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各セクションのご案内


心法・統覚の法
●搖れる心
 人間の心は揺れ動くものである。この心をコントロールする事が人生御課題である。
 人間の心は揺れ動くものである。この心をコントロールする事が人生御課題である。

 人間は、心の遣い方如何で如何様にも変化する。自分の心を自在に遣う事を
「心法」という。また心法を用いて、自らに覚醒を覚える術を「統覚法」という。ここでは「心法」「統覚法」の概念を紹介し、修行者の参考書としてこれを紹介。
 また固定観念と先入観で汚染された現代人は
「忘術」が必要であると説く。間違って記憶されたものは一旦消去してしまう必要がある。

 人間は、自分の眼や耳や鼻や舌や肌を、「もっと享楽に溺れさせよう」として、これまで正常に働いていた思考力を段々退化させて行くことになる。感覚や快感を貪るようになるのだ。また、その満足の為に、人生を費やしている人も少なくない。欲望の奴隸となり、黄金の奴隸と成り下がる。

 あるいは現代社会は、生に固執する西洋科学万能主義が展開されている為、死を恐怖するものへと押しやってしまった。死の恐怖に唆され、「生きる為に、あれも欲しい。これも欲しい」という奔走へと傾き、結局死ぬまで、苦しみや悩みの元を断ち切れずにいる。そして多くの人々は妄執に固執する人生を選択している。感情を波立たせ、正しい思考力は働かなくなってしまった現代社会は、心を律する自己強化法を試みなければならない。
 不安の現代に、自己の人生を生きる道を手探りで模索しなければならない時代に突入している。

 人間が生きると言うことは、「ただ一つのこと」を自分で選択しなければならない。選択には「思い切り」がいる。確固たる決断がいる。思いきることによって、決断を下すに能
(あた)って、心を律する法を紹介している。

倶利迦羅を配した破魔の御信刀

●寂寥
 苦しみや不幸と言うのは、「悲しみ」と同義語であり、悲しみは、「淋しさ」と同義語であって、これを「寂寥(せきりょう)」とも言う。

 寂寥とは、「ものさびしいさま」あるいは「ひっそりしているさま」を指す。更に、これが物事にふれて心が動けば「寂寥感」というものになる。思いが起り、心はこの中に閉じ込められる。

 喩
(たと)えば、淋しさに閉じ込められて暮らしている人が居たとしよう。この時、多くは、この淋しさを決して有り難いとは思わないだろう。苦しみと感じるであろう。
 しかし、淋しい時には、「淋しい」と感じるのが真実の実感なのである。

 また、人間が過去世
(かこぜ)から因縁と言うものを背負い込んでいる。
 例えば、因縁は悪い時に悪い事が重なると言う性質を持っている。こういう悪い時に、悪い事が重なって、損に引っ掛かった上に、更に何かを失うと言う出来事が起る。しかし、こうりた時に引っ掛かるのは、「抜ける術」を知らないからである。つまり、運命から抜け出し、その陰陽の支配から外れる術である。

 一般に、運命は左右できないと安易に信じられている。運命学者は、運命の陰陽の支配を抜け出せないと強調する。しかし、決着や勝負を左右することができないだけであって、抜け出すことは可能である。勝にせよ、負けるにせよ、抜けだせることはできる。運命の支配から左右されずに抜けだせることはできる。

 しかし、運命は逃げるべきものでない。それを迎えて、自分の決まった仕事を果たして行くだけである。損をしたら、損をしたままで放って置けば済む事である。損にこだわる必要はない。こだわれば、これが次の因縁を作るからだ。
 とれは丁度、貧乏が嫌だからといって、逃げ回っていても、貧乏は離れないのと同じである。貧乏から逃げ出そうとするから、貧乏をいつまでも背負っていなければならないのである。

 だが、逃げ回る考え方は賢明ではない。反対に貧乏の中に飛び込んでいって、我が身をそこに落とせばいい。貧乏から逃げれば、貧乏と私は二つになるが、飛び込めば、貧乏と私は一体になる。貧乏と一体になれば、もはや貧乏など何処にも存在しない。逃げる事が非常にまずいのである。逃げ回っている間は、貧乏に心が囚
(とら)われ、全生涯を、貧乏から逃げ回る為に、我が人生のエネルギーを使わねばならなくなる。それでは、自分の全生涯を喪(うしな)ったも同じではないか。(本文より)



●脳の内側にある二つの内観宇宙観
 多くの人が宇宙を考える時、宇宙というものは無限であり、無界(むげん)の永遠の彼方に繋(つな)がる無限界自然を想像するようである。
 無限宇宙の形態を想像し、それが果てしなく続いていると考えてしまうのである。しかし宇宙は無限の様相を呈していない。無限に近い、巨大なものであるが、その形態が遥か彼方の無限に連続するものではない。

COBEがとらえた宇宙初期のゆらぎ。

 では何故、宇宙は無界ではならないのか?
 また、このような問いに応えられる人は、殆どいないようだ。ただ、漠然
(ばくぜん)と無限宇宙を想像し、それが果てしなく連続しているというふうに考えてしまう。しかしこれは、単に感傷的な、あるいは情緒的に、暗い固定観念からそう思い込んでいるに過ぎない。

 宇宙が物理的現象の実在として存在するならば、これは絶対に有限でなければならない。宇宙すら、無から有が生まれるように、生まれて来たからである。
 したがって、物理的実在が無限である筈
(はず)はない。初めがあり、終わりがあるのだ。そんな事が誰にも想像がつく筈であるが、それにも関わらず、やはり無限だと信じてしまう。あるいは遥か彼方に、繋(つな)がる無限を想像してしまう。
 それは何故か。
 これは頭の中で、あるいは自意識の中で無限の宇宙が反映されているからである。

 この固定観念は日常的状態を脱しえず、それは丁度、輪廻
(りんね)の輪の中に引き戻される、あれに似ているのである。しかし、これを解脱(げだつ)する事に成功すると、今までの日常的状態から抜け出せて、非日常的状態に至る事が出来る。

 この非日常的状態は、武術を志す実践者にとって、あるいは修行者として「行
(ぎょう)」を志す者にとって、必要不可欠な要素であり、旧態依然の日常観からは、一等上の「非情」を感得出来るからである。喜怒哀楽の情に振り回されていては、非日常は生きられないことになる。非日常が分からずして、非常事態の危急は会得できない。これでは、何一つ進歩が望めないからだ。したがって、非日常的な具現が必要となる。

 非日常的状態とは、一種の変性的意識状態であり、端的に言えば「悟り」である。
 悟りの要素は、「気付く事」であり、「感じる事」であり、自分の観念に於いて気付き、感じたことを体感し、同時に感得する基
(もと)である。この場合においてのみ、自分と宇宙との一体感を知覚するのである。

 「宇宙は一点に回帰する」
 これは宇宙観的な集束論である。一点に巡り、そこに集約されることは、宇宙が殉難し、その中心は「一つである」と言うことを物語っている。これを左右分離した別々の脳で観
(み)た場合、左右は各々別々に異なる宇宙が映っている事になる。ところが一点に回帰する以上、別々に見える宇宙への意識は、左右別々のようであって、実は一点に回帰される事が分かる。
(本文より)

この項目は会員制で、詳細は入会案内をご覧下さい。



竜造寺丹羽

軍服の絵の世界
●哀惜の念を込めて
農村へ勤労奉仕に駆り出された女子挺身隊

 戦争画家・竜造寺丹羽がおくる「哀惜の念」を込めて、再び戦争とは何かを、現代人は考え直す時期が来ている。
 例をあげれば、「戦争は悪い」それゆえ、軍国主義反対の感情論が、接待正義として君臨した時代があった。しかし、この考え方は、感情論で、何一つ歴史的教訓を顧みることはなかった。
 そして此処に描かれたのは、否応なく戦場に駆り出された女性達の姿である。女性も、男に混じった戦った戦場での姿を描いている。

 竜造寺氏は
「戦争とは何か」を常に自問し、戦争画の中に、多くの女性を描いた。それは奇しくも、大戦末期の日本の敗戦が濃厚になった頃、祖国防衛の為に軍服を着て戦った女性達の姿である。そして、この絵の中には平和の願いが込められている。

 一方、「軍服とは」「女性とは」というテーマを掲げ、
「平和」「哀悼」の念が、一枚一枚の絵の中に思いが込められている。竜造寺氏は、半世紀以上も前の、もともと非戦闘員であった女性達が祖国防衛に対して武器をとりアメリカ軍と戦わねばならなかった戦闘の中に、一種独特の哀愁を見て取り、それを絵にしたのである。
 それはまさに女性の中にしか見ることの出来ない、不思議な軍服の絵の世界である。だからこそ、同じ絵を、いつまで見ても飽きさせない、一種独特の不思議な哀愁を観じるのである。
戦時とは非常事態を指し、非日常的な現実が、突如、我が身を襲うことである。

 竜造寺氏は、半世紀以上も前の、もともと非戦闘員であった女性達が祖国防衛に対して武器をとりアメリカ軍と戦わねばならなかった戦闘の中に、一種独特の哀愁を見て取り、それを絵にしたのである。
 そしてこの哀愁が、いつまで見続けても飽きさせない絵にしているのではある。それはまさに女性の中にしか見ることの出来ない、不思議な軍服の絵の世界である。

 読者諸氏は太平洋戦争末期の昭和19年7月7日、サイパン島での悲劇を知っているだろうか。この日、歴史上でも稀
(まれ)な悲劇が起った。
 サイパン島北東部のマッピ岬には、当時約四千名の邦人女性や子供らが、上陸して来たアメリカ軍から追い詰められ、この岬の崖淵に終結していた。
 そしてここで多くの人は、東条英機が発した『戦陣訓』
【註】この『戦陣訓』は、東条英機が今村均中将に命令して作らせた捕虜になる事を戒めた訓書)の言葉通りに、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けることなかれ」を実行したのであった。

サイパン島での日本女性達の身投げ。島の崖淵から身を投げる日本女性。昭和19年7月7日、サイパン島はアメリカ軍の猛攻によって完全に攻略された。そして、アメリカ軍攻略後も居残っていた一般市民の非戦闘員達だった婦女子達はサイパン島東北部のマッピ岬に追い詰められ、岬の断崖絶壁から次々に身を投げた。

 母親たちは、泣叫ぶ我が子を抱いて、崖淵から海へ飛び降り、娘たちは車座になり、お互に別れの言葉を告げた後、手榴弾(しゅりゅうだん)をその輪の中で爆発させて死んでいった。

 アメリカ軍はこうした日本女性の死に対して、マイクで投降
(とうこう)を薦(すす)めたが、この投降に、誰一人耳を傾けるものはいなかった。片言(かたこと)の日本語で、投降を薦めるマイクの声は、風に吹き流されて消えていくばかりだった。

 そして、アメリカ軍兵士がもっとも恐怖を感じたのは、次々に自決を決行する、日本人女性が、誰一人として悲鳴等の、声を出さず、笑顔でお互に訣
(わか)れの言葉を告げて、次から次へと我が身を崖淵の上から投げ、死んでいったのであった。何と哀れで、悲惨な人間の死に方ではないか。

 時の日本政府・東条内閣と、大本営陸海軍部は、サイパン島でのこうした悲惨な出来事を一切公表しなかったが、一部の人は、アメリカの放送でサイパンの悲劇を知っていたのである。やがて東条内閣は、この事件で失脚を余儀無くされる。

 とにかく、この時、極めて悲惨だったのは武装した戦闘員よりも、アメリカ軍攻略後も居残っていた一般市民の非戦闘員達だった。男達の多くは陸海軍の兵士と共に戦って「万歳攻撃」で死んでいたが、女性や子供達は、サイパン島東北部のマッピ岬に追い詰められたのだった。
 当時の日本人には、東条英機の『戦陣訓』が重くのしかかっていたのである。「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」の言葉通り、多くの婦女子は、自らの命を、身を投げることによって断ったのだった。

 太平洋戦争末期、多くの日本国民は悲惨な死に方を余儀なくされていた。それは東条英機が強要した『戦陣訓』が生きていたからである。東条英機が発した『戦陣訓』【註】この『戦陣訓』は、東条英機が今村均中将に命令して作らせた捕虜になる事を戒めた訓書)には、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けることなかれ」とある。
 大戦末期、女子にも戦闘員としての召集が掛かり、殆どの女子が「特志」
【註】「特志」とは、特別志望者の意味であるが、これは半ば強制的に強要された)の名目で戦闘員を強要され、陸軍には陸軍女子通信隊が組織され、海軍には特志女子学生特別陸戦隊などが組織された。また、愛国婦人会等があり、外地で勇戦を馳せたのは有名であり、これ等の女子部隊は小銃を持ち、機銃掃射を行い、最後の一兵まで組織抵抗を行った。
 そして、激しい組織抵抗が強いられ、追い詰められた最後の最後には、自決を余儀無くされたのだった。彼女達は、お互いの名前を呼び合い「さようなら」の言葉を云い遺して、次々に死んで行った。

華北鉄道警備婦人警察官
赤十字思想誕生百年切手
水盃で戦場へ

●竜造寺丹羽の世界
 昭和二十年八月の、恐ろしいほど異常に暑かったあの夏の日、そこには確かに本土決戦を計画して、陸海軍の決戦主張派の高級軍人達が、何等かの動きを企てて策動していた。日本の一番長い日とも喩(たと)えられる。戦争遂行か、あるいはポツダム宣言受諾かで、軍首脳部は真っ二つに割れ、大きく揺らいでいた。
 しかし敗戦の色が濃いくなると、決戦決勝の意識が一層強くなり、陸海軍の戦争遂行の強硬派は、男達に代わって、あらゆる部門に女性を皆働する状況を作り、今まで非戦闘員だった女性達を即席兵士に仕立て上げ、本土決戦を想定して、炎天下の太陽の下、彼女らに過酷な訓練を課せていた。

 長い間、軍事史家の認識不足によって、旧陸海軍の中には、女性兵士は存在しないと信じられていた。ところが、これまで非戦闘員だった17歳から25歳までの女性が兵士として、本土決戦要員として駆り出された、もう一つの戦争の裏側の歴史がある。
 昭和二十年六月以降、女性達に密かに軍服を着せ、隠密裡
(ひみつり)に武装させる手段が取られた。これは本土決戦を、ミニチュアモデルとして戦った沖縄戦の結果からであった。当時、アメリカ軍は、日本人の婦女子に対しても、非戦闘員と認めず、ゲリラとして判断し、無差別に虐殺したからである。(本文より)



●あの戦時下、逃げ回った非戦闘員の命は微生物視されたのか
 太平洋戦争末期、アメリカ軍の空襲が激化し、日本本土にも、中国大陸や日本近海の航空母艦ホーネットから飛び立った、米陸海軍のB17をはじめB29や、戦闘機のロッキードP38やグラマンF4Fまでが襲撃の為に飛来した。日本国内は逃げ惑う人々で騒然(そうぜん)となり、都会から田舎へと疎開(そかい)が始まった。

空襲下の東京市民(鈴木誠/画)

 しかし一方、自治に携(たずさ)わるひと握りの、兵役を免れた官吏(かんり)と、勤労奉仕に狩り出され、強制労働を強いられた若年の勤労学生の男女だけが都会に残され、後はその殆どが集団的に疎開をして行った。

 太平洋戦争末期の昭和20年
(1945)3月10日、アメリカ陸軍重爆撃機隊所屬のB29(Boeing B-29 Superfortress超空の要塞の意味で、ボーイング社製の米陸軍大型超長距離重爆撃機。自重は47,500kg。爆弾搭載量9屯)爆撃機344機が、東京下町を襲った。世に言う東京大空襲である。
 東京への夜間の焼夷弾
(しょういだん)爆撃であり、死者約10万人以上、焼失戸数約27万戸、下町地域を中心に全都の約40%に当たる40平方キロメートルが焦土と化した。

 グアム、サイパン、テニアンの各々の基地から飛び立った344機のB29は、上空で大集団を作り、一万メートルの高高度で大編隊を組んだ。そして機内の腹には、二千トン以上に及ぶ膨大な数の焼夷弾を抱え込んでいた。十数万発に及ぶ2.8kg焼夷弾とM69油脂焼夷弾
(通称「モロトフの花束」と言われるもので、6ポンド爆弾を38個束にしたもの。B29一機で5000発以上もばらまいたと言われる。通称500ポンド親子爆弾と言われる)を東京上空下で雨霰と降らせ、10万人もの非戦闘員を焼き殺す為に一路東京へと向かったのである。

 当時のアメリカの政治政策とアメリカ軍首脳は、二千五百万人の日本人を焼き殺す為に「オリンピック作戦
(tactics-olympic)」や「コロネット作戦(tactics-coronet)」を計画し、無差別大量殺戮を展開中であった。そして昭和20年3月10日の東京大空襲は、日本人皆殺しの、ほんの手始めの序曲に過ぎなかった。これを手始めとして、大阪、名古屋、川崎、横浜、下関、呉、広島、神戸、長崎、佐世保、横須賀、新潟、八幡、戸畑、小倉、福岡と続き、最後の止めは広島・長崎の原子爆弾投下であった。

 昭和20年3月10日、東京湾上を北に向かって超低空で侵入し、当時の東京府に侵入して来たB29の大編隊は、日本人の「戦意の喪失」という名目で、焼夷弾の絨毯
(じゅうたん)爆撃の雨を降らした。それは專(もっぱ)ら、軍需工場などを攻撃目標にするのではなく、非戦闘員の殺傷を目的にした鏖殺(みなごろ)しの無差別攻撃だった。
 攻撃部隊の攻撃目標は、東京下町地域への非戦闘員をターゲットにした庶民層の大殺戮であった。しかし攻撃隊の報告書は、『米国陸軍航空部隊史』には「日本の兵器産業を含む大企業が支配する軍事工場地域」が目標だったと書かれている。

 当時の日本の家屋を考えると、その材料の殆どは、概ねが木材であり、竹と漆喰で作られた町並みであり、もしこれに発火性の強い、M69油脂焼夷弾を降らせれば、当然大火災が発生することは眼に見えていた。
 また、当時の東京府の人口密度は単純計算によっても、15.8平方マイルに160万人が棲
(す)んでいることになる。これを八割方焼き尽くせば、被災者は100万人以上となり、東京大空襲は戦略爆撃上、最初から緻密(ちみつ)な計算で練られた、合理的かつ科学的な「鏖殺(みなごろ)し無差別襲撃」であったと言えよう。

B29の空襲は、非戦闘員までもを含めた「鏖殺しの無差別攻撃」だった。

 アメリカ側の報告によれば、「兵器産業への攻撃」と称しているが、実は最初から日本人の「戦意の喪失」を狙った、非戦闘員の民間人への無差別絨毯爆撃攻撃であったことは明白だ。つまり「攻撃はなかった」とする、アメリカ側の発表は、確かに昭和20年3月10日に、東京大空襲があり、決行されたのである。
 そしてこれは、東京下町地域を狙った非戦闘員の大量殺戮であった。これまで歴史上に、こんな悲惨極まる人殺しがあっただろうか。南京大虐殺の中国側が自称する30万人
【註】当時の南京攻略が行われた時、南京市民と中華民国政府軍を合わせて、その人口は5万人弱。一体被害者30万は何処から弾き出されちゃ数字だろうか)を、70万人も上廻る惨たらしい殺戮ではないか。

 アメリカ白人の意識に、日本人はジャップ
Japanese /日本人を卑しめて呼ぶ語)のイメージしかない。何しろ相手は、ハワイ・オアフ島南岸のアメリカ海軍根拠地を卑怯な騙し討ちで、真珠湾攻撃(1941年12月7日。日本では8日未明)を仕掛けたジャップなのだ。
 当時のアメリカ人にとって、日本人は人間でなかった。単なる「黄色い猿」だった。焼夷弾攻撃による非戦闘員の鏖殺しも、単に畑に殺虫剤を空中散布するそれだけの気軽なものだった。

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