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理趣経的密教房中術・プロローグ
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理趣経的密教房中術・プロローグ

理趣経的密教房中術・プロローグ








不動明王坐像 法橋清玄/作


理趣経的房中術を読むにあたって

 ここでは『理趣経』そのものを挙げているのではない。あくまでも“理趣経的”なのだ。“理趣経的房中術”である。
 『理趣経』の「愛は清らかなもの」という法説に基づき、これを真言立川流の教義に基づいて、「房中術」を紹介してみたまでである。

 したがって、真言立川流がいう、男を不動明王
(ふどう‐みょうおう)として、女を愛染明王(あいぜん‐みょうおう)に配し、男女の二根交会(にこん‐こうえ)・赤白二(せきびゃく‐にてい)和合をもって「大仏事を成す」などいうような教えは『理趣経』の中にはない。
 こうした思想は立川流独自のものであって、『理趣経』とは無関係である。

 また、『理趣経』には男女二根交会を、「大地大海思想」で説かれていないこともご注意願いたい。大地大海思想は、立川流の教義である。髑髏
(どくろ)礼拝も同じである。こうした猟奇性を帯びたものは『理趣経』にはない。『理趣経』が、立川流に対して責めを負うべきところは何のいわれもない。認めるべき、価値は大きいと信ずる。安易に一笑に付すべきでない真摯に捉えるべきであり、大いに現代人はその説かんとするところを学び、他と比較して人間の漢と女とは「何か」と探求すべきであろう。その意味では、安易に悦楽を追い求めてないことに注目したい。

 更に、男女の性液を陰陽に配当し、人間の骨肉の成り立つ仕組みや、男女の産み分け方などの教義も『理趣経』にはなく、また『理趣経』は何処までも清らかな愛の実践を説くだけであって、況して、赤白についての説明においても、赤とは“女の経血”であり、白とは“男の精液”などという法説も『理趣経』には論じられていない。
 したがって、ここで論じているのは飽くまでも《理趣経的》であって、『理趣経』そのものでないことをご注意して頂きたい。

 密教の根本経典『大日経』である。その真理と理論および実践を「どうすればいいか」を学ぶのが大日如来の教えである。大日如来は宇宙の総ての生命や姿、あるいはその存在を象徴的に顕している。それは仏教を論じた釈尊までもその中に内包している。
 そして、この経典には人間相対界を形作る総てをである。
 それが真言では『大日経』『金剛頂経』そして『理趣経』であり、これが真言の三部経である。その中でも、最も人間的である『理趣経』に注目した。

 では、如何なる姿勢で『理趣経』を唱えるか。
 荒行に、「滝行」なるものがある。春・夏・秋・冬を問わず、これを滝場で実践することは容易でなく、難儀である。
 しかしである。
 家庭の「湯槽」とその他に「冷水浴」を遣い、交互に交替することで滝行に迫ることが出来る。
 その真言は「如是我聞
(じょし‐がぶん)。一時薄伽梵(いっし‐きゃふわん)。成就殊勝一切如来(せいしゅしゅしょう‐いっせいじょらい)。金剛加持三摩耶智(ごんごうかじ‐さんまたち)。己得一切如来灌頂宝冠為三界主(いとくいっせいじょらい‐かんでいほうかん‐いさんかいしゅ)。己証一切如来(いしょういっせいじょらい)……」(『理趣経』冒頭)であり、唱える。己一人のためでなく、他人(ひと)の分もである。
 大乗は己一人に非ず。自他同根の教えである。われ一人を願っても成就しない。
 他人を活かして成就する。
 そして、論じる主旨は《理趣経的房中術》であることを念頭に止めておいて頂きたい。






●霊的バイブレーション

 『理趣経』には、「金剛手菩薩摩訶薩(こんごうしゅほさんぼかさ)。観自在菩薩摩訶薩。虚空蔵菩薩摩訶薩。金剛拳菩薩摩訶薩」を挙げ、その霊験を信じよとある。それを夢中に唱えることによって、心が俗から離れ、己が内部から新鮮なる霊的バイブレーションが起こって来るのではないかと信じる。精進努力して、ただ道を求めるべきであろう。その道を求めることによって、俗世の、己が属した相対的な社会からの価値観の訣別であろう。
 人はこのようにして、俗世で抱いた栄達や金・物・色に、こだわる欲望から離れて、無垢
(むく)なる人間に戻っていくのだろう。それは、自分で自分を自覚し、「己とは何か」を知った時、真物の事故が泛(うか)び上がって来るので絵はあるまいか。

 かつて、一心に勉学に励んだ僧が居た。
 学ぼうとして、人間の真理を探究した僧が居た。名を空海と言う。空海は、一人の僧から道を教わり、法を教わった。
 僧曰
(いわ)く、「自分に虚空蔵聞持(こくうぞうもんじ)の法【註】虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)」を説き、教えた。僧は「その法を、もし人が実践すれば……」と前置きして、「これを百万遍唱えよ」と言い添えた。つまり、虚空蔵菩薩の真言(陀羅尼)を百万遍唱えれば、あらゆる経典の意味が理解出来るとした。更にである。
 理解出来るだけでなく、説かれている言葉の「一言一句まで暗記出来る」といい、「それにはそう描かれている」といった。
 斯くして空海は精進努力に務める。
 すると、どうだろう。

 これまでの俗世の栄達とか、地位とか、役職とか、名誉とか、財産とか、肩書きなどにこだわる気持ちが失せた。そして、自らが向いた、適合した生活は、山林・山岳生活ではないのかと悟る。これまでの欲望が、無常迅速に消え失せたと言う。
 このときこそ、空海の相対的価値観の訣別であった。

 空海は、以降、優婆塞
(うばそく)として四国や各地の山林で久修練行(くしゅう‐れんぎょう)に励んだ。
 日本には密教に対して顕教
(げんきょう)がある。
 顕教とは、「文字や言葉で顕された仏の教え」のことである。
 それに較べて、密教は文字や言葉で顕せない体験的境地が挙げらている。それは学び、悟った本人しか分らないことである。本人しか感得出来ない。
 例えば、性感による悦楽を、如何に言葉で顕せよう。それは本人にしか分からないものである。他人は窺い知ることが出来ない。その感得を、密教では重んじるのである。つまり、それは神秘体験であった。



●性命双修の概念

 仙道房中術の説くところは、仙道特有の生理観にある。
 それは人間の躰
(からだ)の中には「精(せい)」「気(き)」「神(しん)」の三要素があり、これが躰(肉体)を形作り、これを「三宝(さんぽう)」としていることである。

精・気・神(しん)の表。人間は期の形態を顕わすのに、精気、元気、神気の三つがある。

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 房中術で云う「精
(せい)」は、肉体を象徴する“精液”の事であり、男は生殖器から分泌された多数の精子を含む「精水」のことであり、女性は絶頂感の時に放出された精水を「精」と称するのでる。一般には“愛液”の名で知られている。つまり、男の“精液”と、女に陰水である“愛液”が混ざり合うことにより、生命エネルギーが放出されると信じられているのである。

 人間は生きていく為には、それに伴う運動がなければならない。物を移動したり、歩いたり、走ったり、泳いだり、それらを競ったり、意見の喰い違いに争ったり、欲望の成就の為に、様々なアクションを起す。これが運動であり、行動であり、その根元は「精力」が司っている。
 これは人間だけの及ばず、天地大自然も同じ働きをしている。その運動エネルギーの根元になるのは、則
(すなわ)ち「精力」である。
 精力が天体の運行までもを司っているのである。その宇宙にある「精」を、人間は天地から吸収して、“水冷式哺乳動物”の形態をとって生きている。

 生きている人間は、「精」を自分の精力にし、それが生殖に回されると、「精液」という有形化した物体へと形を変える。有形化とは、物質化することであり、眼に見えないものを、眼に見える形にすることである。「無」から「有」が出現するのも、「精」が有形化した為である。

 次に「気」とは、「陽気」であり、また「元気」である。この気は、主に精神力を司る気であり、元気がある時は精神力が充実し、“元気”を失えば、その“気”は病むことになる。したがって、人間が天地から、「精」を吸収している間は、元気を維持していることになる。
 一方、元気を失えば、天地から「精」を吸収することが出来ず、精力を失う一方、肉体を司る「精」は減少し、やがては“生命の火”を燃やす力がなくなって、死に至る分けである。
 これらの元気を有感化
(うかんか)したのが、「陽気」である。
 陽気には万物が動き、または生じようとする気を派生させる。
 この「気」は、本来は意識下外の無感覚のものであるが、これが意識の中で感じられると有感化することになる。それを感じ、肉体に反映させる。それにより独特のエネルビーが出来る。活力が湧
(わ)く。血が騒ぎ肉が踊る、そういう生命の躍動である。不思議と裡側、特に丹田から湧き起こる。生命が燃えるのである。

 元気は元々、無感覚の「気」であり、自分が元気かどうか、健康な時にはこれを殆ど意識していない。しかし、疲れたり、病気になると、元気が失われていることに、忽
(たちま)ち気付かされるのである。

 仙道の行法や、房中術によって、陽気を蓄える修法を行えば、丹田から発した陽気は、男の場合、会陰
(えいん)に下り、背後の尾閭(びろう)を経由して、命門(めいもん)に至り、これが脊柱(せきちゅう)の昇り始めて、玉枕(ぎょくちん)に至る事を「有感化」という。
 また、女性の場合は、丹田に陽気が発生し、男とは逆のコースを辿り、躰
(からだ)の前面を陽気が昇り始める。更に頭頂に至り、玉枕に向かって下り、脊柱を下って命門に至り、尾閭や会陰を経由して、再び丹田に帰着すると言う一順を繰り返す。

 天地の存在は「気」によって造られ、これが宇宙を構成している。この構成要素は宇宙にある気のことで、これを「玄気
(げんき)」という。これが天地間を満たすものが「気」である。天地に回遊する。霊的なる生き物であり、これが人間の「性命エネルギー」に関与し、その人の活力に一生関わって、「生き態(ざま)」を決定する。万物が天から授かったそれぞれの性質と運命をいう。
 人間はこの「気」を吸収して、自分の「気」としている。
 普段の場合、「気」に対しては何の感覚もなく、ごく自然な形で、それが元気であるとも、陽気であるとも知らないで、自然のうちに、それを吸収しているのである。そして、これ等の「気」を有感化したものが、熱感を持ったものが「陽気」である。
 しかし、普段は気付かぬ筈
(はず)の陽気も、例えば運動のやり過ぎや、セックスのやり過ぎにおいて、足腰が立たぬようになり、気が失われたことに自覚症状が顕われる。「やり過ぎ」は、精力不足を齎(もたら)すからだ。

 こうした状態に陥った時、精力が不足すると、天地から吸収不足になっている分だけの、気が「陽気」に変わり、陽気が精力に変わって、その不足分を補おうとするのである。過度の運動やセックスは、精力を直接消耗するものである。精液の浪費は精液不足に陥り、精力が精液を補う為に有形化し、浪費し過ぎた人自身は、その不足から有感化が起るのである。
 「へこたれた」「足腰が立たぬ」とは、こうした有感化の不足現象である。性命エネルギーは不足する現象である。

 更に「神
(しん)」を挙げれば、神は「意念」と「霊能」のことである。
 一般に「霊」などと称すと、神霊学や霊能者の用いる霊媒
(れいばい)を連想するようであるが、ここでいう「霊」とは、動植物に備わる精神的実体である。この霊は、肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる意念であり、これは人間の場合、生まれた時に天地から授(さず)かるものである。そして人間には、霊がある為、天地から「神(しん)」を吸収することが出来るのである。

 霊による一切の能力を「霊能」という。この霊能は、インチキ霊媒師だけの専売特許ではない。霊能は、人間である以上、誰にも備わっている。その霊能が有情化
(うじょうか)したものが、「意念」である。
 「有情
(うじょう)」というのは、本来は仏教用語であり、情(物事に感じたり、思い遣ったり、懐旧など心やその働きや感情)を持つものの意味で、生きとし生けるものの総称である。あるいは「衆生(しゆじよう)」を指す。
 更には意識の具現で、「愛憎の心の有る」ことを云う。つまり、「意識する」ことであり、「ありさま」を指し、「意識して行う」ことである。心情というべきものである。

 人間は、人生を生きて行く上において、必要なものは総
(すべ)て自分の裡側(うちがわ)に備わっている。外部から物理的な力を借りなくても、内部には生まれた時から、「人生を生き抜く要素」が内蔵され、これを乳幼児期・幼児期・少年期・青年期・壮年期・老年期とそれぞれに使い分けていくのである。
 したがって、性欲は生まれたその日から起り、それが死ぬ直前まで続くのである。生命の「火」と「風」が止
(や)まぬ間は……いつまでも。
 つまり、人間が性的要素を訓練すれば、自然と共に、自らも発達し、人生を深みのある、豊かなものにしていくのである。本来は、ここにこそ人間の本当の営みがあったのである。



●男根噴水・女陰発熱

 人間の歴史は、有史以来、欲望を満足させる為に、その努力が払われたが、その欲望の根元には、「世界中のもの」を吾(わが)がものにしたいと言う願望が働いていた。
 元々、セックスは、良い女を抱きたい、あるいは良い男から抱かれたいという願望が、性欲と重なりあった為に、人類の発展する起因を作った。これが子孫を残す原動力となった。
 要は良い女を抱きたい。あるいは世界中の女を吾
(わ)がものにしたいという男の夢と願望が、世界を拓(ひら)き、これに応じる女性本能が、人間の歴史を作り上げたと言える。「性」は人間の、生命の原点であったわけだ。

 ところが、「良い女を抱きたい、世界中の女を吾がものにしたい」という男の“夢”と“願望”は、ある時代から別の形で動き始める。
 最終的には「性の願望」を満たす目的をもっているのだが、その手段として、「支配する側」と「支配される側」の階級構成が、歴史と共に明かになっていく。人間の階級的なヒエラルキーが出来上がるのである。

 人間の歴史は、十七世紀後半において、プロレタリア階級の都会への集中が始まり、男根
(なんこん)噴水、女根(にょこん)発熱の結果、肉体の宿る「生命の火」の作用によって、徐々に人口が殖(ふえ)え始め、近代資本主義の基盤を固めて行った。
 近代資本主義は、一種の人口増加を齎
(もたら)したと言える。この時代の人間の性器は、単なる動物的な、人口増加を齎す生殖器だった。非常に未熟なものへと退化したのである。これが「性の氾濫(はんらん)」であった。
 その結果、性が乱れるだけでなく、“性の錯覚”が起った。
 世間には、性欲の対象として利用される女達が、セックスすることで「自分は愛されている」と錯覚していることである。
 この“思い込み”によって、性的な満足というのは、真底愛されていると云うことに比べれば、何の変哲もない事なのである。ちっとも素晴らしくも、素敵でもないのである。
 ところが“性の錯覚”によって、肉体さえ繋がっておれば、それが愛だと思い込んでしまったのである。これが現代の世の、“性の錯覚”なのである。

 そして“性の錯覚”は、精の浪費と、物品の消費を促す社会を作り上げた。
 この時代を機転に、時代は物質化の方向に大きく傾き、正守護神
せい‐しゅご‐しん/霊的神性を司る神で、中心帰一の中心力を持つ。左旋に変わり、副守護神ふく‐しゅご‐しん/物質的欲望を司る神で、中心から大きく懸け離れ、拡散・膨張の遠心力を持つ。右旋)が猛威を振るう事になる。唯神論から唯物論に変化した時代であると言える。肉体の物理化や科学化が、一方で物質主義を蔓延こらせ、人体の霊体・幽体・肉体のうち、“肉体”だけの「官能」と「快感」に眼が奪われると言う現象が起ったのである。
 その時代は、奇しくも、金融経済が主導権を握り、西欧に植民地主義や帝国主義が猛威を振るい始めた頃からであった。そして、これが引き金となり、その後の人口爆発が起り始めるのである。

 人口が増加するメカニズムを説明するのに、「蓮
(はす)の池」の話が、よく人口学者により、説明されることがある。
 おそらくこれは、密教の故事などから得た喩
(たと)え話であろうが、次のように説明されている。
 「池の中に一株の蓮
(はす)が生えた。これが年々二倍になり、百年後には池一杯になって、総(すべ)ての蓮は窒息し、総てが死に絶えた」
 これは、一つの暗示である。
 人口学者の説明は、これだけに留
(つど)まらない。次ぎのような問題を提示し、これに解答を求めるのである。
 問として、「では、この蓮が池の半分を占めたのは、蓮が生えて何年目のことか?」と。
 答は「99年目であり、全滅する一年前の事である」と。

 そして人口学者は、地球を、この話の「池」に喩
(たと)え、人間を「蓮」に喩える。年々増加する蓮が、九十八年も掛かって、やっと池の四分の一を占めた。98年も掛かって、まだ四分の一だ。四分の三という、大半は空きではないかと。
 そして後、四分の三の面積が余っているのだから、池一杯になる心配はない。
 第一、池の四分の一を占めるのに、98年も掛かったではないか。池が満杯になって、蓮に危機が訪れるななど、何を心配する必要があろうと。

蓮の花の池

ルンキラモ
 蓮は、古くは大陸から渡来したといわれる仏教とのかかわりが深い植物である。寺院の池、また池沼・水田などで栽培され、蓮を植えてある池を蓮池という。
 また、蓮には、「蓮の糸」なるものがあり、この糸は、蓮の繊維を集めてつくった糸の事を言うが、この糸自体に極楽往生の縁を結ぶとの俗説がある。

 ところが、水面下の茎下の蓮芋
(はす‐いも)の部分は、小さく硬くて食用にならない。
 その上に、一年後とに二倍の勢いで増えて行き、最後は池全体を占領すると言う繁殖力を持っている。したがって池の所有者は、10年に一回か、15年に一回、蓮を蓮芋
(はすいも)ごと“間引く”のである。この「間引き」をしないと、蓮は池一杯になり、やがては全滅するのである。
 蓮を見ると、その花は確かに美しい。しかしその美しさの下に、「全滅」と因子を抱え込んでいるのである。
 そしてこの「因子」は、どこか人間に共通したものを持っているではないか。

 時代の変化は、その節目ごとに異変が起り、あるいは戦争が起る。
 特に戦争を考えた場合、軍産複合体の武器消化周期は10年から15年であると言われている。
 太平洋戦争終結から朝鮮戦争、朝鮮戦争からベトナム戦争、ベトナム戦争から湾岸戦争、湾岸戦争からイラク戦争と、過去の歴史を振り返れば、ほぼ10年から15年で繰り返されているではないか。
 これは、地球の人類が殖え過ぎない為の抑止力か。何故か、そう思えてならないのである。そして人類は、滅亡の方向に向かって驀進
(ばくしん)しているのかも知れない。

 池の半分を占めた99年目の半分になった時点でも、まだ半分は残っていると高を括
(くく)った。その一年前の98年目も、四分の三は空いているではないかと安心しきっていた。
 だが、その98年目から数えて、二年後には蓮の総
(すべ)てが全滅するのである。しかし全滅する翌年の99年目にも、「まだ半分は残っている」と高を括るのである。そして100年目に全滅する日を迎えるのである。
 これは一種の密教的な挿話であろうが、地球の人口も、この話に密接な関係を持っている。つまり、この挿話の裏には、人口増加率は同じでも、爆発的な人口増加率により、接待数は、倍々ゲームで増えていくのである。

 例えば、地球の土地や資源は、まだあると思いながら、半分の状態になったときは、その翌年の運命の日が訪れ、総てが死滅してしまうのである。今日の地球は、その限界を迎える日が、目前に迫っているのかも知れない。事実、人類はカオス理論で云う、「特異点」に向かって、まるでウシ科の哺乳類・ヌーの群れのように突き進で出いるのである。

 今日の地球規模で、人口増加率を観
(み)て行くと、その爆発的な人口増加は、実に凄(すさ)まじい。
 1970年代から1980年代の十年間で、世界の人口は7億9,000万人も増加した。これは1750年の全世界の人口に匹敵する。そして、1990年代には8億8,000万人の人口が増加し、十七世紀後半から十八世紀にかけて、産業革命
industrial revolution/1760年代のイギリスに始まり、1830年代以降、欧州諸国に波及した産業の技術的基礎が一変した産業技術革命。この産業革命を経て、初めて近代資本主義経済が確立し、小さな手工業的な作業場に代って、機械設備による大工場が成立する)が始まった約二百年間で、爆発的な勢いで、加速度を付け増え始めているのである。

 世界的な人口増加の兆候が見え始めたのは、十九世紀初頭だった。
 英国の経済学者マルサス
Thomas Robert Malthus/「人口論」を発表して社会に大きな衝撃を与えた。1766〜1834)は、人口増加が深刻な食糧不足を齎(もたら)すと予告した。
 しかし十九世紀後半からは、南北アメリカでの土地開発や化学飼料の出現で農作物や家畜が思った以上に繁殖し、食料生産が急速に進んだ為、その懸念
(けねん)は薄れた。この結果、近代文明社会では、その科学力をもって、限り無く食糧を人類に提供出来ると言う傲慢(ごうまん)な考えが生まれた。

 かつて紀元前2000年前頃の世界の人口は、3,000万人程度であったと推測されている。それが当時の農業革命で、農業基礎が本格化されると、徐々に殖
(ふ)え始め、灌漑治水(かんがい‐ちすい)によって、紀元前1200年頃になると、世界の人口は1億人に達したと言う。その後、気温の寒冷化もあって、一時期、人口の伸び率は停滞したが、紀元前400年頃になると、再び急増が始まった。

 紀元前後には4億人に達し、この四百年の間に、西洋ではローマ帝国の成長期にあり、中国では春秋戦国時代の真っ只中で、その直後、秦
(しん)ならびに漢王朝が栄えた。インドでは、マウリア王朝の大帝国が出現し、世界は古代物質文明に突入したのである。しかし、それから百年後の二世紀に入ると、地中海沿岸や中東ならびに中国黄河流域などにおいては、古代文明の先進地域で人口の減少が起り始めた。
 一方、今日のフランス、ドイツ、ウクライナ方面の北ヨーロッパ、ならびに中国の南部や西域、漠北部では人口の増加が起り、先進地域との逆転現象が起り始めた。

 四世紀に入ると、世界的に激減傾向が起り、400年から600年にかけては、世界の総人口は3億人を切るようになる。西ローマ帝国の滅亡や、中国南北朝に当たる中世初期には激減傾向を見るのである。こうした人口の激変が回復するのは、それから800年後の十三世紀になってからであった。

 また十五世紀になると、ヨーロッパでペストが大流行し、更には気温の寒冷化により、約50年間で25%の人口が激減したと言う。世界の人口変動は複雑化を見せ、奇怪な波動を見せ始めたのである。
 ところが1600年代に入ると、世界の人口増加の傾向は、まさに「池の蓮」の様相を見せ始めた。この時代に到って、世界の人口が5億人を突破した。
 1800年には10億人、1930年頃には20億人、1960年頃には30億人、1975年頃には40億人、1987年頃には50億人となった。そして1999年には60億人
(1999年10月12日にはついに60億人を突破)、更には2050年頃には89億人以上を突破すると推測されている。

 歴史には、享楽に至る為の手段として、表側だけしか記されていないが、潜在的な欲望は、良い女を抱きたい、世界中の女を吾
(わ)がものにしたいという男の夢と願望が、世界を拓(ひら)き、これに応じる女性本能が、人間の歴史をつくり出したことは、その欲望が「性」に求められたことが、何よりも歴史は雄弁に物語っている。そして、そこに人間の「性」が絡んで居た事は、全く否定できないことである。
 しかし「享楽主義」の行き着いた先は、人類の破滅を暗示している。物質主義の謳歌
(おうか)は、「若さ」を享楽的な青春に置き換え、これを若者に「人生」イコール「享楽」という図式を植え付けた。そして一生かかって享楽を手に入れることに奔走(ほんそう)させる人生観を、現代と言う世に出現させた。享楽に趣(おもむ)くのは、人間の自然の性向だと煽(あお)った。

 これにより、性交遊戯に戯
(たわむ)れる世の中が出現した。また、戲れから、義人(ぎじん)が減り、邪人(じゃじん)が増える世の中に変貌した。世の中には、邪人だらけである。
 しかし、この現実を凝視すると、青春は享楽によって輝くのではなく、かえって享楽により、廃
(すた)れる現実をつくり出したのである。
 則
(すなわ)ち、享楽によって、若さは栄えるのではなく、享楽により崩れ、腐蝕する世の中をつくり出したのである。享楽主義の誤りから、人口増加の皺寄(しわよ)せが、此処にも顕われることになる。

 密教房中術は、人生の意義は享楽にあるのではないと説く。男女の愛は清らかであるが、肉欲を滾
(たぎ)らせて、それに浪費させることではないと説く。肉体的な浪費ではなく、生命力の燃焼こそ、人生を大いに豊かにすると教えているのである。人生の目的は、多くの物財に囲まれたり、美男美女に囲まれたりの物質的な幸せにあるのではない。
 男女二根交会を通じ、「性」の本質を知り、如何に自己を偉大な悟りに近付けたかを、人類に向けて問い続けているのである。



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