─────ひょんな事から、この千代と、いつしか情を交わすような深い仲になった。それは男と女の関係の最初の出会いといってもよかった。恐れ多いことだった。
恐らくこれは、今までの馴(な)れ馴れしさが、そうさせたのであろう。
この日は、晩夏にしては秋を感じさせるような肌寒い夏の夜であった。子供心に、人の肌の温(ぬく)もりが何かと恋しく思われた。それは男女の肌の温もりではなく、最初は母親の肌の温もりのようなものを想像した。
その時、横に居て、私に子守歌代わりに小説を読んでくれる千代が座って居た。その千代が今夜は莫迦(ばか)に艶(なま)めかしく見えるのであった。
私の眼には、はっきりと女として映っていた。私自身の体調に、何か特別の異変が起こったのだろうかと疑う程だった。そして、千代の姿は、今まで以上に妖艶(ようえん)だった。艷かしく、怪しいほどを美しく、恐ろしい妖(あや)しさで、私を惹(ひ)き付けるのであった。
紺絣(こんかすり) の浴衣を着た千代に、冗談のつもりで、
「千代。お前、俺(おい)の前で裸になってみろ」と言ったのである。それを聞いた千代は、突然険しい顔色をして、
「馬鹿いうんじゃないよ!子供のくせに」と、歯切れのいい啖呵(たんか)を切った。何処までも私を子供扱いする気でいるらしい。私はそう思った。
そして《子供のくせに》と言う彼女の言葉は、私を意地にならせる原因をつくった。
「何が、俺(おい)が子供か。立派な大人じゃ」と言って、意地になり、自分の一物を引っ張り出して、千代の目の前に持っていった。自分でも何をしているか、よく分かった。それが恐ろしく思えてきて、卑下(ひげ)した表情で、千代は一瞬顔を歪(ゆが)めた。
「毛の生えてない子供が、馬鹿なこと言わんで、はよう寝んしゃい!」と怒った。
「今晩、姉ちゃんが居(お)らんけ、一緒にお前と寝てもいいか?」
この日は、姉が住込みの若い芸者衆を連れ、一泊停りの慰安旅行に出かけて留守であった。
千代は、姉からしっかりした固い娘だと思われて、絶大な信頼があった。この時、千代は私の子守役として残ったのだった。
「一緒にお前と寝てもいいか?」という問いに、千代は暫く返事しなかった。
私は無視されていると思った。それが何故か腹立たしかった。ついに堰(せき)を切ったように、子守役の千代に、卑猥(ひわい)で、如何わしいことを言っていたのである。
「俺が裸になれというのに、言うこと聞けんのか!俺の言うことが聞けんのなら、姉ちゃんに言うて、お前を馘(くび)にしてやる!」と怒鳴った。
千代は不機嫌な顔を見せて、一瞬ムッとしたようだが、
「馬鹿なこと言わんでおとなしゅうして、早よう、寝るんよ」と言って、宥(なだ)め、全く相手にしてくれない。
「馬鹿。何を想像しとるんや、俺はなんも、お前を触ったりせんがな」と言いながら、湯上がりの、軽く上にかき揚げて結われた千代の髪の襟足をじっと見ていた。それは私の性への憧(あこが)れをそそり、千代の色香(いろか)が、私を駆り立て、それが私を支配した。
魅(み)せられたのだった。子供が大人の女に魅せられたのだった。取り憑(つ)かれたと言ってもよかった。しかし、一切は私に責任があった。怕(こわ)いもの見たさだった。
長い髪の毛が、浴衣に馴染んで艶(なま)めかしい。それを見ながら、何度もゴクリと固唾(かたず)を飲んだ。妖艶が支配していた。
浴衣の前が少しはだけて、太股がちらつく。一物が怒張して、どうにもならない状態になった。まさにそれに魅入られていた。
私は堕罪(だざい)な誘惑に負けていた。自分の内側にある、肉欲に負けていた。
今まで想像した卑猥(ひわい)な女体への空想が、頭の中を速度を早めて空回りし始めた。しかし、千代の躰(からだ)をまともに直視することが怕くて見る出来ない。指先は恐る恐る、彼女の躰の何処かに触れようと興味の触手(しょくしゅ)を伸ばしながらも、現実に目近 で見る、実物大の女体には、何処か恐ろしくて憚(はばか)るものがあった。そして強烈な疲労が伴って、一瞬の躊躇(ちゅうちょ)が脳裡(のうり)を過(よぎ)っていた。
しかし、卑しいものである。
「俺、いつも寂しいんや、一人ぼっちで」と言って、寒さで震(ふる)える真似(まね)をし、それを今夜の肌寒い気候のせいにして、いつの間にか図々しく彼女の蒲団(ふとん)に潜り込もうとしていた。
「しょうがない子」と諦めたような言葉をぽっりと吐いて、私を蒲団の中に誘い入れた。
「寒いんでしょ。あたしの“おいろいろい(佐賀や長崎や佐賀の肥前地方では「内股」を指す)”の中に足を入れて温ったまりなさい」と、更に私の足を誘い入れた。
千代の躰には優しい温もりがあった。そして力を抜き、抵抗一つしない。その中に千代の、女の匂いを嗅ぎ取った。此処まで来たら、更に、奥に入り込んで行くしかない。そう思って千代に抱きついた。千代も、この事を既に予期していたのであろうか。拒む力を失い、羞恥心すら失いかけているように思えた。
彼女は、改めて蒲団の上に座り直し、自分から浴衣の赤い帯を解いて、敷蒲団に静かに横たわった。そこには何らかの羞(はじ)らいがあった。それは処女が示す羞恥(しゅうち)の、躊躇(ためら)いのようなもので、清楚(せいそ)な美しさを秘めていた。その証拠に、ほんの一瞬、千代の躰が薄桃色に光った。正確に表現するならば、薄紅色に光ったと言った方が、より正しいかも知れない。また、それが千代に残された最後の羞恥心であったのかも知れない。生まれて初めて恐ろしいものを見たような気がした。
それを見た私は、突然頭がキーンと痛くなり、
「してもいいんか、してもいいんか。本当にいいんか。でも、俺、仕方分からんがな。どうしたらええんじゃ」と、焦りを連続させていた。自分で血相を変えてうろたえ、その行動の混乱ぶりがよく分かった。
落ち着け、落ち着けと何度も自分を叱咤(しった)した。性への憧れと、想像した女体が、どうも一致しないのである。横たわる千代の細い胴のくびれに固唾(かたず)を飲み、更に豊かな胸の膨らみに手をやった時、恐れに似たこの愚行は、私の手を酷く震えさせた。
そして、彼女の招き入で、もう完全に私の所有物になってしまったような気持ちを抱いた。初めての筆卸(ふでおろし)は、この時であった。
この後、数カ月で再び北九州に転校するが、夏休み、冬休み、春休みには、必ず嬉野に戻ってきて、千代の躰に、飢えた狼のように貪(むさぼ)り付いた。その度に千代は顔を歪めた。清くありたかったのであろう。そして私は淫(みだ)らな愛玩(あいがん)を重ねた。
それは、抜き差しならぬ恐ろしい幻に取り憑(つ)かれていたかのようであった。それはまさに、自制の効かない動物であった。肉欲に狂っていたのである。
しかし、ただ私は、動物のように彼女の肉体に貪り付くのは、些(いささ)か失礼と思い、その事始めに当たり、いつの頃からか、
「ごっつぁんです」という変な挨拶を交わすようになっていた。
これは私だけの情事の隠語(いんご)であった。彼女は、これが多少也とも可笑しいとみえて、いつもその度にくすくす笑っていた。これから先、彼女の心をなごませたのは、どうもこの情事の隠語だけであったらしい。
しかし、私は、千代を躰を交える度に、その行為の最後は、何か空しいものを感じるようになっていた。それは肉欲の空しさと言ってもよかった。情愛が空虚なものに思えて来るのだった。
一旦肉欲の甘味さを知った子供が、再び純潔な子供に戻ることはない。それは丁度、大人が純潔だった子供時代に戻ることがないようにで、である。
性と言うもの、あるいはエロスというものは、些(いささ)かなりにも冥(くら)さと、後ろめたさを引き摺(ず)るものである。あるいは陰湿な不潔感が、性の陶酔の中に隠されているのかも知れない。セックス過剰は、肉の罪悪の発信源であるかのような錯覚を抱き、ある種の恐怖や怯(おび)えがこの中に潜んでいるのかも知れない。
それは性や肉体が、そもそも悲しい存在であるからだ。肉の世界が、もし、心や魂から切り離されて一人歩きをする時、そこには自制の効かない、悲しい暗澹(あんたん)たる肉の世界に墜(お)ちて行く現実があるようだ。特に女は、単に壊れた人形と化していく恐ろしさがある。
セックス過剰は、女を一種の壊れて、剥(は)げ落ちた人形にしてしまい、くたびれて、疲れて、汗ばんだ物にしてしまう恐ろしさがある。それは成人になってから性交をした、誰にでも経験があろう、あの、肉の交わりをした事後の、幻滅感や、一晩を過ごした女と迎える、朝の、何とも言えない、遣(や)ることだけは遣った「肉欲の嵐の通り過ぎた、また、済んだ後の空しさ」である。遣(や)り過ぎて、「もう結構」という言葉と倶(とも)に、一種の虚空が襲って来るのである。
人間の肉体は、愛を充(み)たすことの出来ない、そんな他愛のないものから出来ているのである。ここに肉体の限界があるように思う。
確かに、肉の交わりに於ては、それ自体に激しい陶酔感が存在するが、この陶酔感は永遠のものでない。
肉の喜び、あるいは性の喜びと言うものは、単刀直入にいえば、何処まで追求しても「感覚的なもの」に過ぎない。それ以上のものでない。感覚的な喜びは、それ自体が二つの欠陥をもっている。
その一つは、肉の喜びや、性の喜びには持続力がないことだ。持続時間を長くする方法はあろうが、それでもそれは永遠ではない。そして、もう一つは、繰り返さなければ、それ自体が直ぐに萎(な)えてしまうことであり、また、「狎(な)れる」という現象を起こし、倦怠(けんたい)の世界に追い詰められることである。
これは五年、十年、十五年、二十年と連れ添った相思相愛の夫婦が、倦怠感に陥り、早い話が、例えば、どんなに美味しいものを食べても、いつも同じ食べ物を繰り返し食べれば、飽きてしまうことと同じである。濫用(らんよう)するならば、やがて新鮮さを失うことだ。
特に、肉体のこれは、次第に衰えると言う欠陥的な性質をもっている。
肉を濫用すれば、そこには飽満が待ち構え、疲労が待ち構え、悲哀が待ち構えているのである。これが陶酔が済んだ後の空しさである。もし、この空しさを追い払おうとすれば、人間はもっと烈しい刺戟を求め、異常の中に身を投じなければならなくなるだろう。
異常性欲とは、こうして噴出するのである。更にその上、こうした刺戟(しげき)にも狎(な)れてしまえば、更に強い刺戟を求めて、空しい奔走と、以前にも益(ま)した堂々巡りが繰り返されるのである。何と言う悲しさであろうか。
ところが、肉体主義者や肉体信奉者は、こうした肉の持つ悲哀なることを、殆ど考えようとしないのである。世の肉体主義者達は、肉や性の持つ本来の悲哀に気付こうともせず、人間の心や魂よりも、肉体感覚の快楽遊技や、肉の定められた生命感に重点を置く人達なのである。
まさに、限り無い物質欲の唯物史観が、根本的な肉への陶酔の過(あやま)ちとして、尽きない肉欲の塊(かたまり)の淫習として繰り返されるのである。
しかし、陶酔の済んだ後の、悲哀に眼を背けては、人生を見据える眼は、この時点で失われてしまうのである。
世の肉体主義者、肉体信奉者、性教育至上主義者、唯物史観に入れ揚げる進歩人達は、「本当に二人が愛しあっているのなら、心だけではなく、肉体も捧げあいたいのが当然である」という論理を捲(まく)し立てて、これに同調を求める。また、恋愛中の若い男女は、急性に「セックス」という禁断の木の実を食べたがる行為は、正常な肉体の証拠だと断定して懸(か)かる。
しかし、「心だけではなく、実も与えようとする愛情」は、果たして純粋なのか。正常に道義が機能している証拠なのか。
ある意味で、結婚まで肉体を許さなかった人達に比べて、誠実であったかも知れない。セックスを不潔だと断定しなかった、プラトニックの純愛主義者に比べて、誠実であったことは、なるほど肯(うなず)けるかも知れない。
世の中には、金銭や物質によって、こうした利害関係で肉体を与える人達が非常に多い。時には、結婚自体がこうした物質的な繋(つな)がりによって成り立っている場合すらある。そうした現実の中で、肉体を捧げあった男女の、無償で、自己献身的な行為は、不潔どころか、誠実そのものであろう。
ところが、これが不潔でもなく、罪悪的なものでないにしても、それ自身は、何とも悲しい、悲哀を伴ったものであることは間違いなさそうだ。
私はこの時、千代との仲をこうした「悲しみ」として、薄々捉え始めていたのである。「人を想う」ということには、悲しみが付き纏(まと)うのだ。だから、より以上に、千代が何とも不憫(ふびん)でならなかった。
確かに、肉の交わりは、恋人同士にとっては、決して不潔なものではないだろう。ただ、肉の交わりが悲しいのは、人間と言う生き物そのものが、「悲哀」と言うものを引っ提げている生き物であるからではないか。人間の悲しさは、ここに起因があるのではないか、と思い始めたのである。
もし、人間の躰が、人間の肉の交わりが、後を曳(ひ)かぬ遊びと同じであったら、それはそれで、触覚を愉(たの)しませるスポーツセックスとして楽しむことができるであろう。また、悲しさも、後は曳くまい。
ところが一方で、初めての純愛や純潔を捧げた人とは、生涯において、それが心から完全に消えることはあり得ない。
私には、克明に千代の肉体が刻印されたのだった。生まれてはじめて、この時に女を抱いたのだ。それは私が、その将来において、全く無関係な境遇や、別々の世界で生きたとしても、その記憶は永遠に消える事のない、克明に刻印された事実であった。
千代の生(お)い立ちは、貧しい育ちだったらしい。貧しさが故に、あるいは筆舌に尽くせぬ事情によって、田舎の温泉町の芸妓の世界に身を沈めたとも言う。そんな千代に、私は更に汚れた苦悶(くもん)を押しつけたが、この時にはこの事が、実際にどういう結果を招くのか、まだ本当に分っていなかった。
●惜別
千代との別れ、それはまさに惜別(せきべつ)であった。
母の病気が治り、私は再び北九州に戻ることになった。大きな荷物を持った私に、付き添ったのは、姉と千代であった。
武雄駅まで、タクシーを飛ばして、姉と千代が見送りに来てくれた。
「千代ちゃん。悪いけど健太郎を肥前山口(ひぜんやまぐち)まで連れて行ってくんしゃい」
何故か、姉はこう切り出した。
千代は一瞬驚いたように、
「あたしが、肥前山口まで連れて、また戻って来るとですか?」
「悪いけど、そうしてくんしゃい。今日はお座敷、出んでもいいから」
私は千代の顔をちらりと見て、
「やったね」と言うと、「何が……」と、千代が遣(や)り返した。
姉は、既に私と千代の事を知っていたのだろうか。一瞬言葉にならない寒気を覚えた。何故、姉は千代を肥前山口まで行くように命じたのだろうか。
列車は駅のホームに入って来た。千代は、決して私と途中まで同行することを喜んでいなかった。列車の乗った後も、ぶつぶつとこぼしていた。
「ほんなこつ、馬鹿馬鹿しか。ほんなこつ!」
ふてくされたような顔をして、一等車の同じ席に座った。やがて列車は動き出して、ホームにいた姉の顔が見えなくなった。
千代はまだふて腐れていた。
独り言のように、「馬鹿馬鹿しか。行って、戻ってくるなんて。ほんなこつ……」と呟いていた。
私はこれに返すように、
「そんなに馬鹿馬鹿しかったら、このまま俺の家まで来ればいいのに」
「そんなこつ、できるか!馬鹿たれ!」と、凄く不機嫌で言い放ち、更に膨れた。
一等車は私たち二人だけであった。昼間のこの時間の乗客は、いつもながらに少なく、一等車だけはガランとしていた。この列車が、私と千代のために用意されたもののように錯覚するくらいであった。千代は私の方を振り向こうともせず、黙っていた。何で黙っているか、その理由は分からなかった。
列車はもうじき、肥前山口の差し掛かろうとしていた。
私は先を読んで、
「もうじき肥前山口だよ」
「そんなこつ、分かっている」と怒ったように返事を返した。
列車のスピードが段々減速されて来た。その時である。
「こら、健太郎!あたしのこと忘れるじゃなかよ」
兎(と)に角(かく)怒っていた。それはまるで、世話女房が単身赴任をする亭主に対して、浮気を封じるかのような言い種(ぐさ)であった。
私は黙って、千代の手を握った。そしてにこりと笑った。
「心配せんでもよかと。どうしてお前を忘れるんや」
肥前山口についた時、千代は何度も後ろを振り返りながら、車外に出て行った。そしてホームに出た後、私のいる窓の処にやって来て、発車時刻を待ちながら、小さく手を上げて、その手を振った。顔はどこか元気がなく、血の気の引いたような蒼(あお)白い顔をして、そこに立っているのがやっとというような恰好で、私を見送っていた。何となく哀れだった。
列車はゆっくりと動き出した。彼女の眼に、何か炯(ひか)るものを見た。涙だった。千代は思わず顔を塞(ふさ)いだようであった。列車は次第に速度を上げて行った。私一人が、この一等車に取り残された感じだった。
千代のこの見送りは、何とも後味の悪さを感じさせずにはいられなかった。
肉の世界、エロスの世界では、肉の交わりと言うものが、今日の多くの人が考えるような、決して軽いものではなく、一人の女性の人生に深い傷跡を残す恐ろしいものであると言うことを、私は薄々感じ始めていたのである。それは異常な恋愛の結末を思わせるものだった。
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