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八門人相術 プロローグ
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八門遁甲相術篇・人相術1

剣舞をする虞美人画像


●美女と、美女でありながら美女を許されない女性

 人相を語る上で、絶対に無視できないのが「美女」の存在である。
 普通、“美女”といわれた女性たちに、国を救ったとか、国の危急存亡を回避したという人はいない。押し並べていうならば、その殆どは国を危うくしている。
 中国史にある「美女」の条件は、男を惑わし、悩まし、そして国を滅ぼすというのが美女の条件として挙げられている。

 その筆頭に挙げるのが、楊貴妃
(ようきひ)だ。
 これにランクを付けて順番を並べるならば、楊貴妃に続くのが西施
(せいし)だ。西施は春秋時代の越の美女として名高い。
 越王
(えつおう)勾践(こうせん)が呉に敗れて後、呉王(ごおう)夫差(ふさ)の許に献ぜられ、夫差は西施(せいし)の色に溺れて国を傾けるに至った。西施はそんな美女だった。
 そして彼女は「西施の顰
(ひそみ)に倣(なら)う」という諺まで生まれた。この意味は、西施が心臓の病のために苦しげに眉をひそめたのを、醜女が見て美しいと思い、自分もその真似をしてみたが、それを見た人は、気味悪がって門を閉ざしたという俚諺(りげん)による。則(すなわ)ち、いたずらに人の真似をして、世の物笑いになることにいう故事に例えたものだ。あるいは美女を自称する醜女はこうした、国を危うくする美女に憧れるのだろうか。

 次に妲己
(だっき)である。殷の紂王(ちっうおう)の寵妃である。彼女は淫楽(いんらく)・残忍を極めたといわれる。最後は周の武王に殺された。

 中国の美女序列を並べると、楊貴妃、西施、妲己と続く美女の順に、次ぎに来るのが褒
(ほうじ)である。
 褒は周の幽王の寵妃
(ちょうひ)である。
 褒
は褒国(陝西褒城にあった姓の国)から献上され、申后に代って后(きさき)となった。容易に笑わず、王が何事もないのに烽火(のろし)を挙げて、諸侯を集めたのを見て初めて笑ったといわれる。
 後に申后の父申侯が周を攻めた時、烽火を挙げたが諸侯が集まらず、王は殺されて西周は滅亡、褒
は捕虜にされたという。
 このように歴史を検
(み)ると、楊貴妃、西施、妲己、褒などはみな国を滅ぼしている。

 その他の有名な美女として趙飛燕
(ちょう‐ひえん)がいる。彼女は前漢成帝の皇后で、元名を宜主と称した。
 正史の『漢書』よれば趙飛燕に関する記述は非常に少なく、稗史においては美貌を以って、優れた容姿が受け入れられ、彼女の出生は卑賤であったという。幼少時に長安に辿り着き、号を“飛燕
(ひえん)”とし、歌舞の研鑽を積み、その美貌が成帝(せいてい)の目にとまり後宮に迎えられた。後宮では成帝の寵愛(ちょうあい)を受け、更に妹の趙合徳を昭儀として入宮されることを許された。
 一方、成帝は趙飛燕を皇后とすることを計画したが、太后の強い反対を受けた。しかし、許皇后を廃立し、遂に立皇后が実現した。これにより前漢は危うくなる。

 このように容姿端麗で美女であっても、国を興した女性は美女の仲間に入れてもらえなかった。その中でも、例外中の例外は一人いた。陰麗華
(いん‐れいか)である。陰麗華は国を興した美女として知られる。彼女は、光武帝の皇后で、後漢時代の明帝の母である。光武帝と同じ南陽郡(河南省)出身の豪族・陰氏の娘で、近隣でも評判の美女だった。挙兵前の劉秀りゅうしゅう/光武帝)もあこがれるほどの美貌の女性であったという。
 光武帝は新王朝
(しん‐おうちょう)の王莽(おうもう)が漢王朝を纂奪(さんだつ)したとき、それを撃破して皇帝の座についた。王莽は前漢末の簒立者(さんりつ‐しゃ)である。また、元帝の皇后の弟の子だった。自ら摂皇帝の位に就き、ついで真皇帝と称し、国を奪って新(しん)と号した。その政策に反対する反乱軍に敗死し、それにより後漢が復興した。

 新王朝に対し、挙兵する前の劉秀
(光武帝)は大した野心家だった。官途に就くなら執金吾(しっ‐きんご)なりたいといっていた。執金吾とは、衛門府(えもんふ)の唐名である。あるいは漢代に宮門の警衛を司る武官でのことである。
 この官職を日本でいうならば、警視総監くらいの地位だろうか。

 さて、その頃の執金吾は金の鶏の旗を立て、楽隊つきで勇壮に華やかに突き進むこの役職は、当時の多くの若者にとって憧れの的だった。
 この時の模様を現わす劉秀の詩には「官に就くなら執金吾」とあり、また「妻を娶
(めと)らば陰麗華」とあり、彼にとって理想とする女性は、まさに陰麗華であり、彼女は憧(あこが)れの美女であった。そして劉秀はついに憧れの女性を妻にするのである。彼の若かりし日の願望がついに叶うのである。陰麗華を娶ったのであった。

 陰麗華は、まさに賢夫人だった。光武帝が天下をうまく治めることができたのは、その多くが陰麗華による功績が大きかったからだ。このことは中国の歴史の美女の系譜からしても非常に稀
(まれ)なことである。何故ならば、普通“美女”というのは良人(おっと)を駄目にし、子育てに失敗し、血縁を絶やし、多くの敵を作って国を滅ぼすと相場が決まっているからである。
 ところが陰麗華はそうでなかった。相場の決まっている美女の末路を辿らなかった。大いに良人をもり立て、子育てにも成功したのだった。

 光武帝の息子・明帝は、仏教を西域に求めたことでも、文化的で有名である。明帝も非常に良い政治をした皇帝であったからだ。明帝の妃は馬皇后だった。また彼女も賢夫人だった。
 馬皇后の父は後漢の元勲・馬援
(ばえん)だった。馬皇后は大変に美しく、また貞淑だったといわれる。更に皇后としての業績も高かった。
 ところが中国では、美女としては持て囃
(はや)されることはなかった。
 また、隋の文帝の独孤皇后や、明の太祖の馬皇后は、何れも大変な美女であったが、国を滅ぼしていないので、中国の美女の仲間入りは許してもらえなかった。中国では、国を滅ぼした美女だけが美女の仲間入りをしたのであった。

 皇帝の妃た皇后といわれる女性たちの美女ぶりは、当時写真がないのでその美しさを客観的に比較する材料は何もないが、その美しさを測る物差しは、どれくらい男を迷わし、狂わし、恋慕の情を煽
(あお)り、駄目にしていったかというこの事実をもって、決定していったのだろう。
 この基準は、ヨーロッパでも同じである。

 ヨーロッパで持て囃される美女といえば、その筆頭がクレオパトラである。次に、トロイ
Troia/トロイアのことで小アジアの北西隅、トルコのヒッサルリクの丘の遺跡。ホメロスの叙事詩「イリアス」で有名。1871年以来、シュリーマンその他の発掘によりトロイア文明が発見され、この地に9層の住居址が重なっていたことが究明された)を滅ぼしたトロイのヘレネ(Helene)であろう。
 ヘレネはギリシア神話に出て来る、ゼウスとレダとの娘である。スパルタ王メネラオスの妃として有名である。トロイの王子パリスが、その美貌に魅せられてこれを奪い、これによりトロイア戦争が起った。
 スパルタの王妃ヘレネが、トロイアの王子パリスに誘拐されたことに原因し、王妃を奪還するため、アガメムノンを総大将とするギリシアの王侯が、十年間の攻囲の後、木馬に兵を潜ませる奇計を用いて、トロイアを破壊させたということは有名である。

 日本では美女の条件は国を滅ぼすまでにはいかなかった。
 例えば、淀君だが、秀吉が生きている間は大した力は持たなかった。秀吉の死後の権勢を振るうのだ。しかし、これとて彼女は傾城
(けいせい)の美女というより、秀頼を生むことによりわが子を叱咤激励(しった‐げきれい)する教育ママ的なところがあった。秀吉没後、秀頼を擁(よう)して大坂城に在り、此処でささやかに指揮をした程度のことである。
 淀君は幼名が茶々といわれ、父を浅井長政に持ち、母は信長の妹お市の方だった。美男美女の娘である。そして淀君自身、美女の誉れは高かった。ところが、やはり彼女も、国を滅ぼすほどの凄まじさはなく、美女の仲間入りには入れなかった。

 また、則天武后
そくてん‐ぶこう/在位690〜705、624頃〜705)は唐の高宗の皇后である。中宗(ちゅうそう)・睿宗(えいそう)を廃立した後、690年に自ら即位して、則天大聖皇帝と称した。そして国号を周と改めた(武周)のである。その老病に及び、宰相張柬之に迫られて退位するが、中宗が復位し、唐の国号を復した。
 則天武后も大した美女の一人で、才色兼備で頭脳明晰なる女性だった。皇帝と並ぶ権勢を振るったからだ。これにより、この時代、大いに盛り上がるのである。
 中国の歴史を研究すると、この国では何度か、高度成長を思わせる時代が到来している。唐代もその一つである。そして則天武后は中国の歴史において、女帝になった最初で最後の女性だった。

 その他、中国史の中で権勢を振るったという女性を挙げれば、前漢の高祖・劉邦
(りゅうほう)の妃・呂太后(りょたいこう)と、清の西太后(せいたいこう)であろう。
 権勢を振るった女帝のナンバーワンは則天武后である。そして呂太后、西太后と続けばこの三人がビックスリーに数えられる。



●霊肉ともに醜女

 春秋戦国時代(前770〜前221)、晋(しん)の国に荘子という人物が居た。荘子は正しくは荘周(そう‐しゅう)という。思想家で、老子とともに道家の代表者で、老荘と並称される人物である。
 この荘子が、ある時、旅をした。旅の途中ある宿屋に泊まった。此処の宿屋の主人は、二人の妾
(めかけ)を持っていた。その妾のうち、一人がとびっきりの美人で、もう一人は醜女(しこめ)に近い女であった。

 醜女の女は顔貌
(かお‐かたち)や器量も悪く、容姿も大して優れては居なかった。一方、美人の方は、まさに容姿端麗で、実に美人であった。二人の妾の上下関係は、醜女(しこめ)がこの宿屋では采配を揮い、美人の方はその下に居て、小間使(こまづかい)のように使われているのであった。

 荘子は、この二人の妾の上下関係に興味を持ち、そのわけを宿屋の別の奉公人に訊いてみた。それによると、宿の主人は、次のように考えていると云うのである。
 「美なる者を自ら美とす。われ、その美を知らざるなり。悪なる者は自ら悪とす。われ、その悪を知らざるなり」と。

 つまり、自分を美人と思っている女は、それを鼻に懸
(か)けるので、美人と思えなくなる。反対に自分を不器量と自覚し、大した容姿も持たないと謙虚に控えている女は、美人を鼻に懸けないので、こまめに下積みの仕事をよくやるのである。したがって、不器量が一向に気にならない。此処に醜美の差がでると言うのである。

 世の中には愚者の癖に、賢人ぶっている者がいる。また悪人の癖に善人ぶり、一端の善人論を論ずる者がいる。したがって、「自分は至らない」とか、「善人などではない」とか、謙虚に控えている人間の方が、よほど善人と云うものである。自分の悪を自覚するものは、既に悪人ではないのである。自分は誠実でないと自覚している人間の方が、口先だけで、「誠実」とか「至誠」を連発する人間より、よほど誠実で、一等も二等も上等な人間なのである。

 したがって、人相上からも、この事が言える。自分が美人だと鼻に懸けている女ほど、実は醜女
(しこめ)なのである。また、自分が「醜女」とか、「不器量」だと自覚している方が、実は、本当の美しさが漂っているのである。

犬眼の正体とは、霊肉ともに醜女だった。
 見た目が「可愛い」という女は、最近では“ごまん”といるのである。人相学上からは、走狗
(そうく)に使われ易く、また騙されるのもこのタイプで、画策者や扇動者の「策」に乗り易い凶運を抱えている。

 昨今は、自称「自分は美人」と自惚(うのぼ)れている女に、「犬眼の女」が多くなった。タレントでもスポーツ界でも、このタイプの女が多くなった。しかし、犬眼の女は、自分が実際には醜女であるのに、美人と自惚れているのである。
 犬眼の女とは、若い時はだけが「可愛くて」というこのタイプは、実は美人などではなく、その正体は不器量なのである。現代は、このタイプの女に騙される者が多くなって来ている。犬眼の女は時代の流行貌
(りゅうこう‐がお)なので、時代と共に変化し、実は美人などではないのである。

 春秋戦国時代、荘子がある宿屋で検
(み)た二人の妾は、自分が美人と思っている女が、実は第三者の眼から見て醜女であり、自分は器量が悪く醜女だと謙虚にしていた方の女が、実は美人だったのである。これこそ、現象界の皮肉である。
 したがって、此処から学ぶ教訓があるとするならば、女は「自分が美人」と自惚れて、他人からもそのように云われ、御世辞の言葉に有頂天に舞い上がると、立ち所に醜女に転落するのである。これが現象界の恐ろしさだ。

 一方、自分を謙虚に構え、頭を低くして容姿端麗を鼻に懸けず、控えめにしている女は、第三者の眼から見て、確かにその起居振る舞いなどが美人のそれに見え、顔貌
(かお‐かたち)美人へと移行するのである。此処には、有頂天に舞い上がる者と、それを控えめに押さえる者との鬩(せめ)ぎ合いで、心の持ちようによって、人間の貌は如何様にも変化すると云うことである。
 この荘子の話は、寓話であろうが、荘子はこの寓話に託して、人間の心の持ちようで、人相と云うものは、如何様にも変化することを云いたかったのである。



●現代を象徴する人相

 現代は「犬眼」を象徴する時代である。
 昨今の「犬眼」の繁殖は抑え難いものがあり、急速な勢いで殖
(ふ)えている。犬眼が殖えたのは、日本に於いては幕末である。幕末の、徳川幕府崩壊に繋(つな)がった倒幕運動は、「ええじゃないか」であった。

 この「ええじゃないか運動」は、幕末において、東海や近畿地方を中心に起った大衆的狂乱であり、背後にはその煽動者
(せんどう‐しゃ)がいた。
 尊王攘夷を巧妙に装った倒幕運動であり、農村にあった御蔭参
(おかげ‐まい)りの伝統を基盤とし、慶応3年(1867)8月頃東海地方に始まり、翌年4月頃にかけて近畿、四国、更には信州方面等に猛烈な勢いで広がった。神社の神符(しん‐ぷ)などが降下したのを契機に「ええじゃないか」の囃子(はやし)をもった唄を高唱しながら集団で乱舞した。

 本来、神符は神社などから氏子
(うじこ)や崇敬者または教徒や信徒などに授与する護符のことである。災厄をはらい幸いを招くために、神棚に安置したり、門戸や竈(かまど)のある台所などに貼ったりする札である。それが天より舞い降りたと言う。明らかに何者かが煽動した形跡が強い。世は、討幕へと傾いていた。外国勢力が日本を虎視眈々(こし‐たんたん)と狙っていた。当然、これに加担する人間が出てくる。裡側(うちがわ)から外国が入り易いように手招きする者がいる。進んで崩壊するように工作する者がいる。外国とは、「邪神界(がいこく)」のことである。邪神界の覇者に睨(にら)まれれば、この暗示に掛かる進歩的文化人と称する輩(やから)がいる。これがら、進んで裡側から邪神界の軍勢が入り易いように城門を開くのである。この手先が「ええじゃないか運動」の扇動者だった。走狗(そうく)だった。

 世には尊王攘夷が蔓延
(はびこ)り、佐幕か、倒幕かの雌雄(しゆう)を決して、双方が二分化して争った時代であり、倒幕運動が行われていた時でもあり、「世直し」的様相を呈するものもあった。

 「世直し」が姿を顕わすと、その裏には必ずその画策者がいる。国家や政治が、ある意図的な方向によってコントロールされる時、その背後には必ず画策者がいて、民衆を煽
(あお)るのである。
 その意味で、昭和初期の東京を歌った、民謡調の流行歌『東京音頭』は、「ええじゃないか運動」に匹敵する恐ろしいものが隠されていた。この『東京音頭』は西条八十作詞、中山晋平作曲で、初名は「丸の内音頭」と称されたが、影の仕掛人によって、1933年に改作されて、猛烈な勢いで全国に広まったのである。

日本国民を狂乱・乱舞に導いた『東京音頭』の戦争への翳り。日本中を狂乱・乱舞へと導いた映画『東京音頭』のポスター。 乱舞狂乱に明け暮れる東京音頭を踊る、踊りの輪。

 当時、この『東京音頭』が戦争への第一歩であったことを本当に知る人は少ないのである。
 しかし、この『東京音頭』の裏側に、大衆への愚昧
(ぐまい)工作があったのである。

 賑
(はな)やかな「出だし」と、軽快なリズムの前奏に導かれて、「踊り踊るなぁら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ」という歌詞にはじまる『東京音頭』(作詞・西条八十、作曲・中山晋平)は、花柳界の芸娼妓であった小唄勝太郎(こうた‐かつたろう)が歌い、この歌は昼となく夜となく、家のラジオに載せて、街のレコードに載せて、そして夜の巷(ちまた)に繰り返し流された。

 帝都
(皇居のある都の意)を始めとして地方にも波及し、世を上げて踊り狂うかのような勢いで瞬(またた)く間に大衆に浸透し、大衆は大衆でこの歌を口ずさみ、あるいは歌に合わせて手振り身振りを行い、踊狂ったのである。

 町内のあちらこちら、公園や広場や商店街の街角には、時期外れの盆櫓
(ぼん‐やぐら)が組まれ、蓄音機から『東京音頭』が流れ始める。すると同時に、邦楽・同門を思わせる着物の姿の女衆が音楽に合わせて踊り始める。そしてこの集団に、着流し姿の男衆が加わり、踊りの輪は広がっていった。

(ハアー)踊り踊るなぁら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ
  花の都の 花の都の 真ん中で
(サテ)
  ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
  ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

       (以下合の手、囃子言葉省略) 

 
ハアー 東京よいとこ 日の本照らす 君が御稜威(みいつ)は 君が御稜威は天照らす

 
ハアー 花は上野よ 柳は銀座 月は隅田の 月は隅田の屋形船

 ハアー おらが丸の内 東京の波止場 雁
(かり)と燕(つばめ)の 雁と燕の上り下り

 
ハアー 君と臣(たみ)との 千歳の契り 結ぶ都の 結ぶ都の二重橋

 ハアー 西に富士ヶ嶽 東に筑波 音頭とる子は 音頭とる子は真中に

 ハアー 昔ゃ 武蔵野 芒
(すすき)の都 今はネオンの 今はネオンの灯の都

 ハアー 花になるなら 九段の桜 大和心の 大和心のいろに咲く

 ハアー 幼馴染の 観音様は 屋根の月さえ 屋根の月さえ懐かしや

 ハアー 寄せて返して 返して寄せる 東京繁昌の 東京繁昌の人の波
  

 『東京音頭』の歌詞に、別段意味があるわけではない。むしろ繰り返しによる痴呆(ちほう)に近いものすら感じさせる。ただ歌詞の二番目の「君が御稜威(みいつ)は 君が御稜威は天照らす」と五番目の「千歳の契り 結ぶ都の 結ぶ都の二重橋」の一節が天皇賛美が織り込まれ、また四番目の「雁(かり)と燕(つばめ)の 雁と燕の上り下り」は、性的なイメージを抱かせるものだった。

 この『東京音頭』は昭和8年8月1日、東京の芝公園で開催された盆踊り大会「東京音頭踊り」で披露された事が切っ掛けでした。レコード売上は130万枚に及び、東京音頭ブームは神奈川県等、隣県はもといり、大阪や地方各地にも波及し、満州国、ブラジル、アメリカ等の海外在留邦人にも及んだ。

 この男女の踊りの態
(さま)は、まさに、江戸末期の幕府崩壊寸前の「ええじゃないか」を彷彿(ほうふつ)とさせる光景であった。
 男女の踊り社中に合わせて、今度は通り掛かりの通行人までが、この踊の輪に加わり、膨れ上るばかりであった。こうしたことが、短い夏場の季節だけではなく、秋口にかけても踊り明かす光景が見られたと言う。

 こうした大衆コントロールの裏に、大衆の愚昧化
(ぐまい‐か)を狙った内務省や在郷軍人会の画策があった。
 内務省は警察・地方行政・選挙その他内務行政を管轄
(かんかつ)した中央官庁であり、1873年(明治6年)に設置され、廃止に至る1947年まで続き、暗黒政治の震源地であった。
 そして内務省といえば、憲兵に匹敵する存在であった「特別高等警察」の猛威を忘れる事ができない。

 この組織は一般には「特高」の名で広く恐れられ、特に、思想犯罪に対処する為の警察である。特高は、内務省直轄の警察組織で、各憲兵司令部下の憲兵と伴に、政治や社会運動等の弾圧に当たった。
【註】戦後は警察庁公安部に属し、「革マル派」等の過激派を取り締まる外事警察と、内事警察からなる公安刑事課を組織している)

 
また在郷軍人会は、予備役・後備役・帰休兵・退役等の軍人から組織された集団で、平時は民間にあって正業につき、戦時や事変に際しては、必要に応じて召集され、国防に携わるという、主に予備役軍人からなる在郷組織であった。
 しかし忘れてはならないことは、内務省の指導に基づき、その指導下で地域住民を監視したり、思想犯罪等を監視する「街の眼組織」でもあったということである。

 こうした組織は、世の中が混沌とし、鬱憤
(うっぷん)が溜まったり、大衆の思想が体制批判に趨(はし)るのを防止すると同時に、世相をコントロールする役割も担っていたのである。
 『青年日本の歌』が流行する直前、内務省が画策した『東京音頭』は、大衆のこうした矛先を変える意図を含んだ流行歌であったのである。

 そして世の中は、
5・15事件2・26事件の軍閥(ぐんばつ)クーデターを経験しつつ、東条英機内閣の登場で日本は太平洋戦争突入へと、軍靴の足並みを揃えていくのである。
 アメリカの突き付けた最後通牒
(さいご‐つうちょう)は、完全に和平交渉の希(のぞ)みを断ち切り、日本海軍は真珠湾Pearl Harbor/ハワイ、オアフ島南岸のアメリカ海軍根拠地)に奇襲攻撃を敢行した。それは奇(く)しくも、日本列島が焦土と化す、前触れであり、滅びの第一歩だった。

 大衆が操られる場合、その先鋒となるのは「犬眼」の相を持った集団であり、ひと握りの仕掛人に操られる運命にある。今風にいえば、ネット上での評論をするブロガーであり、これが煽動者となって、まるでヌーの群れをコントロールするように、煽動によって集団を引き回すのである。昨今の金融経済の「申し児」であると言えよう。

 こうした状況下では、真摯
(しんし)に働く者が少なくなり、現場の実体経済を嫌って、危険や汚れのない知能労働へ走ろうとする社会的な傾向が派生する。
 こうした実情を歴史から振り返ってみると、それは江戸時代の庶民に求めることが出来よう。
 この時代の庶民の観相は、江戸中期頃までは、現代日本人の平均よりも、丸顔が主体であり、骨相からいっても、顔の長さは短く、幅は広い傾向にあった。つまり丸顔であり、かつ顎
(あご)が大きく、ありいは四角で、外向的な行動力を持った人が多かった。実体経済に従事する現場で働く者の象徴であり、その多くは農民であり、あるいは町方の職人らであった。

 ところが江戸中期になると、大衆とは異なる一部の特権階級などの出現により、将軍家や公家などの出身者は、庶民と異なり、鼻筋が通って、鼻が高く、細面
(ほそおもて)の瓜実顔(うりざね‐がお)が浮世絵などで持て囃(はや)されるようになる。また、時代のそれに応えたように、庶民の顔も瓜実顔願望に変わっていく。
 この一つは、当時の女性の思考に原因があり、この頃から、女性は役者絵に出て来るような瓜実顔の持ち主を良人
(おっと)に迎える考え方が流行する。江戸時代は中期・後期を通じて、良人選びは女性に主導権があり、女性の好みで良人が選別され、その子孫が後世を担うことになる。

 この当時の女性が、憧
(あこが)れに抱いた良人像は、将軍家や公家などに見られる細面で、瓜実顔の男だった。また、結婚適齢期の男も、歌磨呂の浮世絵に描かれるような細面の、鼻筋が通った、眼元涼しげな女性が好まれた。平安時代以来の美人の対象が、下膨れの卵型から細面に変わり、瓜実顔が好まれたのだ。

 しかし、世間の全般は、依然として丸顔が主流の時代であるが、当時は細面で、然
(しか)も、顎(あご)が細い男女を美男美女としていたのであるから、名家や貴族では、好んで細面の顔が珍重がられ、庶民にもこれが流行していくことになる。こうした時代の転換期に、出現したのが「犬眼」だった。この眼の持ち主は、瓜実顔で、やや顎が尖(とが)って傾向にあり、時代の流行が「犬眼」をつくり出したと言える。

 また、昨今の「犬眼」の登場は劇的である。
 それは顔色の変化から読み取る事が出来る。その変化は、決して二十年前、三十年前には見られなかった変化である。時代と共に流行し、あるいは衰退し、時代の転換期に、またパッと殖
(ふ)えるのである。



●犬眼はなぜ登場したのか

 「犬眼の持ち主」は、八門遁甲相術によると、「走狗(そうく)の輩(やから)」を云う。
 走狗の輩とは、「使い走り」あるいは「鉄砲玉」のような、画策者や煽動者
(せんどう‐しゃ)に先駆けて「露(つゆ)払いをする人種」である。つまり、他人の手先となって、使役される人種のことだ。また、この人種は、資本主義体制下にある場合、集団心理によって作られる場合が多い。走狗は意図的に画策者や煽動者の仕掛けに嵌(は)められて、踊るタイプの人間である。然も、その基本性格は、「感情に掻き回される人」である。

 そして、このタイプの人間は、現代では老若男女を問わないようだ。
 例えば、あらゆる世代の中で、特に若者は「祭り好き」である。これは集団心理から考えると、独立心のない者ほど「群れる」あるいは「群れの中に身を置きたがる」という心理が働いている。また、芸術家とか、写真家と称する人は、集団心理で起こる祭りに対して、なみなみならぬ執念と興味を抱く。それは、祭りこそ、人間社会の根源だと考えるからである。その為に、祭りは一方で進歩的文化人達にも利用され、画策される一つのセレモニーとなり得る。大衆を釣るには、恰好
(かっこう)の材料であるからだ。

 かつて、幕末に「ええじゃないか」の倒幕運動が起こった群集心理は、既に述べた通りである。また、昭和初期の民謡調の流行歌『東京音頭』は、裏側に、大衆への愚昧
(ぐまい)工作があったことも既に述べた通りである。これにより、大正デモクラシーは、民主依託により、軍国主義へと変貌していく。国民が、民主主義のルールによって選挙で、軍人が選出されたまでのことである。これを民主独裁と云う。ヒトラーも民主主義のドイツの中から生まれて来た。
 大衆と云うのは、時の体制から搾取
(さくしゅ)されるばかりでなく、祭りなどのセレモニーによっても、愚昧化され易いのである。
 これは人間社会を冷静に見詰めて、社会生活は「祭り」から始まったと言える。

 近年も、多くのファッション系のグラビア雑誌などを見ると、まず巻頭・冒頭に祭りが出て来る。そこに映し出された写真には、若者のが踊っている。「地域の絆
(きずな)だ」とか、「人間の触れ合い」だとか、「魂の雄叫びだ」とか、「青春の謳歌(おうか)だ」とかの説明が付け加えられている。尤(もっと)もらしい能書きは付けられているが、また、最近は暴走族が出張って暴走行為をやるのにも、多くの若者が、野次馬とかして詰め掛ける。この意味からすれば、暴走族の暴走行為も一種の祭りであろう。
 更に、花火大会一つを挙げてみても、若者に限らず、老若男女までが、こぞって詰め掛ける風潮が生まれた。挙げ句の果てに、将棋倒しになって、死者まで出す始末だ。

 若者は、こうしたセレモニーに釣られる。祭りに釣られる。
 若者の多くは、ロックに集
(つど)い、祭りに集う。特に、土俗的な祭りに集う若者に、識者は彼等の深層心理の底に沈む、魂を検(み)る。検て確信する。それが先祖と繋(つな)がり、先祖帰りする魂を……。
 このように検るのは勝手だが、そのように見られていることを、若者の多くは意に介さない。彼等の心理は、群集心理に載せられた祭りがあるだけである。

 祭りがあり、人々が集うから、それに押し掛けるだけのことである。人々が押し掛けるところには、一応、首を出してみると言うのが、若者の顕著な特長の一つである。今はやりの店に、長蛇の列ができるのもこの為であろう。
 裏を返せば、自己が強烈でないから、例えばロックコンサートなどに集い、そこで見ず知らぬ者と群れて、それに自己主張の持たない若者同士が、一緒に足を踏みならし、拳を振り上げていることだけである。

 しかし、こうした行動に走らせる裏には、仕掛人がいることだけは確かだろう。それは黒子
(くろこ)だけに、若者の平面的な頭脳と、肉の眼には捉え難いだけのことである。

 一方、祭りに出かけた男女は、祭りに単純に集うだけか。終われば直ぐに帰るだけか。解散するだけか。そこには「旅の恥は掻き捨て」現象が起こる。旅では、知っている人がないから、どんなことをしても恥辱にならないという意味の解釈は、オリンピック参加者の誰の心の中にも存在しているのではないか。するかしないかは、その人の人格にもよろうが。
 オリンピックに詰め掛けた、観戦客や一部の選手の不届きな輩
(やから)は、オリンピックと云う祭りに参加し、それで終了すれば、素直に帰るのか。そして、オリンピックの直接的・間接的関与で、この時ばかりとエイズが蔓延(まんえん)したのは周知の通りである。

 もともと、人間が祭りするという「裏の目的」は男女の営み、それも性交があるからやるのではないか。それを期待して、また群れて集うのではないか。これは「ロックコンサート」などを介した催し物の多く見られる。
 また、裏の目的こそ、「奇祭
(きさい)」の要素を孕(はら)んでいる。祭りには、裏の目的を孕むことが多い。したがって、世には奇祭と称される祭りが多い。
 裸祭り
【註】裸踊りは、男の肉体の品評会であり、それを女の眼から見で品定めをする)とか、暗闇祭りとかの類(たぐい)である。何れも、これらの起源は呪術である。シャーマニズム(shamanism)に端を発している。

 日本の場合、民族の種は「農耕民族」である。農耕民族は稲作をする。昔、農業に従事する人々は、稲を植え、その豊かな実りを促
(うなが)す為に、田圃(たんぼ)の横の畔道(あぜみち)で性交をした。これが「性交祭り」である。これは一種の呪術から来ている。呪術に携わる者をシャマンと呼ぶ。
 シャマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教様式こそ、シャーマニズムの中枢をなす。また、日本では審神者
(さにわ)としての媒介者は巫女(みこ)・神子(みこ)等の名で知られる。神に仕えて神楽や祈祷を行い、または神意をうかがって神託(しんたく)を告げる者である。

 性交祭りも神託によって告げられた祭りであった。畔道で人間の男女が性交をすると、稲がそれを感じて興奮し、沢山の実
を結ぶと告げたからだ。そうした「呪術信仰」が、現代では祭祀(さいし)という形を採って受け継がれている。
 かつて、暗闇祭りの夜は、男女が性交相手を探して屯
(たむろ)し、相手を得て性交したと言う。人妻も、その夜ばかりは、他の男と交わっても許されたのである。

 この呪術は、やがて儀式となり、農耕民族の一年に一度だけの、開放する祭りとなった。この開放された夜が、一年に一回あるからこそ、それ以外の暗くて重たい日々の重労働に耐えられるのである。総ての呪術は、性交の起源に回帰される。呪術から祭祀も生まれ、性交の根源には祭祀が関与していたのである。
 祭りとは、そのようなものである。祭りのメーン・イベントは、「裏の目的」にある。

 一方、巷
(ちまた)では、慢性病であるガン疾患などに合わせて、現代の黒死病と云われるエイズが大流行している。このことはあまり報道されないので、その猛威に気付かないが、水面下では、確実に増加・培養されている。
 人工の病気・エイズは、特別な起因を持つ、奇怪なウイルス
(レトロ‐ウイルス科レンチウイルス亜科に属するRNAウイルスで、血液・精液を主とする体液が感染源となる。HIVとも)で構成されている。

 だからこそ、エイズ
acquired immunodeficiency syndrome/後天性免疫不全症候群)なのだ。不治の病である。総て、祭りから齎(もたら)されたものだ。祭りから齎されたが、今なお、決定的な治療法がないのである。祭りの多くは「奇祭」であるからだ。奇祭は、シャーマニズムの呪術による。
 したがって、呪詛から起こったものが、簡単に解明されることはない。霊的なものが絡んでいるからだ。霊的なものが絡んでいる場合、人間の眼の持つ、三次元だけしか見えないものは、三次元以上のものを見ることができない。

 今日でも、いろいろな治療法は研究されているが、効果的な極め手となる治療法は見つかっていない。三次元医学では無理だろう。その上、その他の性病と異なり、余りにも発病が遅い為に、感染しても自覚症状がない。また、この病気は、ホモの満ちた巷に、爆発的に拡がった。今も急増の傾向にある。
 エイズは推定からも分かるように、広島や長崎の原爆を遥かに上回る、実に甚大な被害を人類に齎
(もたら)している。

 感染者の多くは生涯のうちに発病し、発病者は勿論、外見は普通の健康人と何ら変わりがない。これこそが「くせ者」なのだ。特別な変化がない為、感染者も他人に伝染させる危険性がある。また、性情報が大量に溢れる現代社会の傾向は、人間本来の欲望である性欲を否定する事は出来ない。

 この性欲と絡まった病気がエイズだった。この病気の感染者は、今なお膨大に膨れ上がる傾向にある。10年間に100万人以上がエイズに罹
(かか)り、6ヵ月でその内の約半数が、一年間でその内の80%がエイズに罹り、病床の床に伏した後に、死んで行くとなると、その費用は膨大なものになるであろう。
 エイズは、人間の性欲が齎
(もたら)した現代の黒死病であり、その一方で、必然的に出現した、内部からの致死因子である。

 現代人は、この致死因子の存在を誰もが認識している。この存在は、小学校から指導しているし、恋人を求める適齢期の男女共なれば、その認識も、もっと具体的であろう。しかし、「くせ者」が内部からの致死因子であるばかりに、男女も、あるいは男同士も、お互いを観
(み)る眼は、一種独特の異様さを伴っている。

 それは、「相手がエイズを隠しているのではないか?」というような……。
 そして今、人の心の裡側
(うちがわ)に隙間風(すきまかぜ)は吹き捲(ま)くり、その「犬眼」同士が肚(はら)の中をさぐり合う目付きは、これまでには見られなかった異様さを伴っている。奇祭に踊った、走狗への酬(むく)いか。



●顔は周期によって変化する

 人間の顔は、親から貰った骨格と、下絵となる線の上に、肉付けをし、色彩を載せて行くのは、当人のその後の心掛けによる。行動や考え方による。貧相になるか、裕福な相になるか、それは心の持ち方で決定される。あるいは自分の取り巻く環境によって変わる。

 顔の土台となる骨組みは変わらなくても、環境や生活、職業や思想、運動量や健康状態、思考力や統率力、教養や愛情面が、顔には克明に顕われて来る。心掛け次第で、肉付が変わり、色彩が変わる。その変化の態
(さま)が、やがて運命を決定付ける顔へと変貌(へんぼう)して行く。

 顔に潜む人の運命を、八門遁甲・相術篇では、「観相」と言い、あるいは「人相術」と言う。
 一般に人相と言えば、形あるものを外側を見て、表皮の美醜を窺
(うかが)い、これを評論し、無理なこじつけの、それらしい理屈を付けて、ああだ、こうだと外側を論ずるが、これは実に短見的である。
 本来、観相とは、その中身を見抜く術であるからだ。
 顔の外形を作っている心の顕われが、実は顔なのである。そしてその顔には、その人の運命を判断する陰陽の支配が記されているのである。
 その陰陽は、周期を以て変化する。

 八門遁甲相術では、まず、人間の外観や顔立ちを観
(み)て、更には躰(からだ)付きを観て、それから肝心な中身を観(み)にかかる。その中身は、性格や思考力や、人間の程度やランクまでが即座に分かってしまうのである。
 人間の顔は、時と共に変化している。人間の性格は過去世
(かこぜ)からの因縁を引き継いでいるものであるから、生涯変わることはないが、因縁は昇華(しょうか)のさせかた如何で変化し、同時に顔付きも変わってくる。それは、性格とは関係なしに、考え方が変わるからだ。

 中庸
(ちゅうよう)に位置するものは、顔の捻(ねじ)れが少ないが、陰陽のバランス失い、運命の陰陽に支配されている者は、顔が、正面から観て、9年(7年周期と言う説もある)ごとに左右いずれかの捻れになって、運命の支配を受ける。この支配を受けている最たる人間は、芸能人やスポーツ選手、それにアナウンサーや司会者、および政治家らである。
 口を使うことを職業にする人間は、周期ごとに、左右何
(いず)れかに回転して曲がり、中庸を失う、運命の支配に左右されている。

 この捻れの周期に並行して、病気も顕われて来るのである。
 無神論者は「顔で運命が変わるはずがない」と断言する。顔を見ただけで、何処に病気があるか、どういう思考力の持ち主か、そういうところまで見抜けるはずがないと言う。しかし、やはり「分かる」のだ。
 「相手を知り、己を知れば百戦することも殆
(あや)うからず」
 兵法で孫子
(そんし)は、そう述べているではないか。

 これは、親から受け継いだものを、ただの石ころに終らせるか、一生懸命に磨き上げてダイヤモンドにするかは、あなたの心掛け次第であると云っているのである。

 人間の顔は、情況に応じて各々の表情を見せる。同じ骨格、同じ下絵の線引きの上に、環境の変化が加わり、様々な表情を顕わし、それが時間と共に、周期的に変化して行く。水面下に潜んでいる深層心理の一片が顔に顕われる事もある。こうした動きが、顔の表情となって顕われて来るのである。

 また、病気の発病や健康状態も顕われ、食べ物の嗜好
(しこう)まで顕われる。例えば、ガン体質、あるいは動物性蛋白質が好きな人は、まず歯に顕われ、歯がその人に応じた肉食的な顔になる。肉を切り裂く為に、肉の常食者は歯が変化し、それが顔に顕われる。
 八門遁甲・相術では、これを「獣人
(けだもの‐びと)」と判断する。

 このタイプの人は、放射線に弱く、肉の常食が祟
(たた)ってガンになり易い。筋肉質で眼鏡の思える人でも、肉の常食者は常に血液を汚染しているので、細胞の各部位に炎症を起こしていて、ガンの兆候が著明になる。
 ガンで斃
(たお)れる人は、既に肉食の常食を開始して、三ヵ月足らずで顔に顕われて来る。ガンは一種の憑衣現象であるから、これに関与しているのは、三代前までの血縁者を探す事により、憑衣霊の正体が割り出せる。病死した三代前までの先祖の不成仏霊だ。

 次に、精神分裂病などの精神障害も、発病以前の10代後半から20代前半にかけて、顔に顕われている。そして多くは、30代を前後として発病する。神経症や内因性の病気も、既に顔に顕われている。顔が、つまり人間の運命を暗示していると言うことになる。それを決定するのは、主体が食べ物であり、動蛋白摂取が過ぎれば、その危険信号が顔に顕われ、やがてその後、病気が発生している。

 では、病気の病因は、いつ頃に姿を顕わすのか。
 「三つ子の魂百まで」という諺
(ことわざ)がある。これは幼い時の性質は、老年まで変らないという事だ。
 現代人を見てみると、確かに3歳で基本的には、日常活動が行えるようになる。会話や食事、排便や睡眠はこの時代に正体を顕わし、この性質を伴って、基本的性格が確定される。これが後天的な性格であり、これが過去世
(かこぜ)からの習気(じっけ)と合わさり、殆(ほとん)ど変化する事なく、死ぬまで続く事になる。
 そして、病気の病因は、7歳までの幼児期に家庭内で、どのような躾
(しつけ)をされたかで、ほぼ決定されてしまうようだ。



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