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菜根譚・前集 2


第一章 菜根譚前集



●一時のこと

 棲守道徳者、寂寞一時。依阿權勢者、凄涼萬古。達人觀物外之物、思身後之身。寧受一時之寂寞、毋取萬古之凄涼。(前集一)

【書下し文】
 道徳に棲守
(せいしゅ)する者は、一時に寂寞(せきばく)たり。權勢(けんせい)に依阿(いあ)する者は、萬古(ばんこ)に凄涼(せいりょう)たり。達人は物外の物を觀(み)、身後の身を思う。寧(むし)ろ一時の寂寞(じゃくまく)を受くるも、萬古(ばんこ)の凄涼せいりょう/ぞっとするほど物さびしいこと)を取ることなかれ。

【大意】
 理の道を守って、それを棲家
(すみか)とし、権力権勢に眼もくれず生きようとすれば、不遇ふぐう/運がわるく才能にふさわしい地位や境遇を得ていないこと)に陥っで孤立する。だがそれは一時的なことである。
 だが権力や権勢に縋
(すが)って、一時の心地よさを求めれば、確かに栄達の道は開けるかも知れないが、やがては永遠の孤立に苦しまなければならなくなる。
 本当の達人
(悟りを開いた人=人生とは何か、という真理を発見した人)は、俗世の現象に惑わされること無く、崇高(すうこう)な志(こころざし)を生きるのみである。一時の孤立を恐れて、永遠の孤立を恐れてはならない。

【教訓】
 世俗の事柄、概ね俗事を超越した生き方を模索すれば、最初は「変人扱い」されて異端視される。あるいは孤立する。
 しかしこれを曲げて、八方美人を装って、周囲にへつらっていると、最後は無知と事なかれ主義に押し倒されて、何処までも冷たい雪道
(せつどう)の泥濘(ぬかるみ)を歩かねばならなくなる。だから決して真理を曲げるべきでない。また、信念も曲げるべきではない。自分に目覚め、自分を失うべきでない。しっかりとした自己を確立することが大事である。

 世に、一時の打算を考えて、損得勘定に振り回されることがある。また、現代人は「合理主義」という打算と思考に弱い。拝金主義に振り廻され、損得勘定で物事を考える。
 その上、合理主義的な思考が先行すれば、人は「苦労」から逃れようとする。安易な道を選ぼうとする。下積みの苦労まで、徒労と見下してしまう。

 しかし、「徒労」と云う言葉は、実は損得勘定から生まれた言葉であった。
 一時的な、居心地や対面ばかりを気にして、一局面の「労」から逃れようとすれば、こうした思考にはマイナス想念が働くから、つい、逃避癖
(とうひぐせ)がつき、「労」を無駄な仕事と考えてしまうのである。
 損得勘定から超越した、しっかりとした自己を確立するべきである。

 徒労を自覚するのは、自分が身を粉
(こな)にして奔走し、その結果、得られた利益や成果が、少ない場合に「徒労」といい、この結果から、実ったか実らなかったかは、実入りが多くあったか、なかったかを金銭に換算して考える考え方であり、無駄な努力を徒労というそうだが、徒労であったか、そうでなかったかは、本来は人間側が決定する事ではない。

 一時の「儲
(もう)け」を対照にした、「利」で考えるのではなく、行動の成果で考えるのならば、努力において無駄な努力と言うものはなく、また、苦労においても無駄な苦労というのは存在しないのである。俗事の世襲に振り回されない、地に足が着いた「確立した自己」を作り上げる事が大事である。



●素直に率直に

 渉世浅、点染亦浅。歴事深、機械亦深。故君子与其練達、不若朴魯。与其曲謹、不若疎狂。
(前集二)

【書下し文】
 世を渉
(わた)ること浅ければ、点染(てんせん)もまた浅し。事を歴(ふ)ること深ければ、機械もまた深し。故に君子は、その練達ならんよりも、朴魯(ぼくろ)なるに若(し)かず。その曲謹(きょくきん)ならんよりも、疎狂(そきょう)なるに若(し)かず。

【大意】
 世の中の俗事に染まる経験が浅ければ、俗事の悪習に染まることは少ない。ところが即時に染まる経験を重ねれば重ねるほど、俗事の淫習に染まり、その身は汚されて行く。
 君子は、こうした俗事の掛け引きに長
(た)けるよりは、むしろ愚直の方を選びたい。また、馬鹿丁寧であるよりは、むしろ率直の方を選びたい。

【教訓】
 人生には様々な選択肢がある。そしてその選択肢の中で、人は散々迷った挙句、なぜか不満の多い道、不幸に陥る道を選んでしまうことが少なくないようだ。
 豊かになりたい。便利で快適な生活がしたい。贅沢
(ぜいたく)に暮らしたい。人よりもいい暮らしがしたい。いい仕事にありつきたい。いいポジションを確保したい。そして最後は地位向上を狙い、権力欲や名誉欲に汚染されてしまう。

 しかし、そうした欲望や野望を抱き、最終的にそこにたどり着ける者はいい。世の多くは、こうした欲望をギラギラにさせながら、結局辿り着けずに挫折する者が多い。
 したがって、不満が襲い、不幸に見舞われる。そのことでやがて厭世観
えんせいかん/pessimism/厭世主義)が起こり、世を果無(はかな)むようになる。現実世界では、「悪」が「善」よりも、「苦」が「快」よりも支配的であるという考え方に取り憑(つ)かれてしまう。
 また、この世を苦海と考え、物事の悪い面ばかりを見て、物事を悲観的に考えてしまう。ここに世の中の構造が「人生は儚
(はかな)い」のだという側面が浮き彫りにされる。ここに無常観が漂っている。不成功で終った人生の体験者は、この点に流され易い。

 多くの人々の不満や不幸は、厭世観に陥ることである。そして一度こうした観念が支配的になると、そこから中々抜けだせないことである。

 ところが一方で、明朗に生き、喜んで働く素直さが残っていれば、それは純情に反映されて、また新たな道も見えて来る。閉ざされたと思えた道は、そこで新たな打開策が見えて来る。今までの「悩みの人生」が一新するのである。純情と云う、素直さを見失ってはなるまい。

 人は、幸福と云うものを常に外に求めている。しかし、外に自由も平等もあるのではない。それらは自分の裡側
(うちがわ)にあり、自らの行動に懸(か)かっている。外に見える自由や平等は、肉の目から検(み)た錯覚に過ぎない。

 ところが幸福と云うものを外側に向けて眺
(なが)めた場合、人間社会だけは、貧富、貴賤(きせん)、上下の差別があり、その社会構造の側面には、健康な人、軟弱な人、病弱で年から年中病気をしている人、賢い人、愚かな人、騙す人、裏切る人、騙されても自覚症状のない人、人の揚げ足をとる人、自分勝手な人、馬鹿正直な人、お人好しの人、法螺を吹く人、無力な人、可もなく不可もない人、高慢な人、優越感で他を見下す人、学歴や学閥を自慢する人、家柄を自慢する人、富豪ぶりを見せつける人、盲信的に信仰に励む人などがおり、様々な立場に立たされて、そこで某(なにがし)かの幸せを求めて生きている。そして国家の興亡も、文化や文明の隆替(りゅうたい)も、一切がこの中に包含されている。また、そのように映る。しかし、それは肉の目を通した錯覚に過ぎない。

 本来自由で平等で、かつ同格・同等であったはずの人間が、何故こうも細分化され、幾重にも異なる精神構造を持ってしまったのだろうか。

 それは人間に限って、勝手気侭に、我が儘
(まま)をすることができるからである。喜ぶことも、怒ることも、悲しむことも、総て各々の人間の勝手であるからである。自由に、平等にという概念を取り除くには、まず、頑迷なる「こだわり」を捨てて、頑固一徹で固執した「我が儘」を駆逐することであろう。



●心の裡に秘めた精神的貴族の志

 君子之心事、天青日白、不可使人不知。君子之才華、玉韜珠蔵、不可使人易知。(前集三)

【書下し文】
 君子
(くんし)の心事は、天青く日白く、人をして知らざらしむべからず。君子の才華さいか/すぐれた才知)は、珠(たま)包まれ珠蔵(かく)れ、人をして知りやすからしみべからず。

【大意】
 青空のように、太陽のように、君子はその志
(こころざし)を万人の前に明らかにする。秘蔵の珠玉(しゅぎょく)のように、君子はその才能を包み隠して露(あらわ)にしないというのだ。
 まさに韜晦
とうかい/自分の才能・地位などを包み隠すこと)であり、自分の才知や学問を包み隠して人に知らせないということである。

【教訓】
 現代の世は、物質至上主義の社会である為、裡側
(うちがわ)より外側を飾り立てることだけに一生懸命になる人間の奔走が常識化されているようだ。中身がなく、外側ばかりが欺瞞(ぎまん)と奢侈(しゃし)で飾り立てられている。そして、あまりにも背伸びしている人間が多い。

 しかし、老子の言葉を借りれば、「聖人は粗衣を身に纏
(まと)い、懐(ふところ)には玉(ぎょく)を抱くのもである」という、精神的貴族の豪気(ごうき)さを気取ったものである。果たして、今日の世に、「懐に玉」を抱いて、それを奥床(おくゆか)しさで隠している人が何人いるだろうか。
 「玉
(ぎょく)」とは、大志である。

 大きな志
(こころざし)を胸に抱いている人は、決して末端の雑兵(ぞうひょう)等ではない。たとい地位は低くても、未完の貴族的な器(うつわ)の形態をなしており、燃えるような意気込みは挺身ていしん/自分の身を投げ出して物事をすること)の開拓者として悠然(ゆうぜん)としたところがある。その意気は、日々マンネリ化した安全圏に居て、脆弱(ぜいじゃく)な貴族や高級官吏(かんり)の生き態(ざま)より、遥(はる)か上である。それは、精神的貴族には「玉」を懐に抱く、大志があるからだ。

 一方、地位を保障され、安全圏に温々
(ぬくぬく)として、三度三度の温食にありついている貴族や高級官吏はどうだろうか。
 彼等の求めるものは、体制側の保守陣営が崩壊しないことばかりであろう。その上、懐に抱く玉は薄汚れている。薄穢
(うすぎたな)い玉は、落せば割れ、そのうち跡形もなく砕け散ってしまうだろう。それを彼等は、必死で懐に抱え込み、砕け散ることを恐れているからだ。

 人生は、人間葛藤
(かっとう)の、シナリオの無い舞台である。私たち人間は、筋書きのない人生劇を演じているのである。
 時代時代に各々の背景があり、その世相や時代の評価によって、生き方や行動原理が問われてきた。そして永い時代の評価に耐え、現代の我々に迫ってくるものが、古人の潔
(いさぎよ)い生き態(ざま)ではなかったか。

 その生き態には必ずといっていい程、「気宇壮大
(きう‐そうだい)」なロマンがあり、思想があり、哲学があった。その中に共通して、根底に流れていたものは「精神的貴族」という、玉を抱いた大志であった。人は、その「玉」を懐(ふところ)に抱いて人生を船出する。しかし、現代の世に、この玉を抱いて船出する人は少ない。

山頂から見上げる大空には気宇壮大なロマンが詰まっている。

 心の裡(うち)に「玉」を秘める。しかしこの玉を秘めていることを、他人には容易に窺われないようにする。持てる才能も同じであろうが、「玉」というものは、容易に外側から窺い知ることができない夭死するのが大事である。心の奥底に秘めているから、この玉は、“いざ”と言う時の「切り札」にもなるのだ。大志は、確かに掲げなければならない。しかし、その大志は人が窺い知れないようにするのがよい。

 では、「玉」と言う大志を、なぜ窺い知れないようにするのか。
 俚諺
(りげん)にも、「能ある鷹は爪を隠す」とあるではないか。本当に実力のある者は、やたらにそれを現さないものだという喩えであろうが、厳しい現実を生きていくには、「玉」は隠した方が危険度が少ないからである。また同時に、隠すことにより、「奥床しさ」が生まれるのである。
 気宇壮大な玉は、最後の最後まで隠し果せることが肝心である。それを隠してこそ、精神的貴族の気品は失われず、また、“いざ”と言う時の「切り札」になるのである。



●権勢欲に溺れず

 勢利紛華、不近者為潔、近之而不染者為尤潔。智械機巧、不知者為高、知之而不用者為尤高。
(前集四)

【書下し文】
 勢利
(せいり)紛華(ふんか)は、近付かざる者を潔(きよ)しとなし、これに近付きて而(しか)も染まらざる者を尤も潔しとなす。智械(ちかい)機巧(きこう)は、知らざる者を高しとなし、これを知りて而も用いざる者を尤も高しとなす。

【大意】
 華美権勢に近付かないのは清廉
(せいれん)な人である。しかし、その権勢に近付いても、それに染まらない人は更に清廉である。
 権某術数を知らないのは高尚な人である。しかし、それを知りながら使わないのは、更にもっと高尚な人であると言える。

【教訓】
 世の中には人を引っ掛けたり、騙
(だま)したり、裏切ったり、寝返ったり、陥れたりする権某術数や策略を巡らし、あるいは謀略を企てて、これで権勢を揮(ふる)っている人がいる。特に権力者や支配階級に見られる人間現象である。
 恐らくこれは、厳しい現実を生き抜く一つの智慧
(ちえ)であるかも知れない。

 しかし、この智慧を迂闊
(うかつ)に使うと、やがては、自分もいつかはこの智慧に使われ、嵌(は)められることになる。

 「人を呪わば穴二つ」という俚諺
(りげん)がある。
 他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺される。人間の“行い”は、壁に向かってボールを投げをしているのと同じである。ボールは投げっ放しではない。いつかは跳ね返って来る。人間現象界では、葬るべき穴は、常に二つ用意されている。それは、まさにブーメランの如く、やがては自分に向かって襲って来るのである。

 したがって、妖刀は持っていても、やたらに抜かない方がよい。妖刀は、持っていることが重要なのであり、抜くことは重要ではない。
 これについて『韓非子』はこういっている。
 「民人これを用うれば、その身は殃
(わざわい)多く、主上これを用うれば、その国危亡す」と。

 「危急存亡
(ききゅう‐そんぼう)」とは、危難が迫って、生き残るか滅びるかの瀬戸際の秋(とき)であり、これは本来は「切り札」である、妖刀を抜いた時に、国家にしては亡国があり、企業にしては斜陽があり、個人にしては身の破滅が待ち構えているのである。権勢欲には溺れるべきでない。



●良薬は口に苦し

 耳中常聞逆耳之言、心中常有払心之事、纔是進徳修行的砥石。若言言悦耳、事事快心、便把此生埋在鴆毒中矣。
(前集五)

【書下し文】
 耳中、常に耳に逆らうの言を聞き、心中、常に心に払
(もと)るの事有りて、纔(わずか)にこれ徳を進め行を修むるの砥石(しせき)なり。もし言々耳を悦(よろこ)ばし、事々心に快(こころよ)ければ、すなわちこの生を把(と)りて鴆毒(ちんどく)の中に埋在(まいざい)せしむるなり。

【大意】
 絶えず不愉快な忠告を耳にし、思い通りにならない出来事を抱えていてこそ、自分を向上させることができる。
 耳に快いことばかりの世辞を聞かされ、思い通りになることばかりが起こっていたら、一体どうなるか。これこそ人の人生をわざわざ毒浸しにするようなものではないか。

【教訓】
 他人の忠告や諌言
(いさめごと)というものは、これを聞かされる方は、決して快いものではない。しかし、忠告や諌言を、どう対処するかでその人の力量が計られる。また、自分自身の成長を遂げるか、それ止まりかが、それで分かる。
 孔子も次のように言っている。
 「良薬は口に苦けれども病に利在り、忠言は耳に逆らえども行ないに利在り」
(孔子家語六本「良薬苦於口、而利於病」より)と。
 これは、病気によく利く薬は、苦くて飲みにくい。身の為になる忠言が聞き辛いことをいっている。



●自我を離れ、「こだわり」を捨てる

 疾風怒雨、禽鳥戚戚。霽日光風、草木欣欣。可見天地不可一日無和気、人心不可一日無喜神。
(前集六)

【書下し文】
 疾風怒雨には、禽鳥も戚々
(せきせき)たり。霽日(せいじつ)光風には、草木も欣々(きんきん)たり。見るべし、天地は一日も和気なかるべからず、人心は一日も喜神なかるべからず。

【大意】
 激しい雨や風に襲われれば、猛禽類
(もうきんるい)の鳥まで震(ふる)え上がる。これに対して、晴れた穩やかな日和(ひより)に恵まれれば、草木までが喜びに溢れる。
 これからも明らかなように、天地は一日として和気を欠かせず、人の心にも一日として
(だから)喜びが欠かせないのである。

【教訓】
 毎日、怒らずに、腹を立てずにニコニコしている。これこそ「温顔」であり、「温容」である。
 則
(すなわ)ち、大自然の和気を考えれば、「日々是(こ)れ好日」ということになる。「結構」なのは、快晴の晴れた日ばかりではない。事故や事件に巻き込まれなかった日ばかりが好日ではない。好日は、毎日恵まれていることばかりを言うのではない。天気の日ばかりが“よい日”であれば、曇や雨や雪の日は“悪い日”になってしまう。また、“悪い日”は厭(いや)にもなろう。

 天地大自然の心が分かれば、雨が降れば雨が降ったで、雨音を聞いて楽しむことができる。雪が降れば、雪が降ったで、雪の日の楽しみ方がある。そして、晴れれば晴れたで、また、これも楽しい。何も好日は、晴れた日ばかりではない。自我を離れ、「こだわり」を捨てることだ。



●非凡なる能力

 ジョウ肥辛甘非真味。真味只是淡、神奇卓異非至人。至人只是常。
(前集七)

【書下し文】
 ジョウ肥
(じょうひ)辛甘(しんかん)は真味に非(あら)ず。真味はただこれ淡なり。神奇卓異は至人に非ず。至人はただこれ常なり。

【大意】
 酒や料理などに、こってりとした味付けをするのは本物の味ではない。本物の味とは、実にあっさりとしたものである。
 並外れて、きらびやかな才能をひけらかしている人は、自分で達人だと自称していても、実は達人なんかではない。本当の達人とは、「平凡そのもの」の人のことを言うのである。

【教訓】
 世の中には「虚仮威
(こけおどし)」や、「見掛け倒し」という現象がある。見え透(す)いた脅しや、見掛けだけは立派だが、内容のない、下らないものが多い。しかし、一方で、こうしたものに圧倒される人も少なくない。物事を表皮で捉え、中身まで見通す見識眼や観察力がない為である。

 往々にして、「搾取
(さくしゅ)される側」の人は、見識眼や観察力が疎(うと)いようである。
 肉の眼だけを通して、平面的に、一極的にしか見ることしか出来なければ、表皮の虚仮威に騙されてしまうのである。“
張子の虎”に騙されてしまうのである。



●静動と陰陽

 天地寂然不動、而気機無息少停。日月昼夜奔馳、而貞明万古不易。故君子、カン時要有喫緊的心思、忙処要有悠カン的趣味。
(前集八)

【書下し文】
 天地は寂然
(せきぜん)として動かずして、而(しか)も気機は息(や)むことなく停(とど)まること少(まれ)なり。月日は昼夜に奔馳(ほんち)して、而も貞明は万古に易(かわ)らず。故に君子はカン時には喫緊(きつきん)の心思あるを要し、忙処には悠カンの趣味あるを要す。

【大意】
 天地は動かずに静まり返っているが、陰陽の気はやむことなしに働いている。月日は昼夜を問わず巡っているが、それが放つ光芒
(こうぼう)は永遠に変らない。
 これこそが大自然の摂理であるが、人間についても同じ事が言える。
 平穏無事な時には万一の場合に備えることを忘れず、一旦、有事の際には悠々たる態度で対処するように心掛けねばならない。

【教訓】
 油断大敵と言う。油断とは、「油を断たれる」ことを言い、生命活動に必要な油を断たれるというのは、まさに一大事である。油断は物事の失敗の原因となるから、これこそ大きな敵である。したがって、「備え」は万全でなければならない。

 ところが、宇宙は動き、物事は動いていると言うことを忘れた時、人は最大の不幸の陥る。この世の現象界は、常に動いているのである。変化しているのである。この動と静、陰と陽の変化や動きを忘れた時、人は最大の不幸に陥る。浮沈のあるのは、この世の常であり、遠望して、これが「止まっている」と、目測を誤ってはならない。

 いま人類は、全世界的な生産の停止と、食糧不足によって、何億人もの人々が生命の危機に曝
(さら)される危機に直面しようとしている。この危機に際して、甚大な被害を受けるのは、何よりも、この日本が一番大きいだろう。
 自給自足の出来ないこの国は、一方で経済大国のような顔をしているが、その実は、非常にこうした危機に備える用心の抜け落ちた国なのである。
 そして、「油を断たれる」という“油断”の文字からも分かるように、世界規模の石油危機がくれば、日本は立ち所に崩壊するであろう。

 日本人の大多数の生命の喪失は、想像に難しくない。そして厳しい食糧難は、どうしたものに移行するか、火を見るよりも明らかであろう。いま外国で起こっていることは、そのまま日本に反映されるだろう。暴動や食糧倉庫の襲撃事件など、日本国内では無縁のものと考えない方がいい。対岸の火事と思わない方がいい。遠い国の花火大会ではないのだ。それは心の油断と、「油を断たれる」油断から起こるかも知れない。こんな近未来が、日本に迫っているのだが、これを何人の人が把握しているのだろうか。
 また、頭の中では把握していても、それは危機管理意識とは程遠く、筆者には掛け声ばかりのような気がしてならない。



●喧噪からの解放

 夜深人静、独坐観心、始覚妄窮而真独露。毎於此中、得大機趣。既覚真現而妄難逃、又於此中、得大慚忸。
(前集九)

【書下し文】
 夜深く人静まれるとき、独り坐して心を観ずれば、始めて妄
(いつわり)(きわ)まりて真(しん)独り露(あら)わるるを覚ゆ。毎(つね)にこの中に於て、大機趣を得(う)る。すでに真現われて妄の逃れ難きを覚ゆれば、またこの中に於て、大慚忸(さんじく)を得ん。

【大意】
 静かで物音や人の気配が全く感じられない深夜、独り坐って自分を観照
(かんしょう)すれば、諸々の煩悩(ぼんのう)が消え去って、清浄な心が現われて来る。こうした境地に至ることにより、必ずや大いなる悟りも開けようと言うものである。
 静寂な心が現れても、なおも煩悩から逃げ切れないと悟った時には、必ずやそこから大いなる懺悔
(ざんげ)の心が浮かび上がって来るに違いない。

【教訓】
 現代の世は、騒音に掻き乱された世の中である。そこもここも、激しい金属音に掻き乱され、ネオン瞬く夜の喧騒
(けんそう)ともなれば、奇怪な芸妓の嬌声(きょうせい)に掻き乱されている。こうして現代の世を見渡せば、何処にも静寂がなく、騒がしさと喧(やかま)しさで、不必要な音を聞かなければならず、ここに心身の障害が発生する元凶があると言える。

 今や日本中、騒音に掻き乱され、街の至る所には、激しいサウンドのロック音楽が流され
ている。人々は、若者に限らず、こうしたテンポのリズムに足並みを揃え、行進しているように思える。そして、大半の人の向かうところは、ある特定の特異点だろう。誰もがそこへ、足を速めているようにも思える。いったい気ぜわしく、何処へ急ごうとしているのか。



●万物流転

 恩裡由来生害。故快意時、須早回頭。敗後或反成功。故払心処、莫便放手。(前集十)

【書下し文】
 恩裡(おんり)由来
(ゆらい)害を生ず。ゆえに快意かいい/心持ちのよいこと)の時、すべからく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。敗後にあるいは反(かえ)って功を成す。故に払心(ほっしん)の処、便(すなわ)ち手を放つこと莫(なか)れ。

【大意】
 恩情・人情の厚いときには、愛憎
(あいぞう)の変化があるものである。これがややともすれば、思わぬ災害を招き兼ねない。そのために恩情・人情の厚いときに、早く反省して、後々の覚悟をしておいた方がよい。また物事は失敗の後に、かえって成功の機会を掴(つか)むことが多い。それが為に失敗して、思いに儘(まま)にならぬとても、それを投げ出してしまってはいけない。

万物は流転する。一刻も止まるところがない。刻々と変化しながらも、決して同じ事の繰り返しではない。流転には変化が伴うものだ。

【教訓】
 宇宙現象は常に流転(るてん)し、刻一刻と変化を続けているものである。
 幸福も不幸も、この制約下にある。双方は行き着くところまで行き着けば、また逆戻りし始める。陰陽何
(いず)れかの極みを究めつつも、やがては反対方向に向かって動き出すものである。必ず反対物に向かって転化するのが世の常なのだ。作用と反作用の働く世界が、現象人間界の世界であるからだ。

 この世界では、常に膨脹と収縮が繰り返されている。粗・密が繰り返されている。凝縮と散漫が繰り返されている。
 登り詰め、得意絶頂になった者が、やがては転落の憂
(う)き目をみることからも分かるように、順調なときに油断すると、「栄枯盛衰(えいこ‐せいすい)の運命の法則」に一蹴(いっしゅう)されてしまうのである。
 「うまくいっている時」こそ、最も警戒しなければならない時機
(とき)なのだ。
 つまり、それはツキに見放される前兆であるからだ。

 「好事魔多し」という。
 事が順調に運び出したら、それは邪魔が入る前兆である。事が順風満帆
(じゅんぷう‐まんぱん)に運ばれている時こそ、最も警戒を怠ったてはならないのである。順風満帆の航海に、胡座をかけば、既にそこで大きな座礁(ざしょう)を暗示する危険性が横たわっているのである。



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