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死ぬとどうなるか 3


●自分の肉体すら、自分のものではない

 自分の肉体を酷使した者は、やがて最後に罰される。「臨終(りんじゅう)」における断末魔だ。これは「不成仏」をつくる。

 人間には必ず、「臨終」という総決算の時期が必ずやって来る。物事に、最終的に結末をつけることは、人間には課せられた義務である。
 その為に、返すべきものは返還して、この世との「けじめ」を付け、この結末を明確にしなければならない。肉体も、その一つのである。

 病気で肉体を穢
(けが)していい筈(はず)がない。姦淫で、他人を穢(けが)し、あるいは他人から穢されして、そのままで放置していい筈(はず)がない。元通りにする義務が課せられる。だから、「姦淫はするな」と戒めているのである。

 私たち人間が、忘れてはならない事は、「自分の物」は、現象人間界では、一切ないのである。
 この現象界では、自分の物と思える、自宅やその敷地もマイカーも、家族も地位も、妻子や自分の肉体すらも、自分の物ではないのである。自分の物は何一つない。したがって、食べ物においても、これは神から許された食物だけが、自分が食べていい食物となる。それは人間の性
(さが)から遠い食物である。人間と同じ、哺乳動物であってはならない。共食いになるからだ。

 しただって、神は動物を食べる事を許してはいない。
 動物は保護される生き物だ。保護されるべき動物を、人間は食べていい筈
(はず)がない。動物は人間が保護するべき媒体であった筈(はず)だ。それは仏教の教えを見れば分かる。教典にもそう書かれている。これを食して、肉体を養生(ようじょう)してはならない。また、食したところで、養生にはならない。恨みを買うだけである。
 動物は人間と同じ性
(さが)を持つ。同じ感情を持っている。喰われて怨(うら)みを抱くのは当然であろう。

 人間の肉体は、食べ物によって造られている。食の化身
(けしん)が、則(すなわ)ち「肉体」なのだ。
 食を正すことにより、食を慎
(つつし)むことにより、健全な肉体が育まれる。正さず、慎まず、食を乱せば、当然肉体も狂う。これが病気である。

 人間に許された食べ物は、大地から収穫された植物と、近海で採れた魚介や海藻類だけである。それ以外のものを無理に食べる必要はない。

 そして、食べ物達が捧
(ささ)げてくれた命を、人間は「頂く」のである。「頂く」以上、そこには感謝がなくてはならない。
 食べる時に合掌して「頂きます」と云うのは、命を捧げてくれた食べ物達に対しての感謝の言葉である。
 こうして人間は、天より生かされているのである。こうして生かされている事を「他力一乗
(たりきいちじょう)」と言う。その「生かされている」と言う事自体、人間は自分の力ではなく、天によって生かされているのである。生かされているから、「他力一乗」なのだ。

 人間は決して自力で生きているのではない。自分の意志だけでは、「一秒」と生きていられないのである。天の恵みを受けて、「生かされている」のである。これを自力で生きていると自惚れてはならない。生かされているから、自分の肉体すらも、大事に遣い、粗末にしてはならないのである。自分の肉体すらも、天からの「借り物」なのである。借り物は、やがて返さねばならない時機がやって来る。

 そして充分に生きたら、自分の肉体は、やがて「お返し」しなければならない時機が来る。それが「肉体の死」である。

 自分の肉体は、やがてその一切を、神に「お返し」しなければならない時機が来る。
 「借りた物は返す」と言うのが、この現象界で生きる者の任務であり、一切を、「総て返す」という中に、本当の魂の目的がある。借りた物は、次々に返していくのである。

 しかし、問題になるのは、その「返し方」だ。
 病気で穢
(けが)し、不注意で、ボロボロにした肉体を、返しても、果たして神は喜ぶだろうか。「よく遣った」という肉体は、病気を患って「酷使した」という肉体とは違うのだ。

 「よく遣った」という肉体は、「大切に遣った」という事であり、不注意と不摂生でボロボロにし、傷だらけにし、病気で穢し、病魔に冒
(おか)された、そうした物とは違うのである。その上、精神障害を煩(わず)って、憑衣だらけになった肉体を返しても、神は喜ぶだろうか。

 「美しく老い」かつ「美しく枯れた」肉体を、「よく遣った」というのだ。
 果たして、現代人は、自分の肉体を大切に遣っていると云えるだろうか。美しく遣っていると云えるだろうか。

 たかだか四、五十代の若さでガンで斃
(たお)れる人がいる。四、五十代で心筋梗塞に斃れる者がいる。また、高血圧や糖尿病などの生活習慣病で斃れる人がいる。それは「酷使してあまりなかった」のではないか。この点を大いに反省するべきであろう。深い反省と共に、神から警告されたシグナルを真摯(しんし)に受け止め、やり直すことだ。

 人間は「これからやり直そう」と思った途端、それまでの犯したあなたの罪業
ざいごう/この場合は、あなたが潰瘍性大腸炎で大腸を穢したこと)は、半分消滅した事になる。これを「発心(ほっしん)」と言う。後は、これを最後まで諦めずに「成就」させるだけの事だ。

 そして、後の半分は、「成就」に専念する事だ。
 自他の垣根のなくし、自他同根の意識をもって、自他の隔たりをなくし、他人に対し、どれほど「慈愛の念」を抱けるかと言う事が、残り半分を清算する手段となる。
 「これからやり直そう」とする思いに、「遅い」という事はないのである。よりよい「臨終」を迎えるその日まで、これ迄の間違いを改めて、改造に向けて成就しなければならない。



●この世に、自分の物は何一つない

 自世の中で、自分の物は何一つないのである。
 自分の肉体も、既婚して子供を設けた場合、その子供も、実は自分のものではない。自分で購入したと錯覚しているマイホームも、マイカーも、今の地位や境遇も、住空間も、生活環境も、決して自分の物ではない。一方的な勘違いで「自分の物」だと錯覚しているだけである。

 その証拠を提示しよう。
 例えば、マイホームや、マイホームが建っている土地を考えた場合、広義には決して自分のものでない。国家の管理体制下にある。
 実際には、「登記済権利証書」の名義は、自分名義になっていても、大ローンを払い続けている間は、決して自分のマイホームではない。

 では、誰のものか。
 それはマイホームを建てる為に、住宅公庫から金を貸し出した銀行のもの、あるいは根抵当権
(ねていとうけん)を付けた、一番抵当設定権や二番抵当設定権をもった債権者のものだ。

 債務者にはマイホームと言う、「自分の物」という権利は何処にもない。固定資産税を払っているからといって、自分の物ではない。完全に、最後の一円まで払わなければ、法律上は自分の物にならない。しかし、これはあくまで謄本上の狭義に考えた場合である。

 狭義に考えた場合、大ローンで建てたマイホームは、自分の「資産の部」に入るのではなく、「負債の部」に、借金として計上されるべきものである。

 しかし、此処
(ここ)にも落とし穴がある。
 最後の一円まで、全額払い終り、晴れて抵当設定権が抜け、もう何処の債権者にも一円も支払わなくて済むようになったとしよう。しかし、完全に自分名義のマイホームにも固定資産税が掛かり、こうした税金は、土地面積と建物の容積に応じて毎年徴集されるのである。
 そして、もし固定資産税が払えなくなったらどうなるか。

 競売
(けいばい)物件として売却されてしまうのである。
 固定資産税の支払先は、土地・家屋・償却資産の所有者に対し、その価格
(評価額)を課税標準として、固定資産所在の市町村が課する地方税であるが、有事(わが国は、有事の際、有事立法と言う法律が適用される。事態に迅速かつ強力に対処するために、通常、権力の集中と広範な人権制限を伴う)の際には、マイホームの敷地や建物は国家が管理するようになっている。

 有事の緊急事態が起こり、外国の軍隊の侵略を受けた場合、そこに作戦司令部などを臨時に置かなければならなくなった時、もし自分のマイホームが、作戦司令部域に含まれれば、立退を余儀されてしまうのである。これが「有事立法
(日本では、特定の緊急事態に対処するための制度は警察法・自衛隊法・災害対策基本法などに定められている)」という法律だ。

 この世に、「自分の物」など何処にもない事が分かるであろう。
 更に言えば、自分自身の肉体すら、自分のものでないのである。名誉も地位も自分の物ではないのだ。
 しかし人間は、自分の物が全く無いことに気付き、落ちるところまで堕
(お)ち、もう自分には捨てるものが何もないと思った時、自然界の根源を動かす可能力dynamis/デュナミスで、発展して形相を実現しうる可能性)が突然、動き出す仕組みとなっている。どんな人間でもドン底に墜ちれば、そのドン底から、何か新しい「希望の光」を見つけるものだ。

 希望に溢れ、歓喜を伴い、「出直しを決心した人間」程、悪霊達がもっとも苦手とする人間なのである。人生の貸借対照表は、こうして辻褄
(つじつま)が合わされているのである。
 人間は、本来自分の所有でない物件を、自分の物として、勝手に遣っている。地球の表皮の部分である大地も、人間が勝手に遣っているものだ。

 人間の肉体の生命が終る、終末には、必ずそれを精算しなければならない時期が来る。総決算の時期が必ずやって来るのである。人間の臨終も、その総決算の一つである。総決算とは、「帳尻合わせ」であり、去る時は「真っ新
(さら)」にしていかなければならないのである。



●断末魔はあるのか

 人の死に、事故死なるものがある。この死は、自然死とは逆である。多くの場合、病気で苦しんで死ぬ場合にこうした死が訪れる。
 躰が衰弱して死んで行くのではなく、病魔に襲われながら、これと闘うような形で死んで行く死が、これである。

 こうした死は、抗ガン剤投与した末期ガンの患者に多く見られる。副作用での反動現象が起り、痛さに歯を喰
(く)い縛り、あるいは歯はねじ曲り、歯茎から血を流したり、虚空を手でわしづかみするような表情を示したり、爪で手の甲(こう)や掌(てのひら)を掻(か)きむしり、幾筋も血の帯が垂れるような苦しみを見せる人が居る。

 また、眼はバセドー氏病
(甲状腺の機能亢進(こうしん)によって起る疾患。甲状腺腫脹・眼球突出・心悸亢進・多汗・手指振顫(しんせん)などを起こす)のように眼球が飛び出し、あるいは脚に激しい痙攣(けいれん)を起こし、掛け布団を引き破り、顔色はこの世の人間とは思われぬ土色(つちいろ)に変わり、躰(からだ)を弓のように反(そ)らせ、血管と言う血管はミミズが這(は)っているように浮き上がる。

以上は死をひたすら恐れ、苦しんで死んで行く人の本の一例である。そして人の死に方は、「見えない心」が何らかの形で関連性を持っている。

 大小便も止まって出なくなり、腹部は『病草子(やまいぞうし)』の地獄絵にあるような餓鬼のように大きく膨れ上がり、苦しさや痛さの余りに髪の毛を毟(むし)り取り、頭部は血だらけになって坊主頭となり、また、胸は掻(か)き毟(むし)って血だらけになる。

 以上は、断末魔を体験する病死者の表情であり、多くの断末魔の起りは、脚
(あし)から起ると言われる。脚をばたつかせ、脚に最後の激痛が趨(はし)ると言われている。
 この激痛は、末期ガンなどで病死する人が体験する苦しみであり、「肉が骨から離れる激痛」「肉を抉
(えぐ)られる激痛」「躰(からだ)がバラバラに分解する激痛」などであり、激痛とともに、声にならない悲痛を挙げ「離れる激痛」が絶叫となって顕われるのである。

 こうした苦しみと痛みを周りで見ている親族は、死に行く患者に対し、触って撫
(な)でてやる事も出来ず、軽く指が触っただけでも、絶唱して、泣き叫ぶのである。そして、断末魔は脚から腹部へと移動し、腹部から胸や手指へと移動して行く。
 取り巻の親族は、逆毛を立たせた死に行く者に、最後を惜しむ訣
(わか)れの涙はこぼれず、ただただ恐ろしい形相をして死んで行く人の姿に唖然(あぜん)となるのである。

 今日では、こうした場合、形相が余りにも恐ろしいので、少年少女や幼児などの未成年者は、こうした臨終の席上に殆ど立ち会わせないことが多いようだ。医学が発達し、延命の医療が進んでいると思われている日本でも、「断末魔」に苦しみながら死出の旅に、旅立つ人は決して少なくないのである。

 断末魔の死を、日寛
(にっかん)の『臨終用心抄(りんじゅうようみょうしょう)』には、「死ぬる苦しさは、家を大槌(おおつち)にて破るが如く、四大の板柱、材木の面々に取り離す故に苦しむなり、断末魔はこれをいう」とある。

 一方、「断末魔除け」というものがある。
 古来より用いられた断末魔除けは、霊薬を用いるとされている。この霊薬には、「茯霊
(ぶくりょう)」なるものがあり、植物学で言う「茯苓(ぶくりょう)」を指す。

茯霊といわれる「さるのこしかけ」

 茯苓は、担子菌類サルノコシカケ科の菌の菌核である。松林中の地中に生じ、松の根に寄生する。形はサツマイモに似て、表皮は黒褐色でしわが多い植物である。内部は肉質で、なまの時は、淡紅色で軟らかく、乾燥すると白色で堅くなる。利尿に効果あり、生薬としては水腫や淋疾などに用いられる。
 これは霊学的には、悪霊を伏せる妙薬であり、その為に「茯霊」という。

 「霊」という字は、「雨」カンムリに「巫
(ふ)」と書く。したがって、雨の如く天から降りるのが「霊」である。しかし、雨の如く降り下る「霊」は、雨の下に「巫」を従えている。
 霊的に言う「霊」は、雨に巫を従え、巫に大きな意味合いを持っている。「巫」とは、人と人の間に、天の「一」と、地の「二」を貫く垂直棒が突き刺さった字体を意味している。天の「一」は頭上から肛門までを貫く、天から地に向かう縦棒であり、地の「二」は地に水平に横を薙
(な)ぎ払うように貫く、頭部と足許(あしもと)を二つの横棒である。

「霊」という漢字の造り。この漢字は「雨」カンムリと下部の「巫」よいう文字が変化した字である。また、「巫」の水鳥の縦棒は、頭から肛門までを貫く鉄帽または鉄剣を指す。また、「巫」の文字は四格の陰数である。

 念仏宗【註】善導や法然の浄土教では、特に阿弥陀仏の名号を称えることをいい、それにより、極楽浄土に往生できるという、阿弥陀仏の救いを信じる宗門。融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗など)が描き出した悪想念から起る地獄絵は、本来は存在しないはずの物がこの悪想念によって、現象界に地獄を作り出し、この想念が人間の脳裡(のうり)にイメージされている。本来ないものをイメージした想念は、無から有を作り出す人間の想念によって、地獄をも作り出してしまったのである。

 念仏宗の経典には、「灼熱
(しゃくねつ)地獄」なるものがあり、ここで人間の作り出した想念は鬼をも作り出した。黄色い髪をした鬼が、人間の肛門から脳天までを鉄の棒で突き刺し、不成仏の亡者たちをバーベキューにしている話が地獄絵に描かれている。

 真諦
(しんてい)には本来こうした物は説かれていなかったが、方便として俗諦(ぞくてい)を教えた念仏宗は、好んで地獄論を説き、人々の想念の中に地獄を植え付けたのである。想念に地獄がイメージされれば、また、無いはずの地獄も想念の中で出現するのである。
 そして、不成仏はこの想念の中で長い間苦しむことになる。

 この想念から抜け出す一つの方法が、「山水信仰」であった。
 「山」は三格
(三画)で、陽数としての「昇天」や「転生」を顕わす。一方、一天二地の真ん中を貫く四格は、本来「死」を顕わし、陰数なのである。現代漢字の「巫(かんなぎ)」の字は、本来は左右に「人」の字を二つ書き、「三」の真ん中に天から地に向けて「一」の字が突き刺さったものであり、下に書く「二」が一本抜けているのである。
 つまり、現代漢字は、語源の意味を無視した簡略化の中に、古人の智慧
(ちえ)を無視したところがある。



●死相とは「生」から「死」への「凶の移行」を云う

 死。それは人間としての「生」の状態における、「価値あるものの活動」の停止を云う。死に就(つ)く事により、「生」を無価値にしてしまうのである。
 では、この「無価値」は何を意味するのか。
 それは現世の「影」であろう。人は現世の影を自分の裡側
(うちがわ)に持ち、その影は別の世界への門口(かどぐち)になっている。鬼門と隣接している「門」である。この門口は、生ある者を此処へと招く働きを持っている。

 生きる因縁のある者は、その因縁により「生きる」ことが認められるが、生きる因縁を失えば、忽
(たちま)ちこの門口へと引き寄せられる。
 この門口は、何も遠い世界の事でない。いつでも価値あるものを、直ちに無価値にしてしまう凄まじい威力すら持っているのである。

 だから人は、「死の影」の戦
(おのの)き、また怯(おび)える。死の影を引き摺(ず)り、戦々兢々(せんsねんきょうきょう)として、生に執着する生き方をしている。だからこそ、人は人生の最終結果としての「死」の到来を懼(おそ)れる。
 特に、生に執着し、その充足を享楽する人は、常に死の影に怯
(おび)え、終焉(しゅうえん)の威迫に怯えねばならぬ。

 したがって、末期患者のように死に直面した人は、生の約束を求めて種々の奔走をする。死の否定と、死から逃れようと、あらゆる手段を講ずる。しかし、やがてこうした奔走が無駄でる事に気付く。人間の種々の予兆のうちで、死ほど恐ろしいものはないであろう。

 特に、死を恐怖と捉
(とら)え、その恐怖は痛みを伴うものだと信じて居る人は、悉(ことごと)く死を忌(い)み嫌うのである。しかし、死を忌み嫌ったからといって、死を目近(まじか)に控えた人は、その死が延期されるわけでもない。予定通りに、死は執行されるのである。

 こうした「死の執行」に際し、人に死には様々な臨終と云うものがある。価値あるものは無価値へと移行する態
(さま)には、万人一様でない。価値あるものが、あるいは「生」に何らかの働きを行って居た者が、無価値に移行するのであるから、その無価値には「非存在」といての意味を持つ。これは「生」の移行が、「死」を形作るものであるから、無価値であり、非存在であったとしても、「死」への移行には何らかの意味合いが生まれて来る。それが、「生」から「死」へ移行する、「死相(しそう)」というものだ。

 では死相は、何処に顕われるのか。
 それは人間の正中線
(せいちゅうせん)に多く顕われる。正中線は「ゼロ」の世界の座標軸である。正中線上には、まず、人間の鼻梁(はなすじ)がある。
 鼻梁は東洋医学の経脉
(けいみゃく)で云うと、「督脈(とくみゃく)」にあたる。督脈は「霊脈(れいみゃく)」といわれ、この霊脈により人間は、ゼロの座標軸を正中において、左右のバランスを保っている。つまり、種々の病気は、この左右のバランスが失われた時に派生するのである。

 例えば、アレルギー実感などの病気は、左右の自律神経の測定値に著しいアンバランスが見られる。また精神分裂病を始めとする精神異常は、左右のアンバランスが著しくなり、拮抗が崩れた時に発病する。つまり精神異常は、大脳の差中のバランスが失われた時に、「脳圧異常」
【註】脳に圧力が感じる意識は、すでに左右のバランスが崩れ、脳に異変が起っている事を顕わす。これが陽気が失われる「亡陽(ぼうよう)」を顕わしている)を起して、人格が崩壊するのである。

 左右のバランス以上は、まず、人間の鼻に顕われる。鼻梁
(はなすじ)が歪(ゆが)んだ人は、既に霊脈上の異常が現われているのである。
 また、脳卒中で、脳を血管が切れた時も、左右のバランスに異常が起る。つまり、督脈と云う霊脈は、脳や内臓と密接な関係を持ち、ここに顕れた異常は、鼻梁を介して死相が表現されると云う事だ。

 昔から、鼻梁
(はなすじ)が歪(ゆが)むのは「不成仏の相」といわれ、凶事の前触れを暗示するものであった。つまり、「臨終時」に躰(かだら)が異様に畸形(きけい)し、変形するということは、つまり、それ自体が霊的な働きかけにより、異常事態が起っていることを顕わしているのである。ここに臨終間際の、意識体が感得する「苦痛」が存在する。そして「苦痛」を感じながら世を去ること自体が、事故死の兆候であり、これが「横死の相」と言えるであろう。

 この時、臨終間際には、相当な異常事態が起り、苦痛の現象が起こっているのである。

火を吹くような表情をし、口から息を火のように吐き出す。または口の中が泡だらけになる。涎(よだれ)を垂らす。
耳朶(みみたぶ)が縮み、耳全体が小さくなる。
両腕を差し上げ、蜘蛛を掴むようにするか、それを追い払おうとする。
流中の際の幻覚を見て、「そっちへ行け」などを小さく口走ったり、追い払う仕種をする。
両手を固く握りしめ、これを震(ふる)わせる動きをする。
唇をなめる仕種をする。上唇は大酒のみ。下唇は甘い物が好き。両唇は熱病か糖尿病などであり、餓鬼界の意識が漂う。

 こうした表情を顕わす人は、既に不成仏の相が顕われ、その死は「横死」である。つまり、「亡陽(ぼうよう)」が顕われているからである。亡陽となる不成仏相は、東洋医学から考えると、精の「陽」が毛穴の気門からにけ出して陽が失われている状態を顕わす。この場合、体内には、「陰」の腎気(じんき)しか残っていない事になる。「腎」の女性的な気は「胞(ほう)」であるから、「沫(まつ)」を生じ、これが唾(つばき)の「泡」となる。そしてこの泡こそ、墜(お)ちて行く相であり、不成仏の相と言えよう。



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