真言立川流
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▲『肉筆絵巻』より。宮川春水/画
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●真言立川流とは何か
「密教のセックス入門、に、真言立川流の秘法がある。
一般に真言立川流と言うと、邪教として扱われる場合が多い。それは「セックス説法」が題材になっていると勘違いされている為である。更に、大きな誤解を招いたのは、男女が和合し、その垂れ流した愛液を髑髏(どくろ)に塗り付け、これを本尊として礼拝する忌わしい黒魔術と思われているからだ。それは極めて猟奇的であると解釈され、長い間、誤解を招いて来た。また、この誤解が、今日にでも神話化され、その誤解の甚だしきは、セックスと猟奇を同じように扱い、サドマゾ的な猟奇の対象と考えられていることである。
しかし真言立川流を研究していくと、これは決して猟奇などではなく、ズバリ言えることはこの宗教が「夜の宗教」であると言うことだ。つまり、セックスとは人間の根本の根源であり、人間が総て、女性の股から発祥したと言うことである。したがって、真言立川流は女性器を崇拝し、これを高く尊ぶのである。
また、男の要求に応じる女性が居たから、人類が発展して来たとも言える。この点は非常に「老荘思想」と共通点を持つところである。老荘思想の根本も、女性に求める。老荘思想の根本は「天地不二(てんち‐ふじ)」にある。老荘思想には、天地の根本は善とか悪とか、また、愛とか仁とかという徳目は、一切関係ないと言い切っている。
何故ならば、愛がないから子供は生まれないという事はないと教えている。愛の心があろうがなかろうが、生命は生まれて来るとしているのである。逆に、「仁」などという人間のちっぽけな徳力で、子供が生まれて来るものでない事も、教えている。これは「天地不二」である。天地は、仁愛で生命を作り出しているのではない。
また老死は、天地大自然は「鞴(ふいご)」のようなもので、何の価値や基準もない空洞のようなところから、何でも生み出すとしているのである。そして道祖神(どうそ‐じん)に代表されるように、女性こそ生命の源としているのだる。つまり、「女性の性器」を指している。
また一方、真言立川流も「性」は人間の原点であると論破する。真言立川流は数ある宗教の中で、神聖なる性を題材とし、これに真剣に取り組んで来た歴史を持っているのである。宗教とは、いつも新鮮であり、不滅でなければならないと真言立川流は教える。そこで、本サイトは昔から行われて来た真言立川流の秘法を明かにし、現代人に関わる本当の性の意味を明らかにしなければならない必要があると考えるのである。
地球上には、大まかに分けて、人間が男と女しか居ない。つまりこの地球上では、この世が現世の地獄と化しても、男と女の協力なしでは、人間は生きて行けないようになっているのである。
この事から、真言立川流は、男女から発生する陰陽独自のエネルギーを主体として、双方が肉体に還元し、それを循環させて、人間に秘められた魔力を開発すると言うものである。
つまり、「肉体修法」も極めれば、肉体以上のエネルギーが生み出されるのである。そのエネルギーの凄さを教えたものが「開経偈(かいきょう‐の‐げ)」である。
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無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
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「開経偈」には、仏教の真理を詩の形で述べたもので、これを「偈頌(げじゅ)」という。これによると、「真言立川流の教えは魔術的であるが実に凄い。これが“淫ら”と称されようが、この書により、男女の秘密が明らかになった以上、この修法を学ばなければならない」と記されている。
●飲食と男女の享楽の本当の意味
「飲食」と「男女の享楽」は、昔から大欲とされた。確かに、人間の持つ食欲と性欲は大欲である。また生きながらに、本能によって躰(からだ)や感情が動かされるという煩悩に支配される。これは人間ばかりではなく、あらゆる生物にも当て嵌(はま)まることである。これは動物ばかりでなく、植物にも当て嵌(は)まろう。
では、生き物は何故、飲食を求め、男女や、雄雌の異性を求めるのか。
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▲男女の性欲の正体は何処に潜むのか。
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生理学者や生物学者に言わせれば、食欲は生命を繋(つな)ぐ為であり、性欲は子孫を残す為だと答える。
しかし、人間は食欲の為や性欲の為に、日常生活を営んでいるのであろうか。単に、生殖を目的にして、男女の営みが繰り返されるのであろうか。
一方、暴飲暴食をすれば、幾ら食欲であったとしても大喰(ぐ)いに趨(はし)れば、躰(からだ)を損ねてしまう筈(はず)である。
食欲は一方で生命維持の為と云いながら、特に現代では、生命を損ねるような暴飲暴食が繰り返され、一日3食のみならず、一日4食、あるいは朝・昼・晩の他に、間食や夜食が日常化され、一日5食や一日6食と云った、暴飲暴食の飲み食いが繰り返されている。現代の食傷の翳りは、こうした生活習慣にも顕われ始めている。
この為に、過食傾向にある現代人は、精液が薄くなり、受胎し難い荒淫(こういん)の限りをつくしているのである。何と愚かなことであろうか。
「食」を誤れば、則(すなわ)ち、「性」も誤ることになる。更に、菜食者と肉食者の性能力の違いも異なる事を知らねばならない。
穀菜食をして「正食」を実践している壮年者が、排泄する精液は濃いく、量も多く、数年を経ても、中々減量することはないが、肉常食者の精液は、最初は濃いが、年齢と共に薄くなり、量も徐々に減少し、一定の年数を超えると、衰退方向に向かう。単にこうした肉体的現象だけではなく、気力も萎(な)え、不能状態になり易い。
肉食者は青年期の初期に至って、発情は盛んかも知れないが、壮年期や晩年期に入ると、早く衰えてしまって、女性に対しては空元気(から‐げんき)で終る事が多い。また、こうした事が恐妻家を作る原因になる。恐妻家の多くは、肉常食者が多い。
一方、穀菜食をする正食を実践している人は、有機的な発情心が盛んと云うわけではなく、また自制心も働く為、一生の間、ほぼ一定していて、特に、早期に限ってばかりが盛んと云うわけではない。生涯を通じて平均化しているのである。
これは食材に含まれるカリ塩とナトロン塩ンの関係であり、食品には塩類の「夫婦アルカリ論」の定理が働いている。
食材に含まれる動物性蛋白質のようなものばかりを食すると、ナトロン塩が多く含まれている為、年から年中発情しなければならず、逆に、カリ塩が多くナトロン塩が少ない食餌を実践して居る人は、性交回数はそれほど多くないが、衰えるのが遅いだけでなく、一生の間、晩年になっても元気であり、性力があり、夫婦生活を実行し続ける勇気をもっている。
人間は本来、生殖が目的ならば、食欲も性欲も「ほどほど」にするべきであろう。また、享楽も、溺れ過ぎては、この虜(とりこ)になってしまい、愛憎を深くしてしまうので「ほどほど」に愼(つつし)むべきであろう。
また、本当の生殖ならば、女性の排卵周期の一番良い時期を狙って、一発で良い子供が生まれるように、正常妊娠するような男女の営みが行われる筈(はず)である。
ところが、発情心が旺盛で、性交を毎日行っている夫婦や、結婚もしない未婚の男女が婚前交渉として、性欲に煽(あお)られ、これを頻繁(ひんぱん)に行っている今日の現実を、どう解釈すればよいのだろうか。寿命を縮め、死期を早めているとしか言いようがない。
こう考えていくと、飲食や男女における性欲は、生命の維持や生殖と云うことよりも、もっと大きな目的はあるのではなかろうか。
つまり、長生きをして、健康体としての長寿を維持し、一方、男女の中にあっては、お互いが睦(むつ)まじく、享楽を共に味わうという考え方である。つまり陰陽の気の交換が行われるのである。
人間が、なぜ暴飲暴食をするのか。あるいは荒淫(こういん)に陥るのか。それは双方に快楽に耽る甘味があるからだ。
人生の至る所には享楽と言うものが横たわり、これが落し穴を作っている。享楽に節度がなくなれば、「ほどほど」を超える、理性や知性の欠如が起る。
しかし、凡夫(ぼんぷ)には「享楽」の意味が、いま一つ解り辛い。
例えば、美食に浸りきりなるのは、味わえる愉(たの)しみにおいて、美味しい物を貪(むさぼ)るのは一種の「快感」である。
また、快感を為(な)すものに、一時の性欲の捌け口としての、慰安的な狭義のセックスがある。
これ等の愉しみは、さほど訓練や修行を積む必要がなく、誰でもこの快感に浸る事が出来る。ごく自然に、誰にでも、よく分かる愉(たの)しみである。人間の行動の中で、原始的かつ基本的な享楽であり、この限りに於ては、殆ど誰から教わらなくても、容易に理解できることである。一々、傍(そば)にいて誰かが指導をするというものではない。
一方、仏教では、人生は「苦海」と称しながらも、多くの大衆は、苦海に未練を持ち、いつまでも苦海の中に沈みたいと考える。そこに一種の甘味が横たわっているからだ。
男女の関係や恋愛ごとは、常に人生の題材になり、その題材に未練を引き摺(ず)るのが、人間の実体である。
したがって、人間の潜在意識の中には、甘味を味わい、美味や快楽について、享楽に浸ることこそ、生命や生殖より大事であると考える、享楽主義までが存在する。人間は自然的に言って、結局、人間が動物であると言う建前を捕っている。
人間を論理的に評すると、“政治的動物”とか“社会的動物”とか“道具を使う動物”などといっているが、結局、動物の規定から逸脱していない。人間は自然的存在としては、まさに動物の一種に過ぎない。他の動物と「種」を異にしているに過ぎないのである。そこに様々な愛欲や快楽が渦巻いている。怒りや憎しみや争いを繰り広げながら、また一方で喜びや楽しみや幸福感が縺(もつ)れ合っているのである。
そこで幸福感の一種を彩る恋愛遊戯、あるいは現実逃避から起る快楽的な追求こそ、人生そのものであると云って退(の)ける知識人までいる。しかし、こんなところに、人生の目的が転がっているのではない。
人間の本質は、本来、根源的な生命に根ざすものでなければならない。
この意味に於て、真言立川流も『般若理趣経(はんにゃ‐りしゅきょう)』と同じ思想を持つ。両者は、人間生命の露(あらわ)な発現形態を取りながら、ありの儘(まま)に人間の姿を捉え、人間は如何にして生きていくべきか、また、如何にして死すべきかを力強く教えている。
ここに弘法大師空海(こうほう‐たいし‐くうかい)が云った、「顕蜜(げんみつ)は人にあり」という言葉に回帰されるのである。
空海は、「父子があい親しくしているのに、なぜ親しくしているのを知らないのだろうか。夫婦は愛しあっているのに、なぜ愛しあっていることを知らないのか。日月が大空に輝いているのに、なぜそれを見ようとしないのか。知らないのでは、まるで人間の眼は、犬の眼か、羊の眼か」と嘆き、千年も昔の教典であった『般若理趣経』を中国から持って来られた。
そして『般若理趣経』に向かう限り、まず身を浄(きよ)め、曜宿(ようしゅく)の法に隨(したが)って、一番良い日を定め、師に遵(したが)って読み方を習い覚え、このお経から人生を学び取れとしたのである。
食べる事と、性交する事は、まさに他人から、どうこうされるものでなく、自力本願でなければこれを味わう事は出来ない。したがってセックスは、大らかに楽しむべきなのである。
仏教は長い間、死への準備として「諦めの精神論」に固執していたが、死を説くだけが仏教ではない。
単なる精神論だけでは、現代人の本当の悩みを解決することができないのである。苦悩の淵(ふち)から人間を救えるのは、この時ばかりは、肉体信仰に徹し、自力本願のみの信仰が、本来の人間の原点に立ち返らせるのである。「性」こそ人間の原点であり、人間生活の「聖」なる根本となる。これを否定しては、人間は、人間としての人生を全うする事は出来ない。
人間の「性」は、決して猟奇の対象ではないのである。それどころか、人間の「性」は、人間生活の「聖」なる根本ではないか。
この根本があるからこそ、人類は地上で発展する生物になれたのではなかったか。
歴史を振り返れば、人間の歴史は、いい女を抱きたい、世界中の美女を吾(わ)がものにしたい、という男の夢願望が世界を開き、これに応じる女性本能が、人類の発展の原点となったのではなかったか。
真言立川流では、「性」は人類の原点であると説く。真言立川流は、神聖なる「性」をテーマに、不滅なる新鮮さでそれぞれの時代人に問いかけているのである。男女から派生し合うエネルギーを主体にして、男女は生きる為に協力し合うべきだと。
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▲ 古代蓮華。真言立川流では、射精の刹那を「竜華会(りゅうげ‐え)」という。竜華会とは、弥勒菩薩がこの世に顕われ、竜華樹の下で悟りを開き、何億かの人間を救う仏説を云う。実際に男は一回の性交で、何億かの精子を放つ。この場合の「竜」とは男根の象徴である。池に咲く蓮の花は、女根を顕わす。
また「竜体は大池より水を吸い上げ、かえりて大雨を降らす」とは、女根に充つる愛水に悦楽の刺戟を受けた竜が、その辺礼として、大雨の如く、愛らしき蓮の花に精液を降らすのである。したがって「蓮華」とは、古来より女根の象徴であったのである。
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●修法場としての床の中のインテリア
男女二根が交会(こうえ)を重ねる床の中は、当然そこには、修法場としての意味を持たなければならない。つまり、床(ステージ)を「道場」に見立てる思想がなくてはならない。
二根交会は真言道清浄句法(しんごんどう‐せいじょうくほう)であり、深行(しんぎょう)にして、神妙なる法の意味がなくてはならない。
真言立川流の『自心開悟蔵私記(じしん‐かいごぞう‐しき)』には、二根交会に際して男女の真呼吸が説かれ、また、修法場としての床には、本尊たる阿字(あじ)を道場内に掲げ、男女の修行者は阿(あ)の字と同じ高さに顔が来るようにしなければならないと説かれている。そしてその距離は一尺六寸(約48cm)と定められており、これは「菩提心論(ぼだい‐しんろん)」によるものである。
菩提心論の中には、「八葉白蓮一肘間(びゃくよう‐れんげ‐いっちゅう‐の‐かん)」という句があり、肘の長さの距離で、八葉白蓮と対面せよと教えている。つまり、人間の肘の長さを一尺六寸と見立て、人間の本能が持つ、心の煩悩や仏心のシンボルを八葉白蓮としているのである。
また、本尊の阿字(あじ)とは八葉の蓮華(はす)に乗った梵字の事で、万物は此処から生まれて来ると言う、女根を讃えたものである。
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▲ 八葉の蓮華と阿字(イラスト/曽川 彩)
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では、男女和合の床では、どうするか。
八葉白蓮または赤蓮(あかはす)の本尊の代わりに、鏡または照明器具を配すれは良いであろう。
鏡は煩悩を燃焼させ、昇華させるものである。照明器具は、古代インドでは「スラタ・プラディパ(性交用灯りの意)」と称され、男女二根交会の修法に、インテリアとして一役買ったのである。
●密教房中術の交会四十八手の前半「手解き八手」
仏教で行う印喫と性交の関係は、人間の指に「五大」の密意が含まれている。人間の印をつくる両手は、右手の金剛界と、左手の胎蔵界を組み合わせる事により派生するのであるから、そこに男女の営みを観ずるのは当然の事である。
喩(たと)えば、二本の指を遣う「安慰(あんい)の印」あるいは「随心(ずいしん)の印」とかは、性交時に男女が動かす「二本の指」を顕わしたものである。
また「四十八印契」については、「日月尊像図印集」によるもので、各々の体位は、各印契が示す尊像と一体のなり、悟りに入る境地を顕わし、心して行うべきものである。
『大びるしゃな成仏神変加持経(じょうぶつ‐しんべん‐かじきょう)』の「秘密八印品(ひみつ‐はちいん‐ぼん)」にも、「自身本尊の形に住して堅固不動なり。本尊を知り終って、本尊の如く住すれば悉地(しっち)を得る」と示されている。
因(ちな)みに、「悉地」とは、密教の秘法によって得られる悟りを顕わす。ここでは「手解(てほど)き八手」を紹介する。
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1.浄法界之印
(前つけ)
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両手を金剛拳にして向かい合わせ、人指し指だけを立たせて両方の指の先端を合わせる印契。これは交会を前にして陽根を手にし、陰根を撫で上げ、共に性器を浄化する意味で露払いの体位をとる。 |
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2.吉祥法螺之印
(向こう突き)
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両手の十指を合わせ、両人指し指を曲げて拇指の背に当てる。交会に際し、相手に十分に快感を与え、「死ぬ死ぬ」とか、「イクイク」と喚かせて、「向う突き」の姿勢をとる。 |
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3.大慧刀之印
(本間どり)
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人指し指と拇指の先端をつける。この印契は一気に突き入れる体位であり、四十八手では「本間どり」という。この場合、男上位で力を込めた方が、陰陽の精気が安定する。 |
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4.吉祥願蓮華之印
(小股はさみ)
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十指を開いて合掌し、拇指と小指を立てる。次に残りの三組の人指し指、中指、薬指を汲み合わせる。この印契は男女二根交会を顕わし、お互に強く抱き締め、これにより、かなり深く入るし、締め具合も良い。双方の満足感を高める働きがあり、男女の愛情の純度を増す効果がある。種字は「あ」である。 |
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5.金剛大慧之印
(鴨の入れ首)
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両手を外縛し、中指を立てて人指し指を曲げる。更に拇指と小指を立てる。これは邪魔物を排除する印契であり、行為の最中に邪を寄せ付けない。また四十八手の名前からして、「鴨の入れ首」とあるのは、鴨が首を入れるがごとく、女性の片脚を男が持ち上げ、ピッタリ重なりあう事を重視している。種字は「うん」である。 |
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6.如来頂摩訶之印
(かつぎ上げ)
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内縛し、中指を立てて先端を合わせる。次に人指し指を側面に立て、拇指を揃える。これは快感を顕わす印契であり、夢の中のエクスタシーを表現するものである。体位は夢中になる事に主眼が置かれている為、「あつぎ上げ」「きぬかつぎ」等の名前があり、男の勢いを象徴している。 |
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7.満願之印
(松からみ)
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右手は拳を握って眉間に当てる。次に左手は掌を重ね合わせ、下腹に当てる。この印契は「男の射精」と、女性が陽精を受け入れる事を満願する形を顕わしている。「松からみ」は男上位で、女性は脚を開いて受け入れる体勢をとる。 |
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8.びぐてい之大印
(善光寺)
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拳を握り、人指し指を立てる。この印契は射精しても、直ぐに挿入を解かず、女根内から陰の精気が急速に消滅しないように、男はこの間待たねばならない。一方女性は、男根から陽の精気が急速に減退しないように静かに膣を絞める。これは男女双方の心遣いによって完成される。「善光寺」の異名を持つのは、女性が股を固く閉じる事の意味である。 |
二根交会は、そもそも性交そのものが「小周天法(しょう‐しゅうてんほう)」の呼吸法である。
男も女も、肉体内を巡る陰陽のエネルギを充分に吸収し、精力強化を図る事を目的とする。
また精力強化は、「穀菜食」を正食にする事により得られる。
人間が穀菜食をする理由は、人間の持つ歯型ばかりでない。周天法を完成させる為にも、穀菜食は人間に適当な食べ物であり、また、穀菜食こそ、呼吸法の誤りを招かなくて済む。
人間には発情心の一定作用がある。しかし、正食を忘れ、動蛋白や乳製品を主体とする白米雑食に趨(はし)った場合、定期的に一生を通じて、一定に保たれるはずの発情が、不定期的に、あるいは毎日のように訪れて来る。これが異常性欲である。
これは食肉や乳製品の過剰摂取が原因である。
元々、人間が穀菜食型の動物である。また、人間が食肉を常食とするには、ライオンや虎などの肉食獣と違って、動物性蛋白質を還元する酵素が殆ど無く、肉食獣と同じように、これを食べれば、腸内の異常醗酵(はっこう)を招いてしまう。
肉常食者が早熟で短命なのは、この為である。それは穀菜食の実践者と違い、内臓機能が早く老化するからである。その元凶は、腸内の異常醗酵である。
肉の分解によって生じた強酸類は、まず、血液を汚染し、血液そのものを酸毒化する。血液が酸毒化に陥れば、代謝機能を根底から狂わせる。この結果、性的な興奮が不定期的に起り、荒淫(こういん)に趨るのである。
また、この性的興奮は、単に不定期な興奮を齎(もたら)し、人間に異常な発情心を起させるばかりでなく、深刻な排泄障害まで引き起こすのである。肉常食者が、前立腺肥大症になり易いのはこの為である。
こうした事から、生涯を通じて定期的な発情と、一定量の射精を均等に行う為には、根本の食から改めなければならない。
肉常食者は、早い時期から性に目覚め、早期喪失という形で、少年少女は童貞や処女を失う。十代前半には性交渉を持っていると云う男女は少なくない。したがって、若い頃は性交が非常に盛んで、発情心も旺盛なのであるが、中年に差し掛かった頃から、欲情や性力が減退し、初老に差し掛かった頃には、萎(な)えて不完全勃起の状態に陥る。
また精神的には、中年男女が倦怠期に陥り、性交後は早々と背を向け、高鼾(たかいびき)で眠りこけるという状態も珍しくない。更に、情事後は、お互に言葉すらかけたくないと言う状態に陷る。疲れてだるさを感じるのである。また、狎(な)れ合いで、あきあきする精神状態に陥るのである。
したがって改めて、男女の愛情とは何かと云う事を考え直してみなければならない。
真言立川流では、男女の愛を清らかなものと考え、男女を模して、日月と観(かん)じる修法を行う。お互いは、照り輝く太陽と月なのである。
自分の光の輝きによって、相手を照らし、生命力を芽生えさせる事を主眼を置いている。生命力の芽生えこそ、そもそもの「愛」なのである。男女が溺愛する事を、決して愛と言うのではない。溺れるのではなく、「芽生える」ことが愛の根源である。
単に溺れる愛だけでは、溺愛となり、やがて「渇き」を観じる事になる。これを仏道では「渇愛」という。それはまるで、渇して水を欲しがるように、凡夫(ぼんぷ)が五欲(感覚的欲望で、五官(眼・耳・鼻・舌・身)または五境(色・声・香・味・触)に対する欲望)に愛着して、お互に男女の性を貪る事を云うのである。
快楽主義に溺れる俗人は、愛の定義を次のように云うようだ。
それは男が女を求め、女が男を求め、独占し、自己を犧牲にして、「相手に尽くす事」という。しかし、この自己犠牲的な愛への考え方、あるいは独占欲が最優先される考え方は、果たして正しいだろうか。これでは人間がまるで、カマキリではないか。人間は自己犠牲を自ら好んで、ただ相手に食われる為に、尽くし、信じ合うのだろうか。
もし、これが愛とするならば、まさに「渇愛」の最たるものではないか。
本来の愛は、男女が睦(むつ)み合い、お互いを尊敬し、ともに日月であり、照らし合う存在であったはずだ。
房中術を伝えた古人は、今日の男女の愛の考え方と異なり、女性の月としての姿は、静かで涼しげな光で男を照らし、また男は、男性的な太陽の光をもって、女性を照らし、暖め、慰め合い、睦み合うという生命を育む為の、男女二根交会と考えていた。また、男女の交わりは、日月の交わりと観じ、これを愛の原点としたのである。
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