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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 2
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旅の衣・前編 4
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旅の衣・前編 3

流れを信じて、成り行きに任せ、それに身を委ねる。力んで逆らわない。当然そうなると、歯を食いしばって努力する人生とは無縁になる。グウタラになると言っても過言ではない。奮闘努力して運命を変えようとも思わなくなる。こういうのを「他力」と言うらしい。
 他力と言えば、普通師範がましく遣われる言葉である。
 ところが他力を一歩進めて「他力一乗」になると意味が根底から覆される。他力本願からが遥かに異なる次元へと到達するからである。


●夏の寒い日

 ひょんな事から、この千代と、いつしか情を交わすような深い仲になった。それは男と女の関係の最初の出会いといってもよかった。恐れ多いことだった。
 恐らくこれは、今までの馴
(な)れ馴れしさが、そうさせたのであろう。
 この日は、晩夏にしては秋を感じさせるような肌寒い夏の夜であった。子供心に、人の肌の温
(ぬく)もりが何かと恋しく思われた。それは男女の肌の温もりではなく、最初は母親の肌の温もりのようなものを想像した。
 そのとき横に居て、私に子守歌代わりに小説を読んでくれる千代が座って居た。その千代が今夜は莫迦
(ばか)に艶(なま)めかしく見えるのであった。
 私の眼には、はっきりと女として映っていた。私自身の体調に、何か特別の異変が起こったのだろうかと疑う程だった。そして、千代の姿は、今まで以上に妖艶
(ようえん)だった。艷かしく、怪しいほどを美しく、恐ろしい妖(あや)しさで、私を惹(ひ)き付けるのである。

 紺絣
(こんかすり)の浴衣を着た千代に、冗談のつもりで、
 「千代。お前、俺
(おい)の前で裸になってみろ」と言ったのである。それを聞いた千代は、突然険しい顔色をして、
 「馬鹿いうんじゃないよ!子供のくせに」と、歯切れのいい啖呵
(たんか)を切った。何処までも私を子供扱いする気でいるらしい。私はそう思った。
 そして《子供のくせに》が癪に障る。何とも腹立たしい。その、彼女の言葉が私を意地にならせる原因をつくった。
 男の沽券
(こけん)が削(そ)がれたように思った。このまま言い負かされたら、自尊の源が抜け落ちるような錯覚に陥った。自尊心に留めを刺されたように気になった。

 「何が、俺
(おい)が子供か。立派な大人じゃ」と言って、意地になり、自分の一物を引っ張り出して、千代の目の前に持っていった。自分でも何をしているか、よく分かった。それが恐ろしく思えてきて、卑下(ひげ)した表情で、千代は一瞬顔を歪(ゆが)めた。バカバカしいと思ったのだろう。
 「毛の生えてない子供が、馬鹿なこと言わんで、はよう寝んしゃい!」と怒った。
 「今晩、姉ちゃんが居
(お)らんけ、一緒にお前と寝てもいいか?」
 ついに下心が爆発した。
 この日は、姉が住込みの若い芸者衆を連れ、一泊停りの慰安旅行に出かけて留守であった。奇襲するなら今である。
 千代は、姉から確
(しっか)りした身持ちの堅い娘だと思われた。絶大な信頼があった。このとき千代は、私の子守役として残ったのだった。信頼すればこそである。

 「一緒に寝てもいいか?」という問いに、千代は暫
(しばら)く返事しなかった。一緒の蒲団に入っていいかということである。
 返事をしないのは、無視されていると思った。それが何故か腹立たしかった。黙っているのが癪に障った。ついに堰
(せき)を切ったように、子守役の千代に卑猥(ひわい)で、如何わしいことを言っていた。
 脅すように怒気を込めて《裸になれ》と言ったのである。
 「俺が裸になれというのに、言うこと聞けんのか!俺の言うことが聞けんのなら、姉ちゃんに言うて、お前を馘
(くび)にしてやる!」と怒鳴った。

 千代は不機嫌な顔を見せて、一瞬ムッとしたようだが、
 「馬鹿なこと言わんでおとなしゅうして、早よう、寝るんよ」と言って、宥
(なだ)め、全く相手にしてくれない。それは噛(か)んで言い含めるようでもあった。
 「馬鹿。何を想像しとるんや、俺はなんも、お前を触ったりせんがな」と言いながら、湯上がりの、軽く上にかき揚げて結われた千代の髪の襟足
(えりあし)をじっと見ていた。それは性への憧(あこが)れをそそり、千代の色香(いろか)が、私を駆り立て、それが私を支配した。
 魅
(み)せられたのである。子供が大人の女に魅せられたのだった。それは取り憑(つ)かれたと言ってもよかった。しかし、一切は私に責任があった。怕(こわ)いもの見たさだった。毒を喰らわば皿まで……の誘惑に駆られた。

 長い髪の毛が、浴衣に馴染んで艶
(なま)めかしい。それを見ながら、何度もゴクリと固唾(かたず)を飲んだ。私の脳裡には妖艶が支配していた。鷲掴みにされた。
 浴衣の前が少しはだけて、太股がちらつく。一物が怒張して、どうにもならない状態になった。まさにそれに魅入られていた。
 私は堕罪
(だざい)な誘惑に負けていた。自分の内側にある、肉欲に負けていた。

 今まで想像した卑猥
(ひわい)な女体への空想が、頭の中を速度を早めて空回りし始めた。
 しかし、千代の躰
(からだ)をまともに直視することが怕くて見る出来ない。指先は恐る恐る、彼女の躰の何処かに触れようと興味の触手(しょくしゅ)を伸ばしながらも、現実に目近 で見る、実物大の女体には、何処か恐ろしくて憚(はばか)るものがあった。そして強烈な疲労が伴って、一瞬の躊躇(ちゅうちょ)が脳裡(のうり)を過(よぎ)っていた。

 しかし、卑しいものである。
 「俺、いつも寂しいんや、一人ぼっちで……」と言って、寒さで震
(ふる)える真似(まね)をし、それを今夜の肌寒い気候のせいにして、いつの間にか図々しく彼女の蒲団(ふとん)に潜り込もうとしていた。
 「しょうがない子」と諦めたような言葉をぽっりと吐いて、私を蒲団の中に誘い入れた。
 「寒いんでしょ。あたしの“おいろいろい
(佐賀や長崎の肥前地方では「内股」のことを指す)”の中に足を入れて温ったまりなさい」と、更に私の足を誘い入れた。

 千代の躰には優しい温もりがあった。そして力を抜き、抵抗一つしない。
 その中に千代の、女の匂いを嗅ぎ取った。此処まで来たら、更に、奥に入り込んで行くしかない。そう思って千代に抱きついた。千代も、この事を既に予期していたのであろうか。拒む力を失い、羞恥心すら失いかけているように思えた。

 彼女は、改めて蒲団の上に座り直し、自分から浴衣の赤い帯を解いて、敷蒲団に静かに横たわった。そこには何らかの羞
(はじ)らいがあった。それは処女が示す羞恥(しゅうち)の、躊躇(ためら)いのようなもので、清楚(せいそ)な美しさを秘めていた。その証拠に、ほんの一瞬、千代の躰が薄桃色に光った。正確に表現するならば、薄紅色に光ったと言った方が、より正しいかも知れない。また、それが千代に残された最後の羞恥心であったのかも知れない。生まれて初めて恐ろしいものを見たような気がした。そのくせにも千代に躙り寄り彼女の躰の一部を触っていた。それは益々エスカレートした。これまでの女性に対する妄想が爆発した。

 それを見た私は、突然頭がキーンと痛くなり、
 「してもいいんか、してもいいんか。本当にいいんか。でも、俺、仕方分からんがな。どうしたらええんじゃ」と、焦りを連続させていた。自分で血相を変えてうろたえ、その行動の混乱ぶりがよく分かった。
 落ち着け、落ち着けと何度も自分を叱咤
(しった)した。だが鎮まらない。
 抑制と妄動が鬩
(せめ)ぎ合い、性への憧れと、想像した女体が、どうも一致しないのである。横たわる千代の細い胴のくびれに固唾(かたず)を飲み、更に豊かな胸の膨らみに手をやった時、恐れに似たこの愚行は、私の手を酷く震えさせた。何か悪事を働いているような罪悪感があった。それは愚行ではなく、私のとっては蛮行だったかも知れない。悪党に顛落(てんらく)していた。
 そして、彼女の招き入で、もう完全に私の所有物になってしまったような気持ちを抱いた。
 初めての筆卸
(ふでおろし)は、この時であった。

 この後、数カ月で再び北九州に転校するが、夏休み、冬休み、春休みには、必ず嬉野に戻ってきて、千代の躰に、飢えた狼のように貪
(むさぼ)り付いた。その度に千代は顔を歪めた。清くありたかったのであろう。恋愛するなら純愛を通したかったのだろう。だがそれを裏切っていた。
 そして私は淫
(みだ)らな愛玩(あいがん)を重ねた。深みに嵌まって行くようであった。
 それは、抜き差しならぬ恐ろしい幻に取り憑
(つ)かれていたかのようであった。それはまさに、自制の効かない動物であった。肉欲に狂っていたのである。
 同時に有頂天に舞い上がった。
 一方、土足で踏入り、女神をモノにしたという醜態が浮上した。神をも恐れぬ愚行を晒した自分が、何とも醜いように感じた。
 悪魔の囁
(ささや)きに負けたという悔悟があったのかも知れない。

 そもそも私が生まれながらにして暗愚である。一を聞いても十を知るどころか、その一すら理解できないのである。愚者ゆえに。
 人から、お前はバカだと言われれば、素直にそれが納得出来る。それに反論しない。その暗愚に、何故か悔悟の念が疾
(はし)ったのである。怕(こわ)さを感得したのだろうか。落ちて行く自分の未来像を何処かで垣間みたのであろうか。

 しかし、私の心と躰は矛盾し、分裂していた。舞い上がるだけ舞い上がり、狂うだけ狂っていた。
 その狂いが、また奇妙な言葉を吐かせた。
 ただ私は、動物のように彼女の肉体に貪り付くのは、些
(いささ)か失礼と思い、その事始めに当たり、いつの頃からか、
 「ごっつぁんです」という変な挨拶を交わすようになっていた。恒例化したのである。怕いことだった。愚者の末路を突き進んでいた。狂った有頂天に舞い上がっていた。

 これは私だけの情事の隠語
(いんご)であった。
 彼女は、これが多少也とも可笑しいとみえて、いつもその度にくすくす笑っていた。これから先、彼女の心をなごませたのは、どうもこの情事の隠語だけであったらしい。
 しかし、私は、千代を躰を交える度に、その行為の最後は、何か空しいものを感じるようになっていた。それは肉欲の空しさと言ってもよかった。情愛が空虚なものに思えて来るのだった。
 一旦肉欲の“甘味さ”を知った子供が、再び純潔な子供に戻ることはない。それは丁度、大人が純潔だった子供時代に戻ることがないようにで、である。肉欲の甘味に、もう煩悩
(ぼんのう)で脳を灼(や)いていたのである。転落した堕天使(だ‐てんし)に成り下がっていた。純粋は穢(けが)れたのだった。

 かつて今川義元
(いまがわ‐よしもと)は、幼少の徳川家康を人質にとって居た時、「竹千代(家康の幼少名)を醜く育てよ」と、養育係の家臣に命じていた。
 “醜く育てる”とは、少年時代の早い時期から、女を宛
(あ)てがい、美食に溺れさせると言う事であった。性欲と食欲の両方の面からその味を覚えさせ、人間を廃人同様にする育て方であった。こうしたものを早い時期から子供に覚えさせると、もうそれだけで狂ってしまう。後へは戻れなくなる。
 それは純真が穢れるからだ。
 私はこの時に穢れたのだった。自ら堕天使へと墜
(お)ちたのだった。

 性と言うもの、あるいはエロスというものは、些
(いささ)かなりにも冥(くら)さと、後ろめたさを引き摺(ず)るものである。特に年端(としは)も行かぬ子供では尚更であろう。疾(やま)しいことであれば気がひけるのである。人間の魔性を浮き彫りにする。そんな魔性を持つのが人間かも知れない。
 あるいは陰湿な不潔感が、性の陶酔の中に隠されているのかも知れない。
 セックス過剰は、肉の罪悪の発信源であるかのような錯覚を抱き、ある種の恐怖や怯
(おび)えがこの中に潜んでいるのかも知れない。そして魔性に震えつつも、そこに引き摺(ず)られて行く恐ろしさがある。

 それは性や肉体が、そもそも悲しい存在であるからだ。肉の世界が、もし、心や魂から切り離されて一人歩きをする時、そこには自制の効かない、悲しい暗澹
(あんたん)たる肉の世界に墜(お)ちて行く現実があるようだ。特に女は、単に壊れた人形と化していく恐ろしさがある。

 セックス過剰は、女を一種の壊れて、剥
(は)げ落ちた人形にしてしまい、くたびれて、疲れて、汗ばんだ物にしてしまう恐ろしさがある。それは成人になってから性交をした、誰にでも経験があろう、あの、肉の交わりをした事後の、幻滅感や、一晩を過ごした女と迎える、朝の、何とも言えない、遣(や)ることだけは遣った「肉欲の嵐の通り過ぎた、また、済んだ後の空しさ」である。遣(や)り過ぎて、「もう結構」という言葉と倶(とも)に、一種の虚空が襲って来るのである。

 人間の肉体は、愛を充
(み)たすことの出来ない、そんな他愛のないものから出来ているのである。ここに肉体の限界があるように思う。
 確かに、肉の交わりに於ては、それ自体に激しい陶酔感が存在するが、この陶酔感は永遠のものでない。
 肉の喜び、あるいは性の喜びと言うものは、単刀直入にいえば、何処まで追求しても「感覚的なもの」に過ぎない。それ以上のものでない。決して歓喜と言うものでない。涙を流すようなものでない。肉から起こった一時的な疑似だ。疑似の迷宮に彷徨っているに過ぎない。
 したがって感覚的な喜びは、それ自体が二つの欠陥をもっている。
 その一つは、肉の喜びや、性の喜びには持続力がないことだ。持続時間を長くする方法はあろうが、それでもそれは永遠ではない。そして、もう一つは、繰り返さなければ、それ自体が直ぐに萎
(な)えてしまうことであり、また、「狎(な)れる」という現象を起こし、倦怠(けんたい)の世界に追い詰められることである。

 これは五年、十年、十五年、二十年と連れ添った相思相愛の夫婦が、倦怠感に陥り、早い話が、例えば、どんなに美味しいものを食べても、いつも同じ食べ物を繰り返し食べれば、飽きてしまうことと同じである。濫用
(らんよう)するならば、やがて新鮮さを失うことだ。
 特に肉体のこれは、時が経つにつれ、次第に衰えると言う欠陥的な性質をもっている。

 肉を濫用すれば、そこには飽満が待ち構え、疲労が待ち構え、悲哀が待ち構えているのである。これが陶酔が済んだ後の空しさである。もし、この空しさを追い払おうとすれば、人間はもっと烈しい刺戟
(しげき)を求め、異常の中に身を投じなければならなくなるだろう。
 異常性欲とは、こうして噴出するのである。更にその上、こうした刺戟
にも狎(な)れてしまえば、更に強い刺戟を求めて、空しい奔走と、以前にも益(ま)した堂々巡りが繰り返されるのである。何と言う悲しさであろうか。
 ところが、肉体主義者や肉体信奉者は、こうした肉の持つ悲哀なることを、殆ど考えようとしない。肉体に悲しい側面があることを認めようとはしないことである。世の肉体主義者達は、肉や性の持つ本来の悲哀に気付こうともせず、人間の心や魂よりも、肉体感覚の快楽遊技や、肉の定められた生命感に重点を置く人達なのである。
 まさに、限り無い物質欲の唯物史観が、根本的な肉への陶酔の過
(あやま)ちとして、尽きない肉欲の塊(かたまり)の淫習として繰り返されるのである。
 しかし、陶酔の済んだ後の、悲哀に眼を背けては、人生を見据える眼は、この時点で失われてしまうのである。

 世の肉体主義者、肉体信奉者、性教育至上主義者、唯物史観に入れ揚げる進歩人達は、「本当に二人が愛し合っているのなら、心だけではなく、肉体までも捧げたいと思うのが当然である」という恋愛論を捲
(まく)し立てて、これに同調を求める。また、恋愛中の若い男女は、肉を媒介させて急性に「セックス」という禁断の木の実を食べたがる行為は、正常な肉体の証拠だと断定して懸(か)かる。
 しかし、心だけではなく、肉までも与えようとする愛情は、果たして純粋なのか。
 正常に道義が機能している証拠なのか。
 ある意味で、結婚まで肉体を許さなかった人達に比べて、誠実であったかも知れない。セックスを不潔だと断定しなかった、プラトニックの純愛主義者に比べて、誠実であったことは、なるほど肯
(うなず)けるかも知れない。
 世の中には、金銭や物質によって、こうした利害関係で肉体を与える人達が非常に多い。時には、結婚自体がこうした物質的な繋
(つな)がりによって成り立っている場合すらある。そうした現実の中で、肉体を捧げあった男女の、無償で、自己献身的な行為は、不潔どころか、誠実そのものであろう。
 ところが、これが不潔でもなく、罪悪的なものでないにしても、それ自身は、何とも悲しい、悲哀を伴ったものであることは間違いなさそうだ。

 私はこの時、千代との仲をこうした「悲しみ」として、薄々捉え始めていたのである。
 「人を想う」ということには、悲しみが付き纏
(まと)うのだ。だから、より以上に、千代が何とも不憫(ふびん)でならなかった。
 確かに、肉の交わりは、恋人同士にとっては、決して不潔なものではないだろう。ただ、肉の交わりが悲しいのは、人間と言う生き物そのものが、「悲哀」と言うものを引っ提げている生き物であるからではないか。人間の悲しさは、ここに起因があるのではないか、と思い始めたのである。

 もし、人間の躰が、人間の肉の交わりが、後を曳
(ひ)かぬ遊びと同じであったら、それはそれで、触覚を愉(たの)しませるスポーツセックスとして楽しむことができるであろう。また、悲しさも、後は曳(ひ)くまい。
 ところが一方で、初めての純愛や純潔を捧げた人とは、生涯において、それが心から完全に消えることはあり得ない。
 私には、克明に千代の肉体が刻印されたのだった。生まれてはじめて、この時に女を抱いたのだ。それは私が、その将来において、全く無関係な境遇や、別々の世界で生きたとしても、その記憶は永遠に消える事のない、克明に刻印された事実であった。

 千代の生
(お)い立ちは、貧しい育ちだったらしい。
 貧しさが故に、あるいは筆舌に尽くせぬ事情によって、田舎の温泉町の芸妓の世界に身を沈めたとも言う。そんな千代に、私は更に汚れた苦悶
(くもん)を押しつけたが、この時にはこの事が、実際にどういう結果を招くのか、まだ本当に分っていなかった。この墮天使は実に暗愚であった。そして愚が、既に蛮に進行していることに顧みることもなかった。千代の苦しみが分らず、ただ独り善がりで、独善家を気取り、いい気になっていたのである。
 ずるずると虎口に入って行くように、蛮に引き摺られていったのである。
 自分が恐ろしいことをしているのに、全く気付いていなかった。ただ思い上がり、奢
(おご)り昂(たかぶ)っていた。



●惜別

 千代との別れ、それはまさに惜別
(せきべつ)であった。
 母の病気が治り、私は再び北九州に戻ることになった。大きな荷物を持った私に、付き添ったのは、姉と千代であった。
 武雄駅まで、タクシーを飛ばして、姉と千代が見送りに来てくれた。
 「千代ちゃん。悪いけど健太郎を肥前山口
(ひぜん‐やまぐち)まで連れて行ってくんしゃい」
 何故か、姉はこう切り出した。

 千代は一瞬驚いたように、
 「あたしが、肥前山口まで連れて、また戻って来るとですか?」 
 「悪いけど、そうしてくんしゃい。今日はお座敷、出んでもいいから」
 私は千代の顔をちらりと見て、
 「やったね」と言うと、「何が……」と、千代が遣
(や)り返した。

 姉は、既に私と千代の事を知っていたのだろうか。一瞬言葉にならない寒気を覚えた。何故、姉は千代を肥前山口まで行くように命じたのだろうか。

 列車が駅のホームに入って来た。千代は、決して私と途中まで同行することを喜んでいなかった。列車の乗った後も、ぶつぶつとこぼしていた。
 「ほんなこつ、馬鹿馬鹿しか。ほんなこつ!」
 ふてくされたような顔をして、一等車の同じ席に座った。やがて列車は動き出して、ホームにいた姉の顔が見えなくなった。
 千代はまだふて腐れていた。
 独り言のように、「馬鹿馬鹿しか。行って、戻ってくるなんて。ほんなこつ……」と呟
(つぶ)いていた。
 私はこれに返すように、
 「そんなに馬鹿馬鹿しかったら、このまま俺の家まで来ればいいのに」
 「そんなこつ、できるか!この馬鹿ッたれ!」と、凄く不機嫌で言い放ち、更に膨れた。
 その時の顔が、何故か恨みを漂わせているようだった。

 一等車は私たち二人だけであった。
 昼間のこの時間の乗客は、いつもながらに少なく、一等車だけはガランとしていた。この列車が、私と千代のために用意されたもののように錯覚するくらいであった。まさに二人だけの特等席であった。
 千代は私の方を振り向こうともせず、黙っていた。不機嫌で怒ってもいた。だが何で黙っているか、その理由は分からなかった。彼女は彼女で、煮えくり返る、何かがあったように思うのである。だが、暗愚な私に知る由もない。

 列車はもうじき、肥前山口の差し掛かろうとしていた。
 私は先を読んで、
 「もうじき肥前山口だよ」
 「そんなこつ、分かっている!」と怒ったように返事を返した。
 列車のスピードが段々減速されて来た。その時である。
 「こら、健太郎!あたしのこと忘れるじゃなかよ」
 兎
(と)に角(かく)怒っていた。それはまるで、世話女房が単身赴任をする亭主に対して、浮気を封じるかのような言い種(ぐさ)であった。

 私は黙って、千代の手を握った。そしてにこりと笑った。
 「心配せんでもよかと。どうしてお前を忘れるんや」
 肥前山口についた時、千代は何度も後ろを振り返りながら、車外に出て行った。そしてホームに出た後、私のいる窓の処にやって来て、発車時刻を待ちながら、小さく手を上げて、その手を振った。顔はどこか元気がなく、血の気の引いたような蒼
(あお)白い顔をして、そこに立っているのがやっとというような恰好で、私を見送っていた。何となく哀れだった。

 列車はゆっくりと動き出した。彼女の眼に、何か炯
(ひか)るものを見た。それは涙だった。
 千代は思わず顔を塞
(ふさ)いだようであった。私にはそのように映った。何故かこの場が、廻り舞台まわりぶたいのよう早変わりし、何だか急に悲しいものになったようだ。
 列車は次第に速度を上げて行った。私一人が、この一等車に取り残された感じだった。残留孤児のように取り残されてしまった。

 この見送りは、何とも後味の悪さを感じさせずにはいられなかった。それは有頂天の後の訪れる、あの後味の悪さである。いい気になって思い上がり、総てが順風満帆のように運ばれていると思った瞬間、一気に“どんでん返し”を喰らうのである。そのうえ妄執だけが募った。哀れな未練を引き摺っていた。
 思い上がり、有頂天になった代償は想像を絶するほど高くつくものである。
 人間、徳がなければ結局、高い代償を払わされる。それは性格から来るものであろうし、また自身の小人から怒る徳の無さである。

 『貞観政要
(じょうがんせいよう)』には帝王学のことが述べられいる。君(くん)として如何にあるべきかが説かれ、徳として「九徳」が挙げられている。また戒めも権力者としての愚と蛮を鋭く指摘している。
 明君と暗君の違いは何処にあるか。
 一言で云えば、奢
(おご)りが出るか否かである。
 換言すれば有頂天に舞い上がり、それでいい気になって思い上がればわが身を滅ぼすだけでなく、国まで滅ぼしてしまう戒めが説かれている。これは組織においても同じだろう。人間は思い上がって奢りが出れば、志向が人生の目的から逸脱してしまうのである。そしてその代償は、身を滅ぼしても、それで償えるほど安くないとしている。そこまで逸脱すれば、代償は高くつくとあるのである。
 人間は修行期に多くを修行してそれを体得し、近い将来行く脱しないように自己管理をしておかねばならないのである。羽目を外せば取り返しがつかなくなるのである。
 それは肉においても、心同様、修練しておかねばならないのである。心の鍛錬が出来ていないと、肉まで滅ぼすのである。

 暗愚だった……。当時の私はその一言に尽きる。
 奢りが出ると賢人でも愚人に顛落
(てんらく)するとある。幸運続きで、順風満帆。それにいい気になり、有頂天に舞い上がるのも同様である。
 かの陶淵明の『対酒
(たいしゅ)』にある一節に、「盛年(せいねん)は重ねて来らず 一日再晨(いつじつ‐あした)なり難し 時に及んでは当(まさ)に勉励(べんれい)すべし 歳月人を待たず」とある。
 『対酒』に記された大意は、「人の命の果敢
(はか)なさは、道に舞い上がる埃(ほこり)のようなものではないか。機会があれば楽しみ、一緒に酒を飲もうではないか。今日一日の事は、再び明日同じものが巡って来ないのだ。従ってこの時期にあっては、楽しむべき時に楽しみ、勉強すべき時に勉強をしなければならない。歳月というものは、決して人間が老いて行くのを待ってくれないものだ」という、人生の飄々(ひょう‐ひょう)とした現実を述べている。

 この詩の中で「時に及んでは当
(まさ)に勉励すべし」とある一節は、現在では「少年老い易く、学なり難し」の論語の一節を捩って、「若い時に一生懸命勉強をせよ」というように解釈されているようであるが、本当は「楽しむべき時に楽しみ、勉強すべき時に勉強をする」という意味である。刻一刻と流転する宇宙現象を知り抜いた、陶淵明ならではの人生訓である。

 肉の世界、それは滅ぶ世界である。やがて潰えて行く。酸化し、腐敗する。新品でも、やがて老朽化の道を辿る。一刻も、進行を留めることは出来ないのである。時々刻々と変化し、衰えていく世界である。
 エロスの世界では、肉の交わりと言うものが、今日の多くの人が考えるような、決して軽いものではなく、一人の女性の人生に深い傷跡を残す恐ろしいものであると言うことを、私は薄々感じ始めていたのである。それは異常な恋愛の結末を思わせるものだった。
 そして、この時が千代との惜別であった。追憶する度に、あの季節のことを思い出す。随分と気分の重い季節だったと記憶する。



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