運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
セクション案内 1
セクション案内 2
セクション案内 3
セクション案内 4
セクション案内 5
セクション案内 6
セクション案内 7
セクション案内 8
home > はじめに > セクション案内 3
セクション案内 3

ようこそdaitouryu.netへ 3



各セクションのご案内


小説・随筆コーナー
 曽川和翁宗家のこと

                  
スポーツライタ宮川修明

日本中は革命一色の嵐の渦にあり、ベ・平連などが大暴れしていた。そして不穏な動きに一つとして、過激派分子による「国際反戦デー」が企てられていた。
 デモに参加した多くの学生や労働者は、共産党特権階級から酷使された底辺の微生物分子だった。

 小説『旅の衣』は、西郷派大東流合気武術・曽川和翁宗家の青春時代を描いた、青春群像である。この小説は“前編”“後編”に分かれ、堂々たる長篇大作。

 革命の嵐が吹き荒れた1970年代の、全共闘の無謀が荒れ狂った時代、一方で、特異な生きかたをした人間がいた。一種独特の正義感と、特異な共和思想に燃え、それが叶わぬでも、諦める事なく特異な生き方で、青春を駆け抜けた男。それが
『旅の衣』の主人公・岩崎健太郎こと曽川和翁だった。

 小説
『旅の衣』は、曽川和翁宗家の青春時代の生き方をベースに、当時の昭和40年代に駆け抜けた赤旗の嵐の縮図を小説化し、当時の時代背景を紹介している。
 あの時代の「団塊の世代」を、ベビー・ブーマーと言うそうであるが、いまこの世代も、還暦を迎え60歳の年齢に達しようとしている。
 世界的に見ても、人口的に最も多いと言われるこの世代が、熱く駆け抜けたあの時代は、いったい何処からその原動力が生まれたのか、そうした時代背景にも、一種の哀愁を感じさせる何かがある。

 また
“泥酔と流転の俳人・種田山頭火”の人生の流転の旅路を、武人・曽川和翁が特異なタッチと哀愁の年をもって、これまでとは違う、別の角度から俳人・種田山頭火を随筆風に紹介する。



●諸葛孔明のロマン
 さて、小説『旅の衣』であるが、これは特に、曽川宗家ご自身の青年期の一時期ことが書かれており、内容は現在のご自分が過去を回想すような場面があり、それは構成上、よく計算されていて、当時の宗家が抱いていた桃源郷のような理想が描かれている。まるで時代を逆戻りさせて、蜀(しょく)の国宰相・諸葛孔明(しょかつこうめい)のロマンが、その何処かに感じられるのである。

 また、少し視線を変えると、特に注意を引くのは、少年時代に特異な経験をし、それを確立された、宗家特有の女性観である。
 これを我々と同じような、等身大の物差しで測ろうとすると、宗家という人間は、結局、測れなくなってしまう。
(本文より)

この項目は会員制で、詳細は入会案内をご覧下さい。



死の超剋人生哲学
人間の生死観について
 人間は何故死ぬのか。生まれた時から、死ぬ運命は定まっている。そして死ぬとどうなるのか。こうした疑問に応えつつ、死後の世界と、死に至る為の
“臨終”霊肉を分断する最期を紹介する。人は、自分の死に態(ざま)を教わる必要がある。死ぬと言うことは、現世を能(よ)く生きることである。よく生きたものだけが、「より善き死」を得られるのである。

 また、人間の心の持つ内面に切り込み、そのメカニズムを明らかにするとともに、死は決して恐れる対象で無い事を明確にしている。人間の心の持つ内面に斬り込み、死は決して恐れる対象で無い事を明確にしている。人間は、心の遣い方如何で如何様にも変化する。

 
「人間は、死ぬとどうなるのか?」それは、万人の最大の関心事であろう。
人間のとって、
「死」は避けられない問題である。人間は、必ず一度は死ぬ。死を経験せねばならぬ。人類はその歴史の中で、人間の課せられた死と言う運命を逃れようと、様々な英知を絞ってきた。

 一般に、中途半端な無神論は、人間は死ねばその時点で意識がなくなり、したがって、死後の生活は一切ないと考えている。死ねば何も残らないと考える人が大半である。そのくせ、盆や暮れの行事は欠かさず、12月24日にはクリスマスイブを遣り、31日からは大晦日で、元旦には初詣に参じる。入学試験ともなれば、神社に詣でて入学祈願をし、家を建てる場合は地鎮祭をして、厄年には神社で厄払いの祈願を受ける。春と秋の彼岸には墓参りをし、亡き人のメモリアルの存在を意識している。

 それなのに、どうしたことか、
「人間は死ねばそれ迄よ」という考え方は、やはり何処に支配して、霊魂などあるものか、霊界などあるものか、と箍(たが)を括っている。
 しかし、この考え方は正しいだろうか。
 所謂、中途半端な無神論者的な考え方は、正しいだろうか。

 普通、「人間は死ねばそれ迄よ」と常々考えている主流をなしている。しかし、果たしてこの考え方は正しいだろうか。
 その証拠に、何故葬式を行ったり、故人の墓を建てたりするのだろうか。一種の恒例的なセレモニーと言えばそれまでだが、ただ世間風の風に流されて、自分の本当の意味を知らずに、この風に流されているとしたら、余りにも自分の人生に無知が絡み付くのではあるまいか。

 人間は、死ねばそれ迄で、その後の一切の意識は、脳が死滅すると同時に、意識も消滅してしまうものなのだろうか。
 あるいは
「心」は、脳科学者が言うように、脳が作用して、心と言う意識が起るのだろうか。
 様々な疑問は尽きない。

 人生はまだまだ長いと考えていても、多くに人間は、たかだか百年も経たないうちに、その殆どが死に絶えてしまう。人生百歳を達成できるのは、ごく限られた一部の人だけである。
 それなのに多くの人は、「自分はまだ若い。死など、まだまだ先の事で、死について考える必要はない」と思い込んでいる。

 ところが昨今多発する、残酷な殺人事件などは、自分は若いと思っていても、いつ不慮の事故に巻き込まれるかも知れない。無残に、簡単に殺される事すらあるのだ。
 また、多発する交通事故も決して無視することができない。事故により、死亡するのは、年寄りよりも、若者の方が断然多いではないか。
 こうした今日の実情を踏まえて、
「死」に対し、真剣に向かい合い、現代人の「死生観」の解決に向かって、これを探究することを、人生の最終テーマに掲げて、あらゆる角度から死の現実について迫ってみた。
 人の人生を追求すると、人間には確実に死が遣って来る事が明らかになる。しかし一方で、死は決して恐れる対象で無い事を明確になる。
●死の判定
 現代医学でも、「死の定義」は、脳死をもって、これを人の死とするとしている。つまり、脳死とは、思考・記憶・感情などを司る大脳および内臓の働きや呼吸などの基本的な生命維持作用を担う脳幹の機能を失った状態をいうとしている。

 これは植物状態と大きく異なり、植物状態の大脳は機能しなくても、脳幹は機能しているということとは異なるのである。この状態では、眼を開けたり、食物を飲み込んだり、あるいは噛んだりの作業はこなせるのである。ただし、生命維持装置の厄介に鳴り続けねばならず、本来の人間としての機能は終っているのである。

 人の死。それは、生命活動の停止と、現代医学では解釈されるようだ。
 成体が死亡すると、まず数十分後に有機質の分解が始まり、腐敗が進行する。つまり有機物、特に蛋白質が細菌によって分解され、有毒な物質と悪臭ある気体を生ずる変化が腐敗であり、この腐敗には腐敗菌が関与している。

 腐敗菌は有機物に作用して腐敗を齎
(もたら)す細菌のことで、コリエロゲネス群細菌・プロテウス・枯草(こそう)菌群・クロストリディウム・プソイドモナス・セルロース分解細菌などが挙げられる。そして有機物を分解し始めるのである。

 ところが、こうした分解が始まる時期に前後して、では「いつ死亡したか」ということについて、誰も正確に言い当てることは出来ない。医学者であっても、宗教家であっても、「いつ死亡したか」と言うことを、正確には言い当てられないのである。
 また、死んだ後、人は出来る事なら天国が極楽に生きたいと思う。自分の死が
「美しい死」でありたいと思う。更に、死んだ後、死後の生活があるのか、死ねばそれで総(すべ)てが終りで、その時点で意識は消滅するのか。
 こうした事は、人類共通の最大の関心事であろう。
(本文より)
●死の不安からの解放
 「人間は死に向かっての存在である」と云ったのは、ドイツの哲学者ハイデッガーMartin Heidegger/キルケゴールの影響を受け、フッサールの現象学の方法にもとづき、人間存在の根本構造を時間性として実存論的に分析。1889〜1976)であった。また、ハイデッガーは、その著書『存在と時間』の中で、人間存在の根本構造を説く中で、人間の本質を追求し、その存在を、他の生物と違うことを論じている。

 それは人間が、自ら、「必ず死を迎えることを知っている生き物である」としていることである。しかしこの為に、人間は、自己の実存の形体を破壊される力に、脅
(おび)かされている不安に持っている。つまり、「死」というものは、いつ襲って来るか分からず、へたをすれば、今、この瞬間にも襲って来るかも知れないという不安である。人間はこうした不安に、絶えず脅かされている。

 則
(すなわ)ち、人間の生命は、常に「死と混じり合い」かつ「死と表裏一体」の関係にある。ここに「死への不安」の実態がある。また、この実態こそ、「存在」「非存在」とが分かち合いながら、然(しか)も固く結びついているのである。

 自分が死に向かって突き進んでいる存在であると知っている人間は、また、自分が
「自由である」ことを意識している生き物でもある。この「自由」とは、単に束縛(そくばく)されたり、柔躙(じゅうりん)されることから逃れる、肉体的な自由を云うのではない。
 人間が「自由」であると云う事は、自分自身のあり方に於いて、その本質が、自分自身の意思に委
(ゆだ)ねられると云う自由を持っていることだ。

 人間は、水冷式哺乳動物の形体を構成し、動物に酷似した造りで生活活動を営んでいる。また本能的衝動は、他の哺乳動物のそれに酷似する。しかし他の動物の衝動は、一義的であり、自
(おの)ずから一本槍であるのに対し、人間は理性を以てそれを退(しりぞ)ける事が出来る。この退ける「意思」こそ、自由の正体であり、人間は自らの存在を、自分で形成していく、「自己実現」に向かって、責任を負わされている生き物である。

 この事が分かって来れば、
「人間は何の為に生きるか」と云う目的意識が明確になって来る。それは、人間が自由であるが故に、常に自らの存在を、自らで決定していかなければならないと云う課題の前に、「立命」の目的を見る事ができるからだ。

 人間に向けられた
「非存在」とは、則(すなわ)ち死である。死の脅威に直面しつつ、自らの存在を、自らで決定していく課題を課せられていることが、そもそも人間実存の本当の目的である。
 この目的を
「存在」の状況として洞察した時、そこには確かに、人間を不安に駆り立てる要素が横たわっていることに気付く。これに気付いた時、「人間は不安から決して逃れない生き物だ」とも理解するのである。

 「不安から逃れられない」これは、人間に課せられた宿命である。どう藻掻
(もが)いても、これから逃れる事は出来ない。
 しかし、大事なのは、「不安から逃れられない」と嘆くことではない。この不安に直面しながらも、不安に対処する個人個人の態度が問題になぅてくる。不安がのしかかるのは、同じ条件下に於ては、如何なる人も、みな同等の不安材料になるはずだ。問題はこうした不安に直面した時、それに対処する態度である。この態度が立派であるか、そうでないかで、人間の価値か決る。

 「死」という、非存在の現実に直面し、これを正しく対処して、また、自分の課せられた責務をどうすべきか、自分が何を為
(な)すべきか、これを知っている人は、やがて死生観を超越し、不安から解き放たれるであろう。

 しかし、大多数の人は、
「非存在」の恐怖に目を背け、故意に逃れようとして、遂には忘れ去ろうとする作業までをやってのける。然(しか)も、その為(な)さねばならないことを知りつつも、それを果たさずに逃げ回るのである。こうした人は、永遠に「死の恐怖」から解放されることはあるまい。不安と手を携(たずさ)えて、罪責感に何処までも追いかけられなければならないのである。
 そして、死の不安から解放される、またとないチャンスを、自らの現実逃避によって取り逃がしてしまうのである。
(本文より)

この項目は会員制で、詳細は入会案内をご覧下さい。



合気武術概論
 大東流は新羅三郎義光を開祖としたり、清和天皇の第六皇子からの皇胤を曵くと言うが、その歴史的誤りを指摘する。
また、
“手解き”“柔術”“合気柔術”“合気之術”の四分構成をどう解釈するかの興味深い合気武術解説。
 また、
「耶和良之術」「馬術」「合気手裏剣術」「剣術」「腕節棍」「杖術」「棒術」「槍術」など、西郷派武術のもつ戦闘思想と《武芸十八般》を紹介する。

 合気は、《武芸十八般》を総括した武技である。日本における武技の始まりは、多くは軍法から齎されたものであった。合戦における軍法と、戦いにおける勝利の要
(かなめ)は騎馬武者の用いる実戦行動の馬術であった。馬術こそ、機動力の主体であり、その攻め入る凄まじさは、まさに「燎原(りょうげん)火の如く掠(かす)め取る疾(はや)き火」であった。

西郷派大東流馬術の軽騎武装束。
軽騎武装束での騎乗。

 その為には、馬を馭(ぎょ)し、「人馬一体」となる技術が必要であった。簡単に云えば、馬を乗り馴らす「術」であるが、馬術は馬一回、乗るごとに、「一鞍(ひとくら)」といい、三十回乗るのを「三十鞍」といい、これを「一ト(ひと)区切り」として、一ト区切りごとに、新たな上達があるとされて来た。
 上達した騎馬侍は、実に馬を馭すのが上手である。それは「抑え」が出来、轡
(くつわ)を捉えて、「腕(かいな)を返す」ことが出来るからだ。この「腕を返す秘訣」に合気の奥儀が眠っている。馬を抑える技術こそ、多数捕りの儀法そのものであり、ここに畳の上とは異なる、次元の違う合気の奥儀がある。

 更に、武術的解説をも含めて、それを広く凌駕
(りょうが)して、武芸の起源や大東流の歴史的な概念を上げ、その正・不正、時代背景、歴史的陰謀、外国からの外圧、幕末を動かした穏微な集団《ユッタ衆》の暗躍、明治維新というフリーメーソン革命を通じて、徳川幕府崩壊の逆説的な資料を集め、この公開に至っている。
 単に「狭義的な格闘武道」や「人命殺生の武術」に留まらず、もっと深く人生を掘り下げ、そこから見えて来る、人間模様を題材にした現代語訳の「自警の書」である。




●何によって死のうか
 「何によって死のうか」という命題に解答を得た時、そこには不安や不信が消え去り、長い動揺や、迷いから抜け出られるのである。だから武士道実践者の古人は、「生きていくにはどうしたら良いか」というタテマエ論を廃(はい)して、揺れ動く心を排除して、「何によって死のうか」という解答が明確になった時、そこに初めて心の安住を得たのである。

 迷いを抱く人は、常に心が動揺する。「何によって死のうか」という人生の命題も、また命題から得られる答も用意せずに生きているのである。

 そして多くの人達は、「こうしては損ではないだろうか」「こうすれば得するのではないか」「明日はどうなるだろうか」などと、近未来の事が心配になるのである。いつも打算や利害に振り廻され、一時も心に安らぎを求める事が出来ず、常に不安定な心を動揺させているのである。したがって心には安定がなく、安定がないから「力がない」のである。
(本文より)



●西郷派大東流馬術
 「何西郷派大東流馬術では、太刀と槍、薙刀などを用いて重武装で戦闘を展開する馬術と、脇差と柔術を組み合わせた軽武装で戦う武術がある。
 軽武装は軽騎武装束で、武装し、馬を疾走させながら、敵に接近し、敵の馬を馭
(ぎょ)す手綱や手頸(てくび)を捉えて、倒しこみ、あるいは落馬させて、討ち取る儀法である。また、こうした時に、遣う儀法が、「抜き手」であった。そして、「抜き手」の起りは、やがて柔術の「抜き手」へと変化することになる。また、「抜き手の術」こそ、「耶和良之術(やわらのじゅつ)」である。

軽騎武装束での駈歩(かけあし)走行。この馬の御し方は、「やわらかく馬に乗る」という条件下において、はじめて可能になる。馬の動きに反して、速歩(はやあし)のように「イチ、ニ。イチ、ニ」と跳ねるのではなく、馬の背に張り付くというのが駈歩に課せられた乗り方である。

 では、「抜き手」は、誰に対しての掛け技であったのか。
 馬術は、本来騎馬侍だけが鍛錬するのでなく、徒侍
(かちざむらい)も馬術を盛んに鍛錬した。これは騎士を馬から落とすためである。馬から落ちた騎士は、その時点で騎士ではなくなる。馬上しているときだけが、騎士なのである。落とされればその資格を失い、敵方の徒侍から首を討ち取られてしまう。

 徒侍が騎馬武者を襲う場合は、馬の背後から飛び乗り、騎士を落とすか、あるいは槍で下から騎士を突き刺すなどの方法で、騎士を襲う。
 また、騎士の太腿を斬り付けたり、騎士の手綱
(たづな)を逆に捕らえたり、様々な動きに出て、激しく襲うのである。
 一方、騎士は、そうはさせじと、返り討ちを試みる。その返り討ちの儀法
(ぎほう)が、握られた手などを抜き取る「抜き手」であった。だからこそ、徒侍が、騎馬侍を追い落とし、自らが騎士になるその姿は、まさに「下克上」の見本であった。つまり、「抜き手」は上級武士に向けて指導された柔術の戦法といえた。

 柔術などの「抜き手」の儀法を馬上格闘で用いる場合は、まず、「いざり状態」にある下肢を安定させなければならない。上肢だけで馬上柔術を闘うと、躰全体のバランスを崩してしまい、直ぐに落馬する。
 こうした状態を防ぐためには、まず、「鞍っぱまり」を十分に稽古し、股割
(またわり)あるいは尻割(しりわり)を鍛錬しておかなければならない。そして、「鞍っぱまり」の大事は、脚で馬の胴体を挟み、丹田の重心を下に落として、柔軟性を保つということである。これが十分にできるようになると、騎乗し、様々な歩様を行って、両手を離しても落馬することはない。

 わが西郷派大東流では、初段補以上の有段者に対しては、馬術も合せて指導しており、馬を馭
(ぎょ)すことが、則ち、合気の抑えに通じ、「合気八人捕り」などの丹田で抑える儀法は、馬に騎乗し、丹田から発する意識と、脚の、馬を挟む儀法によって、徐々に合気に近づけると教えている。(本文より)

この項目は会員制で、詳細は入会案内をご覧下さい。



大東流蜘蛛之巣伝
近代が生んだ西洋史の不快感
 明治維新と言う革命の時代は如何なる時代であったか。明治維新の立て役者と、坂本竜馬のフリーメーソンとしての奔走した役割の真実に迫る。そして坂本竜馬は、フリーメーソン日本支社長のトーマス・ブレーク・グラバー(長崎を本拠地として倒幕志士にアジトを提供。有名な観光スポット・グラバー邸は維新の志士のアジトだった)の操り人形だった。

 幕末から明治にかけての明治維新のシナリオを書いたのは、国際ユダヤ金融資本であり、日本を植民地化することに奔走した。そしてその背後で暗躍したのは、影の易断政府の総帥・ヤジロウに操られた
《ユッタ衆》だった。
 この事実を秘かに知ったのは旧会津藩国家老・西郷頼母
(保科近悳)であった。西郷頼母の残した『大東流蜘蛛之巣伝』“合気”とともに紹介する。
 特に、武芸の起源や大東流の歴史的な概念を上げ、その正・不正、時代背景、歴史的陰謀、外国からの外圧、幕末を動かした明治維新という革命を通じて、徳川幕府崩壊の逆説的な多くの資料を集め、この公開に至っている。

 また
「武の道」を通じて、現代をどのように生きるかの、武士道の生き態までに追求の触手を伸ばし、どうしたらもっと「生き甲斐」のある人生を生きられるかを、智慧の一つとして紹介している。
 武士道の説くところは、
「どうしたら納得いく生き方ができるか」と言う命題に対し、一等高い次元で説かれたものが「武士道論」である。

 武士道の説くところは、「人生は、その人にとって一回限りだ。生・老・病・死の四期を巡れば、二度と循環することはない。どうしたら、自分の人生に、納得いく生き方ができるか」と言う命題に対し、一等高い次元から説かれたものが
「武士道論」である。
 この武士道論を以て、自分の人生をもっと豊かに、もっと自信をもって、生きるにはどうしたらよいかよいうのが、武士道の説かんとするところである。



最高の道徳とは何か
 近代が齎した政治の課題は何であったろうか。
 「政治は最高の道徳」ではなかったのか。しかし、最高の道徳は、充分に機能していない。政治における最高の道徳とは、つまり「国民の経済を保障する」ことではなかったか。
 経済と云う言葉は、「経世済民
(けいせいさいみん)」の略である。経世済民とは、儒教的に換言するならば、「世を経(おさ)めて、民を救い、有効な政治を行い、人民の生活を保障する」ことである。

 本来は、これが為政者に課せられた「最高の道徳」であり、為政者個人の道義や倫理に振り回されたり、イデオロギーがこれに絡み付いて、雁字絡めにすることではなかった。
 幕末から明治の初頭にかけて、日本は一種の革命状態だった。その動乱の世の中で、大東流蜘蛛之巣伝を標榜し、一人の政治家が駆け抜けた時代を、一つの人生の姿勢として「最高の道徳」とは何かと云うことに迫ってみた。
●武士団の興り
原節子主演/映画「武士の娘」より。
 そもそも「武士」という用語は、古くは八世紀末の『続日本紀(しょくにほんぎ)に登場し、武芸に秀でた者を指した。古来より、この階級を「もののふ」と言い、「武士」という用語と同義語に使われた経緯(いきさつ)を持っている。
 しかし歴史学上の名辞
(めいじ)として、武士は単に、武芸に優れた「士(もののふ)あるいは武技専業者ではなく、武力を有する封建的領主階級もしくは系譜的に、これに繋(つな)がる先駆的存在であったと云われている。

 
したがって、その意味における武士の発生は、中世における社会の担い手となる在地領主層の基礎を作り、武士団の成立に繋がって行く。武士階級の構成は、同族的結合を中核とし、「家」というものと、血族の「血」というものを重んじて、武士間の階級構成は、内部的なヒエラルキーを構築させつつ、一個の戦闘的権力組織を築き上げた。これを「武士団」と言う。(本文より)



●武門の作法は機能美が最優先された
 武門の作法は現実主義に則った、機能美が追求された。即ち、現実主義とは隙
(すき)をつくらぬ事であり、こうした配慮と、敵を察知する心配りが、現実主義を生み出したのである。武士の日常において、その心構えは「常在戦場」という意識が常に宿っていなければならない。

 どのように攻め込まれても、即応出来、更には変応自在にこれに対処し、負けない態勢を整えておく事が要求された。つまり日頃の嗜
(たしな)みと言うもので、この嗜みこそ、まさに機能美を追求したものであった。機能部を追求していくと、まずその行動線は最短距離を通らなければならなくなり、無駄な動きが一切排除されてしまう。したがって無駄のない動きは、やがて機能美として完成をみる事になる。

 人の世には、常にアクシデントがつきものである。誤解さるれ事も、往々にしてあり、一度誤解を招けば、それは解き難いものとなる。これが下
(もと)で、また争いが起る。
 争いは非日常に以上を作り上げる。日常が突如として、非日常に変化する事がある。したがって日常の瑣末
(さまつ)な所作にも心を配り、常に危機に対して危機意識を持たねばならなかった。そして誤解を招かない為にも、礼儀は正すべきものであった。

 武門では、例えば盃
(さかずき)を持つ際は、左手と決められている。これは盃に限られた事ではなく、物を持つ場合は常に左手と決められていた。また、脚(あし)を一歩踏み出す場合も、町家の作法とは異なり、左前で踏み出る事が武門の嗜みとされた。これを「左前」という。

 その理由は、手や腕の場合、殆どの武士が右利きであり、また利き足も右足であり、「陰陽移行の理」から考えると、人間は左足にその体重の半ば以上が掛けられていて、軸足は左であるが、一歩踏み込む場合は、まず左足を一歩前にして踏み込み、右足できるだけ突出しなければならない。
 これによって能
(のう)のような摺(す)り足の動作は、第二の動作として右半身に構える事が出来、半身に構える事によって、万一、敵と対峙(たいじ)した場合、これを半身、つまり45度の角度で受け流す事が出来るのである。

 武士にとって、利き手と利き足を制せられる事は致命的であり、利き手と利き足が「前に出る」ということが武士の行動原理とされたのである。
 イザ!という時に右半分の動きが制せられていては、役に立たず、例えば坐礼をする時も、左手から出すと言うのは、特に上級武士の嗜みであった。
(本文より)

この項目は会員制で、詳細は入会案内をご覧下さい。



入会案内はこちら

daitouryu.net会員の入会はこちら



<<戻る トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法