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合気揚げの秘密と時代背景 3


●幻の甲中乙伝

 さて八門遁甲は、別名《奇門遁甲(きもんとんこう)》とも謂(い)われ、昨今の占いブームに、しばしば奇門遁甲の名で登場している。しかし遁甲は正確にはそのような占いの類(たぐい)では断じてない。

 奇門遁甲の看板を掲げた占い師の仕事場や事務所には、宗教儀式の一種を思われる神棚のようなものを祭っているが、奇門遁甲と、霊能力的(神のお告げや霊視等の超常現象)な繋がりは一切関係ない。
 八門遁甲は極めてシビアーな、そして神も仏も存在しない、電磁気、力学、幾何学を用いる、中国の古典物理学である。したがって、一切の霊能力的なものや、神聖を補助する占いは、ここに入り込む余地が全くない。

 もし、ここに祈祷行為に似た霊能力的なものや神聖なものが、占いの一部として入り込んでいたら、これらは全て偽物であり、自分の遁甲知識の未熟を繕(つくろ)う為に、神や仏を持ち出しているに過ぎない。これらは奇門遁甲の名を騙(かた)り、拝金主義に墜落した詐欺商人の、それである。

 遁甲は、簡単に言えば《地理風水》の一種にも類似しており、正確には「八門金鎖之陣(はちもんてっさのじん)」と「奇門遁甲(きもんとんこう)」の二つが合体して、《八門遁甲》になったと謂われ、漢籍書(かんせきしょ)では子部兵書(しぶへいしょ)に属しており、れっきとした《兵術》なのである。
 中でも、三元式の八門遁甲は、満蒙(まんもう)の騎馬民族の兵術であるとされ、騎馬戦法に際しては、恐るべき威力を発揮すると謂(い)われている。

 我が国に於ける遁甲の由来は、推古(すいこ)天皇の御代六百二年十月に、百済(くだら)の僧侶・観靭(かんじん)が日本に訪れた際、『暦本』『天文地理書』と共に朝廷に献上したことから始まる。
 直伝は、《符使式》とは違う《三元式》のもので、朝廷の命に従い大友村主高聡が習得し、天武天皇自身も大変上手であったとある。遁甲は満蒙の騎馬民族の兵術であった為、やがて中国でも学ぶことが禁止された。
 唐六代・玄宗(げんそう)皇帝は、王室以外の者に漏れるのを恐れ、金属製の箱に厳封したとある。やがて日本でも、これが禁じられた。

 後に皇室が、一切の遁甲に関する秘巻を焼却したのを始め、これらの兵書は悉く禁止されて、日本からは、その殆どが消滅している。
 密かに伝わったものとして、甲州流(山本勘助)や山鹿流、他に越後流、長沼流、宮川流、宇佐美氏等の兵術が存在しているが、今日では一番肝心な日取りの軍配術(軍立/いくさだて等の、奥儀と称される秘伝が悉く消滅しているのである。従って、山鹿流でも直伝のものは失われ、大方は室町期に複製書物として、後に作ったものであると謂われている。

 しかし、その威力(この威力というものは、あくまで電気的エネルギーという意味で、神聖的エネルギーは一切存在しない)を恐れるあまり、徳川年間になっても、それを研究したり、用いたりすることは厳罰に処され、これらの書物を持っていただけで、即刻打ち首になったとある。

 遁甲の語源を岩波書店の『広辞苑』で調べると、「人目をまぎらわせて身体を隠す、妖術。忍術」とある。これは語源学者自身の不勉強から起こる誤った解釈であろう。遁甲は忍術のように、その術者が姿を隠すものではない。

 遁甲は、あくまで隠れるのは、十干(じっかん)の「甲こう/「きのえね」のことで「木の兄え」の意で、十干の第一番目に来る)」が、六儀ろくぎ/戊、己、庚、辛、壬、癸)の中に隠れるのであって、人間が姿を消したり、隠れたりするのではない。
 十干の「甲」が、六儀の中に隠れるとは、方術の術法に従って物理学と同じような物理法則(その土地の磁場と君主の生年月日の関係、及び太陽や月や星の運行を調べ、そこで起こる時間的な磁場現象が君主の「命(めい)」に与える影響を計算する術)に従って、電気的法則に則ってこれを用いる。

 甲、または乙が、各々に変化して、三奇さんき/乙、丙、丁)の中で入れ替わり、複雑な行動を示す術として最重要視されていたのである。
 蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が使ったと謂われる《八門之陣(はちもんのじん)》という得意な戦法も、この八門遁甲に由来している。

 これは別名を《八卦之陣(はっけのじん)》といって、巧妙に変化する八つの陣から成り立ち、この陣へ攻撃を加える攻撃者の目から見れば、どれが一体本当の陣か分からないのである。
 この時、攻める側としてみれば、攻撃部隊を八つに分けるわけであるから、戦力は八つに分散され、攻撃機能が低下するばかりか、下手をすると密なる強部に接触して、攻撃側の致命的な命取りにもなりかねないのである。

 指揮官の戦場心理の一つとして、戦闘展開のプログラムをどう演出していくか、そして当面の敵に対し、何処に優先順位をつけて、攻撃に掛るかということに心を砕くものである。だから一定兵力を各々の攻撃目標に対して割く場合は、完璧(かんぺき)な作戦と緻密(ちみつ)な計算を立てた上で割かなければならない。

 しかしそれには優先順位があり、本隊に主力を結集させれば、別動隊は攻撃に至っても完全な勝利は望めず、戦闘も手薄の状態で展開が始まる。
 逆に別動隊に主力を結集させると、本隊は手薄となり、辛い状態で苦戦を強いられることになる。二つに割かれても、このような不安の影が付き纏うのであるから、八つに分けられた陣を攻撃するのは慎重な対策がいるのはいうまでもない。

 これらを攻撃する側から見る場合、更に悪い事は、この八つの陣は、均等に八つに分かれているのではなく、どれが主力であるか分からないばかりか、変化に富んだ複雑な地形に陣地配置がなされている点である。
 それは丁度、一人に対して、八人の敵が包囲してしまった時と同じ状態になってしまうのである。これには魏(ぎ)の最高司令官であった、司馬仲達(しば‐ちゅうたつ)も散々悩まされ大いに苦戦したとある。

 司馬仲達は、孔明の《八門之陣》という布陣の見事さに思わず感嘆の声を上げ、「天下の奇才(きさい)なり」と、その叡智(えいち)と力倆(りきりょう)を率直に評価している。
 西郷派大東流合気武術の中には地平戦(地上戦の意味)に於て、《八方分身(はっぽうぶんしん)》、あるいは《八方分散》という技法があるが、この八門兵法を応用したものである。

 この技法は八方向に分散した多敵に対し、一瞬の攻撃を促して誘い入れ、一気に殲滅(せんめつ)する恐るべき秘術である。
 この秘術は《誘い入れの誘》というものがあり、一斉に誘い入れる導入の通路を、自らを取り巻く敵上の空間に一人がやっと通れるトンネルを作って、心理的に「今が攻撃の汐時(しおどき)」という錯覚を敵に起こさせて誘導する術である。

 八人の敵を八人と思わず、常に一人であるとして、その内の一人に注目して、最初の一人を空間のトンネルに誘い入れて、一人を次々に倒すが如く全体を倒すという得意の術である。これを西郷派大東流合気武術の「柔之術」やわらのじゅつ/耶和良之術)では、《秘伝・八方分身》という。

 西郷派大東流合気武術の技法の中には、他武道では見られない多数捕りは、江戸年間の『甲中乙伝こうちゅうおつでん/徳川幕府が開催した十万石以上の親藩大名を対象とした幕府の講習会)』に由来しているものと思われる。

 このように日本学派の兵学や兵法は、これらの戦略と戦術を土台として出来上がったものであり、根源は全て八門遁甲の複雑な奥儀に由来するのである。したがって大東流の八方分身などの高級技法は、全て『甲中乙伝』をその根源とするものである。
 しかしこうした『秘伝科学』に対し、これを抹殺しようとする外国の巨大勢力があった。




●当時の時代背景

岩倉具視遣外視察団(渡欧した直後の頃)。後にこの使節団は、パリでフランス大東社に洗脳されて、フリーメーソンに加担し、欧米推進派の代理人(agent/エージェント)となる。
西園寺公望の少年時代。
 徳大寺公純
(きんいと)の次男として生まれ、明治維新の際、軍功を立て、フランスに留学した。

 幕末に起こった倒幕運動は、反西欧的な徳川幕府を打倒させ、日本に、親欧米的な立憲君主国を建設するのが欧米列強の狙いであった。

福沢諭吉

 つまり、この狙いの意図は、ユダヤ地下政府(日本では「ユッタ衆」と言われた)を司令塔にして、明治維新即ち日本に於て神秘主義を推進し、これを基盤にしたフリーメーソン革命を日本で成功させる事が目的であった。

 一般には、明治維新がフリーメーソン革命であり、その背後に「弥次郎
(やじろう)という、影の総帥が居て、その配下にユッタ衆と言う穏微な集団が暗躍したという事が、あまり知られていない。

 そしてユッタ衆
(影の易断政府)の総帥・弥次郎(やじろう)の指令に従い、坂本竜馬、伊藤博文(いとう‐ひろぶみ)、井上馨(いのうえ‐かおる)、五代友厚(ごだい‐ともあつ)、岩倉具視(いわくら‐ともみ)、大久保利通(おおくぼ‐としみち)、木戸孝允(きど‐たかよし)、大隈重信(おおくま‐しげのぶ)、寺島宗則(てらじま‐むねのり)、森有礼(もり‐ありのり)、福沢諭吉、新渡戸稲造(にとべ‐いなぞう)、西園寺公望(さいおんじ‐きんもち)らが走狗となって奔走する。
 いつの時代も、有識者や進歩的文化人がこうした穏微な集団の手先となって走狗
(そうく)する現実がある。

 特に西園寺公望
(1849〜1940)はフランス留学帰りの政治家として知られ、フランス大東社(グラン・トリアン)のメーソンであった。
 西園寺は徳大寺公純
(とくだいじ‐きんい)の次男として生まれ、明治維新の際、軍功を立て、にとフランスに留学した。この時にフランスで洗脳を受け、グラン・トリアンのメンバーになっている。
 帰国後、東洋自由新聞社長となるが辞任して、政界に入り、第二次政友会総裁となった。そして二度首相をつとめた。
 1919年
(大正8)パリ講和会議首席全権委員として出席した。昭和期には最後の元老として内閣首班の総帥に当ったり、日本のフリーメーソン革命に奔走(ほんそう)した人物である。

五代友厚

 さて、当時の時代背景としては井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺後、幕閣の中心となったのは老中・安藤信正と久世広周(くぜ‐ひろちか)であった。この時、幕府は政治方針を変えて、「公武合体政策(こうぶがったいせいさく)」を取るのである。
 反対派結合の中心である朝廷と結んで、政治組織を改革し、挙国一致の体制を整え、国難を打開しようとしたのである。これが公武合体運動であった。

 世はまさに、ペリーの黒船砲艦外交で開国を迫る幕末の混乱期の最中で、幕府の《武》の権威は衰えていったが、反幕閣派の結合の中心である朝廷の《公》と結び付く事によって、幕府体制の再強化を図ろうとしたのである。

 これを《公武合体》といい、権威の衰弱した幕府の今後の難局を乗り切る為の幕府の苦肉の政策であった。
 公武合体政策の中心課題は、孝明
(こうめい)天皇の妹・和宮かずのみや/仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の妹。親子内親王。将軍徳川家茂に降嫁。江戸開城その他に隠れた功がある。家茂の没後、落飾して静寛院宮と号した)を、第十四代将軍徳川家茂への皇女降嫁(こうじょこうか)であった。和宮は文久元年(1861)江戸に下り、翌年二月、家茂との婚儀が行われた。

 しかし公武合体政策を推進し、幕権回復の為に和宮降嫁
(かずのみやこうか)を実現させた事は、後に尊皇攘夷派の武士達の憤慨(ふんがい)を招いた。この事が原因で、安藤信正は登城途中、坂下門外で水戸浪士六人から襲われ重傷を負った。
 この事件を「坂下門外
(さかしたもんがい)の変」といい、これを岐点に尊皇攘夷運動は益々激化していく。

会津・戊辰戦争当時の松平容保。

晩年の松平容保

 幕府は大原重徳によって齎(もたら)された勅命ちょくめい/天皇の命令で「みことのり」)に従い、幕政改革を実行し、一橋慶喜(よしのぶ)を将軍後見職にして、松平慶永(まつだいら‐ながよし)を政事総裁職に、会津藩主松平容保を京都守護職に任命するのである。ここから、松平容保(まつだいら‐かたもり)と会津二十三万石の悲劇が始まるのである。

 この時、頼母は霊的な予言ともいうべき諫言、「薪
(たきぎ)を背負って火の中に飛び込むが如し」を藩主に申し立てるが、この進言は退けられてしまう。

 この間、国歩は多難な時代を迎え、白昼公然と幕府要人が斬殺されるような事件が江戸や京都で起こり、幕府の衰運は誰が見ても明らかであった。そして、その最初の血祭りに上げられた人物が孝明天皇であった。孝明
(こうめい)天皇は、弥次郎(影の易断政府の総帥)に遠隔操作された穏微(おんび)の集団に毒殺されたのである。

 明治維新の幕開けは、ペリーの砲艦外交に始まり、孝明天皇崩御、大政奉還、明治維新、会津戊辰戦争と目紛しく時流が移り変わった。
 しかしその流れの中で「会津藩御留流」
【註】当時は大東流の流名を持たない。また江戸年間の記録は一切のない。)が頭角を現わす機会が、一度だけあった。それは孝明(こうめい)天皇の妹・和宮(かずのみや)を、第十四代将軍家茂(いえもち)の妻に降嫁(こうか)を奏請(そうせい)した時に起こった《公武合体》(こうぶがったい)の、新体制が確立されようとした頃の事であった。

 西郷頼母はこれに備えて、会津藩上士
(五百石以上)や奥女中(殿中側御用の上級武士の子女)達にこの御留流を教授した。要人警護の為である。しかしこれは殆ど陽の目を見ずに終わった。そして御留流(おとめりゅう)は一応完成したものの、未発表の儘「幻の御留流」となって、この後も世に出る事はなかった。

 またその直後、京都守護職就任の話が持ち上がる。しかし頼母は、藩主容保が京都守護職に就任する事を最後まで反対した人物であった。

 更にまた、頼母と同じような諫言をした者が、長岡藩国家老
(当時は郡奉行兼町奉行であった)河井継之助かわい‐つぐのすけ/文武両道に優れた陽明学者。洋式の銃砲を購入してフランス式の調練を行なった。フリーメーソンと取り引きした事で、知り人ぞ知る逸話。戊辰戦争にあたり長岡城に籠城して政府軍を苦しめたが負傷し、落城後に死亡)であった。

 長岡藩主・牧野忠恭が京都所司代に推挙された事について、河井継之助は「微弱小藩の力を以は紛擾
(ふんじょう)の渦中に巻き込まれるばかりでありますから、今は藩政を充実して力を蓄え、大事を計るのが何分にも先決でありましょう」と、藩主に所司代辞任を建言(けんげん)したが、これは受け入れられず、河井継之助は空しく帰国している。継之助はこれから騒然となる動乱の時代を読み切っていた。文久二年(1862)八月の事である。

 そして継之助が、フリーメーソンと取引をして武器を調達した相手は、会津藩の軍事顧問として日本に乗り込んで来た、日本名の平松武兵衛
(ひらまつぶへい)こと、ヘンリー・シュネルであった。
 
エドワード・シュネルの兄であったヘンリー・シュネルは、在日プロシア公使館書記官として、慶応3年12月、弟とともに奥羽越後同盟諸藩にくみした。

 弟は武器商人として奥羽越後をテリトリーとして、武器売り付けに奔走し、兄ヘンリー・シュネルは会津藩に取り憑いて、その身代を揺すぶり突けた。
 ヘンリー・シュネルは会津藩では、平松武兵衛
と称し、軍事顧問として家老職の待遇で、会津城下に棲(す)み続けた。そしてフリーメーソンの上部組織(イルミナティ)の意向に従い、プロシア系メーソンと、フランス系メーソンの戊辰戦争を仕掛けたのだっいた。そして日本列島に東西内戦の様相を組み立て、ここに「幕府軍」対「西南雄藩軍」の、日本列島内戦構造が出来上がったのである。

 一方、西南雄藩側としては、坂本竜馬が中岡慎太郎と共に、着々と日本の内戦構造を作り上げていた。
 安政六年に、薩摩・長州の両藩の間には、経済的な交流である交易問題が検討され始めていた。しかし、この問題は政治的な理由でその後、発展は見なかった。

 ところが、慶応元年八月、木戸孝允や高杉晋作らによって、薩長交易の再開が図られたのである。これまで薩長は犬猿の仲であったが、薩摩藩の船は馬関に立ち寄れば、厚遇されるようになったのである。
 それというのも、長州藩が長崎でイギリスの武器商人グラバーから、武器や艦船の購入ができるようになったのも、薩摩藩の経済力の援助のお陰であった。この両藩の接近に、武器斡旋と引き換えに奔走したのが、土佐脱藩浪士の坂本竜馬と中岡慎太郎であった。

 坂本と中岡は、当時の日本列島の内戦構造の企てから見れば、単に、グラバーの走狗として、明治維新革命の片棒を担ぎ、それに奔走したに過ぎなかった。当時の日本経済を実質的に動かす事の出来ない坂本と中岡は、日本内戦構造を津切り上げる為の、「捨て駒」的な走狗に過ぎなかった。
 つまり彼等二人は、当時の日本では、戦後、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の小説を世に出す前は、そんなに有名ではなく、むしろ無名の走狗であった。

 当時の日本を取り囲む国際情勢は、徳川幕府が余りにも長い鎖国政策を強いた為、欧米列強の植民地にされる可能性が大だった。欧米列強が日本の植民地政策として最初に目論んだ事は、日本の内戦を齎す事であった。日本列島が東西に割れ、そこで両者が激しく戦う事であった。この構造は、大戦後の朝鮮半島の南北二分や、ベトナムの南北二分を考えれば、容易に想像が付こう。

 日本の歴史の教科書では、幕府の態度と欧米列強によって、日本の独立が益々危険になるので、坂本竜馬と岡慎太郎が、義憤に燃え、西南雄藩下の薩摩藩と長州藩の提携に乗り出したとあるが、当時の日本をマクロ的に見れば、彼は二人のやっている事は、単に薩長にグラバーからの武器を斡旋して、日本中を内戦状態にするのが目的だった事は明白である。
 彼等二人は、グラバーにうまく操られ、余りにも秘密を知り過ぎた為に、「消された」というのが実情であった。




●大東流の流名由来と女郎蜘蛛伝説

 こうした状況下に、日本の内戦構造を苦々しく思っていた家老が会津藩に居た。西郷頼母近悳(さいごう‐たのもの‐りちか)である。
 会津藩は、坂本竜馬と中岡慎太郎の武器斡旋工作に敗れ、もう、この頃、公武合体運動と尊王攘夷運動はともに挫折していた。諸藩の割拠的風潮は、西南雄藩の薩摩と長州を仲違
(なかたが)いする政治工作を諦め、西南雄藩を中央政局に据え、「富国強兵策」を押し進めようとしてた。

 内乱は日を増すごとに激化し、各地では広範囲に農民一揆や打ち壊しが起り、日本中は蜂の巣を突ついた状態になっていた。日本の「土崩瓦解」は日に日に現実のものとなり、危機感が募っていた。当時の政治指導者は、国家の再統一と再構成を叫ぶようになっていた。

 そこで徳川十五代将軍・慶喜を中心とする再統一であったが、西南雄藩は薩摩と長州が手を結び、坂本と中岡の画策に敗れていたから、将軍慶喜は「大政奉還」をして、日本の分裂を阻
(はば)もうとした。そして「王政復古」の大号令が懸る。

 こうした最中、これに異議ありとしたのが、会津藩家老・西郷頼母だった。頼母の目指したものは、日本をマクロ的に検
(み)た「極東一の卓(す)ぐれたもの」の編纂だった。それは有形無形のものであったかも知れないし、また、無形の武術的な秘伝だったかも知れない。そしてこの秘伝に、思想を結び付けたものが「大いなる東(ひむがし)」であった。

 つまり、頼母の目指したものは陽明学で云う「知行合一」であり、単に知っているだけではダメで、知っている事は、行動が伴った初めて機能するという、「文武両道」の道であった。当然そこには、道としての思想が伴い、単に技法だけを得ると言う、前近代的な武技とは大いに異なっていた。思想と云う「知」の分野と、技法と云う「武」の分野が、両輪の輪のごとく一体化して、これは初めて用を為
(な)すものだった。

 大東流流名由来には、多々諸説があり、またこれ等が各地で実
(まこと)しやかに囁(ささや)かれている。
 今日、大東流の流名由来の根拠は「新羅
(しいら)三郎義光」や「大東の館(やかた)」等がその中心になっているようである。

 これ等の説によれば、「大東流合気武道は、今から八百有余年前の清和
(せいわ)天皇の末孫(まっそん)である新羅三郎義光を始祖として「大東の館」で修練したことに因(ちな)み、《大東流》と称され……云々」と説明する団体もあるが、多くは武田惣角(たけだそうかく)を中興の祖としている為である。

 武田惣角は字学のない文盲の人であったが、近代希
(きんだいまれにみる)にみる武術の達人で、特に剣は榊原鍵吉(さかきばら‐けんきち)から直新陰流(じきしんかげりゅう)を学び剣客(けんかく)の域に達していた。明治の世になっても、羽織袴に刀の大小(だいしょう)を帯刀(たいとう)し、時代遅れの武者修行をして、日本全国を巡回した武芸者であった。

 元会津藩家老・西郷頼母は、このような惣角を哀れに思い、武芸
(剣を捨てて柔術で)で自立出来るようにと、彼の為に架空の伝書の形式(原本)を作成して与え、「会津藩御留流(あいづはんおとめりゅう)は清和天皇に源を発し、代々源氏古伝の武芸として伝わり、新羅三郎義光(しいらさぶろうよしみつ)に至っては大東の館で一段と工夫を加えた。即ち戦死した兵卒(へいそつ)の死体を解剖して、人体の骨格を研究した上で、女郎蜘蛛(じょとうぐも)が獲物(えもの)を雁字絡(がんじがら)めにする方法を観察して、合気柔術の極意を究めた……」(牧野登著『史伝・西郷四郎』より)という甲斐・武田家伝説を付け加え、新たに「源正義(みなもと‐まさよし)」の名前迄を授けたのである。

旧会津藩家老・西郷頼母(保科近悳)。実質上の大潮流合気の編纂者で、頼母の目指したものは、欧米ユダヤの血のネットワークに対峙(たいじ)した「大東流蜘蛛之巣伝」だった。

 それにより惣角は頼母の言を墨守(ぼくしゅ)し、会津藩の名を恥ずかしめないようにと御留流、後には頼母が大東亜圏(だいとうあけん)構想から、大東流を名乗ると、大東流柔術を名乗り、更に大東流合気柔術本部長と名乗り、生涯を通じて宗家とか、何代目とかは一切名乗った事がなかった。

 この事からみても大東流の流名由来が、大日本武徳会
(だいにほんぶとくかい)創立時(明治31年)に、当時の大東亜圏構想に因(ちな)んで、頼母によって命名された事は明らかである。
 この命名によって、当時大陸問題に関わっていた西郷四郎の思想が、何らかの形で流名由来に投影されていたであろう事は容易に推測出来る。或いは最終的な命名者は頼母であったにしても、実質的な流名由来の立案者は、寧
(むし)ろ四郎によるところが大きかったかも知れない。

 また四郎が講道館出奔
(しゅっぽん)の際に、書き残した一書の題名が「東洋諸国一致政策論」であった事から、吉田松陰(よしだしょういん)の「海防論(かいぼうろん)の影響を受け、日本を中心としたアジア諸民族の団結を以て、アメリカ、イギリス、フランス及び、ロシア等の欧米列強に対抗する事を主張している。

 この論説の中心人物が樽井藤吉
(たるい‐そうきち)であった。
 樽井藤吉
(1850〜1922)は大和(現在の奈良県)出身の社会運動家で、自由民権運動に参加した。社会問題・大陸問題に関心を寄せ、1882年(明治15年)東洋社会党を結成したが、大井憲太郎おおい‐けんたろう/政治家・社会運動家。豊前出身。民撰議院設立論争で尚早論を批判、自由党左派の指導者。1885年(明治18)大阪事件を起し入獄)らと大阪事件に連座した人物であり、『大東合邦論』は大東亜共栄圏構想に大きな影響を与えた。
 その著書『大東合邦論』に、西郷四郎は以前から共鳴していたに違いなく、欧米列強を意識して「大東」が、その流名になった事は極めて信憑性
(しんひょうせい)が高い。

 また、菊池一族の政治的軍事的思想的色彩の強い『正義武断』というスローガンを考えれば、その末裔
(まつえい)が、危急存亡(ききゅうそんぼう)に対して同じ様なスローガンを掲げ、欧米列強の脅威(きょうい)に危機感を抱いたとしても、何ら不思議ではあるまい。

 明治初頭から起こった「大東亜」の大アジア構想は「大いなる東
(ひむがし)」即ち、聖徳太子(しょうとくたいし)が隋(ずい)の煬帝ようだい/隋の第二代皇帝。大運河などの土木を起し、突厥(とつけつ)を懐柔し、吐谷渾(とこくこん)・林邑(りんゆう)を討ち、諸国を朝貢させたが、高句麗遠征に失敗、遂に各地の反乱を招き、江都(揚州)でその臣、宇文化及(うぶんかきゆう)らに殺された。569〜618)に宛(あて)た書簡の「日の出(い)ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや……」といって憚(はば)らなかった事を今更(いまさら)持ち出すまでもなく、極東の中心は「日の出ずる国」日本であり、歴史家の多くは、この「日の出ずる処の天子」を聖徳太子としている。
 また、聖徳太子の言う、「日の出ずる処の天子」および「日の出ずる国」そのものを指して、「大東」という説を立てている大東流の流派もある。

 (ずい)の煬帝あてた国書のこれは、最近の研究によって、「日の出ずる処の天子」と名乗った人物は倭(わ)の大王(おおきみ)であり、国王であることから、聖徳太子説が薄れ、聖徳太子は推古天皇を補佐した「摂政(せっしょう)兼皇太子」であった事から、大王とは推古天皇(すいこてんのう)ではなかったのかと言う説が浮上している。
 もしこの大王なる人物が推古天皇とすると、隋
(ずい)側の資料には女王として記載されていなければならない。

 ところがこうした記載は見受けられず、隋側はあくまで「国王」イコール「男性」であると「倭国」
わこく/古代日本)の描写を行っている。
 これを考えると、此処に浮上してくるのが「九州王朝」であり、かつて「九州のスメラギ」
【註】スメラギとは「天皇」を指す)と称された「菊池一族」が浮かび上がってくるのである。

 当時、「倭国」は大和朝廷とは別の国であり、この倭国こそ「大いなる東
(ひむがし)」の「大東」と云う事になる。
 そして明治初期、菊池一族・西郷太郎の末裔
(まつえい)であった西郷頼母は、会津藩御留流に「正義武断」と「大いなる東」をスローガンに掲げ、「大東流」を名乗るのである。
 「日の出ずる処の天子」の国とは「大いなる東
(ひむがし)」であり、これはまさに「九州のスメラギ」を指すものであった。
 そして「大東流」という流名には海外を睨
(にら)んだ思想的、或いは政治的な時代背景があった事が窺(うかが)えるのである。


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