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理趣経的

密教房中術
 《理趣経的密教房中術》を揚げ、人間は何故、セックスをするのか、その根本原理にまで探究のメスを切り入れ、理趣経思想、密教的房中術思想、更には真言立川流のセックス観にまで及び、これを紹介している。

 
『理趣経』では、「愛欲は清らかなものである」説く。しかしこれまで日本に伝わった仏典の中には、「愛欲は汚らしく、煩悩を掻き回し、人間が墜落する元凶」と説いて来た。しかし、これに対し、『理趣経』は真っ向から異を唱え、果たして愛欲が、在来の仏教でいわれるように、汚らしいものなのか、その追求に迫ったのが般若理趣である。

 人間は、「如何に生きるべきか」ということは、当時に「如何に死すべきか」と教えるのが、密教である。そして、弘法大師・空海が
「顕蜜は人にあり」という言葉に注目したい。
 しかし
「五濁悪世」を唱えた、聖者のように振る舞った僧尼は、宇宙の大霊だとか、極楽だとかの巧妙な逃げ道を創作して、民衆を騙し、肉体は穢いものもだ、愛欲は穢いものもだと言って憚らず、本当の仏の姿を隠して来たのだ。

 『理趣経』は男女の愛を説く。男女から発生し合うエネルギを主体として、人間の裡側に秘められた「清らかな生命力」を目指す修法を解き明かしたのが『理趣経』である。また、それと合体した密教房中術は、真言立川流とともに
「夜の宗教」「大人の宗教」なのである。
 是非、夫婦揃ってご覧頂だければ、本当の夫婦和合と云う大事が理解できるであろう。


色の道独案内

 このコーナーは、是非、恐妻家に熟読してもらいたいコーナーである。
 世の中には、亭主が妻の尻に敷かれる。主人の座を失い、頭ごなしに罵倒
(ばとう)される。妻から愚痴(ぐち)を散々浴びる。妻の機嫌が悪い。あるいは妻の顔色を窺(うかが)いながら、馬車馬のように働き、それでいて何の感謝もされない。一生が働き蟻(あり)のようなものだ。こう考える亭主諸君は少なくなかろう。

 今日の世は、男女は同権で、然
(しか)も平等と言う。しかし恐妻家を抱える亭主にとって、同権も平等も存在していないことは明らかである。だが、ただただ妻の尻に敷かれ、機嫌取りをする一生であって良いのか。

 男には、眼の前に『魔法の如意棒
(にょいぼう)』がぶら下がっている。しかし、恐妻家は、自分に素晴らしい如意棒があることすら気付かない。
 男は女の、「上の口」と「下の口」を充分に満足させなければならない義務があるのだ。その義務を両方同時に履行
(りこう)できなければ、男としての値打はない。
 そして、恐妻家に成り下がる原因は、『魔法の如意棒』の使い方を知らないことから発生している。

 要するに、女の急所を知っているか、否かで決まるのだ。
 世間では、恐妻とか、気が強い女とか、じゃじゃ馬とか言うが、これこそ、全く男の責任であり、「交会
(こうえ)」の何たるかを知らないからだ。
 どんな女でも、男の『魔法の如意棒』で、一発、急所にお見舞いすれば、忽ちに本来の
『本当の女』に早変わりするのだ。それには、まず、亭主諸君が「女の本質」を知らなければならない。
 自分の女房すら、充分に満足させることができないから、女房は、どうしても恐妻への道を選択してしまうのである。

五色阿字
月輪円の中の阿字

 こうした愚行を、打開する為には「女を絶頂」にさせてやらなければならない。これができれば、如何なる恐妻でも、自分の亭主の価値を見直し、尊敬されること請け合いである。

 よく、世間での噂には、財界人や文化人には恐妻家が多いと言われているが、これは亭主たる男が、充分に自分の女房すら満足させることが出来ず、そのくせに、よそで妾
(めかけ)などを作るから、女房はどうしても恐妻になってしまうのである。要するに、この類(たぐい)の亭主群は「女を知らない」のである。

 また、男に備わる有り難い『魔法の如意棒』を、恐妻家の亭主諸君は、自分で自分の物を疎
(おろそ)かにしているのである。女房に頭が上がらないという亭主諸君は、女を知らないで毛でなく、自分の『魔法の如意棒』の使い方や、鍛え方を知らないのである。また、この如意棒は自分の有り難い“守護神さま”であることすら気付いていないのである。

 もともと神は自分の外に存在するのでなく、自分自身に存在しているのである。「自分の内にある」ということに気付かないから、その意味でこうした知らない亭主の女房族は、恐妻家への道を選択し、知らない亭主に対して、生涯抗議を続けて人生を送るのである。更に付け加えてれば、恐妻家の亭主諸君は、自分の『魔法の如意棒』が『粗チン』である。
 これは如意棒自体を鍛えれば、強く、大きく、逞しくなると言う、日々精進の努力を怠って来たからだ。鍛えなかったことこそ、責められるべきであり、亭主自身の怠慢に問題があったと言えよう。
 単に、ぶらさがっているだけでは何の意味も果たさないのである。

シヴァ半伽像

 夫婦和合とは、家庭円満とは、要するに亭主が日々精進の努力を怠らず「女を知っているか、否か」に掛かるのだ。
 如何なる恐妻であっても、房中術のテクニックに掛かれば、女は虚栄心や羞恥心を捨てて、忽
(たちまち)『本来の女性』の姿に戻るのである。
 もともと人間は、女の方が好色であるし、虚栄や羞恥のベールを外した女と言うものは、男が辟易
(へきえき)をするぐらい、実に積極的な生き物なのである。女と言う生き物は、全身が生殖器なのである。だから、ここの処を男は理解しなければならない。そこに、男女の愛情があり、真の人間の姿が、ここにあるのである。

 
『理趣経』では、「愛欲は清らかなものである」説く。しかしこれまで、日本に伝わった仏典の中には、「愛欲は汚らしく、煩悩(ぼんのう)を掻(か)き回し、人間が墜落する元凶」と説いて来た。こうした考え方に対し、『理趣経』は真っ向から異を唱え、果たして愛欲は、在来の仏教でいわれるように、汚らしいものなのか、その追求に迫ったのが般若理趣(はんにゃりしゅ)である。
 人間は、「如何に生きるべきか」ということは、当時に「如何に死すべきか」と教えるのが、密教である。そして、弘法大師・空海が「顕蜜は人にあり」という言葉に注目したい。

 一方、在来仏教は無意味な念仏を唱え、「この世は五濁悪世に穢
(けが)れ、人は愛欲があるから迷いが起り、この欲望を捨てない限り、人生に付き纏う迷いから抜け出す事は出来ない」と教えた。だが、その真意は正しかったか。もしこれが正しいとすれば、人間は死の瞬間に至るまで、欲望から抜け出せないことになる。
 しかし「五濁悪世」を唱えた、聖者のように振る舞った僧尼は、宇宙の大霊だとか、極楽だとかの巧妙な逃げ道を創作して、民衆を騙
(だま)し、肉体は穢いものもだ、愛欲は穢いものもだと言って憚らず、本当の仏の姿を隠して来たのだ。

 『理趣経』は男女の愛を説く。男女から発生し合うエネルギを主体として、人間の裡側に秘められた「清らかな生命力」を目指す修法を解き明かしたのが『理趣経』である。また、それと合体した密教房中術は、「夜の宗教」あるいは「大人の宗教」なのである。

 私たちは、一部の禁欲宗教によって、「性」は汚らしいものだ、煩悩
(ぼんのう)の最たるものだと教えられてきた。煩悩こそ、諸悪の根源だと教えられてきた。
 しかし、人間の尊厳を考える時、これは単に、汚らしく、煩悩の最たるものではない事に気付かされる。その証拠に
「煩悩即涅槃」と云う教えがある。

 むしろ、煩悩と云う言葉を隠れ簑
(みの)にして、そこで自宗の布教を図った狡猾(こうかつ)な宗教者こそ、こうした禁欲の煩悩に塗れ、「性が汚いもの、淫らなもの」ということを宣伝し、純朴な世間の人々を欺(あざむ)いたのではあるまいか。

 人類は、こうした禁欲宗教家たちが、流布して回った仮説が、正しかったとしたら、おそらく今日のような発展はなかったのではないか。
 むしろ「汚らしさ」「淫らさ」の中に、人間の生命としての躍進があり、もし、これを否定していたら、人類の歴史は疾
(と)うに途絶えていたであろう。

 また、愛欲が禁欲宗教家たちによって極端に歪
(ゆが)められたが、この最たるものが、反動として表面化したものが、「昨今の性の乱れ」だったのではあるまいか。
 人間界は現象界である為、一方に傾くと、リバウンド現象が起り、揺り戻しが掛かるのである。激しい禁欲が起れば、必ずその後、ふしだらな変化が起り、その変化により、世の中全体が崩壊に向かう道を辿るようになる。ローマ帝国は、そうして滅んだのではなかったか。

 現代人は歴史を見直す必要があるだろう。その歴史の中で、極端な禁欲生活がリバウンド現象を起こす事を読み取るべきである。その最たる崩壊現象が、昨今の性の氾濫と、間違ったアメリカ式の恋愛概念を持つ、性情報ではないか。

性愛とは、現代人が考える猥雑以上の、もっと清らかなものではなかったのか。(花鳥余情『吾妻源氏』より)

 私たち日本人は、アメリカの「自由恋愛」と云う性概念に長い間踊らされ続け、「現代人は早い時期からセックスをする事が正しい」と教え続けられてきた。これが進歩的な考え方であり、思春期から複数の異性と交わり、それを経験した後、その中からもっとも最良と思われる人生の伴侶(はんりょ)を探せと教えられて来た。
 しかし、この考え方は明らかに間違いであった事に気付く。昨今のアメリカの離婚率が50%以上と云う、数字から、自由恋愛の間違いが気付かされるのである。あるいはアメリカ流の押し付けがましい、性概念は元々この程度の「しろもの」であったのかも知れない。

 それに加えて、自由恋愛が齎した禍根がある。この禍根こそ、自由恋愛の元凶ではなかったか。こうして、昨今は女性の膣ガンが発症するばかりでなく、男性でも、陰茎ガンや睾丸ガンに罹
(かか)る、十代後半の若者が多く見られるようになった。そして、性交によって感染するエイズの猛威はいうまでもない。

 日本における性病の歴史は、いつも外国から齎されてきた。梅毒が日本に入り込んだのも西洋からであった。その後、外圧によって種々の感知し難い性病が齎された。そして、その背景に、思想的な工作によって持ち込まれるセックス解禁の猛威があった。

 こうした社会を畸形化
(きけいか)させる現象は、その根元に「性」に対する概念の欠如が横たわっているのではないか。これを無視して、如何わしい性情報に狂乱する現代人は決して少なくない。
 昨今の小・中・高等学校で教えられる、性教育は、実は性教育ではなく、物質的な人間の肉愛に対する事のみに終始する
「性器教育」ではないのか。
 ここに現代と云う時代の、愚かしい恥部がある。文明生活が進んでも、性に対する精神性は全く進どころか、退化の一途にある。

 現代人は、性情報の氾濫の中で、本当のエロチシズム
(eroticism)を見失ってしまった観が否めない。エロチシズムを「猥褻(わいざつ)」と看做(みな)したところに、そもそもの清らかな性概念を曇らせた元凶がある。今日、エロスから派生した性愛は、一体何処に消えてしまったのだろうか。
 また、「好色」を色情因縁として見下す禁欲宗教家は、今でも決して少なくない。しかし、「好色」こそ、美しさの形容ではなかったか。

 これを見失えば、猥雑な生き物が、人間であるというような、低次元のものに成り下がってしまう。
 本来、男女の性愛とは、『理趣経』が説くのように、もっと純粋で、もっと清らかなものではなかったのだろうか。

男天魔王と女天十一面観音

美女比初紫恋

●男女二根の世界
 男根・女根は尊い生きる証のシンボルである。自分の尊い性器を眺める事によって、また新しい人生が開ける事も然りである。自分の性器を眺める事は、自分の人生を見つめ直す事であるからだ。

 だが、享楽や快楽遊戯から無闇に精気を浪費する事は、自殺行為になるので絶対に慎まなければならない。
 
精禄を養うには、自らの体内に気としての形態の「玄気」を取り入れる事が肝腎であり、それは気力源であり、これは一種の性命エネルギー塊である。
 この気力によって培われた性命エネルギー塊は、
「天の気」「地の気」である精気と結ぶ役割があり、経絡の調律を行う役目を果たすのである。
 この状態に至った場合、その脳波は
α波であり、精禄の浪費的な精液放出に歯止めを掛ける役割がある。
 性力増強秘法、密教礼念秘法、歓喜体位秘法などを紹介し、男女から発生し合うエネルギーを主体として、人間に秘められた肉体的修法を公開する。

 仏教の伝来は、鎮護国家という名目で、日本に輸入された。特に王朝の装飾品的な形で取り扱われ、僧侶は国の庇護を受けて必要以上に優遇された。
 弘法大師は、こうした鼻持ちならない僧侶達に対し、「あらゆる然僧尼は頭を剃って欲を剃らず。衣を染めて心を染めず。仏の戒めを守る者は麒麟
(きりん)の角のように少なく、不法乱交行を働く者は龍の鱗(うろこ)よりも多い」と、次第に驕って、墜落して行く仏教指導者を嘆かれた。そして、人間の肉体の大事を忘れて、哲学的論理に耽ることは馬鹿げたことだと喝破(かっぱ)したのである。

夢のたまくら

 さて、人間の躰は実に複雑であるばかりでなく、かつ非常に精巧に出来ている。
 かの有名なバルザックが
19世紀前半のフランス社会を形作る多種多様な人間の気質を描出したフランスの小説家。1799〜1850)、その社会派小説の中で、披露する近代リアリズムは、まさに人間模様の中にその縮図があるのであるが、彼は女性を楽器に喩え、この音色を奏でるという思想は密教房中術にも通じるところがある。

 夫婦生活では、よく「相性
(あいしょう)」という言葉が用いられる。この「相性」という語源こそ「性」での「相」であり、世間では「性格」の事を指すようであるが、これは誤りである。夫婦は性格が同じ男女が、人生の伴侶(はんりょ)として互いに寄り添っているのではない。むしろ正反対の性格の者同士が寄り添い、お互いの欠点を補うとするのが本当の夫婦である。性格が同じであれば、やることなすこと同じであり、互いは自分を観ているようで実に不可解なものであろう。

 男女は性格が違うし、気質が違うからこそ互いの欠点が良く見え、それを助け合って補おうとするのである。たがらこそ、男女は結婚するのであって、結婚の最大の意味は夫婦生活にある。
 つまり結婚とは、互いの「性器の型」の交換であり、男女二根が異なっているからこそ、性的興奮を覚え、それを讃え合い、あるいは礼念して、男女は互いに尊厳しあうのである。ここにこそ、密教の説く本当の平等観があるのである。
 更に、
精禄を養うには、自らの体内に気としての形態の「玄気」を取り入れる事が肝腎であり、それは気力源であり、これは一種の性命エネルギー塊である。

 この状態に至った場合、その脳波は
α波であり、精禄の浪費的な精液放出に歯止めを掛ける役割がある。そして、人間の肉体の大事を忘れて、哲学的論理に耽ることは馬鹿げたことだと喝破したのである。
 「精」を司る肉体の本性は「性」であり、性力が、人間のあらゆる本能を支配しているのである。性力増強秘法、密教礼念秘法、歓喜体位秘法などを紹介し、男女から発生し合う数々の修法を公開する。

勝川春英『男女風俗図巻』(大英博物館蔵)




●性を貪る現象人間界

 
真言立川流には「ドクロ譚」なるものがある。
 この「ドクロ譚」の説くところは、「髑髏
(どくろ)本尊」について、文永三年(1270)に誓願房心定(せいがんぼうしんじょう)が著わしたとされる『受法用心集』に記され、これによると、「この秘法を修行して大悉地だいしっち/密教の修行によって成就した大いなる妙果)を得んと思わば、本尊を建立すべし。女人の吉相のことは、今注するに能(あた)わず。その御衣木みそぎ/仏像彫刻に用いられる木材のことで、檜・白檀(びやくだん)・栴檀(せんだん)・朴(ほお)の類を指す)というは髑髏なり」とある。

 誓願房心定は健保三年
(1216)に、現在の石川県豊原に生まれ、後年、円福寺心定上人と号した密教僧だった。
 真言立川流は「二根交会
(にこんこうえ)」を、“悟りの道”とするため、本来ならばその本尊を美女に求めるのであるが、本尊は皮肉にも「髑髏」である。したがって御衣木(みそぎ)も木材ではなく、人骨の髑髏(どくろ)なのである。

髑髏本尊

   髑髏秘法。これこそ真言立川流が説く、男女二根のエネルギーを主体とした人間に秘められた恐るべき魔力開発なのである。
 その意味で、真言立川流は、男女二根交会の「夜の宗教」なのである。

 真言立川流の教えは、仏道を念仏宗のように地獄観の陥れ、死の準備として諦めの精神を説くだけが宗教ではないと教える。自分の肉体を信仰せよと教えるのだ。

 
性のエネルギの飽くなき活用が見られ、世界の宗教の戒律には屡々(しばしば)こうした禁欲主義が漂っているのは、宗教的恍惚感の裡側(うちがわ)に性的エクスタシーがあり、それを昇華させる為に、厳しい戒律が設けられているとも言える。
 修行僧が、夢幻のうちに、観音菩薩と性交した話は『日本霊異記
(にほんりょういき)』などにも記され、一方、これに対し、第二の性エネルギーの利用法として、男女交合を通じて変成(へんせい)意識状態に自らを導く方法であり、この修法は屡々、呪術や魔術と結びついた。こうした歴史的背景の裏側に、真言立川流が興ったのである。

 そして、真言立川流の本尊建立は、まだまだ続きがあるのである。
 真言立川流は、男性原理と女性原理の結合を意味し、タントラ性魔術の実践が、万物の一体化を顕わすとしている。そのこは男性原理と女性連理が一体化した時に、生じる生命力が物質変成を成就する原動力になると説いている。

 大いなる物質変成を成就する為には、「王」と謂
(い)われる原理と、「王妃」と謂われる原理の「結婚」は必要であり、タントラの男性原理と、女性原理の結合は生命力を作り出す象徴的な意味合いを持っていた。これを象徴したものが、真言立川流では「ドクロ譚」であり、「ドクロ学」であった。



●恐妻家をつくる直接の原因は何か……男の甲斐性を知る

 
男の甲斐性と言われるものは、言い古された言葉だが、「女の、“上の口”“下の口”を満足させる」ことにある。
 “上の口”とは経済力であり、“下の口”は性力の有無を指す。そして念頭に置いておかねばならないことは、女と言う生き物は、少々貧乏であっても、本当に自分の良人が良き伴侶と心から傾倒している場合は、どんな事があっても、必ず蹤
(つ)いてくるものなのだ。
 女は、金や地位、年齢や容貌に、そんなに簡単に騙される生き物ではないのである。もし、それに迷わされる女が居たとするならば、それは間違いなく尻軽女である。

恐妻家から脱する勃起角の目安図。男根には第一膨張と第二膨張がある。また男根は、単に弱々しく勃起するだけでなく、その膨張は、第二膨張するのが、完全勃起であり、ここに至って女性を髪の毛の先まで痺れさせる事が出来るのである。

 人間は、運勢が下降線を辿っている時、“守護神さま”は力の抜けた状態になる。したがって、こうした“守護神さま”は、早朝に風呂場で冷水をぶっかけ、荒縄で叩き、ビンタを喰らわせて、シゴキ上げ、「活」を入れておく必要があるのである。この努力を怠らないものは、常に自信に満ち溢れ、運気が上向きとなる。

 そもそも男と言う生き物は、もともとが肉体労働に耐えられるように出来ている。体力仕事は、女より男の方が得意であり、このいみで男と女は平等ではない。つまり、肉体労働に耐えられる男の躰は、交会の修法において、その修行の如何では、立派な精力絶倫男になる事が出来るのである。男根も肉体の一部であるから、鍛えれば鍛える程、強く、逞
(たくま)しく、太く、大きくなり、自分自身の“守護神さま”を鍛えて行く人生に「男の自信」という物が備わって来るのである。

 また「男の自信」は、わが女房が閉経まで、男は性力絶倫でありたいという事である。男にこうした自信があれば、当然、運気も勢いを増す。また、女房もそれに応えて、良き伴侶として付き随
(したが)おう。
 当然、夫婦間の会話の中からは、愚痴が消える。何事も、「はい」と言う返事が女房から返って来る。こうして夫婦関係は健全となる。
(本文より)

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