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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 7

『論語』顔淵遍には「富貴天にあり」とある。富めるか貧するかは天にあるという。富める道を歩けば富むであろうし、貧する方を選択すれば、貧乏のドン底に顛落する。しかしそれは人間の判定することでない。総て天にある。
 ある人は言った。
 「あなたは金持ちの道を歩いているのなら、既に金持ちだ。奮闘努力して、実際に金持ちになれなくても、それはあなたの責任でない。富を得るか否かは、運命によるものです」と。
 この人の言によれば、金持ちになるかならないかは、自分が決めるのではなく、天が決めるのであるから、なるならないは問題ではない。問題は金持ちになる道を歩いているのなら、もう金持ちになっても同じだというのである。奇妙な論だが、この当時、自分なりによく理解出来た。奇妙だが斬新に響いたものである。


第二章 想い人



●傷痕の癒える頃

 私が二十三歳の時、小学校五〜六年生の頃のクラスメイトであった“桜井由紀子”と、夏の海でばったり遭(あ)った。まさに奇遇だった。
 私が大学を卒業して二年後の、昭和47年の7月下旬の頃であったろうか。
 彼女に遭ったのは高校の時以来であった。以前、福岡の美術館で偶然彼女に遭ったことがあった。その時の記憶に残る余韻
(よいん)が、再び燻(くすぶ)り始めた。
 小学校の頃から美人の誉れの高い彼女は、このとき溌溂
(はつらつ)と輝いていた。私にとっては眩(まぶ)しいほどの女性であった。

 人は、人と出会わなくては生きていけないものらしい。これがまた、人生の常であるようだ。
 しかし「人生の常」には、また落し穴がある。逢うが別れの始めであるからだ。その後に訣別の時が待っている。
 彼女にあった日が吉日だったのか、厄日であったのか。あるいはこれから余慶が始まったのか、それとも余殃
(よおう)が始まったのだろうか。
 いま当時を回想すると、あの出だしは確かに有頂天に舞い上がった時期であり、若さ故に、その後の凶事が見抜けなかった。
 世間には恋人が出来たり、その恋人と結婚したりとするその事自体を、「めでたい」と感得するようだが、それは誤りである。そもそも考えれば、これこそが、後に禍
(わざわい)を齎す凶事である場合が少なくないからだ。
 言わばこの出遭いは、私にとっては凶事の始まりだった。だが、この時には気付かないものである。

 その最初に、偶然とか奇遇とかの、人生の社交辞令のような現象が起こるようだ。
 それを幸運の始まり、ツキが廻って来た……などと受け取ると、後でとんだしっぺ返しを喰らう。だが、どうして世の中には、こうした偶然とか奇遇とかが転がっているのだろうかと思うのである。
 単に運命の女神の悪戯だろうか。
 これをよくよく考えれば、こうした現象は決して偶然ではなく、最初から必然として、起こるべきして起こっているのであろうか。
 神の戯れ……。そう思うと合点が行くところがある。

 人は、神の決めた確率を偶然などと呼ぶ。
 特に幸運の女神の偶然は、確率的に言っても余りにも低い。
 したがって人知の及ぶところを必然といい、予期もしないそうでないところを偶然と呼んでいるのかも知れない。
 また、よく奇遇
(きぐう)という言葉が使われるが、まさにこれであった。
 その奇遇
(きぐう)は、性懲(しょうこ)りもなく、恋愛感情に舞い上がる、私の心に火を点(つ)けようとしていた。何処かで燻(くすぶ)っていた火種(ひだね)は、ちょっとした切っ掛けで、めらめらと燃え始め、その尾を引くような余韻(よいん)が、私の心の中で燃え上がったのだった。更に、人との出会いを、新鮮な感覚に仕立て上げるのだった。そして彼女は、青春の想い人として、私を新鮮さの真っ只中に引き立てたのである。
 私の青春の大半は、彼女との出逢いから別れ迄の間に、総
(すべ)てが、この中に回帰する。その頃の話を進めよう。昭和四十七年頃の話である。


 ─────彼女は大学の仲間たちと、ここ山口県綾羅木町
(あやらぎ‐まち)の海水浴場に来ていた。
 綾羅木は山陰に日本海側にあり、海の奇麗な所で、当時は観光案内の情報雑誌には載ってない、今風で言うと、秘境の穴場だった。
 此処は日本海に面しながら遠浅の海であり、俗化されていない格好の海水浴場で、これを偏
(ひとえ)に荒廃(こうはい)から守り、細々と維持しているのは、その交通の不便さからであった。

 この浜辺には当時、夏場の海岸を醜くくする、葦簀
(よしず)張りの掻(か)き氷や烏賊(いか)焼きの出店も殆どなく、白い豊かな浜辺が、緩やかな弧を描いて何処までも続いていた。
 桜井由紀子は、東京のT女子医科大の医学部の六年生で、学生時代の最後の夏休みということで、忙しい学業を調整して此処に遊びに来ているらしかった。彼女たちは、同学部の女同士の三人連れであった。
 私は道場の子供たち十五人を連れて、此処で合宿をしていた。合宿といっても名ばかりである。
 子供連れの、泊まりがけの、野宿での海水浴である。道場の合宿といっても、浜辺で稽古することもないし、ただ海水浴をして三度三度の飯盒炊飯をし、その後はただ寝るだけという変哲のない日々の繰り返しであった。要するに浜辺の松の樹に蚊帳
(かや)を吊っただけの虚しい野宿なのである。この虚しさは貧しさと同義だった。

 彼女たちは、此処では一番高級な旅館に泊まっていたが、私たちは、松の木の下に蚊帳
を張ったみすぼらしい野宿であった。そのみずぼらしいこと此(こ)の上もなしであった。私が極端な金欠病に罹(かか)っていたからである。その証拠が野宿だった。
 私は彼女の泊まった旅館に水を貰
(もら)いに来ていた。水だけは貰って賄う以外なかった。そのとき彼女の方から声をかけて来たのである。

 喜んだような声と、懐
(なつ)かしさが混じった声で、
 「岩崎君。お久さしぶり。覚えていらっしゃる?桜井です」と、品のいい言葉使いに、ふと振り向くと、なんと由紀子ではないか。
 まさに奇遇であった。
 彼女が少し首を横に傾
(かし)げて曲げ、笑顔で投げかけた独特の、品の良い仕種(しぐさ)に、訳の分からぬドキッとする緊張を覚えた。その花のような彼女の輪郭(りんかく)を眩(まぶ)しく見詰めたのだった。
 整った顔だちは、私に嫣然
(えんぜん)と笑い掛け、そして、しとやかに会釈をしたのである。
 私も面映
(おもは)ゆい思いをしながら、照れと決まり悪さで、慌(あわ)てて会釈を返した。

 思いも寄らぬ事態に襲われた私は、一瞬狼狽
(ろうばい)し、緊張し、赤面するような思いで、惨(みじ)めなほど慌(あわ)てていた。またそれが、ぎこちない返事となってギクシャクさせた。
 緊張のあまり、実に“きまり”が悪かった。何か悪い事をして、突然その現場を彼女から見咎
(とが)めれているような気持ちになった。

 私は驚きを込めて彼女に注視し、また彼女の眼差しは、突然私に親しみを込めて降り注ぐのだった。私の胸には、何だか春のような歓喜の響が訪れていた。
 真近
(まぢ)かで見る彼女の美しい二重瞼の大きな眼。
 そして黒眼勝
(くろめ‐がち)に澄んだ双眸(そうぼう)の、その眼から見据えられた私は、棒立ちになった儘(まま)、衝撃波のようなものを躰中に感じて、後退(あとすざ)りをするような気持ちに陥った。
 そして体内の何処かに火が点
(つ)いたような感覚を覚えた。これには一瞬の混乱と、某(なにがし)かの躊躇(ためら)いを伴ったが、吾(われ)を取り戻した私は、直ちに彼女の観察に入った。

 彼女には少女の頃の面影が幽
(かす)かに残っており、更に育ちの良い、名家の血統を訴える貴族の娘のような輝きに満ちていた。
 彼女は高校時代、少女としての美しさがあったが、二十歳
(はたち)を過ぎた今は、また、大人としての整った美さがあった。元来良い顔だちをしているせいか、化粧も品の良い薄化粧であった。
 全身に程良い上品な愛らしさを宿していた。体躯も細身で、背も高い。一瞬ファッション雑誌に出ているモデルと見間違えるような彼女に、私は、無駄なく引き締まって均整のとれた容姿に、いきなり魅了されてしまったのである。ビーチガウンから、カッコいい足頸
(あしくび)の締まった長い脚が伸びている。

 私には女を最初に見るとき大胆不敵にも、どうも足頸
【註】正確には「理趣経的房中術」のいう足頸の締まり)の方から順に見てしまう癖があるらしい。
 由紀子の瑞々
(みずみず)しい躰(からだ)を見ていて、『理趣経(りしゅ‐きょう)的房中術(ぼうちゅう‐じゅつ)』の適正にぴったりであると思った。何と不届きな観察であったろうか。
 しかし、山村師範は私によく言ったものだ。
 「女の善し悪しの見分け方の第一の秘訣は、“足頸
(あしくび)”と“腰”と“声”できまるものじゃ」と。
 爺さまは、よくも抜かしおった……と、今でも思うのである。
 しかし爺さまは、この道でも、また達人であった。
 これは理趣経的房中術の、相手を選出するための秘伝である。達人の観察眼は鋭い。此処を見て選
(よ)り分ける……、達人はそう言う。そして、今更ながらに納得させられるのである。

 一番先の目付は、足頸と腰だと言う。凹凸の、特にくびれは眼の一番つき易い箇所である。修行した者ならば、出っ張りを検
(み)るより、くびれを検る。突起を観(み)るのでなく、締まりを観るのである。これが上級者の観察眼である。
 次に声と口の形だと言う。声の美しさだと言う。顔はその次でよいと言う。
 世に、「貌
(かお)判断」で失敗する人間が多い。貌と容姿のみで判断するものが余りにも多い。これは思考的には、頭隠して尻隠さずになるからだ。そう言う愚行のために貌だけの判断となり、肝心な中身を見逃してしまうのである。
 顔形がよくても、声が低かったり、嗄
(しわが)れていたり、口が左右対称でなかったり、足頸や腰に締まりがないと、これは女として駿馬(しゅんめ)でないと言うのだ。一つでも、この禁に極端に触れていると駄馬(だば)となる。駿馬(しゅんめ)と駄馬の違いは、この一点による。

 世俗では美女の判定を、顔から下に見ていくようだが、山村師範の駿馬の判定は、“下から上に向かって女を見上げろ”と言うのだ。一風変わった達人ならではの発想である。
 それは女が、足の裏から地面の気を吸い上げ、それを顔や掌
(てのひら)から発散させていると言うのである。したがって足の裏に近い、足頸(あしくび)は気を吸い上げる第一の関門となると言うのである。気の吸い上げ口だ。
 勿論
(もちろん)、足の裏も綺麗でなければならない。気を吸い上げる機能を持つ足の裏はその入口が「勇泉(ゆうせん)」である。極めて大事な所である。此処に魚の目などがあると、バツだ。踵(かかと)や、その他の足の裏に罅(ひび)割れがあっても、バツだ。こうした足の裏では駄目なのだ。無傷で無垢でなければならない。これを見逃すと、後でとんでもなことになる。

 即ち、足頸が締まり、足の形が奇麗で、腰が締まって、声が玉鈴
(ぎょくりん)を転がすように美しく、口が左右対称であれば、顔も自然と美人であると言う、世間一般の常識とは逆の図式が成り立つのである。そして何よりも、知的であることが絶対条件である。
 一般の俗世間では、顔や化粧に誤魔化
(ごまか)されて、駄馬がしたたかに、駿馬に化けていることがある。差し詰め、夜の巷に出現する夜のチョウチョどもはその最たるものであろう。駄馬が化けている。
 その駄馬の女に乗ると、どうなるか。
 それはまた、人生の坂道を転がり落ちる羽目となるのだ。これまでのツキを根刮ぎ持って行ってしまう。啖
(く)われる。化けた駄馬とは、そうしたものだ。

 夫婦間の不和、夫婦間の倦怠
(けんたい)や、夫が人生の現実逃避主義に陥ってしまうのは、駄馬に乗っているためである。駄馬の禁は侵すべきでない。理趣経的房中術は、この点を力説する。女の注視すべき箇所は、貌(かお)と性器だけではないのだ。全身のトータルバランスが問題なのである。人間は天と地の間の「人間(じんかん)」という分けだ。
 「ジンカン」の所以は、天と地の間にあって、地から大地の気を吸い上げ、その気を頭上の泥丸によって天の気と結びつけている。地の気は重く、天の気は軽い。その両方を結びつけているのが人間である。
 「ジンカン」の呼称は、それを雄弁に物語っている。そして此処には陰と陽が支配し、静と動があり、無と有がある。この現象界で生きるのが人間であり、これによって天・地・人を為
(な)す。

 ファッション雑誌などでスタイルのいい女性を見ても、それは「有」の範囲を映し出しているに過ぎない。
 次に色と形である。
 そこから窺えるものは、殆ど内面的なものは伝わらない。ある意味で内面的な美は匂って来ないだろう。特に、声などの、写真では表現できないものである。
 理趣経的房中術では、「声を聴け」というのだ。俗に云う、声の色である。
 「玉
(ぎょく)が転がるような、涼やかな声でなければならない」という。風鈴のような涼やかさであり、清々しさだ。声の良し悪しを問うのである。その声が、自惚れた声であってはならない。声の端々に、“けん”があってはならない。濁ってはならない。澱(よど)んではならない。

 私はこの禁を一度だけ侵して、顔だけで選んだ細面の女と接して大失敗したことがある。男が、どうしようもなく喰
(く)われるのだ。まさに牡(おす)のカマキリである。これを思うと、私情だが、牡のカマキリは牝(めす)に食われる場合に、痛くないだろうかなどと勝手に思いを抱いたことがある。
 そもそも現象界は大自然の転写が行われている世界だから、自然界で行われている現象は人間にも転写される。その複写を模倣したものが人間であり、人間は大自然の一員に過ぎない。
 何も自然界の枠から食み出して人間だけが孤立し、独自の世界を生きている訳でない。総ては同根から発している。
 真理は、自然界で起こっている現象は人間にも転写され複写されるということである。したがって、蟷螂の
(かまきり)ようにオスがメスから啖(く)われることもある。
 この女は声が悪かった。音色が濁って割れていた。濁りに問題があるのである。そういうものに接近すると運を失う。
 そのとき確かに私の運勢が著
(いちじる)しく衰退し、運が落ちていくような状態に陥ったことがある。これから抜け出すのに、相当な努力を払い、挽回するのに約二ヵ年の歳月を費やした。駄馬は陽気(ようき)の発し方に歪(ひずみ)がある。その歪みで、側近者も歪むのである。

 それで、私は理趣経的房中術の基本を、最も大事にすることを学んだ。それは中心部から発する「陽気の見定め」である。人は誰でも気を発している。しかし、「陽気」を発する人は、非常に少ない。多くは、陰圧線の高い「陰気」を発しているのだ。

 足頸
(あしくび)と腰が締まり、玉鈴(ぎょくりん)の転がるような声をした女は、美貌(びぼう)の持ち主であり、駿馬の条件に入るが、これらの女性の多くは、最初の男に一途 で、浮気をすることが少ないため、このような女性と後に知り合っても、誰かの嫁になっているか、人の持ち物になっていたりして、後の祭りになっている場合が多い。

 とにかく浮気や、転ぶ要素を持たないのである。そのために十代の頃からの早期発掘が大切である。駿馬は親からの遺伝ではなく、天が偶然に与えた天性のようなものである。
 醜貌
(しゅうぼう)の夫婦から、駿馬が生まれることもある。それも歳を取った夫婦からである。それらは古典等の物語に、よく書かれている。
 さて、理趣経的房中術であるが、一般に中国経由で直送される中国式房中術と、どう違うか説明することにしよう。
 一般に房中術といえば、女性の肉体を利用して回春を行う術であるが、男性のためだけに回春
(かいしゅん)ホルモン剤として使うのは邪道(じゃどう)である。交会(こうえ)して、男女ともに“陰陽の気”を補い合うものでなければならない。和する要素がなければならない。「共に」という意味である。

 『理趣経
(りしゅきょう)』には、「如来(にょらい)は一切男女平等を感んずるところに、真理の智賢(ちけん)を説き給(たま)う」とある。
 これを金剛平等
(こんごう‐びょうどう)と言い、万物は一個の輪として繋(つな)がっており、ここには上下の差がないことを説いている。したがって女体を利用して、男だけが回春(かいしゅん)に精を出すものは邪道なのだ。そして『理趣経』は「愛は清らかなものである」と説く。更にはこれに関与し、愛を清らかにしていく菩薩が“金剛さった”である。

 『理趣経』は七世紀から八世紀にかけて完成した経典であると言う。この経典を読むに能
(あた)っても、まず阿闍梨あじゃり/師範たるべき高徳の僧で、密教で、修行が一定の階梯(かいてい)に達し、伝法灌頂(ほうでん‐かんちょう)により秘法を伝授された僧のことをいう)について、経典を読経する為に、その心構えを学べと教える。またこの経典を読む時は、沐浴斎戒(もくよく‐さいかい)をして身を浄(きよ)め、「曜宿(ゆうしゅく)の法」に随(したが)、一番いい日を選び定め、師の教えにしたがい、読み定めよとある。そして単に読むだけではなく、この経典を通じて「人生を学びとれ」としているのである。ある意味で難解な経典である。

 さて、駿馬を説いた話に『竹取物語』がある。
 一般に知られる『竹取物語』は、月の世界の貴族であった“かぐや姫”が、罪あって外界
(げかい)に下され竹取の翁(おきな)に約二十年養われる事から始まる。
 美しく成長したかぐや姫は、多くの貴族から求婚され、時の帝
(みかど)からも求婚を求められたがそれを断わって、月の世界に戻っていく物語である。これを深く悲しんだ帝(みかど)は不死(ふじ)の薬を持っていたが、かぐや姫の居ないのに、この薬を持っていても仕方ないといって、これを富士山の頂上で焼かせたのである。
 その時、この不死の薬の煙は、いつまでも絶えることがなくこの山を「不尽の嶺
(ふじ‐の‐みね)と、称したことが富士山の由来となっている。そして、帝が悲しみに任せて煙を上げる「不尽の嶺」と称した程の、かぐや姫は、まさに駿馬に相応しい条件を備えていたのである。

 『竹取物語』は、SF小説紛
(まが)いの、駿馬の典型的な物語である。
 この駿馬は中国でも、日本でも、貴族等の上流階級に多いとされている。しかし、兄弟の多い家庭に、一人だけその駿馬の天性を受け継いだ者が居るようだ。しかし目立たないので、注意して観察しなければならない。

 更に座っている時は、横顔と襟足
(えりあし)からである。横顔は女の心を透明にする。心が濁っていれば、その横顔は歪んで膨らんだように見える。
 襟足は、頭を支える首に依存したもので、ここに魅力が感じられない女は、知的レベルが低いと言うことになる。
 魅力を感じない原因は、医学的に言うと、第七番頸椎
(けいつい)の脊柱(せきちゅう)の歪(ゆが)みにあり、健康でないためである。
 特に鞭打ち症を煩
(わずら)った女性は左右が対称でない。頸の骨が弱いからだ。
 そのため襟足に魅力がない。その意味で私は、今でもこれを忠実に守っている。これは一種の私の性癖
(せいへき)とでも言おうか。
 この再会に、私はそのような感想をもって、彼女と一番最初に言葉を交わした、あの時のことを思い出していた。


 ─────あれは今から十年程前の小学校五年生の二学期の後半であった。
 再び、小学校を転校した。嬉野から八幡
(北九州市八幡東区)に戻って来たのである。
 八幡に戻った転校先の学校のでは、暗愚な頭脳であったためか、毎日が屈辱
(くつじょく)の連続で、クラス担任からも除(の)け者扱いにされていた。
 特に体育は、人一倍に駄目で、転校して以来、その学校を卒業するまで、体育の評価はずっと「1」がつけられた。

  運動神経も、人の三倍は鈍かった。これは私がそう思ったのではなく、小学五年六年を担当した担任の評価である。独断と偏見に似た断定的な評価であった。
 だが、にもかかわらず、決まって夏場の水泳大会になると、いつも選手で出場し、あらゆる種目で一位になった。わがクラスに何度も優勝を齎
(もたら)したのである。
 私の習った水練泳法は、「遊泳の術」と称され、山村師範と叔父
(私のとっては父の兄にあたる)の合作で、厳しい特訓仕込みによるものである。

 体育の種目での取り得といえば、泳ぐことと、相撲しか、能がなかったのである。相撲も強かった。
 私の相撲の“投げの決め手”は「首投げ」だった。
 相撲にこんな名前の投げ技はないが、相手の首に自分の腕を巻き付け、これを右にも左にも変化させて、投げを打つのである。禁じ手の一種であったが、私の得意とするこの業
(わざ)に掛かると、重量級の相撲部の同級生も簡単に投げ放っことができた。土俵に上がると、いつもこの業で勝ちを納めていた。
 ところがある日、担任から「お前の投げ技は相撲の技でない。勝ちは認められない」と冷たく罵倒
(ばとう)され、勝ちが認められないことはクラスの全員に高らかに宣告されたのであった。
 やがて、唯一の“晴れ舞台”からも引き摺
(ず)り下ろされることになる。
 この担任は、転校生の私を“虫の好かん奴”と思っていたのだろう。それがやがて、クラス全体に伝染して行ったようだ。そして好き嫌いだけではなく、それは“嫌い”ということで、差別に豹変して行った。

 何をするにも“除
(の)け者扱い”で、級友からだけではなく、担任からもよく差別されて、毎日一回はビンタを張られる学校生活を余儀なくされていた。
 当時は、“軍隊帰り”の教師もまだ三分の一ほどは残っていたので、“ビンタ”という体罰は日常茶飯事のことだった。細面の私の顔は、お多福風邪を患
(わずら)った時のように、丸く腫れ上がるのだった。こう言う体罰は当時は学校側も、また教育委員会も黙認していたようである。
 私は毎日、ビンタでお多福風邪に罹っていた。時として、偏頭痛や頭重なども度々だった。
 馬鹿が、輪を掛けたように馬鹿になった思いだった。もうこの頃、人生を諦めていたのかも知れない。何事も投げやりだった。

 また、担任の手作りの竹の鞭
(むち)で、尻を叩かれたりもした。
 夏になると、幾筋もの鞭の跡が、ミミズ腫
(ば)れになり、その部分の皮膚の皮が破れて化膿し、パンツにその部分がくっついて剥(はが)れ、よく出血していた。担任からは、たいした理由もないのに、面白半分に叩かれていたことを記憶している。今でいう教師の横暴な苛(いじ)めのようなものである。
 私は何一つ抵抗できない、暗愚な仔羊
(こ‐ひつじ)に映っていたようだ。子供心に不愉快な気持ちを味わっていたことを憶えている。

 女子の前で、よく恥もかかされた。もう、赤面を通り越していた。
 体育の授業で、体操服を忘れた時でも、私一人がいつもパンツ一枚にされて、校庭の真ん中に座らされたこともある。そして授業を遠ざけられて、二時間以上も坐らされていた。
 休み時間になると、もの珍しさが手伝ったのか、上級生から下級生までが集まってきて、面白半分に、私の泣きっ面
(つら)を覗き込みに来たこともあった。

 この担任は、決まって女子には優しかった。この人も若かったせいであろう。
 その意味で、もうこの頃の教師は聖職者でなく労働者に成り下がっていた。
 体育の時間ともなると、よく女子の前で、逆立ちをやってみせ、拍手喝采
(はくしゅ‐かっさい)を受けて喜び、得意がる軽薄な一面を持ったいた。これを見て有頂天に舞い上がった労働争議で勝利を収めたと錯覚する労働者を見た思いだった。何故か子供心にそういうプロレタリアを気取る日教組の教師を持てこの印象を強くしたのである。平等でもなく、公平でもなかった。
 小学児童の私の眼から見て、そのように映ったのである。
 それを見る度に、
(この童貞野郎!何を生きまいとるんじゃ)と心の中で思っていた。それは侮蔑とも、怨みともつかぬ感想だった。
 私がこの担任から苛められる原因をつくったのは、体育の時間の水泳の授業で、200mの競争をして勝ったことに由来するらしい。それ以降、何かと目の敵
(かたき)にされ、水泳で負けた“お返し”は、教科の授業で償(つぐな)いをさせられていたのである。この担任からは、泳ぐこと以外に能がないと思われていた。


 ─────小学六年の春、まだ進級したばかりの頃、体育の授業で鉄棒があった。
 私の番が来て、鉄棒にぶら下がった途端
(とたん)
 「お前はやらなくっていい」という冷たい言葉を担任が投げた。そして、ガックリと気が抜けて、地面に着地しようと、鉄棒を握った手を離した瞬間、着地の憶測を誤って足首を捻挫
(ねんざ)してしまった。

 幾日か立つと、そこが段々悪化してきて、足首が大きく腫
(は)れて歩き辛らくなった。
 病院に行くと医者は、「足の血管が切れているので」という理由で、盛んに手術を奨められた。
 この要請通り、結局、八幡製鉄病院
(現在の八幡製鉄記念病院)で手術を受けることになった。おまけに全く関係のない扁桃腺(へんとう‐せん)まで手術された。
 当時、学校の授業で怪我をしても、何の保証もなかった。治療代は自分持ちで、怪我をさせた教師も、何の咎めもなかった。“ビンタ”が当たり前の時代であったから、これに文句をいう父母も居なかった。
 またそれだけに、「学校の先生」というのは日教組の前の、“聖職視”されていた節があった。戦前戦中のように聖職者扱いされていたから、当時の親は教師に対して何の反論も出来なかったのである。また日教組自体を労働組合と解さず、教職員の集まり程度しか思っていなかったのである。

 小学校高学年での時で、これまでに楽しい思い出といえば、千代との秘め事と、この入院期間位なもので、嫌な担任や、私を苛める級友とは会わなくて済んだ。私にとっては、何よりも解放された毎日だった。そして、無性に千代に遭いたかった。千代に見舞って欲しかったのだ。だがそんなことは叶う筈
(はず)がなかった。

 私の楽しみといえば、母が二日に一度作って来てくれる弁当箱一杯の大好物の卵焼きと、父の買ってきてくれる木製の船の模型セット。隣のベットに大きな態度で陣取る中年男性の、年頃の娘の世話を焼いた様な、私への身の周りの世話。そして、まだ二十歳に満たない看護婦A子との子供じみた幼稚な会話と、仔犬
(こいぬ)のような他愛のないじゃれ合い。隣の病棟の手品使いの老人の手品ショーの助手等であった。
 そして子供の私が寝静まった頃に、同室の大人たちが始める、一見卑猥
(ひわい)な、過去の忌まわしい戦時中の軍隊生活での出来事の、何やら秘密めいた秘々話(ひそひそ‐ばなし)を耳にすることであった。
 その話題に出てきたものが共通して、中国大陸での参戦した当時の、日本兵が中国女性を辱
(はずかし)めたり、淫(みだ)らな悪戯(いたずら)の挙げ句、殺傷を繰り返していた痴態(ちたい)であった。それを何の責任も、良心の呵責(かしゃく)もなく、自慢げに語り合っていた。私はそれが何であるか、分からぬ儘、興味に満ちた、この眠られぬ夜の時聞を過ごしたことがあった。


 ─────そんな最中にやって来たのが、由紀子であった。
 私の入院中にクラスの学級委員をしていた彼女は、時々クラスを代表し、花束を持って見舞いに来てくれたことがあった。だが持ち込まれた花束に格別の意味はない。恐らくそれは席が隣同士の、同じ机に学ぶ同席の誼
(よしみ)からであろう。
 彼女が遣って来ると、あたりは花が咲いたようになった。それほど目立つ存在だった。

 私の性格は、どちらかといえば内に籠
(こも)る引っ込み思案で、然(しか)も女性にちやほやされる容貌を有していなかった。更に頭も良い方でもない。暗愚である。したがって女性を引き付けるような磁力は、全く持ち合わせていなかった。

 既に、この時から美人の誉れが高かった彼女は、少女にしては目鼻立ちがよく、長い髪を大人のように結い上げて、ほっそりとした容姿で、何処か大人を思わせる整った美しさがあり、畏
(おそ)れ多くて、実に近寄りがたい存在であった。
 同じ病室に居たオヤジどもが、「あの娘
(こ)は、大人になったら、きっと凄い美人になるぞ」などと、来る度に、このようなことを噂して、由起子に些(いささ)かの興味を抱いていたようだ。

 私のような暗愚な人間など、相手にされる筈がないと思っていた。
 それがどうしたことか、予期しないことが起こった。彼女自らが見舞いに来てくれたのである。これには些かの緊張と戸惑いを覚えた。これは彼女のお節介か、あるいは気紛
(き‐まぐ)れかは知らないが、不思議にも来てくれた。
 そして、いつの間にか、彼女と親しくなり、いっしか毎日来るようになった。

 彼女は頭が良く、何処か大人びて、人に世話焼くおしゃまなタイプの女性であった。
 この時、私は幸運にも、彼女の世話焼きのターゲットにされてしまったのである。しかしこういう生温かい私への温情は、決して愛などと名付けるようなものではなかった。
 熱心に通って来ては、学校であったことや学校での勉強を彼女が指導するのだが、全く理解できなかった。私はそれほど暗愚であった。そんなことより、彼女が毎日来てくれることの方が嬉しかった。
 そして私に、あれこれと世話を焼いて、熱心に教えてくれる彼女の愛らしい澄んだ横顔ばかりを、勉強そっちのけで盗み見ていた。

 私は千代という女性がいながらも、千代とは別に、二股掛けて密かに彼女への思いを募らせる心が芽生えていたのである。要するに私は、女に惚
(ほ)れ易い、始末の悪い、暗愚で単純な人間なのである。

 彼女には、私のような暗愚の者に思いを寄せるような気持ちは、全くなかったかも知れないが、私は彼女の気紛れを、私への情愛の意思と勝手に思い込むことで、細やかな自己満足を満たし、いつまでもそれに酔い痴
(し)れていた。天にも昇る思いで、私は毎日幸せに充ちていた。
 やがてそれが一杯になる実感を、この時始めて味わった。これを心ゆくまで満喫したのである。有頂天の極致だったのかも知れない。
 私の性格は元来引っ込み思案のわりには、女性の母性本能を擽
(くすぐ)る、何かがあると思わずに入られなくような天賦(てんぷ)に恵まれていた。不思議にも、早くから女性には、縁があったのである。


 ─────また、社会科の授業では、こういう事もあった。
 それは歴史の授業だった。
 その範囲は江戸時代で、この日は江戸時代の身分制度と宗教の関係についてだった。この時代、武士階級に持て囃
(はや)されたのは禅宗であり、特にその中でも、曹洞宗(そうとう‐しゅう)や黄檗宗(おうばく‐しゅう)に比べて、臨済宗(りんざい‐しゅう)は、特に武士階級の宗教として知れ渡っていた。

 「先生。今は江戸時代ではないから、士・農・工・商の身分がありませんが、自分達の先祖がこの時代、どういう身分だったか、調べる方法はありますか?」と、誰かが質問した。
 「えー、そうだね。ある程度は、みんなの自分の家の宗教で、身分を調べる事が出来るんだよ」
 「へー、どうして自分の家の宗教で、江戸時代の身分が分かるんですか?」
 「それはだね。当時の士・農・工・商の身分と、宗教がとても深い関係をにあるからなんだ。特に江戸時代は、日本人と仏教がとても密接なあったんだよ。では、今から、みんなの家の宗教を訊くから、自分の家の宗教と思ったら、手を挙げてもたいたい。いいかな、順に仏教の宗派名を訊くから、手を挙げるんだよ」

 担任はこういって、順に宗派名を挙げていった。
 「真宗の人、手を挙げて」から始まり、浄土真宗、浄土宗、真言宗、天台宗と準に並べ、
 「今から、武士かそうでないか、はっきりさせる実験をやるよ」といって、
 「禅宗は、とても武家社会と関係が深かったんだよ。その中でも、特に臨済宗はね」そういって、「まず、禅宗の人、手を挙げて」と促した。

 私は父母から、うちの家は禅宗で、臨済宗であるという事を訊いていたから、禅宗といわれて手を挙げたのだった。
 クラス全体の七人程が手を挙げた。当時のクラスは、戦後のベビーブーマーとして生まれたので、四十八人クラスと、生徒の数は多かった。四十八人中七人という数は、もともと江戸時代の武士人口が、全人口の約7%と考えられれいるから、この手の挙げた人数の数字は、ほぼ一致するであろう。その中から、禅宗でも曹洞宗と黄檗宗
(おうばく‐しゅう)は抜け落ちるから、残るのは臨済宗だけとなる。

 「禅宗の人は、まだその儘、手を挙げておくんだよ。そして次の宗派名を言うから、同じ宗派と思ったら、その人は準に手を下ろしていくんだよ。まず曹洞宗の人、手を下ろして。次に黄檗宗の人もだ」
 そういって、準に手を下ろさせ、私と他の二人が手を挙げたままだった。
 その時である。担任の罵声
(ばせい)が飛んだのである。
 「岩崎!お前は何も分からずに、手を挙げているんだろうが、お前は手を挙げる必要はないんだ!お前は早く手を下ろせ!」
 私の家系を穢多
(えた)非人のように見下していたのだろう。

 それでも、私は手を下ろさずにいた。
 そして、ついに激怒
(げきど)したのか、「岩崎!前へ出ろ!社会科の大切な授業を邪魔するんじゃない!」を烈火(れっか)の如く怒った。
 そして、お決まりのコースを歩くのだった。

 前に引き立てられ、往復ビンタで数回殴られ、鼻血を出して席の戻ると言う、訳の分からぬ虐待
(ぎゃくたい)をされたのである。社会科の授業に参加し、問われる通りに手を挙げ、その指示に従ったまでであった。
 しかし何故、こうまでに引き立てる理由があったのだろうか。
 今、思うにつけ、担任は私の家系が、絶対に武士などであろう筈がないと踏んで、これに憎々しく思い、私に虐待
(ぎゃくたい)を加えたのだろうか。
 おそらく担任は、“お前のような奴が、武門の出ではない”と踏んだのだろう。私の祖先が、武士であることを認めないというような、そんな憤りがあったようだ。私は「怒り」の対象にされていたのである。

 現代の日本の社会では、身分制度がないと言う。また、誰もがそう信じている。
 ところが、こうした身分制度は今日にも、先祖という形で残り、その先祖を鼻にかける連中によって、未
(いま)だに息づいているのである。確かに身分制度は存在するのだ。
 家柄なども、そのよい例であるし、元々平等であるべき社会主義体制下でも、北朝鮮のように、「出生成分」なるものがあり、生まれによって人間を差別する、封建制度より更に悪辣
(あくらつ)で残酷な制度が残っている。


 ─────三ヵ月程の入院期間が過ぎて退院したものの、足は元のように良くならず、びっこのような足になった。引き摺
(ず)って学校に行と、それだけで苛(いじ)められた。
 よく「チンバ」と罵声
(ばせい)を浴びた。今で言う「差別」と指弾される禁止用語だ。それが嫌で、よく学校を休んだ。登校拒否児に成り下がろうとしていた。

 学校を休んだ日は、必ずといっていい程、由紀子が来てくれた。今日、習ったことや宿題の範囲を、一々世話を焼いて私に指導してくれるのである。それはまるで姉が弟に面倒を見る、それによく似ていた。
 彼女が来る度に、母は、彼女の家柄も考えず「由紀子さんはいい娘さんね。本当に確
(しっか)りした娘さんだこと。あんな人が、ケンちゃんのお嫁さんになるといいわねェ」が、母の分相応もわきまえぬ、その時の口癖であった。


 ─────六年生の卒業間もない頃、小学五年程度の“分数の計算”ができなくて、担任から罵倒
(ばとう)されたことがあった。

 ある日、意地悪な指名を受けて、黒板に引き立てられたことがあった。
 座った席から黒板までの距離は短かったが、重い足取りから随分
(ずいぶん)長いように感じられた。そこには、屠殺場(とさつ‐ば)に向かう仔羊(こ‐ひつじ)のような、悲しくて辛い、私の姿があった。

 嫌々チョークを持たされて、分数の計算をするように命ぜられた。苦し紛
(まぎ)れに数字を書くのだが、どれも間違っていると見えて、中々席に戻してくれない。この儘、一授業時間分の45分が過ぎてしまった。
 暗愚な私は、担任の罵声以外に、同級生から嘲
(あざけ)りの忍び笑いを背中で感じていた。由紀子もこれらの忍び笑いと一緒に、私を笑っていたのであろうか。
 そんな日は、一授業時間分を遅らせた廉
(かど)で、算数の授業が放課後に延長され、実施されるのであった。その度にクラスの誰からともなく、侮蔑(ぶべつ)の声が上がった。一授業時間分の、私が授業を遅らせたことに誰もが怒りの声を上げ、秘々声(ひそひそ‐ごえ)陰口を叩いた。そんな日は、学校帰りの帰り道で、先回りした連中からよく苛められた。
 私を苛める仲間には、中学生が混じっていた。

 「こいつ、馬鹿のくせに、女がいるんだぞ」
 無知の詰りの限りを一身に浴びた。
 それというのも由紀子という美人の誉れの高い女友達がいて、級友から羨望と恨みを買われていたのかも知れない。学校で由紀子と口をきけば聞くほど、彼女のいないところでは、よく苛められた。集団リンチを受けるのである。顔だけでなく、私の五体からは疵が絶えなかった。どこもかしもも、痣
(あざ)だらけであった。

 学校帰り、五、六人から待ち伏せされ、アパートの地下室の隅みに連れ込まれて、年長の中学生から頭を竹刀でよく叩かれた。
 直立不動の姿勢で、「気を付け!休め!」と何十回も、面白半分に、辺りが暗くなる迄やらされたものである。惨めだった。悔しくて涙が流れた。それでいて気の弱い私は、何一つ抵抗できなかった。ただ、この場所に由紀子が通らないでくれることを只管
(ひたすら)祈ったのを憶(おぼ)えている。

 小学校高学年での時代、楽しい思い出は、この苛めによって、いつも御破算
(ごはさん)になるのだ。いつのも教室の隅みに押しやられて、悔し涙に明け暮れ、歯を食いしばったものである。
 だが、苛められるからといって、死のうなどとは決して思わなかった。
 生きて生きて、生き残って、必ず奴らに仕返しをして遣る……。この程度で死んでたまるか……。烈しい憤りがあった。子供ながらに、その執念だけで生命を燃やしていた。それがやがてバネとなった。この頃に特異なパーソナリティーを構築したようである。
 私はこのときに、「運命に貸しを作らせてやった」と思ったのである。運命は私に借りはあるのである。
 貸しは返すものである。借りたものは返す。これは運命においても例外ではあるまい。
 これこそが以降の「不屈の精神」に繋がったと思うのである。


 ─────ある日の学校帰り、石を投げられて、その石が頭に当たって大怪我をしたことがあった。
 投げた者は分かっていたが、何の咎
(とが)めもなかった。
 頭に包帯を巻けば、“伊達
(だて)包帯”だ、“ウソ怪我”だと罵られた。
 憎まれ役を私一人が引き受け、誰からも差別され、苛めの標的にされていた。そんな時、私の味方は由紀子一人だけであったのである。唯一の楽しかった思い出は、由紀子との淡い、仄
(ほのか)な子供の恋愛ごっこだったのかも知れない。
 由紀子には少年時代の、こんな想い出があった。
 まだ色褪
(いろ‐あ)せこそしないが、それは遠い日のことであった。


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