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真言立川流 2

水月観音半跏像



●わが性器を拝め

 自分の肉体は、誰の物でもない。自分自身の物である。しかし、この肉体は自分に与えられているものであって、大事に使うと言うことが要求される。粗末に使ってはならない。それは借り物だからである。借りた物は大事に使い、死んでいく時には返さなければならない。死ぬその日まで、大事に使い、古くなったとは言え、最後は肉体を返さなければならない。
 肉体は自分の物でありながら、実は借り物なのである。借り物であるから、最後は返すことになる。

 しかし、自分の肉体が借り物であると言うことを知らない人が多い。その為に、つい乱暴に使い、あるいは酷使して、故障だらけにしてしまう。酷い人になると、肉体を病気にしてみたり、再起不能の後遺症を背負わせる人までいる。肉体の管理者は、自分自身であるのだから、これを粗末に使ってはならない。

 まず、自分の肉体とは如何なるものか、点検する必要がある。特に、生命の根源である性器は、その点検に必要があろう。男女を問わず、性器については何も知らない人が多い。性器は躰
(からだ)の中心を為しながらも、貌(かお)と異なり、簡単に鏡に写し出せると言う物ではない。鏡で視ても、写し出せない箇所があり、自分からは見えない箇所がある。分かっているようで、分からないのが自分自身の性器なのである。

 真言立川流は、自分の尊い性器を眺
(なが)めることから始めよと教える。性器をじっくりと眺めることで、新しい人生が見えてくると教える。そしてよく眺めた上で、これを拝めと言うのである。わが性器を拝むことにより、活気溢れた人生が生まれると言う。

 ちなみに「性器」とは、生殖器並びに肛門や会陰部を指し、この部分が健康でなければならない。健康な「性器」を拝むことにより、運が開けて来るのである。もし、性器が健全かつ健康でない場合は、食生活の改善は必要であろう。特に、肛門の病気を煩っている人は、食生活の改善により肛門は健康状態に戻すことができる。
 要は、肉の常食を止め、穀物菜食の「正食法」を徹底しすれば、痔瘻あどの一切の病気は改善されるものであり、肛門が穢ければ、幾ら真言立川流の修法に励んでも、殆ど効果はないものになってしまう。

 まず、「日々新た」という気持ちは、健全かつ健康な性器を拝むことにより始まり、新たな自己が誕生すると言うのである。それもそのはず。
 性器は自己を生み出すところであり、自分の人生は性器より始まってと言っても過言ではないからである。

 そして、性器は「眺めること事態が修養効果」をもっていると言う。例えば、男の場合、細身の人は上から眺めるだけで、自分の性器を検
(み)る事は出来よう。しかし、腹の突き出た男は、腹が邪魔してお辞儀をしなければ見えない。女性の場合は、まず、見えない。鏡でしか見えないのである。
 真言立川流は、この点を指摘する。まず、自己を客観的に冷静に眺めることのできるのは、身分の性器を拝む為に、苦労する人ほど、修養効果を持ち、特に腹の突き出た男は、この時に自分が肥満体型である事に気付かされ、日々の食生活の反省が、この時に思い当たる機械を齎すと言う。

 これは女性の場合も同じで、肥満体ほど、幾ら鏡を使っても、見る場合は苦労する。自分の性器がよいいに拝めないようでは、その人生も高が知れているのである。したがって、自分の体型の醜美に気付き、改める事を教えるのが、性器であり、性器を拝むことがこの切っ掛けを作ると言うのである。

 ともあれ、自分の性器は、自分に貸し与えられた、今は「自分のもの」である。自分で覗くのであるから、覗いたとしても、犯罪ではない。びくびくする必要はない。じっくり観察して、まず、「性器の不思議」に気付くことである。そこには神秘的な力を秘め、これ自体に迫力がある事に気付くであろう。



●現代の「わが性器」を拝まない恐るべき現象

 昨今の小中学生などの子供が、性に対して異常な関心を示し、小学校高学年から既に異性関係を持っている実情は、総(すべ)て動蛋白摂取の元凶であり、特に、肉の常食は人間の性腺を異常刺激して早熟に趨(はし)らせているようだ。そして、老化を早めているという今日の社会の風潮から考えても、動蛋白摂取過剰が危険な状態を作り出しているのは明白な事実である。
 つまり、早い時期から異性関係を持ち、それが常習化すれば、それだけ老化が早まるということである。
 その証拠に、昨今の青少年男女の面
(つら)構えは、動蛋白摂取過剰の為に、荒淫(こういん)に充(み)ちている。相手に少しでも隙(すき)があればと、それに乗じようと虎視眈々(こし‐たんたん)としている。

 昨今の少年少女は、一見可愛らしくあるけれど、その本性は男も女も、度が過ぎるほどの情欲に耽ることで、脳を煩悩
(ぼんのう)に灼(や)いている側面がありありと現れている。彼等が極めて動物的であることも、肉食の弊害であると思われる。男女が愛するとは、「寝ること」と、この年齢層は勘違いしているようだ。

 そして、こうした青少年男女に共通していることは、日本人には、これまで余り匂わなかった体臭がきつくなり、肉食主体の食生活をしている欧米人並みに、非常に臭いことである。
 また、肉を常食にする少年は、包皮と亀頭の間に溜まる垢様の物質の、所謂
(いわゆる)恥垢(ちこう)が多くなり、特に、包茎に多く見られる、陰茎癌の原因となる。また少女でも、陰核や尿道の周りに垢様の物質が溜まる。肉食を好む少年少女は、既に、身も心も早熟と老化が始まっているのである。

 少年少女時代に、小中学校時代の早い時期に異性関係を持った男女は、大人になっての、二十代後半から、その多くが、男性であれば陰茎ガンや睾丸ガン、あるいは前立腺肥大症という病気に苦しめられ、また女性の場合は、子宮筋腫や子宮ガン
(子宮に生ずる癌腫で、子宮頸癌で主として扁平上皮癌と、子宮体癌で主として腺癌があり、前者の頻度が高く、その原因は男の恥垢とされる)などの病気で苦しめられている。何(いず)れの病気も、早期発見であれば、一応外科手術などで治るが、しかし、術後は失うものも多く、実に惨じめである。

 では、何故こうしたことが起こるのか。
 それは自分の性器を拝まないからである。汚らしいものを扱うように、これを扱ってはならないのである。また、真言立川流では、「男はよく洗え」と教え、「女は洗うな」と教える。
 「男がよく洗う」ためには亀頭部が包茎であっては洗えるはずもなく、結局、濃厚な恥垢が残留する。女の場合の「洗うな」は膣内を洗うなということであり、腔は交接器と、分娩道とを兼ねる拡張性に富む粘膜性を持ち、かつ筋肉性の管で、上方は子宮に連なり、下方は外陰部に開口している哺乳類特有の雌性外部生殖器である。
 そして膣内の粘膜性に富む箇所を洗うと、粘膜特有の、所謂
(いわゆる)愛液製造の能力が失われ、更にはこれ自体を洗うと、洗い流してしまう為に、ビデ(bidet)などの女性用局部洗浄器で洗うと「不感症」になるのである。

 この為に男根を男はよく洗えと教え、女は女根を洗うなと教える。つまり女性は、膣内を洗ってはならないのである。洗えば不感症になり、二根交会の際に、女性は髪の毛の先まで痺
(しび)れる快感が得られなくなるのである。

 真言立川流のいう「わが性器を拝め」とは、自分の躰を大事にして、愛せということであり、まず自分の躰が好きにならなければならないのである。自分の躰が好きになるとは、まず、今の自分の鏡を姿見などで映してみることである。その自分の躰を凝視して、中庸を保っているか、これを検討する必要があろう。
 男は、
「ボテ腹」「肥満体」では、持続力もないであろうし、女性の場合も「腰にくびれがない」ような醜い体型では性欲を失せてしまうであろう。また、そうした躰は醜いだけであり、この醜さはそのまま男女二根に反映されるものである。

精子と卵子の生命の出(い)づるところこそ、礼讃に値する男女二根なのである。

 「わが性器を拝め」とは、自分の肉体の点検を促しているのである。自分の躰は自分が、天から貸し与えられた躰であり、この肉体は天からの借り物である。借り物や何(いず)れ死ぬ時に返さねばならない。また、借り物である以上大事に使わなければならない。そして躰の中心は、生命を生み出す男女二根である。男女二根は肉体の中心にある。したがって、この、自分の尊い性器を眺め、更に拝むことで、今までに見えなかった新しい人生が見えて来るのである。活気に溢れた人生とは、日々新たに「自己を誕生させていく」ことであり、性器の拝むとは、自分自身の今の姿を点検することなのである。




●陰陽と男女二根

 真言立川流は、人間の肉体を崇高(すうこう)な知性と感性の繁栄と観(み)る。したがって、これはまさに神秘である。神秘に対し、素直である事が人間の真の姿である。
 素直さとは、人間の持つ崇高
(すうこう)な知的感性であると倶(とも)に、霊的な直感を養う宗教的な原点とも言える。こうした霊的直感は誰にでも持っているのである。そしてその発信源は、取りも直さず「性器」である。

 性器は、神仏と同等・同格に尊いもので、神仏が人間の生活に密着しているように、性器も人間の生活に密着した存在であり、特に「夜の宗教」には、性器は欠かせないものである。

 多くの宗教並びにその宗教の主宰達は、神仏の形態を人間の姿に似せたものを偶像化して、これを「ほとけ」といわしたり、「かみ」といわせて、下々の人間に拝ませるが、これらは神仏を人間の崇高な知性や理性に反映させているだけに過ぎない。
 また、感性なども、偶像化した神仏には反映されているであろう。「祈り」は、偶像崇拝から始まると言うが、これは、むしろ具体的は方策ではなく、偶像が何処までも偶像であり、その実体を求めるのなら、生命の根源を為す「性器」の方がより具体的で、説得力を持ちを持っているはずである。

 したがって、この世の中で、人間の性器ほど尊いものはないのである。性器を粗末に扱い、乱雑に誰とでも性交する輩
(やから)は、最後の最後に天罰を受けるのは必定であろう。
 「尊いもの」は、抽象化
(アブストラクト/abstract)されるべきものでない。三次元世界が肉の世界であるならば、肉の眼で見えるものを人間に提示すべきであって、性器こそ生命の根源であるので、これこそ三次元の眼で見せるべきものである。

 人間一人ひとりがが携えている性器は、見るからに尊いものである。男女二根こそ、まさに神仏の姿そのものであり、人間の姿に似せた神仏のそれは、人間の頭の中で創り出された、単なる偶像に過ぎない。しかし、既存の宗教はこの偶像を拝ませることにより、人心を騙し、そこの神仏が宿っているなどと嘯
(うそぶ)くのである。
 こうした偶像を幾ら拝んでも、「開運」などは絶対にあり得ない。

 真底「開運」を願うのならば、神仏は、一人ひとりが生まれたその日から備わっているので、これを「拝みの対象」あるいは「祈りの対象」にしたいものである。神仏は、男根と女根の二つに別れ、男女の各々が生まれた時に背負うようになったのである。人間に「性」が存在するのも、この為である。則ち、人間とは、生まれながらにして神仏を携えた生き物なのである。

 さて、現行法を拡大解釈すれば、法に定義されている「性器」は、猥褻罪
(わいせつ‐ざい)として、あるいは猥褻物所持罪になるわけだが、こうした法で、性器を規制するのであれば、人間は老若男女を問わず、その容疑が懸けられよう。
 人民は各々に国において、刑法に触れる「物」を股間に付けているわけだが、この奇妙な形をした男女のシンボルこそ、人類を繁栄させた根源のではなかったか。
 これが人類の根源である以上、この二根は非常に尊いのであり、神仏が、そのお姿に宿った姿が、実は神仏の正体であると真言立川流は教えるのである。真言立川流の教義の根本は、此処にあるのである。

 この二根のお姿の尊いことは、『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞嚴経
(だいぶっちょう‐にょらいみついん‐しゅうしょうりょうぎ‐しょぼさつ‐まんぎょう‐しゅりょうげん‐きょう)』という仏典に説かれており、これを「男女二根菩提涅槃真処(なん‐にょ‐にこん‐ぼだい‐ねはん‐しんにょ)」といい、これこそが人間が、菩薩になる為の尊い教えであると説いているのである。
 つまり、「菩薩
(ぼさつ)」とは、悟りを求めて修行する者の意味であり、他人を救うことによって自分を救う修行者の事を指すのである。
 また、「涅槃
(ねはん)」とは、静かな安らぎを言う。この「安らぎ」は総(すべ)ての煩悩(ぼんのう)から離れて、真理を極めた境地を言うのである。悟った境地であり、此処には騒音の一つもないのである。

 騒音がないと言うことは、夜の巷
(ちまた)の暗黒の空に谺(こだま)し、徘徊(かいかい)する芸妓(げいき)や酌婦の嬌声(きょうせい)もないわけで、その頭上に渦巻く暗雲すらないのである。夜は深閑(しんかん)したものであるが、その遥(はる)か頭上にはコバルトブルーの、静粛かつ静寂な「安らぎ」が何処までも広がっているのである。
 これから分かることは、簡単に言えば、神仏の秘密の総ては、性器に秘められていると言う事になるのである。此処に、「性器礼讃
(せいき‐らいさん)」の意味があるのである。



●春画と言う日本特有の文化

 性器を礼讃する日本では「春画」という、日本特有の文化がある。そして、日本を除く、世界の文化圏の国の中で、日本の春画の持つ「性愛学」の格調高いまでの文化資産は、未(いま)だ何処の国の古文献や性愛学の書にも登場していない。それだけ、日本の春画と言う文化遺産は、世界に誇るべきものなのだ。

 さて、「性技四十八手」といえば、直ぐに思い当たる作者が菱川師宣
(ひしかわ‐もろのぶ)である。
 菱川師宣は、江戸前期の浮世絵師である。万治
(1658〜1661)から寛文(1661〜1673)の頃江戸に出て、肉筆画や版画、特に版本の挿絵を次々に制作し、浮世絵の新領域を開拓した絵師である。
 そして師宣の作風は、版画『吉原の躰』や肉筆画『見返り美人図』に代表されるように、男女の性の営みに対して、異常な執念を燃やして男女二根を見事に描き切っていることである。

 しかし、日本の春画に描かれた男女の性交図は、一見淫
(みだ)らなモチーフにもかかわらず、悪趣味にならない卑猥(ひわい)さを持たず、また、一方に於いて、細かい失敗を恐れない、伸びやかで、ふくよかな線の描写が何とも魅力的に描かれている。こうした深い精神性は、日本独特のものであろう。

 更に、登場する男女の表情は、いずれも福々しく、嫌らしさや、貧素な病的さを持たない。その表情からは、思わず後光が差し込んで来るような神々
(こうごう)しさを持ち、交会自体に人間の生きる喜びが描き出されている。つまり、「セックス」とは、生きる喜びなのだ。
 ここに人間としての共感を得る事が出来、同時にそこには、「性」への価値観が存在している。そして、「淫ら」までもを精神と融和させているのである。

菊川英山『江戸之紫』第四図

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柳川重信『五ツ雁金』第八図

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 春画には、まず男女の睦言(むつみごと)の原点があり、情感豊かな、睦(むつ)まじくする親しさが感じられる。
 そして日本の春画には、外国の春画には見ることができない、猥雑
(わいざつ)な性の描写だからこそ、その部分を強調して、余計に美しく見せてやろうとする絵師の凄まじい気魄(きはく)と気概が感じられる。

 また、性技四十八手と言われる性描写は、その姿勢からして、春画に描き出される一つの機軸となって、清らかで、愛情豊かな性物語が描き出されていると言う点である。

 下に示した春画は、左側が十九世紀の中国の春画であり、また右側が江戸文化年間に著した『富久寿楚宇』の、昭和初期の複製と言われる『浪千鳥』である。表情の豊かさは、断然十九世紀の中国の春画より、『浪千鳥』の方が優れている。

十九世紀の中国の春画(売春宿の図)
『浪千鳥』第五図

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 真言立川流は春画までを、修法の一部として取り入れ、女性の艶姿を一種の極楽境として観じるのである。
 男女には、宇宙からの霊力ホルモンと云うべき、それぞれに陰陽の特効薬が授けられていると観る。これを真言立川流では、「天中天の宝蓮華
(ほうれんげ)」と呼んでいる。これは宇宙生起の根元として、秘かに祈念し、「花の匂い」や「色の美しさ」を堪能するのである。

 男女の睦の中には、それぞれの性質から発生させる陰と陽の色気が放出されている。また、この色気が「床上手のホルモン」となるのである。
 性生活の快美にするのは、単に性器の摩擦だけではない。色気が漂っていなければならないのである。この色気こそ、「床上手のホルモン」なのである。そしてこのホルモンは、春画によって齎されるとしたのは、日本の文化だったのである。

 春画の構図は、単に「卑猥
(ひわい)なるもの」の表現ではない。そこには「美しい色気」がある。性生活の快美にするのは、男女の色気と肉体を楽しませるテクニックである。極楽を味わってこそ、道場としての修行の場のベットは、砂漠の中のオアシスとなり得る。
 スポーツ選手でも芸術家でも、その技に長けた人の動きは美しい。更にこれ等が齎す形はと云えば、流れるように美しく、無駄がない事が分かる。

 性技に長けたものも同じで、床上手にあっては、美しい色気と艶技が備わっている。こうした美しさを即座に表現したのが春画の作者であった。男女二根交会は、単に性器の摩擦に終始するのではなく、霊力ホルモンを各々に取り入れると言う主目的があるから、またその動きも、形も、美しいものになるのである。



●金亀

 密教語に「金亀(こんき)」なる語がある。
 この金亀と言う語は『秘蔵記抄』に出て来る言葉である。『秘蔵記抄』によれば、「金亀とは、金輪
こんりん/三輪・四輪の一つで、仏教の宇宙観で、須弥山世界を支えているとされる最上層)なり。即、地輪じりん/五輪の一つ)とは是(これ)なり」とある。

 これは水輪にあって須弥山
(しゅみせん)を背中に乗せている霊亀(れいき)のことである。
 須弥山
(梵語Sumeruの音写。蘇迷盧ともいい、妙高山あるいは妙光山と訳す)とは、仏教宇宙観が説く、世界の中心に聳(そび)える巨大な山の事である。

 須弥山を象徴する巨大な山は、仏教の世界説で、世界の中心に聳
(そび)え立つという高山のことで、海中にあり、高さは八万由旬(はちまんゆじゆん)という。頂上は帝釈天(たいしやくてん)が住むト利天(とうりてん)で、中腹には四天王が住むという。周囲は九山八海に囲まれ、その海中に閻浮提えんぶだい/南贍部洲)などの四洲がある。そして日月星辰(ひつきせいしん)は、須弥山の周囲を回転しているという。
 因みに、「辰」は日・月・星の意味である。

 また、閻浮提は、仏教の世界説で、須弥山
(しゆみせん)の南方にあるとされる島(洲)のことである。あるいは人間の住む世界を指す。
 この世界は四洲の一つで、閻浮樹
(えんぶじゅ)の茂る島を意味する。閻浮樹はインドに多い蒲桃(ふともも)のことを指すが、仏典中では閻浮提の北にある巨大樹をもいう。
 諸仏に会い、仏法を聞くことができるのは、この洲
(しま)のみとされる。もとインドのイメージによって構想されたが、後に、人間世界全体を意味し、また現世の称となったとされている。

 そして須弥山を乗せている霊亀は、大海の中にある金輪の上にあるとされる、神秘的な存在である。
 真言立川流では、「金亀は理
(ことわり)の赤水、大海は智(ち)の白水」とされる。これは女性生理を「金亀」、男性生理を「大海」とする。

 一般に「亀」といえば、男性自身の頭の先の部分と思うし、大海と言えば女体の中を連想するであろう。しかし、真言立川流では、この性宇宙観を、精液は大海のものであり、その中に首を伸ばす子宮が金亀だとしている。
 また受胎し、発育させる大自然の生殖力が、金亀の背に乗る須弥山となるのである。

 須弥山には周囲を巡る日月があり、それが精子と卵子である。山頂に棲
(す)むとされる帝釈天は、仏法の宇宙原則を守る守護神のエネルギーである。帝釈天は梵天(ぼんてん)とともに仏法を護る神である。また十二天の一つで、東方の守護神でもある。須弥山頂のトウ利天(とうりてん)の主で、喜見城(きけんじょう)に棲むとされている。これは神々の王としてのインド神話のインドラ神が仏教に取り入れられたものである。

後醍醐天皇像

 喜見城は帝釈天の居城である。その居城は須弥山の頂上にあり、その四門に四大園があり、諸天人が遊楽するという。
 インドラ神は電光の神格化であり、『瑜祗経
(ゆがしきょう)』には、「須弥山は金輪際こんりんざい/金輪の奥深い所を顕わし、地層の最下底の所あるいは無限に深いという意)より出生するが故に、金亀に収め、その意を得るべし」とある。

 男の精液ならびに、女性の愛液は「真実の棲
(す)む所」とされる。これを「重如月殿(じゅうにょがつでん)」と呼ぶのである。

 男女が睦み合い、互いになれ親しみ、その証
(あかし)としてセックスに及ぶ。こうした行為を軽蔑し、馬鹿にし、賤(いや)しむ言を発する道徳家は少なくない。また、眉を潜める者も少なくない。しかし、人間の性と言うものを宇宙の真理として捕らえる事こそ、真理の追求であり、この事実を再度見直す必要があると思う。

 だがしかし、これもまた連日連夜の修法である為、この実践哲学に於ては躰が持つまいと言う懸念がある。そこで、真言立川流では、精を消費しないように、次の修法を説いているのである。これこそが『不動秘伝』と言われるもので、かつては後醍醐天皇もこれを会得したと言われる。



●不動秘伝

 
極意中の極意が『不動秘伝』である。
 『不動秘伝』とは、密教房中術の奥儀であり、還精法を指す。その還精法の極意は、「 接して洩らさず」である。二根交会に於いて、性交を周天の呼吸として行い、神仏と一体化する修法が『還精法不動秘伝』である。

 これは女体内にある気を、意識によって引っ張り込む秘法である。元気がよく、気立ての良い女性は、その女体内に多くの気を蓄えている。昔から、「気立てが良い」と表する意味は、単にその女性の心の持ち方を示すのではなく、持って生まれた性格であり、強いて云えば過去世
(かこぜ)からの因縁である。
 「気立てのいい人」「気立てのいい娘」などと称するのは、その女性の裡側に良質の陽気が存在するからだ。

 一方、「気立てが悪い」というのは、良質の気が存在せず、その本質は陰気であるから、「気立てが悪い」と称するのである。こうした「気立ての悪い」女は、得てして過去世の悪因縁を引き摺
(ず)っており、気が安定してないので、精神的には不安定であり、躁鬱(そううつ)の波が激しいのである。ある時は陽之気を過剰に放出して躁(そう)状態になり、また、ある時は陰之気を過剰に放出して暗く沈み、欝(うつ)状態に身を委ねる。

 夫婦和合に於ての男女の仲は、こうした「気立ての悪い」女に遭遇した時、男の運気は一度に崩壊する。それから先の人生も、順調に事が運ばなくなり、苦行の日々の連続となる。これもまた因縁と考えれば、その男は因縁解消の為に、気立ての悪い女性を娶
(めと)り、それにより、少しずつ因縁解消をしているともいえる。

 だが、巡り逢いは、最初の見識眼が必要であり、男女とも、自分の勘を大事にし、容姿や顔だけにこだわった選択をすると、後にとんでもないババ
(ジョーカー)を掴まされる事になる。そして、こうした場合、悪循環に悪循環が繰り返されるのは、女性から陽気を授ける事ができないことになる。

 本来は、元気のいい女性から、互いの粘膜を通じて陽気を貰う事であるが、一見、気立てが良いように見えて、陽気過剰の精力絶倫の躁状態の女性である場合、これも正体は陰気なので、深入りしたり、娶った場合、今度は男の方が陽気過剰で頭をやられ、精神異常を起こす場合がある。

 したがって、日々、気を掴む訓練をして精進に励む必要があるが、この訓練の充分でない人は、まず自分自身の中で陽気を廻す、「周天法」を学ぶべきである。
 一方、病弱な人や感受性の強い人は、霊的影響を受け易く、この場合の影響は、一方的に悪影響であり、正流と交流が出来ず、邪気の交流が主体になってしまう。その為、精神が不安定になるのである。病弱な人や感受性の強過ぎる人は、体力がなく、また体質も良くないので、邪気を防ぐ霊的フィルターが貧弱である。その為に、もろに邪気や外邪の侵入を許してしまう。

 また一方、霊的フィルターが充分に発達していて、逆に感受性の劣る人は、気の不足が殆ど無い。こうした人は正しく周天法を学び、陽気を発生される訓練を行えば、長い時間を要する事なく周天法を会得してしまう。まず、こうして自己の中に陽気を発生される訓練を行う事である。

 陽気の訓練をする際の注意点は、まず、冷静な気持ちで行う事である。この気持ちを失うと、とんでもない錯覚に陥るからである。特に、暗示性の強い人は、錯覚に陥り易く、間違いも発生するので要注意である。
 因みに、暗示性の強い人は、新興宗教などの勧誘に安易に掛かり易い人で、心の中に疑いが半分あり、また、半分は信じる気持ちがあって、不安定な状態になっている時に、心の隙をつかれて邪気が侵入して来るので要注意である。

 したがって、「あるが儘
(まま)」に一切を受け入れると言う、「今」の現実を迷わず受け入れる事だ。「あるが儘」を受け入れる事ができなければ、どうしても、疑う事と、信じる事で中途半端になり、此処から迷いが生ずるのである。
 だから「今」何も感じなければ、無理に感じる必要はないのである。また、一度感じたからと言って、有頂天になってはいけない。一度できたからと言って、それで有頂天に舞い上がり、結局、一度きりという場合も少なくないので、繰り返し修練する事が必要である。

 また、注意を要する状態は、気の強弱は一定でなく不安定な場合は、この修法は止めるべきである。その際、肉体的な意識や、季節の温度差が激しく、寒暖の極みにある時も止めるべきである。
 特に、人間の平均値として、その前後に位置する人は、男女とも、無理をしてはいけない。平均的人間は性交をし過ぎると、躰を傷
(いた)めるので要注意が必要であり、慎む必要があり、こうした場合に登場するのが「 接して洩らさず」なのである。

 性交した直後、躰がだるくなる、眠気に襲われる等は、まず、その人が「平均的人間」なのだ。更に、耳鳴りが起ったり、膝がガクガクする等は、普段から疲れていて過労状態にあり、体質の悪化による体調不調が挙げられる。こうした人は、体力ばかりでなく、体質を改善して疲れない躰を養う事が急務である。

 疲れない躰とは、体力とは無関係に、体質の良さをいうのであって、これは穀物菜食を徹底し、粗食・少食を実践する事で得られる。
 一般に、「疲れたら休めばいい」などという。しかし、これは若いうちだけだ。三十歳を過ぎ、中年に差し掛かると、そうはいかなくなり、あまり頑張ってもいられなくなる。

 そして精液を無駄に浪費すれば、それ自体で健康を害し、精液消耗ノイローゼになるのである。このノイローゼのはしりが、眠気が指すと言う人である。性交直後に眠気
(ねむけ)が指すと言うのなら未だしも、普段から眠い状態にある人は要注意であり、こういう人は急激に「精禄(せいろく)」の容量が失われているのである。

 精禄は、その人の一生涯に必要とする生殖器の「精」の容量であるが、性交に及びこれを洩らし続け、浪費し続けて居る人は、「眠気がさす」という状態で精禄許容量に危険信号が放たれているので、まず、体質の改善が急務である。これを怠ったり、無視し続けると、後で、とんでもない災いに遭遇する事になる。

 この兆候は、まず「眠気がさす」という状態から起り、次に「この頃、精液を放ち過ぎているのでは」という精液消耗ノイローゼに陥って行く。そして、この状態は、既に性ホルモンの調子が狂い、洩らし続ける事により、全身から気力が抜け出しているのである。
 こうした状態にあって、仕事が重なり、仕事が過酷である場合、「生きていてもつまらない」という鬱病
(うつ)に入って行くのである。

 人間が精神障害を起こし、精神分裂病等の病気に罹
(かか)るメカニズムは、その実態は憑衣であるが、過剰なセックスも憑衣され易いので要注意が必要である。既に、「好色である」ということ事態が、憑衣体質であり、特に男の場合、「射精コントロール」が出来ない人は、霊体質の場合、憑衣され易いので充分に気を付けると同時に、「接して洩(もら)さず」の、射精コントロールの訓練をする必要がある。

 特に「平均的人間」で、霊体質にあり、体力も人並み程度という人は「接して洩
(もら)さず」の修法に励み、憑衣とセックスが密接な関係にある事を知らねばならない。
 男も平均的な人間、女も平均的な人間というケースで、何
(いず)れが霊体質で憑衣を受け易い因縁を持って生まれている人は、憑衣とセックスの因果関係を知らない場合、男女何れかの霊体質者は憑衣されて精神を害する懼(おそ)れがある。

 次に、男女の何れかが平均的人間より好色で、激しい性に趨
(はし)る場合、弱い方は必ず精神を病む。その為に、男は射精コントロールの「如意法輪」が必要となり、これを防止し、吾(わ)が身を防禦(ぼうぎょ)すると同時に、この修法の熟達に向けて精進しなければならない。



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