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合気揚げの秘密と時代背景 1


合気揚げの秘密と時代背景

合気を生み出した幕末。その起源は、江戸中期頃、幕府が十万石以上の親藩大名を集めて指導した、幕府の講習会『甲中乙伝』にあった。

 かつて徳川幕府が主催し、十万石以上の親藩大名に対し、指導した武術講習会があった。この講習会は、柳生流【註】奈良・柳生家の伝統武技であり、柳生新陰流ではないので注意)を母体とした剣術秘伝の講習会であり、そもそもは八門遁甲を題材として、上級武士に広める秘術の数々を有していた。
 そして、この講習会を『甲中乙伝』と称した。

合気揚げは、肩球(かただま)を廻し、強引に力任せで握り込んで着る対峙した敵を、「揚げ」かつ「放つ」ものである。肩球は、「肩霊(かただま)」とも書かれ、西郷派大東流では、「揚げの手」とする秘術である。一般に合気揚げと云えば、合気道式の「押し返す合気上げ」【註】合気道ならびにわが流以外の「アイキアゲ」と称するものは、古伝で云う「合気揚げ」を「合気上げ」と称するようだ)か、他の大東流式の、自分の握られた両手を激しく揺すって、握りが弱くなった瞬間に、「圧(お)す」ような方法を持って上げているが、これは力士を揚げる合気揚げではない。肩霊と、自己を取り巻く、「球体」の中に、自らがあり、その中心が「働き」を齎(もたら)すのが合気揚げである。



●合気揚げを生み出した明治維新と言う不思議な事件

 徳川時代末期、従来の幕府独裁政治を修正し、天皇と幕府とを一体化させることで幕藩体制を再編強化しようとした政治路線、則(すなわ)ち公武合体政策が幕府によって打ち出された。しかしこの幕府の政策は、尊皇攘夷運動と真っ向から対立する事になる。

 公武合体政策は、桜田門外の変後、幕府内では安藤信正あんどう‐まさのぶ/幕末の老中で、公武合体を図り、その外交が攘夷論者に憎まれ、文久2年(1862)1月に坂下門外で要撃されて負傷。1819〜1871)ら、雄藩では薩摩藩など様々な勢力が主張した事に始まる。
 一方、「公議政体論」が起った。

 「公議政体論」は、幕末の政治的構想であり、雄藩大名など有力者を集めた会議を設置し、それにより政治を行おうとするもので、幕府独裁論や倒幕論と対抗した。この論者は、横井小楠
よこい‐しょうなん/熊本藩士で、開国論者。明治維新後、参与となるも暗殺。1809〜1869)、坂本竜馬(土佐藩郷士で、土佐勤王党に加盟。京都の近江屋で中岡慎太郎とともに幕府見廻組に殺害される。1835〜1867)、後藤象二郎ごとう‐しょうじどう/土佐藩士で、大政奉還運動を起し、明治維新後、参議。1838〜1897)らであった。

 そして幕末から明治初頭に掛けて、日本には反欧米的な徳川幕府打倒の為に、尊王攘夷運動が過激を増す事になる。尊王攘夷運動は、天皇の権威の絶対化と開国反対を主張し、勅許
(ちょっきょ)なしで西洋列強と条約を結んだ幕府と対立する運動であったが、やがて欧米の圧倒的な軍事力の前に開国を宣言し、欧米化の流れの中に取り込まれて行く事になる。

 この歴史的プロセスを見ると、日本の近代史は謎だらけである。各地で不思議な事ばかりが起り、ある勢力が突如擡頭しているからである。差し詰め坂本竜馬などはその一人に挙げられる事が出来るであろう。

 そしてその結果、日本では親欧米的な酔心派の人物は、次の通りである。

岩倉具視
 (いわくら‐ともみ)
幕末・明治前期の公家で政治家。もと堀河氏、のち岩倉氏の養子となり、公武合体に努めるが、のち討幕運動の宮廷における中心。明治初頭の公家で維新後、政府の中枢を担う。条約改正準備のため使節団を率い米欧を回る。1825〜1883
大久保利通
 (おおくぼ‐としみち)
幕末・維新期の政治家で、元薩摩藩士。維新後、西郷隆盛と対立し、征韓論政変後は初代内務卿として、事実上政府を指導。西南戦争後、島田一郎らに刺殺される。1830〜1878
伊藤博文
 
(いとう‐ひろぶみ)
明治の政治家で、政友会を創設。1905年(明治38)韓国統監となり、ハルビンで朝鮮の独立運動家安重根(あん‐じゅうこん)に暗殺された。元老、公爵。1841〜1909
木戸孝允
きど‐たかよし)
長州藩士で、初め桂小五郎を名乗る。維新後は参議など要職を歴任、政府内の進歩派の中心として、版籍奉還・廃藩置県に尽力。岩倉使節団副使。1833〜1877
井上馨
(いのうえ‐かおる)
長州藩士で討幕運動に参加。維新後、政府の中心人物の一人となり、伊藤博文の盟友。1835〜1915
五代友厚
 
(ごだい‐ともあつ)
薩摩藩士で明治初期の実業家。大阪で造船・紡績・鉱山・製藍・製銅などの業を興し、大阪株式取引所・大阪商法会議所(のち大阪商工会議所)などの創立に尽力。1835〜1885
森有礼
(もりありのり)
薩摩藩士で、明六社(めいろくしゃ)を設立。文相となり、学校令の公布など教育制度の基礎を固める。欧化主義者と信ぜられ、帝国憲法発布の当日国粋主義者により暗殺。1847〜1889
福沢諭吉
 
(ふくざわ‐ゆきち)
思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行して3回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動、1868年(慶応4)塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。1882年(明治15)「時事新報」を創刊。独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。1834〜1901
大隈重信
(おおくま‐しげのぶ)
佐賀藩士で維新政府の要職を歴任、主に財政をつかさどるが、「明治十四年の政変」で下野する。改進党を結成し、後、外相となり条約改正につとめるも挫折。東京専門学校(現、早稲田大学)を創立。侯爵。1838〜1922
津田真道
(つだまさみち)
法学者で、津山生れ。元老院議官や貴族院議員を歴任。明六社の一員。実証主義的思想を有し、唯物論を唱える。「泰西国法論」は日本で最初の西洋法律書。1829〜1903
寺島宗則
(てらじま‐むねのり)
薩摩藩士で薩英戦争に参加。のち渡英。新政府の外務卿として、樺太千島交換条約・日朝修好条規を結ぶ。1832〜1893
坂本竜馬
(さかもと‐りょうま)
土佐藩郷士で土佐勤王党に加盟。江戸に出て勝海舟(かつ‐かいしゅう)に入門、航海術を学び、長崎に商社を設立(のち海援隊に発展)。西郷隆盛・小松帯刀(こまつ‐たてわき)・木戸孝允らと計り、薩長連合を策し、大政奉還に尽力。京都の近江屋で中岡慎太郎とともに幕府見廻組に殺害される。1835〜1867
三条実美
(さんじょう‐さねとみ)
幕末・明治期の公家・政治家。尊王攘夷運動の先頭に立ち、維新後太政大臣。内閣制発足後は内大臣。公爵。1837〜1891
西園寺公望
(さいおんじ‐きんもち)
徳大寺公純(とくだいじ‐きんいと)の次男。維新の際軍功を立て、フランスに留学。帰国後、東洋自由新聞社長となるが辞任。政界に入り、第2次政友会総裁となり、二度首相をつとめる。1919年(大正8)パリ講和会議首席全権委員。昭和期には最後の元老として内閣首班の奏薦に当った。公爵。1849〜1940
新渡戸稲造
(にとべ‐いなぞう)
南部藩士の子で、札幌農学校卒業後、アメリカ・ドイツに留学。英文の「武士道」ほか「農業本論」などを著す。1862〜1933

 以上の欧米酔心派によって、脱亜入欧(だつあにゅうおう)政策が強行される事になる。

 この政策は一見近代的な形を呈しているように見えたが、前近代的な、天皇を中心とする新政府が成立させる為に、立権君主制に基づく名ばかりの近代国家の創出であった。何故ならば、その実体は親欧米的なプログラムによって人工的に創られ、その背後には欧米推進主義者と民族主義者の暗躍の歴史でもあったからだ。
 そして脱亜入欧政策は、欧米推進派の新たな画策であった。


 欧米推進主義者達は明治五年に、「日本の国語は、英語にすべし」という主張を打ち立てた。森有礼や福沢諭吉らである。その後も、この主張はエスカレートして行き、再び明治十七年に外山正一とやま‐まさかず/江戸の生れで幕臣の子として生まれる。米英に留学して哲学を修め、東大教授ならびに同総長。文相を歴任し漢字廃止論やローマ字採用論を主張した。1848〜1900)が、また明治二十八年には西園寺公望(維新の際軍功を立て、フランスに留学。東洋自由新聞社長を経て政界入りし、第二次政友会総裁となる。昭和期には最後の元老として内閣首班の奏薦に当った。1849〜1940)が文部大臣になった時も、外山と同じ事を主張した。

 明治と云う時代は、西洋崇拝ならびに脱亜入欧の時代であった。明治の文化人や知識階級は、こぞって、狂気のごとく「日本的なもの」あるいは「日本精神」を徹底的に否定した。それと同時に欧米的なものを悉々(ことごと)く美化する事を忘れなかった。
 そしてその背後には、ユダヤ・フリーメーソンの思想があり、有識者や文化人をこの思想に同化するだけに止まらず、代理人として走狗の如く使い、骨格としての役割が終ると、今後は逆に次々と暗殺されて行く運命が待っていた。

 暗殺された者を列挙すると次のようになる。


  
1867年 慶応3年11月 坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺
  1878年 明治11年5月 大久保利通暗殺
  1889年 明治22年2月 森有礼暗殺
  1889年 明治22年10月 大隈重信襲撃事件
  1909年 明治42年10月 伊藤博文暗殺 

  以上の暗殺ならびに襲撃された者は、幕末から明治維新にかけて欧米の手先として奔走した人物であった。
 近代日本史は、紛れもなく欧米推進主義者と民族主義者との闘いが歴史の背後で切り返され、明治維新と云う一種の革命は、西南戦争によって日本精神打倒の完結を見る事になる。

 日本では、明治維新はそれまでの徳川封建体制を打倒し、古い時代の幕藩体制を、近代的な西欧文明へ転換させた画期的な事件と評価する声が高い。また倒幕運動に加担し、此処で奔走した維新の群像達は何れも英雄として崇拝されている。この英雄を挙げれば、坂本竜馬、勝海舟、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允らの名が挙げられ、その英雄としての武勇伝は枚挙にいとまがない。

 しかし、明治維新
(1867年)とは何であったかという、革新に迫った時、そこには不可解な勢力が背後で暗躍していた事が分かる。
 近代世界史の流れを追うと、次のようになる。

1776年
アメリカ独立戦争
1789年
フランス革命
1806年
神聖ローマ帝国の滅亡
1814年
ウィーン会議
1815年
ワーテルローの会戦
1840年
中国阿片戦争
1850年
太平天国の乱
1853年
クリミア戦争
1856年
アロー号事件
1860年
南京条約
1861年
アメリカ南北戦争
1862年
ドイツプロイセンのビスマルク(鉄血宰相として一世を風靡し、内政では保護関税政策をとり産業を育成、社会主義運動を弾圧)時代の始まり
1864年
第一回インターナショナルInternational Workingmen's Association/国際労働者協会)結成
1865年
リンカーン暗殺
1866年
普墺戦争(プロイセンとオーストリアとの戦争

 世界は目紛しく動き、まさに動乱の様相を呈していた。こうした歴史の画策者はユダヤ・フリーメーソンの、世界征服の野望を抱く者達であり、彼等の野望の魔の手は日本にも及ぼうとしていたのである。

 この時代の歴史的プロセスを見ると、1853年
(嘉永6)にアメリカ使節のペリーが浦賀に来航して以来、日本はこの頃より騒がしくなる。そして、1860年(万延元年)には、安政5年(1858)に調印された日米修好通商条約が批准され、日本は初の遣米使節を派遣する。

ペリーの砲艦外交。(ペリー横浜上陸図より)

 ヨーロッパに揺るぎない巨大金融帝国を築き上げたロスチャイルド財閥Rothschild/ユダヤ系金融業者の一族で世界最大の大富豪)は、プロイセンとオーストリアの戦争を画策し、1866年6月、両国共同管理地であったシュレースヴィヒ・ホルシュタインの帰属問題を契機とし、プロイセンが大勝すると、同年8月のプラハ条約により、ドイツ連邦は解体し、戦争終結後は、オーストリアはドイツ統一問題から身を引く事になる。その後、ロスチャイルド財閥はアジア管理へ積極的な動きを見せ始める。

 ロンドンに本拠地を置き、上海に橋頭堡
(きょうとうほ)の足場を築いていたロスチャイルド系のサッスーン財閥は、対中国貿易と中国大陸の植民地化を目論んでいた。こうした状況下の1859年(安政六年)、若冠21歳のトーマス・ブレーク・グラバー(英国スコットランドのブリッジ・オブ・ド−ンに生まれ)は、 開港後1年目に上海より長崎へ渡来して来る。そして以後、長崎を拠点に武器商人として、幕末動乱期の日本に於いて重要な役割を果たす。

 トーマス・グラバーは、日本向けの武器商人
(21歳で上海から渡来したグラバーは、 1859年9月にグラバ−商会を設立した。 薩摩、長州、土佐、佐賀の藩士と手を握り、 武器, 弾薬等の売り込みで、 短期間のうちに発展した)として活発な活動を展開し、巨額な理財を築きつつ、その理財を資金として尊王攘夷の過激派志士達を操ったのである。また、フリーメーソン思想を過激派志士達に吹き込み、明治維新の裏面から大きな原動力となったのである。


グラバー邸

 現存する長崎のグラバー邸は、長崎港を見渡す丘の上の、瀟洒(しょうしゃ)な建物として長崎市の唯一の観光スポットになっているが、また此処は、当時の過激派志士達のアジトでもあった。
 そしてトーマス・グラバーのもう一つの別の顔は、維新の若者たち倒幕運動を支持し、また巨額な資金援助を彼等に行い、伊藤博文らを始め、多くの若きエリ−ト達を海外勉学へ斡旋する事であった。
 それはまた、フリーメーソンに彼等を取り込み、入社を促すという事でもあった。

 また幕末の動乱期、グラバー邸を秘密裡に出入りしていたのは、坂本竜馬をはじめとして、伊藤博文、井上馨、五代友厚、寺島宗則、森有礼らの、何
(いず)れも日本を動かし、明治新政府を指導した重要人物ばかりであった。

 しかしこのメンバーのうち、坂本竜馬だけはトーマス・グラバーに近付き過ぎ、またその内部を知り過ぎた為に、慶応三年
(1867年)十一月、有名な近江屋事件で暗殺される。京都の近江屋で、中岡慎太郎とともに幕府見廻組に殺害されるのである。
 こうした事件を裏から洞察すれば、「明治維新とは何であったか」と云う事を考えれば、それは紛れもなく、日本を欧米化に導く、「フリーメーソン革命」であったと言う事が出来る。

 その後維新の功労者達は、続々とフリーメーソンに入社し、日本を欧米化の方向に導く原動力になって行く。そして明治維新は幾つかの歴史的な山場を通過しながら、達成の方向に向かって行く。

年 代
歴史的な山場
画策と目的
安政五年
(1858年)
6月
日米修好通商条約
神奈川で、アメリカ全権委員ハリスと下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震(いわせ‐ただなり)ただなりとの間で締結調印された条約。関税自主権がないなど、わが国に不利な点が多かった。
安政五年
(1858年)
から翌年
10月
安政の大獄
大老井伊直弼が尊攘運動派らに下した弾圧事件。井伊が勅許を得ないで仮条約に調印し、また、家茂を将軍に迎えたことに反対した公卿・諸大名を罰し、梅田雲浜(うめだ‐うんぴん)、吉田松陰、頼三樹三郎(らい‐みきさぶろう)、橋本左内ら多数の志士を投獄し、斬首等で処刑。
安政七年
(1860)
3月3日
桜田門外の変
当日の雪の朝、大老井伊直弼の安政の大獄の弾圧政策を憎んだ水戸浪士ら十八人が、桜田門外で直弼を暗殺した事件。
文久二年
(1862)
8月21日
生麦事件
島津久光の行列が生麦峠に差し掛かった時、イギリス人4人が騎馬のまま行列の前を通過しようとしたのを怒り、従士が殺傷した事件。翌年の薩英戦争を誘引する。
文久三年
(1863)
7月
薩英戦争
生麦事件に端を発し、イギリス軍艦の鹿児島砲撃し、鹿児島は火の海となる。同年10月和議が成立し同藩は責任を認める。幕府は生麦事件に責任を負い、償金10万ポンドをイギリス側に支払った。
元治元年
(1864)
8月
四国艦隊下関砲撃事件
英・仏・米・蘭の4ヵ国連合艦隊が下関を砲撃した事件。前年長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃したので、その報復として行われた。
慶応三年
(1867)
10月14日
大政奉還
徳川第十五代将軍慶喜(よしのぶ)が政権を朝廷に返上した。
慶応四年
(1868)
4月11日
江戸城明渡し
鳥羽・伏見の戦い後、官軍は江戸城に迫ったが、勝海舟と西郷隆盛の会談の結果、徳川家は無抵抗で開城した。
明治二年
(1869)
5月
榎本武揚五稜郭で降伏
戊辰戦争の最後の戦いであった函館戦争で、榎本武揚ら旧幕軍の一部は、明治元年(1868)箱館五稜郭(ごりょうかく)を占拠し、事実上の独立政権を作り新政府に抵抗したが、翌年官軍の攻撃を受け、5月に降伏。
明治四年
(1871)
7月14日
廃藩置県
全国の藩が廃され府県がおかれ、この地方制度改革で北海道のほか3府72県が置かれた。これにより、中央集権化が完全に達成された。実質上、明治新政府が誕生し、県令が派遣される。
明治四年
(1871)
7月14日
明治新政府創設
三条実美右大臣、岩倉具視、西郷隆盛(薩摩藩)、木戸孝允(長州藩)、板垣退助(土佐藩)、大隈重信(佐賀藩)を参議とする明治新政府が創設される。
明治四年
(1871)
11月
藩閥政治と岩倉使節団
岩倉具視(特命全権大使)、木戸孝允(副使)、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら一行が欧米に派遣され、政府は薩長土肥の藩閥が権力を握る政権が誕生する。また多くの官員が参加、津田梅子(女子英学塾を開き女子の専門教育に尽力)ら留学生も同行し、総勢百名をこえた。

 廃藩置県直後の明治四年(1871)十一月より翌々年九月にかけて、明治新政府は米欧に岩倉遣米欧使節団を派遣した。条約改正の準備交渉や海外視察などを使命としたが、その一方で、この訪米中にフリーメーソンに入社し、欧米的植民地主義や帝国主義路線に洗脳されて帰国する。そして、その象徴が「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」であった。



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