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統覚法とその修法 1


統覚法とその修法

智恩院経蔵


●月輪観と阿字

 驚異的は法力は、密教の修法の賜物である。そして、そこには曼陀羅(まんだら)が描く、巨視的な宇宙と微視的な宇宙が共棲(きょうせい)している。まさに「太極」は大小がその霊験を司る、秘儀の世界に集約されているのである。
 また、密教のエッセンスは、日々実践の中にあり、それを直接体験するところにある。

 多くの現代人は、その日々を多忙と情報過多に振り回され、その日常生活は種々の情報によって管理されている。しかし、こうした情報と、管理されるシステムからの束縛が解かれない限り、大いなる精神を育み、自己に内在する能力を高める事は出来ない。まず、それには自然界の根源を可能力(デュナミス/dynamisとし、これを物質、運動、存在など一切の原理であると主張する立場を開拓しなければならない。つまり、アリストテレスの哲学における重要な概念で、「可能態」を「現実態」に具現することである。

 それは質料として誰にも内在しているものである。この内在するエネルギーを実感し、発展して形相を実現するのである。ここに修法や秘儀に込められたダイナミズム(dynamism)がある。つまり、「可能力」があるのである。その象徴するものが、密教に於ては曼陀羅の修法などである。

 さて、密教には、瞑想学と称される、「阿字観(あじかん)」がある。これは精神レベルを向上させる瞑想法であり、密教の基本的な実践技術である。そしてこの瞑想法は、自己催眠のような役割を果たす。

 ここでは基本的な瞑想法を紹介することにしよう。まず、月輪円
(がち‐りん‐えん)の中の阿字は、一般には阿字観として知られ、阿字観はその名前が示す通り、梵字(ぼんじ)の「阿字(あじ)」を観想し、阿字の中に我(われ)があり、我の中に阿字がるといった様々な観点から、阿字を中心にして瞑想を行う密教の修法である。
 月輪とは密教で、衆生に本来そなわっている清浄な悟りの心をいう。月輪観は、阿字観と共に、衆生の清浄な心の本質を象徴する月輪を観想することをいい、密教の最も基本的な行法の一つである。

月輪観の図
阿字観の図

 「阿字」は本不生の意味をもつ古代インドの梵字(ぼんじ)であり、本不生はまだ「生まれてないもの」を指し、「生まれなきもの」を指す言葉で、他人が作り出したものでもなく、あるいは自分が作り出したものでもない時空的な存在を超越したものである。つまり時空を超越し、人知の及ばない、それを指すのである。
 また、阿字の持つ意味は、「阿」字は万物の根源であり、不生不滅の原理を象徴的に表現するとされる。したがって、万物の根源に帰着し、その行法が阿字観である。

 阿字観は、密教で、万物の根源である阿字を観想する行法であり、普通は、月輪中の蓮華上に阿字を描いて、眼前に掲げ、阿字と行者の心が一体となる瞑想法である。

 月輪観を例える場合、「月」を喩
(たと)えにとるが、仮に月を見た事のない者に、月の事を百万回説明したところで、それを理解させるのは容易ではない筈である。しかし一回月を見せれば、それで説明が足りる。このような密教の「観」は、体験して始めて理解できるものである。

 本不生が意味する阿字こそ重要であり、その象徴的な梵字と共に修行する事が悟りである、三昧
(ざんまい)の境地へ誘うのである。
 この修法は先ず結跏趺坐
(けっかふざ)に坐り、阿字観のみに意識を集中する。だが初心者の場合、椅子に坐った儘(まま)でもよいし、あるいは座布団を二つ折ににして尻部の下に敷いてもよい。安定が保てる状態まで訓練したら、座布団を敷かずに結跏趺坐に坐り、阿字に意識を集中する。これを行う場合の照明は、出来るだけ電気などを使うのではなく、太陽光を利用して行う。

結跏趺坐

 呼吸は浅くなく、深くなく、早くなく、遅くなく、自然に近い状態で、意識を阿字に集中する。その意識で大事な事は、我が全身に宇宙の力を吸い込むような吸収力である。それを丹田の奥へ奥へと吸収するのだ。

 次に一旦休み、間をあけてから月輪観に入る。
 阿字観と違うのは月輪円の中に梵字の無いものを用意する。つまり黒地に白い円を描いたものを用いるのだ。

 月輪円を凝視する場合、月輪に心を定め、やがて半眼にして、強く凝視していないでも眼の前に月輪が見えるかのように意識の集中を図る。これが第一段階であり、次に「広観
(こうかん)」という第二段階に入る。

 広観は、目を閉じていても見えるかのように月輪を引き寄せ、自分の脳裡にそれをはっきりと意識する。充分に引き寄せる事が出来たら、次に月輪から白い、淡い、光を発光させる。これは出来るだけ柔らかな光でなければならない。その光は次第に円形から球形に移行し、立体味を帯びて、珠となるようにイメージする。


 その珠は段々大きくなり、自分の等身大と同じ大きさになり、やがてそれを超えて家中を包み込むような大きさとなり、更に進んで町を包み、国を包み、地球を包み、最後には宇宙全体を包み込んでしまう程の珠となるのである。これが広観である。

 第三段階は「斂観
(れんかん)」である。
 さて、これを行うのであるが、続けざまに行うのではなく、一旦間を入れて休憩し、その後に行うのがよい。広観を行い、極限状態に間で拡大された月輪は、時間を置かないと不安定であり、この安定を得る為に、少しの時間を必要とするのである。

 斂観というのは広観の逆で、今度は出来るだけ小さく小さく絞り込み、中心の一点に月輪を絞り込んでいくのである。まるで顕微鏡の中の月輪が、更に小さく絞り込まれてミクロの世界に迄収縮されていくのである。
 この両方の広観と斂観を行う事で、月輪観は終了する。

 月輪観により阿字観の最初の段階である基本をマスターしたら、次は阿字を深く理解する為に阿字の本質に迫っていく。そして阿字と我が身を近づけるのである。
 自分自身が抱える煩悩
(ぼんのう)も、また菩薩の境地に他ならないと説く、密教独特の教えは、我と宇宙を結び付けるものであり、本不生が同じものであると説く思想に端を発している。これが「我即法界」である。

 我
(が)と謂(い)う垣根を取り払い、我と宇宙は一体であるとする実感にまで到ろうとする世界が阿字の世界である。

 阿字観は密教の修行の中でもその修行の中心を為し、「観る」「感じる」「知る」為の瞑想法であり、自らの意識の力によって虚空に阿字や月輪をイメージするのである。
 大東流の祖・西郷頼母が密教に目を付けたのは、密教の阿字や月輪を想像するイメージ力の超能力的な一面を大東流に応用したと謂えるのである。

 この修法の中には敏感な感覚を養う「勘」の養成にも繋
(つな)がるし、想像力を駆使してイメージから湧き起った言行を以て敵を封じ込める技法にも使えるからであった。この事が、言霊に敏感に反応する言霊宇宙の実体であった。
 そして阿字観によって開花するのが実用的な真言九字である。




●真言九字

 九字は本来邪気や邪霊を払う為に用いられる技法として、修験道の間でも盛んに用いられた方法である。
 九字は刀印
(剣印=手刀)を以て縦横碁盤の目のように切る九字と、手印を以て切る方法がある。そして九字は、九つの力を発揮するといわれ、これを「真言九力」という。

真言九力の図

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 刀印を以て切る場合は、空中前方に「臨・兵・闘・者・皆・陣・列(裂)・在・前」と発し、最後にその碁盤の目の中央に剣印を打ち込む方法と、手で印を切り邪気邪霊を払う方法とがある。

九字の切り方、その一・護身秘呪の秘法。

 因に「臨(りん)」は普賢三昧耶(ふけんざんまいや)、「兵(ひょう)」は大金剛輪(だいこんごうりん)、「闘(とう)」は外獅子(げじし)、「者(しゃ)」は内獅子(うちじし)、「皆(かい)」は外縛(がいばく)、「陣(じん)」は内縛(ないばく)、「列(れつ)」は智拳(ちけん)、「在(ざい)」は日輪(にちりん)、「前(ぜん)」は隠形おんぎょう/隠行)である。

九字の切り方、その二・真言密法卍字の秘法。

 この九字を切る場合、阿字観によって培われた集中力によって、光を放つように爽やかな気分を以て切らなければならない。また、この場合の刀印は真剣と同じ役割を果たす。その威力を絶大にするためには日々の精進が必要であり、また半身半霊体の、最も神に体型に近い体躯(たいく)をしていなければならない。

 また、「九字の印」には刀印を遣うだけでなく、九字の真言「臨・兵・闘・者・皆・陣・列
(裂)・在・前」の各々に印があり、九字の真言を唱えながら、素早く印を作るのである。これは九字の印による「破邪の法」である。
 印は仏と修行者を結ぶ唯一の印であり、各々に固有の神聖なる力を秘めている。この印の力を用いて、内なるものと、外なるものに、神聖なる波動を送り、即座に邪気を祓うのである。

九字の印

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 九字の印を行うには、印の力を用いて、内と外の力を結集し、邪を祓う方法が「破邪の法」である。これを用いる場合は、阿字観によって養った洞察力を駆使する。九字は阿字観によって理解する事で、完全な力を発揮するのである。

 この場合の洞察力イメージは、例えば「鬪」の印ならば、外獅子印
(げじしいん)を外の敵に向けて威嚇(いかく)すると同時に、吾が心を外に向かって燃え上がらせ、かつ奮い立たせる強烈なイメージを造る。また、「者」の印ならば、対応する印である、内獅子印は、裡側に向けて内省を促し、かつ裡側に潜む邪気を祓い、強い意志力の発揮を象徴するのである。

 九字を行う場合はこのように、各々に解釈があり、その秘法を理解する事が大事である。単に九字の印は、手と指先で行う、暗記による形でなく、意識を込め、己を信じ、印の威力を疑わずに行う事が大事である。



●四方拝

 東西南北には各々に如来や明王、尊天(諸神)が宿っている。しかし大方尊天は心を乱す四魔(四種の摩物)によって遮られ、殆どの人間がその加護を得られないばかりか、その存在にすら気付いていない。

 四魔とは「身魔」「煩悩魔」「天魔」「死魔」という、人の心を惑わせ、人神合一の合体から遠ざけようとするものが「魔」である。人間は生まれながらにして「魔」を背負い込み、その衆生として身魔と煩悩魔を自分自身の中に持っている。

 そして四魔から守護するのが東方世界の守護をする「持国天」
【註】須弥山(しゆみせん)の中腹東方に住し、東方世界を守護するという。甲冑を着けた忿怒(ふんぬ)の武将形に表され、刀や宝珠などを持つ)、西方世界の守護をする「広目天」【註】須弥山の中腹西方に住し、西方世界を守護するという。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、筆・巻子あるいは索などを持つ)、南方世界の守護をする「増長天」【註】須弥山の中腹南方に住し、南方世界を守護するという。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、鉾(ほこ)と刀などを持つ赤身の武神)、北方世界の守護をする「多聞天」【註】須弥山の中腹北方に住し、夜叉(やしゃ)・羅刹(らせつ)を率いて北方世界を守護し、また財宝を守るとされる神。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、片手に宝塔を捧げ、片手に鉾または宝棒を持つ。日本では七福神の一ともされる。また毘沙門天(びしゃもんてん)とも訳し、四天王を列挙する場合には普通この名称を用いる)である。

持国天

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広目天

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増長天

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多聞天

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 さて、身魔とは五陰(五蘊)であり、この五陰である「色(肉体)・受(感じ)・想(察し)・行(念じ)・識(認識)」は、五陰盛苦として人間の命すら奪う事がある。
 これは『般若心経』の一節に「色即是空、空即是色、受想行識」がり、色と形のある肉体の意味であり、この物質的なものは生きていく要素となりうるが、それは同時に人間を滅ぼすものでもあると説かれているのだ。

 煩悩魔とは、欲望は心を乱し、精神すら変えてしまうという事であり、この有害性については「三障」が挙げられている。
 三障とは第一が皮煩悩障で見た目に囚われる。第二が肉煩悩障で間違った考え方に囚われる。第三が心煩悩障ではっきりした判断が下せずに迷うであり、人間世界イコール煩悩の世界としているのである。
 また、この根源には「三毒」があり、一つに貪り求める心、二つに思うようにならぬ心、三つに真実を求めようとしない心が挙げられる。

 死魔とは、このような欲に満たされた人間世界にいる限り誰もがこの魔から逃れられないという苦しみの事で、人間は「生・老・病・死」の四期をを辿り、欲の旺盛な人間程、この四苦の最後の「死」に悩まされる事を挙げている。

 天魔とは、欲界の天に居る魔物は人間の善行を邪魔し、正しい教えに従わせないばかりでなく、「見せない」「聞かせない」「感じさせない」「触れさせない」「味わあせない」の五官を閉じ込め、無間地獄に閉じ込めてしまうものとしている。

 この四魔に対抗する為に密教では、自我の中の欲が強すぎると我執という「拘り」が生まれて貪婪な心が生じるので、只管(ひたすら)「無我」の心を教えるのである。つまり無我に接近すれば、この比較と対立の考え方はどんどん距離を埋め、「不二」と「一如」の世界に近づけてくれるのである。これは根本は同じで、一つという教えである。

 この四魔に対抗し、これを打ち破るのが真言の力で祈りを聞き届ける四如来、即ち四明王である。
 大日如来は四如来に姿を変え、西には西方浄土で有名な阿弥陀如来
(大威徳明王)が位置し、東には阿シュク如来(降三世明王)が、北には不空成就如来(金剛夜叉明王)が、南には宝生如来(軍荼利明王)が、各々位置している。
 四方拝は、金剛界曼荼羅
こんごうかいまんだら/密教では西が上になり東が下になる)を配した位置での「拝」を行う。

 金剛界曼荼羅は全体を九つの正方形に分割し、各々に仏のグループを配した構成になっている。

金剛界曼荼羅

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 この金剛界は「成身会」「供養会」「一印会」「四印会」「理趣会」「降三世会」「微細会」「三昧耶会」「降三世三昧耶会」の九つに仕切られ、別名「九会曼荼羅」とも謂われる。金剛界曼荼羅は六大(地=不変、水=清浄、火=温和、風=活動、空=包容力の五大に合わせて、識=五大の性質が分かる心)で言えば「識大」に当たり、これは精神を現わしている。これは真理に到達する心の過程を現わしたものである。

 この曼荼羅は、成身会
(じょうじんえ)から時計回りに三昧耶会(さんまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)と順に辿り、九番目の降三世三昧耶会へと至る構造になっている。
 成身会から六番目の一印会
(大日如来)までは様々な心の形である「自性輪身」を現わし、七番目の理趣会は宇宙が人間と接点を持つた為の心の形である「正法輪身」、そして残り二つは明王が忿怒で教化する時の心の形「教令輪身」を現わす。

 これ等の「九会
(くえ)【註】密教で、金剛界曼荼羅を構成する九つの領域)の各々の過程は、「悟りを求める側」は九番目の降三世三昧耶会から出発して、最終地点である成身会に到達するコースを辿り、「真理を求める側」は中心の成身会から出発して最終地点である九番目の降三世三昧耶会に到達するコースを辿るのである。
 これは胎蔵界の「理」に対して、金剛界では宇宙の精神を象徴する「智」を意味するものである。そして大日如来の結んだ印は「理」と「智」が一体であるという事を現わす。

大日如来像

 四方拝は、宇宙の真理である精神の原理の、緻密な縮図である「玄理図」を拝する事で、人は宇宙の玄理に触れるのである。またこれは金剛界の成身会の各々の明王を観る事に繋がるのである。
 この事は大日如来が、時には観音菩薩や地蔵菩薩に変身しながら、人間を救ってくれるという女性的な胎蔵界に対して、金剛界は男性原理を現わしたもので、両者は重なり合って理智の両輪を成すものである。そしてこれは両者を合わせて「金胎不二」と謂われの所以を成している。

 また個人の運命が星宿に支配されていると説く熾盛光法は、天皇の公的年中行事の四方拝にも結び付いている。
 天皇は毎年正月一日寅の刻
(午前4時前後)に出御し、先ず北に向かって当年の属星の名字を七遍唱え、それに続いて再拝に、賊寇、毒魔、危厄、毒気、百病等の除災を呪し、更に天地、四方、山稜を拝する行事を行う。

【註】胎蔵界について
 密教では二つの曼荼羅を示しながら一つの真理を悟らせる方法に、胎蔵界と金剛界の曼荼羅を示す、宇宙の縮図を示す。
 胎蔵界曼荼羅の中心である中台八葉院は、大日如来を中心に宝幢、天鼓雷音、無量寿、開敷華王の五如来がいて、各々の間に普賢、文殊、観自在、弥勒の四菩薩がいる。そして周りには四百の仏が取り巻いていて、胎蔵界曼荼羅を構成している。


 つまり胎蔵界を構成しているのは四百九の仏で構成されている事が分かる。更に大日如来を中心に四如来、四菩薩の役目を細分化して、各々を受け持つ仏のグループが、中台八葉院を二重、三重に取り囲む各院を造っている。阿弥陀如来は観音院、文殊菩薩は文殊院、観音菩薩は地蔵院というように八つの院が四如来と四菩薩に対応している。

胎蔵界曼荼羅

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 遍智院と持明院の二つはどの如来や菩薩にも対応していないが、これは直接大日如来と対応している。以上の事から胎蔵界曼荼羅は各々の仏の慈しみの心を現わす女性原理から構成されたものであるという事が分かる。これはまた、密教宇宙の物質的な側面である、理の世界を象徴した玄理図(げんりず)であるという事が分かるのである。




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