運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
セクション案内 1
セクション案内 2
セクション案内 3
セクション案内 4
セクション案内 5
セクション案内 6
セクション案内 7
セクション案内 8
home > はじめに > セクション案内 7
セクション案内 7

ようこそdaitouryu.netへ 7



各セクションのご案内


現代サバイバル術
●緊急時に、どのような対策をするか
 現代という時代は、何もかもが豊かである。物質に限り、欲しい物は金銭さえ出せば、何でも手に入れる事ができる。深夜でさえも、欲しいと思えば、それを満足させる品物が揃っている。食料品は云うの及ばず、日用雑貨まで直ぐに手に入り、日常生活を営む上では、何の支障もない。
 しかし、これはあくまでも「日常」という条件に限りの事である。一度
(ひとたび)「非日常」へと変化すると、この一見常識と思われていた、日常生活は大いに混乱し、狂わされる。

 元々、現世と言う世の中は、何が起こるか解らない。誰も予測する事ができない。災難は突然に遣
(や)って来て、一寸先は闇(やみ)である。突然の大地震。台風や洪水や山崩れなどの自然災害。あるは有事による外国の軍隊の進入。
 こうした
「非日常」に転化した時、これまで通常通り営業されていた店舗は機能しなくなる。機能しなくなるばかりでなく、もう「非日常」では、店舗にも食料品や日常品が入荷できなくなり、売りたくても売る品物がなく、また買いたくても買う品物がない。これにより、住民はパニック状態に陥るだろう。

 あるいは情報過多で、事実がぼやけて来る。何者かが囁き、そして事実無根のデマが飛ぶ。それに撹乱され、惑わされれば、自分自身を護ることも危ぶまれよう。そこで智慧を集積した現代流の、時代に則した
「サバイバル術」が必要になる。

 都市災害と言うものは、非常に恐ろしいものである。特に、「大都会」という都市は、一旦
「非日常」に転ずると、予測のつかない大惨事が起る。安全である筈の機能が、一切機能しなくなる。
 大都会にはビルが立ち並び、その一切の機能を電力が賄
(まかな)い、コンピュータによって制御されている。こんな場所で、大地震が起ったら、あるいは高層ビルで大火災が起ったら、現代人はどのように対処できるのか。機能が停止した暗黒の中で、どう生き残る事が出来るのか。

 人間は死ぬ為に生きている。生まれながらに死が約束されている。だが、人の死は、その死に方が問題になる。死の瞬間、臨終の瞬間、その人がどういう状態にあるかが問題になる。
 大交通事故に巻き込まれ、想像を絶する死に方であれば、その「臨終の瞬間も、想像を絶するような断末魔
(だんまつま)であろう。また、大地震に巻き込まれ、建物等に押し潰されて死んで行くのも、また断末魔に違いない。あるいは大火災に巻き込まれ、業火(ごうか)に焼かれて死ぬのも、酌熱(しゃくねつ)地獄なみの、想像に絶する断末魔であろう。

 更に、他に忘れてならない事柄がある。日本は、外国に比べ、不安定な土地の上に生活基盤を築いている。多くの日本人は、日頃気付いていないが、日本列島と言う国は、南北に長く、同時にこの長い日本列島は
「火山列島」でもある。良好な温泉地が多いと言うのも、実は日本が火山列島であるからだ。
 あなたは、この日本列島について、どれだけのことを知っているであろうか。

 わが国は、アジアの東北部の海上に浮ぶ小さな島国である。その面積は、約37万平方キロメートルで、フィリピンより広いが、タイに比べればかなり狭く、イタリアより広いが、しかしフランスの3分の2程度しかない。そして、アメリカ・カルフォルニア州よりもやや狭く、オーストラリアの23分の1程度の小さな島国である。
 この狭い島国の上に、日本人一億二千万余りが生活をしているという事である。

 島国の為、良港には恵まれているが、耕作可能面積は僅かに全体の16%しかない。したがって自給自足は不可能であり、「経済大国」という経済的な優位を以て、外国からあらゆる物資の輸入に頼っている。もし、この輸入が停止されれば、日本人の日常生活は、パニックに陥るだろう。その上に大異変や自然災害が起れば、この
「非日常」はまさに大パニックで、人的被害だけでも相当なものになるであろう。

 更に、多くの日本人が完全に忘れ、大いに見落としている愚かしいほどまでの
「無意識」がある。おそらくこの無意識は、一度これを利用されれば、壊滅も時間の問題であろう。

 それは、日本と言う国の「地理的位置」である。多くの日本人はこの地理的位置に、何も関心を示さない無意識がある。この無意識こそ、日本人にとっては
「大元凶」となるであろう。この「大元凶」については、日本国民ばかりでなく、政治家すら見逃している者が多い。国民の生活基盤や、労働賃金問題に取り組む政治家は多いが、無意識の大元凶に気付いている為政者は少ない。

 では、無意識の大元凶とは何か。
 それは既に述べた通り、日本の「地理的位置」である。
 現在、世界の三大強国と言われるのは、アメリカ、ロシア、中国である。この事が非常に大事である。
 何故かと云うと、日本から、この三大強国に向かう時、全くそれ以外の第三国の領土や領海、及び領空を通過せずに、「直線コース」で往来できるという事である。

 この「直線コース」とは、直線路という意味であるが、幾何学上から考えると、2点を結ぶ直線に沿う、距離の「最短距離」と云う事だ。
 こうした
地理的位置にある日本は、これ等の国と往来できるという事である。この「往来できる」という事を裏から見れば、最短距離を通って、侵略もされ易いという事である。外国が侵略して来る場合、まずこの「裏」を考えるだろう。これだけで日本は世界でも珍しい、特異な国の一つであると云う事だ。

 この現実を、あまり深く考える日本人は居ない。
 更に、以上の条件に加えて、日本ては、非常に高い生活水準並びに教育水準を持っていて、ここに一億二千万人余りの国民が暮らしている。また、アメリカに次ぐ工業力を持ち、あらゆる分野の産業技術は、世界でもトップクラスにある。その上に、国際情勢の動向から大きな影響を受け、同時にそれが、ある程度左右できる自国自身の自己コントロールを持っている。これは非常な長所であると同時に、また、それと同じくらいの短所を背負っている事である。ここに日本の元凶を背負う宿痾
(しゅくあ)がある。

 何故ならば、世界の武力紛争の枠内に、常に居ると言う事であり、些細
(ささい)な軍事的な事件でも、日本はその影響を直ぐに受けるという事である。日本が戦争を放棄しても、世界が日本に戦争を放棄させない理由が、ここにある。
 アメリカにとって、日本は有力な盟邦以外にあり得ない。アメリカは常にそう考えている。地理的位置に軍事的な戦略価値が大きく、更に経済的にも政治的にも、「極東の平和」と言う意味から考えれば、アメリカが日本に寄せる期待は非常に大きなものなのである。何故ならば、そこに日本列島と言う沈まない航空母艦があるようなものだからだ。

 一方これに対し、ロシアは、ウラジオストック及びその他の沿海州の各港から、裏鬼門的な扼
(やく)する関係にある事を承知しており、日本を極めて重要視している事である。ロシア側から見る沿海州の諸港は、これまでの歴史からも分かるように、伝統的に海洋に進出する機会を窺(うかが)って来た事は明白である。その証拠に今日でも、北太平洋方面の海軍部隊の動きが活発であるからだ。
 また、ウラジオストックは北朝鮮の清津
(チョンジン)に近く、ロシアの動き如何で、北朝鮮海軍もその影響かにあると言えよう。更に両国の漁船団なども、北洋海域での拡充に力を入れている。

 更に中国に於いても、日本を観
(み)る眼は同じであろう。日本より西北の海に目を転じれば、中国があり、ここには東シナ海や黄海があって、この地域の海域には、観測船、商船隊、漁船団、石油プラントなどが進出して、日本に圧力を掛けている。
 こうした状況下で、わが国は出来るだけ中立的な立場に立って、友好的な雰囲気を盛り上げているが、この雰囲気が何処まで続くか問題である。こちらが友好的であっても、相手側が友好を好まないのであれば、この関係は突然険悪となる危険が孕
(はら)んでいる。

平成7年(1995)1月17日阪神・淡路大震災。

 その上に、大地震、大型台風や、その他の天変地異まで頭を悩ませねばならないから、日本とは、実に大変な国であると言う事が分かる。だが、こうした事は、殆どの日本人には頭にない。

 1995年1月17日、午前5時45分頃、兵庫県南部地震による阪神淡路大震災を、日本人は経験した。この災害により、兵庫・大阪・京都の1県2府が被災し、死者6千3百人、負傷者4万3千人、全半壊家屋20万9千戸の損害を出した。
 ここで日本人が見たものは、かつての関東大震災と異なる、神戸市内で阪神高速道路の高架橋やビルの倒壊であった。

 その上、あらゆる機能が停止した。また当時の山村政権も無能だった。こうした最中の大地震だった。
 都市機能は完全に麻痺し、政府ご自慢の情報通信網は全く機能しなかった。危機管理システムも機能せず、救出が遅れ、援助が遅れた事は、私たちの記憶に未
(いま)だ新しい。

 突然の大都市災害に対し、この大震災によって、総ての都市機能が無力になる事は、既に実証済みなのである。それにも関わらず、多くの日本人は、この事について考えようとしない。まるで夏を謳歌
(おうか)して、やがてその後に、凍てつくような冬が到来する事も知らないキリギリスのように……。
●現代サバイバル術について
 
大都市構造は、日常状態が続けば、非常に便利で快適で豐かな生活を送る事ができるが、日常が、一度(ひとたび)「非日常」に転じれば、全く機能しない社会形体であると言う事が分かる。そこで、こうした非日常が到来しても、生き抜く智慧(ちえ)を養う「術」がサバイバル術なのである。

 現在、少しずつ近付いている「気掛かりなるもの」は、大都会を襲う大地震である。火山列島の上に立つ日本は、この宿命から絶対に逃れられない。しかし、多くは、これを日常生活の中で完全に忘れている。また、大地震下で生き抜く智慧すら有していない。全くの無防備である。

 具体的に云うならば、都市生活は
「ガラスに囲まれた生活」をしているので、関東大震災とは異なる「恐怖現象」が起る。それは「ガラス」による大惨事である。ガラスが散乱し、ビルの頭上を見上げれば、「ガラスが降り注いで来る」と言う現象だ。ガラスが凶器になる。これはまさに刃物であり、頭上からナイフが降り注ぎ、あるいは刃(やいば)が至る所に散乱して、この上を歩かなかればならないと云う現実に見舞われる。まさに地獄下の「針の山の如し」である。

 こうした時、生き抜く智慧がなければ、ガラスの刃にズタズタに切り裂かれる事になるであろう。ガラスの上を歩くには、素人考えで、「くつ」があれば大丈夫だと思うであろう。しかし「くつ」があっても、底が薄い、普段は歩き易かったスニーカーなどは殆ど役には立たない。100メートルも歩かないうちに、靴底はガラスが突き刺さり、要を為
(な)さなくなるであろう。こうした散乱する危険物の上を歩くには、靴底の厚い、固い、鉄板の入った安全ブーツがいい。しかし、こうした履物を用意している人は少ない。

 また、水道管の破裂や亀裂によって、断水状態となり、飲料水の確保すら困難になるところから、最低限度の携帯飲料水を確保し、簡易的な濾過
(ろか)装置も必要であろう。大都市災害は、まず、住民の間に大パニックが起ると云う事だ。それに乗じてデモが飛ぶと云う事だ。これを充分に認識し、教科書的な知識を超えた実践での、「生きた実学であるサバイバル術」の智慧が必要なのである。
 この意味から、私たち日本人は
関東大震災阪神大震災と云う、二つの大地震を再度検証してみる必要がある。

 そして、もう一つ忘れてはならない事がある。それは例えば、自衛隊などに緊急出動を要請する場合、その権限は地方公共団体の長に委ねられるという事である。この権限は、県知事、市長、町長、村長らの権限であり、中には自らの政治的イデオロギーにより、自衛隊を入れたがらない行政官がいる事だ。これらの長は、自衛隊に要請をするだけで、日本が軍国主義に趨
(はし)ると言う妄想を抱いている政治家であり、自衛隊などを使わずに、自分の地域だけで、自力で解決しようと考えている。
 これにより、その地域に棲
(す)む住民は、他の地域に比べ、救助も救援も大幅に遅れるだろう。あるいは罹災後、永遠に救助の手は差し伸べられないかも知れない。

この項目は会員制で、詳細は入会案内をご覧下さい。



歴史から学ぶ教訓
●歴史から学ぶ意義
 
人は、「歴史」から学ぶ事が多い。歴史の中には人間のあらゆる行動原理が総(すべ)て包含されている。人間現象は毀誉褒貶(きよほうへん)の中で掻き回される。そしてそこには、喜怒哀楽があり、一喜一憂がある。

 しかし何れも、情緒や感情によるところが多い。こうした感情の発露に振り回される事なく、理知的な立場から、これを正しく見詰め直す必要がある。
 そして歴史から学ぶことは多い。

 人間の「生は有限」である事を、是非とも自覚したいものである。しかし、人は自分の意思とは異なって
「死を迎える」ことがある。人が戦争や事件に巻き込まれる時、屡々こうした無念な死を迎えなければならない場面がある。

 そうした死を迎える場合、多くは悲惨である。こうした悲惨を引き当てない為にも、歴史から
「教訓」を掴み取ることが必要である。人間の「生は有限」であることを認識せねばなるまい。こおn認識こそ、自らを悔いなく生きる為の原動力となる。

 人間現象界とは、褒
(ほ)めたり、貶(けな)したりする世界である。したがって、どうしても感情的に作(な)らざるを得ない。知性や理性で考えるより、感情が先走ってしまう。ここに「大事」を見落とす、大きな誤りが生ずる。頭で理解できても、中々「行い」の中で理解できない。だから、「誤り」を教訓として生かす事ができない。教訓が生きなければ、同じ誤りを二度三度と繰り返す。ここに人間の愚かさが淀(よど)んでいるように思える。

 現代人は押し付けがましい傲慢
(ごうまん)に平伏(ひれふ)す。特に、現代を象徴する言葉は「平等」だ。
 平等と云う言葉こそ、現代人を酔わせる言葉はない。そして「平等観」こそ、一番正しい論理であるかのような錯覚を抱く。
 平等が現代人の脳裡
(のうり)を覆い尽くせば、平等観と感情論が癒着(ゆちゃく)する。
 それは斯
(か)くの如し。

 この論理をもって、一個人でも、悪意の眼で見ると、次のようになる。

 温和な人を女々しいという。
 勇敢な人を乱暴者という。
 思慮深い人を決断力のない人という。
 純朴な人を田舎者という。
 無垢
(むく)な人をお人好しという。
 万事に丁寧
(ていねい)な人を鈍間(のろま)という。
 総て現代は、こうした悪意の眼で動いている社会でもある。

 そして現代という時代は、精神世界が栄えた時代が、遠い過去のものと忘れ去られ、物質最優先の、物質至上主義が持て囃
(はや)されている時代でもある。

 人間は、生きる時代を、自らの希望で選べない。多くの人は、生まれながらに、自分が生まれた時代の理念や倫理に従い、生きる事を強制される。この規範に合わせなければ生きていけない。その中で人生を経験するようになっている。

 教訓と言うものは、こうした時代の巡り合わせによって、人はそれぞれに関わり合いを持つ。差し詰め、教訓が凝縮されているのは、平時より「戦時」であろう。戦時こそ、人間の智慧
(ちえ)が集積され、そこに多くの教訓がある。
 平時でも尊敬できる人物がいる反面、一方に於いて、侮蔑の念でしか見ることができない人がいる。また、これが戦時ともなれば、その評価は克明となる。

 戦時は、強力な統制経済が強いられる時代である。また、干渉と内戦による危機対策として、新たな規範がその規制として持ち込まれる事だろう。そこに、こうした戦時下で、尊敬できる人も、そうでない人も生まれる。
 そして、ここにこそ、歴史から学ぶ大きな意義がある。歴史の功罪を土台にして考える中に、教訓としての様々な智慧が集積されている。現代人は各々の時代を通じて、過去の人間の歩いた足跡を、検証し、そこから学ぶべき事を再点検しなければならないのである。これが生きる為の智慧となろう。
●生の有限と老に纏る話
人間の「生は有限」であることを、是非とも自覚したいものである。しかし、人は自分の意思とは異なって「死を迎える」ことがある。
 人が戦争や事件に巻き込まれる時、屡々
(しばしば)こうした無念な死を迎えなければならない場面がある。

 現代人は、安全の中で暮らしているように見える。平和に支えられて、日常生活を享受しているように見える。しかし一方で、精神の荒廃は確実に進んでいる。物質が表面化し、精神に代わって豊かさが突出した為に、心も物質の属下に成り果てている。誰もが黄金の奴隸に成り下がっている。奴隸になる事を、「豊かさの象徴」と勘違いするようになる。現代とは、そう言う時代ではないのか。

 しかしこの「豊かさ」というものは、一体現代人に何を齎
(もたら)したか。
 また、基本的人権の「人権」から、いったい現代人は何を学んだか。
 猫も杓子
(しゃくし)も、「人権、人権」と、二言目には人権が飛び出して来る。守らねばならない、最重要課題のように考えている。だが、この人権は「生命の尊厳」には辿り着いたが、それは単に物質的な解釈で、生命を物体化する事に止まった。人命安全主義にとって代わっただけであった。このタテマエに、誰もが寄り添って、人権を口にする。このタテマエで、社会全体を貫徹しているように錯覚する。

 また、人権は「死を忌み嫌う通過儀礼」として扱われるようになった。死は、人目から遠ざけられ、死期を目の前に控えた老人病棟で、あるいは老人養護ホームで、悉
(ことごと)く死を隠し、それを遠ざけ、この人命尊重と言う概念が、「一分一秒たりとも、長く生きる、生へのしがみつき」に取って代わった。ここに現代の不幸がある。

 生命維持装置に厄介になっている植物状態の人間は、一体何の意味を持つのだろうか。
 医療現場では、既に死者となっているにもかかわらず、生命維持装置の厄介になって、人工的に生を取り繕
(つくろ)っている、老人の姿は一体何だろうか。

木の花咲耶姫(このはなのさくやびめ)像。木花之開耶姫ともいい、また木花之佐久夜毘売ともいう。日本神話で、大山祇神(おおやまつみのかみ)の女むすめ。天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃ともされる。そして、火闌降命(ほのすそりのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・火明命(ほあかりのみこと)の母であり、後世、富士山の神となったといわれる。木の花咲耶姫の姿の中に教訓とすべき現代人の課題がある。

 現代を高齢化社会と位置づければ、高齢化は、一見長寿村のような意味合いを連想させるのであるが、何故か、「高齢化」と「長寿村」のイメージはイコールにはならない。暗い、惨(みじ)めな衰退する社会を連想してしまう。これは何故だろうか。

 それは日本人の平均寿命が延びた事にも起因している事であろう。しかし、平均寿命が延びたと豪語しても、それは薬漬けにされ、生命維持装置の手を借りての事であり、健康的で、溌剌
(はつらつ)とした老年期を過ごす老人が大勢いるという事ではない。

 また然
(しか)も、生命維持装置によって、不健康に生き延びた老人達が、社会の尊敬を受け、生産現場に復帰して、精神的文化に大きな貢献をしているという話は、一度も聞いたことがない。現実の日本に、誇りある老年を送る為の社会条件や習慣といったものは、この国にはないのである。
 現実問題としてあるのは、老人は嫌がられ、最後は完全看護の、高級マンション風の老人養護施設で過ごすという、体裁の良い
「姥捨て山」があるだけである。
 こうしたところに収容されて、果たして
「よりよき死」が得られるだろうか。

 今からおよそ百年前、文明の進んだ国では、平均寿命が60歳前後であったという。その上、戦争もあり、革命もあり、衛生上の問題もあって、健康に人生を全うできる寿命は、おおよそ60歳であったという。
 しかし、それより百年後の現代はどうだろうか。百年前の60歳まで生きられずに、病気で斃
(たお)れていく人も、決して少ないとはいえないではないか。

 例えば、ガンを発症し、これを現代医学の慢性病対策の最新療法を用いたとしても、「5年生存率」の枠で追跡調査すると、その殆どが5年以内に悉
(ことごと)く死に絶えているではないか。
 また、60歳以上の寿命を経ても、その人が健康的で、矍鑠
(かくしゃく)とした老人であるとは限らない。

 寝たっきり老人や植物状態でないとしても、アルツハイマー型痴呆症などを患
(わず)っている人は、その精神において、健全性が失われ、退職後に精神分裂病などに襲われる高齢者を見ても、仮にその病気が一時的に恢復(かいふく)したとしても、その後は精神安定剤の投与を生涯受け続けなければならない。五体が満足に動く状態であっても、精神が病めば、人間としての機能は失われていることになる。

 現代人が学ぶべきものは、歴史から学ぶ智慧であろう。温故知新
(おんこちしん)であろう。故ふるきを温たずね新しきを知る、その謙虚さだろう。昔の物事を研究し、吟味して、そこから新しい見解を得ることであろう。現代と言うこの時代、これを真摯(しんし)に考える人は少ない。

 かつて中国のかの地では、老人を「白翁
(はくおう)」と賞賛して、長老として尊敬した風習があった。また、当時の人々は、自分の頭が白髪で覆われ、老いていく自分の姿に誇りを持っていた。老人こそ、偉さの象徴だった。物知りと、大勢から大変な尊敬を受けていた。
 「頒白
(はんぱく)の者道路を負載せず」という故事は、ここから出たのであり、これこそ若者が長き経験者に対し、素直に感じる率直な尊敬への感想であった。
 だから「若いですね」などと云われることを非常に嫌った。「若いですね」などと云われて喜ぶ高齢者など一人もいなかった。

 ところが、昨今はどうだろうか。
 「あなたは随分と年寄りですね」などと云うと、逆に怒りを買われるではないか。憤慨
(ふんがい)するではないか。
 逆に「お歳に似合わず、随分と若いですね」などと誉
(ほ)めそやすと、「いや、それほどでも」と一応は謙遜しながらも、それに顔をほころばし、喜々とする中年以上の者が多いではないか。
 「あなたは若いですね」と云われて、「オレがそれほど青二才で、馬鹿に見えるか!」と言い返す人は一人も居ないだろう。

 本来「若いですね」は、「あなたは学がなく、随分と無学で、経験も乏しく、本当に馬鹿ですね」と言われているのに等しいのだが、これを「若いですね」と云われて大喜びする人が殆どである。「若いですね」と云われて、自慢するのに男女の別はない。

 見方を変えれば、それほど現代人は、古代人に比べて表皮的で、「馬鹿な人種」と云えるだろう。そうした馬鹿が殖
(ふ)えるのも、現代という時代の特徴である。
 歳をとった人は、男にしても女にしても、若者から愛される人は少ない。除
(の)け者にされ、血の通った親族であっても、遂(つい)に最後は、老人養護施設という体裁の良い「姥捨て山」に捨てられる。何週間かに一回かは、自分の子供や孫が訪ねてきても、それは自分の蓄えた資産を充(あ)てにしてのことで、訪ねて行く方も、「一応、死ぬまでの我慢だ」という心の見え隠れが隠せない。それだけ老人は、尊敬されない不要物と成り下がっている。

 しかし、こうした現実を作ったのは、実は老人自身であり、自分の子供や孫には責任がない。子供は親の背中を見て育つと言う。かつて老人が、子供の親であったとき、自分の親もこのように扱ったのではなかったか。子供は、その親のする事を見て育ち、自分が親になった今、同じ事を、老人にしているだけのことである。

 人間は、「自分の顔に責任を持て」という。しかし、責任が持てようもない状態が「老人の顔」ではないか。人間は歳をとれば、顔の至る所に老人斑
(ろうじんはん)ができ、皺(しわ)だらけになり、欠点が殖(ふ)えるのと同じく、精神上にも欠点が殖え始める。

 新時代の思想や考え方に、こなすだけの力がなく、それに同化することが出来ない。中国やインドの故事を集めた『童子教』では、「郷に入っては郷に従え」というではないか。
 しかし、老人はこの教えの本当の意味が分からない。嫁姑
(よめしゅうとめ)の問題もここから起る。同化することが出来ないから、その反撃として依怙地(いこじ)になる。自分が働き盛りだった時分の偏見に固執し、その考え方を押し通そうとする。経験を鼻にかけ、どんな難問でも解決できると思い込んでいる。つまり、この正体こそ「老い」である。

 人は、人間に生じる「老い」から、何を学ぼうとしているのだろうか。
 それな醜さの模索だろうか、それとも教訓の模索だろうか。

この項目は会員制で、詳細は入会案内をご覧下さい。



入会案内はこちら

daitouryu.net会員の入会はこちら



<<戻る トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法