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戦場に散った乙女たち
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哀悼の念を込めて 3






●戦場に散った乙女達

 「戦争は欺瞞(ぎまん)である」とは、既に使い古された言葉である。アドルフ・ヒトラーの言葉である。そして戦争にこそ、大いなる矛盾が存在していた。
 矛盾多き戦争に、「正義」や「聖戦」を持ち出す人種が居る。日本とて、例外ではなかった。当時の高級軍人の多くは、勲章争奪に、血に猛り狂った作戦を展開し、その殆どが、無惨に敗北したのである。非戦闘員である、婦女子も、その例外ではなかった。
サイパン島での日本女性達の身投げ。島の崖淵から身を投げる日本女性。昭和19年7月7日、サイパン島はアメリカ軍の猛攻によって完全に攻略された。そして、アメリカ軍攻略後も居残っていた一般市民の非戦闘員達だった婦女子達はサイパン島東北部のマッピ岬に追い詰められ、岬の断崖絶壁から次々に身を投げた。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」の、東条英機の『戦陣訓』が重く伸し掛かっていたからだ。


 日本では、先の大戦を『大東亜戦争』と称した。アメリカ側からの、この戦争は『太平洋戦争』と称された。太平洋海域における、南方資源をどれだけ多く略奪するかの戦争であり、太平洋の島々の、争奪戦であったからだ。この構図は、日本の入手した南太平洋海域の日本傘下の資源を、連合国軍によって奪い取る事が目的だった。この攻防戦において、多くのエネルギーが費やされたのが、この戦争であった。
 そして日本は、軍人や軍属に限らず、一般民間人の婦女子までが、過酷な戦いを強いられたのである。

 明治維新以降、日本も欧米列強に習い、帝国主義や植民地主義を実行した。ペリー
Matthew Calbraith Perry/1853年7月(嘉永6年6月)日本を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出)の砲艦外交を見習ったからだ。これが帝国主義の始まりだった。西洋は軍事力により、軍事上の制圧を行い、その上で経済上の社会機能を作り上げ、他国または後進の民族を征服して、大国家を建設しようとする傾向を帝国主義と定義する。
 西洋の展開した奴隷制度も、帝国主義の一翼を担ったのではなかったか。

 奴隷制度は、生産労働の担当者が奴隷である社会制度であり、西洋ではギリシアやローマの社会ではその典型的なものであった。そしてこれは、古代社会に止まらず、一般的なものとして、奴隷貿易などにも見る事ができる。十五世紀末以来、南北アメリカの植民地開発のために、アフリカ黒人が労働力として大量に注ぎ込まれた。いわゆる強制労働による人的資源である。これにより、白人国家では国家的潤いをみ、その恩恵に預かっていたのが十八世紀後半の欧米列強であった。この恩恵をバックに、列強は帝国主義の道を驀進する。

 この構図は、レーニン
Vladimir Il'ich Lenin/ボリシェヴィキ党・ソ連邦の創設者で、マルクス主義を独自の仕方で体系づけた。その著書に、『ロシアにおける資本主義の発展』『何をなすべきか』『唯物論と経験批判論』『帝国主義論』『国家と革命』などがある。1870〜1924)の規定によれば、独占体と金融寡頭制の形成を主体に、資本輸出ならびに、国際カルテルによる世界の分割、あるいは発展途上国の地下資源などの割譲、更には列強による領土分割を特徴とする社会を指し、この社会は資本主義の独占段階に至って激しさを増し、戦争が、これにより拡大されると言うものであった。
 だが、この思想はソ連とて、例外ではなかった。

 また植民地主義は、ある軍事力を持つ国が、その軍事力を背後に控えさせ、尖兵として送り込んだ軍属や海外移住者によって、経済的に開発された特定地域を指し、原料供給地や商品市場や資本輸出地をなし、政治上も植民地側は特定の主権を有しない完全な属領に貶
(おとし)め、そこで得た利益を、本国へ移送し、国益に還元するものであった。

 当時の日本は植民地主義の実行の為に、朝鮮半島から中国大陸へと利益拡大を目指し、これに奔走した。この奔走の裏には、自国の国体の増大を図る為に、他国の富を、武力によって、「自らのものにする」と言う意図が含まれていた。

 半世紀以上を経て、先の大戦は終わったと言う。
 戦争は、半世紀以上も遠い昔の事だと言う。もう、世界大戦のような悲劇は、これから先、起らないであろうと、誰もが希望的観測に寄り掛かっている。

 しかし終焉
(しゅうえん)を告げたはずの戦争の裏側に、未(いま)だに悲劇の一抹(いちまつ)の影を引き摺る、悲惨な死に方をした乙女達がいる。軍籍簿は勿論の事、軍属にも属さずに、戦場に空しく散って行った乙女達がいる。
 竜造寺丹羽の「不思議な軍服の絵の世界」は、こうして無名戦士として戦い、無慙
(むざん)に死んで行った乙女達への鎮魂歌である。


【イラストについてのお断り】
  本イラストは、昭和初期から太平洋戦争終戦までの時代背景をベースにして、画家の想像を含めて独自に描かれたものです。
 したがって、当時使用した軍用品や武器、携帯用品などを忠実かつ正確に再現したものではありません。
 また、軍服や制服その他戦時下のファッションなどにも画家の想像が含まれています。


南方方面女子篤志通信隊員。最前線の伝令役として組織された 空撃下の下駄にモンペ姿の高等女学生。


戦時体制下の臨時に組織された篤志看護女学生。


女子学生の軍事教練/捧銃 特攻隊を見送る救護班女学生


本土決戦に備えた海軍女子通信隊員の武装。満17歳以上25歳未満の女性は、東部軍指揮下に入り、本土決戦に備えて婦女子にも厳しい特別臨時訓練が行なわれた。武装は94式拳銃で、日本紀元2594年に採用された将校用拳銃であったが、自動拳銃としての装填性や安全性に大きな欠陥があった。


陸軍篤志看護婦/女子挺身隊。高等女学校の彼女達は、最初、後方支援であったが、やがて前線に配置され、小銃を持って戦わねばならなかった。
いよいよ本土決戦です。緊張を露にする女子陸戦部隊員。
 本土決戦を予期して、17歳から25歳までの婦女子は、一様に武装が命じられた。


篤志女子竹槍部隊員。

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アメリカ陸軍B29の空襲下に晒される女子挺身隊救護班。日本本土空襲が激しくなると、各新聞や雑誌等は「簡単な防空頭巾の作り方」と題する記事が盛んに登場するようになった。防空頭巾は、正しくは「国防頭巾」と言い、江戸時代の火消装束(ひけし‐しょうぞく)の綿入れ頭巾が参考にされ、真綿を厚く入れて少し大きめに作るのがコツとされた。 戦地からの戦地へ移動するマニラ方面女子挺身隊。外地の女子挺身隊や野戦病院の従軍看護婦の多くは、左肩から右下に袈裟がけして、毛布を防弾用に掛けていた。これは分厚い毛布が、心臓を護り、流れ弾等も防ぐと信じられていた為である。外地の女子挺身隊の戦場の移動は、日本本土に向けての当て所(ど)もない空しい行軍だった。


米軍戦闘機に、背後から機銃掃射される少女と婦人鉄道隊警察官。腕には「憲兵」の腕章を嵌めている。


沖縄決戦篤志(特別志望)女子学徒隊「白百合隊」。沖縄戦では日本軍の兵力不足をカバーする為に、沖縄の中等学校や女学校の生徒が学徒隊として戦場に動員された。その中でも、女学生のよって組織・編成された学徒隊が「白百合隊」であり、多くの戦死者を出した。 日赤救護班従軍看護婦。従軍看護婦と言う立場は、自他共に戦場のナイチンゲールとして誇りにしていた初期に比べ、戦争後半に入ると、半ば強制的にかく女学校から志願者指名が行なわれた。こうした指名によって従軍させられる臨時看護婦を「篤志看護婦」と言った。



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