運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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旅の衣・後編 11

現代は快適に暮らす権利が、社会人としての当然な特権となってしまったようであるが、しかし快適で便利でという要求が、我慢や寛容を駆逐する結果となってしまった。
 これを換言すれば、自分の平和を守るために、他人の平和を無視してもよいということなのだろうか。
 現代の個人主義には、こうした側面が横たわっているように思うが、その懸念はないのだろうか。

 自己主張……。
 それは自分を優先する主張であり、他者を無視してもよい考え方に繋がっているようだ。
 斯くして、自己主張が罷り通ると、気の弱い人はその主張の文句に怯え、気の強い人が荒たげてケンカ腰になってしまう。
 その一方で、鈍感な人は、強引に押し通す自己主張にも文句を言わず、また言われても平気で、日々をおもしろおかしく、自分達だけでへらへらとした生活を楽しんでいるようである。



第九章 望郷



●想いは遠く、ふるさとの海へ

 ここからの話は、小学校入学当時の少年期の追憶に飛ぶ。
 望郷……。ふるさとを懐かしく思う心情……。
 人の心に懐郷、そして思郷の言葉が、ふるさとへ飛んでいくのだろうか。想いは遠くふるさとへ。ふるさとの海へ向わせるのだろうか。

もとの乞食になってタオルが一枚

ふるさと恋しいぬかるみをあるく

ほどよう御飯が炊けて夕焼ける

ふるさと忘れがたい夕風がでた

一杯やりたい夕焼空

 何れも山頭火の句である。忘れがたきふるさとへの望郷の念が漂っている。
 そして何といっても郷愁をそそるのが『一杯やりたい夕焼空』である。
 これには酒が伴わねばならない。風流を解さねば、この心境は分からない。酒無しの風流は、私には殆ど理解できない。溺酔は困るが、「ほろ酔い」は風流を解す心境に最も近いと思うのである。
 夕焼け空を見て、その場に酒がなくとも、かつて酒を味わい、酒の味を知っている人ならば、茜色
(あかね‐いろ)の空と風流を忽(たちま)ち、一瞬のうちに結びつけてしまうだろう。

 酒を喰らう……。
 これほど、何に役にも立たない。人の役になど立ちはしない。無駄なアルコールが消費されるだけである。
 しかし、人と言うものは、生きている上で、役に立つことばかりを遣っていればいいという分けでない。役に立たぬことも、敢えて遣る。それが、人の人たるところではないか。
 時には、人にな何の役にも立たない酒をかっ喰らう。いいではないか。況
(ま)して、郷愁など人を感化させる材料にはならないが、ときには郷愁で背中が黄昏に染まり、戦慄(わなな)いてもいいではないか。不愉快や不安も、一時期解消される。
 至福とはそう言うときに感じるものではないのか。ひと時の慰安である。

 さて、酒と薬物の関係は深い。
 これは漢方薬を酒に漬け込んで薬酒とする医術思想で、医学上の見知からしても消化吸収から血液の循環を考えれば促進が窺われることが分かる。酒が薬物に混入されれば、血管への流入が早まり血行がよくなる。
 したがって普通の薬湯より遥かにその効き目は増幅される。勿論アルコール自体に薬的な効果があり、適量に用いればその効果は大きいが、度を過ぎれば毒になる。
 結局、これを用いる人間側の自制心に委ねられるが、その者が心身ともの鍛錬が未熟の場合、使用量を誤って顛落する場合が少なくない。

 特にアルデヒドなどの免疫がない者が、強い酒を飲めば直ぐに酩酊状態に陥ろう。その場合、意識が途切れるかも知れない。危険な状態に陥るかも知れない。
 しかしアルコールは強力な酒を飲んでも、人体の適応能力によって「慣れ」を起こすから、この場合、更に上の物が欲しくなる。徐々に度の高い物を求めがちになる。
 酒は百薬の長という。しかし一方で、諸刃の剣である。用い方や量を間違うと人間の崩壊させてしまうので気を付けたいところである。
 現代のように、人間的な鍛錬と呼吸法が未熟な時代、アルコール依存症が急増している背景には、風流を解さない人間も併せて急増していると言うことで、「ほどほど」を知らない時代は、これど危険な薬物はないと言えよう。
 私の連想は、平戸の海、赤い夕日、海風、それにほろ酔いが出来るほどの酒の一杯があれば、目前に見る夕陽は何とも申し分のない風流の構図なのである。


 ─────私の生まれたのは戸籍によると福岡県八幡市
(現在の北九州市八幡東区)になっているが、この頃、母は単身で、私が生まれる一ヵ月前くらいから平戸の実家(曽川姓)に戻っており、そこで私を出産した。そのように聴かされている。
 7月31日の夜から8月1日の朝方にかけての時刻の頃に生まれたというが、終戦直後の頃は、この辺が実に曖昧
(あいまい)で、出生時間に多少の誤差があったと思われる。

 私の生年月日は8月1日になっているが、それは定かではないし、第一、何時に生まれたのか、はっきりしていない。ただ31日から翌月の1日に掛けて生まれたのは確かなようだ。
 とにかく私が生まれたのを電報で知った父は、旧八幡市の市役所に出生届を出したということで、実際に生まれた場所と、戸籍に上がっている場所とが違っているのである。
 もともと平戸で生まれたものの、この後直に、北九州八幡に連れ戻されて、暫
(しばら)くここで幼年期を送ったが、小学校に上がる少し前に、母が病気になり、再び平戸の叔母に家に預けられたことになった。そのため、小学校の低学年を平戸で経験し、そこで都会の子供には味合えない異色の日々を過ごした。

 私が平戸にやって来たのは、小学一年生の一学期の五月頃であったかと思う。
 八幡市立陣山小学校から、平戸市立平戸小学校に転校したのである。
 つい一ヵ月ほど前、買って貰
(もら)ったばかりの真新しい教科書(当時は有料だった)は、八幡市教育委員会(当時は北九州の旧五市である小倉、八幡、戸畑、若松、門司は合併しておらず、福岡県八幡市であった)の指定のものとは違っていて、殆どが無用になり規格の違うものは全て買い直さねばならなかった。そして新たな教科書を買って貰った。
 小学校は平戸市役所の傍
(そば)にあり、私は新町(しんまち)という町名の母方の伯母の家から小学校に通った。市役所の傍の、今では国の重要文化財になっているが、その通称「オランダ橋(現在は「幸橋」とも)」を渡って小学校に通ったものだ。
 小学校の更に上を見上げると、亀岡城
(かめおか‐じょう)を囲むように桜の名所である亀岡公園が広がり、その裏手に、曾(かつ)てミッドウエィー海戦で、ただ一人勇猛を馳(は)せた、空母蒼龍(そうりゅう)の艦長・柳本柳作(やなぎもと‐りゅうさく)少将(明治二十二年平戸大久保に生まれた。二世乃木の徒名を有し「七生報国、斃而不己」を信条とした)の母校・長崎県立猶興館(ゆうこうかん)高校がある。
 この猶興館は平戸松浦藩きっての旧藩校であり、当時は長崎県下有数の進学校で、戦前は有能な人材を多く輩出した。

 松浦家は元々水軍の本家であり、船団を操り、水軍を巧みに使った軍船兵法の宗家の家柄であった。山鹿流
(やまがりゅう)兵術の、津軽藩と並ぶ有数の二大宗家でもある。
 そして平戸で有名なのが、第三十四代藩主・松浦壱岐守源清
(まつら‐いきのかみ‐みなもと‐きよし)こと、松浦静山(まつら‐せいざん)である。
 ちなみに平戸藩の松浦家の「松浦」は読みを「まつら」と読む。
 静山は文武両道に優れた藩主であり、有能な財政家であるとともに、また心形刀流
(しんけいとうりゅう)剣術の達人でもあった。心形刀流は剣術の流派として、他を抜きん出て品格を得たのは、松浦静山の文武両道の品位による。また静山は在職三十年間、平戸のオランダ商館が長崎に移転した後、急に寂れた平戸を復興させるために種々の施策をなしている。
 その一つは新田開発であり、開墾
(かいこん)し、耕地を整理した。土木治水にも務め、農民には耕牛(こうぎゅう)や農具を貸し与え、また代官や田役人(たやくにん)を各村に駐屯(ちゅうとん)させて農民の指導や相談に当たらせて農作物の増産を図った。下級武士には副業を奨励し、一層の勤勉と節約を行なわせ、冠婚葬祭の簡素化や備荒貯蓄びこう‐ちょちく/凶年の準備のために貯蓄すること)を奨励した。

 上納米
(じょうのう‐まい)は出来るだけ少なくさせ、飢饉時(ききん‐じ)に対しては租税の免除や救恤米(きゅうじつ‐まい)等を放出し藩民救済に努力した。また藩財政の安定と強化を図り、藩主自ら質素倹約に務め、藩の出納(すいとう)は厳格を極め一銭の無駄もさせなかった。
 また静山の漁業政策も目を見張るものがあった。
 平戸列島や五島列島は古くから漁業が盛んな所で、特に捕鯨
(ほげい)が盛んであった。
 私が子供の頃は「松浦漬け」という鯨の軟骨を味噌漬けにした珍味があった。これを御数
(おかず)に、二杯飯、三杯飯をしたことがある。しかし、今は松浦漬けという名前が食卓から消えて随分と久しい。

 平戸藩の捕鯨は、古書の記録によれば、享保
(きょうほ)年間より万延元年(1860)頃までの鯨の捕獲量は約百三十年間に鯨二万一千七百五十頭を捕獲して、金額に換算すると約三百三十万両を水揚げしたが、その約三分の一が税金や献金になって藩の財政になっている。
 当時の捕鯨法は投鈷
(とうほこ)式投網(とあみ)方式で、静山自らもその仕掛けや操業を検分して、生月(いきつき)の当事者に助言や激励を行っている。この投鈷式投網方式は中々勇壮なもので、天明八年(1788)十二月には、文人画家で有識者として知られる司馬江漢(しば‐こうかん)が生月に赴き、その光景を『西游日記(さいゆう‐にっき)』に著わしている。

 更に文教政策においては、静山は「武士は三民の長たる貴き身分であるから、一個の武技のみを以って士の業
(わざ)を心得てはならない。文学は士の正業である」として藩の文政にも力を注いでいる。
 そして静山自身も教壇
(きょうだん)に立ち、尊王の大義を講義し、経学を指導している。平戸藩の藩校の歴史は第二十九代鎮信(天祥)が山鹿素行と親しく交わり、その弟平馬と孫の高道が、平戸藩に仕官したことに端を発する。これが藩黌維新館はんこう‐いしんかん/後の猶興書院であり、現在の長崎県立猶興館高校である)に発展する。
 日本における藩校の歴史は、安永二年
(1773)薩摩藩の造士館(ぞうしかん)、同年の米沢藩の興譲館(こうじょうかん)、同七年の平戸藩の維新館、天明三年(1783)尾張藩の明倫堂(めいりんどう)の数藩が藩校を持ちえたに過ぎなかった。
 このことから考えれば、静山の先見の明と、その偉業は賞さんに値するものである。

 私は、こうした古
(いにしえ)の地で幼年時代を送ることが出来たのである。
 内緒
(ないしょう)に篭(こも)る引っ込み思案の私は、北九州八幡では、幼稚園の時でも、誰一人として友達が出来ず、人に馴染めなかった私であったが、平戸では、相手の方からやって不思議によくモテた。しかし、転校後直ぐということではなかった。そうなるのにも、ある程度の時間がかあったのである。
 元来の私の精神的肉体的体質からして、その垢
(あか)抜けない風体からいうと、都会よりも田舎の方が、私の性に合っているのかも知れなかった。
 当時の平戸は全くの田舎町で、今のように観光目当ての、都会の資本の楔
(くさび)は、一本も打たれていなかった。静かなしっとりとした、四方を海に囲まれた小さな城下町であり、漁師町であった。
 町並みから少し外れると、もうそこは鄙
(ひな)びた漁村の集落をなしていた。
 平穏で素朴な人達が多く居た。所謂
(いわゆる)昭和二十年代後半の清貧な田舎であった。この田舎では私が珍しいためか、私の今まで住んでいた所が社会科等の教科書に載っている八幡製鉄所のある、八幡から来たのだということが事前の噂になって知れ渡っていた。それに岩崎家本家の家系の流れを引くためでもあろうか、「本家の坊ちゃん」で通されていた。それは代々中野村の代官を勤めた先祖岩崎家の功名(こうみょう)によるところが多い。

 当時の田舎の子供は実に貧しかった。靴を買うことができないで、藁
(わら)で作った便所の草履(ぞうり)のような履物を履いた子供や、夏には裸足で登校する子供までいた。大半は貧しかった。冬になっても、靴下や足袋を履いている子供は殆どいなかった。
 旧八幡市も東京や大阪から比べれば随分と田舎であるが、平戸は四方を海に囲まれた自然が一杯の田舎であった。田舎の子供には持たないものを私は所持していて、いつも羨
(うらや)ましがられ、いつの間にか、毎日が殿様のように、級友から傅(かしず)かれる日々を送っていた。
 私は分けのわからない儘
(まま)、子供心に優越感を味わったものだった。生まれは決して裕福な生まれではなかったが、それでも父は八幡製鉄所に勤めているせいで、当時の生活水準より豊かであり、既にその頃、水洗便所の付いた家に住んでいた。家それなりに恵まれていて、金銭や物には困らなかった。
 当時の平戸の生活水準と比べれば、比べ物にならない位であった。転校して行く時も、父に連れられて旅する時に乗った汽車は二等車であったし、履物も当時はズックという布の靴が主体であったが、私は革靴を履かされていた。持ち物は、他の子供のそれに比べて随分と良かった。


 ─────平戸は旧平戸藩松浦家領五万六千石の小さな城下町である。
 平戸松浦藩は日本の最西端に位置し、この平戸島を城下町として、佐世保市、北松浦郡、松浦市、壱岐郡などを統括
(そうかつ)する約一千平方キロの領土を持ち、実質的には六万三千石を有していた。

平戸城天守閣

 遠い昔、我が先祖は、平家一門に起源し、その伝承は平清次白旗越前守敦貞
(たいら‐の‐きよつぐ‐しろはた‐えちぜんのかみ‐あつさだ)にはじまるとある。
 平敦盛
(たいら‐の‐あつもり)と運命を伴にし、下関(しものせき)の壇ノ浦(だん‐の‐うら)の合戦に敗れ、幼帝・安徳(あんとく)天皇の入水を見届けた後、泣く泣く此処に落ち延びて、ある者は熊本の五家荘ごか‐の‐しょう/熊本県八代(やつしろ)郡泉村の地名で、球磨(くま)川の支流、川辺川上流の山に囲まれた集落。この地には平家落ち武者伝説がある)へ、またある者は平戸島に流れ着き、私の遠い先祖は、「岩」の「先《崎》」から上陸したので、「岩崎」と名乗って、平家一門の「平」の名を隠し、いつの頃からか、水軍松浦家に使えた武門の家である。私の「岩崎」という苗字(みょうじ)は、これに由来する。

 先祖は中野村の代官であったという。
 家系は本家筋を継承するため、面白半分に級友達からは「殿」の渾名
(あだな)が付けられ、近所や親戚の大人達からも、「本家の坊ちゃん」と呼ばれ、庭の手入れの植木職人や母屋の修理に出入りする大工職人たちからは、「坊」と呼ばれていた。

平戸小学校に転校した直後の頃の写真。(6歳)

 学校でも、大して勉強が出来ないのに級長に押し上げられていた。それは私の学力によるものではない。単に「本家の坊ちゃん」がそうさせたまでのことであった。所謂
(いわゆる)、お飾りであり、傀儡(かいらい)であった。私の実力でない。
 また、叔父が銀行の支店長をしていたから、その威光からそうなったのかも知れない。
 生まれつき、暗愚な私がクラスの面々
(めんめん)を従え、群れを統率できるような人望もなかった。また人見知りも烈(はげ)しく、言葉もはきはき喋る方ではない。だが、「豚も煽てりゃ木に登る」のである。
 いつしか、煽てられた豚は木に登っていた。級長の役が、いつの頃からか身に付いていたのである。大した役者だった。
 しかし、寧
(むし)ろその役を預かっていたのは、級友の女子の美代子という子だった。彼女が私の暗愚を補い、不行届を一手に引き受けていた。その意味でも私はクラスのお飾りであった。
 彼女はいつも、「美代ちゃん」と呼ばれていた。目の大きな可愛い子であった。彼女の方が断然頭も良いし、物事もよく知っていた。私は何もわからないことを理由に、何でも彼女からやって貰っていた。
 彼女の家は、平戸桟橋近くにある『樋口屋』という当時平戸で大きな旅館の一人娘で、お使いを彼女と一緒にやらされたことがあった。そして伯母
(母方の伯母)が、彼女の家の両親と親戚付き合いしていた。

 よく叔母から、 
 「ケンちゃんと美代ちゃんはお似合いね」と言われていたが、子供心に冷やかされているのではと感じることがあって、彼女と一緒に歩くのが嫌でたまらなかった。伯母は、私と美代子の将来を、もうこの時に重ね合せて見ていたのだろうか。そして伯母は、ゆくゆくは私と美代子を結婚させようと、この時から勝手に想像していたのかも知れない。
 彼女が傍
(そば)に寄って来ると周囲の手前から、
 「お前、俺
(おい)の傍(そば)から離れろ!」と、美代子に、本心とは裏腹な意地悪なことを言っていた。そして美代子と私は、平戸で幼年期を過ごした幼馴染みであり、曾(かつ)ての結婚を約束した女であった。



●暗愚の日々、そして平戸へ

 私が平戸にやって来た経緯
(いきさつ)は、母の病気をに端を発する。
 病弱だった母とは、もともと私は縁が薄かった。
 物心付いた頃には親戚中を“盥
(たらい)回し”されていた。私が平戸にやって来たのも、盥回しの一貫に過ぎなかった。しかし物心付いて、病弱な母と一、二年ほど過ごした時期があった。それは幼稚園にあがる、その前後だったように記憶している。
 幼稚園にあがる前、そして、あがった後のことの記憶は、何も出来ずに暗愚な子供であったと記憶する。
 この幼稚園にあがる前、私が急性小児脱腸炎を煩
(わずら)って死にかかった事があったことだ。
 当時の記憶を振り返ると、夜中、下腹の激痛を極度に感じ、その時、父は八幡製鉄の三交代の職工であるため出勤中であり、奇
(く)しくも連絡を受けた山村師範(この物語では山下芳衛(やました‐ほうえい)先生がモデル)に背負われて、病院に担ぎ込まれ、一命を取り留めた事だった。さまに九死に一生を得、山村師範は私の命の恩人でもあった。

 山村芳樹
(芳繧斎)師範と父との関係は軍隊時代の上官であり、また先生のご息子と父は予備士官学校時代の先輩と後輩の関係というか、また教官と生徒とと言うか、師弟関係においても両家は古くから繋(つな)がりがあった。
 私が、三歳くらいの頃、山村師範の道場に預けられ、ここで寺小僧のような事をして数カ月過ごしたことがあった。生まれながらに、出来損ないの未熟児で生まれた私は、その直後、小児科で、まともに育たないのではないかと疑われていた。数カ月間、保育器で育てられたということであった。この保育器とは柳行李
(やなぎごおり)の中である。
 医者から「この坊主は、此処から出すな」と言われたそうである。
 また出来からも、この出来損ないは、よく泣いたそうである。
 当時は、よく泣く子は、下腹に何らかの圧力が掛かって、脱腸になると信じられていた。
 またこれが原因で脱腸になったとも疑われていた。こうした理由により、脱腸を煩
(わずら)って手術をし、八幡製鉄病院に数カ月入院したことがあった。
 ために、幼稚園の入園も数カ月遅れて入園する事になり、当時の私は、人見知りが激しく、幼稚園での一切が理解できず、ただ何もせずに、じっとしていた子供であったように記憶している。
 朝起きて幼稚園に行く支度が整うと、自分から出かけて行くのではなく、隣の幼馴染の明子という同年齢の子が誘いに来て、連れて行ってもらい、また帰る時間になると、その子から連れて帰ってもらうという情けない態
(ざま)だった。
 級友からは脱腸を煩った事から「脱腸金
(ダッチョキン)」と渾名(あだな)され、幼稚園の行帰りによく罵られた。そんな時に、奴等を蹴散らし助けてくれるのが明子だった。

幼馴染の隣の家の明子と。
 この写真は当時警察官をしていた明子の父親が撮ってくれたもの。
(昭和27年頃)

 私の家の隣に棲
(す)む明子の家は、派出所に隣接された警察官舎で、父親はこの派出所の所長【註】この時代、警察官階級は巡査、巡査部長、次が警部補であったから、この階級は大した物だった。所長が本署に出向くとき、所員十数名が玄関前に整列し、赤色灯のついたジープに乗った所長に、敬礼している風景を何度も見た記憶がある)であり、非番の日には、よく彼女と三人で、公園で遊んでくれた事があった。明子の父親の唯一の趣味は、当時個人が所有するには珍しかったドイツ製のカメラであり、明子と私をモデルに、何枚かの写真を撮ってもらった事があった。
 私は内に籠
(こも)る性格で、人見知りする方であったが、またそう言う性格が逆に周囲の人間に関心を持たれ、興味の対象になったのかも知れない。
 子供の頃、私は彼女を「明ちゃん」と呼んでいた。
 そして明子もその一人であり、彼女は非常に知能の発達した子供であったように記憶している。
 知能発達した子供は、心理学的に言って、自分の周囲に一人でも、とろい動きをする者がいることに、どうも我慢ならない行動をとるとされている。そのために、すぐに世話をやくようである。
 それがまた、女子である場合、暗愚の私に、母性本能を擽
(くすぐ)る何かを見つけ出し、「構う」という行動に出るようだ。

 私は生まれつきの小心者で、臆病者である。驚異にも屈しやすい。
 そのようなことから、私の両親も、私の行く末を案じて、山村師範の所に預けたのかも知れなかった。しかし私のこうした性格は、簡単には治らなかった。
 そしてこの後、幼稚園を卒園し、小学校に通うようになるのだが、母が病気をで斃れ、生まれ故郷である平戸の叔母の家に預けられる事になるのである。
 物心付いて、平戸を見たのは、この時が初めてであった。

 海を殆ど知らなかった私は、以後、度々平戸を訪れる時、海に沈む夕陽を見て、ふっと甘い悲しい気持ちにとらわれる事がある。
 それはその夕映えが、余りにも瑞々
(みずみず)しく、時には夕陽が、血潮の、爛れ(ただれ)るような強烈なイメージで迫って来るからでもある。空の空間における夕映えの美しさが、海原に投影され、その色は、血潮のような情熱を秘めて私の心に迫るからだ。
 こうした西海の海を見慣れて来ると、人間はいつしか、自然と、いつも人生の終焉
(しゅうえん)に思いを馳(は)せ、その淡い悲しみに、一時(ひととき)心を委ねようとするのではあるまいか。
 そしてとらわれるのは、こうした淡い悲しみばかりではない。
 同時に、凶暴な悔恨
(かいこん)の思いが吹き上げて来る事もあるのだ。それは、また無性に懐かしく、平戸の海の風景が迫って来て、心を哀愁の中に引き摺り込むのである。

田平の平戸口から見た前方の平戸海峡。

 子供の頃に聴いた海鳥の啼き声は、今でも耳に染み付いている。そして城が見える前方の湾は、かつては砂浜だった。この砂浜の上を子供の頃、足跡を残して歩いたものである。
 湾内の海はいつも凪
(な)いでいた。しかし、台風が来る前などが怒り狂って別の貌(かお)を見せた。兇暴な貌を見せる。
 しかし、全体的にはやはり凪
(なぎ)のときが多かった。
 凪のときは、青灰色との海に朝日が差し込み、光が海の上を平坦に渡って行った。
 海が荒れれば、停泊した船を揺すり、兇暴な貌をしてみせる。どす黒く豹変し、水平線から三角の白い波頭を覗かせて、陸の人間に威嚇
(いかく)の咆哮(ほうこう)を放つのである。
 そういう咆哮を放つ曇天の日にも、やはり私は砂浜の上に足跡をつけながら歩いたように思うのである。
 そして海の水平線を見ながら、歩いていると、躰の中から、私というものが抜け出して、勝手に自力移動しているのではないかという錯覚に囚われるのである。

 荒れた日よりも、凪の日がいいと思う。元来、私は平和主義者なのだろう。
 人と小競り合いをすることを好まない。喧嘩沙汰を好まない。血の臭いのする人生を好まない。いつも凪のように静かで平和であって欲しいと願うのである。
 だが、この願いは虚しく掻き消され、荒海の咆哮の彼方に呑み込まれて行くのである。
 それでも、やはり凪はいいものである。凪の貌で、最もいいのは夕陽を浮かべた鏡のような海原である。
 夕映えの海を見つめていると、ふっと、その思いが懷かしき日々に逆戻りし、果たせなかった願望が次から次へと顕
(あら)われて、顕われては消える走馬灯(そうま‐とう)のように繰り返すのである。

 私は自分の過去を回想する時、たったひとりの伴侶
(はんりょ)が、自分の心に、なぜ入り込んでくれなかったか、そんなことまで反芻(はんすう)してしまうのである。あるいは共に、この夕映えに投影する夕陽の海を眺めつつ、小さく、労りあって過ごせなかったか、そんな“悔恨の念”が残るのである。血の臭いのする人生を選択した悔悟の念である。
 しかし、その悔悟を一時期、御破算にしてくれるのが平戸の海の夕映えだった。
 私にとって平戸の海とは、そういう海であった。



●遊び仲間

 平戸市宮野町の松浦家武家屋敷
(ぶけやしき)跡近くには、岩崎一族の菩提寺である臨済宗英眼禅寺(りんざいしゅう‐えいげん‐ぜんじ)があり、此処には岩崎家の先祖代々の墓があり、平家の英霊が眠っている。
 この平戸時代は両親がいないのに、少しも寂しさを感じない時であった。
 分家にも多くの子供達がいて、その中では、決まってお山の大将となった。
 いま考えれば、田舎には特別な隠れた身分制度があって、分家は本家に逆らえないという、無言の為来
(しきた)りがあったのかも知れない。そのため何も知らない私は、いつも“お山の大将”にさせて貰っていたのであろう。何処へ遊びに行っても、特別な計らいを受けた。

 魚釣りもよくやった。
 魚釣りをする時は、いつも岩城という少年と一緒だった。
 岩城君は私より二つ年上で、父親は地元の漁師であったと記憶している。父の兄に当たる叔父の家に、よく来ていたので、彼とは直ぐに顔馴染みになり、話をするようになった。
 岩城君は魚釣りが上手だった。
 竹竿
(たけざお)に糸と釣り針をつけた簡単な仕掛けで、巧みに魚を釣りあげるのである。私も同じ仕掛けで釣るのだが、一匹も釣ることが出来なかった。最後には岩城君が釣った魚を全部譲ってくれるのである。これも本家の子供としての役得であったのか。

 ある日曜日、まだ夜が明け切れない早朝から、港入口の防波堤で岩城君と魚釣をしたことがあった。
その日は初夏に差し掛かった頃であったと思うが、早朝から寒い思いをして、一匹の魚も釣ることができなかった。朝寝坊な上に、朝早く起きることが苦手なのである。朝から活動出来るような、頑丈な子供ではなかった。実に“ヤワ”な子供だった。この日も、蒲団の中に居た。
 そんな日に岩城君が誘いに来たのである。
 出かけたくなかったが、渋々それに応じて出てきた時のことであった。

 「一匹も釣れないね」
 私はそんなことを言っていた。
 そして帰ろうと思った時、偶然にも竿にガザミ蟹
(ワタリガニ科の蟹、良く泳ぐので「渡り蟹」という名称がついている)が掛かったのである。そしてこの日の狩獲は、この蟹一匹であった。
 もう、後にも先にもこれ一匹であり、諦めて帰る段になった。これをどうしたものかと、岩城君は迷っていたようだ。
 もともと何匹か釣れれば、私にも分け前がいつものように貰えたのであろうが、一匹の蟹を巡って某君ただ独りが、困窮
(こんきゅう)を重ねていたようだ。
 岩城は恐らく、この日の魚釣のことを両親に話していて、両親もいつものように釣って帰ってくると期待していたのかも知れない。だからこそ、この日の「坊主」同然の狩獲
(しゅかく)を懸念(けねん)して岩城君は迷いに迷ったのかも知れない。そして彼は、私に蟹の足を切って渡しくれ、自分は甲羅(こうら)の部分を取ったのである。

 私はこれに激怒して、岩城君を釣竿で叩いてしまった。
 「どうして俺
(おい)が、こんな足なのか!」
 岩城君は返す返事の、為
(な)す術(すべ)もなく、困窮して黙っていた。
 欲深い私は、足の部分よりも甲羅の方が大きく見え、食べる処も沢山
(たくさん)あるように思えたからだ。
 激怒した私は貰った蟹の足を海の中に叩き込んで、その儘
(まま)帰ってしまった。岩城君は暫(しばら)くそこに立ちすくんでいたようだ。
 岩城君の心の裡
(うち)を知らなかった。岩城君の自分が一等下がって、多くを呉(く)れたのである。
 暗愚な私は腹を立て、人の気持ちを意に介さずにいた。
 この日の夕刻、岩城君は父親に連れられて、伯母の家に詫びに来た。そして手土産
(てみやげ)として蟹を三杯ほど持って来ていた。
 伯母は最初、この意味が分からず、当惑していたが、話しが進むにつれ、漸
(ようや)く事情が飲み込めたようであった。そして「こちらこそ申し訳ありません」と、伯母が謝ったのである。
 どうか気にしないで欲しいと、伯母は意向を伝えたようであった。

 岩城君と父親が帰った後、私は伯母にこんこんと叱られたことがあった。
 「ケンちゃんは、なぜ岩城君を叩いたの?」
 「だって、あいつ、おれに足をくれるんだもん」
 「ケンちゃんは岩城君の気持が分からないの」
 「分かるもんか、あんなやつ!もう魚釣なんかしてやらないぞ!……」

 私はその日のことが思い返されて、一層激怒したようであった。
 「お黙りなさい!岩城君はケンちゃんに一番美味しくて、身の有る方を呉れたのよ。どうして岩城君の気持が分からないの。本当に気持の優しい人じゃありませんか。それに岩城君は上級生なのよ、そんな人を叩くなんて!」伯母はきつい顔をして、私を睨みつけた。
 だが叱責されたが、暗愚な私は意味が呑み込めなかった。
 私は蟹の足が一番美味しくて、価値のある処と知らなかったからだ。
 恐らく岩城君は防波堤で私と別れたあと、一切合財
(いっさいがっさい)を父親か誰かに話したに違いない。それで私が激怒して帰ったことを父親は恐れて、急遽(きゅうきょ)伯母の家を訪れたのであろう。私は小さな暴君だった。
 この日、岩城君の本心を聞かされて、何だか済まないことをしたと思って、なかなか寝付かれなかったことを憶えている。


 ─────当時を振り返り、一番好きだったことは、伝馬船
(てんません)の艪(ろ)を漕ぐことであった。
 母方の伯父に当たる網元をしている人から、一艘の小型の伝馬船
(全長約2.5メートル、船巾90センチ程の木造の小舟)を新造してもらい、これをプレゼントされた事があった。子供の私が、自分の舟を持ったのである。得意満面のときであった。
 数日間の艪を操る練習で、入り江の中を行ったり来たり出来る様になり、操舟
(そうせん)の技術が上達していった。やがて湾内を縦横に動き廻り、得意満面で、この小舟を操るのである。それが私の自慢の種だった。
 遊ぶ時は、いつも同年齢の級友ではなく、二、三年年長の上級生と遊ぶことが多く、場所は決まって、私の伝馬船の中であった。この小舟が、一種の秘密基地化していたのである。

 私は本家の子という理由からであろうか、専
(もっぱ)ら彼らからは可愛がられ大事にされた。そしていつの間にか、彼らに命令するようになったいた。その中で唯一人、命令できない少年がいた。


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