|
●八門遁甲
戦場には各々に、「粗・密」が顕われる。弱兵によって守備される、手薄な「粗」なるところと、強兵が駐屯する「密」なる部分である。そして、粗密の戦場は、逃げる者が逃げ、死ぬ者が死ぬ。
その後に、生き残った将兵達は、しぶとく生き延びる画策を始める。
古今の戦場を見てみると、そこには人間模様が描き出される。混沌(こんとん)とした戦場に、将兵等は独自の部曲を作り上げる。独自の戦術を作り上げる。こうした部曲と戦術を作りながら、暗中模索を繰り返し、試行錯誤を繰り返して、「生き延びる兵術」を編み出す。こうした兵術が、「八門遁甲」である。
「八門遁甲」では、戦士が戦場に出て、「生き残っている限り、まだ負けではない」と考えるからだ。人間の「命」が尽きた、その時点で負けが確定するのである。したがって、生きて、サバイバルを繰り返している時は、喩(たと)え、「敗走兵」の身に成り下がっても、まだ敗けては居ない。
 |
▲ 生き残っている間は、負けではないと言う思想は、古代の城壁の築城の造り方に回帰する事ができる。
「天子は北に座し、南に向かう」という方術の思想は、まさに戦闘思想であり、天子は北に頭を向け、足を南に向け、両手を東西に向けると言う築城法に見る事が出来る。つまり、これ事態が、「兵法」なのだ。大事な頭は北に向け、冷やすような状態にしておいて、温める必要がある足は南に向け、左右の手は東西に向くのである。
城壁そのものが、人体を形作る巨大なもので、この城壁の裡側には、人間を模した宇宙が展開されていたのである。
|
途中で、生きる事を諦めて、自刃(じじん)して死に急いだり、敵に発見されて、囚(とら)われの身となり、処刑されてしまえば、やはりそこで負けが確定してしまうのである。人間は、追い込まれると、「死の誘惑」に負けてしまう迷いが生ずるのである。「死の誘惑」については、歴史の至る所に転がっているではないか。
だが、逃げ回り、しぶとく生き残っている限りは、まだ負けではない。生き残っていれば、再び挽回する好機が巡って来るからである。
だから「遁甲」では、「遁(に)げる」のである。敵の目を「晦(くら)ます」のである。「隠れる」のである。殺されないように。
つまり、勝ち負けの次元が、試合格闘技などと大きく異なっているのである。だからこそ、戦(いくさ)にルールがないと言えるのである。殺し方にもルールがないが、生き延び方にもルールがないのである。
これは試行錯誤を繰り返した後の、遂に宇宙法則の真髄(しんずい)に迫る現象人間界の境地となる。戦場に赴いた兵士は、戦場に出て、生き残りを賭(か)けたサバイバルを学ぶ。そして、これは冷徹なサバイバルである。
そこに齎(もたら)される境地は、人間の感情を一切無視した、冷徹な物理法則だけである。醜さも、激情も、嫉妬(しっと)も感じないほどの冷徹さがあるだけである。
戦(いくさ)に感情を乗せるのは、愚者のする行為である。戦に感情が乗り、感情で戦おうとすれば、最初は優勢に見えていた陣形も徐々に崩れはじめる。陣形は醜く歪(ゆが)み、清浄さが失われ、感情で戦う一喜一憂が表面化して来る。情動・気分・情操などに動かされる心の衝動は、次第に戦局を不利にして行く。その為に、主将に属して、軍機をつかさどり、謀略の粋を巡らす軍師が必要となる。
軍師は、まず軍略を司る。これは負けぬ為の軍略であって、勝つ為の軍略ではない。則(すなわ)ち、死なない為の軍略である。敵を牽制する為の、軍事上の計りごとであり、今日では「戦略」という名で知られる。
だから、今日でもよく使われる「死ぬつもりで、○○すれば……云々」という言葉は、無意味となる。死ぬつもりで、○○することこそ、愚かな言葉はない。しかし、こうした愚かな言葉は、今日では日常茶飯事に使われている。それだけ、言葉の持つ「言霊」がいい加減に使われ、甘くなって来ているのである。
しかし、「軍師」は古今を通じて、「死ぬつもりで、云々……」という言葉は、使わないものである。もし、こうした言葉を使うの者がいるのなら、それは主将であり、主将の感情がそうした言葉を使い急ぎ、将兵を死に追いやるのである。その、主将の感情を鎮めるのが、また軍師の役割であった。
軍師は、「死なない為の知略」を立てる。「死ぬ為」のとか、「死ぬつもり」の知略は立てない。
もし、軍師が知略に生きず、「死ぬ為」のとか、「死ぬつもり」の策を立てれば、多くの将兵は死ぬしかなくなる。
したがって、軍師は戦場で策を誤れば、みな死ぬしかないのである。この場合、策で誤るのは、軍師の立案ではなく、主将の感情である。堪(こら)え性(しょう)のない主将が、指揮官であった場合、将兵は、最後が守死を余儀無くされ、その生命は敵の策に陥り、危うくなる。だから、軍師は「死なない為の策」を立案し、喩え、将兵が死の境地に追い込まれ、命が危険に曝されても、死んで行く為の道理を将兵に授ける事が出来る。
特に有能な軍師は、この「道理」に通じている。
猛威を振るい、荒れ狂った戦場では、下級兵士の命など、ゴミ同然であり、微生物の命に等しいかも知れない。戦国の世では、微生物の命など軽視されがちである。
ありふれた下級兵士の命など、無いに等しい。しかし、有能な軍師は、こうした一兵卒の命も、疎かにしない。
窮地に追い込まれ、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなった時、有能な軍師は、下級兵士のありふれた死を、輝くものに改造出来る。一兵卒の己の死を、少しでも輝くような、最後を与える道理を、死ぬゆくものに与え、男の意地を少しでも輝くようにしてやるのである。凡夫は、こうした状況に至った時、臆病者でも、勇者になる。そして、勇者の何たるかを、諭(さと)す能力の持ったものを、則ち、「軍師」と言うのである。
一方、ある程度の権力を掴み、その横暴に甘んじるようになった主将の独断は、知らぬ間に、従う者を、自分の感情に染めて行く事になる。醜き権力者とは、そうした歪(ゆが)み切った己の感情を顧みず、ただ自分だけの至福に浸ることしか知らぬ者を指すのである。
気ぜわしく、生き急げば、権力者は歪み切った感情の陰陽に支配され、その中で自らの宿命を散らす事になる。愚将とは、この程度の人間を指す。論理が先行せず、感情が先行するからだ。特に、優れた軍師が不在になった場合に、こうした愚将が顕われる。
だから、軍師の用いる冷徹で洞察力の鋭い軍略は、必要不可欠なものとなる。これが冷徹な論理である。感情が、一切入り込む余地が無いのだ。
冷徹なほど冷徹で、その冷徹な洞察力の中から、「八門遁甲」が生まれた。
一般に科学的といわれるものは、冷徹な側面を持ち、法則以外は総(すべ)て当て嵌(は)まらないシビアな規範を持っている。一定の条件のもとに成立する普遍的で、必然的な関係は、まさに「法則」の名に値し、歴然として自然界に存在する。自然界に存在し、古典物理学の構成をなしたものが、八門遁甲である。
こうした高度な法則が、いつ頃人間界に齎(もたら)されたか、判然としない。恐らく、春秋戦国時代(前770〜前221)の思想家で、墨家(ぼっか)の祖とされた墨子(ぼくし)の時代には、この秘術が存在していたと思われる。墨子がよく城を守った故事は歴史が認めるところである。
墨子集団が、墨子の死後も活躍を続けた。墨子集団を、「墨者(ぼくしゃ)」と称する。墨者の彼等は、特異な集団であった。何の報酬も望まず、自ら進んで他人に奉仕する集団であった。墨者にとって、奉仕こそ、「慎みの行為」であり、彼等はこの行為をもって、世の中全体を作り替えようとした。そして彼等は「三元式」なるものを編み出し、よく城を守る事から、その一部は、匈奴(きょうど)にも流れた。
匈奴が活躍した時代は、前3世紀から後5世紀にわたってである。中国にとって、匈奴は脅威であった。古代中国を脅かす北方の遊牧民族としての匈奴は、「フン族」とも呼ばれ、蒙古とトルコ系の混血を有する騎馬遊牧民族だった。
戦が強く、歴史上は、四世紀後期にはヨーロッパに侵入し、東・西ゴート族を圧迫して、民族大移動の原因をつくった事で知られる。それは、彼等が三元式遁甲をよく用いた事に由来する。
では、その「遁甲」とは何か。
遁甲を一言で説明すれば、十干・十二支と方術の組み合わせから、《方徳》と《方災》の攻めの吉凶を割り出して、それに六十四卦の易を付随させ基本形の七千六百八十通りの攻略の日取り(その土地の磁場の関係を調べ、正確には日時分秒の決定と接近に要するまでの侵入経路を割り出す)を決定し、敵陣に攻め込むと言う恐るべき秘術である。そして、これは極めて古典的な中国の地学的な物理学なのである。
三元式遁甲は威力絶大なもので、満蒙の騎馬民族の集団戦法で、略奪及び他国を侵略する時に用いる方術である。この方術は、動き(秘伝では、左回りの旋回をある中心軸に対して、繰り返す特殊な技法)を伴わせて用いる為に威力が絶大になる。
こうした絶大な威力を以て、「城攻め」が行われる。
城は、最初、東西南北に底辺を合わせたものであった。高い城壁を巡らし、その中に天使が座して、天使は北に座し、南に向かうと言う単純なものであった。南に「南門」を構え、この門を重要視したのである。「南大門」などの言葉が今日にも残っているが、これは古代の天使が、北に座して、南に向かう事からこの言葉が生まれている。第一図を参照。
ところが、南門だけでは、敵の侵入は不正でも、退出口がない為、敵の強行突破には脆い一面が出て来る。南門が押し破られた時、天子の逃げ場がない。その退路として、次に「北門」が造られる事になる。そして、城壁の枠も一周り大きくなる。
強敵に襲撃された場合、天子の退避場所として、北に出口を設け、一時期ここから退避する退路をも受けた。これにより、天子は生き残る事が出来る。こうして、南門の入口に対し、北門の出口ろいう発想が生まれた。第二図を参照。
戦乱の世とか、世の中が混沌とする時代と言うのは、巨大な権力を有する者が、恐怖や欲望で、底辺に位置する兵卒や人民を煽(あお)り立てれば、この人の群れは、やがてそれに対抗する勢力が草の根運動として起り、敵対勢力として、巨大な権力に挑み掛かる。
人民の心が乱れ、幾つもの派閥に分断すればするほど、人民は撹乱(かくらん)され、烏合の衆となる。そして一丸となって、快適と戦う戦意が失せて行く。
こうした情報戦に関する戦い方は、歴史の至る所で見る事が出来る。多くは、その時代の政治理念として擡頭(たいとう)するが、やがてこれは不平分子の不満の心を掴んで、虐げられている人民の底力となって時の体制を打倒する原動力となって行く。
その最たるものが「革命」という手段ではなかったか。
黄巾党の時代、「革命」は『易経革卦』に、「湯武革命、順乎天而応乎人」とあり、天命が革(あらた)まることを指す。則(すなわ)ち、天命をうけた有徳者が、時の暴君に代って天子となることを指し、これを「易姓革命(えきせいかくめい)」という。
易姓革命は、中国古来の政治思想によれば、天子は天命を受けて天下を治めるが、もしその家(姓)に不徳の者が出れば、別の有徳者が天命を受けて、新しい王朝を開くということを意味付けるものである。
また、辛酉(しんゆう)の歳と称され、「讖緯説(しんいせつ)」や「陰陽道(おんみょうどう)」では、この年に変乱が多いといいとされ、日本では改元して、それを避けるのが慣例であった。
これは「三革(さんかく)」といわれる、甲(よろい)・冑(かぶと)・盾(たて)の総称をとって、陰陽道では「革まる」の意味を持ち、甲は革令の「甲子(こうし/きのえね)の年」、冑は革運の「戊辰(ぼしん/つちのえたつ)の年」、盾は革命の「辛酉(しんゆう/かのととり)の年」を指し、これらの年には変事が多いとして、改元などが行われた。
特に辛酉革命があり、中国古代の讖緯説(しんいせつ)に基づき、辛酉の年には革命が起るとする説である。日本では神武天皇(かんむてんのう)即位は、辛酉の歳とされ、また三善清行(みよしきよゆき/平安前期の官人・学者で、文章得業生から出身して、文章博士兼大学頭。901年(延喜1)に革命改元の議を、914年に意見封事を奉った。死の前年、参議となる。善相公。著作に『三善清行意見封事』あり。847〜918)の上奏により901年を延喜と改元して後、わずかの例外を除き、辛酉の年には歴代改元があった。
一方近代では、フランス革命以降を、「革命(revolution)」は、被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革することを指すようになった。革命の実現を志すさまであり、急激に変化するさまを言い顕わし、時代の変動を指すのである。
さて、中国の歴史を紐解くと、道教の中に太平道(後漢の道士張角の始めた呪術的宗教)というのがあったが、「黄巾賊の乱」(184年に勃発)を指導した八門(パーモン)先生こと張角(ちょうかく/後漢の道士で、黄巾の乱の首領。霊帝の時、黄老の道教を学び、呪術を以て農民を教え、その信徒数十万といわれた。その教法を「太平道」と号した。自らを、天公将軍と称したが病死。昨今は歴史家の独断と偏見に片寄った、一部の占い師の間でカリスマ性を持った大悪人として扱われていることは非常に残念である。 生年不詳〜184)は、この三元式遁甲を巧みに使い、また彼自身相当な霊能者であったと謂(い)われている。
黄巾党の乱では、特に「城攻め」にその戦術的な才能を発し、悉(ことごと)くを殲滅(せんめつ)する方術を要していた。そして、この頃になると、四面の城壁には、南門と北門に並んで、東門と西門が造られるようになる。攻めの動きに対し、守りの動きを作り出す為である。
これ以前の城攻めは、攻める側のみに動きが生じ、守備する側は、ただ攻撃側の動きのみに甘んじる他なかった。
そこで、門を四方に置き、これに陰陽の動きが生じるようにしたのである。第三図を参照。
さて、ここで黄巾賊の乱を説明しておこう。
黄巾賊の乱は、後漢の霊帝の中平元年(184年)に勃発する。この時代、まさに世は、風雲急を告げる、動乱の時代であり、国家は分裂状態にあり、世の中は乱れる様相を呈していた。
この発端は、宦官(かんがん)の横暴に始まり、汚職が横行し、政治は腐敗と濁流に押し流されて地に落ちていた。長年の間、度重なる盗賊の襲撃に収奪を繰り返されて、飢饉と破産に苦しむ華北の民衆は、八門先生こと天公将軍張角を最高指導者として仰ぎ、続々と彼の許に集結し、河北、河南、山東など八つの県で、一斉に蜂起(ほうき)した事件である。この時、張角が得意な奇襲攻略として用いたのが、威力絶大な三元式遁甲であった。
黄巾党の指導者側の側近としては、次男の張粱(ちょうりょう)、三男の張宝(ちょうほう)で、この三兄弟は、特殊な道教呪術をも心得ていた。病に苦しむ大勢の農民達を、霊符の書いた紙を水の上に浮かせ、その水を飲ませて病気を治したりして、益々その人気は高まった。動乱の世情不安の中、瞬(またた)く間に数十万の大組織に膨れ上がったいった。黄巾集団の各々が戦闘の時には、頭に必ず黄色い布を巻き、勇敢に戦ったとある。
黄色は、道教の宇宙循環理論の五行説から成り立った聖色であり、漢帝国を打ち立てた火の徳《赤》は、土の徳《黄》を以て、新しく循環されねばならないという意味が込められていた。
土の徳を表すこの集団は、黄色い布を巻いていたことから、「黄巾賊」(中国では時の体制側に反対する政策や思想や宗教を掲げると、「党」ではなく「賊」の悪名が付けられた)の異名が付いたのである。彼らは黄色い布を身に着ける事によって神聖化したと信じ、武器が貧弱にも関わらず、その戦いぶりは神懸かっていた。非常に勇敢で、それを鎮圧する政府の征伐軍は大いに苦戦したとある。
黄巾党の指導者・張角は、カリスマ性を持った超人間的な人物であり、北方騎馬民族の三元式遁甲という、世を混乱に陥れる恐ろしい秘術を伝承・会得した人物であった。
その秘術の中に秘める術理の危険性は、人間の運命と深く関わり、人の明暗相剋を操って、人間の運命に永久に纏(まと)わり着いて離れない、人間の宿命を操作する恐ろしさにある。はっきり言ってしまえば、この術は物理学的な行動をこの世の現象として表す、《呪いの藁人形》であり、攻撃することのみを中心に置いた巧妙で奇々怪々な戦法である。
諺(ことわざ)に「人を呪わば、穴二つ」というのがある。
これを使って攻撃した者は、また人からこれによって攻撃を受けるという意味を持っている。即ち、襲う者は、また襲われるのだ。敵を滅ぼした者は、やがて敵の子孫によって滅ぼされるという皆殺しの戦法でもある。その戦法の基礎となる基盤が、人に纏る《命》であり、生年月日をはじめとする《数》である。
「人間には命もあれば、数もある」と言ったのは、明治の文豪・幸田露伴(こうだろはん)である。その、人(総大将勢力)の「命」と「数」を操ったのが黄巾党であった。
八門先生(張角)も三元式遁甲の中心術理である「命」と「数」を使って後漢政府を滅ぼし、農民王国の理想国家を造ろうと考えていた。しかし、それは果敢なくも実現しなかった。何故それが実現しなかったのか。
それは才力や知力だけでは理想の新天地は開けないという、俗世間(大衆や庶民は真実よりも、人の噂や評判を気にする人種である)の、素直にこれを認めない排擠が働いて、現実とは違う方向に進んでしまうからである。それにより指導者張角は、歴史上の悪党として、中国史に名前を刻まれることになる。
太平道の指導者八門先生は、「蒼天(そうてん)巳に死し、黄天当に立つべし。歳は甲子に在 り、天下太平とならん」と号令して、四十万の農民革命軍を指導して、新しい国造りを目指した。彼等、黄巾を頭に巻き武器をとって蜂起した革命軍の最初の出だしは目覚ましかった。全国各地の官府を悉く焼き払い、燎原火の如く戦火が拡大して、無差別に暴行し、婦女子を犯し、虐殺し、そして富財を掠め去った。
因(ちな)みに中国では「行きがけの駄賃」と称して、兵士の暴徒化に伴い民間人への虐殺、レイプ、掠奪、暴行等は古くからの一般化した風習であった。
少し話は反れるが、三十万人以上の中国人民の犠牲者を出したと謂われる南京大虐殺(一九三七年十二月前後)からも分かるように、これらの残虐行為の被害の数を水増しするのも中国の古来からの一般的風習である。
中国兵の、あるいは中国人の集団が戦場に於て進攻、退却または敗走に際して、必ず行う行為は、項羽や劉邦の太古の時代からも分かるように、掠奪や婦女暴行であった。これらは中国人の専売特許であり、一方的に当時の日本軍だけに非があり、また中国軍(国民政府軍)に「習慣的行状」が決して無かったとはいえない。
また多くの中国人婦女子が犠牲になったとする南京に入城した頃の日本軍にとって、彼等はまず地理的に不慣れであり、十二月の寒風の吹き荒む中、夜の死臭漂う不気味な南京の街をたむろして姑娘(クーニャン)探し出かける勇者が日本兵にどれ程いただろうか。自国の被害は過大に捕え、自軍の残虐行為は過小に捕えるのが万国共通であるが、残念ながら人類の歴史に刻まれた戦争で、戦争犯罪と無縁であった軍隊は未だかって何処の国にも存在しない。
さて、これを封じ込める後漢政府は、黄巾を象徴として政治の腐敗を糾弾し、世直しを訴える彼等に対して、悪名高き「賊」の汚名を被せ、鎮圧軍を編成して封じ込め作戦を敢行したのである。
だが、指導者八門先生の巧みな遁甲戦術に政府軍はなす術もなく、この対応策に地方の豪族や私兵を動員した。これらの兵力を以て殱滅(せんめつ)作戦で彼らと応戦したのである。この作戦に加わった人物の中に、まだ名もない三国志の主人公になった、後の蜀の皇帝・劉備玄徳や魏の始祖・曹操孟徳が居た。彼等の活躍よって最初の華々しい出だしをしていた黄巾党は打って変わって敗北を重ね、至る所でこれら農民革命軍は敗走を繰り返した。
また最高指導者八門先生の急死に伴い、主軍は壊滅するのである。農民王国の理想を掲げた太平道の世直しは、ここで事実上挫折し、そして崩壊する。
しかし、この農民王国の理想を引き継いだのが、「五斗米道(ごとべいどう)」であった。
五斗米道は、後漢末期の社会不安に乗じて興った民間信仰の一つだった。盟主・張魯(ちょうりょう/張陵とも。老子から呪法を授かったと称して創始し、太平道と共に道教の源流をなす。また天師道ともいう)は、教義に帰依した者たちに、五斗の米を与えたという。五斗米道の由来はこれに始まる。
しかし彼等も、最後は殱滅作戦に封じ込められて、理想の農民王国は完成を見なかった。そして八門先生の遺産であった三元式遁甲が、世直しを掲げる革命の度に浮上してくるのである。
唐帝国が滅亡する時も、三元式遁甲と思われる戦法に、太平の世に慣れ切った政府軍は、軽挙妄動を煽る攪乱策に陥り、これを裏で操った北方系の侵略者の影が、その背後にあったと謂われる。
唐代末期の詩人・李商隠(りしょういん)の詩に、『楽遊原』というのがある。
これによれば、「晩(くれ)に向(なんな)んとして意適(こころかな)わず 車を駆(け)って古原(こげん)に登る。夕陽(せきおう)限りなく好(よ)し。只是(ただこれ)黄昏(こうこん)に近し」と詠(うた)っている。
つまり、「夕方になると何となく心が落ち着かず、車で楽遊原に登ってみた。夕日は限りなく美しいが、もうそこまで黄昏が迫ってきているではないか」という意味の詩である。
この詩は、まさに的中であった。この詩の中には、世情の不安を詩い、衰亡を思わせる暗示があったのである。唐は、この詩から僅か五十年後に、この暗示と共に滅んでいる。
●忌み嫌われる鬼門と心像化現象
人間の持つ本来の衆生は神と直結された《善》である。しかし、物質界の垢(あか)に穢(けが)れはじめると、やがて心に歪(ひずみ)が出来て、神から直流的に降ろされてきた気は、幽界と地上界の「外流(邪気)」に穢れはじめる。その外流の気が最も強い方向が丑寅(艮/うしとら)であると謂(い)われている。
だがそこは時間の揺らぎから起こる時空の揺らぎであり、此処には虚の時間と実の時間が重なりあった箇所である。更に歪は想念を伴い、元々無かったものを在(あ)るように見せかけ、新たな外流的影響を作り上げて、時として人を幻想・幻覚の世界へと誘う鬼界(きかい)に接した空間でもある。
通常、忌み嫌われる丑寅(うしとら)の方向が鬼門だと信じてしまえば、即座に外流に汚染され、それは実際現象として地獄的想念を作り上げ、それを信じる人に災いを降り掛ける。これが心に描いたことが現実化されてしまう、心像化現象の悪しき例である。
鬼門信仰は古くからあった。その歴史は匈奴(きょうど)に由来する。
匈奴の存在は、前三世紀から後五世紀にかけて、中国を度々脅かした北方の遊牧民で、モンゴル系に属するフン族である。首領を単于(ぜんう)と称した。単于は君主の称号である。
彼等は集団騎馬戦法を得意とし、ヨーロッパへの侵入や、東・西ゴート民族を圧迫した歴史をもっている。その集団騎馬戦法は凄まじく、皆殺し戦法を常としていた為、民族大移動の原因までを作っている。
秦の始皇帝(第一世皇帝・政)自身、匈奴の凄まじさを充分に承知しており、彼等の疾風の如き侵入と、その皆殺し戦法の脅威を恐れて、黄河以北に逐い、春秋戦国時代(斉・燕・趙・魏)に一部築かれていた万里の長城を増築したのは有名である。またゲルマン民族が大移動したのも、この匈奴の脅威の為であった。
また、650年の唐王朝に至っても、単于都護府(ぜんうとごふ)が設けられ、高宗の時に帰化城(フフホト)付近に設置された。単于都護府は唐朝の六都護府の一つで、内モンゴルに遊牧する突厥(とつけつ)などの諸部を統轄する機関であった。匈奴の猛威は凄まじく、三元式遁甲を用いての奇襲は恐れるべきものがあり、匈奴が侵略した跡は、まるで嵐の通り過ぎた跡に匹敵するぐらいだといわれた。
匈奴の存在は中国の有史以来の、頭を悩ませ続けた強大なる脅威であり、彼等が生息していた地域は中国の都から見て、東北の方向にあった為、この方向を災いの「鬼のいる門」、つまり《鬼門》としたのである。
この考え方は後に、弥生神道(発祥は中国の一部及び朝鮮。後年は縄文古神道に変わって日本列島に君臨する)や陰陽道に取り入れられ、鬼が出入りする方向を丑寅(うしとら)の東北と定め、万事この方角を災いの根源として忌み嫌うものとしたのである。またこの方角の反対方向が、鬼門と裏返しになった《裏鬼門(西北)》である。
 |
▲ 天守による「日の出」と「日の入」の図。天守は城郭の本丸にある最大の櫓(やぐら)であり、戦時には展望台・司令塔または最後の根拠地となり、平時は領主の権勢の表現として権威に象徴だった。
中国では天守は、天子の座する場所として、古くから城壁築城と共に発達して来たが、日本では文献上の初見は1550年(天文19)の伊丹城で、76年(天正4)織田信長構築の安土城に至って、壮麗雄偉な様式を完成をみ、後に天守閣と呼ばれるようになった。
「天守」の構造は、「明堂」に習い、古代中国では天子が政(まつりごと)を行う殿堂としての意味を持ち、明堂の語源の他に「政堂」とも呼ばれ、日本では「朝廷」と呼ばれた。そして、此処は天子が政治をとりおこなう所とされた。
それゆえ、明堂を囲む城壁は、まず、天子は北に座し、南に向かう、東西南北の辺を明確にし、太陽の運行と密接な関係を持っていた。
|
しかし、鬼門・裏鬼門は、単に中国の故事から起こった匈奴への脅威だけではなかった。
この方角は太陽の運行から考えると、「日の出」と「日の入」の方角であり、陰から陽に変わる境目の位置に属する、方角と時間であり、また陽から陰に変わる境目の位置と時間である。各々の陰陽のバランスが半々になった瞬間であり、陽とも陰ともつかない混沌(こんとん)とした状態の時である。それはまるで、天地開闢(かいびやく)の「初め」を顯す次元で、天地のまだ分れなかった状態を指す。つまり、陰陽が明確でないフラクタル(fractal)状態を指すのである。
即ち、一番緊張が弛(ゆるみ)み、隙(すき)が起こりやすい時間帯である。特に、太陽の日が傾きを始める時刻は一番大きな隙が出来やすいと謂われている。
かつて、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーは、「日の入」の緊張の緩む時間帯を「悪魔の囁(ささや)き」として、この時間に、単調な宣伝工作活動を繰り返し行うと潜在意識の中に、「悪魔の囁き」が入り込んで、人を意の儘(まま)に動かせるという、秘密を知っていた。これに似たことは、近年まで左翼活動家たちがこの宣伝工作法を用い、党員を倍増させてきた裏話は、知る人ぞ知る有名な話である。まさに、弁証法から人間の心理を解析した合理的な論拠に基づくものである。
また、奇襲攻撃を仕掛ける際に、一番多く使われる時間帯は「日の出」の頃であり、寝覚めの前の一番深い睡眠状態にある時である。俗に「寝込み襲う」というのが、これである。
兵法・八門遁甲でも、この方角を攻めの「出入口」に用いており、この方角は謂わば戦略上の死角である。最も侵入を容易にする方角が、《鬼門》と謂われる東北方向であり、時間帯に置き換えるならば日の出間際ということになる。
また、この逆が《裏鬼門》と「日の入」の時間帯である。これらは何れも人の心にある心像化現象が作り上げた死角の一例である。
しかし霊学的に言えば、《鬼門》、即ち丑寅には、仏教や弥生神道や国家神道によって押し込められてしまった「艮の金神」が封じ込められている方角でもある。
つづく…
|