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相術と八門古典物理学 1
八門人相術 プロローグ
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八門人相術 プロローグ


八門遁甲相術篇・人相術 プロローグ



●現代を生きる為の智慧

 
19世紀のイタリアにロンブローゾ
Cesare Lombroso/1836〜1909)なる精神科医で精神病学者がいた。この人は職業柄、各地の刑務所巡りをして「犯罪人類学」を創始した人物である。また、ロンブローゾの主著『天才と狂人』は有名である。

 ロンブローゾは人相を徹底研究した精神科医で知られ、全く初対面の犯罪者の貌を検
(み)ただけで、傷害犯か、窃盗犯か、詐欺犯か、強姦犯か、誘拐犯か、殺人犯かをぴったりと言い当て、100に1つの間違いもなかったと言う。また、犯罪には犯罪の原因や、その遂行過程についての法則性の発見ならびに犯罪抑止についての施策を対象とする犯罪学(criminology)があり、人間はこの中の行動規範に該当する、違法かつ有責な行為が含まれるとされる。法益侵害行為がこれであり、その度合いは人相に関連づけて表現されるとも云う。したがって、犯罪者は人相に犯罪行為の何れかが出ると言うのである。これがロンブローゾは言い当てた理由だった。

 これは、人相と云うものが、それだけ的確に人間の貌に顕われるという事になる。つまり、人相とは「的確」なものということになる。

 さて、四書の一つに『中庸
(ちゅうよう)』なるものがある。この『中庸』には、天人合一の法が説かれ、中庸の「徳」と、徳の「道」とを強調した儒教の総合的解説書である。これは孔子の孫にあたる、子思(しし/中国、春秋時代の学者で孔子の孫にあたる。前483?〜前402?)の作とされる。
 この書の中に、「莫見乎隠、莫顕乎微」の言葉があり、これは「隠れたるより現わるるはなく、微かなるより明らかなるはなし」という意味である。

 つまり、貌
(かお)には心の裡(うち)の心情や動機などの「隠しに隠している」ものが心と同じくらいに、微かに現われていると言う事を云っているのである。極秘の打に行動したことも、天から見れば、既にバレているのである。誰も居ないからと云って、それは極秘行動だとしても、天はそれを見ているのである。したがって、「内緒事」は人間が行動した限り、それは天が見ていて、バレているというのである。

 これこそが「隠れたるより現わるるはなし」の意味であり、内心のことは総て貌に出るというのである。
 ロンブローゾは当時ではトリノ大学医学部の精神医学ならびに法医学の教授で、犯罪者は人相的かつ骨相的に、犯罪者たるべき先天的運命を背負わされているという説を打出したのである。これは、かの有名な「犯罪人類学」を創始した起因となっている。

 もし、この学説が正しいとするならば、犯罪者を逮捕して幾ら刑務所に送り込んでも、出所すればまた同じことを繰り返すだけなのである。犯罪者が刑務所に入り、刑期を終えて再び社会に舞い戻れば、また同じことをして逮捕され、刑務所送りになる実情から考えると、ロンブローゾの犯罪人類学の学説も満更嘘ではないことになる。

 犯罪人類学の学説に基づいて人間を検
(み)ていけば、犯罪の起こる原因は政治の貧困とか、社会構造の欠陥とかの、こうした事ばかりではなさそうだ。したがって、貧富の差に関係なく、犯罪は貧困が派生させるという学説は、信憑性を失うことになる。現に、裕福でありながら、最高学歴も高く、知的能力が高いと言う連中の中にも、一定割り合いの分布で、クズと云われる人間がいる。東大出で官公庁のキャリアと云われる官僚の中にも、大半を東大出で占めるNHKの職人の中にも一定量のクズが居て、痴漢などの強制猥褻や、放火などをして廻る善人ぶった悪人がいる。
 つまり、犯罪と知的能力は無関係であると云うことである。また、モラルと知的能力も無関係である。

 日本では、最優秀のエリートを集めているとされる財務省や日銀でも、贈収賄などの不詳事を引き起こして、摘発されるクズがいる。要するに知的能力とモラルとは一切関係なしに、一定比率でどうしようもないクズが、現象人間界では派生すると云うことである。

 悪人の癖に、善人ぶっている偽善者も済度
(さいど)し難いものはないのである。迷える人間は、悟りなど程遠いレベルの人間である。まや、悪人とは云わないまでも、欲の皮を人一倍突っ張らせ、君子ぶっている偽善者は世間には“ごまん”といる。こうした手合いに騙(だま)されない為には、人相術を学び、微かな貌に顕われる異常を読むことが現代を生きる為の智慧(ちえ)であろう。



●人の顔は人生の結末までを物語る

 人間の身の周りには、常識では考えられないような、思い掛けないことが、突然として振って湧いて来る。また、身の上にも、禍福(かっぷく)が連続したり、これにより人間の一喜一憂の生活は流されて行く事になる。この流れを観(み)る時、人は「運命」と云う言葉を思い出し、その支配に左右されているのではないかと、疑い始める。 運命は、常に人間の陰陽を支配していて、流れの周期ごとに禍福が顕われる。
 この周期は、運気を顕わすバロメータであり、運命学には大雑把
(おおざっぱ)に言って、平運期、順運期、盛運期、衰運期、凶運期の五種類に分けられ、これが各々に並び、生まれた星廻りの運行に隨(したが)って、次々に繰り返される。

第一星廻り
第二星廻り
第三星廻り
第四星廻り
第五星廻り
平運期
順運期
盛運期
衰運期
強運期


 したがって、先ずこうした循環を知ることが大事であり、各々が、何年周期か、何ヵ月周期かで循環することを知る必要がある。更に、一般人が人生において事
(こと)を為(な)す場合、最も理想的な形は、平運期に事を計画を立案し、順運期にこの準備を始め、盛運期にある程度の基礎固をして一時的な成功を納めて貯えを残し、衰運期に入ったら拡張や展開をやめ、凶運期に入ったら、足踏みするか、潔(いさぎよ)く総(すべ)てから手を引く事である。

 こうした循環が誰しもあり、この陰陽の周期によって支配された人生を送っているのである。世の成功者と言うのは、こうした運命の循環と、その周期の陰陽の波を知り、それを繰り返し、実行して成功を納めているのである。
 しかし、世の多くの人々は、これを無視したり、これ等の行動の反対の行動に出て、みすみす失敗を繰り返しているのである。要するに、凡夫
(ぼんぷ)・俗人と言うのは、最悪の凶運期に、ばたついて、何かしようと焦るわけである。そこで辛抱(しんぼう)すると言う粘りがないわけだ。

 また、こうした凶運期に、どうしても惹
(ひ)かれてしまって、その方向に流されてしまう人も少なくない。何をしても失敗する人は、こうした星廻りの運命を背をって生まれて来ているのである。人間の顔には、こうした運命が描かれている。そして運命の結末でも、それが顕われるのである。

 人は、人間を観察する時、他人の顔を見て、そこから、その人の人柄を窺
(うかが)おうとする。こうした事は日常の中で、誰でもやっていることである。初対面であっても、その人が、どういう人であるか、本能的に相手を見抜こうとする。

 見抜こうとする者。また、見られていると観ずる者。
 そして、見られていると気付いた時、本心は見抜かせまいとして、それに些
(いささ)かの抵抗を示し、表情を意図的に作り替えて作り笑いをする人、優しそうに柔和に振る舞う人、人の顔色を窺(うかが)いながら小狡(こずる)そうに立ち回る人、小心者の性格を隠す為に傲慢(ごうまん)に猛々(たけだけ)しく振る舞う人、短気や感情を露(あらわ)にする人、饒舌(じょうぜつ)巧みに話し掛けて、自分の劣等感を隠そうとする人など、様々であり、何らかの抵抗を感じ、同時に何らかの印象を受ける。
 こうした観相への攻防の術が、まさに
八門遁甲・相術なのである。この術を用いれば、どんなにうまく装っていても、化(ば)けの皮が剥(は)がれてしまうのである。

 人間の顔は、中年期から初老(40歳)の壮年期にかけて、克明にその性格が表現される。それは思考的かる性格的な表現が克明になる時期であり、この時期の於て、人間の観想は固定する。したがって固定した観想は、その後の習性によって変化させることが中々難しい。これが性質や性格の固定である。これは過去世(かこぜ)からの習気(じっけ)の固定であり、過去世から引き摺った因縁が直接顔に顕われるという事である。そして、一旦固定化されれば、その運命の陰陽により、人生を全うすることになる。
 例えば初老において、目尻の「魚尾
(ぎょび)」周辺に皺(しわ)が顕われ、上瞼が中央より外側に向けて垂れれいるように見える男は、心の裡(うち)に「臆病」を抱え、小刻みに保身の為に奔走するそうである。企業経営者ならば、社員の為でなく、自分の為に奔走するタイプである。同族企業の経営者などに多く見られる相である。二世三世の御曹子に多い、初老を迎えた頃の人相である。そして深層心理の中には、「お坊っちゃま」から来る、「怕(こわ)さ」を抱えている。
 人類を破局に導くのはこうしたタイプの人相であり、自信満々が将来の「見通し」を誤らせる。

 人の顔には、各々表情がある。
 目尻が吊り上がり、気が強くて、意地っ張りで剛情
(ごうじょう)そうな顔。目尻が下がり頬(ほほ)がふくよかで、心優しさを窺(うかが)わせる顔。だらしなく唇(くちびる)が開き、嫌らしさを感じさせる顔。抜け目ない目付きをして、周囲を窺い、他人の弱点や隙(すき)を窺う顔。顴骨(かんこつ)が盛り上がり、闘志を感じさせる顔。鼻が鷲鼻(わしばな)で、金銭に執着を示するユダヤ人的な顔。人を威圧し、自分の意図するままに事を運ぼうとする悪賢い顔。文盲や弱者を搾取(さくしゅ)する理論家の顔。

 顔にはこのように、顔の骨格や造りにおいて、際
(きわ)立った人間の性格が顕(あら)われており、その人の人格と、人間性が秘められている。こうしたものを読み取るのが、「人相術」であり、あるいは「性格判断」と言われるものである。

 また、人の心には限り無い感情が渦巻いていて、これが心の豊かさとなって、心の延長である、顔に表情が顕われて来る。顔の表情は脳で演出され、その輪郭
(りんかく)は、脳そのものが顔を顕わしている。
 【註】現代医学では、心は脳に存在すると言われているが、脳は記憶装置であり、心は過去世からの性格を受け継ぐ機能であり、両者は別物である。記憶装置は記憶するだけで働きを伴わないが、機能は働きを伴い、またアクションを起こす)

 医学上、顔には150前後の大小様々な筋肉と、神経分枝が奔(はし)っていると言う。これ等が混合神経である顔面神経を構築している。その支配下には、中間神経と言う小さな神経が付属している。更には、気の循環する経路(けいらく)も通っている。
 ある顔を評して「気色が悪い」などの言葉があるが、「気色」は「気」と「色」のことであるから、顔には気か循環し、気の循環が色を顕わしているといえる。
 そして、これ等が交錯
(こうさ)し、複雑に絡み合って、脳の延長の程を窺(うかが)わせ、脳の顕われが顔でもあると言う。顔こそ“第二の脳”なのである。

顔正面経路
顔横面経路

 人間の顔は、確かに脳の造りを顕わしているものと言える。脳の造りが顔貌(かおかたち)を決定していると言える。しかし、これは形の上においてである。その流動体たる心の動きは、変化が激しく、この顔貌の上に乗って、「今」という表情を顕わして行く。この表情には喜怒哀楽があり、その場その時の一喜一憂がある。顔は、こうした情況に敏感に反応する。

 また、こうした表情には、「七情」の七種類の感情が顕われる。素問霊枢
(「素問」と「霊枢」に2分されたテキストのことで黄帝内経/こうていないきょうでは、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚を指し、礼記(らいき)の礼運篇では、喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲を指し、仏家では、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲を指す。

 七情は必ず表に出て来る。顔に出るのだ。心の動きに敏感に反応するのである。
 心配事や不安が心に中に蟠
(わだかま)っていれば、憂鬱(ゆううつ)となり、感情が波立てば怒りになり、孤独に浸れば、人恋しさとなって、それが顔に顕われて来る。

 古代中国の観相見は、七情などを基盤にして、更にこの上に、顔面を左右130ずつの260に分割し、各々の箇所に顕われる色、表皮上に隠れた筋肉の動き、骨格および肉付などを検討して、そこから観
(み)る相手の人柄と運勢を見抜こうとした。
 また、神経組織やホルモン分泌などの生体学上の論理も加え、様々な統計と照らし合わせ、そこから人間の本質を判断する極め手を導き出そうとした。

 一般に、「人の顔は履歴書である」などと言われる。
 人の顔には、各々に経歴が刻み込まれているものである。しかし、運命を考えるならば、人の顔こそ、人生の総決算を顕わす、決算書ではないかという事がいえよう。人生の結末まで、顔から読み取れるのである。どのような死にからをするか、顔には予
(あらかじ)め記されているのである。

 人間の顔は、先天的には、親の遺伝を受け継いだものである。親からの貰いものである。しかしそれは、先天的なものが引き摺
(ず)る余韻(よいん)として、せいぜい13〜15歳までであろう。それ以降の顔は、変化に順応する。後天的には、当人の心掛けがものを言うようになる。この年齢を境にして、親の授かり物とは、訣別(けつべつ)するのである。

 親から授
(さず)かった骨格や下絵となる線は変える事が出来ないが、その上に色彩を付けて行くのは、親の顔を引き継いだ当人の心掛けであり、見栄えのするように仕上げを施すのは、これを受けた、これからの、あなた自身なのである。
 そして、それ以降、あなた自身の顔には、これからの運命の一切が刻み込まれることになる。



●顔に暗示される崩壊の刻み

 さて、人間の顔を「観相」として人相術的に探究すれば、それは心の齎(もたら)す意識であると言えよう。人間観察の結果から齎されるものは、その論拠として、顔を形成する上での「意識」がある。そして意識を形成するものは「育ち」であり、育ちはその人が取り巻かれていた環境である。

 例えば、育った家庭が、「恵まれていた」とするならば、こうした環境にいた人は、事象スポーツマンを気取り、自分では行動力もあると自負している。その根底には、エリート意識はかなり根強く蔓延
(はびこ)り、一方、計算高くて打算的なところがある。これは経済感覚と言うより、自分の育った環境の上流意識をアピールするものである。
 こうした環境の中で育った者は、遊びなどの局面に於て接しているうちは、面白くて好感の持てるような錯覚を受けるが、実際には、心まで許して、生涯、心を交えて交流を図りたいとは思わない人物である。つまり、観察眼を働かすと「底が割れている」という人種だからだ。

 特に二世三世の御曹子
(おんぞうし)に多く、それほどやり手ではなく、一方泥臭くもないと言う人物像だ。こうしたタイプは、頭が良くて、親が良くて、家柄が良く、何でも思い通りに「我(が)」を通して来た経験を持っているので、自分自身の深層部に「弱さ」が隠れていると云うことを知らないのである。そして、自信満々の一面が、一方で思いきったことを遣り、破局に向かわせる宿命を背をっている。現代という時代は、こうした人間がリーダーとして出現しているので、これこそ近未来の「凶事」の暗示と言えよう。

 一方、女性の人相と云えば、男に不自由はしていないが、如何にも食い気があって、自尊心が強く、スキャンダルになることが眼に見えている相手には近付かないが、それが安全となると、背中に唐獅子牡丹
(からじし‐ぼたん)のような青刺者でも、平気で近付き、血道を上げている女性が多くなって来た。時代を反映させての事であり、素人と堅気(かたぎ)でない者の境目が薄れている為である。

 また、現代は知性のブレーキが掛からない時代であり、感情に流れ易い時代になっている。フィーリング中心の感性に頼って、感覚や情操を探り、独占欲だけが強くなっている。これは教育や環境により、甘やかされて育った階級層に見られ、何でも自分の思い通りになる環境で育った為である。しかし、心の欲求不満まで満たされないので、その表情は、例えば「欲求不満がメガネを掛けている」といった感じである。世間知らずの若者に多く見られる観相である。

 こうした観相から、一言で要約されることは、「犬眼
(いぬ‐め)」が激増していることであり、感情に振り回される動物的な人種が急増している事である。

時代の過度期は、理性や知性のブレーキが掛からなく時代を象徴する。その特長は「犬眼」である。加速度が付く現代社会において、時代遅れの「退屈虫」に取り憑(つ)かれない為、誰もがテクノ・ストレスの犧牲になっていく。
 そして人相には「やつれ」が起る。
 「やつれ」は年齢に伴って起るのではなく、骨相学的に見れば頭蓋骨の関節の弛
(ゆる)みから起る。後頭部の関節が弛み、顔全体が膨らんだように見え、顎(あご)の筋肉が弛み、二重顎、三重顎も、実は「やつれ」であり、躰の疲弊、内臓の疲弊が「やつれ」を派生させるのである。そして「やつれ」を圧倒的に背負い込むのは「犬眼」である。

 「犬眼」の出現は、世の中の分岐点あるいは過度期が、こうした人種の出現を必然的に自然発生させるものである。しかし精神的には、不安定要素を多く抱え込んでいる。
 そして、現代社会に「犬眼」は分布している年齢層は、十代後半から四十代前半であり、この年齢層は時代と共に伝染病的に、更に感染状態で広がることになる。

 犬眼の特長は、黒目の「睛
(せい)」の部分が、茶色身を帯び、輝きが鈍くなって、一見、眼が死んだようになることである。あるいは「夢遊病者」のようになり、力強さが失われる。操られ、踊られるような行動に出て、自分の意志や願望が、ある一定方向に傾くことである。

 本来、人間の眼は意志や欲望を顕わすところであるが、流行やファッションに流される者は、意図的に操られる現象に自覚症状を持たない。したがって運命の陰陽支配も大きく、運気の衰盛の差も激しいと言えよう。

 一般には「眼が澄んでいる」とか「濁っている」というが、この「清濁」にこそ多くの意味が含まれ、眼が澄んでいれば、心もまた清澄であり、濁っておれば心性が兇
(わる)いか、身体、特に内臓に疲弊が起り、その何(いず)れかの部位が病んでいることを顕わす。
 則
(すなわ)ち、「睛」の濁りは、心の濁りを顕わし、白目は肉体に濁りを顕わすが、双方が疲弊している時、その輝きは失われる。つまり、これこそ「犬眼」の正体なのである。

 一見、パッと観
(み)では、男も女も可愛いように見えるが、睛を特に観察すると、喜怒哀楽に浮かされる、節操淫猥などが浮上している。その最たるものが、心を疲弊させる邪(よこしま)な濁りであり、もう一つは肉食などの動蛋白摂取によって、過食状態となり内臓を疲弊させている、肉体的な異常である。また、両者が重なると精神障害が顕われ、神経症などはその最たるものであろう。
 更にこうした状態が進むと、テクノ・ストレスなどから来る心の障害が起り、統合失調症
(とうごう‐しっちょう‐しょう)も、こうしたものに起因している。

 運命学では、初老
(しょろう)を「40歳」と定義している。
 曾
(かつ)ての若者も、40歳を境に、初老へと突入する。しかし、「初老」の意味を解す者は少ない。初老を、老境に入りかけた年頃と解釈しているようだが、これだけでは明確でない。則(すなわ)ち、40歳を境にした年齢は、現代風に云うと、肉体の衰えを感じ始める年齢であり、一方、精神的には子供の頃の個性が発揮しはじめる年齢であるからだ。
 つまり精神障害も、この年を境にして派生し易いのである。

 ここで危険なのは、肉体が衰えることではなく、後者で云う、子供の頃の個性が発揮させる年齢であると云うことだ。子供の頃の個性が発揮されると云うことは、精神的に不安定であり、夢の願望と、これまで抑圧されて、思い通りにならなかったことが同時に吹き上げる、過度期的な年齢なのである。
 この時期に、知性もしくは理性のブレーキが掛からなくなると、それは崩壊への一途を辿ることになるのである。世間ではこうした崩壊の前触れを、
「厄年」と呼称している。

 また、「厄年」は人相術から見て、「疲れる年」であり、「窶
(やつ)れる年」なのである。この年は数え年で男は25・42・61歳、女は19・33・37歳である。禍(わざわい)に遭遇する歳とも云われる。そして男の42歳と、女の33歳は厄の中でも大厄といわれている。また、その前後に前厄(まえやく)と後厄(あとやく)があり恐れ慎むことを謙虚に受け止めるのである。しかし、昨今は、こうした「厄」の概念も薄くなり、傍若無人に振る舞って命を縮める男女も少なくないようだ。

 「厄」は人相の上にもはっきりと顕われるものである。
 昨今は人間関係の複雑な時代であり、こうした世の中を渡るにはある種の処世術が必要だろう。また、人相術は無事に世の中を渡り切る為の処世の活用法にもなろう。しかし、この活用法は、単に他人に当て嵌めて考えるだけではなく、自分自身にも適用すべきものである。

「相」とは、「すがた」であり、「ありさま」であり、「外見」であり、「形状」であり、「相貌」のことをいう。そしてこうした「相」に顕われたものは、吉凶を生む。

 八門人相術は自分を知る為のものであり、広い意味では人間そのものを知る為のものである。気質や性格ばかりでなく、その人の運勢や運気を知る為のものでもある。また、「よく知る」ことによって、自分を運命の陰陽から上手にコントロールし、禍は避け、福を呼び込めるようにしたいものである。そうすることにより、運勢の開拓に邁進できるのである。



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