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合気揚げの秘密と時代背景 2


●幕末期、水面下で暗躍するフリーメーソン

 世の中は急速に欧米化に向かい、特に明治初年の近代化や欧化主義の風潮が強まり、物質文明の人知が開け、世の中が進歩するかのような錯覚に陥って行く。
 1867年の明治維新以来、日本は欧米主義へと流れて行れ、日本と言う国は、自覚症状のないまま欧米に搾取
(さくしゅ)される構造を強め、多くのユダヤ・フリーメーソンの代理人達によって操られる事になる。

 その結果どうなったか。
 ユダヤ・フリーメーソンは日本人の精神性と民族心を破壊し、国家としての日本の主権を剥奪する方向へと向かわしめた。また、こうした事を達成する為に、日本国内に代理人や工作員を育成するのである。

 代理人は言うまでもなく時の権力者であり、工作員は有識者や文化人達であった。時の権力者である総理大臣、大蔵大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、中央銀行総裁、政党党首、有力実業家、学者や文化人、ジャーナリストらは代理人となり、また工作員となって大衆を誘導したのである。

 維新以来の日本を考えると、日本の愛国者が誰で、日本を売り渡す者が誰であるか、ユダヤ・フリーメーソンとの関わり合いを見る事によって、鮮明に浮かび上がって来る。
 日本は世界でも有数な美しい自然に囲まれた国である。そこには美しい山河が在
(あ)り、渓谷には清冽(せいれつ)な水によって育まれる稲作文化があった。
 日本文化は常に、日本の四季と密接な関係を持っていた。

四季の巡りを持つ日本文化

 日本列島を絶え間無く流れる清流は稲穂を育て、モンスーンという季節風は吹き、稲作地帯を古来より潤して来た。
 一方、絶え間無く降り注がれる雨は、米と云う食糧を日本人に供給し続けた。そしてそこには、美しい自然に囲まれた田園風景があった、
 これは紛れもなく、天が日本人に施した、天からの祝福であった。

 しかし、維新後日本を覆った欧米の文明は、西洋科学を持ち込む事で、これまでの自然を静かに遠望する社会から、自然を管理する社会へと構造を変えて行った。その為に日本の水田地帯は破壊され、荒れ地になったり工場用地に変貌して行った。また、自然破壊で汚染し始めた。

 こうして変わったのは自然だけではない。日本人自体も変わってしまったのである。また日本人の価値観を変えてしまったものは、非日本的な論理に基づいた欧米の価値観であった。
 明治維新の構造は、日本的なものを軽視し、ひたすら欧米的な文化に染まっていくというのがその根底にあり、この増幅装置が、福沢諭吉等の目指した「脱亜入欧政策」であった。これにより、日本人の礼節は一挙に崩壊してしまう。

 その発端は、坂本竜馬が画策した「薩長盟約」と云われている。
 薩摩藩はこれまでの会津・薩摩同盟を覆し、慶応二年
(1866年)、長州再征を前に、対立していた薩長両藩が、幕府に対抗して協力することを約束した盟約である。世に言う薩長同盟である。

 これを仲介したのは坂本竜馬と云われているが、竜馬自身の画策と言うよりも、裏にはフリーメーソンの意向が働いていたのである。そしてこの時、背後で竜馬を操り、動かしたのはユダヤ・フリーメーソンの日本支社長であった、トーマス・ブレーク・グラバーであった。



●武器商人トーマス・ブレーク・グラバー

 さてトーマス・グラバーだが、武器商人として莫大な資金を掴み、資金も潤沢だった。この豊富をもって、日本の開国を使命として活動したのである。坂本龍馬はトーマス・グラバーの遣いぱしりで薩長盟約を行っている。

 「日本をもう一度、洗濯いたしたく候」の洗濯は、英語で用いる場合、「仕組みを変える」等に常用される場合が多く、グラバーの口癖は、やがて竜馬の口癖にもなって行く。

「日本をもう一度、洗濯いたしたく候」と述べた坂本竜馬。

 司馬遼太郎の著書『竜馬は行く』は、坂本竜馬を題材にして書かれた小説であるが、これをじっくり読むと、司馬史観自体に大ウソが多く、多くの無垢に近い日本人をかくもこのように、文化人のレベルから誑(たぶら)かし、擦過と云う権威をもって、誘導したと言う観が否めない。

 薩長同盟を考える時、薩摩と長州は中央政局において、互いに競争意識が激しく、また多くの対立感情があり、倒幕に向かって一枚岩になる分けには行かなかった。

 その頃、長州藩は藩論を破約して、攘夷に傾いていた。尊王攘夷主義者が藩内でも人気を集め、京都に於ては彼等の名声が高まっていた。

 一方、薩摩藩では、公武合体政策と身分制的区別感が強い、当時の藩主島津久光の指揮下にあっては、薩長が対立する様相を極めていた。そして両藩の対立抗争は決定的なものであった。

 文久三年八月の政変と翌元治元年には、蛤御門の変が起り、敗北を喫した長州藩士は「薩賊」と、薩摩を会津藩と並べて、こう呼称し、酷く憎んだ。
 だが、両藩が相互に敵対感情を露
(あらわ)にする中で、薩摩と長州は提携しなければならない情勢が発生した。その最大の理由は、幕府の方針が変わったと云う事であった。

 それは文久二年以降、朝廷と雄藩の妥協を図り、公武合体運動を積極的に押し進めていた松平慶永
まつだいら‐よしなが/幕末の福井藩主で号を春岳と称す。将軍継嗣問題および条約締結の件で大老井伊直弼と意見を異にし、隠居・閉門を命ぜられたが、後に赦免さる。1828〜1890)らの主流派が、攘夷運動の高まりの中で、政局収拾の自身を失い、職を放棄した事にあった。

 この後を受けた小栗上野介
おぐり‐こうずけのすけ/幕末の旗本。1860年(万延1)通商条約批准交換のため渡米し、のち外国奉行・町奉行・勘定奉行・軍艦奉行を歴任。ロシアとの折衝、フランス士官の招聘、製鉄所の経営などに尽したが、徳川慶喜の恭順に反対して辞職し、捕らえられて官軍に斬首される。1827〜1868)らは、元治元年以来、フランス公使レオン・ロッシュLeon Roches/フランスの外交官として1864年(元治1)駐日公使として来日。日仏貿易に努力し、イギリスに対抗して幕府への支援を積極的に行う。1868年(明治1)退任し、帰国。1809〜1901)の援助を受け、幕府の軍事力や経済力を充実させていく。
 そして小栗は、幕府と敵対する雄藩の、まず第一に長州藩を討ち、続いて薩摩藩を討つ計画を立て、その後に日本を徳川氏中心の郡県制にする事を考えていた。

 この情報を逸早く掴んだのが坂本竜馬らであり、坂本は、この二つの雄藩を提携させる策略を企てた。それは、トーマス・ブレーク・グラバーを通じて、両藩に武器を斡旋し売り付ける事であった。

 少し話は反れるが、鳩山一郎
はとやま‐いちろう/東京生まれの政治家で、政友会に属し、文相を歴任。第二次大戦後、自由党を結成し総裁となったが、公職追放。解除後日本民主党・自由民主党の総裁となり、1954〜56年首相。日ソ国交回復を推進。1883〜1959)元首相のフリーメーソンの昇格祝い等の写真がグラバー邸には飾られている。鳩山由紀夫氏の「友愛」は、フリーメーソンの決まり文句である。

 つまり、薩長盟約の構成や利害関係は、全てトーマス・グラバーが背後のユダヤ金融勢力の指令を受け、この実行者を竜馬に指名した事であった。「日本をもう一度、洗濯いたしたく候」の一度目は、徳川幕府と長州藩との戦いであり、元治元年
(1864)七月、長州藩が形勢挽回のため京都に出兵、京都守護職松平容保(まつだいら‐かたもり)の率いる諸藩の兵と、宮門付近で戦って敗れた事件であり、世に言う「禁門の変」である。
 これにより長州は敗北し、幕府側
(薩摩藩・会津藩・桑名藩の藩兵)は禁門付近で激戦を展開し、長州勢を防ぎ果(おお)せたのである。

蛤御門の変

 幕府はこの時の長州藩の罪を追求し、長州征伐の勅令を申請し、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)を征長総督として、長州藩領へと進撃させた。その頃、長州藩では四ヵ国連合艦隊による下関砲撃事件が起っており、藩内の保守派が擡頭(たいとう)して居た頃で、禁門の変の責任者を断罪する等して、幕府に対し恭順を示した。幕府側はこの第一次長州征伐で、戦わずして勝利を得るのである。

 また一方、公武合体政策を唱える薩摩藩と、長州藩は対立関係にあったが、薩摩藩は会津藩との同盟を覆し、坂本竜馬と中岡慎太郎の仲介によって長州藩へと接近する事になり、薩長盟約をとり交わす事になる。
 しかし、この薩長盟約のシナリオは、予
(あらかじ)めトーマス・グラバーによって作られており、更に「朝敵赦免(しゃめん)運動」までが仕組まれていた。これが後の王政復古となるのである。

 第一次長州征伐を手緩いと考える幕府側は、慶応二年
(1866)六月、将軍家茂を擁した第二次長州征伐が企てられた。
 しかし、薩摩藩は出兵に応じず、逆に長州藩へ武器弾薬を援助すると言う行動に出た。それに加えて、近代的軍隊の装備を整えた長州藩は、高杉晋作ら奇兵隊を中心に、藩内の強硬派を一掃し、また、幕府軍を随所で撃破して行った。これにより幕府の権威は急速に失墜するのである。そしてその背後には、坂本竜馬を操ったトーマス・ブレーク・グラバーの画策があった事は云うまでもない。

薩長同盟の提携に際し、斡旋された武器の数々。

 ところで、長崎に来た当時、若冠21歳だったトーマス・グラバーが、なぜ世界の大商社ジャーディン・マディソン商会の代理人職に就く事が出来たのであろうか。問題は、ここにある。

 当時、ジャーディン・マディソン商会は上海にあったが、トーマス・グラバーが上海に来たのは19歳の時だった。そして、上海での僅か二年間で、当商会の資金を、ある程度自由に出来る地位に伸
(の)し上がっていたのである。

 これはトーマス・グラバー自身の手腕だったのだとうか。
 否、背後には、日本の情報を事前に揃えたフリーメーソン上海ロッジの暗躍があったのである。それと同時に、スコッチメーソンだったグラバーは、本来ロスチャイルドらの意向によって上海に赴く、そこでの指令を忠実に厳守しただけであった。

 当時、アジア方面の情報は全てが上海ロッジに集まっていた。アジアで何かしようと思ったら、上海ロッジに所属し、フリーメーソンに入社していなければならなかったのである。これに入社していると云う事だけが、有利な条件となって事業を展開で来るのである。

 ロッジというのはフリーメーソン会員の集会場であり、裏を返せばメーソンに入社していればビジネス上は有利に働いたと言えるのである。僅か二年間で巨額な資金を動かす事が出来ると云ったグラバーの昇格には、フリーメーソンの力が大いに働き、次の赴任先は日本であった事は間違いない。

 ユダヤ・フリーメーソンは、日本の幕末の動乱期を絶好のチャンスと捉えていた。そしてなぜトーマス・グラバーに与えられた指令は、日本で革命を起こし、それを手助けする事だった。

 グラバー商会は、フリーメーソン革命を遂行する為に武器弾薬を各藩に売ることによって富を得ていた。勤皇の志士を煽り、幕府を転覆
(てんぷく)させるように企てれば佐幕軍にも、幕府軍にも武器弾薬を得る事が出来、また革命が成功して明治新政府が出来れば、新政府軍に対して新たな軍備と武器弾薬を売る事ができるのである。一石三鳥であった。
 こうした画策により、更に莫大な富が約束されるのである。そういった商業的な理由と、ユダヤ・フリーメーソンの世界制覇の野望が絡んでいたのである。

 それが、グラバー自身の意思的野望であると同時に、その後ろ盾であるジャーディン・マディソン商会、更には背後で、ジャーディン・マディソン商会に指令を出すロス茶いる野の世界制覇がこれに絡んでいたのである。
 そしてジャーディン・マディソン商会=上海ロッジ=フリーメーソンという図式において、トーマス・ブレーク・グラバーはその僕
(しもべ)として忠実に行動したと言う事になる。

 明治維新は、フリーメーソンという組織が影で暗躍した事件である。近代の日本史はフリーメーソンによって画策されたと言っても過言ではない。明治維新というものは、ユダヤ・フリーメーソンの作為によって、人工的に作り出されたものなのである。

 同時に、少なくともフリーメーソンリー日本支社長であるトーマス・グラバーを抜きにして、明治維新は成立しなかったという事は、紛れもない事実である。


 明治維新の黒幕はユダヤ・フリーメーソンであり、これこそが日本史を紐解(ひもど)く重要なカギになるのである。
 いつの時代も、民衆の中から見上げる「権力」とは、常に二重構造になって民衆の頭上に覆いかぶさっている。一つは時の体制側の権力であり、もう一つは時の体制を取り巻く国際社会における強大な外国支配勢力である。明治維新の場合は、この外国支配勢力がユダヤ・フリーメーソンである事は明白となる。

 尊王攘夷思想が起り、当時の下級武士や農民や町人が時の権力と戦う場合、その運動は、まず「自由」を標榜
(ひょうぼう)する事から始まる。また、「四民平等」という階級闘争でもある。つまり「自由」と「平等」が時代のスローガンとなり、社会的なイデオロギーとして、階級闘争が繰り広げられるという事である。やがてこうした運動は、自由と平等を旗頭にし、革新運動へと展開されて行く。
 また時の権力が、外国の支配勢力と激突した場合、最終的には革命戦争となる。

 あるいは民衆が外国勢力と対決する場合、屡々、民族主義運動となり、ゲリラ戦が展開される。この時に民衆は二手に分かれ、時に権力を支える民衆は保守勢力となり、外国の支配勢力と結託する民衆は、時の権力体制を打倒した時、傀儡
(かいらい)政権を握る事になる。
 そして明治維新は、まさに後者側の民衆が時の権力を横領した新体制と言えるのである。

 こうした新体制は、外国との支配勢力と通じて、旧体制を打倒すると共に、自らがその国家権力に成り変わり、政治をする事であるが、この民衆側の傀儡
(かいらい)政権は、売国的革命家の集団である。国家の独立と主権を危うくし、民族の心を外国に売り渡し、民族を破壊に導くものである。近代世界史は、大方がこの基本構想によって誘導され、世界支配層の基本構図の中に取り込まれる形になっている。

『征韓論』に敗れた陸軍大将・西郷隆盛。しかし果たして、西郷は征韓論者だったのか。

 西郷隆盛(幕末・維新期の政治家で、薩摩藩士。西南戦争で敗れて城山に自刃する。1827〜1877)は、薩摩藩の指導者となり幕府を倒す。また、戊辰戦争では江戸城の無血開城を実現する。更に明治新政府の陸軍大将ならびに参議を務めた。

 しかし、明治六年
(1873)、西郷隆盛の朝鮮遣使への賛否をめぐる征韓論政変が起る。西郷・板垣退助・江藤新平らは遣使を主張したが、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは朝鮮との戦争につながるとして内治優先の立場よりこれに反対した政変である。この政変は、後の西南戦争へと発展する。【註】西郷隆盛が征韓論者であったという根拠はない)
 結局、前者の意見が敗れ、西郷らは下野し、政府は分裂するのである。西郷は帰郷して、私学校を設立するが、やがて明治十年(1877)、私学校党に擁せられて挙兵することになる。

 この年、西郷隆盛らは、鹿児島に設立した私学校の生徒が中心となって二月に挙兵する。明治政府に対する不平士族の最大かつ最後の反乱であった。
 西郷隆盛が征韓論に敗れて官職を辞し、それが切っ掛けとも云われている。この戦いは、熊本城を攻略できないうちに政府軍の反撃にあって敗退し、九月に西郷隆盛をはじめとして、西郷軍の幹部の一部が城山で自刃する事により結末を迎える。

 しかし、明治維新の流れを側面から観察し、その実体がフリーメーソンであった事に気付いていた元会津藩家老・西郷頼母は、横領された明治新政府軍の転覆
(てんぷく)を狙って、西郷軍に軍資金を送る。しかし、こうした一縷(いちる)の望みも、西郷軍の敗北により頼母の思惑は挫折するのである。



●公武合体と幕府要人護衛計画

 
会津藩家老西郷頼母は、公武合体に備え、次世代形の新武術の編纂(へんさん)を急いでいた。
 公武合体は、幕末期、従来の幕府独裁政治を修正し、天皇と幕府とを一体化させることで幕藩体制を再編強化しようとした政治路線である。
 さて、会津藩が幕末史上に登場するのは、文久二年(1862)の頃である。
 文久二年十二月九日、会津藩主松平容保は京都守護職の任命を受けて、江戸に集結した藩兵一千人余りを率い京都に向かった。この一行は、途中の各地で歓迎を受け、京都に到着したのは十二月二十四日であった。

 この時、会津藩の重臣は簗瀬(やなせ)左衛門直粋、萓野権兵衛長裕、高橋外記重弘、横山主税(ちから)常徳、諏訪(すわ)大四郎頼徳、田中土佐玄清、それに西郷頼母近悳(ちかのり)であった。会津藩に京都守護職の白羽の矢が立ったと着、国元から真っ先に駆け付けてこれに反対したのは、田中土佐と西郷頼母であった。

 『京都守護職始末』には、「今の時、此至難の局に当たるは、所謂薪(たきぎ)を背負って火を救うにひとしく、恐らくは労多くして其功なからんと、言辞凱切(がいせつ)、至誠面に溢r」と、両家老は反対したのである。
 藩主容保は松平家の養子であり、国家老・西郷頼母の特に苦手な存在であった。西郷家は元々、保科姓であり、信州高遠藩主保科正直の弟・三河守正勝からはじまり、会津藩祖・保科正之に繋がる名門でもあった。

 頼母は保科家の第十一代の嫡男として会津若松に生まれ、江戸詰家老の父に遵って少年時代を江戸で過ごし、藩主容保は文政十三年(1830)の生まれなので、頼母より五歳年下であった。そして会津では、頼母と容保の意見は屡々(しばしば)対立する。
 この頃、会津藩の財政は逼迫していた。城下の大火事に続いて、江戸藩邸の焼失、冷害や飢饉が続き、更には蝦夷地や房総半島で警備に当たる会津藩兵は疲弊していた。国家老として、頼母は、容保に対し、京都守護職は即座に辞退するように薦めた。

 ところが、当時に会津藩での藩論はあくまで少数意見であり、重臣の中でも、これを聞き入れる者は少なく、藩の大勢は、京都守護職を大変名誉な職と受け止めたのである。
 容保は、京都守護職就任に際して、思いきった若手を起用する。そして一部を先発隊として京都に出向かせ、教徒の情勢調査に当たらせた。

 容保が京都に着任する際、江戸から京都迄の道程を、どのようにして行くかが検討された。京都の情勢探索に当たった藩士達は軍艦で大坂に入る事を主張した。一般に会津藩といえば、頑迷古風な奥羽の田舎の藩と見られがちだが、若手藩士達は藩校日新館で学び、更には江戸昌平黌(しょうへいこう)で学んだ俊英が多く、時代の推移を敏感に捉えていたのである。
 当時、軍艦はペリー来航以来、西南雄藩が競って軍艦建造計画に熱心であった為、幕府でも海軍が設立された。会津藩もこうした時代の流れに乗り、軍艦をチャーターして江戸から、大坂に入港する計画を立てたのである。

 容保は早速、幕府と交渉し、二隻のスクーネル船をチャーターする。この時、幕府は四隻の軍艦を所有していた。安政二年(1855)にオランダから寄贈された「観光丸」、安政五年イギリスから寄贈された「蟠竜丸(ばんりゅうまる)」、オランダ製の「咸臨丸」、更に「朝陽丸」の四隻があった。この四隻のうち、二隻をチャーターし、海路を遣って大坂に至る案を作り上げたのである。しかし、重臣達は反対し、また頼母も大反対した。そしてその反対理由は、海路はその研究がなされていず、不測の事態に対処できないと言う事であった。

 会津藩は儒教の教えと、長沼流兵学を修め、全国諸藩の中でも最強の装備を誇っていたが、これは陸上戦に於てであり、洋学の研究は遅れていたのである。軍艦はこの時代、文明の所産であり、千人の藩兵が海路で大阪に向かえば、本来ならば若手に新しい体験をさせることが出来たであろうが、幕末は動乱の時代であり、海路では不測の事態が予測できないことで、反対意見が多かったのである。

 京都に着任した会津藩の活躍は目覚ましかった。立ち所に孝明天皇を信頼を勝ち取り、会津藩の至誠が高く評価された。
 元治元年(1864)七月十八日の禁門の変では、会津藩兵が守る御所に攻撃をかけた長州藩は悉く撃退され、容保は京都守護職としての地位と名誉を不動のものにした。

 そして容保が目指す政治路線は、朝敵長州を徹底的に排撃しながら、薩摩や土佐とも連携して、幕府と朝廷を雄藩によって守護する公武合体政策であり、会津藩兵によって一糸乱れぬ統制の基に幕府の尖兵となる事であった。
 ここに、要人警護の為の護衛計画が発足するのである。そして此処に登場したのが、会津藩御留流と言われた、日新館の正課武術であった、各藩各流の粋を集めた特異な武術であった。




●大東流の写しとなった太子流軍法

太子流兵法・軍学巻物

 太子流平法は聖徳太子(用明天皇の皇子で本名は厩戸皇子/うまやどのおうじの称号名《太子》に由来し、望月相模守定朝(もちづきさがみのかみさだとも)を、その流儀の祖とする軍法・軍学・兵法である。

 定朝は、聖徳太子(用明天皇の皇子。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。本名は厩戸(うまやど)皇子。豊聡耳(とよとみみ皇子・法大王・上宮太子(うえのみやのみこ)とも称される。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依した。女帝・推古(すいこ)天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使(けんずいし)を派遣、また仏教興隆に力を尽し、多くの寺院を建立、「三経義疏(さんぎようぎしよ)」を著すと伝える)の軍要の奥儀(おくぎ)を夢の中で悟り、甲斐武田家に属し、屡々(しばしば)騎馬戦法を以て奇襲攻撃で軍功を立てた人物である。
 甲斐武田家が滅亡すると、芦名盛氏(あしなもりうじ)の地頭の代から、定朝の門弟が会津や仙台の東北各地で活躍したとされる。

 会津藩初代当主保科正之(ほしな‐まさゆき)は、当代希にみる名君(有能な政治家)としての誉(ほま)れが高く、徳川四代将軍・家綱(いえつな)の補佐役を勤めた人物であった。
 朱子学(しゅしがく)の山崎闇斎(やまざき‐あんざい)、神道の吉川惟足(きっかわ‐これたり)を招いて、自らの修身と、藩士の教育に勤めた。

 保科正之は、江戸初期の徳川御三家の水戸藩・徳川光圀(とくがわ‐みつくに)、外様(とざま)大名岡山藩・池田光政(いけだ‐みつまさ)と並ぶ、儒教的な文治政治を行った三大名君(明君でもあった)の一人であった。
 因(ちな)み幕末の会津藩国家老・西郷頼母(さいごう‐たのも)は、明治になって保科近悳(ほしな‐ちかのり)と姓名を改めるが、藩祖保科正之(ほしな‐まさゆき)の末裔(まつえい)である。会津藩では、この太子流平法が極秘の裡(うち)に伝わり、二流派に分かれていた。浦野派と中林派である。

 太子流は兵法として、山鹿流(やまがりゅう)と甲州流(こうしゅうりゅう)の軍学の影響下にあり、八門遁甲方術(はちもんとんこうほうじゅつ)の流れを汲む複雑な三元式(さんげんしき)遁甲の騎馬戦法を用いる流派であったと謂(い)われている。
 特に山鹿流の影響が強く、『武教全集』には剣術、柔術、杖術、棒術、槍術、弓術、薙刀(なぎなた)術、小太刀(こたち)術、殿中居合、馬術、古式泳法(こしきえいほう)、水中柔術、操船(そうせん)術、騎馬軍法を含んでいた。

 因みに山鹿流の二大宗家は、平戸藩(山鹿万介高紹/たかのりと津軽藩(特に有名なのは第四代藩主・津軽信政で、遁甲は用いないが日取りの方術を得意とした)であり、長州の吉田松陰(吉田寅次郎の養子になり名は矩方/のりかたは、長州藩代々の山鹿流兵術師範の家にあり、長崎遊学の際には、宗家の山鹿万介(やまが‐まんすけ)や葉山鎧軒(はやま‐がいけん)を頼って平戸を訪れている。
 この二人を訪ねた理由が何だったか、実際のところ定かではないが、今日でも歴史的な暗示と謎を与えて、現代に問いかけているようにも思える。

 太子流の根本は、《孫子の兵法》であり、これに騎馬民族の、複雑な三元式の八門遁甲の騎馬戦法が組み合わさったものと思われる。
 しかし現在では、こうした複雑多岐に亘る三元式遁甲の奥儀は殆ど消滅しており、江戸年間に残った太子流の奥儀は、專ら遁甲兵法(軍略)を用いるものでなく、個人戦における剣術(太刀、小刀、槍、棒、薙刀)などをはじめとする、格闘組打の初歩的な技術しか残されていないようである。



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