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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 2

自分一人の力の弱さ。人間は自分一人の力は弱いものである。自分の力だけで、幾らジタバタしても、自分の始末すら出来かねると言うことである。人間の目の前には人間が視ることが出来ない大きな力が働いているようである。
 そして人間は、その眼には見えない大きな力を感得せねばならない時代が来ていると思うのである。
 その力さえ信じていれば、如何に浮薄な人間でも、必ず救われるのである。


●千代という女

 少年時代の想い出の中に、千代という女性が居た。私の想(おも)い人である。
 私が小学五年の春、母が病気で斃
(たお)れて入院したため、暫(しばら)く異母姉弟である佐賀県藤津郡嬉野町の姉の所へ預けられたことがあった。
 私は小学校低学年の頃を平戸で過ごし、一時、北九州八幡に戻ったが、また今度は嬉野に行かされる羽目になった。私の親戚中のどさ回りは、まだ続いていたのである。

 この姉の名は政子
(まさこ)といい、当時二十四、五歳で、嬉野温泉に「福席」という母親から譲られた小さな置屋(おきや)を構えていた。母子二代の置屋であった。
 藤間流
(ふじま‐りゅう)の名取で、自らも座敷に出て芸妓として働き、芸者衆の間では「姉御(あねご)」の異名で通っていた。そして姉は、当時では珍しい大学出の芸者だった。この世界の住人としては珍しい、県立の四年制女子大を出ていたのである。また、既に学生時代の十八、九の頃から初座敷を踏み、お座敷に出ていたと云う。

県立の四年制女子大を卒業した、卒業式当時の姉。(昭和34年頃)
 普通、置屋は、自分の席の芸者衆を茶屋や各旅館に斡旋するのがその主な仕事で、そこの女将
おかみ/女経営者)は、「おかあさん」と呼ばれていた。
 したがって普通客の居る座敷に出ることは、忙しい時期を除いて滅多とない。しかし姉は、まだ若かったせいであろうか、それとも特定の旦那衆が居なかった為であろうか、毎夜のようにお座敷に出て、舞を舞っていた。
 もともと芸事が好きな人なのである。子供の頃から義母
(この人は、姉の実母だが、姉からは「ねえさん」と呼ばれていた。また、芸道の直接に師匠であり、姉は置屋の二代目だった)に仕込まれているせいか、日本舞踊、小唄、長唄、声明(しようみよう)、三味線などの芸事が好きで、その才のある人であった。
  そして生まれながらに気性の激しく、負けず嫌いで、男勝りの性格であった。

 ある禅宗の僧侶が、泣きわめく赤ん坊の姉を見て、鎌倉時代の源頼朝の妻で、頼朝の死後、尼将軍と称された北条政子を想
(おも)わせたという。舌端(ぜったん)火を吹くような、けたたましい泣き声から、「政子」という名前をイメージしたともいう。政子の名は、そこに由来する。

 姉にはいつも口には言えない恐ろしい執念と気迫が籠
(こも)っていた。僅か155cmそこそこの小さな身体の何処に、あんな男勝りの凄(すさま)じい気迫があるのか、不思議でならなかった。女にしては珍しく、度胸と躰を張って、この世界の荒波の中を生きていた。そして姐御肌(あねご‐はだ)で、義理堅く、人情脆(もろ)く、女親分のようなところがあり、歳下の芸妓衆の面倒見が非常に良かった。それが「姐御」の異名をとったのだった。

 当時、姉の家には、七、八人の芸者衆が住込みで働いていた。ここの住民としては、最近北九州の親許
(おやもと)から預けられた私一人が男であった。
 住込みの芸者衆に、よく学校の送り迎えをしてもらったことがある。
 姉は、私を大変猫可愛がりしていたので、必要なまでに世話を焼き、行き過ぎと思える程、見境のない過保護を、好むと好まざるとに関わらず、私に押し付けていた。

 例えば、私に服を着せることから、靴を履
(は)かせるまで自分でしないと気が済まない性分らしかった。私がちょっとしたお使いに出るにも、いちいちタクシーを呼び、それに乗って行いかせるといった具合の過保護ぶりであった。
 そして私に何かがあれば、父に申し訳ないというのが、姉のいつもの口癖であった。
 それは自分自身が腹違いであるという事と、私が岩崎家の唯一人の男で、跡継
(あとつ)ぎということからであろう。異母姉弟と言うのが、姉の双肩に重く伸し掛かっていたのかも知れない。
 私がこの姉と始めてったのは祖父の葬儀のときだった。姉は当時高校生で、祖母から私には姉がいることを教えられてのである。そのとき私は始めて姉を見たのである。
 腹違いの姉のことを知らされたのは祖母からであった。

 「あんたの姉さんたい」
 祖母は不機嫌な口調でそう言った。このとき何故祖母がこうまでに不機嫌なのかは分らなかった。
 「おれの姉ちゃん……。婆ちゃん、馬鹿だなあ、オレに姉ちゃんなんかいないよ」
 祖母は怒ったように、「それが、いたんだよ」と突慳貪
(つっけんどん)に言うのであった。
 「いるんだよ」と言わず、わざわざ「いたんだよ」という言い方には奇妙なものを感じた。言い回しが妙だった。呆れているのか怒っているのか。
 祖母は誰に向かってそういう言い方をするのか、それが分ったのはもっと後のことであった。
 しかし祖母の言葉の使い分けを微妙に感じ取ることのできない暗愚な私のは、その違いが分らなかった。

 「猶興館の高校生じゃない。違う学校……」
 私は制服の違いを見分けて、そう言った。
 また、当時の私の周りには猶興館の高校生しか居なかった。この時代、高校まで行ける少年少女は、それなりに学力があり、また家も高校まで出せる資金力を持っていたからである。大半は、中学を卒業すると、直ぐに働くと言うのが常識になっていたからである。

 「そうだよ、佐賀に棲
(す)んでいるからね」
 祖母の喋り方は何か刺々しさがあり、言葉に冷ややかさが籠
(こも)っていた。余所(よそ)の第三者のような扱い方であった。
 「佐賀?……、佐賀の何処?……」
 「嬉野だよ」
 「嬉野って?……」
 矢継ぎ早に祖母に質問攻めをしていた。
 “あんたの姉さん”と紹介された人は、今までに見たこともない別の学校のセーラー服を着ていて、通夜の用意に弥生の下で忙しく走り回っていた。通夜客の接待を、家人や手伝いの人とともに遣っていて「まさこちゃん」と呼ばれていた。まるで弥生の妹扱いであった。姉は祖父の葬儀に、手伝いで駆り出されたのであろう。
 年齢的には従姉の弥生より、一、二歳年下のように思えた。
 「婆ちゃん、あれ、本当にオレの姉ちゃんか?……」
 「そうたい」

 なぜ祖母がこうまでに不機嫌な返事をするのか、邪険に扱うのか、この時はよく分らなかった。姉のことを知ったのは、その後のことである。
 そして思えば、では何故、姉をこのとき寄越したのか。姉がこの時に限って姿を顕したのか。
 更に何故、祖父の葬式に手伝いに駆り出されたか。
 おそらく父の差金であったのではあるまいか。
 祖父が死んだと言うのに、姉を派遣しないというのは礼儀に反すると思ったのであろう。
 更に推測すれば、姉の母親に当たる人に、何か相応しくないものを感じたのである。祖母が冷ややかなのは、おそらくそう言うことであろう。

 祖母から「あんたの姉さんたい……」と言われた人は、祖母にとっても孫の筈であった。
 ところが、祖母の接し方は、何故か姉と呼んだ人に対しては、冷ややかであったように思うのである。その血を嫌っているのであろうか。あるいは姉の出生を卑しんでいるのであろうか。
 そう考えると、確かに異母姉弟だった。姉だけでなく、その母親までもを嫌っているのであろう。
 私への接し方と随分と違っていた。その接しからだけで、明らかに差別が存在していた。

 「政子、此処に来てお坐り」
 祖母は厳
(いか)めしく呼びつけた。言葉には歓迎されていない何かがあった。刺々しさがあった。
 「あんたの弟、わかるか政子」
 政子と呼ばれた女子高生は、小さく「はい」と頷いただけであった。
 お下げ髪で、私の血筋とは別人のようであった。そして自己紹介をすることもなく、再び葬儀の御斎
(おとき)の世話人の中に混じって忙しく働いていた。
 また、弥生が姉のことを「まさこちゃん」と呼んでいたから、弥生は姉の正体も、姉の母親のことも知っているのであろう。
 「婆ちゃん。あれ、本当にオレの姉ちゃんか?……」
 私はいつまでもその不信が解けなかった。
 「困ったもんだ……」
 祖母はそう言ったまま口を閉ざしてしまった。
 果たして、困ったもんだ……の相手が誰なのかも、私には分らなかった。誰に対して、困ったもんだを言ったのだろうか。

 来客も一段落した頃、姉と紹介されたその女性の前に進み出て、「本当にオレの姉ちゃんか?」と愚問と思えるようなものを浴びせ掛けていた。
 彼女は軽く頷いたままで、一瞬、はにかんだような素振りを見せた。形容すれば、花も恥じらう女子高生だろうか。果たしてこう言うのを「純情」と言うのだろうか。姉にはそういう仕種があった。
 擦
(す)れていなかった。生活にそれだけの裏付けがあるのだろう。
 昨今では殆ど見なくなった、そういう恥じらうような初々しさを姉は持っているようだった。
 その表情が、今でも脳裡に焼き付いている。

 姉との出遭いは、これが最初であった。
 そして、再び姉に会ったのは、それから二年後のことであった。
 姉との再会は、私が有田の親戚筋に預けられたときであった。
 私はその後、有田の親戚を経由して、今度は姉のところに預けられる羽目となった。

 嬉野の姉とところの事である。
 私にはそう言う事情と経緯があった。何しろ岩崎家の男でただ一人の継嗣
(けいし)であった。
 それらの理由から、一番固いと思われていた女性を、私の世話係にしたのである。その過保護なまでの姉の心配症が、私を早期に、色の道に引き摺
(ず)り込む原因をつくったのだった。


 ─────私の世話係で、学校の送り迎えをしてくれる、この芸妓の名を福千代と言った。
 福千代という名前は、福席に名を連ねる関係上の源氏名
(げんじな)であろうが、本名は知らない。他の芸妓衆からいつも、「千代」と呼ばれていた。私も彼女のことを「千代」と呼んでいた。
 しかし彼女と言葉を交わすのは「千代」と呼びつけにし、一言呼ぶ時だけであった。私は、親戚中の盥回しで、引っ込み思案の激しい子供に変貌していた。性格も、ひねくれ、畸形
(きけい)していたようだ。それがまた、心を閉じさせる要因ともなった。今で言う、自分だけの世界に閉じこもる“自閉症”だったのかも知れない。

 自閉症の子供が、どのように畸形
(きけい)するか、想像に難しくない。自分だけの世界に閉じ籠(こも)る内面優位の現実に身を置けば、現実離脱を企てるのは当然の事である。現実との生きた接触を失うもの当然で、孤独のからに逃げ籠ってしまうのである。したがって、世間とは隔離され、ますます自身の殻に閉じ籠るのである。
 そうなれば、次第に言葉も失っていくのである。

 しかし、そうした中にあって、私が心を開いたのは、千代の影響があったのかも知れない。やがて彼女に母性を感じ、そして女へと変貌していく、確かな過程を観
(み)ていたからである。女としての女性観を最初に感じ、女への変貌は、千代が最初の女だったのかも知れない。

 「千代」と呼ぶ、その一言は、彼女への私情の現れであったのかも知れない。そして、千代に惹かれる自分があった。彼女への思慕の傾きは、彼女を「千代」と呼ばせる母性が、私の心を開かせる最初の要因であったようだ。

 彼女は当時十八、九歳で、面長
(おも‐なが)の中々の美人であった。櫛(くし)の通った艶(つ)やかな、碧(みどり)の長い黒髪が美しく、この自髪で座敷に上がる時は、いつも見事な島田(しまだ)を結っていた。
 大きな美しい切れ長の目と、黒く澄んだ眸
(ひとみ)が、一層目許(めもと)の涼しさを印象付けていた。そして仕種(しぐさ)の何処かに、まだあどけない少女の面影のような名残を止めていた。

 小学校の送り迎えの際には、彼女の方から根掘り葉掘りと声を懸
(か)けてくる。世話焼きであった。
 「健ちゃんって、随分無口なのね」
 そう問いかけられても、私は返事をしなかった。余計なお世話だという顔をしていた。それでも千代は、質問の応酬を止めなかった。

 「勉強は何が一番好き?趣味は何?北九州では好きなお友達はいたの?スポーツは何が好き?好きな食べ物は?」などと、長々と《何が好きコール》が始まるのである。早く打ち解けてもらいたいがために、こうした《何が好きコール》を連発するのであろうか。

 「お母さんの病気、早く良くなるとよかねェ」と励ましを受けるのだが、私はそれに答らしい答は返したことがなく、無口で黙り通していた。
 この事は、おそらく千代をがっかりさせたに違いない。だからと言って、千代が嫌いで避けていたわけではない。千代への思慕の思いは、日増しに大きくなっていくのであった。

  子供心に彼女を隣人的な女として意識し、これが逆の行動なって現れたまでのことである。他愛のない子供心に考えた滑稽
(こっけい)な策略のようなものであり、黙り通すことで彼女の気を惹(ひ)こうとしていたのである。
 私は、親戚中を盥回しされた故
(せい)か、子供でありながら世間師のような習性をいつの間にか身に着けていた。それは「こちらが追えば逃げ、こちらが逃げれば追って来る」という法則である。人は、追い回せば益々逃げていくものであるが、こちらがそれを止めると、今度は他人の方が自分を追い掛けて来るのである。

 人の注意を惹
(ひ)こうとするならば、しつこく追い回しては駄目なのである。一旦、印象づけておいて、こちらが退(ひ)こうとすれば、それに伴って、今度は相手の方からやってくるのである。人間には、このような、基礎物理で言う、「作用と反作用」が働いているのである。人の心もこの法則下にあるようだ。

 私は、千代への思慕の情が膨らむ一方で、無意識のうちに、どうすれば彼女の関心を引くか、こうした姑息
(こそく)なことを考えていたのかも知れない。


 ─────ある日の午後のことである。
 千代は姉の指導の下
(もと)に三味線の稽古をしていた。私は三味線の音につられて、それを廊下の片隅から、不図(ふと)、その稽古風景を垣間(かいま)見たことがあった。そしてその場に一瞬釘付けになった。

 千代の少女のような幼い風貌
(ふうぼう)とは似ても似つかない、彼女の激しい撥(ばち)捌きは、私の度胆を抜く程、迫力のあるものであった。
 何と言う曲かは知らないが、小気味の良い、テンポの速いものであった。狂い惜しいように掻
(か)き鳴らす撥遣(バチづか)いの激しさは、一体何を表現しようとしているのであろうか。
 糸に撥を叩き付けながら、その恐ろしい程、激しく澄んだ三味線の音色に、一種の戦慄
(せんりつ)を感じたのである。それは、明らかに怕(こわ)いと思うほどだった。

 それは丁度、盲目の津軽三味線の名手が、降りしきる雪を背景にして、一糸乱れぬ巧みな撥捌きで「津軽じょんがら節」を狂い惜しいように掻き鳴らす、あの鮮烈な姿に似ていた。あるいは津軽海峡に沈んだ幾らの霊を慰める為の、繊細な音色と旋律が、かくも激しく打ち鳴らすのであろうか。

 まさに千代は、太棹
(ふと‐ざお)を用いる名手を思わせた。後(おく)れ毛の張り付いた千代の項(うなじ)から、一条(ひとすじ)の汗が流れ落ちている。
 鮮やかに紅
(べに)を引いた口を、きりりと一文字に結び、目は一点を見据えた儘(まま)一種の陶酔(とうすい)に至ったような姿で微動だもせず、炎のような勢いで、激しく掻(か)き鳴らすのであった。

 やがて曲が緩やかになり、列車が駅に止まるような感じで弾
(ひ)き終えた。その横に座っていた姉は、千代のその凄じい撥(バチ)(さば)きを別段褒(ほ)めるわけでもなく、当たり前のことをしたまでだという顔つきで、細々(こまごま)と注意を与えて、明日の稽古の予習箇所を指示しているようであった。
 傍
(そば)で聞いていた私は、期待外れのようなものを感じた。あんなに上手なのに、少しは褒(ほ)めてやったらどうだという気持ちであった。その時である。私に気付いた姉が突然声をかけた。

 「健ちゃんも三味をやる?」と口許
(くちもと)に笑いを含めるような言い方をした。
 勿論、これは冗談であろうが、私は真
(ま)に受けて、頭(かぶり)を振りながら、一瞬後退(あとすざ)りをした。
 それを見た姉は、「まあ、変な子ばいねェ」と言って苦笑にも似た笑いを漏らした。
 私は、見てはいけないようなものを見てしまったような気持ちで部屋に戻った。心の中には、何か口に表現できないものが湧き上がってきていた。恐らく三味線を生まれて初めて、間近で清聴
(せいちょう)したからであろう。
 脳裡
(のうり)に焼きついたものは、千代の細い指に握られた三味線の桿と撥の巧みな捌きや、そして、一見大人しい少女のように見えていた千代が、今日は何処か、ずっと大人っぽく見えたことだった。
 私の心の中には、もう既に、千代を女として見る眼が息づいていたのである。


 ─────次の日の朝、学校への通学は例の如く、千代に付き添われての登校であった。ランドセルを自分で背負
(しょい)込む以外は、靴袋にしろ、習字の硯箱(すずり‐ばこ)にしろ、全て彼女が持ってくれるのである。毎日の日課とはいえ、学校の校門が近付くにつれ、閉口したくなるような照れ臭さが、私を悩ませるのであった。
 それはクラスメートから、この事をいつもからかわれるからである。
 早速、私を見つけた三人組の悪ガキ集団の一人が口汚く、冷やかすような侮蔑
(ぶべつ)の野次を飛ばした。

 「今日も、お坊ちゃまは、姉ちゃんに付き添われての、お出ましか」
 その言葉を聞いた千代は、直ちにやり返した。
 「こら!お前たち。なんば言っとるとか。健ちゃん苛
(いじ)めると、あたしが承知せんけんね!」と、息巻いた口調で彼等を叱るのであった。
 これに怖気
(おじけ)を為した彼等は、「おお、こわ」と逃げるのだった。
 こうして嫌な連中を追い払ってくれるのだが、それでも私は千代に礼を言うどころか、口さえもろくに聞かず、少し俯
(うつむ)き加減で黙った儘(まま)、重い足を引き摺(ず)るようにして校門の中に吹い込まれて行った。

 いつもこの時、千代は、「ほらほら、もっと胸をちゃんと張って、足は引き摺
(ず)って歩くんじゃなか。男でしょ、胸を張りしゃい」と励ましてくれるのだが、私はこれを聞いても余計なお世話だ、という気持ちで校門の中に吸い込まれて行くのだった。
 そして最後に、「今日も一日、元気で頑張るんよ」と励ましの言葉を掛けてくれるのが千代の優しい心遣いの一面であったが、私はこれにも無愛想を決めこみ反応しなかった。
 いつもの事だとは言いながら、千代は、こんな私の後ろ姿をどんな気持ちで見送っていたのだろうか。


 ─────ある日の事である。
 千代に付き添われての買い物に行く途中であった。昼間には珍しい、一匹のカブト虫の雄
(おす)が、道路脇の雑木林のタブの木(椨/クスノキ科の常緑高木で、暖地に自生し、高さ15m余に達する)にへばり付いていた。私はこれを逸(いち)速く見つけ、木を見あげて足を止めた。
 「あッ!」
 この声に千代も足を止めた。
 「うん?」
(何々……?)という感じで、最初は何が何やら分からないで、私の見ている方を見て、日傘(ひがさ)の庇 (ひさし)をひょいと上に傾けた。私はそのカブト虫に指をさした儘、「あそこ」と、ぽつりと呟(つぶや)いた。

 千代は、「何処、何処?」と言って、私の指さす方に注視した。それを千代も確認したらしく、「取って欲しいの?」と訊いた。
 「うん」と小さな声で首を縦に振った。
 それにしても、千代は着物姿に日傘を差し、手に小物入れを持っている関係上、木に登れるような恰好
(かっこう)ではない。
 「よし、待ってなさい、今取ってあげるから」
 私は
(本当だろうか?)と言う気持ちでいた。私はこれをどうするか見物だと言う、悪戯(いたずら)めいた気持ちを脳裡(のうり)に過(よ)らせながら、彼女のお手なみ拝見と洒落(しゃれ)込んだ。
 「これ、持ってなさい」と、日傘と手提げの小物入れを私にポンと預け、着物の裾
(すそ)を少し上に捲(まく)り上げ、それを調度の処で帯に挟み止めて、腕捲りを始めた。
 《どのようにして捕まえるのだろうか》それが私の正直な疑問であった。
 真逆
(まさか)着物を着た儘(まま)、尻を絡(から)げて木に登るというわけではあるまい。そんな興味津々(きょうみ‐しんしん)な、ドキドキするような気持ちが私を支配し、子供心をワクワクさせていた。

 今度は捲
(まく)り上げた裾(すそ)を更に一段高く上げ、木登りをするような恰好をした。やはり登るのだ。それは信じられないようなことであったが、しかしそれを彼女は今やろうとしているように見えた。私の期待は、更に高まった。好奇心一杯だった。

 私の関心は、千代の形の良い両足の膨
(ふく)ら脛(はぎ)に集中し、それを見て、更に胸の動悸(どうき)は高鳴った。登るのは彼女だ。それを下から見るのは俺だ、と言うふうに、単純な卑(いや)しい好奇心で胸が高鳴るのだった。いまに丸見えになるぞ。それが私の密かな期待であった。
 ところがである。
 千代は木に登るどころか、裾を捲った儘
(まま)、突然、木を蹴ったのである。

 私の期待は大きく外れ、その蹴った振動で、カブト虫が地面に落ちて来たのである。角
(つの)の生えた雄(おす)の立派な奴であった。

 千代の、それを捕まえる手付きは、実に堂に入ったものであった。
 ゴソゴソと素早く動き、柔らかい土の中に逃げ込もうとするカブト虫を慣れた手付きで、ひょいと捕まえたのである。
 「はい、カブト虫。これが欲しかったんでしょ」と言って、私にそれを引き渡してくれた。
 呆気
(あっけ)にとられたような顔をして、千代を見上げると、
 「何て顔をするのよ。欲しかったんでしょ」と不機嫌な顔をされ、それに否応なく答えるように、頭をぴょこんと下げ、「どうも、有難う」と、思わず声を洩らしてしまった。私が千代に言葉らしい言葉を交わしたのは、これが最初であった。

 千代は笑顔をつくって、
 「やっと、健ちゃん口をきいてくれたわね」と、言われたが、少し照れ臭くて、それを隠すように、
 「カブト虫て、あんなふうにして捕まえるのか?」
 「そうよ。あたしは、よく田舎にいる時、弟にこうして捕まえてやったんよ」
 私が呆気にとられたのは、千代のカブト虫を捕まえる手慣れた手付きに呆気にとられたのではない。千代が着物の裾
(すそ)を風にひらひらさせながら木に登って行って、苦心惨憺(くしん‐さんたん)しながら捕まえてくるのを期待していたのである。
 それが、たったの一撃の蹴りで、意図も簡単にカブト虫が落ちてしまったことに、呆気にとられてしまったのである。このカブト虫の取り方は大変参考になったが、しかし何か見損なってしまったような忘れ物をした感じであった。

 「健ちゃん。この木、何て言うか知ってる?」 
 「いや、知らん」
 「タブの木と云うんよ。この木は甘い蜜を出す木でね、カブト虫やクワガタが、沢山集まってくるんよ。明日の朝早起きして、この木に来て御覧なさい。沢山のカブト虫やクワガタが蜜を吸いに集まっているから」
 「それ、本当?」 
 「本当ですとも、沢山集まっているわよ」
 千代は私にカブト虫を捕ってやったことが、一つの自慢のようなものになったらしい。そして、私が初めて短い会話を交わしたことも、その晴れ晴れとした嬉しさが彼女の笑顔に漂っていた。

 歩いている途中、私がカブト虫の扱い方に梃摺
(てこず)っていると、
 「それはね。帽子の中に入れて、被ってしまうと楽なんよ」
 言われる儘
(まま)に、それをやってみた。頭の上でゴソゴソ這(は)い廻(まわ)るが、手に持って指を爪でひっかかれるよりは遥(はる)かに楽だった。やがて大人しくなって、居るのか居ないのか分からなくなった。

 千代の物知りに感心したが、しかし実姉とは違う、姉のような、母のような、私を思う優しさにも感心せざるを得なかった。それはあくまで、私の世話係としての便宜上
(べんぎ‐じょう)の優しさであったかも知れないが……。

 いつも愛想笑いを繕
(つくろ)う、姉の太鼓持ちのような千代が、最初は嫌でたまらなかったが、彼女への観察眼が深まるにつけ、物知りな一面と、優しい人柄が、私を徐々に惹(ひ)き付け始めていた。そして彼女を、女としてはっきり意識したのが、この時であった。
 これ以来、千代とは直に友達のように仲良くなった。またある時は、年の離れた姉弟のような、仔犬
(こいぬ)のじゃれ合いの喧嘩(けんか)もしたことがあった。それ程、身近な打ち解けた関係になっていった。
 しかし私は、彼女が年期奉公なのか、あるいは何かの事情によって、姉の置屋に身を寄せているのかという、具体的な事情は分からなかった。


 ─────ある日の午後、踊の稽古疲れで、うたた寝をしている千代の顔に、墨で、吹き出したくなるような、八の字髭
(ひげ)を描いたことがあった。

 坐
(すわ)り机の片隅に両手を預け、顔を横向きにして、それに持たれるような恰好(かっこう)で、小さな寝息を立てて居眠りをしていた彼女に、そっと近寄り、込み上げてくる笑いを押し殺しながら、目が覚めた時の彼女の反応を想像して、不埒(ふらち)な悪戯(いたずら)を実行したのである。
 そして完成した八の字髭
(ひげ)に満足感を覚えながら、息も絶え絶えに呼吸を殺し、あまりの可笑しさに笑い転げてしまった。
 その笑い声に気づいた千代は、慌
(あわ)てて横にあった鏡台を覗き込み、
 「あッ!こら!よくもやったな、悪戯小僧」と怒鳴り声を上げた。

 私は笑いながら部屋中を逃げ廻り、最後には結局、千代に捕まえられてしまうのだが、決まって彼女の細い手首に噛み付き、痛がっている隙
(すき)を見計らって、今度は二階の窓越しに屋根に逃れ、隣の家の屋根伝いに脱出を図るのであった。

 「口惜
(くや)しかったら、ここまでおいで」と自分の尻を叩きながら挑発するようなことを言うと、千代は持ち前のお転婆(てんば)ぶりを発揮して、「何!」と、腕まくりをして絣(かすり)の着物の裾を捲り上げ、窓を飛び越えて私の後を追って来た。
 しかし仔猿
(こ‐ざる)のように、巧みに逃げ廻る私には叶わないと見えて、途中で諦めてしまうのだった。
 そしてこんな事をする度に、姉から酷く叱られるのであった。しかし悪戯は止まるところを知らなかった。私は千代に、何らかの恋慕
(れんぼ)に似た感情を抱き始めていたようだった。


 ─────その日は雨が降っていた。何処にも行けずに足止めを食っていた。
 退屈紛
(たいくつ‐まぎ)れに部屋の中をうろついていると、千代が部屋の中に入ってきて、「健ちゃん、これ読んであげようか」と誘いをかけた。

 それは伊藤左千夫原作の『野菊の墓』と言う本であった。私はそれを、何度か子守歌代わりに聞かされたことがあった。
 当時のことで、内容は克明に覚えていないが、その記憶から言うと、遠縁同士だったか、従姉弟
(いとこ)同士だったか忘れてしまったが、本家の長男の政夫と、二歳年上の遠縁だか、何かの、そこの使用人の女性の民子と、プラトニック・ラブのような関係になって、政夫の母親がこの二人を無理に引き裂き、最後は民子が嫁に行くのだが、民子は難産がもとで死んでしまう。何か、そのような話であったように憶(おぼ)えている。周りの大人が、好き合っていた同士を引き裂いた話であった。
 私は子供ながらに、後味の悪さが残ったことだけが、何とも印象的であったことを憶えている。

 千代は「そこがいいんじゃない」と、私の批評を否定しようとしたが、私は結局何処がいいのやら、さっぱり分からなかった。理解力の欠如、暗愚
(あんぐ)たる所以(ゆえん)であろう。
 しかし今になって思えば、千代も『野菊の墓』のヒロイン・民子に、実は自分が、身を置きたかったのではないかと言う気がしてならない。

 心の一点に曇りもなく、一心の邪心もなく、姉弟のような関係を、私と保ちたかったのではなかったか。だが、この時私は、この事がはっきり分からなかった。

 私が、プラトニック・ラブで思い浮かべるのは、フランスにおいてのサロンである。十七世紀から十八世紀にかけて、ヨーロッパで流行したのは、女亭主の主催するサロンにおいてのプラトニックな恋愛であった。
 これも、次の時代に至っては、プラトニック的なものから肉欲へと時代を譲り、墜落の様相を呈していくが、それでもそれまでは、プラトニックな恋愛が、美化され、理想化されて、恋文の応酬
(おうしゅう)と、その擦(す)れ違い劇の、切ない恋に身を焼く男女に、人々は涙を注ぎ、一頃(ひところ)は遊戯化された恋やつれで、ヨーロッパ中を覆(おお)わんばかりの勢いであった。あたかもシェークスピア初期の悲劇『ロミオとジュリエット』は、その代表的なものであろう。

 この時代は、英雄的な戦場での殺伐
(さつばつ)とした武功(ぶこう)より、平和の象徴であった恋愛遊戯の方に軍配があがり、恋愛を賛美する事で、その理想の棲家(すみか)を捜そうとしたのであろう。

 今にして思えば、千代がヒロイン民子に身を置いたのは、「我が身の短い命の、安住
(あんじゅう)の場所を捜していたのではなかろうか」とそんな事を考えてしまうことがある。私は、そんな千代の健気さが、今でも懷かしい。


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