた。
 教室に入ると、ザワついていて授業にならなかった。鏡を見ながら化粧をし、口紅を引いている子、髪をヘアーブラシでセットしている娘
(こ)、『明星』や『平凡』といった当時の芸能週刊誌を読み耽って、嬌声(きょうせい)をあげ、馬鹿笑いしている娘、隣の席の娘と、男との恋愛話をしている娘、スカートを太股まで捲り上げ、派手なガーターベルトのストッキングを直している娘とさまざまであった。世のも凄まじい女子校であった。

 教務主任の話では、私は担当したこのクラスが一番まともという。酷い学校に教育実習に来てしまったものだと思った。映画で見るスケ番女子高生
(女子高生のヤクザもの映画)を、直(じか)に見ている感じであった。そこで見たものは、映画の世界での迫力というものではなく、堕落した希望のない絶望という少女の生き態(ざま)であった。落ちて行く未来のようなものが漂っていた。

 一番まともという噂通り、さすがに授業中に煙草までを吸っている娘はいなかったが、授業をしてもザワついていて、全く私の話しを聞いてくれない。それでも私は彼女らに関係なく、一人勝手に黒板に向かって授業を始めた。そして何とか苦痛の一時間目の授業が終わった。休み時間は、一斉に彼女たちの喫煙時間になるのである。とんでもない学校に来たものだと思った。
 外側に向いた窓枠のアルミサッシが、休み時間になると、一斉に灰皿になるのであった。これを授業中に遣られないだけでも増しだった。
 こんな学校には、二度と来ることはあるまいと思っていたが、しかしである。
 翌年の五月、大学卒業時の一ヵ月遅れで、此処に赴任してくるのである。
 何と言う因縁の巡り合わせか……。



●教員免許授与式

 この授与式は福岡県教育庁で行われた。
 教育庁は当時、博多の中心に流れる那珂川
(なか‐がわ)近くの古めかしい明治調の名残を留めた明治生命ビルの隣にあった。私は此処で、一ヵ月遅れの教員免許授与式に参加した。
 教職課程を履修し、中学と高校の数学と理科の教員免許を貰う資格があった。そこで、教育庁まで貰いに行ってみた。
 だが恰好がよくなかった。不届き千万と思える開襟シャツに“下駄履き”という姿であった。
 本当は大学の卒業式で貰う予定であったが、私だけがどういう訳か、教育庁側の手違いで、その授与が今日のこの日になってしまったのである。卒業式で貰えなかったのである。それが今日のこの日になってしまったのである。“手違い”というが、何処にどのような手違いがあったのだろうか。

 教員免許など別に欲しくもなかったし、貰いに行く気もかったが、これと言った仕事のない私は暇
(ひま)潰しのつもりで行ってみた。八幡から博多まで、開襟シャツに下駄履き姿という身なりで、である。大学時代の通いなれた八幡発・博多行きのコースを下りのである。
 だが晴れがましい場所に出向くには、多少、不謹慎の観があった。いや多少ではない。以ての外だったかも知れない。
 そこには、私以外に現役の中学校の教師と思われる中年の人が三人来ていたが、長年の通信教育を何処かの大学でスクーリング受講したらしく、中学一級の教員免許が今日授与されるらしいかった。彼等は身奇麗
(み‐ぎれい)に正装し、びしっとしたスーツを着込んでいた。

 ここの教育次長から、一人ずつに教員免許状が授与された。授与される順番は彼等からであった。彼等の表情と態度は一風変わっていた。まるで卒業式の全体を代表し、生徒総代として、卒業証書を貰いに進み出る優等生のような、華々しい歓喜に満ちた表情であった。
 その表情をよく見ると、進み出た彼等は直立不動の儘
(まま)、感無量のような顔つきで、感激の目に涙さえ浮かべて、手渡された免状を手にして、何か尊いものを貰うかのように高々と掲げ、そして深々と頭を垂れていた。

 私の番になった。
 同じように免状が手渡された。私はそれを手にした時、先に貰った現役の中学教師たち程のような感動も感激も何も起こらなかった。それは無感動といってよかった。
 その仰々
(ぎょうぎょう)しい紙切れには高校数学理科二級、中学一級と、安っぽくゴム印で押されていた。
 「なんだ、これ……」が私の率直な感想だった。それを貰った後、その免状を八つに畳んでズボンの後ポケットに突っ込んだ。私にとっては、恭
(うやうや)しく頂いて、最敬礼するものではなかったからである。
 すると、教育次長が、
 「君、君。それは、そういうものじゃないんだが……」と、呆気
(あっけ)にとられたような顔をして、首を捻りながら言った。私を不届き者と思ったのだろう。
 私は、「ああ、そうですか」と言って、この場を立ち去った。
 桜の花もすっかり葉桜に変わった、昭和四十六年四月末のことである。



●嗚呼、花の女子高校教諭

  二度と此処に来る筈がないと思っていたのに、とうとうこの女学校にやって来てしまった。

 ─────遡
(さかのぼ)れば二週間前ほどのことである。
 四月半ばのある日、博多中洲
(なかす)の那珂川(なか‐がわ)の橋の上で、バッタリ、高校三年の時の担任であった大川先生に会ってしまった。

  それは私を呼ぶ声から始まった。
 「岩崎!岩崎君じぁないか」
 私は思わず振り返り、「ああ、先生……。御無沙汰しております」と返事を返し、一礼をした。
 「久しぶりじゃないか。ところで君、いま何してるんだい?」  
 「何って、何ですか……?」
 「君の職業だよ」
 「……無職です」
 「いけないなァ。君のような秀才が仕事も就かずにぶらぶらしてては……」
 この「秀才が」、という言葉の意味は、この担任が当時数学担当の教師であり、曾
(かつ)て私は、福岡県高等学校対象の“O社主催”の『高校数学コンクール』で、二年生と三年生の時に、二年連続五番以内の上位を占めて表彰されたことがあったからだ。

  私が数学への頭角を現し始めたのは、中学三年の卒業間近の頃であった。
  元来暗愚であった私は、この時期を境として突然変異?し、今までの暗かった頭は嘘のように鮮明となり澄みわたった。そして高校の時には、それが頂点に達していた。
 私は何
(いず)れは、医学者が、もしそれが叶わなければ数学者にでもなろうと思って、高校時代を送った事がある。しかし、ある医大の推薦入学には合格したものの、貧困の為に、医学者への道は絶たれていた。

 また大学では、いつ行ってもデモと休講ばかりで、一年、二年、三年と、殆ど試験以外には学校に顔を出さなかったが、大学四年の後期から、大学院受験を考えていた。だが、大学院受験に失敗して、その夢は果敢なくも破れ、数学者への道は目前で挫折した。
 しかし、この担任は、私の数学の成績が良いことだけが記憶にあったらしい。秀才と言ったのは、多分そのせいであろう。

 「どうだね。私の知人に鹿児島のK大学の学長をしている人がいるんだがね。その大学で工学部の『微分方程式』の講師を探しているというんだ。君、そこに行って働いてみてはどうかね。君には打って付けの仕事だと思うが……」
 「鹿児島ですか?鹿児島とは随分と遠いですね……」
 「では、福岡だったらいいのか?」
 「はあ、近ければ……。何処でもいいと思いますが……」
 「いやに、他人事のように云うじゃないか。君のことだよ、君の……」
 「はァ……」
 少し搾
(しぼ)られた挙げ句、ゴリ押しで、些(いささ)か説教調の意見を述べ、お節介なこの担任は、私の気のない返事に不満であったらしく、“嫌み”に取れるような言葉を、更に続けた。

 「君はきちんと学問さえしていれば、一流の数学者までとは行かないが、二流か、一流半くらいの数学者になれる実力は持っていた。私は君の担任をしていた頃から、君の数学への才能を見抜き、君の希望通り数学者として、立派に身を立てられる筈だと思っていた。君もそう思っていたに違いない。
 それをつまらない古武術とやらに手を染めて、その稽古に明け暮れるあまり、自ら希望を打ち砕いて挫折してしまった。
 原水爆や近代科学兵器が発達した今日、野蛮な古武術は、時代錯誤も甚だしい無用の長物だ。
 もしあの時、君が将来のことを考えて、もう少し本気で、自分自身の行く末に目覚めていたら、目指す大学院にも合格していたであろうし、その後も、前途洋々とした数学者への道が開けて、学問で立派に世に立てた筈だ。私はそれが今でも残念でならないんだよ」と説教じみたことを散々言われた。

 「ところで、お母さんは元気か?……」
 私は大川先生と、往来の立ち話で、このような会話を交わしていた。
 この後、近くの喫茶店に入り、話を煮詰めて、この担任の進める高校に赴任することにした。後で、その学校の名前を聞いて吃驚
(びっくり)したが、行くと言ってしまった以上、今更「辞めます」とは言えなかった。早速、私はこの担任に後日、履歴書を送ることにして、この喫茶店で別れた。

 当時の就職状況は、今のような不況化であっても、売り手市場優位の開放的な状態ではなく、戦後の第一次ベビーブームに生まれた私たちベビー・ブーマー
(一般には「団塊の世代」という)は、その狭き門を巡って犇(ひし)めき合い、買い手市場一色の社会に放たれようとしていた。
 そのために、四年生になると就職課の前には長い行列が出来て、何時間も並び、また、自ら、普段は着慣れない詰め襟の学生服に身を固め、会社訪問を小まめに行って、自分の売り込みに奔走
(ほんそう)したものだった。
 この時、特に文科系の学生は実に悲惨であった。理工系以外の職種は少ないために、多くの企業は、文系の学生を敬遠していた。私は工学部であったので、二、三の弱電メーカーから当りをつけられていたが、端
(はな)から入社する気など毛頭なかった。
 それというのも、私は既に会津自現流の道場を持っていたので、そこから離れ難かった。その離れ難さが、就職など、結局“どうでもいい”という気持ちにさせていたのかも知れない。
 そして、5月1日付けを以て、M女子高校に赴任したのだった。


 ─────この学校では、教育実習の時と同じの予想通りであった三年生の担任にさせられた。一度、経験済みなので、敢
(あ)えて驚きはしなかったが、しかし「寝耳に水」という観があった。換言すれば、青天の霹靂(へきれき)とでも言おうか。
 そしてこの学校で一番問題のある『超札付』のクラスが、私の仕事場として与えられた。
 いいですか、私のような“超初心者”に『超札付』が宛てがわれたのですぞ。まさに、寝耳に水。予想だにしない青天の霹靂……。
 この職場を形容すれば「怕い」の一言だった。
 何とご無体な……。私は“超初心者”ですぞ。それに此処に居るのは、次元の違う良家の子女ではないのですぞ。“超!”の驚きのびっくりマークを付けていいくらいの、怕さが漂っているのですぞ。見るだけで戦慄を覚えるのですぞ。理不尽とは思いませんか。
 だが、私はこの学校を志願した訳でもないし、況
(ま)して熱望した訳でもない。特攻隊には熱望しなかったのです。出来ればこう言うところは避けて通りたかったのです。
 しかし、私の希望とは裏腹に、『超札付』が宛てがわれたのである。これ以上のご無体がありましょうか。
 赴任してはじめて、私の考えが甘かったことに気付かされた。

 これは安全な、後方勤務を選ぶために、輜重兵
しちょう‐へい/軍需品の輸送・補給にあたる兵)を志願したのであったが、それが認められず、無理やり爆弾を抱えた旧式戦闘機に乗せられ、特攻隊の体当り攻撃に送り出されたという感じであった。それも、粗悪なベニヤ板の飛行機の乗せられてである。
 かつて日本陸海軍は大戦末期になると、物資欠乏の折から、ベニヤ板の飛行機やモータボート
(海軍では『宸洋』という爆弾を積んだ小型船舶)が登場することになる。まるで私は、その当時の特攻隊員然であった。
 一度滑走して離陸したら、車輪が外れてしまう特攻機に乗せられたような感じだった。飛び立てば車輪がないので、離陸した以上、飛んでいって、敵艦に体当たりする以外ない。帰還は赦
(ゆる)されないのである。その手の飛行機に乗せられた感じだった。後戻り出来ないのである。
 なんとご無体な……と言いたかった。

  男手の少ない女学校であったから、学校の教育方針と経営状態から考えて、私に『超札付』が宛てがわれたのは、当然と言えば当然であった。
 このクラスは、全員で三十一名の女生徒がいた。よく、これだけ博多中の不良少女ばかり集めたものだと感心すらした。強持
(こわも)てで、どの生徒も、ある種の凄味(すごみ)と“鑑別所(べっそう)帰り”を思わせる筋金入りの、変な気迫を身に付けていて、姐御(あねご)と呼ばれても不思議ではない、怕(こわ)い、お姐(あねえ)さん連中が犇(ひし)めき合っていた。東映のヤクザ映画顔負けの、“超ド迫力!”である。
 この“超ド迫力!”は大袈裟な形容でない。見たままである。実体通りである。怕いの一言に尽きる。
 荒
(すさ)んでしまった教育現場。此処は改善の余地がないほど荒れていた。騒がしく暴力的であり、また実に生々しかった。時に、下品なバカ笑いが漏れる。異様な雰囲気であった。禁忌の漂う教育現場。そこは教育の場とは言い難かった。
 これが、小心者の私は怕くて仕方がなかった。

 だが観察眼を向ける位置と高さを変えてみる。そして視る角度を変える。別の物が見えはしないか。
 確かに乱雑で、一つ間違えば何をするか分からなかった。此処に居る女どもは、暴力的な雰囲気を纏った人間たちであった。それも動物に近い牝の群れであった。
 だが、私にも一縷の希
(のぞ)みがなかった訳でない。彼女たちの心を開く策は持っていたのである。無策で頭を抱えるほどヤワでない。側面には、いざとなれば図太い神経も通っているのである。
 単に不逞
(ふてい)の徒というだけで、いたずらに彼女たちを敬遠はしない。接近する策もあった。
 見離すのでなく、逆に接近すれば、心は開く間も知れない……。果たしてこれは、私の希望的観測であっただろうか。

 彼女たちは、故意的あるいは必然的にそうなったのかも知れないが、やたらと目付きが悪い。
 人相学で言う、何れも三白眼
(さんぱくがん)である。怕い目付きである。黒目が上方に偏っていて、左右と下部の三方に白目である。その三白の鋭い視線を向けて睨(にら)む。凄ませる。いわゆる「ガンをつける」というやつである。
 そして、私が彼女らを見ると、「やい、セン公!一体どこ、見とるんじゃ!」と、実
(げ)に恐ろしき難癖(なんくせ)をつけられるのだった。そして小心者の私は、鋭い目付きに一瞥(いちべつ)を喰(く)らうであった。どうやらこの一瞥をくれた生徒が、このクラスの番長であるらしい。

 私の心中は、《うあっちゃー、えずかー
(博多弁で「怖い」の意)》の連発を繰り返していた。
 私のような小心者の目には、彼女たちが睨
(にら)みの利(き)いた目付きが、東映の“スケ番映画”さながらの怕(こわ)い、お姐さん連中に映ったのである。藤純子(女賭博師の『緋牡丹博徒』の主人公)宜しく諸肌(もろはだ)脱いで、“丁半博奕”がはじまるような、そんな凄みだった。彼女達の目付きは、私には充分に凄みが利いていたのである。実に恐ろしき態度と言葉で、すっかり私は縮み上がり、意気消沈(いき‐しょうちん)していたのである。
 私が赴任した、第一日目は、こうした怕
(こわ)いお姐さん方の、“ガン飛ばし”と“ガン付け”の洗礼で始まったのである。私は哀れな仔羊(こひつじ)だった。

  高校生としては似つかわしくない派手な化粧が、どの生徒の顔にも、これ以上の化粧品の乳液が乗せられないくらいに厚手に塗りつけられ、それはまさに一種の仮面であった。髪の毛は、日本人とも外人とも付かないような茶金髪であった。特に、彼女たちの、口紅のドぎつい真っ赤な原色は、私の目を抉
(えぐ)った。
 彼女たちは、いわゆる少女極道
(昨今風の「小ギャル」とでもいおうか)のようなもので、凄(すご)みがあり、見るからに恐ろしい。
 教室の外側に面した窓枠のアルミサッシは、全て彼女たちの煙草
(たばこ)の灰皿と化していた。サッシの中には“まんごろう”で一杯だった。“まんごろう”とは、九州でいう方言のようなものである。煙草の吸いガラをこう呼ぶ。
 一度、これに注意したことがあった。
 「君たち、煙草の吸いガラを始末したらどうか。此処は勉学の場だろう」
 すると一人の生徒が、キッとした顔で「それはセン公の仕事だろ。文句あるんかい!」と遣り返されたことがあった。その“ガン飛ばし”の凄まじいこと。
 小心者の私は思わず、「こわかァ……」と慄
(ふる)えて吐露してしまった。
 だいたいこの娘たちの家は、その筋の家なのか。もしそうだったら、立派な跡継ぎだろう。
 まず、この次元の違いに恐れ入ってしまった。
 「はい、そうでした」とそれ以降、彼女らの喫煙後の“まんごろう”の後片付けは、私の仕事になってしまった。その構図は、生徒の“まんごろう”の後片付けに使役される、気弱な、間抜けな教師という感じだっただろうか。

 ホームルームの時間は、専
(もっぱ)ら彼女たちの社交場兼化粧時間となる。
 GOGO
(当時最も流行っていたダンスであり、グループ・サウンズが大流行)の練習をしている生徒や、煙草をふかしてガムを噛みながら、柄(がら)悪く駄弁(だべ)る生徒など様々であった。
 そして全員が喫煙者であるためか、教室中が煙りだらけで靄
(もや)が懸かり、喫煙の習慣のない私は、煙草の煙で気管支を苦しめられた。
 話す内容は極めて次元が低く、ガムを噛みながら駄弁
(だべ)るその口許は、だらしのない開き加減で、痴呆(ちほう)のようだった。どの顔も、痴呆が漂っていた。

 校長や教頭は言うに及ばず、教務主任からもたびたび生徒たちに、「いいか岩崎先生。ここは学校だよ。学校では禁煙をするように注意するのが教師の役目だ。教育に喫煙者がいて言い訳があるまい」と、私一人がさんざんお目玉を食らうのである。
 超新米の私に注意させずに、そういうお偉い教務主任自らがベテラン教師として、生徒に注意すればいいことなのだが、それをわざわざ新米にやらせようとする。何故だろう……。そう思って、地団駄を踏んでも仕方のないことであった。新入教師は、上役の言に従う以外ない。
 要するにこれは試煉
(しれん)なのだ。火と水の試煉なのだ……。私はそれで納得した。
 教育の現場には、相応しくない光景が多く目に付き、この学校の、このクラスでは、その改善策が全くお手上げのような状態にあった。丁度そんな時、新入りの私にお鉢が回って来て、学校一鼻つまみの超女極道クラスが押し付けられたという訳であった。選
(よ)りに選って、「超」である。
 何処に行っても貧乏籤
(くじ)を引かされるのは、私の過去世(かこぜ)の因果か……。業(ごう)によってそれに相当する果報を自ら招いているのか。あるいは習気(じっけ)か……。
 況
(ま)して、因果の所為(せい)にしても、科学的な判断でない。もし因縁だったら、受けて果たして行くしかない。


 ─────この修正し難い“鼻つまみの連中”を前に、私はある時、声を発した。
 「みんな訊
(き)いて貰えないだろうか」
 ザワついた教室は、一向に私に対して注目してくれない。
 「どうか、みんな。訊いて欲しいのだ!」と、近くにあった出席簿を教卓
(きょうたく)の上に叩きつけた。
 一瞬、大きな音にザワメキがさっと引き、室内が静まり返った。一瞬の静寂が訪れた。
 この静寂の中に改善の余地があると思った。可能性はゼロではなかった。

 「みんな。今から先生の言うことをよく聞いてもらいたい。これらのことをを是非守って欲しい。
 一つ、学内および教室内では絶対に煙草を吸わないこと……」と言葉を続けようとしたら、「え〜ッー」と語尾を引っ張る野次のような声が上がった。誰もが一斉に、はしたないブーサインの声と口笛を飛ばす。あたかも、「大根役者は引っ込め」という言い方だった。だが、私はそのまま続けた。
 此処で大根役者は居直ったのである。
 「二つ、高校生らしい服装をすること。三つ、化粧をしたり髪を染めないこと。四つ、学校にハイヒールを履いてこないこと。この四つのことを守ってもらいたいのだが、どうだろうか?……」と、怕々
(こわごわ)と遠慮気味に切り出した。
 私は、彼女たちが最初から、こんな事を聞く筈はないと思っていたし、また、彼女たちが実行することもないと思っていた。それは端
(はな)から覚悟の上だった。
  そして、私は言った。
 「先生は、君たちが、いま言ったことを聞いてくれるとは思っていない。だが、敢えてお願いしたい。
 皆の女としての健康の為と、将来の母親としての健康の為に!……」
 教室全体が、一瞬シンーとなった。静粛
(せいしゅく)である。
  更に続けた。  
 「君たちは来年の春卒業である。やがて、此処から巣立っていって、ある者は就職、ある者は上級学校へと進学するだろう。そして、ある者は結婚をするかも知れない。やがて、子供が生まれ母親となっていく。その時に、今の君たちの状態と同じことを、自分の子供にさせたいと思うだろうか!」
 室内はどこまでも静粛
であった。水を打ったように静まり返った。彼女たちに、私の言葉を聴く常識がまだ残っていた。少しでも聴いてくれたのである。耳を傾けたのだ。確かに静聴してくれたのである。まだまだ可能性があると思った。

 「先生は敢
(あ)えて、君たちの良心に問いたい。だが、いやなら無理に聞いてくれなくてもいい。
 しかしである。君たちの良心に向って、このような良くない状態から、再起することを信じて、今から先生は食事を断つ。君達は必ず立ち直れると信じている。君たちが、先生のお願を聞いてくれるまで、一切食事は取らない!」と断言するように言った。
 再び、教室全体が騒がしくなり、そんなことしてどうなるのだという意見が上がった。

  母が今朝、作ってくれた弁当をカバンから出して、彼女たちの目の前で、
 「見よ!先生はこれをゴミ箱に捨てる!」といって、惜し気もなくゴミ箱の中に捨てた。
 教室はザワついた儘、私の言ってたことは無視されていたにも等しかった。この私の強がりは功を奏しなかった。そして、この教室を後にし、一時間目の教室に向かった。

 昼食時間になって、朝、弁当を捨てた事が大変悔
(く)やまれた。
  自分で、何て馬鹿な事をしたのだろうかという反省にも似た後悔があった。しかし、一旦言い出したことは実行しなければならない。それは彼女たちに言った手前からではなく、自分自身との挑戦からであった。仮に餓死
(がし)してもそれで良いではないか、という気持ちがあった。
 一人の人間が、何事かの悲願を立てて、真剣にそれを訴え、その誠意が通じないような世の中であれば、これ以上生きていても仕方がないではないか、という居直った気持ちがあった。
  また自ら決意した事が簡単に破られては、決意の度
(たび)に、何度も破らねばならなくなる。こうなれば自らに負けた、負け犬に成り下がるほかない。これでは自分の、今後の人生に誇りなど持てようがないではないか。私のその後の生き方は、戦いに敗れた惨めな男の「余生」でしかなくなるのである。

  午後5時になって、そろそろ帰宅の時間が来た。
 空きっ腹を抱え博多駅から満員電車に乗って、八幡まで帰えらなければならなかった。博多駅の地下食堂街を通った時、匂いに誘惑された。何処の飲食店でもいいから、飛び込みたい衝動に駆られた。しかし「負け犬になるな!」と自らを叱咤激励
(しった‐げきれい)して自信を取り戻し、これを一つの修行を考え、いつまで続くか挑戦してみようと思ったのである。辛い修行である。
 人間最大の欲望の一つである「食を断つ」のである。

 次の日も、空きっ腹を抱えた儘、朝の超満員電車に一時間程揺られて博多駅に着き、更に博多駅からバスに揺られて、この学校に辿り着いた。想像した以上に、長い道中に思えた。それは食を絶っているからである。
 昨日、言ったことは再び、生徒たちには言うまいと思っていた。
 教室内はいっもの調子の彼女たちの社交場であり、化粧時間であった。相変わらず教室内は無言の儘の私とは正反対に、いつもと変わらないザワついた騒がしさがあった。このようなホームルームが幾日か続き、四日を過ぎた頃、立っていられないくらいの眩暈
(めまい)に襲われた。過度な貧血が起こり始めたらしい。以前から腸壁内に取り残された宿便の移動が始まったのだろうか。
 時々腹がズキズキと痛む。水だけは飲んでいたが、突然に始めた断食というものが、これ程きついとは思わなかった。

 以前、断食をしたことがあるが、断食を行うには必ず『副食
(補食とも言う)』という準備期間がいる。突然それを初めて、急に元のような食事をとると、命を落とすことさえあるのだ。どうもこの断食前半が、その状態になっていたようだ。


 ─────学校が退
(ひ)けてから、夕方近く、那珂川(なか‐がわ)沿いを独り、ふらりと歩いていた。空きっ腹を抱えているので、川沿いに出た屋台の行列がやけに眼に滲(し)みた。どの屋台も、もう開店の準備を始め、赤提灯(あか‐ちょうちん)を掲げ、食事処の仕込みにかかっていた。こうした屋台はその殆どが、夫婦や家族ぐるみでやっているものである。
 その時、一台の屋台で、見覚えのあるような少女を見た。その少女は、私が受け持つクラスの生徒の一人だった。
 学校でのようなドぎつい化粧はしていなかったが、その素顔を曝
(さら)した娘は、確かに私の生徒に間違いなかった。
 その娘は、私が女子高に赴任して来た当日、鋭い視線を投げ、怕
(こわ)い顔でガンをつけて、「やい!、セン公!」と一瞥(いちべつ)をくれた生徒だった。彼女はクラス全員の生徒から、女番長として「姐御」というニックネームで慕われていた。この姐御が三十一人の群れを率いていたのである。なるほどと思った。
 某略術でいえば、こいつ一人を落せば、群れは崩壊するという、その要
(なめ)に行き当たったのである。
 ひとつこの要を攻めてみるか……。それを最初に直感したのである。
 私は彼女の一喝に、最初、思わず頸
(くび)を竦(すく)めたくらいである。恐ろしかった。その姐御の別の一面を視たのである。その光景は意外だった。

 学校での怕
(こわ)い姿とは、がらりと打って変わり、開店の準備の手伝い、まめまめしく働いていた。そのうえ、こうした合間に、小さな妹と思える五、六歳の幼女の遊び相手をしていた。
 私はその光景が、ふと眼に止まった。手伝いの合間を見て、紙風船か何かを作ってやっていて、楽しそうに二人で遊んでいた。傍
(はた)から見ていて、何とも微笑ましかった。
 そして、私の感想は《へーッ、あの女番長の“佐藤みどり”って、よく見ると、随分と美形で、なかなか可愛い貌
(かお)をしているじゃないか。それに、“見て呉れ”も悪くない。なかなかの容姿端麗ではないか》というのが、この時の率直な感想であった。隠れた素顔の印象としては悪くなかった。
 物事には常に藕糸
(ぐうし)が隠れている。それは人間でも同じである。人間は見掛け通りはその者の等身大ではない。裏に別の貌を持っている。その貌が実は正体なのである。
 佐藤みどりを落してみる……。私の策であった。この小娘を落せば、全体も落ちる。そう踏んだのである。
 私の謀略術の第一歩であった。
 『群れ全体の中心点を衝
(つ)けば、その群れ総ては崩壊する』と謀略術は教え、謀略家はこの術をもって中心人物のみを攻めるとある。これに倣(なら)って、ひとつ仕掛けてみるか……。
 ある策が浮んだ。ピンポイント攻撃である。

 同一人物でも裏の一面が視られたことは、私にとって大きな収穫だった。学校では窺い知る事の出来ない顔だったからだ。
 一瞬、頬笑
(ほほ)えましくなり、あの娘(こ)は学校では女番長を気取って強持(こわ‐も)てしているが、実はこれが本当の生地(きじ)の等身大の実像なんだと思った。
 私の知らないところで、まだあんなに純真な、少女らしい一面が残っているのだと、一瞬の安堵
(あんど)ともに、ほっと吐息をついたのだった。
 そして私は、彼女の知られざる一面を見た。

 「やあ、佐藤。君は此処で、家の仕事を手伝っているのかい?」
 私は彼女に、気さくに声を懸
(か)けた。
 彼女は一瞬驚いたように、私をまじまじと見て、急に顔色を変えて、無愛想に、「何ですか……」とふて腐れた、浮かない顔付きで返事をした。ついさっきまで、幼子と遊んでいた可愛い笑顔を崩し、何か、急に豹変
(ひょうへん)した感じだった。
 その横には、小さな女の子が確
(しっか)りと彼女のスカートの裾(すそ)を握って縋(すが)り付き、私の眼を瞶(みつ)めながら、《この人、いったい誰なんだろう?……》というような怯(おび)えた顔で、大きな目を一杯の開いて瞬きもせず、私をまじまじと見据えていた。

 そのとき、屋台の中から「おい、みどり、早う七厘
(しちりん)ば、中にもって来てくれ」と年輩の男の声がした。恐らく父親かなんかであろう。
 みどりと呼ばれた、その生徒は、小さな女の子だけをそこに残して、火の点
(つ)いた七厘を屋台の中に持って入ろうとしていた。
 私は一人残った女の子の前に屈
(かが)み出て、「いまの人、誰だい?おねえちゃんかい?」と優しく声を掛けて訊き出した。
 「うん、おねえちゃん」と、その子は元気よく答えた。
 この小さな女の子は、佐藤みどりの、歳の離れた妹であるらしい。
 そんな会話をしているとき、屋台の中から、先程声を懸
(か)けた四十年輩の男と思える、人が一緒に出て来て、私に挨拶した。

 「これはこれは、先生
(しぇんしぇい)。私はこのみどりの父親ですたい。いつもお世話になっとります」
 「いえ、こちらこそ。担任の岩崎です、どうぞよろしく。偶然この近くを通りかかったものですから……」
 「ああ、そうでしたか。では、中でちょっと一杯いかがですか」と誘うようなことを言った。
 「いや、その……。
(本当は直ぐにでも中に入って、およばれしたいのは山々であったが……それを無理に押し殺して)偶然通りかかったまでのことですから……」
 この父親は、私が担任であるという事で、一杯持て成そうとしたが、私は断食中でもあり、これは実に惜しいが、辞退するしかなかった。
 「まあ、そぎゃんこと言わずに……」
 「いや、そんなにお気遣いされないで下さい。では急ぎますので」
 「そうですか。…今後とも、うちの娘ば、よろしゅうおたの申します」と言って、深々とお辞儀をした。
 「では、私はこれで失礼します」と、私も会釈をして、此処から足早に立ち去った。

 学校で、知られざる生徒の等身大の実像を見た事が、細
(ささ)やかな私の救ったのだった。私は那珂川橋電停から、博多駅前行きの西鉄電車に乗ろうとしていた。電停までゆっくりと歩いて行くところだった。
 そのとき、後ろから息を弾ませて走ってくる人の気配を感じた。

 「やい、セン公!」と大きな声だった。怒声である。
 私はその声に振り返った。
 「どうした、佐藤」
 彼女は息を切らせて、まだ苦しそうにしならがら、
 「どうして、うちに寄っていかないんだい?うちの屋台じゃ、口に合わねぇと云うんかい!それとも屋台をバカにしてしてるんかい!」と喘
(あえ)ぎながら、乱暴な言葉を、吐き捨てるように言った。何か腹を立てているようであった。

 「いや、そうじゃない。先生は君達と約束した通り、まだ断食中なんだ。本当は、君んとこのお店に立ち寄って、酒食に預かりたいのは山々なんだが、こういう事情で、今日は失敬させてもらった。いずれ断食が明ければ、今度は、ちゃんとした客として来店するつもりだ。その時は宜
(よろ)しく頼むよ」
 私はこれだけ告げて、踵
(きびす)を返した。
 「先生……」
 そんな声が後ろで小さく響いたが、私は振り向かなかった。



<<戻る トップへ戻る 次へ>>


  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法