死ぬるも、また一大事
 |
|
▲死のトンネルを抜けて。洞窟の先に見える光は何か。
|
●寿命について
人間の寿命は齢(とし)ではない。あるいは命の長さを指すのでもない。生命(いのち)を燃焼させ、燃える火を、生涯をかけて灯し尽きることである。懸命に燃やせば、その燃焼は完全になり、怠ければ不完全燃焼となる。そして人の寿命の成就とは、どれだけ全力投球をしたかに懸(かか)る。
しかし、全力投球をする完全燃焼とは、老後の苦しみを引き換えにして、「今の快楽」を求める事ではない。
若い時だけにしか出来ない「青春の謳歌(おうか)」という行動がある。これは若い時だけに、ありったけの力をぶつけ、青春でなければ楽しめない人生指向である。この指向に目覚めた時、人はただ一度の快楽的な幸福を、あらん限り享楽して、老後の苦しみを引き換えにしてこの甘味に浸ろうとする。
この指向の中には、歳をとってから、少しくらい憂(う)いめや、辛いめをするのと、若い時にせっせと働いて、二度と帰らぬこの人生の青春を、虚(むな)しく働き、歳をとってから少し楽をする双方を天秤に掛け、人生はどちらが得をするかを計算する考え方である。
つまり、青春を享楽に当てて過ごし、永い生涯が終わりを迎えて、墓場の入口に立って自分の人生を振り返る時、「若い頃は実に楽しかった」と思えるような生き方がよいか、ただ我慢を重ねて歯を喰い縛り、遊戯などには目もくれず、働き通して老後を迎え、自分の働き度を、たかがしれた貯金通帳の数字の数で比較した時、双方は果たしてどちらが得をしたかという、晩年の反芻に立ってその重さを計る事である。
どちらが本当に幸福で、またどちらが人生を得したかを考える生き方である。
若い時に享楽の限りを尽くし、そこで青春を謳歌し、人生を得をしたと言う考え方と、若い時に働き詰めで、歳をとってから余力のある事に幸せを感じる事と、果たしてどちらが得をしたかということである。
若い時にしか出来ない事をして青春を謳歌するか、あるいは歳をとってから幾らかの財のある事が幸せなのか、両者を比較した時の損得勘定である。
しかし、現代人は青春謳歌型の、太く短くと言う事より、歳をとってから細やかならがらも、幸せになるという方を選ぶようだ。
つまり若い時に一生懸命に働き、蓄えをすれば、幸せになれるのではないかという考え方をするようだ。
しかし、これをよく考えると、若い時に快楽を享受してそれだけで果てるのか、あるいは歳をとってから幸せになるのかは、その人の持つ天分であろう。あるいはその人に備わる徳分であろう。
こうした事は、因縁によって決まる事であり、幾ら働いても、身に金が付く縁がなければ、若い時から一生懸命に働いても、やはり歳をとっても齷齪(あくせく)としなければならない。働いても働いても貧乏をしている人はいる。
一方、若い時にそう働いたわけではないが、金が身に付く徳分を持っていれば、金の方がやって来る。あるいは人の道を外さず、当たり前の事を当たり前に遣っていれば、幸せの方がやってくる。
則(すなわ)ち、貧富は総て天にあると言えよう。これはわが身に持つ因縁であり、徳分によっている。しかし、「天」だ、「徳分」だといっても、これは果たして充(あ)てになるのか。あるいは未来は確実なものなのか。確実と思われた未来予測すら、時として誤算が起るではないか。一体これはどうしたことか。
充てにならぬ事を充てにして、二度と帰らぬ若さを虚しく費やし、某に振ってもよいのかという考え方が、再度浮上して来る。
更には、「人は何故働かねばならないのか」という疑問が持ち上がって来る。働いて金を得たとしても、身に付く徳分、あるいは因縁がなければ、金は直ぐに逃げていく。ただ逃げていくばかりでなく、他のものまで率き連れて出て行く場合もある。
歯を喰い縛り、臂で人を押し退け、我先に、人より一寸先に躍り出て、せっせと金を稼ぎ、蓄え、どうやらこれで一安心と思った時に、金が身に付く縁がなければ、家族に重病人が出たり、交通事故などで大被害を受けたり、不注意から大怪我を仕出かしたり、詐欺に遭遇したりと、一度は貯まった金も遂に出て行って了(しま)う。
それにもめげず、再び気を取り直して齷齪(あくせく)と働き、今度はやっとどうやら金が貯まったかと思うと、天変地異などに襲われ、人間の力では如何ともし難い不幸に遭遇して、更に不幸のドン底に陥ると言った事もあるわけである。
金銭は身に付く因縁がなければ、実は身に付かない。幾ら懸命に働いても、出ていくものは出て行く。
こうして考えて来ると、金や幸せと言うものは、直接的に掴もうと思って追いかけても、「徳分」というものがなければ、実際には身に付かないと言う事が分かる。「徳分」を養わない以上、金も幸せもやってこないということになる。
追い求めても逃げていくばかりで、直接に求めれば、それはただ我(が)の炎上と言う事になる。この「我の炎上」に、寿命と言うものが絡んでいる現実が、人生の側面に転がっている。寿命を求めて求められるものでなく、それが天にある。
貪欲に、我執によって寿命を引き寄せても、寿命は直接的に人間側に引き寄せる事が出来ず、長寿を願うのは我欲から起る「煩悩の焔(ほのお)」ということが分かる。
「求めて得たものは埃(ほこり)」という言葉があるが、これは寔(まこと)に真理を顕わした言葉と言える。
長寿でありたい、健康でいつ迄も長生きをしたい。こうした考えは、やはり生きるだけの因縁がなければならず、長寿を得る為の徳分が備わっていなければならない。長寿は自分から求めて得られるものではない。「一寸先は闇(やみ)」である。自分が確かに、十年先、二十年先に生きていると言う保障は何処にもない。幾ら強健で、健康体に恵まれていたとしても、不慮の事故で命を落さないとは限らない。
あるいは年から年中病気ばかりをしていて、寝たり起きたりを繰り替えしながら、病症の身でありながら、長生きをする人もいる。そして長生きか、短命か、それは一切が天の決めることである。
更に寿命の長短を考え、長生きをしたということは、単にその年月と言う単位を言っているに過ぎない事が分かる。これは寿命と長生きがイコールでないと言う事だ。
逆に短命だったということも、実は年月を単位にして考える考え方である。つまり寿命と短命に終ったと言う時間的な単位は、必ずしもイコールでない。
|
|
| ▲ 山水画『王元之竹楼記図』。山水画は「死後の安住」の世界を顕わしたものだと云われている。これは現世が仮の世で、死後の世界こそ、魂が落ち着くところとしている。 |
ある人は百歳まで生きた。またある人は三十歳の若さで死んだ。両者を比べた場合、果たしてどちらが長生きをしたかは、言うまでもなく、誰もが百歳の人を挙げるであろう。
しかし、人は此処で間違いを犯す。
何故ならば、百歳と三十歳を比べれば、数字の上では百歳の方が遥かに長生きをして、三十歳の方が早死をした事になる。しかしこれは「寿命」でなくて、年齢の「数」である。単に寿命を数字で顕わしただけに過ぎない。そして、これがそもそもの間違いの基(もと)となる。
100と30を比べれば、どちらの数が大きいかと問われれば、勿論、100の方を大きいと答えるであろう。しかしこれは数字であって、人間の寿命ではない。単なる数字に過ぎないのである。
人間の寿命とは、数直線上の数字で著わすものではない。
一般に千年杉などと謂(い)れ、植物学者の間では、杉の寿命は千年以上と推定されている。
一方、朝顔は一日の命と云われている。そして両者を比べれば、数字の上では断然千年杉の方が長時間生きたことになる。
しかし、千年杉の千年生きるというのは習性であり、また朝顔の一日と言うのも習性である。したがって千年杉が千年生き、朝顔が一日生きたと言うことは、どちらも己(おのれ)の寿命を全うし、等しく長生きしたことになる。つまり朝顔が一日、目一杯生きたのと、千年杉が千年生きたのは、双方とも長生きである。それは双方とも、自らの寿命を全うしたからである。千年杉が千年を生き、朝顔が一日を生きたならば、どちらもよく生きたことになる。
しかし、朝顔は一日を目一杯生き、千年杉が九百年で枯れてしまったら、千年杉は早死にした事になる。一日の寿命の朝顔が、一日を目一杯生きたのなら、それは長寿だったと言えるであろう。
一方、千年杉は、残りの百年を残して九百年で枯れたのだから、これは若死である。数字の上では九百年(328,500日)の方が大きいが、寿命となれば、千年杉の九百年の時間よりも、朝顔に一日を目一杯生きた方が、寿命は長かった事になる。
私たちは「数字」と「寿命」を混同し、誤解する。こうした誤りを徹底的に追求して、寿夭不二(じゅようふじ/長寿と夭折(ようせつ)あるいは長生きと若死には同根である)の原則を知らなければならない。
不二とは、二つに見えて、実は一つであることを指すが、二つに分けて、その結果、やはり「一つである」という知識の世界を指すものである。
そして不二とは、天命に任せた姿を言う。
したがって寿命とは、人間の計らうものではない。人の寿命と言うのは、人間の力で得ているのではない。人間の力で、その長短を知るものではない。天に任せ、天命が命ずるものである。これこそが「他力一乗(たりきいちじょう)」である。まさに「任運自在(にんうんじざい)」である。
「任運自在」とは、人の作為(さくい)を加えず、「その儘(まま)である」ことを言う。法爾(ほうに)と同等であり、無功用(むくゆう)と同意である。自然とそうなるのである。また、法そのままであることを指す。
無功用の「功用」は、身・口・意の意識的作用であり、この意識が「無」というのであるから、自然のままで何らの作用も加えないことを云う。
つまり、一切の存在は人為(じんい)を加えずして、その儘(まま)の姿が真理であり、人為を捨てきってこそ、そこに真理が存在している。自然の儘で、何らの作用も加えない事こそ、任運の教えるところなのである。
任運と言う、運を天に任す、他力一乗になってこそ、自由自在が会得出来るのである。これが会得出来れば、不治の病で居ようが、健康で居ようが、全く問題ではないのである。何故ならば、不治の病で長生きすることもあるし、長寿であっても、不慮の事故で短命で終る場合もあるからである。
狂句に、
長命の血筋が断頭台で消え
というものがある。
本来、寿命と言うものは、物理的な、物が使用され得る期間を言うのではない。また、素粒子や放射性元素や分子などが、ある特定の状態に存在する時間を指すものでもない。人間の寿命は、人間が心配したり、思い悩む事ではないのである。
生きる因縁があるならば、少々無茶をしても生きられるように、事(こと)が運を運んで行く。
逆に生きる因縁が尽きれば、そんなに健康な人間でも、事故死で頓死(とんし)するのである。どんなに用心深くしても、死が追いかけて来れば、それを追い払う事が出来ず、直ぐに死に追い付かれてしまうのである。
寿命の長短は、人間が気に病む事ではない。天に任せて、優秀から解放されれば、その時点で自由自在の喜びが生まれるのである。そしてこの境地に至った時、本当の養生が生まれ、本当の用心が生まれてくるのである。
人の生死や寿命は、人間側が勝手に定めたり、あるいは医者が告知するものではない。因縁が決定するものであり、天が決定するものである。また、寿命を言い当てたり、生死の有無を告知するのは医者の遣(や)る事ではない。
したがって、因縁に任せて生きれば、それだけで「正しく生きよう」と決意と自身が生まれて来るのである。正しく生きようと決意した時、人は夭寿不貳(ようじゅふじ)の「生」と、「運命」とを全うする理(ことわり)を知るのである。
|