●竜造寺丹羽の世界
昭和二十年八月の、恐ろしいほど異常に暑かったあの夏の日、そこには確かに本土決戦を計画して、陸海軍の決戦主張派の高級軍人達が、何等かの動きを企てて策動していた。日本の一番長い日とも喩(たと)えられる。戦争遂行か、あるいはポツダム宣言受諾かで、軍首脳部は真っ二つに割れ、大きく揺らいでいた。
しかし敗戦の色が濃いくなると、決戦決勝の意識が一層強くなり、陸海軍の戦争遂行の強硬派は、男達に代わって、あらゆる部門に女性を皆働する状況を作り、今まで非戦闘員だった女性達を即席兵士に仕立て上げ、本土決戦を想定して、炎天下の太陽の下、彼女らに過酷な訓練を課せていた。
長い間、軍事史家の認識不足によって、旧陸海軍の中には、女性兵士は存在しないと信じられていた。ところが、これまで非戦闘員だった17歳から25歳までの女性が兵士として、本土決戦要員として駆り出された、もう一つの戦争の裏側の歴史がある。
昭和二十年六月以降、女性達に密かに軍服を着せ、隠密裡(ひみつり)に武装させる手段が取られた。これは本土決戦を、ミニチュアモデルとして戦った沖縄戦の結果からであった。当時、アメリカ軍は、日本人の婦女子に対しても、非戦闘員と認めず、ゲリラとして判断し、無差別に虐殺したからである。(本文より)
●あの戦時下、逃げ回った非戦闘員の命は微生物視されたのか
太平洋戦争末期、アメリカ軍の空襲が激化し、日本本土にも、中国大陸や日本近海の航空母艦ホーネットから飛び立った、米陸海軍のB17をはじめB29や、戦闘機のロッキードP38やグラマンF4Fまでが襲撃の為に飛来した。日本国内は逃げ惑う人々で騒然(そうぜん)となり、都会から田舎へと疎開(そかい)が始まった。
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▲空襲下の東京市民(鈴木誠/画)
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しかし一方、自治に携(たずさ)わるひと握りの、兵役を免れた官吏(かんり)と、勤労奉仕に狩り出され、強制労働を強いられた若年の勤労学生の男女だけが都会に残され、後はその殆どが集団的に疎開をして行った。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月10日、アメリカ陸軍重爆撃機隊所屬のB29(Boeing B-29 Superfortress超空の要塞の意味で、ボーイング社製の米陸軍大型超長距離重爆撃機。自重は47,500kg。爆弾搭載量9屯)爆撃機344機が、東京下町を襲った。世に言う東京大空襲である。
東京への夜間の焼夷弾(しょういだん)爆撃であり、死者約10万人以上、焼失戸数約27万戸、下町地域を中心に全都の約40%に当たる40平方キロメートルが焦土と化した。
グアム、サイパン、テニアンの各々の基地から飛び立った344機のB29は、上空で大集団を作り、一万メートルの高高度で大編隊を組んだ。そして機内の腹には、二千トン以上に及ぶ膨大な数の焼夷弾を抱え込んでいた。十数万発に及ぶ2.8kg焼夷弾とM69油脂焼夷弾(通称「モロトフの花束」と言われるもので、6ポンド爆弾を38個束にしたもの。B29一機で5000発以上もばらまいたと言われる。通称500ポンド親子爆弾と言われる)を東京上空下で雨霰と降らせ、10万人もの非戦闘員を焼き殺す為に一路東京へと向かったのである。
当時のアメリカの政治政策とアメリカ軍首脳は、二千五百万人の日本人を焼き殺す為に「オリンピック作戦(tactics-olympic)」や「コロネット作戦(tactics-coronet)」を計画し、無差別大量殺戮を展開中であった。そして昭和20年3月10日の東京大空襲は、日本人皆殺しの、ほんの手始めの序曲に過ぎなかった。これを手始めとして、大阪、名古屋、川崎、横浜、下関、呉、広島、神戸、長崎、佐世保、横須賀、新潟、八幡、戸畑、小倉、福岡と続き、最後の止めは広島・長崎の原子爆弾投下であった。
昭和20年3月10日、東京湾上を北に向かって超低空で侵入し、当時の東京府に侵入して来たB29の大編隊は、日本人の「戦意の喪失」という名目で、焼夷弾の絨毯(じゅうたん)爆撃の雨を降らした。それは專(もっぱ)ら、軍需工場などを攻撃目標にするのではなく、非戦闘員の殺傷を目的にした鏖殺(みなごろ)しの無差別攻撃だった。
攻撃部隊の攻撃目標は、東京下町地域への非戦闘員をターゲットにした庶民層の大殺戮であった。しかし攻撃隊の報告書は、『米国陸軍航空部隊史』には「日本の兵器産業を含む大企業が支配する軍事工場地域」が目標だったと書かれている。
当時の日本の家屋を考えると、その材料の殆どは、概ねが木材であり、竹と漆喰で作られた町並みであり、もしこれに発火性の強い、M69油脂焼夷弾を降らせれば、当然大火災が発生することは眼に見えていた。
また、当時の東京府の人口密度は単純計算によっても、15.8平方マイルに160万人が棲(す)んでいることになる。これを八割方焼き尽くせば、被災者は100万人以上となり、東京大空襲は戦略爆撃上、最初から緻密(ちみつ)な計算で練られた、合理的かつ科学的な「鏖殺(みなごろ)し無差別襲撃」であったと言えよう。
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| ▲B29の空襲は、非戦闘員までもを含めた「鏖殺しの無差別攻撃」だった。 |
アメリカ側の報告によれば、「兵器産業への攻撃」と称しているが、実は最初から日本人の「戦意の喪失」を狙った、非戦闘員の民間人への無差別絨毯爆撃攻撃であったことは明白だ。つまり「攻撃はなかった」とする、アメリカ側の発表は、確かに昭和20年3月10日に、東京大空襲があり、決行されたのである。
そしてこれは、東京下町地域を狙った非戦闘員の大量殺戮であった。これまで歴史上に、こんな悲惨極まる人殺しがあっただろうか。南京大虐殺の中国側が自称する30万人(【註】当時の南京攻略が行われた時、南京市民と中華民国政府軍を合わせて、その人口は5万人弱。一体被害者30万は何処から弾き出されちゃ数字だろうか)を、70万人も上廻る惨たらしい殺戮ではないか。
アメリカ白人の意識に、日本人はジャップ(Japanese /日本人を卑しめて呼ぶ語)のイメージしかない。何しろ相手は、ハワイ・オアフ島南岸のアメリカ海軍根拠地を卑怯な騙し討ちで、真珠湾攻撃(1941年12月7日。日本では8日未明)を仕掛けたジャップなのだ。
当時のアメリカ人にとって、日本人は人間でなかった。単なる「黄色い猿」だった。焼夷弾攻撃による非戦闘員の鏖殺しも、単に畑に殺虫剤を空中散布するそれだけの気軽なものだった。
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