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はじめに
人生にはある種の法則がある。「運」と言うものが働いている。
成功者の足跡を見ると、単に順風満帆に押し上げられて、成功への道を辿ったのでもないし、その足跡の背後には、苦労しながら、悶絶した後を読み取ることができる。
成功者の誰一人として、出世街道を登り詰めたことがないことが分かる。彼等は一旦、どん底に落ちた者が多い。しかし、そこから見事に這い上がっている。多くの下積み経験もしている。しかし下積みの儘(まま)で朽(く)ち果てることはなかった。
人生には上れば落ち、落ちれば上る人生の不思議がある。人間の有史以来の栄枯盛衰(えいこ‐せいすい)の法則に、それが代表されている。その背景には、確かに運命の運の陰陽が働いている。「運」というもおんが、確かに存在している。
人間は、「運」に支配される生き物である。支配者も被支配者も、この栄枯盛衰の法則に支配され、時間に支配され、空間に支配され、一気に最高権力者として登り詰め、富と権力を独占した人間ですらも、やがては歴史の中に葬(ほうむり)り去り埋もれさせてしまう。自然の摂理は寔(まこと)に不思議なものである。つまり人は、「運命の陰陽」に支配されている。そこにこそ、人間が経験する人生での、不思議さと、同時に非情さがある。
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▲黄昏時(たそがれどき)の夕陽は何となく憂国を思わせる暗示がある。それは亡国と紙一重であるからだ。
唐代末期の詩人の李商隠(りしょういん)の詩に『楽遊原(らくゆうげん)』というのがある。
これによれば、「晩(くれ)に何(なんな)んとして意適(こころかな)わず、車を駆(け)って古原(こげん)に登る。夕陽(せきおう)限りなく好(よ)し、唯是(ただこれ)黄昏(こうこん)に近し」と詠(うた)っている。
つまり、「夕方になると何となく心が落ち着かず、馬車を走らせて楽遊原に登ってみた。夕陽は限り無く美しいが、もう黄昏(たそがれ)がそこまで迫って来ているではないか」という意味の詩である。
この詩はまさに的中であった。この詩の中には世情の不安を詠い、亡国を思わせる暗示があったのである。唐は、李商隠が詠ったこの詩から、僅(わず)か五十年で滅亡している。
さて、歴史を振り返れば、「世直し」の度に、あるいは革命の度に不思議な方術である“三元式遁甲”が浮上して来る。唐帝国が滅亡する時も、三元式遁甲が遣われ、この戦法の猛威に、太平の世になれきった政府軍は、軽挙妄動に陥り、敵の煽りにまんまと嵌った。敵の巧妙な撹乱策(かくらんさく)に逃げ惑い、これを裏で操る北方系の支配者の影が、既に喉元まで迫って来ていたのである。
この歴史を振り返った時、今日の日本も、どこかそれに似ては居ないだろうか。 |
人間、如何に気取って見ても、その中身は所詮(しょせん)『糞袋(くそぶくろ)』である。
このことは江戸時代前期の三河(愛知県)の禅僧・鈴木正三(すすき‐しょうさん/著に『盲安杖』『二人比丘尼』『驢鞍橋(ろあんきよう)』『破吉利支丹』などがある。1579〜1655)がはっきりと明記している。鈴木正三は幕臣の出でありながら、後に出家して、正三(しようさん)と名乗り、武士道精神を加味した一流の禅を唱え、これを「二王禅」と名付けた人物である。また、仮名草子の作者として知られている。
美男も美女も、醜男(ぶおとこ)も醜女(しこめ)も、現世においては、「浄穢不二(じょうえ‐ふじ)」の糞袋である。
人間が、食べ物を口に含みその経過の中で、排泄して行く過程は糞袋の状態である。結局、内臓を働きを総括すれば、所詮(しょせん)糞袋に他ならない。その糞袋が、顔貌(かおかたち)や容姿を論(あげつ)らって醜美だの、経済力を論らって貧富だの、あるいは生まれや家柄を論らって貴賤だのといっているのである。表皮を美しく飾り立ててみても、中身の実体は変らないのである。糞袋が、糞袋に揶揄(やゆ)し、糞が糞を笑っているのである。これを正三は、「人間は所詮糞袋」と一喝(いっかつ)したのである。
正三は死に際して、こう言い切っている。
「この糞袋を何とも思わず打ち捨つることなり。これを仕習うより別の仏法を知らず」と、澄(すみ)みきったことを云って、見事な死に態(ざま)を見せた禅僧がいたが、まさにその通りであり、高級衣服や装飾品で小綺麗(こぎれい)に装い、悪臭を隠す為に高価な香水を振りかけたところで、所詮(しょせん)そのひと皮剥(む)いた裡側には、まさに浄・不浄が一体になった糞袋である。その裡側までを凝視することが出来れば、禅で云う『大悟』なのである。
人間の実体は、宇宙と同じ様な「陰陽」に代表され、そして、物事に建前と本音があるように、心にも「裏」と「表」、「光」と「影」がある。運命の明暗も、ここに存在する。
したがって肉体も精神も、浄・不浄が表裏一体の正・不正から構築された構造をもっており、人はこように、表裏背中合わせの一枚岩から出来た二重構造をしている媒体であると言えよう。そしてこの媒体こそ、矛盾する生き物なのだ。
だが、この実体に気付いている人は稀(まれ)である。世間風の俗世に流されているいる人は、物事の表だけを見て、決して裏を見ない。表面だけに価値観を見い出し、裏側を見抜くことが出来ないし、また不得意である。凡夫(ぼんぷ)に見識眼が無い故の悲しさである。
しかし、ある時、ふと、物事に裏があり、裏の実体を何かのはずみで垣間見ることが出来れば、それによって裏を見抜き、その裡側(うちがわ)が見抜ければ、人間の実体が朧(おぼろ)げながらに浮かび上がってくる。
人間、歳(とし)にはかなわない。肉体が躍動(やくどう)し、溢れんばかりの若さがはじける時は、ほんの一瞬に過ぎない。やがては冬の岩場に、立ち枯れる、無慙(むざん)な枯れ木になってしまうのだ。
だから多くの若者は、青春の謳歌(おうか)に任(まか)せて羽目を外し、自らが糞袋であることに気付かない。時が流転していることすら気付かないのだ。青春の楽しい部分だけを、一時の慰安に酔い痴(し)れて、快楽や快感だけをクローズアップして、十年後、二十年後、三十年後の自分の老臭の姿が想像できない。もし悲劇があるとするならば、青年期の絶頂時期に、これに気付かないことではあるまいか。
栄枯盛衰は人類の常である。そこに諸行無常(しょぎょう‐むじょう)があり、時節因縁(じせつ‐いんねん)に隨(したが)ってしか、生きれない、“生きとし生けるもの”の果敢(はか)なさがある。それは歴史が証明している。いかなる王朝も国家も民族も、その栄枯盛衰は、全てこの中に集約されている。
千変万化を繰り返す現世に、実体など有りえよう筈(はず)がないのである。人間も宇宙の一部である限り、それと同じだ。
人の一生は、生・老・病・死の四期を巡って、やがては朽ち果てる。ここにこの世が、「夢である」という現実があるのだ。
見るもの、触るもの、味あうもの、匂うもの、聴くもの、観(かん)じるものは、全て実体の無い「幻(まぼろし)」である。また、かつて自分が魅せられたものも「幻」であった。
これは十年前の出来事が再び戻ってこないように、一秒後の一秒前は決して戻ることが無いのだ。その無常と、現世の生き方が、貴重な教訓として『菜根譚(さいこんたん/前集には仕官・保身の道を説き、後集には致仕後における山林閑居の楽しみを説く)』には記されている。
『菜根譚』は、中国明の万歴年間、洪自誠(こう‐じせい/明末の儒者洪応明で、字は自誠。儒教の思想を本系とし、老荘・禅学の説を交えた処世哲学書の著者。1573〜1619)によって記された随筆集である。
この書物の不思議なところは、これを読む人物が、同一人物であっても、その時代時代と、本人の置かれている立場と、その心境によって各々に異なり、違った感覚で心を引き留めるというものである。
この書を読むとき、ある人は「世渡りの書」と感じる人もあろうし、またある人は「禁欲の書」と受け取る人もあろう。あるいは「悟りの書」と取る人もあろう。
それは丁度、四季折々の同一の山を鑑賞しても、季節とその角度で各々、その感じかたが異なるということに似ている。
そしてこの書物には、現代の日本人が忘れ去ってしまったような、人としての生き方が、洪自誠自身の体験として記されている。
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| ▲美食に転ばず、「ほどほど」にしておけば、五体を傷(いた)めることはあるまい。しかし、美食を追い掛ける食生活に狂うと、忽(たちま)ちのうちに病気が追いかけて来る。 |
「口当たりのよい珍味は、これを過ごせば胃腸を損ない、五体を傷つける毒薬になる。美食に溺れること無く、『程々(ほどほど)』で止めておけば害はあるまい。心を喜ばす楽しみ事は、これに耽れば身を誤り、人格を傷つける原因になる。楽しさに溺れること無く、『程々』で手を引けば、後悔することもあるまい」
今、日本人に必要な心構えは、『程々』である。物質的欲望をむき出しにする、拡張拡散主義は身を滅ぼす許(もと)である。
かっての昭和旧陸海軍が、大陸主義や南方進出主義を唱えて、兵站部(へいたんぶ)を延ばし、限りない侵略と略奪を繰り返したが、その結果どのような悲劇であったか、我々の記憶にはまだ新しい。
国際化、国際主義、世界新秩序と煽られて、外国に進出する日本企業の企業戦略は、まさに昭和旧陸海軍が仕出かした、あの愚行とよく似ている。
『菜根譚』は云う。
「増やす」ことではなく、「減らす」ことを考えよと!
我々の日常生活も、この延長上にあると考えていい。したがって老後に備えて「増やす」ことではなく、「減らす」ことを真剣に考えることが、将来の自分自身の「生き態(ざま)」を決するといっても過言ではない。
そして更に云う。「一点の素心(そしん/生のおもい。かねての心)」を貫けと!
洪自誠が、一体何者であったかは、まだ明らかになっていないが、恐らく明の末期頃、花鳥風月を愛し、風流を解する才能をもって隠遁(いんとん)生活をしていた人と思われる。
その彼の生き態(ざま)は、賢者であるにもかかわらず、何処にも自分を君子に見せかけたり、あるいは口達者な理論を振り回して、他人を攻撃したり、上辺だけの体裁を整えて、見かけ倒しの飾った人ではなかったことが、その書物の中から窺(うかが)える。
富や権力、名誉や地位、利益や物財、我欲や色欲には目もくれず、花鳥風月の風情(ふぜい)を眺(なが)めては、詩を口ずさみ、あるいは俗世間を超越するような次元に至って、孤高に身を置き、俗事に流されなかった人物ではないかと思われている。
そこには俗人が悟りえない自然流の生き態と、気宇壮大(きう‐そうだい)なロマンが広がっているのである。
洪自誠の、その悟りの程度は、如何ほどのものか窺い知ることは出来ないが、『菜根譚』に書かれている言葉は、決して口先三寸から吐き出されたものではない。彼の人生を嘗(な)め尽くした苦渋(くじゅう)の生き態(ざま)は、その儘(まま)、全ての世人に通じるものがあり、自覚と戒めを与える肝要(かんよう)なものばかりである。広大な天地大自然の間に起居して、洪自誠の悠々(ゆうゆう)たる心中を窺(うかが)い知ることが出来る。
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| ▲淡々と、飄々と、執着のない態(さま)こそ、清々しく人生を駆け抜ける人生道の秘訣なのである。 |
彼は世俗の功名に見向きもせず、これを塵芥(ちりあくた)のように無用としているのは、その見識の高遠さを知ることができ、『菜根譚』は著者自身が耳に聴いたことを単に軽薄(けいはく)に述べたものではない。
洪自誠が譚(たん/はなし)を「菜根」と名付けたのは、恐らく人間形成の修練の場から、彼自身が学びとり勉励した足跡であり、清廉(せいれん)な生活の中から磨き出した、世俗の戒めの気持ちを綴(つづ)ったことに由来しているらしい。人生の荒波にもみくちゃにされ、激しい波風を受けてきたことが、その戒めの中から具(つぶさ)に見て取れる。
そしてその兼修(けんしゅう)の中枢を為(な)したものは、儒教、仏教、道教の三教であり、これを人生の哲理の中に簡潔な文章で綴(つづ)っている。
洪自誠自身が苦渋を嘗(な)めた末に辿り着いた境地は、肉体的な享楽の世界ではなかった。既に肉体を超越した次元であった。
彼はこのように言っている。
「天が、吾(われ)に、わが肉体を苦しめるようにするならば、吾は、わが精神を安楽にして肉体の苦しみを補うようにする。天が、吾に、わが境遇を行き詰まらせるようにしむけるならば、吾は、わが道を高尚にして貫き通すことにする」
洪自誠はどこまでも自らを励まし、勉励を続けた人であった。そして戒め慎(つつし)むことを知っていた。そのに、彼の清々しさを観(かん)じ、爽(さわ)やかな清流の中に自らの魂を洗わんとする仕種(しぐさ)が見て取れるのである。
この人はきっと、捨てるべき物財を総(すべ)て捨ててしまって、身辺が簡素に片付いた、涼(すず)やかな人であったのだろう。
こうして現代人の感性と、洪自誠の生きたことの時代を比較すると、そこには現代人の困難を恐れる実体が浮き彫りになって来る。現代人は、難行苦行を嫌う。誰もが、「寄らば大樹の蔭」を決め込む。苦難は恐れて憚(はばか)らない。誰もが、信頼し、信奉する相手を選ぶならば、力のある者がよいと思うのだ。そして、現代という時代を見据えた場合、そこには、はっきりとした苦難を恐れる現実がある。
中でも、老いることを恐れ、病気や災難、貧苦や外的醜さを嫌う実情が横たわっている。表皮だけは飾り立てようとする。しかし、幾ら表皮を美しい物質で飾り立ててみても、心の中まで美しく飾り立てる事は出来ない。心は輝かない。これでは心は廃れるばかりであり、心は萎縮する。萎縮した心で、「懐(ふところ)に抱く玉(ぎょく)」など持ちようがない。
本来人間は、老若男女を問わず、誰もが「懐に抱く玉」を持っている。大なり小なりの志を掲げ、「夢」を抱いている。
ところが現代は、「懐に抱く玉」が砕(くだ)け散った時代である。夢も希望も無い時代である。それは社会構造の機構そのものが、定着し、固定化されている為である。監視の目が光り、一人ひとりが国家から管理され、金融経済下における支配権が確立されてしまっているからである。
地球は、地球規模で管理され、「グローバル化」という国際主義に傾く人間で溢れ返っている。しかし、地球規模とかグローバル化などのスローガンの背後には政治的な画策が隠されている。
その元凶こそ、「ワン・ワールド」である。国際主義者、ワン・ワールド主義者は、「地球は一つ」とか「人類は皆兄弟」とかというスローガンで、庶民の上に君臨しようと居ている。もし、この統治下に組み込まれ、一度彼等の手に支配権が移れば、永遠に統治されるであろう。
人間は自由を失い、かつ、本来平等であった人間同士の同格とか、同等という概念は失われるであろう。
日本人を含む多くの地球の住民達は、微生物視され、裁判所の定義する「善良な市民」に属した評価は与えられるかも知れないが、それは今日の「住民基本台帳ネット」の現状からも分かるように、総背番号制になり、管理され、永遠に人権は奪われ、奴隷化される未来が待ち構えているのである。
そしてもし、このようなグローバル化された巨大ネットワークが完成すれば、国連が、国家が、一人ひとりを管理する、これが完成した場合、その傘下の巨大な軍隊によって、内部警察機構が強固さを増し、もはや庶民レベルでの変革や改革は不可能となり、絶望的な状態に陥るのは必定であろう。
これは人類が、豊で便利で快適な物質文明を追い求め過ぎた、物質万能主義の結末であろう。科学だ、唯物史観だと、物質万能に帰着する実情を作り上げるのも、その背景には、人より豊かに、一歩抜きん出て、いい暮らしをしようとする人間の欲望が、こうした現実を作り出したといえるだろう。
こうした現実が到来した場合、経済格差や出身学閥で人民は階級化され、機能化され、残る道は家畜化された動物に成り下がる現実が待ち構えているであろう。これこそ、自由と平等を奪われた「永遠なる苦海」の近未来ではないか。
苦難を恐れるのではなく、病気や健康、貧富、醜美、喜怒哀楽の現代の淫習から解放されて、自己をしっかり見つめる必要がある。自分の裡側(うちがわ)を掘り下げて、自分自身を見詰め、外的表皮の見せ掛けに翻弄(ほんろう)される事なく、確立した自己を構築したいものである。
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