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死ぬとどうなるか 1


死ぬとどうなるか

水を求めて「意識体」は彷徨(さまよ)う。


●死の恐怖意識の克服

 人間は「死んだらどうなるか?」、これは誰もが持っている最大の関心事であろう。
 人間は生まれながらに、「死」を内蔵して生きている。「生」の裡側
(うちがわ)には、常に「死」がその反対側にあり、「生」をもって「存在するべきもの」が、ある日、突然、非存在として「死」を余儀無くされる事がある。人間は絶えず「死の影」に怯(おび)えた存在なのである。そして、「死の影」はいつ襲って来るか、私たち凡夫(ぼんぷ)には予測が出来ないのである。

 こうしたところに、最近では死の恐怖意識を持つ人が増えた。また、こうした情動問題に悩む人が増えた事は、究極的には、現代と言う社会が、急激に変化する社会である事を物語っている。
 この、社会変化により、死と、死ぬ事への対処が、一層これを複雑化し、現代人の無意識の心の中
(うち)には、死を拒(こば)み、死を認めない猛反撃が始まっていると言える。

 そして、誰もが、心の無意識下に、自分自身の死は、決して起こり得ないと言う、「対岸の火事」的な考えを持ち、「死」を他人事のように思い、自ら死の到来を拒むのである。
 だからこそ、死は「恐怖」となり、人は死を忌
(い)み嫌うのである。

 しかし、現実問題としては、死は拒みきれるものでない。
 多くは、死が決定された時、大声を挙げて泣きわめき、悔恨と恐怖と懊悩
(おうのう)が自らを襲って来る。これに大多数の人はは、悶(もだ)え、悩み、苦しむ。
 特に、こうした現象が見られるのは、ガン発症の末期患者に見られ、ガンを告知され、余命数カ月と告知された時のその衝撃は、想像して余りあるものがある。この時に起る、恐怖から派生する錯乱は、ショックと狼狽
(ろうばい)で、自分自身を前後不覚にするであろう。

 では、現代人は何ゆえ、こうまでに死を恐れるのか。それは死そのものより、死に至る過程で、筆舌に尽くし難い「苦痛」があるからだと信じられている事だ。
 特に末期ガン患者などは、激しい副作用により、ガンと闘うことよりも、合併症と闘い、これに多くにエネルギーを浪費するからである。だから、死に至る過程が、喩
(たと)え刹那的(せつなてき)なものであっても、「死ぬ瞬間」イコール「苦痛」に結び付け、これにより死を恐怖するのである。
 そして、科学が進めば進む程、「死」の現実を恐れ、「死」を正視する事なく、徹底的に「死」を否定する傾向が強くなる。

 誰もが、「死」に対して冷静に直面せず、「死」から逃避する事ばかりを考えるようになる。こうした傾向が、現代では、「人間が死ぬ」ことは、多くの点において、昔より、一層気味が悪いものに押しやっている。それは「死」が、酷
(ひど)く孤独で、機会的な、非人間的で、惨(むご)いものと想像しているからである。
 しかし、「死」をこうした感覚で捉
(とら)えている限り、人間は本来、「非存在的な生き物」であると言う、実体を冷静に考える事が出来なくなる。そして「死」は、益々危険視されることになる。

 危険視された「死」は、現代人にとって
「恐怖」そのものであろう。また恐怖は、「恐ろしい苦痛」という概念を遵(したが)える為、こうした事から逃れようとする意識が働く。
 しかし、危険から遁
(のが)れるとか、護(まも)ると言う祈りは、一種の「懼(おそ)れ」であり、死が自分に目近に迫った場合、「謙虚に直面し」かつ「受諾する」というチャンスを逸(いっ)してしまう事になる。

 「死」を極度に否定するものは、自ら死の到来に対し、死を最終結果として、それを「謙虚に受諾
(じゅだく)する態度」を逃してしまう事だ。折角の到達機会を失ってしまう事である。最早(もはや)こうなれば、喩(たと)えば、死を目前に控えた末期患者らは、絶望的な、非常に「孤独な死」を迎えなければならなくなる。

 しかし、「人の死」は、本来は決してそんなものではないだろう。死は懼
(おそ)れるものではなく、謙虚に向かい合い、直面するものである。だから「人の死」において、苦しみが収まるように願うものではなく、「生死を超越する」ことこそ、人の死を一層荘厳(そうごん)にするのである。克服する心を養ってこそ、生死を超越し、死生観を解決する事が出来るのである。

 現代人は、「死」を懼
(おそ)れる余り、死から逃れる事ばかりを企てて来たが、人生の最終結果である「死」をこのようにして捉えてしまうと、「死に直面するチャンス」を逸してしまうのである。生きている間に、死生観を克服し、解決しておかなければならないのである。
 また、この違いが、
「自然死」「横死」を隔て、「成仏」と「不成仏」を隔てているのである。



●見えない心

 (ことわざ)には、「人は死して名を残し、虎は死して皮を残す」というのがある。
 これは人生を生きた証
(あかし)として、後世に名前が残ることが大事だとした言葉である。しかし、単に、名前だけを残せばいいのであろうか。
 死して名を残しても、死後の生活で、苦海に苦しむ偉人もいる。苦海に沈む有名人もいる。それは、一般的に思われている、「人間は死ねばそれ迄よ」という意識体の意識が、死後、消滅しないからだ。

 中途半端な無神論者である日本人は、「死ねばそれ迄よ」と考えている人は実に多い。死後の世界など、全く信じない癖に、墓を造り、仏壇を祀
(まつ)る。それでいて霊的世界を信じない。人体は、ただ肉体と、意識を司る脳だけで支配されていると思っている。
 しかし実体は、人間が意識体である以上、「死ねばそれ迄よ」というふうにはいかない。「唸
(ねん)」というものが残る。死した後、肉体は消滅しても、意識体は存続する。
 勿論、この「唸」は人間の感覚器などの五官で捕らえることはできない。科学の発達した現代も、未科学分野に入っている。

 しかし、こうした「唸」から起る波動を、測定できないからと言って、これを非科学と決めつける事はできない。「現世」と言う現象人間界は、片一方に「可視世界」が存在する以上、その他方に「不可視世界」が存在している。不可視世界の波動は、人間の肉の感覚器で捉える事ができないからと言って、これを非科学と決め付け、オカルトとして一蹴
(いっしゅう)する考え方は、これこそ、「科学」の名を借りた無知傲慢(ごうまん)であろう。

 「唸」と言う波動は、「見えない心」から派生する。波動と称し、波動の研究などと云うと、現代人は即、非科学的と決めつけるようだが、これは未
(いま)だに解明されていない未科学のジャンルのものである。

 二十世紀の科学は、社会科学などを始めとして、これを唯物弁証法で捉えて、社会科学と云う、科学で無い科学が横行したが、唯物史観で考える思考は、人間に病的な科学万能主義を植え付けただけだった。こうした傲慢な万能主義が、「眼に見えないもの」を切り捨て、非科学と一蹴する奢
(おご)りを増長させた。

 しかし、今日でも解明されない、眼に見えない現象は幾らでもある。
「見えない心」もその一つである。この「見えない心」こそ、紛(まぎ)れもなく「未科学の領域」のものと言えよう。

 物理学における量子力学は「見えない心」を解明する糸口を掴み始めている。
 一方、現代医学は、「見えない心」を科学する認識は希薄である。したがって、こうした未科学分野をオカルトとして捨て置いたり、神秘主義と称して嘲笑
(ちょうしょう)の対象にするのは如何なものか。
 これこそ、科学の名を語った傲慢ではないか。真摯
(しんし)に現象を解明する姿こそ、本来の科学者に求められるべき態度ではないか。
 だからと言って、「見えない心」を心霊科学など称するつもりもない。心霊科学も、社会科学と同様、科学の名を借りた、科学でない科学である事は明らかだ。安易に霊魂の世界を科学と称して弄
(もてあそ)んでいるからである。

 現象人間界を取り巻く宇宙での出来事は、総
(すべ)てに意味があり、その現象は相互に関連性を持っている。したがって偶然と言うものはあり得ない。総てが必然からなる。必然は、相互に繋(つな)がる縁(えん)がなければ、総ての事象は派生しない。したがって、物事は縁によって導かれ、因(いん)によって次なる事象が派生する。これが現象人間界で事象現象として起っている、可視世界と不可視世界を含めた現象である。つまり、現象は因縁によって派生する。

 また、「死して後、已
(や)む」という言葉がある。これは死ぬまで「行い続ける」ことであり、命ある限り、努力してやまないことをいう。人間の「生」とは、元々こうした存在である。
 生きて、物理的影響を与えるのは、人間が存在していることから起る。しかし、一度死なば、その物理的現象は已
(や)む。それは肉体を失った為である。非存在になった為である。ということは、人間には「存在」と「非存在」が常に同居している事になる。

 「生」が強い場合は、存在する事が出来、「死」が強くなれば、非存在となる。これは非存在としての人間が生きているという事であるから、この現象はまさに奇蹟
(きせき)である。ここには「生かされている」という奇蹟が起っている。しかし、奇蹟が起らなくなれば、それは非存在へと変貌(へんぼう)し、「死」という状態が訪れる。

 そして、此処に掲げられている課題は、何
(いず)れも「死」である。生まれて、死するまでの「行い」を問題にしている。人の人生の生・老・病・死を数直線上における、最後の「死」と、「死」に至るまでのプロセスを問題にしている。しかし、生・老・病・死は単に数直線を為しているのではない。リングの「輪」である。巡り巡るようになっている。だから元の因縁に回帰する。回帰は「行い」に顕われる。それは、死が「行い」によって決定され、「行い」は人の死に、ある種の宇宙現象の「見えない心」の意味合いを含ませているからだ。

 しかし、「人の死」を考えてみると、死の瞬間、あるいは臨終を迎える瞬間と云うのは、様々なものがある。人の臨終で、最良の?に方は自然死であるが、今日は、こうした自然死ができる状態が極めて少なくなった。つまり、現代と言う世の中は、誰もが事故死に至る筋道が敷かれ、それに準じた「死」を実行していると言える。



●事故死の実体

 現代人の大半は、病院で生まれ、病院で死んで行く。そして、その他の死に方は、変死、横死、自殺、他殺など様々で、これ等の差は、生前の名前に由来する事と無関係ではあり得ず、また、全く影響がないとは言い切れない。因縁の根拠は此処に存在するからだ。

 例えば日本に於いて、十七世紀以降、隠れキリシタンらは、江戸幕府のキリシタン禁制後、ひそかに信仰を持続した信者であり、捕らえられて処刑されていった悲しい歴史がある。また、キリスト自身、茨薔薇
(いばら)の冠を被せられ、十字架を担がされ、刑死と云う形で殉教の道を辿った。

 これは歴史を解釈する上で、世界史では「殉教」だと教えられた。しかし、キリスト教信者で無い者が、キリストの最期
(さいご)を見ると、あれは横死(おうし)としか映らない。特に、イスラム圏の人々の眼には、そう映るだろう。贖罪(しょくざい)と称しても、犠牲や代償を捧げたとは映らない。幾ら、自らでは購(あがな)うことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によってあがない、神と人との和解を果したとする、この行為が、果たして罪を浄める事だったのか、それはキリスト者以外の信徒には、そうは映らない。
 また、無宗教者や他宗の人の眼にも、そう映るに違いない。

十字架のキリスト

 この種の宗教は、横死を正当化する為に、この世に、善と悪との二面対極構造を作り出さねばならず、キリスト教信者達は神の名の下(もと)に、悪魔の追放を図ったのである。また、神の悪魔が戦う「善」対「悪」の構図を作り上げた。

 日本法刑史を考える上で、拷問と殺戮
(さつりく)の記録の中には、『隋書倭国伝(ずいしわこくでん)【註】中国の隋の時代に書かれた刑法史などの記録書)などの記載にも分かるように、七世紀頃の日本の刑罰は「盟神探湯(くがたち)」という方法がとられ、沸騰(ふっとう)している湯の中に手を入れさせて、火傷したら有罪だと云う神判(しんぱん)がとられた。

 あるいは裁きを受ける者は、木で膝を圧
(お)され、また、強い弓で項(うなじ)を鋸切を曳(ひ)くように擦(こす)られた。その他には、毒蛇の入った壷の中に手を入れさせられ、蛇から噛まれれば有罪とされた。こうした審判は、「神判」と呼ばれ、熱湯審あるいは毒審として原始的な裁判の一種であった。

 こうした審判の目的は、最初から白状すれば、残酷な裁きを受けなくて済むのだが、白
(しら)を押し通すと、神判を受けることになり、痛い思いをしたくないばかりに、冤罪(えんざい)であるのにも関わらず白状した者もいると言う。その意味で、こうした神判は一種の拷問(ごうもん)であり、毒審などは運が悪ければ、そのまま死ぬ事もあったであろう。

 上代
じょうだい/太古)では、人間の犯す罪は神の忌(い)み嫌う「穢(けが)れ」であると考えられていた。罪を犯せば神の怒りを被(こうむ)り、罰を受けると言う思想である。この思想の下(もと)に、神判が実行されたのである。

 神話でも、ニニギノミコトが、ただ一夜の情交だけで懐胎
(かいたい)したコノハナサクヤヒメの貞操を疑った話が出て来る。ヒメは自分の潔白を証明する為に、「私が妊っている胎児があなたの子であれば、必ず無事に産める筈(はず)です」といって、燃え上がる火の中で、操(みさお)の証を立て、無事三児を安産したとある。ここにも、上代では神判思想が存在していたことが窺(うかが)える。

 また、五世紀代の允恭
(いんぎょう)天皇【註】記紀に記された五世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第四皇子。名は雄朝津間稚子宿禰(おあさずまわくごのすくね)。盟神探湯(くかたち)で姓氏の混乱を正したという)時代に記された『允恭記(いんぎょうき)』には、火熱した斧を被疑者の掌(てのひら)の上に置きき、無事ならば無罪、火傷をしたら有罪とされたと記されている。

 更に、欽明
(きんめい)天皇の二十三年六月、皇后の馬の鞍を盗んだとされる男の容疑者が逮捕され、神判の拷問を受けた記録が記載してある。
 一言で「神判」は、神の裁きとされる審判であろうが、法刑上では事実上の拷問であり、神判は屡々
(しばしば)、拷問の形で混用されていたようだ。

 神判は神代記に登場し、「盟神探湯
(くがたち)」と呼ばれた。この文字の謂(いわ)れは、神の意志による怪我(くが)の有無の状態を検(み)て、裁判(たち)するという意味から出たもので、これを「くがたち」と云った。

 そして、時代が下がると、西暦645年の大化の改新以降、新政府が発足した後は、近江令
(おうみりょう)、天武令(てんむりょう)、大宝律令(たいほうりつりょう)、養老律令(ようりょうりつりょう)などの政令が発布(はっぷ)されて、犯罪者を罰する刑法はより明確になっていく。しかし、「令」としての制度の多くは、中国の唐の時代の律令を手本にしたものだった。そして、その後、これまでの上代での「盟神探湯」は姿を消すようになる。

 大宝律令で示された裁判制度は、拷問などにその特徴を観
(み)ることが出来、この時代の拷問は、「拷訊(ごうじん)」といって、容疑者や囚人を拷器に縛り付け、杖や棒で、背中と尻を叩く事であった。
 二十日ごとに三度に分け、二百回以上、打ちのめし、容疑の有無を糺
(ただ)す事であった。また、容疑者の罪が「鞭(むち)打ち」の刑などに相当する場合は、その罪相当分の限度内で鞭打ちが行われた。ただし、七十歳以上、十六歳未満はこうした拷問は行わず、廃疾者や僧尼は拷問をしなかった。また、妊婦も同じで、産後百日未満の者も、拷問は行われなかった。

 しかし、これらは律令政治の表向きの事であり、時代が下がるに遵
(したが)って、刑罰も過酷なものになって行き、大宝律令には記されていないが、水責め、火責め、石責めなども盛んに行われ、律令制の裏側で想像に絶する拷問が非公式に行われていたと推測できる。そして、拷問の最後には、命を奪われると言う「死」の局面が待ち構えていた。

 平安時代末期、牛若丸を匿
(かくま)ったとされる牛王姫(ごおう)は、捕らえられて過酷な拷問を受けている。姫を拷問した最初は、水責めであり、白状しなかったことで、次に湯責めに移り、更には鏃(やじり)責め【註】弓矢の矢じりを太股に突き立て、あるいは乳房を貫く拷問)で、最後は毒蛇責めで絶命に追い込まれた。
 また、牛若丸の母であった常磐御前
(ときわごぜん)は、平家の追手を逃れていたが、牛若丸は自分の母が平家に捕まり、生爪を剥(は)がされるなどの過酷な拷問を受けていると知ると、牛若丸は自ら名乗り出て、母を拷問から救ったと言う話が伝わっている。

 大化の改新から王朝期にかけて、当時の法定拷問は、後の江戸期以降に行われる多種多様の拷問ではなく、また、量的にもそれほど多くはなかった。
 鎌倉期や室町期にも、法による拷問は存在したが、大宝律令同様に種々の制約があり、当時のモラルとして、裁判を取り調べる奉行でありながら、容疑者を拷問にかけるのは恥だと云う考えがあり、鎌倉幕府の法では、重犯に対する拷問が禁じられていた。
 ただし、証拠固めの方法として、鎌倉期から室町期に掛けて、原始的な神判が復活したことは事実で、江戸期に入るまで「盟神探湯
(くがたち)」に似た「湯起請(ゆぎしょう)」という方法が用いられた。

 そして、近世に入るとキリスト教流入によって、拷問が著しく発達し、江戸時代の切支丹
(きりしたん)弾圧は、奇(く)しくも、キリスト教流入とともに激しさを増し、日本人に拷問や虐待の凄まじさが如何なるものかを教えたのは、西洋の考え方であった。
 十六世紀の戦国時代において、この時代には統一政権はなく、したがって政治体系は群雄割拠
(ぐんゆうかっきょ)という形で、各々の大名が、自国の大名領で独自の法律を持っていた。

 しかし、当時としても、各領地は、群雄割拠
の形をとりながら、一応共通点があった。この共通点は、「縁坐制(えんざせい)」というもので、罪人一人だけに罪を負わさるのではなく、親戚縁者にも連帯責任を負わせ、「見懲(みこら)し的」な厳罰を制度に取り入れていた。これは、一般人に対し、罪を犯す恐ろしさを思い知らせると同時に、一般予防主義が当時の基調となっていた。

 戦国時代、拷問が発達した経緯
(いきさつ)には、敵方の間者や忍者などを捕らえた時に、非常な手段がとられ、白状させる為に想像を絶する拷問が加えられた。したがって、忍者の世界に於ては、敵方に捕まれば、その場で直ちに自殺する方法を日頃から常識化させ、自らの顔を火薬で焼き潰し、人相を知られないようにして死んで行った。

 江戸期に入ると、徳川幕府は寛保二年
(1742)、「公事方御定書(くじがたおさだめがき)」という刑法典を制定した。諸藩の大名も、これに習って領地の刑法を編纂(へんさん)した。当時の幕府法や諸藩法にも、拷問の箇所があり、法定拷問に加えて、諸藩にも取調役人の判断で、許可が出れば、領内で様々な拷問をすることが許された。

 この場合、幕府法では証拠が出揃いながら、また、共犯者が白状したのに容疑者本人が白状しない場合に拷問が許され、これを行う場合は原則として重罪あるいは死刑に相当する場合に行われた。
 一方、証拠不充分であったり、軽い罪相当の場合は、拷問は行われなかった。しかし、こうした幕府法の原則が守られていたかは、実に疑わしいところがある。

 それはキリシタン婦女子に対しても、戒律上の問題が生じていたからだ。宗教者の信ずる信念と、一般罪人の犯罪に対する意識には、大きな隔たりがある。一般の犯罪者は刑罰を犯していると云う自覚があるが、切支丹
(きりしたん)はこの自覚がない。神の子としてのイエス・キリストを信じ、彼とともに、殉教も辞さない信念で厚い信仰を行っている。人間が信念により、信仰を持った場合、その決意は頑強になり、特に迫害されたり弾圧される宗教は、信者が厚き信仰を信念で押し通してしまう。

 当時の切死丹は、自分がキリスト者であることを誇りにさえ思い、改宗などの転向を強
(し)いる政策を打ち出したが、これに転ぶ事なく、最後までキリスト者としての信念を貫いた信者が多かった。こうした信念で、信仰を押し通す者が増えた場合、体制側にとっては非常な脅威となる。何が何でも、止めさせねばならなくなる。そこで弾圧に激しさが起る。

 特に、婦女子に至っては、この傾向が強く、信念も頑強となる。そこで幕府は、改宗できない彼女達を前に、「遊女にしてしまうぞ」とか、「公衆の面前で貞操を奪うぞ」などと、改宗を迫ったが、これで信心を曲げてしまう婦女子は少なかった。

 記録によれば、大衆の見ている大勢の前で、無宿者にキリシタン婦女子を強姦させたとある。このキリシタン婦女子の強姦は、バテレンの禁制と、一般大衆への見せしめの為の宣伝であったろうが、その本当の目的は西洋耶蘇教
(やそきょう)への威嚇(いかく)であり、徳川幕府は殉教までして、信仰の精神を貫く西洋の神への懼(おそ)れを抱いたのである。

 徳川幕府が、切死丹に対して行ったのは、最初は刑罰ではなかった。あくまで威嚇の意味を込めた、拷問であった。拷問により、改宗することを願った観がある。しかし、後世の歴史家によって、切死丹弾圧は拷問ではなく、処罰であるとの歴史的解釈が、拷問と刑罰を混同させ、切死丹弾圧は刑罰だと決めつけられてしまった。

 この証拠に、まだ、罪名が決定されても居ないのに、切死丹容疑者を自白させる目的で「踏絵」を踏ませ、死刑囚と同じ刑罰を科せたことである。
 本来拷問は、白状させる為に手段であり、刑罰ではない。ところが切死丹容疑者に限り、幕府は死刑囚と同じ末路を辿らせている。
 囚人に自白させる手段は、本来は拷問であるが、これは罪名が決まった囚人に科せれば、普通、同じ刑罰になるからである。一般囚人と同じ拷問を科せ、同じ方法で刑罰を科せた場合、もし、死刑囚ならば、死刑となったのである。

 当時の幕府法では、容疑者に拷問を科せる場合、特別な「拷問蔵」というものがあって、此処で行わなければならないようになっていたが、江戸期にはキリスト者が増加した為、この前の段階である、「牢問
(ろうもん)」というのがあって、此処で拷問蔵と同じ拷問が加えられていた。

 牢問は、取調場所である「吟味所」あるいは、「痛み付け」といわれる牢屋敷の砂利の上に容疑者を坐らせ、尋問したが、それだけでは事足らず、「石抱き責め」という独得な拷問が行われた。
 この「石抱き責め」の頂点に達したのが切死丹弾圧であり、この拷問は凄惨
(せいさん)を極めた。

 日本刑罰史を振り返ると、拷問と刑罰が最も凄惨
(せいさん)を極めるのは、「切死丹弾圧」に於てである。これは質や量を考慮してみても、最も凄まじく、家畜の虐待に劣らぬ程の凄惨さであった。
 日本に、はじめてキリスト教が伝来したのは、1549年の事で、織田信長の保護により、急速に信者が増え、最盛期には信徒20万人を数えた。
 しかし、豊臣秀吉が天下統一をすると、1587年には禁教令が発せられた。その後、切死丹は受難の歴史を送ることになる。

 更に、1637〜38年
(寛永14〜15)には、島原の乱が起り、天草および島原に起った百姓一揆が蜂起する。この一揆には、キリシタン教徒が多く、益田四郎時貞ますだ‐しろうときさだ/通称、天草四郎で知られる。1621〜1638)を首領とし、その徒2万数千が原城址に立て籠(こも)り、幕府の上使として派遣された板倉重昌いたくら‐しげまさ/江戸初期の三河深溝城主で、島原の乱に追討の将となったが鎮圧し得ず、援兵の派遣を恥じて戦死。1588〜1638)と激しい攻防戦が繰り広げられた。

 益田時貞は肥後天草の人で、小西行長の遺臣の子といわれた。キリシタン信徒の一揆に推されてその首領となり、幕府軍と戦った。しかし、幕軍に敗れ翌年討死する。ついで老中・松平信綱が九州諸大名を指揮して城を攻落せしめ、徳川幕府は、これにより日本を完全に平定することになる。同時に、切死丹の恐ろしさを思い知らされ、幕府は、国内の信徒根絶を目指して、凄惨な弾圧をキリスト者に始める。
 それは極めて厳しく、かつ巧妙を極めた。

 信徒を発見する方法に「踏絵」をいう方法がとられた。これは、わが国独特の方法であった。まず、切死丹としての信者は、信徒であるということが発覚すると、磔
(はりつけ)あるいは火炙(ひあぶり)などの極刑で散々脅かされ、強く改宗が迫られた。改宗した切死丹は、「ころびバテレン」として蔑(さげす)まれたが、改宗せずに殉教して行く信徒も多かった。
 日本では、切死丹に対する拷問と刑罰は、想像を絶するもので、日本刑法史上、最も残虐を極めた。

 さて、では何故、こうした残虐を極める自体が発生したのだろうか。
 日本刑法史を振り返ると、江戸期において、死刑、追放刑、奴隷刑、肉刑、自由刑、労務刑、財産刑の7種類の行刑は、キリスト教伝来とともに日本に入り込んだ外来刑であった。
 磔、獄門打ち首、火炙などは、本来日本には存在しなかったが、西洋が日本に入り込んで来ると、日本の刑法史には残虐なものが跡を残すことになる。

 ヨーロッパを震憾
(しんかん)させた魔女狩りは、キリスト教のヒステリー制の典型と言えるし、先の大戦における敗戦直後の東京裁判も、明らかにキリスト教国が、東洋の「黄色い猿」と云われた野蛮人を裁く、白人の偏見から起ったものであった。
 こうしたものを、辿って歴史を遡
(さかのぼ)ると、キリスト教には被害者の持つ復讐心が、その深層部で沸々と沸騰している事が分かる。

イエスの馘
ジェーン・グレイの処刑

 キリスト教では、十字架に架かったイエスの復活の奇蹟の手前上、どうしても転生を認めるわけには行かないのである。善対悪の構図は、悪は悪であり、悪魔は最後まで悪魔でしかなかったのである。悪が改心して、善とはならなかったのである。悪は地獄へ落ち、善は天国に導かれるという一元的な単純な法をもって、神と悪魔は、どこまでも対決する構図が崩せなかったのである。

 この単純な一元論の法に対し、中国では、人が悪の道に走るのは、天すなわち御政道
(ごせいどう)が乱れるからであって、御政道を正しく保つ為には、儒教の仁思想をもって、悪を善に導く恩赦制度の二元論を展開したのである。
 しかし、キリスト教には《予定説》で説かれている通り、善が悪に傾いたり、悪が善に傾く、人の心の揺らぎが認められていない。悪人になるのは、その者が悪を働くと予定されたからであって、悪を働くから悪人であり、また、善人は予定された通りに善を働き給うから善人とされているのである。



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