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内弟子問答集 17

問答 62
トイレの使い方には作法があると思うのですが、正しい使い方とトイレに関する作法を教えて下さい。

 トイレの遣い方には、作法作法があることを知らねばならない。しかし、現代人はこうした作法に疎いようだ。

 さて、異化作用により、便通を催したらトイレに行くが、トイレの遣い方にも礼儀作法があるのを御存じだろうか。
 トイレは、単に大小便を排泄するだけの場所ではない。トイレは英語のトイレット・ルーム
(toilet room)の略語であるが、この意味は化粧室、手洗所、便所であり、日本では「厠」(かわや)とも言われて来た。
 厠の意味は、川の上に掛けて作った屋代
(やしろ)の意味で、また、家の傍(そば)の屋の意とも言い、大小便をする所を、こう呼んだ。

 『古事記』の中には、「朝署
(あさけ)に厠に入りし時」の一節があり、「厠の神」が居る処とされた。
 「厠の神」は、厠を守護する神のことであり、埴山姫
(はにやまひめ)と水罔女みずはのめ/罔象女とも書き、「神代紀」に出て来る水を司る神)の二神がおられる。

 また、厠は「雪隠
(せっちん)」とも言われ、関東地方や東北地方では「雪隠詣り」という行事があり、生後三日または七日に、赤児を連れて便所の神に詣る風習が、つい最近まで広く残っていた。
 つまり便所は、霊的に見て、明らかに神が鎮座
(ちんざ)する場所になっている事が分かる。神が居る以上、そこには当然の如く礼儀作法がなければならない。

トイレット・ペーパーは使用後、次に遣う人の事を考えて、必ず紙が引き出し易いように、紙の尖端を三角に折り込む。これは使用者の礼儀であるので、厳守するように心掛ける。 トイレ掃除は内弟子に課せられた重要な修行課題であるが、尚道館・陵武学舎では、便器を洗う際、便器タワシ等は遣わず、大小便器とも、人間の手で洗う。自分の手で便器を洗い、そこから道を学ぶのだ。 人間修行の内で便所掃除ほど修行になるものはない。不浄の場を浄める事で心が磨かれる。

 食事の仕方と同じように、トイレにも礼儀作法があり、その遣い方によって、その人の人格と品格が顕(あら)われる。食事をする事を簡単に考えている人は、トイレの遣い方も雑で、実にだらしがない。小便器の使用後は水道ボタンを押して、必ず水を流す事は勿論だが、だらしのない人間は、この中に、唾(つば)や痰(たん)を吐き込み、実に乱暴な遣い方をするものだ。そして礼儀など何処にもない。
 「お里が知れる」とは、この事を言うのだ。

 また、この手の人間は大便器の使用においても実にだらしなく、便器に自分の大便の跡
(あと)を残す人間が居る。
 大便器の使用は、使用する前にトイレット・ペーパーを二つ折りにして便器の中に敷き、このようにして遣う事が礼儀であるが、これを知らない人間はそのまま、自分の大便を垂れて跡を付けて憚
(はばか)る事も知らず、掃除すらしない者が居る。
 本来、「憚る」とは、便所の「はばかり」をも指す言葉であり、世話になる時の挨拶の語である。したがってトイレの遣い方には、そこに人格と品格が顕われる。

 遣い方のだらしのない人間は、如何に「道」を唱えてみたところで、誰も信用する者は居なくなるだろう。
 トイレも、食事と同じように見苦しくなり易い処であり、人間のレベルが顕われる処なので、充分に注意したいものである。

 ちなみに尚道館・陵武学舎の内弟子達は、トイレ掃除をする時、大小便の便器を自分の手で洗い、磨き上げる事を毎日行っているので、こうした場所のトイレを使用する場合も、彼等に対し、礼儀に反しないよう充分に細心の注意を払い、「憚る心」をもって、他人に世話になる礼儀を忘れず、「他人行儀」に、丁寧に使用したいものである。


問答 63
礼儀と護身術の関係について教えて下さい。

 礼儀を知る事は護身法を知る事である。
 人としての礼儀は、天地の摂理であると同時に、護身法の心得でもある。
 礼儀はある意味において、社会秩序の規範を為
(な)すものであるが、礼儀を糺(ただ)し、礼儀に従って行動をすれば、他人から無用の辱(はずか)めや侵犯を受ける事はない。礼儀の効用は、こうした他人との摩擦を避けると言うところにも顕われる。

 ところが礼儀から逸脱し、傍若無人
(ぼうじゃくぶじん)に振る舞ったり、傲慢(ごうまん)な暴言を吐いて、他人を中傷誹謗して笑い者にする目的でこれを行った場合、必ず恨みが発生する。そして以降、命を付け狙われ、無慙(むざん)に命を落とす結果にも作(な)る。

 特に、武術家や武道家と自称して名乗る人間に限り、正しい礼儀を心得ている者は少なく、礼儀作法を自分流に解釈して、挨拶をする、お辞儀をすると言った類
(たぐい)を礼儀と理解しているから恐れ入る限りである。
 そして、このレベルの者は、礼儀と、挨拶やお辞儀を、混同して考え、その区別も付かないようだ。

 だからこそ、恨みを買われ、命を付け狙われる。また、詐欺
(さぎ)や騙(だま)しの手口に引っ掛かって、無駄銭を遣わされ、あるいは保証人等も引き受けて、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなるのも、この種の人間だ。
 保証人を引き受けて喰い物にされる人間は、自分も「礼儀の何たるか」を知らないからだ。

 詐欺や、騙しの手口や、保証人に仕立て上げられる人間は、まず、自身にも「礼儀がない」と言う特徴を持っている。
 実例で示すと、他人から何事かを頼まれる時、その他人である相手は、礼儀が有るか無いかと言う事が、その人間を見抜く場合の極め手となる。相手に礼儀のない場合、決して頼まれ事は受けるべきでない。
 人に、ものを頼む場合、頼む側は、頼むべき形としての礼儀があるはずである。

 したがって、寿司屋やラーメン屋に、出前を頼むような分けには行かなくなる。
 人に、ものを頼む場合、頼む側としての手順と、形と、礼儀を尽くそうとしない相手に対しては、如何なる頼み事であっても、絶対に腰を挙げるべきではない。物分かりのようようなふりをして、軽薄な態度でこれに応じると、必ずと言っていい程、その相手から煮え湯を飲まされるのである。

 本来ならば、自分から逢
(あ)いたいと願い出る者、学びたいと願い出る者、あるいは頼みたいと願い出る者は、まず、その相手の方に出向く事が礼儀である。ところが、願い出る方が、学校の先生や先輩、あるいは同門流派の先生や先輩となると、こうした願い出る方は、まず、自分が逢いたい者を、自分の方に呼び寄せる無礼を働くものである。

 先生や先輩は、後輩や門人を、自分より格下と見越して呼び寄せるのであろうが、結局、呼びつけられれば、「保証人になってくれ」とか、「マルチ商法を遣らないか」等と持ちかけられ、頼み事の趣旨は欲ボケした頼み事であり、こうした一連の頼み事の中で、無礼で、何処か訝
(おか)しいと感ずる部分があったら、その時点で協力は断るべきである。

 保証人にさせられて、自らの財産を総べて巻き上げられたり、マルチ商法に嵌
(はま)って、巨額な金を支払わされるのは、相手の姑息(こそく)な詐取(さしゅ)も去る事ながら、自分自身が礼儀を知らない為に、相手の欲望通りの意図に誘導されてしまうと云う事なのだ。

 こうした「礼儀」というものを原則に、依頼事を当ててみて、その礼儀から逸脱した依頼事は、絶対に受けるべきではないのである。
 以上のように、「礼儀の物差」で相手を計れば、決して自分が保証人に仕立て上げられたり、依頼事で被害を被る事はない。すなわち、これは礼儀の、護身法と謂
(い)われる所以であり、礼儀を知ると言う事は、そのまま護身法に繋がると言う事なのである。

 礼儀が急速に失われている現代、危険から身を護るのは、何も相手の物理的な暴力ばかりではない。こうした人間の裏側に潜む、欲望や野望の意図からも、命ばかりではなく、生活経済の糧
(かて)である財産も護らればならないのである。

 以上を段階事に述べて来ると、尚道館・陵武学舎では「何を指導するか」という事が、お分かりだと思う。ここは武術の儀法
(ぎほう)のみを指導するのではなく、それを遥かに超越した「人生を指導する」場所であると言う事が、充分にお分かり頂けたと思う。

 人間は、如何なる年齢であっても、「これでよし」という次元、あるいは境地には、中々到達できないものである。何人
(なんびと)も、未熟な人生の放浪者であり、迷い人である。
 地球上に起っている「現象人間界」の構造は、極めて不完全に出来上がっており、現代社会と云う民主主義の政治システムは、未だに「完成されないピラミッド」である。

 人は未熟ゆえに、迷い、苦しみ、悩み、その苦悶
(くもん)の中で、何ものかを必死で探し続ける。そして、その行為には間違いも多い。
 自分の知らないところで間違いを犯し、またその間違いから誤解を受け、それを糺
(ただ)そうとして苦悩が始まる。しかしこの苦悩こそ現実であり、この現実を素直に受け入れる事こそ、「現象人間界」を経験し、体験する事なのだ。

 人間は「神」では決してない。聖人とて「神」ではない。何処まで突き詰めても、一個の「人」に過ぎない。
 「人」なるが故に、神になり得ぬ苦悩が同居する。しかしこの苦悩を乗り越えて、現象人間を全
(まっと)うし、人生最後の臨終(りんじゅう)に際して、「自分は人として、何をして来たか」という、最後の総決算に臨まなければならない。総決算において、褒(ほ)められる事より、罰される事が多いであろう。

 しかし、喩
(たと)え罰される事が多かったとしても、自分は精一杯生き、苦悶しつつも、精進・努力して、人生に工夫を凝(こ)らして生きて来た事だけは、最後の審判で恐れずに告げなければならない。罪多し人生であっても、間違いだらけの人生であっても、それを生きて来たことに恥じ入る事はない。神ではなく人間だから。
 ただ、堂々としていればよいのである。
 問題は、懸命に生きたか、否かである。

 最後に、再び『マタイ伝』
(7・13〜14)の一節を持ち出すが、此処にはこうある。
 「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その路
(みち)は広く、之(これ)より入る者多し。生命(いのち)に至る門は狭く、その路は細く、之を見い出す者は少なし」

 生命に生き抜く門は、狭く、入り難く、また苦しく、痛く、更には醜い。したがって、それが酷ければ酷い程、しっかりとした足取りで歩かねばならない。そして、その扉に辿り着く事が出来たら、力強く門を叩こう。「頼もうー!」と。
 尚道館の内弟子寮・
陵武学舎とは、こうした処なのだ。



問答 64
口先で云う感謝と、躰で感じる歓喜の違いについて教えて下さい。

 現代社会には、やたらと「感謝」と云う言葉が氾濫している。何処へ行っても、感謝・感謝であり、感謝の安売りが大流行している。
 また、企業に於ては、客を、上げ膳
(ぜん)・据膳(すえぜん)の一等高い環境に置き、「有り難う御座います」という、社交辞令のような言葉が流行している。

 「感謝」も、「有り難う御座います」も、それは本心から出たものであれば、その意味は非常に大きなものであろうが、挨拶や社交辞令で習慣付けて吐かれている言葉であれば、これは重要なマイナスとなる。

 もともと、「感謝」とか、「有り難う御座います」という言葉を据
(す)える習慣は、東洋にはなかった。西南アジアで始まり、ユダヤ教『タルムード』の思想の中に見られた言葉であった。金銭感覚に聡(さと)いユダヤ人は、中世ヨーロッパにおいて、金貸しか許されず、他人に金を貸付その利息で生活を立てていた。やがて、彼等の持つ「利息理論」は、十七世紀後半に入って、世界中に猛威を振るい、人類を席捲(せっけん)する事になる。

 その歴史は植民地主義や帝国主義に回帰されるであろう。十八世紀に金融経済の利息理論の基礎が作られ、十九世紀に強大な金融力を握ったユダヤ人達は、潤沢な資金を植民地主義や帝国主義を標榜
(ひょうぼう)する国家に次々に軍資金を貸し付けるという行動に出た。十九世紀から二十世紀前半に懸(か)けて、帝国主義に益々拍車が掛かり、二十世紀には人類が二つもの世界大戦を経験する事になる。

 潤沢
(じゅんたく)な資金を元手にした国際ユダヤ財閥は、ヨーロッパでは西欧列強に帝国主義を煽り、各帝国の植民政策を奨励した。
 金融資本を持つユダヤ人達は、各帝国の野望に準じ、植民地政策に手を貸し、帝国主義を煽り、戦争を奨励させて、世界大戦に繋
(つな)がる大戦を目論んでいた。東洋では、近代に中国で阿片(あへん)戦争が起り、東洋の国々の震憾(しんかん)させた。特に、阿片戦争の衝撃は、日本では非常に大きなものであった。

 阿片戦争は1840〜42年、清朝
(しんちよう)の阿片禁輸措置からイギリスと清国との間に起った戦争である。清国が大敗北し、列強との不平等条約締結しなければならなくなった。そして、これが中国の半植民地化の起点となる。
 また、阿片戦争の結果、1842年、南京でイギリスと清国の間に、南京条約なるものが締結されることになる。清朝は、香港の割譲
(かつじょう)ならびに、広東(カントン)・廈門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の開港を迫られ、また賠償金の支払いなどを約したのである。

 そして、西欧列強は次のターゲットが日本だった。その典型的な、日本を二分した革命が明治維新と云われるフリーメーソン革命ではなかったか。
 後に、西欧列強が仕掛けた戦争は、日本に清国と戦争をさせる事であった。そして日清戦争を経た後、次に仕掛けた戦争が、日露戦争であった。この戦争は、二つの意味を持って居た。

 一つは、帝政ロシアをユダヤ人国家に作り替える事であった。その為に取り込まれ、利用された理論が、カール・マルクスの社会主義革命理論であった。
 二つ目は、日本を戦争に巻き込み、明治政府を資金的に欠乏状態に追い込み、多大な軍資金をユダヤの金庫から貸し付ける事であった。この貸付を目論んだのが、国際ユダヤ金融資本のロエブ商会であり、その裏にはロスチャイルドが控えていた。そして日本にロシアとの戦争に軍資金を貸し付けたのが国際ユダヤ金融資本であった。

 これは当時の日本の政治家の中で、殆どが世界の支配層である国際ユダヤ金融資本の傘下にあり、ユダヤ・フリーメーソンの代理人として、政治屋どもが暗躍した事である。こうした暗躍に対し、影で穏微な集団を送り込み、代理人に指令を出していたのが、フリーメーソンの上部を占める、イルミナティであった。総
(すべ)てイルミナティの画策により、戦争が企てられていたのである。

 国際ユダヤ金融資本と言うのは、直接ユダヤ人と関係がない。彼等はユダヤ人と言うより、ユダヤ教『タルムード』を信じる、カラバ思想に共鳴する改宗者達であった。そして二十世紀初頭に擡頭
(たいとう)し、世界の支配層に伸(の)し上がる。この国際ユダヤ財閥には、ロスチャイルドを筆頭に、モルガン、クーン・ロエブ、ロックフェラー、メロン、カーネギー、デュポン、オッペンハイマー、ハリマンらであり、特に鉄道王として知られるハリマンは、当時ロシアが所有する中国の東北一帯に張り巡らせた鉄道の所有を狙って虎視眈々(こしたんたん)と中国大陸東北部(のちの満州国)の進出の機会を窺(うかが)っていた。

 国際ユダヤ財閥は、世界中の石油、金、ダイヤモンドをはじめとして、その他の鉱物資源や銀行、情報、更には鉄道と云った部門に手を付け、これ等を手中に収める事により、世界をコントロールしようと目論んだのである。

 日露戦争当時、国際ユダヤ財閥は日本や帝政ロシアに戦争を行う為の軍資金を貸し付け、武器を購入させ、その支払を純金で受け取ると言う、巧妙な貸付と子息取りを行っているのである。
 また第一次世界大戦では、戦後の敗戦国に対し、ドイツにベルサイユ体制を押し付け、ヒトラーやムッソリーニに資金援助をし、次に企てたのは第二次世界大戦であった。第二次世界大戦を勃発させる事により、当時アメリカが費やした戦費は2450億ドルであった。これを日本円に換算すると、約500兆円である。

 そしてこの戦費を賄
(まかな)ったのが、モルガンとロックフェラーであり、アメリカ政府から以後、莫大な利息を吸い上げる事になる。その上、1683万人もの死者を齎(もたら)した第二次世界大戦は、もし、国際ユダヤ金融資本がアメリカに軍資金を貸し付けなければ、行われなかった戦争である。

 アメリカ人のモルガンやロックフェラーはユダヤ系でないとする説もあるが、モルガンの始祖ジョン・ピアモント・モルガンがロンドンのロスチャイルド家で金融の勉強を修行し、その後、忠実な部下として国際ユダヤネットワークの一員に数えられたのは紛れもない事実であり、また、ロックフェラーの始祖ジョン・デイヴィソン・ロックフェラーがユダヤ系特有の、「岩を掘る人」の名前に由来する事から検ても、ロックフェラーは自らがユダヤ系である、あるいはユダヤ教徒系の流れを汲んでいる改宗者である事を否定する事は難しいであろう。

 何故ならばアメリカに渡った国際ユダヤネットワークの一員達は、表向きはプロテスタントであり、更にその中でもマラノ
(ユダヤ教徒からの改宗者)である可能性が高いのである。今日のアメリカを支配する事になった、モルガン家とロックフェラー家は今やアメリカを代表する車の両輪であり、両家がプロテスタント色の強い、アメリカ人としてアメリカ社会全体に偽装している事は明白である。

 国際ユダヤ金融資本は、直接的にはイスラエルの国民と何ら関係なく、またユダヤ人とも何の関係も持たない。イスラエルで繋がっているのは、イスラエル政府の高官や要人達であり、こうしたネットワーク下で、ビッグ・ビジネスを展開している。
 しかし、このビジネスの根底には、常にユダヤ教『タルムード』の、人生を不思議の力で生き抜く、呪文が横たわっているのである。その呪文が、「感謝します」であり、また「有り難う御座います」であった。つまり、金貸しから出た言葉であり、この言葉は、今や世界を席捲し、至る所で喋られている。

 そして、戦後民主主義下でこの言葉を持ち込んだのが、財界であり、経団連をはじめとして、その配下のロータリー・クラブ、ライオンズ・クラブ、各都道府県の商工会議所、町レベルの青年商工会議所、漁り火会などであり、此処に属するメンバー達は、決まって古代からのイスラエルの呪文である、「感謝します」あるいは「有り難う御座います」の呪文の言葉を連発するのである。

 この連発の多い企業では、特に斜陽に差し掛かった会社が、半強制的に社員達に、電話応対一つにしても、有り難う御座います。○○株式会社でございます」と、社交辞令のような呪文を義務付けているのである。また、こうした言葉を乱発する会社に金融会社が多く、特にサラ金は、「有り難う御座います。○○で御座います」を連発させることで、不思議な呪文で顧客を集めて行ったのである。これは単に、ユダヤ教の呪文とは関係のない、ただの他人の空似だったのだろうか。

 そして、ユダヤ教『タルムード』から来る、「感謝します」とか、「有難う御座います」には実は、これらの言葉の呪文の頭に「主部」があるということだ。
 この『タルムード』から来る呪文の頭こそ、最も重要な部分であり、これを飛ばしては、全く威力がないのである。つまり、主部に来る言葉の呪文に、「選民思想」があり、また非ユダヤ教に対する「ゴイム思想」がある。

 選民思想から起るユダヤ教徒の概念は、「自らを神から選ばれた民族」と称するのである。イスラエルに居る二重構造の中の上部に君臨する白い肌を持つユダヤ人は、あるいはユダヤ教徒は、自らに対する選民意識が強く、自身でも神から選ばれた人間と思っている。自分達だけが、人間であると思っている。つまり、世界でも有能な才能を持ち、その才能は能力は、ノーベル賞受賞者の数で、ユダヤ人こそ世界中の国々の中で一番多いと自負しているのである。その頂点に立つのが、アインシュタインであると豪語する。これこそ、ユダヤ人の鏡であると自負している。
 この考え方こそ、ユダヤ人の優秀性と優生遺伝から来る、民族全体あるいは、ユダヤ教徒であることを宣伝する最大の材料となっている。

 かつてナチス・ドイツがユダヤ教の選民思想の則り、優生遺伝の中で、ドイツ人こそ「高貴な」という表現に相応しく、またアーリア人として、世界の中で一番優秀な民族であると称したのは、ユダヤ教徒に旧約聖書に書かれた選民思想から来たものである。
 自分自身が優秀な民族として生まれて来たのであるから、「感謝します」とか「有り難う御座います」と、ユダヤ教徒は自負しているのである。

 一方こうしたユダヤ教徒に対して、非ユダヤ教徒に向ける言葉がある。それが「ゴイム」である。差別用語としては最も甚だしい、「豚」である。豚を餌にして、ユダヤ教徒は世界に君臨する優秀な民族であると自負するのである。
 豚を肥らせ、肥った豚を喰
(く)うのはユダヤ教徒である。ユダヤ教徒は神から選ばれた民族であり、したがって、人間の皮を被った豚は、騙したり、ペテンに懸けたりして好きなように料理していいのである。豚から搾取(さくしゅ)してもそれは罪にならないのである。

 何故ならば、欧米人が牛を飼育し、あるいは豚を飼育し、それを殺し、喰っても罪にならないように、である。
 だから、豚は、あるいは神から選ばれた民族は、豚であるゴイムの財産を奪っても、それは一切罪に問われないのである。また、戦争を企て、非ユダヤ教徒を何万、何十万、何百万、何千万人殺したとしても、それは彼等の宗教的戒律からすれば、最初から無罪なのである。

 非ユダヤ教徒であるゴイムから、搾取する財産がユダヤ教徒の自分の手に渡り、「感謝します」であり、「有り難う御座います」なのだ。
 ゴイムを信じるが故に、「感謝します」があり、「有り難う御座います」があるのだ。
 特に、「有り難う御座います」の「有り難う」とは、ユダヤ教徒的に解釈すれば、「難が有る」ということだ。

 一般に「難」といえば、「災い」「欠点」「傷」「責めるべきところ」「困難」「難問」などの自分に不利な短所を指し、これが「有る」ということであるが、「有り難う御座います」は、「難が有って」それが「御座います」というのであるから、日本語の文法的には、有る」の丁寧
(ていねい)な表現となる。
 そして「アリガタクの音便」の最後に、「ございます」「存じます」と、「まことに有り難う御座います」と付け加えれば、どういう意味になるだろうか。

 一般常識で考えて、「困難が有って有り難う」とか「難問に直面して有り難う」という馬鹿は居まい。では、この馬鹿の相手は、一体誰なのか。
 それは非ユダヤ教徒なのである。

 もう一度、呪文の言葉を整理れば、ゴイムから搾取が出来て、「感謝します」あるいは「有り難う御座います」と、神から選ばれた民が、神に感謝を下げる言葉と考えれば、もっと具体的になるだろう。
 この主部の隠された、非ユダヤ教徒に対して投げられる呪文は、幕末に日本に侵入して来て、これが「ええじゃないか運動」に火を点
(つ)けた。

 「ええじゃないか運動」は、幕末、東海・近畿地方を中心に起った大衆的狂乱の倒幕運動であった。農村にあった御蔭
(おかげ)参りの伝統を基盤とし、慶応三年(1867)8月頃東海地方に始まり、翌年4月頃にかけて近畿や四国、さらに信州方面等に広がった。神社の神符などが降下したのを契機に「ええじゃないか」の囃子(はやし)をもった唄を高唱しながら、集団で乱舞した、「倒幕運動」であった。また、これは「世直し」的様相を呈するものもあった。

 では、御陰参りは誰によって画されたのか。
 江戸幕末期、倒幕運動を画策したのは、決して維新の志士だけではなかった。倒幕運動を展開する事により、利益を思う存分享受する連中が居た。ユッタ衆である。ユダや教思想を逸早く日本に持ち込み、背後から莫大な活動資金を与えて、一方は大衆をコントロールし、もう一方は維新の志士達に活動資金を贈る為に、水面下で暗躍した連中である。そしてこのさくさくに逸早く乗せられたのが、土佐の坂本竜馬であった。

 坂本竜馬は、日本フリーメーソン支社長のトーマス・ブレーク・グラバーという武器商人により、亀山社中を創設し、海援隊を設立して、陸援隊の中岡俊太郎と倶に、西南雄藩に西洋の最新式武器を売り付けていった。
 ここでも「感謝します」とか「有り難う御座います」という、ユダヤ教徒の呪文が吐かれたはずである。この呪文を使いながら、竜馬は「日本をもう一度、洗濯いたしたく候」と言ってのけたのである。

 やがて、「感謝します」とか「有り難う御座います」の呪文の言葉は、明治新政府と結託した豪商などによって使われ、彼等は益々私腹を肥やしていった。
 また、この呪文は、戦後、イスラエルを旅行した日本人により持ち込まれ、巷
(ちまた)でも出回るようになった。今では、この呪文が至る所できかれるようになり、何処の商店でも、何処の会社でも聞かれるようになった。

 しかし、こうまでも、「感謝します」や「有り難う御座います」が、一般に流布されてしまうと、この呪文の言葉は威力を無くしているようである。


 現象界には、口で云った言葉に、それなりの威力が罩(こも)って居るものである。つまり、言葉から発する威力を「言霊」と云う。しかし、心の伴わない言葉は、威力を持たないのである。

 これこそが、言葉には力があると云うことを顕わしている。言葉に宿っている不思議な霊威が「言霊」である。
 言霊思想については、古代、その力が働いて言葉通りの事象が齎(もたら)されると信じられてきた。今日でも言霊の威力を信じる人は多い。しかし、それを信じるが故に、心の伴わない、口先だけの言霊は、歓喜を伴っていないので、それ程の威力は発揮しない。威力を発揮しないばかりか、それが半信半疑で使われた場合、逆効果になり、肯定の否定がブレーキとして掛かるのである。これが人間の持つ言葉の中に有る、「心像化現象」である。

 一度この現象が起れば、これまでの呪文など一切利かなくなり、逆効果として反対側の現象が顕われて来るのである。「感謝します」や「有り難う御座います」が、逆現象といえば、想像に難しくないだろう。
 この逆現象こそ、悲劇の最たるものである。

 斜陽に差し掛かった会社などが、盛んに、「有り難う御座います。○○で御座います」を連発させいるが、最早
(もはや)この呪文に威力はない。威力がないどころか、確実の倒産に、自己破産に、滅びの中に驀進(はくしん)していると言えるのである。それは心身の両方から発する「歓喜」を伴っていないからなのである。口先だけの呪文は効果が無いばかりか、逆現象が顕われるという事を知るべきである。

 特にユダヤ教から持ち込まれた、こうした呪文は非ユダヤ教徒には逆現象が顕われ、ゴイムは一切の効き目がなく、ユダヤ教徒である、神から選ばれ民族のみがこの恩恵を受けるだけなのである。
 しかがって、非ユダヤ教徒は、呪文でなく言霊を大事にして、「歓喜」を伴った真心の、心身からの体現をするべきである。また、ユダヤ教骨子の毒に東洋人が身を護る方法は、やはり歓喜に充ちた言霊を大事にする事以外ないであろう。

 昨今は、現代人の価値観が金銭やそれに附随するモノに眼が奪われている為、金sねンいカラム事件が多く発生している。闇サイトで知り合った同士が、金欲しさに殺人をするなども、一つは「金銭」というモノに翻弄
(ほんろう)されている為である。こうしたものに対し、自らの身が金銭至上主義に陥らない為には、「カネ」という呪文を、体感の歓喜として、言霊の「光透波(ことば)」によって糺(ただ)して行かなければならないだろう。



問答 65
内弟子としての態度と、正しい日本語としての言葉使いについて、教えて下さい。

 尚道館での指導のモットーは、「言葉を重く用いよ」という精神で、門人一人ひとりを指導する。これは内弟子ならびに外弟子の区別はない。
 人間の使う言葉に表裏の無いことは、正しい言霊
(ことだま)を発する上で大きな要因となる。これを乱せば、忽(たちま)ちのうちに、自らの人生の使命は失われる。言葉には、「自分の命が賭(か)かっている」ということを認識すべきである。

 また、言葉に命を賭
(か)ける行動力が失われれば、人間として、指導者として、何の威力も迫力もないのである。二枚舌は、何処までいっても軽蔑の対象にしかなり得ないのである。

 男の顔は一つあればよいのと同様、言葉も一言
(いちご)で、二言(にごん)があってはならない。言葉の使い道を幾重にも分けて、政治家のように、行き先別に言葉を使い分ける必要はなく、武人は、簡明直截(かんめいちょくせつ)を尊び、これをその生涯の信念とした。

 『葉隠』の著者・山本常朝は言う。
 「物言ひの肝要は言
(げん)はざる事なり、言(げん)はずして済ますべしと思わば一言も言(げん)はずしてすむものなり」と言い切っている。
 これは言わずに済ますわけにはいかないことを、「言葉少な」に、言語明晰ならびに簡明直截に言えと云っているのである。

 さて、言葉使いとその態度として、尚道館では次のように指導している。
 その第一は、何人に対しても丁寧語を遣う事は勿論であるが、敬語
【註】話し手(または書き手)と相手と表現対象(話題の人自身またはその人に関する物・行為など)と尊敬語(話題の人や、その人自身の行為・性質およびその人に所属するもので、その人に対する行為などに関して、話し手の敬意を含ませた表現)の違いを学ばせ、自他離別の意識を無くして、他人に対して敬意を払う態度を指導している。

  人接 春風のごとし 己には秋露のごとし、である。

 人は、自分の甘く、他人には厳しいものである。自分を何処までも甘やかせる。しかし、甘い自分こそ、自分を粗末にしていることになり、しいては墓穴を掘る事になるのだ。
 また、これを知ることにより、他への中傷誹謗の妄念は少なくなり、礼儀が身に付くのである。

 話し言葉の態度としても、常に正確な言葉使いを心掛け、言葉に責任を持たせると言うのが尚道館での教えである。

 第二は、「聞き上手になれ」ということであり、聞き上手は、言葉巧みな話し上手と異なり、相手の意見をよく聴き、それを分析する能力が養われるからである。人はややともすると、他人の意見を聴くよりは、自分の手前味噌の自己主張ばかりを強めて、自他離別意識で他を卑下すると言うのが常である。マスコミなどで一廉
(ひとがど)の人物として知られていても、言葉巧みに自己主張ばかりを主張する輩(やから)が実に多い。また、誹謗中傷ばかりをして、それに対抗できる自分自身の確固たる回答を持たない人間も少なくない。

 将来の展望がなく、ビジョンがない人間は、やたら他人を中傷誹謗はするが、それに対して自らの回答を、何等示せず、見苦しい泥試合に身を窶
(やつ)している者も少なくない。こうした見苦しさは、聞き上手でないからだ。
 マイナーな武道雑誌などで、他を誹謗中傷している記事を目にするが、この張本人こそ、この種類の人間に入り、思考能力が「幼児なみ」と言うことを、自分で暴露しているようなものだ。

 第三は、自分の専門趣味などの「得意芸や表芸を話題にするな」と言うことである。
 例えば、コンピュータなどが多少詳しくなると、人の集まる席で、やたらパソコン専門用語を並べ立て、素人も巻き込んでこうした話に誘おうとするが、これは、この種の人間が、いかにも品格が低いということを顕わしている。その上、素養の無さを感じ、人間として余裕の無いことを自ら暴露していることになる。しかし、こうした人間に限り、これに気付かず、また自覚症状も感じないようだ。
 人が集まる席で、話題にする内容は、その席に、みんなが関心を持っているものを選んで話すべきである。

 第四は、「酒の席で普段口に出来ない事を言うべきでは無い」ということである。酒の勢いを借りて、酔っている相手に、理屈がましいことを言ったり、説教調でモノを言う人間がいるが、自分だけを棚に挙げているところから、実に見苦しい限りであり、酒の席で議論などをすることは慎まなければならない。
 また、この時とばかりに他を非難するような言動も慎まなければならない。これは自らが心に余裕がなく、人間的に一周りも二周りも、スケールが小さいことを自分自身で暴露しているのである。

 第五は、他人が話している最中に、欠伸
(あくび)をしたり、頭をかいたり、鼻クソをほじくったり、寝転んだりするな、と言うことである。
 また、隣の者と耳打ちをすることも慎まなければならない。他人の話を聴く時は、真摯
(しんし)に耳を傾け、他の用事をしたり、平気で席を立ったり、よそ見をしたり、汗を拭ったりせず、こうした「中座の非礼」に当たることは固く慎(つつし)まなければならない。

 しかし、人間は生理現象などもあって、どうしても中座しなければならない時は、丁重に一礼して、中座の非礼を詫びて席を立つべきである。
 また、他人の話に腰を折ったり、割り込んで無理な誘導をしないことである。更には、話の中で他人の間違いを名指しで指摘し、これを攻める言動は慎まなければならない。しかし、これは談話時の作法であるが、会議などの討論や議論とは別物であり、議論するべき時は、よく聞く耳を持ちながら、充分に議論しなければならない。

 第六は、他人の身体的な特徴や不具を指摘して、笑い者にしたり、侮辱
(ぶじょく)する言葉を投げてはならない。また、相手の知られたく無い秘密を明白(あからさま)に指摘し、これを暴露するようなことを行ってはならない。密告や中傷も見苦しいものであるが、秘密の暴露は、覗き見趣味的なところがあり、武人は、古来よりこうした者を賎(いや)しんだ。

 武人が毅然
(きぜん)とした態度を取ることは、実に清々しいものがある。
 武士道が廃れ、西洋流の騎士道chivalry/中世ヨーロッパで、騎士身分の台頭にゆって起った気風。キリスト教の影響をも受けながら発達、忠誠・勇気・敬神・礼節・名誉・寛容・女性への奉仕などの徳を理想としているが、必ずしも武士道に対峙するわけではなく、武士道の言う全人格を代表するようなところはない)にとって変わられる現代日本の昨今、武人の態度は、総て武士道に回帰されるのである。

 欧米を追従し、欧米を真似ることを常識とした明治維新以降の日本人は、欧米文化に、白人コンプレックスを感じつつ、西洋流の騎士道をもって白人のように振る舞うことを模倣して、自分が一種独特な文化人になったように勘違いしてきた。日本精神が蔑
(ないがしろ)ろにされ、武士道が廃(すた)れて、欧米の騎士道に取って代られた元凶は、武士道の根底に掲げられている「毅然(きぜん)とした武士道観」が見失われた為である。

 そして今、多くの日本人は自分の財産目録に、金や物
(最近では色の代表である美男・美女も入るそうだが)以外の財産目録を挙げる人間は、殆ど居なくなったと言ってよい。



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