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泥酔と流転の俳人 15


ぼろ着て、着ぶくれて、おめでたい顔で。


 九月十七日 晴
 起きると隣りの時計は五つなった。山に落ちる月が美しかった。身心の平静をとりもどした。私は日に日に刻々澄みつつある───と自信し自祝する。


ぽろぽろ冷飯ぼろぼろ秋寒

 これは今朝の実感である。実情は偽れない、そこにこそ句の尊さがあるといふもので───けさも郵便は来ないのか。ああああ、山頭火はさびしい。

 私が若しも───若しもだが───酒をやめることが出来たら私はどんなにやすらかになるだらう。第一物質的に助かる。食ふや食はずやのその日ぐらしから救はれる。赤字に悩み、借金の切なさがうすらぎ、つまらない苦労がなくなる。───だが私には禁酒の自信が持てない。酒を飲むことが私にあっては、生きてゐることのうるほいだから!
 アル中の徴候
(兆候)がだんだん現れてきよる、ああ、ちょいとポストまで。途上句を拾ふ。タバコの吸ひさしを拾ふ。買物をする。

  二十六銭───麦一升  十銭───なでしこ
  六銭───豆腐一丁  四銭───切手
 身のまはりをかたづける。
 御飯を炊きつついろいろさまざまのことを考へる。 
 俳句について
 俳句的なるものー精神ー日本的匂ひー真実・自然ー季節的匂ひー澄寂・表現ー時間的匂ひー流動で各々は力
 作品個々的にはー完成
 作家的にはー未完成
 今夜もよい月、ひとり静かに読みつつ考へつつ寝た。
 

 九月十八日 曇
 満州事変十周年記念日、故北白川宮永久王殿下の御喪儀。
 いつとなく火鉢をしたくし感ずる気分になって来た。秋の心といふべきものの一つの現われである。
 護国神社から号令、拍手の音がたえない。ぢっとそれに耳を傾けてゐると故殿下哀悼と東亜新秩序建設の熱意にうたれる。
 一旬楼ひさしぶりに来庵───先日不在中来庵されたさうだ。新体制の話。俳句の話───。
 近衛首相の念願に和して私も「一億一心」の念願をかたうする。
 今日からはお彼岸の───暑いも寒いも彼岸までということがあるが、まことに然り。
 快食快眠、うらむらくは快便ならず───痔のため。
 ───夢を見た、いやらしい夢だった。かへりみて恥づかしい夢だった。聖人夢なしといふ。せめても、かういふ夢を見ないやうにありたい。
 朝寝、起きたのは六時近かった。朝食ぬきの茶一杯。
 虫ぼし───ぼろぼし。───黴々
(カビの意)───臭々
 秋の蚊いよいよ鋭く迫る。
 早昼飯して芋麦
(いもむぎ)混合飯、おいしくおいしく。ありがたいありがたい。
 事変が民衆を叱正する。そして粗雑にして無駄の多い生活から簡素にして勿体無い生活を課する。───天意として寧
(むし)ろ祝祷すべしである。
 高度国防国家の完成と最低生活の保証とは相即不離である事を痛感する。

 ○足ぶきしても詮なき場合もあるが───個人でも国家でも───断じてあろもどりしてはならない。
 ○自然と不自然の混合体───それを私自身の中に発見する、例へば私の孤独に於て。
 ○ほんたうの俳句は───俳句らしい俳句ではない───俳句の中の俳句───。

 夕方から正宗寺へ───子規忌なのでお墓まゐりをした。帰途汀火居を訪ひ一旬居へ寄る積もりだったけれど気分が何となく悪くなったので、亀屋でうどん二杯食べてそそまま帰庵。十日ぶりに街へ出かけたのだが少しうるさく感じた。
 そしてつくづく視力の弱ったことも感じた。栄養不良のためでもあらう。いやガソリンが切れたせいだらう。
 今暁警鐘乱打に驚かされたが、新玉町の小学校が全焼したさうな。誰よりも子供が可愛想だと思ふ。───
 今夜もよい月夜だった。熟睡した。


 九月二十日 秋晴、昇る陽たふとし
 眼が覚めると暁だった。鶏声、鼓音、鐘響、おだやかに、おごそかに明けはなれた。合掌黙祷した。
 朝寒。火がなつかしい。朝食として、じゃがいもを蒸して食べる。
 身心清澄。近頃よくねむれるのでうれしい。
 百舌鳥が近く来て啼きしきる。

 郵便が───待ちあぐねてゐる手紙が来ないので何となく憂鬱。私は本当に弱虫だなあ。我がままだよ!
 おちつけば、おちつく程淋しいとは───晴れてまた寂しである。
 嚢中空しく厨房からっぽとなる……貧乏の趣味的鑑賞はよろくしない。悠々不動の姿勢でありたし。
 三食泥酔から二食微酔へ転向───。
 減り易い腹の悲哀、そこにユーモアがないでもない。
 頑健。あまりに頑健な、もてあます頑健。
 自己革新が出来なくて何の革新ぞや。
 オッチョコチョイ気分から脱却せよ。
 無水君往訪。不在。干うどんを借りる。和蕾居往訪、小遣を借りる。
  七十六銭───外米二升。十七銭───焼酎半杯。六銭───醤油一合。
 タバコは拾へるが、拾ふ米はない。
 純外米でも干うどんを少々砕いてまぜるとバラバラしないでよい───これは自炊者としての私に発見だ。簡単にして安価ではないか。
 朝夕秋冷をおぼえる。全く秋だ。旅をおもふ。



 九月二十一日 曇、小雨そして晴
 早起、近頃よくねむれる様になって朝は殊に快適なり。曼珠沙華を活ける。お彼岸気分の一標象である。
 近来、私はつつましく余りにつつましく生活をしてゐる。それは内からの緊縮もあるし外からの圧迫もあるが、とにもかくにも私は自粛自戒して居る。
 今後、私は私らしく私本来の生活をつづけるであろう。ただ省みなければならないのは無理をしまいといふことである。無理は不自然である。不自然は長くつづくものでもなく、またつづけるものでもない。

 天人地に面して懺悔する。
 新聞代を督促されて閉口した。無理もない。四ヶ月分もたまっているのだから。
 めづらしく宵寝。いろいろの夢を見た。ときどき眼がさめて孤独の思ひが澄み渡った。身に迫ってちんちろりん、虫も淋しいのだろう。



 九月二十二日 秋晴、何ともいへない心よさ。午後は曇る
 未明起床、しゅくぜんとして省悟する所があった。
 郵便が来て───抱壺
(海藤抱壺/仙台の人で、中学時代に胸を病み、病床にあること二十年間。三十九歳で昭和15年9月18日に死去。「三羽の鶴」は彼の唯一の作品集)の訃(死んだこと)を知らされて───驚いたことは驚いたけれどこれは予期しないではない悲報であった。ああ抱壺君、君は水仙のような人であった。友としては余にも若く遠く隔ててはゐたが、いつぞや君を訪ねて仙台へいったときのさまざまの思ひ出は尽きない───こみあげる悲しさ淋しさが一句また一句、水のあふれるやうに句となった。───抱壺君。君はよく昨日まで生きてくれた。闘病十数年、その苦痛、その忍耐、そしてその精進。とてもとても私のやうな凡夫どもの出来ることではない。私は改めて君に向かって頭を下げる。───ああ逝く者は逝く。抱壺もついに逝ってしまった。ああ───私は一人静かに焼香し読経した。

 ここで筆者は、俳人・海藤抱壺について説明を加えなければならない。
 抱壺の句に有名な、


日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴

 がある。

 この句の中には、彼の闘病十数年の悲痛な環境を即座に物語った足跡がある。
 もともと山頭火と抱壺は、その環境において、性格において、その悉々くは対象的であった。山頭火は泥酔をして醜態を曝
(さら)す「我が儘(まま)」な生活をやめようとしてそれをやめる事が出来ず、抱壺は「我が儘」を希みながらも、その我が儘が叶わず、肉体は束縛された状態であった。山頭火の「動」に比べて、抱壺の環境は余にも「静」であった。

 山頭火は生涯の殆どを漂泊放浪に明け暮れた。果てどもない旅を繰り返し、庵住を需
(もと)めながらも、それが叶ったのは漂泊から十年以上経った死期を予感する短い時間においてである。庵住を需めながらも漂泊放浪からは逃れられなかったのである。

 一方、抱壺は人間としての一生を横臥した儘で過ごした。歩いて歩き廻り、放浪の旅を続けた山頭火と、生涯を横になった儘で暮らした抱壺と、これ程対象的で、またその飲用するものを違っていた。山頭火は日々酒を呷り、抱壺は日に三度の薬を飲用しなければならなかった。両者は、また酒と薬という対照的な飲用物を持っていた。山頭火が自分から酒と取り除けないように、抱壺も自分から薬を取り除く事は出来なかった。
 山頭火の句には、孤寒を感じるいい作品が多いが、その殆どは放浪時代に詠んだ寂寥感を詩ったものの中に多い。

 勿論、庵住の地を需め、其中庵時代にもそれを見ることは出来るが、山頭火の句の中で最もリアルで、寂寥感を感じ、孤寒を感じるのは、やはり漂白し、放浪するその現実の中に、山頭火らしい「動」の、生のリアリズムがあるのである。

 放浪時代の句には、


うしろ姿の しぐれてゆくか

 を筆頭に、


鉄鉢の中にもあられ 

ほととぎすあすはあの山越えてゆこう

木の芽草の芽あるきつづける

まったく雲がない笠をぬぎ 

笠も漏りだしたか

 の、これ等の句は孰れも光っている。

 しかし山頭火が結庵に至り、庵主としてそこに落ち着いてしまうと、彼の句は以外にも放浪時代に寂寥感や生のリアリズムが薄れて迫力が失われた状態となる。

自然への複眼的な観察眼

 つまり、ひしひしと迫るもののピントがぼやけてきて、待ったなしの格闘家としての気魄が、弱くなってしまっているのである。更に付け加えるならば、結庵をする前と、その後では、心に迫るものが弱わ弱わしくなり、同じ旅をしながらも、前者は帰るところが無く、後者はいつでも帰る所があって、同じ孤寒を感じるにしてもその震源の深さが全く違うのである。震源が深ければ深い程、そしてその揺らぎが大きければ大きい程、人の心を揺さぶり倒すのであるが、震源が浅く、生にリアリズムに欠けていれば、それは揺れても、所詮微震にしか過ぎない。

 さて、抱壺の場合である。
 抱壺の句は病気が悪化し、あるいは死に面している時の方が、非常に切迫しており、ひしひしと心に迫り、揺すぶるものがある。


もふまい芽が出る芽が出る  抱壺

見てゐるに満足な五体の蟻ばかり  抱壺

 抱壺は己の五体を病床に釘付けにされながらも、その己が魂は四方に駆け回り、人心を揺さぶり徹した。
 一方山頭火は、晩年に至っても、もう歩きたいを思いながら、歩かずにはいられず、歩きに歩き徹して、幾多の名句を残した。此の両者の運命を考えると一見対蹠的でありながらも、その帰着するところが同じ終着駅を持っていたのである。

 ただ違っていたのは、動と静であり、環境における我が儘か否かであった。
 抱壺は生前に著わした「三羽の鶴」は、彼の唯一の作品集であり、山頭火はこの恵まれない俳人に関心を抱き、文通を重ねたり、昭和十一年の東北への旅の途中には仙台で療養する抱壺に逢いに行っている。
 抱壺の死は山頭火にとって、予期したものであるとはいえ大きな打撃であった。


抱壺逝けるかよ水仙のしほるるごとく

 と、彼に対する弔の一句を残している。
 そして山頭火も、抱壺の去った23後、山頭火も逝くのである。
 再び、山頭火の9月22日の日記に戻そう。

 山野逍遥。哀悼の思ひは果なし、句が沢山落ちていた。
 身心沈静。無門関第十一則十二則。
 時局がいよいよ重大であることを痛感する。───19日には御前会議が開かれたのである。
 午後護国神社参拝、今日はとりわけ参拝者が多い。朝から参拝者がつづいてたえない。
 ───貧乏は胃袋を大きくする。───私の体験が生んだ警語である!
 けふの夕は殊に淋しかった。
 明日はどうやら雨らしい。───せっかくの行楽日、降らなければよいが。───私のためではなく彼等のために───。

 やっと五銭あつめて「なでしこ」をさがして買ふことが出来た。
 蚊帳なしで寝て見たが藪蚊がときどきおそうのでまた蚊帳を吊ったことである。私は蚊帳がきらひだ。
 殆ど徹夜で句作推敲した。
 今夜もまた百匹を殺した。いやな気がした。仕方がないけれど───。



 九月二十三日 曇───時々晴
 秋季皇霊祭───彼岸の中日───行楽日和。起きやうが早すぎてなかなか夜が明けなかった。一切我今皆懺悔すべきである───。
 外米もまたおいしい。不平なく、すなほに慎ましく。行楽日の行楽人。善哉、善哉。
 うれしや健から着信、───期待した金高ではなかったのを物足らなく思ふとは何といふ罰当たりだらう───。

 今日は祭日なので───買へるだけ買った。そのまへに払へるだけ払ってから。
 半月ぶりの飲みっぷりである。一杯二杯三杯───どろどろなったけれどぼろぼろにはならなかった。私としてはまづまづである。
 どんぐり庵でおしゃべり。久しぶりの政一居へ寄って奥さんに敬意を表し、それから道後へ行った。そして十日ぶりの入浴で垢をや汚れを洗ひ流した。理髪もした。───さっぱりしたことである。
 今日は沢山話をした。和尚さんと話した。一旬老とも話した。無水君、和蕾君とも話した。おでんやのおかみさんとも、めしやのおぢいさんとも話した。……闇取引の話、飲食店反則の話、のんべいの話、等々。
 ○酒はうまい。ほんとうにうまい、うますぎる!
 ○猫に小判を与へることは与へられた猫の無智よりも与へた人間の愚を示すものである。


 九月二十四日 雨、しめやかな秋雨である
 三時ころ起床。昨日の残物を飲み且つ食べる。
 昨日はお寺から団子を頂戴したので私自身も餅を買へたので、どうやらお彼岸らしくなったのであった。

 ○まさに「秋」まさしく「純」。なりきれ、なりきれ。
 まづ借金を整理すること。そのためには酒を慎しまなけれならない。禁酒は不可能でも節酒は可能だ。
 ぐうたら根性、やけくそ気分を払拭すべし。是非実行すべし。
 昨日の返金や買物を記して置かう。
 二円…和尚さんへの返金 二円四十銭…新聞代 四十二銭…無水居へのうどん代 二円…米代 三十銭…タバコ 二円四十銭…酒代 十銭…シャボン 八銭…シヤウガ 十五銭…マッチ 五十二銭…押麦 二十銭…餅 四十銭…削節
(鰹節) 二十銭…パン 十五銭…味噌 二十四銭…醤油
 めずらしく胃腸のぐあいがよろしくない。きのうけふだからあらりまえなのだが───。
 けさは袷でもうす寒く袖ナシをかさねた。
 手紙三通を書く。抱壺君
(彼は9月18日に死んでいるのだが。そして山頭火は22日に哀悼の思いを馳せた筈であったが)へ、柊屋へ、満州(一子の健)へ、かなしい手紙なり恥づかしい手紙なり……。
 和尚さんを襲うていろいろ話す。
さびしい日で、ひとりでやりきれないので───。
 まづ焼酎を厳禁す。焼酎はうまくない。ただ酔ふのみなり。心理的にも生理的にも有害なり。焼酎は私にはほんに悪魔なり。
 雨傘がないからお寺の傘を借り郵便局へ出かけちょっと一杯ひっかけたり。
 さらにまたポストへ、また一杯くうっとひっかけました。どんぐり庵の愛息が自転車で、栗飯を持って来てくれる。さっとく御馳走になる。感謝々々。
 白菜二把六銭すぐ洗って漬ける。
 K屋のおかみさん来庵、昨日は純支那米。明日は───。
 夕方虚春君来訪。兄の酒癖を矯めるべく御祈祷を頼みに来たさうな。酒封じの祈祷とは皮肉だ。和尚さんも微苦笑せられたらう!
 いつとなく晴れて星空となった。
 今夜は蚊帳なしで寝た。のびのびとねむった。



 十月一日 曇───時々小雨
 興亜奉公日、国勢調査日、防空総合訓練第一日、陰暦の九月朔日。
 早起、護国神社参拝。自粛自戒。
 身のまはりを整理する、いつ死んでもよいやうに───おちついて静かに読書する。
 いちのまにやら風邪をひいていたらしく咳が出て洟水が落ちて困る。
 昨年の今日だ。松山に渡って来てそして一旬老に初見参したことは忘れてゐない。忘れてなるものか。───もう一年になる。早いといふよりあはただしい歳月ではあった。
 門外不出、誰にも会はず、一文もつかはず、ひたすら謹慎する。
 風邪心地なので早寝。うとうと眠りつづけた。


 十月二日 曇
 百舌鳥啼きしきり。どうやら晴れそうな。早起したけれど頭がおもく胸くるしく食欲すすまず。ぼんやりしてゐる。むしろ私としては病症礼讃。物みな我れによからざるなしである。
 ちょういとポストまで、途中習慣的にいつもの酒屋で一杯ひっかけたがついつい二杯となり三杯となり、たうたう一旬老の奥さんから酒代を借りてまた一杯、急にSさんに逢ひたくて再び一旬老の奥さんから汽車賃を借り出して今治へとんだ。
 ───電話をしたらSさんが親切にも仕事を遣り繰って来てくれた。御馳走になった。ずゐぶん飲んだ。───F館の料理屋には好感が持てた───何しろ防空練習で、みんな忙しくて誰も落ちついてゐないから、またの日を約して十時の汽車でSさんは上り私は下りで別れて帰った。帰途の暗かったこと、闇を踏んでほろほろ辿るほかなかった。そしてアル中のみじめさをいやといふほど感じさせられたのである。
 ───Sさん有りがたう。ほんに有りがたう。小遣を貰ったばかりでなくお土産まで頂戴した。

 帰庵したのは二時に近かった。あれこれ、かたづけてそして餅を食って寝床にはいったのは四時ごろだったらう。
 その餅……。
 この夜どこからともなくついて来た犬。その犬が大きい餅をくはへてをった。犬からすなほに受けて餅の御馳走になった。
 ワン公よ有りがたう。白いワン公よ。
 どこからともなく出て来た猫に供養した。最初のそして最後の功徳!犬から頂戴するとは!


 十月三日 雨───
 朝寝。何しろ疲れたことである。風邪気分。昨日の私とSさんとの会談を考へると、うれしくもあり恥づかしくもある。慚愧々々。感謝々々。

 和尚さんに返金し米代を払ひ一旬老の奥さんに若干返金して麦を買ふ。それから二三杯あほる。すっかり酔った。酔ひつぶれはしなかった。宵から寝たが燈火管制不十分とあって青年監視員から叱られた。
 俳句性について───
  印象の象徴化───刹那の永遠。全と個。
  結晶───圧縮にあらずして単純化なり。
  身心の純化───平明にして透徹。
  核心、焦点、求心的 
 私の不幸は私が頑健であるすぎることから生じると思ふ。


 十月四日 日本晴。申分のないお天気だった。
 訓練第四日、防空訓練もいよいよ本格的。もんぺ部隊に感心する。青年監視員に感心する。感冒解消。めでたくもあり、めでたくもなしといふところ。
 午後、市街散歩。市人の訓練振りを見学する。一旬を訪ふて今治の話一席。それから無水居に寄って俳談一くさり。
 先日来、だいふだらしなかった。今日は酒を慎しみ、気持を引きしめて勉強した。善哉、善哉。


 十月五日 快晴、まったくの秋晴である
 未明起床。早朝より空襲警報鳴りわたる。何となく落ち着かず。午前中は引きこもって読む。午後は久しぶりに道後へ。髭を剃り垢を落としてさっぱりした。いつも一浴一杯だが今日は一浴だけで一杯は遠慮した。
 至る所お祭りの前の風景。子供がわはぎまはってゐる。六日七日は此の地方のお祭りだ。お祭りはお祭りでも私にはお祭りでない。小遣いがあっても気分のよい日はいつでも私のお祭りである。私の食卓のまづしさはお祭りに於て、かへってまづしさを増すのである。
 松茸が安くなった。ただ出盛りではないけれど───。
 下物四十銭。上物八十銭になった。
 焼松茸で一杯やりたいなあ!

 夕方散歩してしみじみしたものの、そして何となしにさむざむしたものを感じた。どんぐり庵は庵主不在。───帰庵すると御飯を野良猫の食べられてゐた。
 夜は防空訓練がすんだので落ち着けると喜んでゐたら、ぬくいので藪蚊が来襲してさんざんだった。一旬老来庵───そして、またありがたう。ありがたう───俳談こもごも更くるまで語った。
 護国神社の所まで一緒に出た。川の水が僅かに音を立ててゐた。
 更ければそぞろに冷えてくる。蚊も沈んでひとりしっとり落ち着いて読み書きが出来たことであった。───更けてひそかなる木の葉のひかり。


 十月六日 晴───
 秋祭り。
 和尚さんの温言───お祭りのお小遣いが足りないやうなら少々持ち合わせてゐますから御遠慮なく───とわざわざいって来られたのである───ああ温情。ありがたし。ありがたし。人には甘えないつもりだけれど、いづれまた、すみませんが───とお願ひすることだろう。ああああ。
 けさは猫の食べ残しを食べた。先夜の犬のこともあわせて雑文一篇を「広島逓友」にでも書かうと思ふ───いつかは一旬老の逓友にのせられた「どんこの死」を思ひ出す。───そして、そしていくらかでも稿料が貰へたらワン公にも、ニャン子にも奢ってやらう。奢ってやるぞよ。むろん私も飲むよ!

 とんぼが、はかなく飛んできて身のまはりを飛びまはる。とべる間はとべ。やがて、とべなくなるだらう。

 山頭火の日記はここで終わっている。
 犬から餅を貰ったのが10月2日、そして猫の食べ残しを食べたのが10月6日であった。9日の夜には高橋一旬を訪ね、10日の句会が終わったら、翌日の11日には旅に出る事を計画し、それを高橋に告げたのであった。山頭火の計画は、土佐から浜伝いに宇和島え出て、11月の終わりには帰庵するという計画であった。
 高橋一旬はその9日の日記に、山頭火との会話を書き記している。

 これによると、
 「十月九日
(木曜)、夜七時頃、ぼんやりと私の玄関に立ったのは山翁(山頭火)であった。あんたに言ひ忘れたことがあるからまたやって来たと言って頭をかいた。
 『わしはもう一度遍路の旅に出ようかと思ふ。すっぽりと自然に出て、しっとり落ちついた心になりたいんだ。明日の句会がすんだら……。えらい済まんが十円程明日の句会の時に頼む』と云った」とある。

 だから4日後の10月10日は、一草庵で句会を開く事になっていた。
 そして、山頭火がぽつりと漏らした事は、「もい死期が迫っている……抱壺も死んだ……わしは淋しいよ」と云って、私の句帳の隅に三句を書いたという。


抱壺逝けるかよ水仙のしほるるごとく

 これは追悼の句として既に記した通りであり、
 他の二句は、


ほっと息して読み直す黒わくの黒

ぐいぐい悲しみが込みあげる風のさびしさ

 であった。
 また山頭火は、「抱壺という男は長く病んでいた。水仙の花は葉が枯れても花だけは中々萎れがたいものだ。その水仙の花のしほるるが如くとうとう彼は逝ってしまった」と、普段は豪気な山頭火も、この晩は流石に淋しさを隠し切れず、眼の奥にキラリと光るものを感じたと、高橋はこの日の日記に書いている。
 更にこう続けた。

 「……わしは長くないぞ。殊に近頃は体が変調だ。わしが亡くなったら柿の木会は頼む。あんたが一番年長で暇が多かりそうな。……動物というものは雀でも象でも生きた仲間に自分の死骸を見せんもんぢゃ。わしもそうありたい。が、せめてそれが駄目なら焼かれる虫の如く香ひかんばしく逝きたい。……のだがやっぱり野たれ死にか」と、そう淋しく笑ってまた私の句集に句を書き付けたという。


ぶすりと音をたてて虫は焼け死んだ

打つより終る虫の命のもろい風

焼かれ死ぬ虫のにほひのかんばしく

 そして翌十日は、夕方から柿の木会の句会であった。

 この日、早くから俳友四五人程が既に集まっていたが、山頭火は句会の始まる午前中から酒を飲み、いつになく上機嫌であった。次第に来庵者が増え、その夜は酔ってぐっすり眠っていた。句会は十一時頃に終わったが、高橋は何か気に掛かる事があって、暗い夜道を急ぎ足で一草庵に引き返して来た。時刻は深夜の十二時過ぎであった。

 高橋は山頭火の名を呼び、揺すったが反応がなかった。山頭火は既に事切れていたのである。
 10月10日午後、山頭火は脳溢血で倒れていたのである。高橋は早速医者の手配をしようと思ったが、真夜中のことでもあり、真っ暗な状態の中では思うように事が運ばなかった。医者が到着した時には既に息を引き取った後で、翌11日午前四時絶命と推定された。医者が示した死因は脳溢血であった。享年五十九歳であった。

 山頭火が世を去った10月11日土曜日の高橋一旬の日記には、こう書かれている。

 「寝早い私が一草庵から更けて帰っても寝られないのは不思議だった。ふと先日からの不思議な翁の様子を考へ合わせて何となく不安におそはれたので起き出でて翁を見舞ふ。朝に時頃であったと思ふ。時既に容体急変し身体硬直してただ昏々と眠る。呼べど答へず。つづけて呼ぶ内に、ふと我に復ったものの如く眼を見開いて私の顔を射る様に見守って離れず。手を握れば辛うじて僅かに握り返さる。次第に眼を閉ぢて再び昏睡状態に陥る。脳溢血と考へられる。黒田住職の門を叩き、私は急いで医者に駈けつく。駈けて帰る途中練兵場の入口で寺の使者に出逢ふ。全く危険絶望に瀕す。月に照る一本道を、ひた走りに駈けつけて見れば既に呼吸なし。山翁、あはれ玄に人生を終わりたるか。ああわれあやまてり、あやまてり。昨夜なぜに医師を呼ばざりしか。今は呼んで更に甲斐なきものを而かも其の暫しの留守のひまに、たったひとりで逝きしかな。許し給えとひしと亡き骸に取りすがれば胸の温くみ残りて生けるものの如し。これはと驚ろいて見直せばあくまで眉は秀で静かにも眼を閉じ口を締めて、あごひげ銀の如く光り頬に紅色さへ止めて其の容貌神の如く澄む。思はず合掌を捧ぐ。新しき水を汲んで水を供ふ。時に正に午前四時五十分。五時二十分医師来る。強烈なる脳溢血と診断せらる。既に手の施す術なし」と記されている。


 昭和15年10月11日、山頭火は旅に出る心積りであったろうが、今度は本当に帰らぬ不帰永遠の旅に立った。
 翌日の久保白船葬儀に参列し、また満州密山より遅れて、息子の種田健
(炭鉱技師)が遺骨を納めに来る。その後、木村緑平が来てその跡を弔うという順に山頭火の追悼が行われた。



●歩き中の人生の白眉

 山頭火の生涯を振り返れば、味取観音堂を飛び出して行乞三昧に明け暮れたのが「動」での魂の格闘であるとすれば、結庵し其中庵以来の庵住は、専ら「静」を通じての魂との格闘であった。
 庵住以降の山頭火に、動的な魂の格闘家として、世間師としての生のリアリズムを感じるには少々色褪せた感じがするが、それでも旅の心が止まないという、山頭火の、芭蕉と同じ気持ちを持ち続けた事は、非常に興味深く、共感を感ずるところである。捨身懸命の旅への心構えは、芭蕉のそれと同じ心境であり、よく芭蕉に迫りえたといえる。

 山頭火は己のこれまでの所業の数々を「愚」と称した。しかしこれを愚と言い捨てるにはあまりにも酷すぎるのではあるまいか。何故ならば、山頭火は俳人としては前代未聞の、己の魂と格闘した格闘家であるからだ。
 そして山頭火の格闘家としての格闘の後を見る時、彼の到達点の終盤戦は、もう一度人間に戻らねばならぬと思った事である。

 何故ならば、人生とは悲痛と親和の上に、各々の人間の縮図があり、人間模様があり、人は即ち仏であり、また自然であらねばならないと思ったからである。
 これはインドの僧・竜樹
りゅうじゅ/150〜250年頃の南インドのバラモン出身の僧で、小乗仏教から後に大乗仏教に転じ、空の思想を説き、中観派の祖でもある。また、中国・日本の諸宗はすべて竜樹の思想を承けているので、八宗の祖という。著「中論」「十二門論」「大智度論」等がある)にその足跡を見る事が出来る。

 一度仏の境地を悟った竜樹は、己の身一個の解脱を図ったところで、それは所詮小乗の世界の事で、これでは正しい仏を成就する事は出来ないという考えに行き着く。竜樹は肉親済度の大悲願を建てねばならなかった。彼の悲願は、真の人間らしい慈悲の本質を突き止める事であった。

 これは竜樹一人に限らず、また釈迦も同じであった。自分を取り巻く二重三重程度の肉親だけに限らず、あらゆる三千世界の一切の衆生を、その猛火で焼かれる火宅から、一人残らず救わねばならないという、大慈悲と大悲願の志を持ったのが釈迦であった。

 これこそ仏道の目指すところであり、衆生親和の理想郷であり、大慈悲の具現であった。そして仏道の目指すところが見えた頃、一生を捧げて血を吐くような説法流布を実行したのが、竜樹であり、釈迦でなかったか。
 そして山頭火を思う時、この仏道の根底にある聖人の正覚は、山頭火にも味えぬ事はなかった。

 山頭火の正覚の解釈は人間であった。己の魂と死ぬまで闘う格闘であった。その山頭火という人間の、人間たる所以がこれに滲み出ている。
 旅先で、不図山頭火の詠んだ句は、人恋しさと、懐旧ではなかったか。


ふっとふるさとのことが山椒の芽

 の句からも解るように、燃えるような人間味が、何処からともなく忍びよって来るではないか。
 また、


人にあはなくなってより山の蝶々

 という実在感が迫る句も作っている。

 山頭火は旅をし、行乞をする途中に様々な、実在的に迫る究極のリアリズムを独特な歩調で作り上げて行った。

 炎天下の、埃
(ほこり)の舞い上がる村の道を嫌った山頭火は、これより山道に入る。山道に入り、黙々と歩く中、不図自分の歩く脇には一匹の蝶々がふわりふわりと飛んでいた。山頭火は早速これに、昆虫学者のような眼を向ける。一匹の蝶々は、やがて山頭火の足許(あしもと)に縺(もつ)れ掛かる。この句はこのような、一幅の禅画にも匹敵するような実在感を以て、彼を人生の白眉(はくび)に押し上げる。
 つまり山頭火の歩んでいる途上は、まさに人生の白眉だったのであろう。
 ちなみに、白眉とは、同類の中で最も傑出している人や物を指す。




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