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泥酔と流転の俳人 2


第一章 山頭火出家得度とその行乞流転


時は変化して止まない。歳月は人を待たず、刻々と変化をするのである。しかし、人の心はこの変化の中で揺れ動き、心は常に定まらないものである。

●流転……歳月人を待たず

 時は流れ、月日は更に流れてその止まるところを知らない。これこそがまさに大宇宙の玄理(げんり)である。刻一刻と月日は流れ、歳月は移り変わり、四季を運ぶ。そして人はこの中に集約され、制約された時間を誰もが所有している。過ぎた日々は、決して戻る事はない。

 老いて過去を懐かしむのは、それぞれに自由であるが、ありし日の過去に執着しはじめると、人はたちまちのうちに、前進が止まると言われている。
 「昔は……こんなはずではなかった……」などと、口癖
(くちぐせ)のように洩(もら)らす人間は、もう、先を見失った証拠である。
 人間は「今この一瞬の中」に、人間としての本当の姿を見る。「今」を一生懸命に生きている人間に、過去の想い出に浸る余裕はないはずである。過ぎし日の栄光は絶対に巡る事はないのである。

若葉生い茂る初松魚の時期、野山は一切に、新たに芽ざした葉を吹く。初夏の新緑の季節である。
 江戸中期の俳人・山口素堂
やまぐち‐そどう/名は信章、号は素仙堂など、庵号は其日庵。甲州の人。1642〜1716)の俳句には、かの有名な「目には青葉山時鳥(やま‐ほととぎす)初松魚(はつ‐がつお)」というのがある。自然と生活に即する季語を三つならべて、初夏の季節感を出した有名な句である。また素堂は、儒学・書道・和歌・茶道・能楽をも学び、江戸に出て松尾芭蕉と親交を結んで、蕉風の成立に影響するところ多く、葛飾(かつしか)風の祖とされる人物である。

 さて、この歳月の流れを如実に著わした詩に、中国の詩人・陶淵明
とう‐えんめい/名を潜せん)または淵明、字(あだな)を元亮(げんりょう)と云った。散文作「五柳先生伝」「桃花源記」などある。365〜427年)の『対酒(たいしゅ)』がある。
 陶淵明は六朝
(りくちょう)時代の東晋(とうしん)の詩人で、江西こうせい/中国長江中流の南にある省)の人であった。
 彼は不遇な官途
かんと/官吏)に見切りをつけ、四十一歳の時、彭沢県令(ほうたく‐けんれい)を最後に、「帰去来辞」ききょらい‐の‐じ/陶淵明の文で、故郷の田園に帰った折の心境を述べたものである。六朝第一の名文と称せられる)を賦して故郷の田園に隠棲(いんせい)する。平易な語で田園の生活や隠者の心境を歌って一派を開き、この中から、唐代に至って王維(おうい)や孟浩然(もうこねん)らの多くの追随者を輩出した。

人生根蔕無
瓢陌上塵如
得歓当作楽
斗酒聚比隣
盛年不重来
一日難再晨
及時当勉励
歳月不待人
人生に根蔕(こんてい)無く
(ひょう)として陌上(ひゃくじょう)の塵(ちり)>の如し
(かん)を得えなば当(まさ)に楽を作(な)すべく
斗酒(としゅ)もて比隣(ひりん)を聚(あつ)めん
盛年(せいねん)は重ねて来らず
一日再晨(いつじつあした)なり難し
時に及んでは当(まさ)に勉励(べんれい)すべし
歳月人を待たず

 『対酒』に記された大意は、「人の命の果敢(はか)なさは、道に舞い上がる埃(ほこり)のようなものではないか。機会があれば楽しみ、一緒に酒を飲もうではないか。今日一日の事は、再び明日同じものが巡って来ないのだ。従ってこの時期にあっては、楽しむべき時に楽しみ、勉強すべき時に勉強をしなければならない。歳月というものは、決して人間が老いて行くのを待ってくれないものだ」という、人生の飄々(ひょう‐ひょう)とした現実を述べている。

 この詩の中で「時に及んでは当
(まさ)に勉励すべし」とある一節は、現在では「少年老い易く、学なり難し」の論語の一節を捩って、「若い時に一生懸命勉強をせよ」というように解釈されているようであるが、本当は「楽しむべき時に楽しみ、勉強すべき時に勉強をする」という意味である。刻一刻と流転する宇宙現象を知り抜いた、陶淵明ならではの人生訓である。

 陶淵明は江州潯陽郡
じんよう‐ぐん/中国江西省九江市付近の古地名で、詩人白楽天の「琵琶行」に見える潯陽江は近辺の長江を指す場所として有名)柴桑県の下級貴族の出であり、若い時から理想が高く、博学で、非常に文章が旨かった。
 曾祖父は大司馬
(国家の軍政を司り、漢代には大司馬として、三公の一とした)であったが、両親は歳老いていて家は貧しく、江州の祭酒(さいしゅ)として一旦は官吏(かんり)の道を歩んだが、四十一歳の時の彭沢ほうたく/江西省東北部にある県で陶潜の県令としての任地)県令を最後に、不遇な官途に見切りをつけ、故郷の田園に戻って隠遁(いんとん)生活をはじめるのである。

 自ら田畑を耕しながら、貧しいうちにも細々と生計をたて、孤高を持し、後に平易な語調で田園の、牧歌的な長閑
(のどか)な生活を詩に詠(よ)み、隠者の心境を見事に詩い上げて一派を開き、白楽天(はくらくてん)は許(もと)より、王維(おうい)や孟浩然(もうこねん)らの後世の天才詩人達にも大きな影響を与えた。

 しかし隠遁生活をするうちに、歳と共に体力は次第に衰え、苛酷な農作業から度々過労で倒れ、痩せ衰えて、何日も寝たきりの日々が続いたと言う。
 陶淵明の才能を惜しむ人達が彼の処にやって来ては、官吏の道に再び戻るように勧めたが、彼はこれを頑なに断わり続けた。

 その中の一人であった江州刺史
しり/全国十三州に分けた郡や国の政治を巡察する中央政府の高級官吏)檀道済(だん‐どうさい)は、最も彼の才能を惜しみ、「賢人は世に処するに、天下に道無ければ隠れるが、道あれば、出て仕えるというのが古来より、知識階級に与えられた使命である。今あなたは聖天子の治世に生まれながら、清貧に甘んじ、どうしてそのように自分で自分を苦しめるような事をするのですか」と詰め寄ると、彼はすかさず切り返し、「私如きが賢者であろう筈がない。私のような者が賢者を志したとて、到底叶う筈(はず)がありません。どうかお引き取り下さい」と云って頑(かたく)なに拒(こば)み、この申出を辞退した。

 それでも檀道済は、更に食い下がって説得をし続け、大粟や肉類の食品を贈ったが、彼は手を振ってそれらを突き返した。ここに陶淵明の強烈な個性と、誇り高き貴族、あるいは上級武士に匹敵する生き態
(ざま)があるのである。それは生き態(ざま)というより、寧(むし)ろ死生観を超越した崇高な「死の哲学」に則った潔(いさぎよ)さ、あるいは悟人としての「死に態」でなかったか。

 そして、浅薄な物質文明に毒されないという反骨精神があった。
 ここに『葉隠
(はがくれ)』を口述した山本常朝(やまもと‐つねとも)と同じ様な、人間の生・老・病・死の四期を踏んで、最後には、帰るべき処(ところ)に帰るという、本当の人の、人たる所以(ゆえん)の目的を垣間見たのではあるまいかという、推理が成り立つのである。

 陶淵明の説くところは、権力や見栄の俗事の、見せかけ的な偽りの生き方ではなく、人間は如何にあるべきかという、清貧の人生を駆け抜ける「戦い態
(ざま)」や、人生の勝負師としての「己(おの)が魂との格闘」ではなかったろうか。またそこに、彼の毅然(きぜん)とした態度があったのではあるまいか。

 山本常朝は『葉隠』の中で、繰り返し「現世の構造は夢だ」と力説している。
 「人生まことに短き事なり。好きな事をして暮らすがよろしかろう」と……。畢竟
(ひきょう)、現世自体を「夢」と見たのである。
 人の世、つまり現世を“カラクリ”であると言い切り、人間を一つの巧妙に作られた“カラクリ人形”であるとしているのだ。
 山本常朝の根底には《死の哲学》が流れており、人生の無常観
(むじょう‐かん)を見てとり、それはニヒリズムで現世を見下した観(かん)があった。

 常朝は健康である事よりも、健康に見えるように振る舞うべきだと説く。勇敢であるよりも、勇敢に見える事を説く。このような豪気な態
(さま)が、人の「死に態」【註】し‐に‐ざま/人生を生きた「けじめ」)を決定し、純粋に清い儘(まま)、一貫させる潔い人生道に誘(いざな)う、と説いたのである。

 志を持って生きる人間にとって、戦時
(せんじ)の世は行動によって勇気を現わし、平時(へいじ)の世は言葉によって、あるいは文章によって勇気を現わさねばならない、と常朝は尚も説き続ける。

 しかし人の一生は、刻一刻と流転して、時は移り変わり、それらを表現するには余りにも短過ぎるのだ。
 このように「死の哲学」で綴
(つづ)られた『葉隠』ですら、人の一生の短き事を明確に記し、生や死を問題にせず、富益を求めず、奢侈(しゃた)と飽食に明け暮れる物質文明の安楽に保障された生き方を、強く否定しているのである。

 これらの放埒
(ほうらつ)に身を委(ゆだ)ねた生き方をすると、やがては自己を見失い、金・物・色にほだされて真の人生の目的を見失い、時間を無駄に費やし、老衰に困窮(こんきゅう)する哀れな死が待っている、と説いているのである。
 時の流れ、月日の流れは、神と雖
(いえど)も、これを止める事は出来ないのだ。時間と共に、万物の一切は流転しているのである。

松尾芭蕉像。『奥の細道』の冒頭には、「月日は百代(はくたい)の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上(こうしょう)の破屋に蜘(くも)の古巣をはらひて、やや年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もも引の破れをつづり笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月まづ心にかかりて、住る方は人に譲り杉風(さんぷう)が別墅(ぶっしょ)に移るに……」とある。

 もし流転する宇宙現象を超越するものがあるとすれば、これは只管
(ひたすら)(なにがし)かの健康法を求めて、生に縋(すが)る「生の哲学」を求めるのではなく、死生観や厭世観(えんせい‐かん)を越えた、自らの志を支える強烈な使命感と、日々死を以てそれに当てる、「死の哲学」に集約された、令厳(れいげん)な緊張ではあるまいか。



●無一文

 「死の哲学」に集約された令厳
(れいげん)な緊張という点で、酷似した生き方をしたのが、俳人・種田山頭火であった。
 山頭火は流転放浪する歳月の中に、生のリアリズムに直面した無類な行乞僧
(ぎょうこつ‐そう)であった。

 山頭火の有名な句に、


ホイトウとよばれる村のしぐれかな


 という句がある。

 ある村を通りかかると、道端に子供達が集まって来て、「乞食
(こじき)が来た、乞食が来た」と詰(なじ)られた。子供達は珍しそうに、侮蔑(ぶべつ)の目で行乞僧を見下しながら、被っていた網代笠(あじろがさ)の中を覗(のぞ)き込もうとする。山頭火自身は物乞(ものごい)とも、托鉢僧(たくはつそう)ともつかぬ薄汚れた自分の形相(ぎょうそう)を、何とも要領を得ない心境で反芻(はんすう)し、困惑している。

 そして今の自分の境遇を愧
(は)じているものの、やはり「乞食(こじき)」と呼ばれれば、何ともやりきれない淋しさに襲われて、再び、今の己の境遇を改めて振り返えるのだった。

 心の中では、やはり「私は一介の乞食坊主」に過ぎない。
 彼はこの時、「ああ……そうだったのか。自分は法衣を着た乞食だったのだ」と、今更
(いまさら)ながらに思い知らされ、自分で自分に頷(うなず)くしかなかった。

 仏道の説く、「行乞
(ぎょうこつ)」とは、乞食を「行(ぎょう)」とする意味のものである。
 因
(ちな)みに「ホイトウ」あるいは「ホイト」の言は、中国地方から九州にかけて、乞食の事をこう呼ぶのである。物を乞い需(もと)める非生産者を、こう呼ぶのである。棲(す)む家のないホームレスをこう呼ぶのである。

 常識を持った多くの人は、衣食住に殊
(こと)の外、関心を示し、その中で人生設計の計画を練り、その基盤の範疇(はんちゅう)で、己が人生を全うしようとする。自ら好んで出家し、行乞僧に身を落として托鉢(たくはつ)をしよう等とは考えない。どんなに落ちぶれても「腐っても鯛(たい)」という自尊心だけは誰もが持っている。
 しかし山頭火は、自らを最低の行乞僧
(ぎょうこつ‐そう)に身を窶(やつ)し、諸国を歩きに、歩いた。放浪して流れ、何処までも、何処までも流れ、歩いて旅をした。

 人生は“旅”に例えられる。
 一時期、自分の棲
(す)んでいる土地を離れて、冒険心に心惹(ひ)かれるのは、丁度それが人生の冒険心に匹敵するからである。この考えは万国共通であろう。人間は様々な経験を通して旅をしていると言う感覚は、万人の一致するところである。

ある郷の道標

 山頭火は、幾度か詠嘆
(えいたん)するように、その日記の中で「私はまた旅に出た」と、冒頭に繰り返している。ここに人生最大の課題がある。
 山頭火は繰り返し、旅に出て放浪し、歳月の流転がその儘
(まま)、山頭火の流転であった。彼はこれを繰り返しながら、一つの結論に達する。人間は幾度旅立っても、決して何処にも到達する事はないと……。
 人間にあるのは、ただの「出発」だけだと……。
 ここに人生の無常観
(むじょうかん)がある。

 では何故、山頭火は到達点のない旅を繰り返したのか。
 恐らく山頭火の心の裡
(うち)には、各々の時代の「懐疑(かいぎ)」が引っかかっていたのではあるまいか。彼は旅の中で未(いま)だに、1930年9月24日の母ふさが古井戸の身を投げて投身自殺した時の、少年時代の懐疑が拭い去られていなかった。山頭火の懐疑の始まりは、これに由来する。

 また早稲田大学に学び、しかし長じて、学ぶ事に何らかの懐疑が湧き起こり、結局中途で退学してしまう。
 更には、物質文明に押し流され、物財に取り囲まれて、それを最高の価値観とする西洋文明の懐疑に絶望を感じた事もある。彼に纏
(まつ)わり、苦悶(くもん)せしめ、絶望を導いたものは「懐疑」の一言に尽きるのである。そして、不安で空虚(くうきょ)なものが、心の中に燻(くすぶ)り続けていたである。

 山頭火は学ぶ事にも懐疑し、物財に囲まれ、持つ事にも懐疑したのである。そして父竹治郎のように、政友会
【註】立憲政友会の略称で、1900年(明治33)伊藤博文が憲政党や一部官僚などを母胎として組織した政党で、殆ど第一党の地位を占め、第三代総裁原敬(はら‐たかし)のとき本格的政党内閣を組織した)に帰属して、いっぱしの政治家を気取り、取り巻から「先生、先生」と傅(かしず)かれるのにも懐疑するのである。

 だからこそ、山頭火は自分に正直に生きようと懸命に努め、その模索を旅に求め、行乞僧という一番位の低い道を選んだのかも知れない。
 そして彼が求めてやまなかったものは、懐疑という迷宮からの出口だった。その出口を“旅”に求めたのである。
 つまり旅の出発から始まって、何処に到達するかの到達点であった。しかし山頭火は、旅に到達点がない事を知る。

 絶望の淵
(ふち)に身を窶(やつ)し、藻掻(もが)き苦しむが、結局その迷宮からの出口は見つからなかった。この出口を求めて山頭火は、八年以上(味取観音堂の堂守を捨てて、其中庵(ごちゅう‐あん)に庵座するまで)も世間師に混じって行乞行脚(ぎょうこつ‐あんぎゃ)を繰り返したのである。

 その過程の中で、やがて彼は僧衣を纏
(まと)い、鉄鉢(てっぱつ)を持ち、家々を乞い歩く自分の姿が嘘(うそ)で塗り固められた姿で事に気付く。その日を生きて行くために、嫌々草蛙(わらじ)を履(は)く自分の姿を顧みて、「なんと嘘の多い生活だろう」と嘆くところがある。家から家へ、軒から軒へと行乞行脚(ぎょうこつあんぎゃ)を繰り返す、その嘘に堪(た)えられなくなるのである。
 日記の中の反省の多くは、「嘘」に堪えられなかった事に集約されている。それだけ山頭火は正直であり、ひたむきであった。

人の一生は湖面に漂う影のようなものである。色々な表情を見せ、やかてそれは跡形もなく消えて行く。

 「昨夜は飲み過ぎた。喋り過ぎた。どうして酒のうまさと、沈黙の尊さと、孤独の喜びに徹し得ないのであろうか」と、自身を嘆いている。またここが、山頭火の正直なところであった。

 昨夜は飲み過ぎた、飲んで陽気になり喋り過ぎた。お陰で今朝は行乞に出かけたくない。それなのに草蛙
(わらじ)を履(は)き、家々の門の前に立たなければならない。仕方なく、無理に草蛙を履こうとする。果たしてこの姿は、行為は、「本物だろうか」と、嘘の多い自分に嘆くのである。そして嘆けば嘆く程、嘘に堪えられなくなるのである。

 これは形こそ違えど、現代にも当て嵌
(は)まる事ではないか。世の多くのサラリーマンは、これと似たり寄ったりの生活を強(し)いられているではないか。
 では何故、これと酷似した人生を歩まねばならないのか。それは恐らく自分の周囲に纏
(まと)り憑(つ)く「柵(しがらみ)」であろう。

 人間の生活空間には、家庭があり家族があり、それを遠巻きにして親戚や縁者がいる。その最大の柵
(しがらみ)が妻子であり、他には僅かばかりに溜め込んだ物財である。大は、ローンで買い込んだ兎小屋のような建て売り住宅やマンションを始めとして、車、バイク、パソコン、オーディオ等の家電製品、そして小は腕時計や宝石貴金属に至るまでの装飾品である。
 此処に現代人の不正直さがある。己への偽りがある。人間として脱皮が完了しない、現代人の愚かさがある。

 山頭火は、物質的なものは、やがて跡形もなく消えるというのである。物は、後生大事にしていても、やがては無に帰する存在なのである


うまれた家はあとからもないほうたる


 人間はもともと非存在的なる生き物である。また、物質も、やはり非存在的な物体であり、いつかは消滅する運命にある。その「消滅」の中にこそ、この世の果敢なさがあり、何とも遣りきれない寂寥
(さびしさ)があるのである。これを題して、山頭火は寂寥感と位置付けているのである。

 さて、多くの日本人は明治維新以降、西洋文明の怒濤
(どとう)のような荒波の押し寄せで、文明開化の号令と共に西洋文明という贅肉(ぜいにく)を、欧米的生活様式に中で安定させ、他愛のない処世術に身を委(ゆだ)ね、冒険への旅を消極化しつつ、安全圏で保身を図る生活様式を身に付けた。

 同時に無能な業界人や、軽佻浮薄
(けいちょう‐ふはく)な大学生のようにバカ騒ぎし、社会に何の責任感もなく、時代への危機管理能力も持ちえない、仲間内だけの、こじんまりと纏(まと)まった核家族や愚行集団を作り出した。自分達だけがよければ、それで良いとする思考である。他人はどうなってもいいという、利己主義である。自分に利することのみを目的として、人生を奔走するのである。

 昨今の流行であるカラオケや、異夫婦間のスワッピングや、家庭持ちとの性交遊戯の不倫という不幸現象は、実は、現実逃避の側面が露出した嘘の生活ではなかったか。
 辛い現実の解決すべき問題に蓋
(ふた)をして、現実逃避を企てる愚行が、現代人に余儀なくされたのである。そして戦後に於ては、一層これがエスカレートした。

 欧米の企む動物化政策、家畜化政策にまんまと嵌
(は)められ、愚民化の領域の、獣(けだもの)と成り下がったのである。これが則ち、文化や文明で搾取される、今日の庶民の実態である。
 誰もがテレビジョンから流れる白痴番組に現
(うつつ)を抜かし、仲間内だけでへらへらと面白おかしく笑い転げて暮らし、現実を真剣に生きていないという現実がある。今が楽しければそれで良いのである。
 今、日本中が嘘の生活に直面し、安易に真実に蓋をし続けているのである。ここに一種の亡国の暗示が現われているのだ。

 その中で著者は、現実に生き、生のリアリズムに直面しながら、苦悶
(くもん)し、悶絶(もんぜつ)して、そしてそれを克服しようとした男の人生の、格闘劇を紹介したい。その男の名を、再び告げたい。その名を種田山頭火という。



●今日一日の枠の中で

 山頭火は流転の旅に中で現実を学び、「今を、今日一日、今、一瞬の枠の中」で生きた男である。その生き態
(ざま)の足跡が、彼の残した自由律俳句の中にある。
 現実に生きる、彼独特の自由律俳句という自己形式の中で、己の生き態を、その人間構造を忠実に表現仕切った、ただ一人の俳人であったと見ている。これは自由性を持った彼の俳句の中に見い出す事が出来、定型句に固執する俳人の、畏
(かしこ)まったそれはない。

 自由性に富み、素朴で飾りけがなく、無一文で、伸び伸びとした、雑草の如き逞
(たくま)しさで、山頭火は、一種独特の詩的世界をその中で作り上げていった。

 俳句は日本独特の詩的表現方法であるが、五七五調十七音よりなる、短詩に集約されるものではない。しかし松尾芭蕉以来の俳句は、五七五調の十七音の短詩の中に、四季折々の季節感を詠
(よ)み、それを定型句として、俳句が語られ、詠(よ)まれ、そして風雅(ふうが)とする鑑賞がなされて来た。

風流とは何かを求めて。

 その中心課題は「風流」で、これは実に完結性に富んだ、然
(しか)も簡素な形式で、季節感を単的に、巧みに詠むという面白さがあり、老若男女を問わず一種独特の形を整える短詩として誰もに愛好されて来た。これこそが俳句という短詩の中で、長く愛され、詠み親しまれた伝統的所以(ゆえん)である。
 またその伝統はそれ自体で、立派な存在理由を表現し、文学としては貴重な文化財産の域に適
(かな)ったものであった。

 ところが山頭火は、師匠井泉水
(いせんすい)の「層雲」そううん/荻原井泉水主宰の新傾向俳句の雑誌で、明治44年(1911年)創刊)の、自由律俳句という形式を以て、これまで眠っていた自身の魂を呼び起こし、そこに魂が触発されたのである。
 山頭火の文学の芽生えが、三田尻
(みたじり)の椋鳥(むくどり)句会から始まり、これを経てやがて井泉水の「層雲」に至った事は、山頭火の俳句の愛好者ならば誰もが知るところである。

 また山頭火に、自由律俳句の基石を作らしめたのは紛
(まぎ)れもなく井泉水であった。
 種田山頭火は井泉水の自由律俳句、つまり非定型句を以て、己の魂に闘いを挑むのである。山頭火の句は旅に中から生まれた。旅から旅の、その中で生まれた。


わかれてきた道がまつすぐ

月も水底に旅空がある

昼寝さめてどちらを見ても山




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